騒然としている空間でどよめく観衆たちは、近づいてくるサイレンの音によって掻き消されていく。男たちの低くも響く声がすぐ近くで聞こえる。ただ、何を言っているのか全く分からない。日本語というよりは知らない言語にしか聞こえない。そんな言語を浴びながら動かない身体を誰かの手によって押さえつけられ、何か板みたいなやつに乗せられた。この刹那、気付いた。俺は救急車に乗せられているのだと。

「あぁ、俺は助けられてるんだ」

バタンという音とともにシャットアウトされた観衆たちの声。すぐそばで彼の吐息が聞こえ、耳に微かに届く。

「凉樹、助けに来てくれてありがとう。俺は死なずに済みそうだよ」

 俺は長い幻夢を見た。とあるマンションの一室。そこで凉樹と俺は夫婦のような暮らしをしていた。互いに芸能界の仕事をしていて、凉樹はNATUralezaとしても活動していた。暮らし始めて三年後、二人の間には娘の果歩《かほ》が生まれ、仕事第一だったのを子育て第一に変えて、家族三人の時間を楽しむというものだった。

ここまでハッキリと光景や内容、交わした言葉を憶えている夢を見たのは久しぶりのことだった。これは、俺の将来をお告げしてくれたのかもしれない。幻夢と言うよりも、霊夢なのかもしれない。だとすれば、死んだら駄目だ…。米村咲佑として生きなきゃな。
 遠くから誰かに名前を呼ばれたような気がして、ゆっくりと重い瞼を開けると、そこには見覚えのない天井と暖色系の明かりが目に飛び込んできた。そして右横から聞こえた、聞き馴染みのある声。その持ち主は、夢でも俺に逢いに来てくれた凉樹だ。

「よかった」

右手が彼によって握られる。気温とか関係なしに温かな手だった。

俺は、今自分が置かれている状況が全く把握できず、とりあえずいつものノリで彼に「よっ」と言ってみる。すると凉樹も同じようなテンションで、「よっ、咲佑」と手を軽く挙げて言ってきた。変わらない凉樹がいることに安心しつつも、自分が何でこの場所にいるかも、手の甲に絆創膏が貼られていることも、全く思い出せず当惑してしまう。でも彼なら俺が何でこの場所にいるのか教えてくれるかもしれない。そう思ってイチかバチかで聞いてみた。

「ここ、どこだ?」
「病院」

 脳内では色んな記憶が高速で再生され、それが入り乱れていく。

「俺…、どうしてここに…?」
「咲佑が俺に電話してきただろ? 事件に巻き込まれたって」

 凉樹に電話? 事件? 記憶を辿るも、その部分だけが砂嵐で消されている。

「そうだっけ…?」
「憶えてないのか?」
「……、憶えてないな」

俺がそう答えると、凉樹は事を冗談としてではなく本当のことだと感じたのか、腕を組み、頭をガクンと落とした。本当に憶えていないのだからこう答えるしかできない。でも、それを信じてくれているのはありがたかった。

 大きな窓の外から聞こえるカラスの濁声。見慣れない景色が窓の外で広がっている。そんな景色に背中を向け何かを考え込んでいる様子の凉樹に、咲佑は何気ないトーンで話しかける。

「なぁ凉樹」
「なんだ?」
「仕事、あったんじゃないのか?」
「あぁ、まあな」
「じゃあ、どうやって―」

彼は生唾を飲み込み、そして断言する。「仕事は朱鳥に任せて駆けてきたんだよ」と。

「何でだよ」
「そりゃあ、咲佑のことが心配だからに決まってんだろ?」

組んでいた腕を解き、顔を上げた凉樹。気のせいかもしれないが、瞼が少し腫れているように見えた。

「凉樹…」
「俺は、咲佑が助けを呼んだならいつでも駆けつける。仕事中だろうが、休みの時だろうが。まぁ地方にいるときはすぐって訳にはいかないけどな。でも、それだけ俺は咲佑を大事にできる。俺は咲佑のことが好きだから」

