5月12日夜の10時、俺は自室に入って鍵をかけた。
今日は俺の誕生日だった。数時間前、ダイニングテーブルにホットプレートを出して、家族と一緒に俺の好物のお好み焼きを食べた。
豚肉と餅とチーズと大葉とシラスが入っている「陸也スペシャル」だ。シラスが入っているのは、俺の身長がせめてもう五センチ伸びてほしいという母心からだったことを、今日知った。
「でももう陸也も18歳だしね。悪あがきかしら」
と苦笑する母に、
「なに言ってんの。男は二十歳まで身長伸びるわよ」と珍しく姉のフォローが入った。
父は仕事の帰りに、駅前のケーキ屋でホールケーキを買ってきてくれた。
古風なバタークリームのケーキに『りくや君お誕生日おめでとう』のチョコプレート。
正直、ものすごく恥ずかしい。俺を知ってる奴あそこでバイトしてなかったよな、と一瞬記憶をさらった。
ケーキにろうそくを立てて吹き消した。両親にとって、末っ子の俺は、十八になった今も幼い子供のままなのだろう。
幸せだな、と思った。
家族にも友達にも恵まれて。
これ以上を望んだら、きっとバチがあたるんだろうな、と思った。
だから……雅人と別れ別れになるのは、ちょうどいいくらいの試練だ。
神様の公平な采配なのかもしれないと思った。
雅人は、小学校からの幼馴染だ。俺は小学校から私立大学付属の小学校に電車で通っていた。雅人は隣の駅近くに住んでいて、毎日一緒に通学していた。
中学生になり、高校生になり、俺は当然このまま一緒の大学に通うんだと思っていた。理系で頭のいい雅人とは進む学部は違うだろう。それでも、キャンパスではちょくちょく顔を合わせ、一緒に通学するんだと思い込んでいた。
小学校の頃は、周囲にも「双子みたい」と言われていたのに、いつのまにか雅人の身長は俺を追い越していた。顔つきや嗜好も大人っぽくなっていった。
ちなみにお互い、彼女ができたことはない。
いや、俺はあったか。
俺は高校二年のときに一度告白されたことがあった。一つ年上の女子の先輩だった。体育祭実行委員で一緒だったのだ
。
初めて人に好きになってもらえた、と有頂天になった。手探りでおつきあいを始めたものの……結局男同士の遊びを優先させてしまい、フラれることになった。
俺が未熟で身勝手だったし、相手には申し訳なかったと思う。
雅人は……どうだったんだろう。いたのだろうか。彼女とか、好きだった人、とか。
そう考えると、呼吸が速くなって、胃のあたりがぎゅっとなる。
食べたばかりのごちそうを吐くのは忍びなくて、とにかく俺は気持ちを落ち着かせようと深呼吸をする。深く息吸って、自分の部屋の天井を見あげてゆっくり吐く。すると、今度は視界が歪んできた。
「いないよな。いないだろ……」
そうつぶやく。
いるわけない。毎日のように俺とつるんで帰ってて、彼女なんているわけないんだ。
自分に言い聞かせる。
雅人にしてみれば、弟みたいにつきまとう俺に遠慮して他の人間関係をつくれなかった、ということなのかもしれない。
雅人は優しいから。
俺はずっと自分の幸せしか見えてなかったし、それが当たり前に続くと思っていた。
子供だった。
※ ※ ※
その世界が壊れたのは、三か月ほど前、三月の始めだ。当時はまだ高校二年生で、定期試験の答案返却日だった。
いつも通りの帰り道だが、その日の雅人はどうも浮かない顔をしていた。
「なあ、ちょっといい?」
駅のホームで話し出した声はいつになく陰鬱だった。
俺は驚いて雅人を見あげた。
テストが終わって解放感にひたっている俺に、雅人は真剣な顔で告げた。
「ごめん、これからはもう一緒に通学もできないし、帰れない。三年から、特進コースの朝学習に参加することにしたし、帰りは図書館で勉強していくことにしたんだ。夜は塾の自習室も利用する」
「どしたん、急に。理系の学部って入る前からそんなに大変なの?」
俺が驚いてききかえすと、雅人は一度ため息をついてから低い声で言った。
「俺ね、外部受験することにしたんだよ」
「え……?」
