十八時を少し過ぎた頃、話を訊きに刑事がやってきた。凉樹の目の前にやって来た一人の男性。まだ蒸せる晩だというのに、かっちりとしたスーツを纏い、警察手帳を見せて「村瀬です」と名乗った。

「詳しくお話をお訊かせいただけますか」

目の前に芸能人がいるというのに、一切表情を崩さない。まるで能面でも被っているかのようだった。

「異変に気付いたのは、十七時半ごろでした。カレイの煮つけを盛り付けようと食器棚を覗いたとき、お皿がなかったんです。そのことが気になって色々見ているうちに、開栓前の赤ワインも一本無くなっていることに気が付きました」
「そうですか。無くなった食器と同じ型のものはないですか?」
「その皿は以前番組のロケで作ったものなので、一枚しかないんです」
「なるほど。あとワインの名前とか年代とかは分かりますか?」
「プレゼントされた物なので名前は。年代は―」

 それから十分近く、凉樹は村瀬からの質問に答え続けた。そして、心中も洗い浚いぶちまけた。

「お話を訊いた限り強盗の可能性が高いので、詳しく調べさせてもらいます」
「お願いします」

 十八時半前には、応援と思われる警察関係者らが凉樹の部屋に入り、くまなく調査をしていく。眼下に広がる景色は、まるでドラマの撮影をしているかのようだった。

一通りの質問を終えたのか、色々と書き込んでいた手帳を閉じた。そして、視線を俺に移す。

「強盗は大抵の場合、金目のものを狙った犯行です。しかしながら今回は皿とワイン一本。通帳系も、高級腕時計三本も、車の鍵も車も無事。盗んだものを販売して金を得ようとするケースもある。ワインならあり得るが、手作りのお皿を売るとは考えられない。この点、何かおかしいと思いませんか?」
「思いましたけど―」
「石井さんが就寝される前、この家に何方かいらっしゃいました?」

送られる視線に、心臓が跳ねた。

「ど、どうしてですか?」
「ラックに形の違うコーヒーカップが二個置かれているので、もしかしたら何方かがいらしていたのかと」
「そういう所まで見るんですね」
「それが仕事ですから」

常套句のように言う。このセリフを今まで何十回と言ってきたのだろう。警察に世話になるのは咲佑が傷害事件に巻き込まれたとき以来だが、新鮮味すら感じられない。

「来てましたよ」
「ちなみに何方が?」
「NATUralezaの元メンバー、米村咲佑です」

  *

 十九時を過ぎても続いた聴取と捜査。一旦話に区切りがついたタイミングで、溌剌とした女性がタブレット端末を手に村瀬に話しかける。おそらくこのマンションに設置された防犯カメラの映像でも見ているのだろう。きっと犯人が映っているはずだ。

「なるほどな」そう静かに呟いた。ボールペンを顎に当てながら、何か考え事をしているようだった。

「どうしたんですか?」
「今、防犯カメラの映像を確認したんですが―」
「咲佑以外に誰か映ってました?」
「いえ。米村さん以外、石井さんの自宅近辺を行き来した人物は映っていませんね」

 時間が経つにつれて、咲佑が被疑者である可能性が濃厚になっていく。そのことを凉樹は未だ信じられなかった。と言うよりは、咲佑が犯人だと信じたくなかった。

「米村さんがここに来た際には、鞄を背負っているだけで、手ぶらだった。しかし、この家を出て行く際、右手に紙袋を持っている。不審な点にお気づきですよね」
「不審な点、ですか?」
「はい」

俺はどこに不審な点があるのかと考え続けた。そのとき、一筋の光が見えた。それを力強く握りしめる。

「服・・・」
「服?」
「咲佑はソロになってからも仕事がないらしくて、だから要らなくなった服があれば欲しいと連絡してきたんです。多分、金に困ってるんじゃないですかね」
「金に困っていた・・・、か。なるほどな」