真っ直ぐな瞳。艶々な唇。今すぐにでも彼のことを抱きしめたい。
 凉樹が帰り際に声を掛けたのか、凉樹が出て行って数分後に看護師と医師が病室に入って来て、俺が運ばれたときの状態や治療内容の説明を受けた。

「あとね、熱中症にもなりかけてたよ」
「え」
「芝生の上で三十分強も仰向けになってたんだからね。仕方ないと言えば終わっちゃうけど」
「…、ですよね」

俺は笑うしかなかった。

「でもね、こうして治療を受けて生きていられるのは、米村さん自身が、生きたいという欲を持っていたからなんですよ」

命の危機に晒しておいて、結局生きる欲を捨てられなかった。俺はどこまでいっても馬鹿だな。

 熱中症の症状はほとんど軽く、刺された傷もそこまで深くなく、暴行を受けた痕も重傷ではないということで、治療と経過観察のために一週間の入院が要請された。

医師と看護師はともに病室を出て行った。再び空間は一人のものになる。静寂に包まれた世界で、俺は自分の身体を確認した。腕と足首には包帯が巻かれた箇所があり、顔や肘、膝とかには絆創膏が貼られていた。スマホの内カメラで見た自分の顔は酷く、とても見ていられない。ここにきて初めて知った今の自分の状態。暴力を受けたこと、刺されたことを信じていなかったわけじゃないが、あの一連の出来事は夢なんかじゃなかったことを、思い知らされた。


 それから一週間、俺は暴行を受けた部位の治療と刺された傷跡の治療を受けた。入院期間中に病室に来たのは刑事だけ。その間、暴行をしてきた相手の顔や服装、身長などの特徴を訊いてきたり、どういう感じで暴行を受けたり、脇腹を刺されたのか、という説明が求められ、俺は憶えている限りの情報を話した。しかし、情報が足りなかったのか、入院期間中は一度も犯人が見つかったとの知らせは無かった。

 退院してからも咲佑にはまったく仕事の依頼が来なかった。地元でロケした例の番組は、咲佑が暴力事件に巻き込まれたことなど知る由もなく流された。しかも、咲佑が入院して治療を受けている間に。暴力事件の犯人は一週間が過ぎても未だ捕まっておらず、警察が捜査しているらしいが現状がどうなっているのか分からない。咲佑は事件のことを忘れることにした。時間が経つにつれて思い出されていく記憶と風化していく事件の真相とともに生きるために。でも、ひとつだけ思い出せないことがあった。それは目覚める直前の、左頬に何か柔らかいものが触れた感触。あれは一体何だったのか。こちらも迷宮入りしそうだ。

 事件のことが報道されたその日に、姉から電話がかかってきた。あれだけ家族と離れると決意していたのに、気付いたときにはスマホを耳に当てていた。

「もしもし?」
「咲佑、テレビで知ったけど、あんた大丈夫なわけ?」
「うん。大丈夫」
「気を付けなさいよ。あと、お母さんもお父さんも心配してたから、あとで電話一本でいいから入れなさいよ」
「分かった。ごめん、忙しいから切るよ」
「ちょっと―」

嘘ついて電話を切った。それと同時に画面に表示された五件のメッセージ。元メンバーと元マネージャーからの連絡だった。

 事件から十五日が経った七月二十日。警察から犯人が逮捕されたとの一報を受けた。二人のうち、一人は黙秘を続け、もう一人は「米村咲佑のことが気に入らないから暴行した」という気儘な発言をしていると聞かされた。夕方のニュースでもこのことが報じられ、またも元メンバーや元マネージャーなどから連絡がきた。事件は解決したが、刺された傷跡はまだ痛む。窓には大粒の水滴が付着していく。グレーの雲が空全体を覆っていた。
 太陽は高い位置に昇り、アスファルトを照り付ける。陽炎がたつアスファルトの上を歩くだけで自然と汗ばんでくる。向かっているのは立ち食い蕎麦店。一昨日、傷害事件の犯人が逮捕されたことが報じられてすぐに朱鳥から、会って話したいとの連絡を受けた。いきなり朱鳥から電話がかかってきたときは驚いたが、口調から急いでいる感じがしたため、仕事が休みだという今日会うことになった。

