ハリスがアントルース家の屋敷を出てから数日後。
ベイリー・アントルースは書斎にある椅子に腰かけ、黒檀の執務机に両肘をつきながらある人物を待っていた。
すでに窓の外は夜の闇に包まれており、青白い月明かりがカーテンの隙間から差し込んでいる――と、部屋のドアの外に人の気配を察知した。
「旦那様、例の物をお持ちしました」
「おぉ、よくやってくれた、ピエール」
ピエールと呼ばれた白髪の老紳士はベイリーに仕える執事で、かつては王国騎士団で辣腕を振るっていた猛者である。騎士団を引退してからはベイリーの人柄に惚れ込んでいたということもあり、執事となったのだ。
そのピエールから一枚の紙を受け取ったベイリーは早速目を通してみる。それからすぐに大きく息を吐きだした。
「星屑迷宮、商業都市ディバン、ノエイル王立学園、レオディス鉱山……どれもこれも聞いた名前ばかりだと思っていたが、まさか予想がことごとく的中するとはね」
呆れたように呟く。
執事ピエールの持ってきた紙には、ベイリーがハリスから聞いた目的地をもとに独自のルートで集めた診察相手に関する情報だ。相手も別段隠している様子はなかったらしく、少し調べたら次々と舞い込んできたので思っていたよりもずっと早く集まった。
ただ、問題はそこに並ぶ名前の数々。
ハリスは普通に患者として接しているようだが、とんでもない大物ばかりであった。
「これをレイナード聖院は知っているのか? ……いやぁ、知っていたら絶対に手放さないだろうな」
ベイリーは視線を紙からピエールへと向ける。
「君はどう思う、ピエール」
「ハリス様は愚直な方ですからな。相手の立場によって対応を変えるようなことはしないでしょう。ですので、相手が大物でも普段と変わらない態度で魔草による治療を行い、それが気に入られたと見るのが自然ではないかと。……ただ、皮肉にもそうした態度がドレンツ・レイナードの逆鱗に触れた理由でもあります」
「やはりそうなるか」
資料によれば、その大物たちは自分たちの立場に怯まず自然のままに接してくれ、尚且つ仕事のできるハリスを大層気に入っているらしい。何を隠そう、それはベイリーも同じだったので気持ちは痛いほどよく分かった。
「問題は……ここに名を連ねる有力者たちが、私と同じように彼を手元に置いておきたいと願うだろうという点だな」
ベイリーとしては、リストに載っている者たちと敵対行動を取るつもりはなく、むしろ協力体制を組みたいと考えていた。
この場合、何よりもハリスを失うことが大きな損失となるのだが、組織のゴタゴタに巻き込まれる形でクビを宣告された彼にとって、ここでもまた揉め事に発展したら活動の拠点を国外へ持っていかれるかもしれない。それこそがもっとも避けるべき事態だ。
幸いなのは、リストに名のある人物たちが全員きちんとした話し合いができそうな人物ばかりということだろうか。ケンカ腰で話を進めず、対話による解決は望めそうだとベイリーは踏んでいた。
「……ピエール。このリストに載っている者たちのところへ使者を出す準備を進めてくれ」
「それは構いませんが、何をお伝えに?」
「ハリスの件で話がしたいからアントルース家の屋敷を訪れてほしい、と。できれば全員が一斉に集まれた方がいいから、日時も指定しておく」
「かしこまりました」
ベイリーはひとつ勝負に出た。
彼らとの衝突を避けるため、ちゃんとした場で真剣に話し合う必要があると考えた結果、この屋敷に集めてそれを実行しよう、と。
むろん、すんなりとは受け入れてくれない可能性もある。
ただ、評判を聞く限りでは頭ごなしに物事を決めつけて行動するようなタイプではなさそうなので応じてはくれそうだというのがベイリーの見解であった。
今後については返事待ちだと息を吐いた直後、こちらへと近づいてくる力強い足音が耳に入った。
その直後、
「お父様!!」
ノックもなしに勢いよく部屋の扉が開かれた。