その一言を聞いて、胸が騒ぎだした。俺が言った発言内容は、咲佑を犯人と決めつけたも同然だった。

「何着あげたんですか?」
「五、六着だと」
「その瞬間は見てないんですね?」
「すいません。どうしても睡魔に勝てなくて」
「それは仕方ないですよ。石井さんは―」

途中で声ががさついたからか、咳払いした。

「石井さんは」村瀬はもう一度そう言った。「恐らく睡眠薬を飲まされたのでしょうから」
「睡眠薬?」
「はい。コーヒーにでも入れられたのでしょう。検査をすれば分かりますよ」
「検査ですか?」
「はい。数分で結果が出ますから」

今の俺は頷くしかなく、分かりましたと小さく首を縦に振った。

「ご協力ありがとうございます。コンノ、検査頼んだ」
「はい」

村瀬が顔を向けた先には細身の男性が立っていた。白い手袋を外しながら俺に近づいてくる。そして指示されるがままに検査をした。まさか自分が強盗に遭うなんて。しかも、睡眠薬を飲まされた可能性があるなんて。咲佑が傷害事件に巻き込まれてから、やはり歯車が狂いだしていたのかもしれない。

「反応がでましたよ。やはり、睡眠薬を飲まされていたんですね」

不本意な形で開いた口は閉まらない。

「信じたくないお気持ちは分かりますが、米村咲佑のことを被疑者として捜査します」
「そんな―」
「石井さん。被疑者の自宅の住所はご存じですか?」
「いえ」
「何方か住所をご存じの方は、お知り合いの中にいらっしゃいませんか」
「もしかしたらマネージャーなら」

俺はスマホを操作し、正木の携帯番号を表示させた画面を見せた。

「ありがとうございます」

村瀬の声は思いのほか低かった。
 村瀬が凉樹に、咲佑が任意同行に応じたことを伝えた。そして、容疑が固まり次第逮捕されることも。凉樹はその場でしゃがみ込んだ。全身の筋力がすべて脆くなったみたいだった。村瀬はその様子を、唯々棒立ちで見ていた。手を差し伸べたり、立ち上がるように強要したりもしなかった。

村瀬を含め警察関係者らが俺の家から出て行ったのは、二十時半を過ぎた頃だった。テレビをつけ、冷めたカレイの煮つけを電子レンジで温めて、遅めの夕飯を食べる。時間が経ったからか、味は十分に染みていた。

テレビからは、芸人たちのガヤが聞こえてくる。咲佑のことを「あんな同性愛者」と言った芸人が、平然とした様子で映っていた。顔を見るのも厭わしくなって、そのままテレビを消す。今頃咲佑は何を訊かれているんだろう・・・。ラックにはコーヒーカップが寄り添うように置かれたままだった。

 凉樹のもとにかかってきた一本の電話。相手は三十分前に帰っていった村瀬だった。そこで聞かされた強盗事件に関する一連のことに、凉樹は相づちすら打てなくなっていた。

狂い始めた歯車は復することなく、九月六日、咲佑は逮捕された。昏睡強盗という罪名だった。

  *

 咲佑に懲役六年が言い渡され、事件は幕を閉じた。

仕事もプライベートもひと段落したところで俺は警察署へ呼び出され、そこで説明を受けた。

「被疑者が強盗した理由は『自分が凉樹のことを独り占めしたかった』というものだ。それ以外にも、『睡眠薬を飲ませてまで強盗するつもりはなかったが、凉樹の家に来た途端に女の匂いを感じ、そのことが引き金となって事件を起こした』とも語っている。つまりは被害者の家にある、女からの貰い物を被疑者が盗ることで、被害者とその女を喧嘩させて引き離させ、ゆくゆくは二人で幸せになろうとしていた。そういうことらしい」

俺は何も言えなかった。咲佑の行き過ぎた愛情が、事件という形になって、そして逮捕されて幕が下りるという結末を迎えたことに対し、少なからず責任を感じたから。
でも、そのことを誰かに相談することもないし、咲佑がいる刑務所へ出向くつもりもない。だから俺は彼のことを忘れることにした。それが、彼にできる唯一の罪滅ぼしになるだろうから。

 今までありがとう。これからは互いに一人で生きて行こうな。
 NATUralezaを脱退し、ソロ活動を始めて三か月が経った今、脱退したら何か違う道が見えるかもしれないと淡い期待をしていた自分が馬鹿らしく思えていた。それは、この三か月でマネージャーが獲ってきた仕事が一本だけだから。