 待ち合わせ時間よりも三十分も早く着いた咲佑は、店の入り口で朱鳥の到着を待とうとしていたが、朱鳥も待ち合わせ時間よりも早めに行動するタイプの人間であるために、咲佑が着いて五分もしないうちに現われた。およそ二か月振りにあった朱鳥は、金だった髪色を黒に染め直していて、以前よりも落ち着いているように感じられた。何となく朱鳥自身の心境に変化があるように思えた。

 狭すぎる店内で朱鳥がざるそばを、咲佑がもりそばを注文し、十分ぐらいで平らげて、店を早々に後にした。何も知らされないまま次の目的地に向かって歩いている途中、朱鳥が唐突に「俺、好きな人ができたんです」と言ってきた。流れるような発言に驚いたが、俺は素直に「おめでとう」と伝えた。

「で、今から行くカフェでその人と待ち合わせしてるんです」
「え、じゃあ俺邪魔じゃ…」
「邪魔じゃありません。逆にいて欲しいっていうか、会って欲しいんです。俺が好きになったその人に」

朱鳥の目はメラメラとしている。俺は何となく朱鳥が好きになった人がどんな感じなのか分かったような気がした。「分かった。楽しみにしてる」すると朱鳥は笑顔で「はい」と答えた。

 そば店から徒歩五分の距離にあった、外観がお洒落すぎるカフェ。店先にはかき氷のイラストが描かれた看板が出ていた。

「あ、いた」朱鳥が指差した先には、咲佑もよく知る人が座っていた。「お疲れ様です」そう言って、その人物は俺と朱鳥に手を振る。無造作ヘアに眼鏡をかけていても、隠し切れない可愛さが滲み出ていた。

「あぁ、やっぱり」
「ん? やっぱりってどういうことっすか、咲佑くん」
「朱鳥、よかったな。思いが通じて」
「ばれてました…?」
「うん。俺と似たオーラを感じたからな」

朱鳥は頭を掻きながらはにかんだ。

「桃凛、久しぶり」
「お久しぶりですぅ、咲佑くん」
「元気だったか?」
「はい! 咲佑くん、僕―」

 咲佑、朱鳥、桃凛は一台の丸テーブルを囲み、一つの大きな抹茶のかき氷を堪能した。仕事のこと以外にも、夏生にも彼女ができて順調に交際していること、朱鳥が桃凛に猛アプローチしたこと、メンバーからもお似合いのカップルだと認められていること、付き合いだしてまだ一か月しか経ってないこと、これからどういう感じで世に伝えるか、などといった友達同士とゲイ同士の、この三人にしかできないトークを楽しんだ。咲佑は二人が結ばれたことに悦びを感じたと伝え、それを朱鳥と桃凛も幸せだという。この空間は、ちょっとした幸せオーラに包まれていた。


 NATUralezaの四人が出演するCMが放送され始めた八月。咲佑は相変わらず自宅で過ごしていた。前に住んでいたところよりも十万円近く家賃が安い家に引っ越して初めての夏。実家は一軒家で、初めて一人暮らしした家もこのアパートよりも家賃が高いところに住んでいたために、隣人が出す生活音なんて気にしたことがなかった。それなのに、今住む家は隣人さんが付けている扇風機の稼働音やエアコンの室外機の音が窓を閉めていても聞こえてくる。でも、ずっと家にいるからか段々と耳が音に馴化し始めていた。何も変わらない日常。平和でいいかもしれない。でもたまには刺激が欲しくなる。だから、そろそろ本気を出さなければと思い始めていた。
 うだるような暑さの中、一人で近所の商店街や遠くの激安スーパーに足を運んでは食材を買い、一人寂しく調理する。自由に使えるお金もなく、新作のBL漫画が出ても買えないために、持っているだけの漫画を何度も繰り返し読むだけの生活。別に嫌じゃなかった。でも本音を言えば、生きるために、生活を充実させるために、そして明るい未来のために、お金が欲しい。欲塗れな男だと自覚し始めたとき、咲佑はある人物に電話をかけた。