俺は内部推薦で系列の大学に進学することになっていた。きちんと内申点さえとっていれば、11月には結果が出る。当然雅人もそうなるのだと思い込んでいたのだ。
ぽかんとしている俺に、雅人は昨年の夏、外部の大学のオープン講座を受講したときのことを話しだした。夏休みのオープンキャンパスの催し物だった。それは、とても興味深い授業で、どうしてもその教授のいる大学に進みたいと思った、と雅人は情熱的に語った。
「生物の生命発生学の教授で……電子顕微鏡でマウスの受精卵を見せてもらって……」
俺には未知の世界のことを、目を輝かせて語る雅人。その様子を、まるで知らない人を見るような気持ちでみつめていた。
俺は雅人がずっと前から真剣に進路のことを考えていたことに、はっとさせられた。
俺はまだ、漠然としか考えていなかったからだ。
文系科目が得意だから経済学部でいいかな、とか。経営とかマーケティングも面白そうだな、なんてそんなノリだった。
就職なんてまだまだ先の事――いや、先の事だと決めつけて、真剣に考えることから逃げていたのかもしれない。
でも、雅人は。
「そっか。受験生になるんだ」
そりゃ、俺とたわむれてる場合じゃないよな。帰り道、ファストフード店に寄り道したり、ゲームセンターで大きなぬいぐるみとったり、コンビニで新商品試したり……なんてしてる場合じゃないよな。
公園で、流行りの曲を真似して踊って、「これ次の体育祭の応援合戦に使えるんじゃね?」なんてはしゃいだり……。思い返すと、俺は今までバカやるのに雅人をつきあわせてきたんだな、と反省した。
そして思い知った。
俺たちもう別々の道を行く時が来たんだな、と。
※ ※ ※
その日から、俺はひとりで帰るようになった。
同時に、あまりご飯が食べられなくなった。大好きな唐揚げもたこ焼きも味がしなくなった。ただただ、目の前に出された食事を義務のように口の中に押し込んで、咀嚼し飲み下す日々だった。
なんとか自分のメンタルを立て直そうとした。
なんでもない、ただそういう時期が来ただけだ。俺は今までどおり生きて行けばいい。
わかっているのに、雅人が傍にいなくなったあとの自分がこれからどうなるのか思い描けなかった。
教室では、いつもどおり「声の大きいバカな男子」のまま振舞った。自分の生き方を決めた雅人に、変な心配をかけたくなかった。
でも、いつも心は崖っぷちに立っていた。
ここは俺にとって安全で楽しい場所――でももう足元から崩壊が始まっている。
雅人は別の大学に行く。そこで新しい人現関係ができるだろう。バイトを始めて、彼女だってできる。そしてどこかに就職を決めて、結婚して……。
未来の俺の立ち位置は、「たまに思い出してもらえる旧友」だ。
そこまで考えたら、どうしようもない喪失感に泣けてきた。
※ ※ ※
その後、ひとりで通学することになった俺は、電車に揺られながら自問自答を繰り返した。
俺はずっと子供のままでいたかったのだろうか?
そんなわけない。年を取るたびに、行動範囲が広がり、自由が与えられた。内部進学だけど大学に行くことだって楽しみにしている。
じゃあ、ずっと雅人の親友のままでいたかった?
そう。それだ。
ずっとお互いを最優先にする特別な友達のままでいたかった。
俺は、雅人の真面目な顔も、笑った顔も好きだったし、彼のブレザーの匂いを嗅ぐと安心した。ナントカ委員とか係とか、すぐに引き受けてしまうお人よしのところも好きだった。ちょっと老け顔なのを気にしていて、前髪をわざと作っているのも好きだった。
当たり前だ。
親友だから。
でも、友人関係は環境とともに変わっていくものなのだ。
雅人にはこれからもっとふさわしい新しい友人がたくさんできるだろう。
その事実は、今の俺には息ができなくなるくらい残酷なことだった。
十二年間、一緒に通った電車。車窓には見慣れた風景が流れていく。
俺はこんなに雅人のことを知ってるのにな。
俺は雅人のこと、こんなに好きなのにな。
なのに別々の道を行くのが、世間の当たり前なんだ。
それが成長だから?
大人になることだから?