でも、そんな俺のことを見捨てないでいてくれる男がいた。付き合って欲しいと告白され、付き合うことになった。これから先どんな幸せを築こうかと想像して、仕事がないことの煩わしい気持ちを忘れていた。デートの誘いが来なくとも、ずっと彼のことだけを信じていた。なのに、なのに彼は俺のことを平気で裏切った。

「もうこの世に俺の味方をしてくれる奴なんていない。誰かのために生きるなんて、最初ッから間違ってたんだ」

  *

 七月三日。清々しいほどの青空が広がっている。ソロになって初めての仕事は地方の、しかも出身地のテレビ局のロケ。仕事内容は今話題の心霊スポットを売れていない芸人と、近所じゃ有名だという胡散臭さマックスの霊媒師とともに紹介という、何とも地方らしいもの。新しいマネージャーである和田の運転で現地に向かい、二十三時過ぎから朝方四時まで心霊スポットでカメラを回し続け、何枚か心霊写真っぽい感じの集合写真を撮影し、ロケ後に念のためだという霊媒師からの除霊を受け、四時四十五分に初仕事は終わりを迎えた。

 ロケ地が地元だったために、帰省も兼ねて俺は実家に寄ることにしていた。現地で和田と別れ、実家に帰ったのは六時過ぎ。そんな時間でも家に入ることができ、早起きの母親手作りの朝食を食べた。そのあとは父親の趣味である家庭菜園の収穫作業を手伝い、幼少期からよく行っていた洋食屋へお昼を食べに行き、夕食も母の手料理を食べるという、実家ならではの時間を満喫した。三十分ほどの仮眠を取ったあと、十九時過ぎに風呂へ入り、着てきた服をそのまま着て、自室に残っていたTシャツを二枚だけを鞄に詰め、二十一時に実家を出た。
 駅までは徒歩で三十分かかる。その道中は田舎ということもあって街灯は少なく、通いなれた道とは言え、少しの恐怖感も覚えていた。

 二十二時六分の最終便に乗り、乗り換えの駅に着いたのが二十二時五十五分。そこから都会に向けて走る電車に乗り、自宅のある方面の最終駅に着いたのが深夜一時を余裕で過ぎた頃だった。ここから自宅まで歩けば二時間以上かかる。眠気もピークを迎えていたために、帰宅途中にあるネットカフェに入り、そこで三時間ほど滞在した。朝四時を過ぎたころに目覚め、金銭を払ってネットカフェを後にした。

 自宅までの約一時間半の道のりを、ゆっくりと歩く。街並みは高いビルが立ち並ぶエリアから、次第に低い建物が目立つ郊外に変わっていく。早朝だけあって、新しく引っ越したアパートの付近の人通りはまばら。前よりも田舎なところに来たと思いつつも、地元に近い雰囲気に惹かれて越してきたために、人通りのことなど、そこまで気にしていなかった。どこか安心しながら自宅までの道を歩いている途中、俺は男二人組に声を掛けられた。

「米村咲佑じゃん。俺と握手してくれよ」

相手が差し出した手。俺も手を差し出したところ、もう一人の男にもの凄い力で腕を掴まれ、バランスを崩したタイミングで地面に身体を強く打ち付けた。これが悪夢の始まりだった。
 男の声が幾重にも聞こえてきて、その場に何人もいるかのように感じる。耳がおかしくなったのかもしれない。そんなことを思い始めたとき、その声はピタリと止んだ。男らはいなくなったのか・・・? 確認したい気持ちは山々。でも意思に反するせで目が開かない。結局男らが俺の元から遠ざかっていくのも分からないままだった。

 気付いたときには、俺は路地裏のゴミ袋の上に仰向けになっていた。空は眩しいほどに青く澄み渡っている。時間を確認しようと、デニムの左ポケットに入れてあるスマホを取り出そうと手を入れるも、触れるのはサラサラとした生地で、スマホそのものに触れられなかった。