「社長、お忙しい時間帯にすいません。元NATUralezaの米村咲佑です」
「米村くん。直接電話してくるなんて珍しいね。何かあったのかい?」
「社長、俺からお願いがあります」
「こちらで受けられるお願いかね?」
「はい」
「何だい?」
「社長に言うのは間違ってると思ってます。ですが、言わせてください。俺、何でもやるんで、仕事ください!」

俺は社長が目の前にいるかのように深々と頭を下げる。床には額からの汗が滴り落ちた。

「本当に何でもやるんだな?」
「はい。どんなに危険なことでもやります。一度死にかけた人間なんで、いつでも死ぬ覚悟はできてます」
「それは困るよ。でも、それぐらいの覚悟があるってことだね、咲佑くん」
「はい。あります!」
「じゃあ明日の十三時に社長室に来なさい。一度顔を合わせてお話をしよう」
「分かりました! ありがとうございます! 失礼します」

 もう一度頭を深く下げた。真下に住む女性がベランダに吊るしている風鈴が、湿風に吹かれて甲高い音色を奏でる。

電話を切った俺は、すぐに和田に連絡を入れた。和田は仕事中だったようで、遠くから同業者たちの賑やかな声が聞こえてきていた。

「明日ですね。分かりました」
「急にごめんな」
「いえ。それで明日はタクシーで行かれるんですか?」
「いや、交通費が勿体ないから徒歩で行く予定だけど」
「交通費が高くつくのは分かります。でも、この暑さだと危険ですから、車を出しますよ。明日の十二時半前にお迎えに行きますから」

嬉しさのあまり零れる笑み。正直、心のどこかでこう言われることを望んでいたのかもしれない。

「分かった。ありがとな」
「いえ。それでは」
「おう。じゃあ」

電話を切った俺は、スマホを床に置き、大の字になって天井にできた染みを数え始めた猛暑日の昼。外では子供たちが燥いでいた。

 正午のチャイムが近くのスピーカーから響き渡るその音で目が覚めた。いつの間にか眠っていたようだった。喉が渇き、規則正しく首を振る扇風機の前で、ぬるい麦茶を口に運んでいると、寝ぼけ眼の状態から覚ましてくれるかのように床で振動し始めたスマホ。画面には凉樹の名前が表示されている。

「もしもし?」
「咲佑、今暇か?」
「あぁ。いつでも暇だよ」
「あのさ、今から会えないか?」
「急だなぁ」

急な誘いでも、本当は飛び跳ねるぐらい嬉しい。

「俺が会いたいんだよ。駄目か?」

凉樹が発した言葉の球は、俺のストライクゾーンに入った。

「咲佑に言いたいことがあってさ」
「え、何だよ。今教えろよ」
「嫌だよ。直接会って話がしたいんだからさ。な、いいだろ?」
「しょうがねぇなぁ。会ってやるよ」

なぜか上から目線で答えてしまう。違う、そういう気持ちじゃないのに。

「ありがとな。じゃあいつものカフェに十四時で」
「分かった」
「じゃあな」

 凉樹との電話を終え、早速ダサすぎる部屋着から外出用の服に着替え始める。こんなだらしない格好じゃ会えない。今の生活ぶりを凉樹には絶対に知られたくないから。まだ凉樹の前で裸になるのが怖いから。でも、付き合うとなればちゃんと現状を伝えるつもりでいる。

俺は好意を寄せる人と会えるということに、胸を躍らせた。
 カフェの目の前にある小さな交差点。目の前を車が去っていく。信号が変わるまでの間に呼吸を整える。スマホの画面に表示された時刻は、待ち合わせの六分前だった。

