水城くんに恋をしたいけどしたくない、という面倒な悩みは、半強制的に中断されることとなった。
 なぜならば――ともったいぶるまでもない、単純な理由。ずばり、中間テストである。
 文系科目ならともかく、俺は理数系、特に数学が大の苦手だった。悩んでいる時間はないのだ。一応水城くんと帰ること自体は続けたが、意識的な好きなところ探しはしないように努めた。悩みの種を膨らませるわけにはいかない。
 水城くんは約束どおりチョコマフィンを作ってきてくれたので、テスト勉強のお供にさせてもらった。普通に店のやつかと思うくらい美味かった……。

 ――と、そんなふうに頑張ったはいいものの。

「……ごめん、今日からしばらく一緒に帰れません!」

 ひっじょうに情けない結果になってしまい、俺はうなだれながら水城くんに謝った。
 数学で、赤点を取ってしまったのである。うちの高校では、赤点になった科目にはもれなくエンドレス追試がついてくる。小テストで満点取るまで帰れません、というやつだ。小テストといってもそこそこ問題数があるし、普通に難しい。割と進学校なので……。

 くそ……あと一点で赤点回避だったんだけどな……!
 でも国語系に関してはクラスで一、二位だったし、英語だって五位以内には入ったのだからちょっとはすごいと思う。一位だった古典は水城くんに勝ってるってことだからな! こんな壊滅的なの数学だけなんだよ……。

「別に、自習室にでも行って待つけど」

 毎日帰るって約束してるわけでもないんだから、別に謝る必要ない……とでも言われるかと思ったのに。実際に言われたのは、一緒に帰ることを前提とした言葉だった。
 ……水城くんにとって、俺と帰ることが日常になってきてるのかな。それは結構、かなり、嬉しい。
 だからといって、じゃあ待っててと言えるかどうかは別問題である。俺は大慌てでぶんぶんと首を振った。

「いやいやいや、絶対今日だけじゃ終わんないし! 最終下校時刻まで待たせるのはさすがに悪いって!」
「一回で終わらせようっていう気概はないわけ?」
「気概だけでどうにかできるなら赤点とか取ってない!!」
「そうだろうけど……何日かかりそう?」
「前追試引っかかったときは……確か三日目でやっと、だったかな……」

 しかも理解したってよりは、答えを暗記してクリアしたのだ。小テストって数パターンしか用意されてないから……。情けなさすぎて泣きそう。泣かないけど。
 三日目……と何かを考え込んだ水城くんが、しばらくして顔を上げる。

「それじゃ、今日はやっぱり自習室に行ってるよ。終わったら来て」
「……最終下校時刻になるよ?」
「うん。もし本当にそうなったら、今日の夜は僕が勉強見てあげる。まさか僕に教わっておいて、また明日追試クリアできないなんてことないでしょ?」
「エッ……えっ!? 夜!?」
「なに、予定でもあった?」
「そっ、ういうわけじゃ、ないけど!」

 とんでもない提案にぎょっとする俺にも知らん顔で、「じゃあいいよね?」と強引に話を進めてくる。

「水城くんがいいならそりゃあいいけど、ほんとに……!?」
「僕から言い出したことがだめなわけないでしょ」
「俺、数学めっっちゃ苦手だよ!? たぶん水城くんが呆れるくらいできないよ!? 迷惑じゃ……」
「じゃない」
「で、でも……なんで……?」

 俺に勉強を教えたところで、水城くんにメリットなんてない。むしろ不必要な時間を食う分、デメリットばかりだと思う。それに、たまには一人で帰りたくなったりしないんだろうか。
 おそるおそる尋ねる俺に、水城くんは「理由が必要?」と首を傾げた。

「三日も放課後が潰れるのは可哀想だと思っただけだけど」
「な、なるほど……」

 お人好しすぎないか……!?
 でも固辞し続けるのも申し訳ないし、もう受けるしかない。

「周りの雑音とか気になるタイプなら僕の家に来てもいいけど、どうす――」
「全然気にならないタイプなのでそこら辺のファミレスとかでお願いします!!」
「……ならそれで」

 心の準備もなしに水城くんの家に行くのは無理すぎて、思わず言葉を遮って即答してしまった。せめて一週間前くらいに予告してほしい。
 だって水城くんの家って、なんかすごそうじゃん……いや普通の一般家庭だったとしても、やっぱ水城くんの家ってだけで緊張するっていうか……。

「じゃあ、また後で」
「うっ、うん!」

 自習室に向かう水城くんを見送って、俺も荷物を持って教室を移動する。
 ――絶対絶対明日には追試突破しないとだめだ!! できれば今日!!!