「あれ、おかしいな」

身体を起して探そうとした途端、左脇腹に強烈な痛みが走った。押さえた手を見ると、乾いた赤黒い血が付いていた。慌てて服を捲って自分の身体に触れる。やはり血が付いた。俺の血だ…、とその瞬間に何もかも思い出したかのように、記憶が鮮明にフラッシュバックしてきた。

 まるで映画を観ているかのように流れてくる映像。そこには俺と大柄な男二人が写っていた。

俺はネットカフェを出て、自宅へつながる道を歩いていた。太陽は既に昇り、街灯が無くても顔を認識できるぐらいの明るさではあった。

向こうから歩いてきた二人組の大柄な男。そのうちの一人が「米村咲佑じゃん。俺と握手してくれよ」と手を差し出してきた。その手を握り返そうと腕を伸ばした瞬間に、もう一方の男に腕を掴まれ、そのまま下に振り下ろす。その勢いに負けて地面に叩きつけられた俺。そのあと立ち上がろうとするも男に首根っこ掴まれて、抵抗できず路地裏に連れて来られた。

俺が仰向けになるその下にあったゴミ袋は、そこには無かった。地面に転ばされたあと、その男たちは俺の顔を上から眺めるようにしゃがみ、「お前は気持ち悪い野郎だな」「男が男に恋してんじゃねーぞ」と男二人は俺に向けての言葉を吐いてくる。そして執拗に顔や身体を殴られ、蹴られ、挙句、男が持っていた折り畳み式のナイフで俺の脇腹を刺してきた。

「あぁ、だから血が出てるんだ・・・」

 ただ、再生された映像からは、なぜゴミ袋の上で仰向けになっていたのかも、スマホがポケットに入っていないのかも判明しなかった。というよりも、今俺がいるのはどこなんだ。映像に映っていた赤提灯は自宅近所の古びた居酒屋のもので、そこの裏路地だと思っていたのに……。

 記憶は歪み、部分部分が塵としてつむじ風によって天高く飛ばされていく。

映像には続きがあるはずだが、そこから先は再生されない。仕方なく俺はスマホを探すことにした。もしかしたら何か盗まれたものがあるかもしれない。その思いで添い寝するように置かれていた鞄の中身を漁ったが、荷物は全部入っていて、盗られた物は何もないようだった。時計も、財布も、交通系カードも、家の鍵も、すべて無事だった。でも、スマホだけは手元にない。

記憶の映画を再生させてみるも、流れてくる映像はどれもさっき観たものばかりで、何度見返してもスマホは一瞬たりとも映っていなかった。

スマホがなくてもどうにかなるだろうが、幾何の不安を抱いていたとき、視線の先に見慣れたスマホケースがあった。それを、痛みに耐えながら腕を伸ばして拾い上げる。ケースには擦れた痕が残され、画面には蜘蛛の巣状のヒビが刻まれていた。俺は一縷の望みにかけて電源ボタンを押したが、全く反応を示さないスマホ。電源を入れることを諦めて鞄に放り込み、俺は立ち上がった。

キャップを目深に被り、実家から持ってきたTシャツに着替え、自宅とは反対方向にある自分がかつて住んでいたマンションへと向かって、痛みに耐えながら歩く。それは、仕事で家を空けていても凉樹なら助けを求めればすぐに駆けつけてくれるという予感がしたから。というよりも、彼のことを一番に信じていたから。
 自宅から凉樹が住むマンションまでは、本来なら電車と徒歩で二十五分もあれば到着する距離にあるが、人目を避けたいがために徒歩を選んだ。が、猛暑手前の気温にノックダウン寸前となり、仕方なく大通りに出てタクシーを拾った。

四十代ぐらいに見える運転手は、眼鏡の位置を直し、俺の顔をルームミラー越しに見ながら、「元NATUralezaの米村咲佑さんですよね?」と、声のトーン高めに聞いてきた。「はい」と答えると運転手は嬉しそうに、「娘があなたのファンでして。脱退された今でも応援しているんです」と、さらに興奮した様子で言ってきた。俺は気が動転する寸前で、「ありがとうございます」としか返せなかった。こんな状態でなければちゃんと感謝を伝えることができるのにと思いながらも、運転手に目的地としてマンション周辺の人通りが少ない裏道を指定した。運転手はカーナビを慣れた手つきで操作し、ウインカーを出して本線に合流した。運転手は緊張を隠し切れない表情で運転し、俺は刺された箇所を気にしつつも、平然を装って後部座席で揺られ続ける。今まで幾度となく乗ってきたタクシーだが、冗談抜きで一番安心できる運転だった。