 扉が開くと同時に、スイーツに使われているバターの芳醇な香りが鼻に抜ける。俺に気付いたのか手を挙げた凉樹。笑みを浮かべた。

「いや、何で笑ってんだよ」
「変わらないなって思ってさ」
「グループ抜けたからって唐突に変わらないよ」
「まぁそうだよな」

 注文を取りに来た店員が、「ご注文はお決まりですか?」と言うので、「いつもので」と凉樹が答えると、にこやかな表情を浮かべて「かしこまりました」と二人の元を去る。

「話って何?」

俺は顔を近づけた。彼の瞬きが多くなる。

「聞いて驚くなよ」
「何々?」
「俺、十月から始まる新しいバラエティ番組のレギュラーに選ばれた」
「おぉー・・・、って、え! まじか!」

女性客で賑わいをみせるカフェにいるのに、その場に似つかない声のトーンで言ってしまった。周りからの視線が突き刺さる。

「声大きいってば」
「ごめんごめん。だって驚いたんだもん。仕方ないだろ?」
「だよな。俺もまさっきぃから電話で聞いたんだけどさ、家で一人喜んだよ」

たぶん凉樹は茶色のソファの上で喜んだのだろう。そんな彼のことが愛おしい。

「喜んでる凉樹の姿が簡単に想像できる」
「うそ」
「ホント。そもそも俺ら何年も一緒に過ごしてきたんだから、それぐらい分かるって」
「あぁまぁそうか。俺ら付き合い長いもんな」
「そうだよ。これからも俺は凉樹と付き合いたいけどな」
「俺も。俺、咲佑がいないと駄目みたいだからさ」

そう言われた瞬間、胸は激しめな音を立てた。もしかしたら聞かれたんじゃないかと思うぐらいだった。平然を装いたい。その思いで俺は口を開く。

「とにかく、レギュラー決定おめでとう」

違う。そうじゃない。おめでとうは合ってるけど、伝えるタイミングは今じゃない。本当は告白めいたことを言いたかったのに。それが言葉として出てこなかった。

「おう」

目の前に座る凉樹は、頷くような瞬きをしたあと、ふふっと可愛く微笑んだ。彼のせいで、平然を保てなくなってきている。俺は、凉樹に操られているのかもしれない。だったら俺は凉樹の操り人形になって、一生操られ続けたい。このほうが俺にとったらいい未来なのかもしれない。
 気まずくなった空気。机の上に置かれたメニュー表を眺めてみたり、水を飲んだりと落ち着きがない。目線も合わせられず黒目をキョロキョロとさせる。

俺が何か言わないと、場が持たない。まだ注文した分は運ばれてこなそうだし。でも何を話せば・・・。

「咲佑、今どんな感じだんだ?」

凉樹が苦し紛れに出したであろうこの発言。俺はどう捉えるべきなのか迷った。ソロになっての現状なのか、それとも事件のこととか怪我の経過のことなのか、将又あの時の行為に対してなのか。迷ってばかりでは駄目だ。それっぽい回答を・・・。

「傷はもうほとんど治ってる」
「そっか」
「・・・うん」

違ったみたいだ。でも、後戻りはできそうにない。

「事件の記憶は・・・、戻ったのか?」

疑問形で聞いてきた凉樹のことを揶揄いたくなって、演技の練習も兼ねて軽い嘘を言ってみる。

「いや、まだ・・・」
「そうか」

騙されたのか表情からは読み取れなかったが、明らかに声のトーンを下げた凉樹。本当はもう少し彼の反応を見て遊びたかったけど、俺は嘘をつき続けることは苦手。だから・・・。