「はしたないぞ、フィクトリア」
「あっ、ご、ごめんなさい――って、そうじゃありませんわ!」
部屋に入ってきたのはベイリーの娘のフィクトリア・アントルースだった。フィクトリアは長い母譲りの銀髪をなびかせながらこちらも母譲りの青い瞳を潤ませ、父ベイリーの座る黒檀の執務机の前に立つとそこへ「バン!」と勢いよく両手をつく。
「メイドがうっかりと口を滑らせました。――ハリスさんが聖院をクビになってこちらへと移住するそうですわね」
「……なんのことだ?」
「とぼけても無駄ですわ!」
治癒魔法使いとして何度も母を救ってくれたハリスを尊敬し、いずれは自分もその道に進みたいと願うフィクトリアにとって、今回の件はとても無視できるものではなかった。
娘の性格を熟知しているベイリーには、ただでさえ慎重に取り扱わなければいけない案件だというのに事態をややこしい方向に引っ張りかねないとして黙っていたのだが、どうもメイドのひとりがうっかりその件を漏らしてしまったらしい。
「ハリスさんは今どちらに?」
「それは知らん。ただ、いずれはデロス村のラッセル村長を訪ねてくるはずだ」
「なら、わたくしは彼が来るまでデロス村へ――」
「おまえには学園があるだろう? それに……これを見ろ」
ベイリーは例のリストをフィクトリアへ渡す。
「? これは?」
「ハリスが訪問診療を行っていた相手の一覧だ」
「えっ? か、貸してくださいまし!」
ハリスに関する資料ということで、フィクトリアは熱心に目を通していく――が、その表情は徐々に固まっていった。
「いや……これ……凄すぎません?」
「私も最初見た時は驚いたよ。ただ、彼の治癒魔法師としての腕前や誠実さ、そして病気や怪我で苦しむ人たちを救おうと魔草薬の研究にかける情熱――それらを目の当たりにすれば、支持したくもなる」
「た、確かに!」
フィクトリアには心当たりがあった。
というより、ハリスに憧れ、ハリスのような治癒魔法師となるために王立学園で勉学に励んでいる彼女にとっては至極当然の流れだろうと思っていた。
「彼はこの地にとどまると言ってくれたが、他の患者たちから魅力的な条件を提示されたらそちらに移ってしまう可能性もある」
「そ、そんな!? ようやく憧れ続けていたハリスさんとお顔を合わせてお話ができると喜んでいたのに……あんまりですわ! それに、お母様の件だって!」
「むろん、私もその点を危惧している。もっとも、彼は生真面目だからな。たとえ別の地で暮らすことになっても、ロザーラの診察は続けてくれるだろうが」
「ですが!」
「フィクトリアお嬢様、少しよろしいですかな?」
親子の会話に割って入ったのは執事のピエールであった。
「なんですの、ピエール! 今は取り込み中ですわよ!」
「その取り込みごとについて少々お話が」
「構わん。言ってみろ、ピエール」
「それでは――リストの中には王立学園の名前もあります。こちらは実際に学園へ通われているフィクトリア様自身が交渉されてはいかがでしょう」
「っ! その手がありましたわ!」
バシッと両手の拳をぶつけ合い、気合を入れ直すフィクトリア。
少々不安だが、こちらから使者を送るとなると諸々の手続きが必要になるので、それを省略するという意味でもフィクトリアの抜擢は的確と言えた。
「よし……恐らく、ルートの順番から言ってハリスはすでに学園長へフリーになったと報告をしているはず。フィクトリアよ。長期休暇のところ悪いが、頼めるか?」
「おまかせですわ!」
頼もしく胸を叩くフィクトリアは、早速翌朝には出発しようと学園へ向かう準備をするため書斎をあとにした。
「相変わらずパワフルでございますな、フィクトリア様は」
「まったく……誰に似たのやら」
力任せのゴリ押しに頼る傾向があるのは父親譲りでは、と発言しようとしたピエールであったが、さすがに実行はできず静かに言葉を飲み込んだ。
こうして、ハリスを取り巻く環境は彼の知らないところで着々と変化しつつあった。