 タクシーは緩やかにスピードを落とし、安全確認したうえで路肩に停まる。運転手から料金が告げられ、財布から札だけを取り出し、お釣りは全部胸ポケットに入れ、礼を告げてタクシーを降りる。冷房が効いていた空間とは一変、太陽が燦燦と降り注ぐアスファルトの上で、俺は一心不乱に歩き続けた。結局、目的地のマンションに辿り着いたのは、出発してから五十分後だった。

「着いた」

タクシーの振動に耐え抜いた俺は自分の心に呟いて、マンション近くにある公衆電話へ足早に駆け込んだ。息を吐くとともに安心したためか、全身の力が抜けてしまったかのように、その場でしゃがみ込んでしまった。周りを歩く人たちは、俺のことを見て見ぬふりをして通り過ぎていく。でも今は逆にありがたかった。声を掛けられることが怖くて仕方ないから。ただこの場でしゃがみ込んでいても彼は助けに来ない。俺はボックスの中で、力を振り絞って立ち上がった。手にはじんわりと汗が滲んできていた。
 刺されたところを押さえていたために赤黒い血が滲んでしまったハンカチ。やはり出血は続いていた。手に持つこともできず、とりあえずズボンのポケットに乱雑に入れる。ポケットの裏生地から生ぬるい温度が太腿を伝う。その感触に耐えつつ、胸ポケットに入れておいた釣銭から十円玉を拾いあげ、凉樹の携帯番号を小声で囁きながらボタンを押し、電話をかけた。

 七コール目。彼は俺の気持ちに応えてくれた。電話に出るなり「無事でよかった」と言ってきた。でも俺は何も言わなかった。それなのに、どこで俺だと気づいたのか「咲佑、どうした?」と声のトーンを下げて聞いてくる。自然と胸が締め付けられていき、その感覚に耐えられなくなった俺は、事件に巻き込まれたこと、スマホが壊されたこと、今どこにいるかという最低限だけの情報を伝えた。心配してくれるのはありがたかった。でも何だかその気持ちがむず痒くて、もっと話していたかったのに、小銭が無いことを理由に電話を切った。突発的についた嘘。電話を切った後に、もっと伝えるべきことがあったんじゃないかと後悔した。俺の手によって置かれた受話器はガシャンと音を立てて反動で微かに揺れている。

「助かった」

 凉樹との電話を終えた俺は、刺されたところの上を鞄で押さえて電話ボックスの扉を開け、残り少ない体力と気力で目先にある芝生公園を目指した。腰を折り曲げて歩くその様子はまるでお年寄りみたいで、歩いている人たちは不思議そうに見ながら俺とすれ違っていく。だが、誰も声を掛けてこない。目深に被った帽子のお陰か、顔バレせずに済んでいるようだった。

このマンションに越してきてから暇さえあれば立ち寄っていた公園。自分が芸能人だということを意識することなく寝ころんでいた。それは昼下がりの芝生が心地よくて、堪らなく好きだったから。久しぶりにその感覚を味わいたくて、唯々今は寝ころびたくて。脇腹からはさらに血が滲んできている気がした。
 段々と意識が遠のいていくのが分かった。でも、これは暑さからなのか、怪我によるものなのかは分からなかった。ふらつきながら歩き、そこで息絶えたみたいな感じで芝生の上に転ぶ。