「っていうのは嘘で」
「えっ? 嘘?」

目を丸くした凉樹。口まで大きく開いている。やっぱり俺の演技に踊らされたみたいだ。

「実は、既に記憶を取り戻してる」
「なんだぁ。心配させんなよ」

騙された自分が馬鹿だった、みたいな表情をする凉樹だったが、嬉しさは隠しきれていなかった。

「悪い悪い。ちょっと揶揄いたくなってさ」
「何だよ、それ」

さっきまでのお遊びの時間は終わり。今度は本当のことを伝えなければ。

「でも」
「でも何だよ」
「記憶が戻ったからか分かんないけど、まだ人とすれ違うのが怖いんだよな。すれ違いざまにやられたからさー。トラウマみたいになってんのおかしいよな。俺もう子供じゃないのに・・・」

 言ってみたのは良かったが、何となく自分のことが馬鹿馬鹿しく思えて、お洒落な照明をぼんやりと眺める。溢れそうになる涙を堪えるために。

そんな俺に、凉樹は言い切った。「咲佑はおかしくない」と。

「え」
「あんなことされたら誰だって怖くなる。大人とか子供とか関係ない」
「いやでも・・・」
「あのとき俺が一緒に居てやれたらよかったのに」

何を言ってるんだろ。いつもと様子が違うような気がする。

「それは、流石に無理だろ」
「事件に巻き込まれるのが咲佑じゃなくて、俺だったらよかったのに」

悲しみと怒りが混じる声色。

「凉樹・・・?」
「咲佑が誰かに傷つけられるなんて俺が耐えられねぇ」

やっぱり今日の凉樹は何かが違っている。

「凉樹・・・・・・?」
「いつでも咲佑のことを守れる盾になりたい。俺はお前と一緒に居たい。ずっと、ずっと」

いつにも増して凉樹のことがかっこよく見えた。輝いてるとか、お洒落とか、そういうのじゃなくて、決意が固まってたりとか、覚悟が漲っていたりとか、そういう感じで。

「どうやら俺はお前のことが好きみたいだ。俺は咲佑と付き合っている未来しか想像できない。他の誰かに取られたくない。奪われたくないんだよ」

告白されるってこんなに緊張するもんなの? 俺が好きと伝えたとき、こんな気持ちだったっけ? 凉樹の澄んだ瞳で見られるだけで、妙に恥ずかしくなる。

「俺も凉樹のことが好きだ。俺も凉樹と一緒に居たい。俺だけの凉樹でいてほしい」

あぁ、言ってしまった。もっとちゃんとした台詞を用意してたのに。

「咲佑、俺と付き合ってみないか?」

そう言われるだろうと思ってた。俺はやっぱり凉樹には敵わないや。もう、笑うことしかできないよ。

「いいよ」

 叶うはずのない恋。許されない恋。そんなことはない。未来を変えてやる。そんな思いで二人は強い握手を交わした。

「お待たせしました」

注文を取った店員が、小さな丸テーブルに注文したメニューを置く。カフェラテに浮かぶ氷が当たる音は、気持ちを爽やかに、心を晴れやかにしてくれる。ここに来る度に食べてきたプリン。値段も形も変わらないのに、いつ食べても味だけが違う。甘すぎたり、カラメル苦かったり。最初は作る人によって味が違うだけだと思っていたが、最近気づいた。それは店側の問題ではなくて、俺自身の心の状態が問題なのだと。

 凉樹は大きな口を開けてサンドウィッチに豪快に齧りつく。口元に付いたレタスの欠片。付いていることをジェスチャーで伝えると、彼は照れ笑いしながら「サンキュ」と言った。カッコいい一面だけじゃ、可愛い一面だけじゃ物足りない。凉樹のすべてが欲しい。
 凉樹と会った翌日、項垂れるような暑さの部屋で会社に向かう準備をしていると、ベッドの上でスマホがメロディを鳴らしながら振動し始めた。

「もしもし?」
「お疲れ様です、咲佑くん」
「お疲れ」
「今、下まで来てます。準備できたら降りてきてください」
「あぁ、分かった。すぐ行く」

スマホを胸ポケットに入れ、必要最低限の荷物を鞄に詰め込み、家を出た。アパートのはす向かいにあるスペースに仕事用の軽自動車を停め、俺のことを待っていた。開いた窓から和田に声をかけ、そのまま後部座席に乗り込む。部屋よりも断然凉しい車内。エアコンの設定温度を調整する和田に、俺はいつも通り話しかける。