ベイリー・アントルースは書斎にある椅子に腰かけ、黒檀の執務机に両肘をつきながらある人物を待っていた。
すでに窓の外は夜の闇に包まれており、青白い月明かりがカーテンの隙間から差し込んでいる――と、部屋のドアの外に人の気配を察知した。
「旦那様、例の物をお持ちしました」
「おぉ、よくやってくれた、ピエール」
ピエールと呼ばれた白髪の老紳士はベイリーに仕える執事で、かつては王国騎士団で辣腕を振るっていた猛者である。騎士団を引退してからはベイリーの人柄に惚れ込んでいたということもあり、執事となったのだ。
そのピエールから一枚の紙を受け取ったベイリーは早速目を通してみる。それからすぐに大きく息を吐きだした。
「星屑迷宮、商業都市ディバン、ノエイル王立学園、レオディス鉱山……どれもこれも聞いた名前ばかりだと思っていたが、まさか予想がことごとく的中するとはね」
呆れたように呟く。
執事ピエールの持ってきた紙には、ベイリーがハリスから聞いた目的地をもとに独自のルートで集めた診察相手に関する情報だ。相手も別段隠している様子はなかったらしく、少し調べたら次々と舞い込んできたので思っていたよりもずっと早く集まった。
ただ、問題はそこに並ぶ名前の数々。
ハリスは普通に患者として接しているようだが、とんでもない大物ばかりであった。
「これをレイナード聖院は知っているのか? ……いやぁ、知っていたら絶対に手放さないだろうな」
ベイリーは視線を紙からピエールへと向ける。
「君はどう思う、ピエール」
「ハリス様は愚直な方ですからな。相手の立場によって対応を変えるようなことはしないでしょう。ですので、相手が大物でも普段と変わらない態度で魔草による治療を行い、それが気に入られたと見るのが自然ではないかと。……ただ、皮肉にもそうした態度がドレンツ・レイナードの逆鱗に触れた理由でもあります」
「やはりそうなるか」
資料によれば、その大物たちは自分たちの立場に怯まず自然のままに接してくれ、尚且つ仕事のできるハリスを大層気に入っているらしい。何を隠そう、それはベイリーも同じだったので気持ちは痛いほどよく分かった。
「問題は……ここに名を連ねる有力者たちが、私と同じように彼を手元に置いておきたいと願うだろうという点だな」
ベイリーとしては、リストに載っている者たちと敵対行動を取るつもりはなく、むしろ協力体制を組みたいと考えていた。
この場合、何よりもハリスを失うことが大きな損失となるのだが、組織のゴタゴタに巻き込まれる形でクビを宣告された彼にとって、ここでもまた揉め事に発展したら活動の拠点を国外へ持っていかれるかもしれない。それこそがもっとも避けるべき事態だ。
幸いなのは、リストに名のある人物たちが全員きちんとした話し合いができそうな人物ばかりということだろうか。ケンカ腰で話を進めず、対話による解決は望めそうだとベイリーは踏んでいた。
「……ピエール。このリストに載っている者たちのところへ使者を出す準備を進めてくれ」
「それは構いませんが、何をお伝えに?」
「ハリスの件で話がしたいからアントルース家の屋敷を訪れてほしい、と。できれば全員が一斉に集まれた方がいいから、日時も指定しておく」
「かしこまりました」
ベイリーはひとつ勝負に出た。
彼らとの衝突を避けるため、ちゃんとした場で真剣に話し合う必要があると考えた結果、この屋敷に集めてそれを実行しよう、と。
むろん、すんなりとは受け入れてくれない可能性もある。
ただ、評判を聞く限りでは頭ごなしに物事を決めつけて行動するようなタイプではなさそうなので応じてはくれそうだというのがベイリーの見解であった。
今後については返事待ちだと息を吐いた直後、こちらへと近づいてくる力強い足音が耳に入った。
その直後、
「お父様!!」
ノックもなしに勢いよく部屋の扉が開かれた。
「はしたないぞ、フィクトリア」