「あぁ、俺の好きな芝生だ」

 太陽の光をいっぱいに吸収した芝生は思っていたよりも熱かった。それでも今は寝ころんでいたかった。誰も芝生には寝ころんでいない。と言うより、周りから浮いているだけだった。暑すぎる気温と熱すぎる芝生。そう。こんな太陽が直で当たる所で過ごそうなんて馬鹿は俺しかいない。日焼けしたい野郎だと見られるぐらいが、今の俺にはちょうどいい。本当は日焼け止めを塗りたいけど、紫外線なんて気にしていられない。この時ばかりは将来シミがいくつもできたっていいと思えた。暑さでおかしくなってもいいと思えた。最悪このままどこか遠い世界へ羽ばたいてもいい気すらしてきた。やっぱり俺はある意味最強の男になりつつあるかもしれない。

「馬鹿だなぁ、俺は」

 自分で自分のことが笑えてくる。俺が俺じゃなくなっているみたいで。そんな馬鹿げたことを思っていると、刺された箇所よりも、今頃になって殴られた痕や蹴られた痕、吐き捨てられた言葉、何もかもが痛くなってきた。上回ってきていた。ここにいれば彼は来てくれるだろう。それまで少しの仮眠を取ろう。ここ最近眠れてなかったからな…。
 なんか騒がしいな。俺、もしかして人気者にでもなったか? いやぁ、参ったな…。いや、これは歓声じゃない。どちらかと言えば悲鳴混じりというか、何となくザワザワしている。落ち着きのない感じが声から伝わってくる。近くですごい馴染みのある人から名前を呼ばれているのに、それに応えることができない。どんなに力を入れようとも目が開かない。身体を動かそうと指令を送るも、ぴくともしない。お日様を浴びた芝生の匂いも、口の中が切れているのに血の味もしない。確か俺は暴行を受けたし、脇腹の辺りを刺されたのに、それらもまったく痛まない。それなのに聴覚だけが生きている。とても不思議だ。無敵な身体を手に入れてしまったのかもしれない。

 だとすると面白いな。もう一生このままでいいや。わざわざ元の身体に戻る必要もないよな。どうせ俺はNATUralezaを脱退した身だから…。誰も俺のことを必要としていないだろう。家族も、元メンバーも、仕事仲間も。世間からだって求められていない。俺が生きている意味ってあるのかな。いや、意味ないよな。つい昨日だって実家に帰ったけれど、やっぱり居心地は悪かった。父は俺のことを悪く思ってないようだが、今でも母は俺の芸能活動を認めてくれていない。やっぱり帰省するんじゃなかった。まっすぐ現場から自宅へ帰っていれば、こんなことに巻き込まれずに済んだだろうに。

 どうせなら生まれ変わって、誰かの中で、別の人生を歩んでみたいな。だったら男としてじゃなくて、凉樹との恋が認められる女性に。

「誰か、俺の臓器を使ってくれる人はいますか?」

使ってもらえるのならそれ以上に嬉しいことはないが。まぁいいや。このまま芝生の上で眠らせてもらおう。
 騒然としている空間でどよめく観衆たちは、近づいてくるサイレンの音によって掻き消されていく。男たちの低くも響く声がすぐ近くで聞こえる。ただ、何を言っているのか全く分からない。日本語というよりは知らない言語にしか聞こえない。そんな言語を浴びながら動かない身体を誰かの手によって押さえつけられ、何か板みたいなやつに乗せられた。この刹那、気付いた。俺は救急車に乗せられているのだと。

「あぁ、俺は助けられてるんだ」

バタンという音とともにシャットアウトされた観衆たちの声。すぐそばで彼の吐息が聞こえ、耳に微かに届く。

「凉樹、助けに来てくれてありがとう。俺は死なずに済みそうだよ」

 俺は長い幻夢を見た。とあるマンションの一室。そこで凉樹と俺は夫婦のような暮らしをしていた。互いに芸能界の仕事をしていて、凉樹はNATUralezaとしても活動していた。暮らし始めて三年後、二人の間には娘の果歩《かほ》が生まれ、仕事第一だったのを子育て第一に変えて、家族三人の時間を楽しむというものだった。

ここまでハッキリと光景や内容、交わした言葉を憶えている夢を見たのは久しぶりのことだった。これは、俺の将来をお告げしてくれたのかもしれない。幻夢と言うよりも、霊夢なのかもしれない。だとすれば、死んだら駄目だ…。米村咲佑として生きなきゃな。