「凉樹から聞いたんだけどさ、俺と連絡取れなくなったとき、まさっきぃに俺が失踪したって伝えたんだって?」
「・・・はい。僕にとってマネージャー職をするの、咲佑くんが初めてで、連絡が取れなくなって心配で。怖いし、状況が読めなさ過ぎて、何をしたらいいか分からなくなって、正木先輩に咲佑くんが失踪したって伝えてしまったんです。今思えば、ただ単に連絡が取れないって伝えればよかったんでしょうけどね。テンパり癖が出てしまって・・・、すいません」

俺からの投げかけに動揺したのか、自然と俯くような姿勢をとる和田。話に夢中になる最中で操作する手を止めていたエアコンは、風量が強くなっていた。

「なんで謝るんだよ。和田は俺のこと心配しての行動をしてくれた。な、そうだろ?  だったら謝る必要はないんじゃないか?」
「すい・・・、あ。はい。ありがとうございます・・・?」

和田の語尾は酒酔い人並みにふらついていた。

「ごめんな、心配かけて。和田にも連絡入れるべきだった」
「いえ、気にしてませんから」

風量の設定をし始めた和田。気にしていない、という意味がぴんとこなかった。俺がマネージャーである和田よりも先に、元メンバーの凉樹にへ連絡したからなのか、それとも俺と凉樹の関係性に嫉妬しているのか。

「何なら俺にGPSでもつける?」
「え、どういうことですか?」
「冗談だよ、冗談」

ふっと笑みを零した和田。俺のマネージャ―は笑顔が誰よりも眩しくて、似合う。

「咲佑くんは冗談が上手ですね。騙されかけました」
「え、そうか?」
「はい。僕、今初めてお伝えするんですけど、実は咲佑くんが出てるドラマ観たことがあるんです」
「え、あの狂気じみた役の割にはほとんど台詞が無かった、あのドラマをか?」
「はい。台詞の多少は憶えてないですけど、目の演技が上手すぎて当時、怖い思いをしてましたから。って咲佑くんと二つしか年齢変わらないんですけどね」

初めて和田と会ったとき、俺のことを全く知らないみたいな感じだったのにな。以外だな。

「へぇ」
「だから、そろそろ演技の仕事の依頼が来てもいいと思うんですけどね・・・。あ、ここはマネージャーが仕事獲ってこないとですよね・・・。すいません」
「演技、かぁ。和田がそう言ってくれるんなら、やってみるのもいいな」
「はい!」

明るく返事をする。瞳はキラキラと輝いていた。

「だからさ、またオーディションとかあったら教えてよ。俺、久しぶりに演技の仕事がしたいからさ」
「分かりました。色々検討してみます」
「頼りにしてるぞ、和田」

 車は昼間の幹線道路を走る。運送業のトラックばかりが小さなこの軽自動車の横を追い抜いていく。和田は運転に集中していて、声をかけられなかった。その必死さがどこか初々しくて、自然と頬が緩む。和田はマネージャーになってまだ数か月。慣れないことだらけで疲れているだろうに、俺の前ではいつも明るく振る舞おうとする。そんな和田に俺は心配をかけさせた。いずれちゃんと謝罪の機会を設けないと、とは考えている。まだ実現しそうにないが。
 家を出て三十分。渋滞に巻き込まれることなく、順調に会社へ到着した。車を降りて社内に入り、受付の女性に声をかけ、社長室を目指す。道中、同じ会社に所属する年下のタレントやアーティスト数名とすれ違ったが、俺に挨拶しないどころか、視線も合わせなかった。先輩にあたる人へは俺から挨拶したが、返事は聞こえなかった。

社長室に来るのは、脱退したいことと、同性愛者であることを伝えに行ったあのとき以来。五人で行ったときとはまた違う独特の緊張感が、身体を縛り付けていく。エレベーターを降りると、すぐそこに社長秘書の向田さんが背筋を伸ばした状態で立っていた。