「あっ、ご、ごめんなさい――って、そうじゃありませんわ!」
部屋に入ってきたのはベイリーの娘のフィクトリア・アントルースだった。フィクトリアは長い母譲りの銀髪をなびかせながらこちらも母譲りの青い瞳を潤ませ、父ベイリーの座る黒檀の執務机の前に立つとそこへ「バン!」と勢いよく両手をつく。
「メイドがうっかりと口を滑らせました。――ハリスさんが聖院をクビになってこちらへと移住するそうですわね」
「……なんのことだ?」
「とぼけても無駄ですわ!」
治癒魔法使いとして何度も母を救ってくれたハリスを尊敬し、いずれは自分もその道に進みたいと願うフィクトリアにとって、今回の件はとても無視できるものではなかった。
娘の性格を熟知しているベイリーには、ただでさえ慎重に取り扱わなければいけない案件だというのに事態をややこしい方向に引っ張りかねないとして黙っていたのだが、どうもメイドのひとりがうっかりその件を漏らしてしまったらしい。
「ハリスさんは今どちらに?」
「それは知らん。ただ、いずれはデロス村のラッセル村長を訪ねてくるはずだ」
「なら、わたくしは彼が来るまでデロス村へ――」
「おまえには学園があるだろう? それに……これを見ろ」
ベイリーは例のリストをフィクトリアへ渡す。
「? これは?」
「ハリスが訪問診療を行っていた相手の一覧だ」
「えっ? か、貸してくださいまし!」
ハリスに関する資料ということで、フィクトリアは熱心に目を通していく――が、その表情は徐々に固まっていった。
「いや……これ……凄すぎません?」
「私も最初見た時は驚いたよ。ただ、彼の治癒魔法師としての腕前や誠実さ、そして病気や怪我で苦しむ人たちを救おうと魔草薬の研究にかける情熱――それらを目の当たりにすれば、支持したくもなる」
「た、確かに!」
フィクトリアには心当たりがあった。
というより、ハリスに憧れ、ハリスのような治癒魔法師となるために王立学園で勉学に励んでいる彼女にとっては至極当然の流れだろうと思っていた。
「彼はこの地にとどまると言ってくれたが、他の患者たちから魅力的な条件を提示されたらそちらに移ってしまう可能性もある」
「そ、そんな!? ようやく憧れ続けていたハリスさんとお顔を合わせてお話ができると喜んでいたのに……あんまりですわ! それに、お母様の件だって!」
「むろん、私もその点を危惧している。もっとも、彼は生真面目だからな。たとえ別の地で暮らすことになっても、ロザーラの診察は続けてくれるだろうが」
「ですが!」
「フィクトリアお嬢様、少しよろしいですかな?」
親子の会話に割って入ったのは執事のピエールであった。
「なんですの、ピエール! 今は取り込み中ですわよ!」
「その取り込みごとについて少々お話が」
「構わん。言ってみろ、ピエール」
「それでは――リストの中には王立学園の名前もあります。こちらは実際に学園へ通われているフィクトリア様自身が交渉されてはいかがでしょう」
「っ! その手がありましたわ!」
バシッと両手の拳をぶつけ合い、気合を入れ直すフィクトリア。
少々不安だが、こちらから使者を送るとなると諸々の手続きが必要になるので、それを省略するという意味でもフィクトリアの抜擢は的確と言えた。
「よし……恐らく、ルートの順番から言ってハリスはすでに学園長へフリーになったと報告をしているはず。フィクトリアよ。長期休暇のところ悪いが、頼めるか?」
「おまかせですわ!」
頼もしく胸を叩くフィクトリアは、早速翌朝には出発しようと学園へ向かう準備をするため書斎をあとにした。
「相変わらずパワフルでございますな、フィクトリア様は」
「まったく……誰に似たのやら」
力任せのゴリ押しに頼る傾向があるのは父親譲りでは、と発言しようとしたピエールであったが、さすがに実行はできず静かに言葉を飲み込んだ。
こうして、ハリスを取り巻く環境は彼の知らないところで着々と変化しつつあった。