自分のガキ臭さに腹が立って、ため息をつく。
俺はまるで大人になりたくない、と駄々をこねる子供のようだ。
でも、雅人にはちゃんと大人になってほしい。雅人なら、きっとたくさんの人の役に立つ立派な大人になれる。そして将来は雅人も、家族やたくさんの人にかこまれて幸せになってほしい。
※ ※ ※
桜が咲いて、散り、三年生になっても悩む日々が続いていた。
内部進学組の俺と、外部受験生になった雅人は別々のクラスになった。
学校帰りに、ひとりで駅のホームに立っていると、「俺も早く大人にならなくちゃ」という焦りと、大好きな人に置いていかれるという孤独感で頭が変になりそうになった。
線路に飛び降りちゃおうかな。
衝動的な考えが一瞬心をよぎる。
そしたら一生、雅人は俺のことを考えてくれる。俺の命日のたびにここへ来て、楽しかった毎日を思い出してくれる。まだ無垢で、将来のこととか世間のこととかなんにも考えずに、遊んでいた日々を思い出してくれる。
そんな妄想が、夢みたいに美しく思えた。
なんとなく線路をのぞきこんだとき、急に通学用のリュックが俺を引き戻した。
「ちょっと! 危ないよ!」
振り返ると、相沢が立っていた。隣の席の女子だ。俺のリュックの肩ひもを握って、引き戻してくれれたようだ。
パアアアッ。
次の瞬間。警笛を鳴らしながら、快速急行がホームを通過していった。
俺は思わずその場にへなへなと座り込んだ。
相沢は横長のスポーツバッグを肩からかけたまま、俺の事を見下ろしている。ショートボブの髪が電車の風で舞い上がっていた。今日はバレーボール部の練習がなかったんだな、と思った。
「なに、ぼーっとしてんの!」
相沢は姉御肌のいつもの口調で俺をたしなめたあと、少し心配そうに続けた。
「あのさ、河合、気になってたんだけどさ。どうして最近柊と帰らなくなったの?」
「……雅人は勉強するっていうから」
視線を泳がせて、もそもそと俺は答える。
「外部受験コースにしたんだっけ?」
「そう。なんか生物学のすごい教授のいる大学に行きたいんだって……」
「ふーん、そっか。河合最近元気ないしさ、喧嘩して別れちゃったのかと思ったよ」
俺は思わず立ち上がった。尻の汚れをはらって、咳払いをした。
「え、なに、別れちゃったって……? そんな、俺らがつきあってたみたいな言い方」
「つきあってたんじゃないの?」
相沢が平然ととんでもないことを言う。
「え? ええ? なにそれ」
笑ってごまかそうとする俺に、相沢はなんでもないことのように話し出した。
「B組の麻生、一年のときは普通に男子だったけど二年から女子の制服で登校するって宣言したじゃん。髪の毛も伸ばして、男子トイレも男子更衣室ももう使わないって」
その話は俺も知っていた。彼もとい彼女への配慮として、学校では着替えには保健室を、トイレは多目的トイレを使用することに決まった。
最初こそ話題になったが、今はこの状況をみんな当たり前のように受け入れている。
「こういうご時世なんだしさ、同性でつきあってても別に不思議はないよね。だからあんたたちもそういうのかと思ってた。なんかこう、河合たちは他の人を寄せ付けない雰囲気があったからさ」
ちょっと待って。
俺はうろたえた。
『他の人を寄せ付けない雰囲気』ってなに?
俺って、相沢から見ても、雅人に対して独占欲だだもれだったのか?
頭が痛くなってきた。
そりゃあ痛い奴だったな。雅人も逃げたくなるよな。
「いや、それは俺が悪いんだよ。雅人はそんなつもりなかったと思うよ。俺がいつまでも小学生気分でつきまとってただけでさ」
雅人に依存していたんだなあ、と思う。自分のしてることが客観的に見えなくなるくらいには。
相沢はきょとんとして首をかしげた。
「いやあ。そうかな。……こじらせてるのは柊のほうだと思ってたけどな」
小さな声でつぶやいた。
「まあ、いいか。じゃ、しばらくは寂しくなるね」
「しばらく?」
「受験終わったら、また遊べばいいじゃん」
あ、そうか。俺、なにを思いつめていたんだろう。
そんなふうに考えることができればよかった。
受験さえ終われば元通りの関係に戻れる、やったーって。単純に受けとめられたらよかった。
「うん、でも、雅人は実際どう思ってたのかな。雅人は……俺からも卒業して、新しい人間関係を作るんじゃないのかな」
自信の無い俺の言葉に、相沢は一瞬真顔になり、そのあと豪快に笑い出した。
「そんなわけないでしょ。柊と河合は初等部の頃からニコイチなんだからさあ」
俺も笑い返そうと努めたけれど、たぶん顔は引きつっていただろう。