「お待ちしておりましたよ、米村さん」
「向田さん、こんにちは。社長いらっしゃいます?」
「はい。中で米村さんのことを、首を長くしてお待ちだと思いますよ」
「なら急がないとですね。ありがとうございます」

向田さんが社長室の扉をノックし、俺が到着したことを伝える。そして笑顔で「私はここで失礼します」と言って去っていった。

「十三時に約束をしていた米村咲佑です」
「はいはい。まぁ中入って」
「失礼します」

モデルのようなポージングをしながら、鏡越しに俺のことを見てきた。頭にはお洒落な眼鏡が乗っている。

「お久しぶりです、社長」
「久しぶりだな。あのとき以来だもんね」
「はい。脱退後に挨拶もせずに、すいませんでした」
「問題ありませんよ。そんなことより、事件の話を聞かせてもらってもいいかい?」

社長は俺が巻き込まれた傷害事件に興味があるのか、前のめりな姿勢になっていた。俺は答えられる範囲の内容を伝え、社長はその度に同情しながら相づちを打つ。社長の優しさを、身をもって感じられた瞬間だった。

「本当、ご迷惑をおかけしました」
「あー、いいのいいの。まぁ物騒な世の中になってるんだから、気を付けるんだよ」
「ありがとうございます」

俺の肩に社長の手が乗る。社長からは爽やかなソープ系の香りがした。

「話は変わるんだが、昨日電話で言ってたことなんだが、咲佑にプラスになる仕事がある。聞くか?」
「はい。聞かせてください」
「分かった。まぁソファに座って。じっくり話そうじゃないか」

社長の目は、俺に対して何か言いたげな感じだった。

「じゃあ、まずは仕事の話から」

まずは、といいうのは違う話もあるのかと疑問に感じつつも、俺は社長から仕事に関する話を聞いた。話を進めていく中で、社長は俺よりもなぜか嬉しそうな表情を浮かべていた。この数十分の間で、俺は社長の色んな一面を垣間見ることができたような気がして、なんだか得した気分だった。

 社長のお喋り癖が炸裂し、仕事のことだけでなく、趣味や家族のこと、自慢話など様々聞かされたが、俺は愛想よくして過ごした。社長の話は短くてオチもちゃんとあるから良いが、終わりそうで終わらない校長の話を聞き続けている感覚だった。

まだ続きそうだった話も、向田さんが入って来て、「社長、そろそろ」という一声で終わりを迎えた。

「こんなに時間が経っていたとはな」
「そうですね」
「じゃあ、最後に俺から一つ、言わせてもらおうかな」
「はい」
「咲佑くん、これからは仕事のことを俺じゃなくて、マネージャー君に頼むんだよ? 今回はまぁ、事件のこともあったし、脱退してからのことも知りたかったから会ったけどね」

窓の外では、太陽がまだ燦燦と輝いている。その下を滑空していくカラスたち。大きく羽を広げていた。

「そうですよね。すいません。貴重なお時間をとっていただいて、ありがとうございます」
「うん。でもまぁ、実際のところ俺は咲佑のことが気になってる。マネージャー君に相談しづらい仕事があれば、いつでも話を聞くからな。社長からタレントに仕事を紹介するとか、こちら側から仕事を獲って来ることは異例だが、咲佑のためならやってあげてもいいと思ってるんだ。どうだね?」

目の前にあるコーヒーカップに手を伸ばす社長。俺は俯き考える。和田のことが頼れないわけでもないし、かといって社長がこう言ってくれるのなら、その話にのるべきなのかもしれない。悩みに悩んだ挙句、俺は曖昧な聞き返しをしてしまった。

「社長、また俺に会ってくれるんですか?」

コーヒーを口に含んだ社長は、喋らないで微笑みながら頷く。優しくされるのは嬉しい。でもきっと社長に恋愛感情を抱くことはないな。この先も。