 ……そう固く決意して臨んだエンドレス追試は、当然のごとく最終下校時刻になっても終わらなかったのだった。
 しょぼくれながら自習室に水城くんを迎えにいけば、それを予想していたように「はい、これ」といちごミルクのパックジュースを渡された。

「えっ、ありが、え? とう? 何?」

 びっくりしすぎて変なところで言葉を区切ってしまった。
 これ、学校の自販機に置いてあるやつだ。冷たいから、きっとついさっき買ってきてくれたんだろう。

「どういたしまして。手っ取り早く糖分補給しちゃったほうがこの後の効率もよくなるでしょ」

 ……たぶん、単純に「お疲れさま」と労ってくれているだけだ。そして自販機の飲み物の中でこれが一番甘そうだったから――俺が好きそうだから選んでくれたのだろう。
 実際、いちごミルクはかなり好きだった。普段はなんとなく恥ずかしくて、自分じゃ買わないけど。

 わかりにくいけれど随分とわかるようになった優しさに、ふへ、と情けない笑みが漏れてしまう。もう俺にとっては、わかりにくいなんてこともないのかもしれない。
 それを見て水城くんはわずかに眉根を寄せたが、「さっさと行くよ」とすたすた歩き出した。照れ隠しのように見えてしまうのは、俺の願望が入りすぎだろうか。


     * * *


 水城くんは出来の悪い俺にも根気強く付き合ってくれた。同じようなところで何度もつまずいてしまったのに、苛立つ様子もなく教えてくれた。……そういうところもすごく好きだと思った。

「――うん。これくらいできるようになれば、明日中には満点取れるんじゃない」
「そうかな!? は~~よかった……長い時間付き合ってくれてありがとう……」

 大きくため息をつきながら、倒れ込むように伸びをする。水城くんはそれに対して、お疲れ様、という声音で「どういたしまして」と返してきた。
 時刻は二十一時過ぎ。学校を出てから三時間ほどが経過していた。とはいえ途中で夕飯も注文したので、ずっとみっちり勉強していたというわけでもないのだが。
 それにしたって三時間だ。水城くん、ほんとに面倒見が良すぎる。

 ドリンクバーで取ってきていたメロンソーダを、じゅーっと吸って飲む。向かいに座る水城くんは優雅にコーヒーを飲んでいて、そこだけ別世界みたいだ。ただのファミレスなのに、高級なレストランにでもいるように錯覚する。
 二人とも飲み終わったら、今日はお開きだろう。もう時間も遅いし。

 だけどこのまま勉強だけで終わるのは、なんだか少し寂しい気がした。
 こんな勉強会に付き合ってくれるぐらいには仲良くなったんだし、そろそろもう一歩踏み出してみてもいいのでは……?
 ごくりと唾を呑んで、口を開く。

「あのさ、水城くん」

 どきどき緊張しながら呼べば、水城くんは「何?」と顔を上げた。あまりにも綺麗な顔にやっぱり見惚れそうになって、怯みそうにもなる。それでも俺は、なんとか言葉を続けた。

「――こ、これから、下の名前で呼んでいいっ!?」

 きょとん、と目を丸くする水城くん。
 嫌がられはしない、はずだ。あっさりうなずかれるだろうことはわかっているけど、こういう許可をわざわざ取ること自体が気恥ずかしい。変に思われないか、とそわそわしてしまう。
 でもそろそろ、下の名前で呼びたいんだよね……。呼び名で仲の良さが変わるわけでもないけど、その一つの基準ではあるっていうか。
 やがて水城くんは、ふっと小さく、呆れたように笑った。

「わざわざ許可取るようなことじゃないし。呼びたいなら呼べばいいでしょ」
「そ、それはわかってるけどさぁ……! 水城くん相手ってなると、なんか緊張しちゃうんだよ!」
「下の名前で呼ぶんじゃなかったの?」

 あ、と口を押さえる。もう口が『水城くん』に慣れまくってるからな……。俺から言い出したことなんだし、意識して変えていかないと。
 よし、と気を引き締めて、もう一度口を開ける。

「し、しお……」
「うん」
「………………し、おん、くん」

 ――なんだこれなんでこんな恥ずかしいんだ!?
 じわじわと顔が熱くなってきて、視線をさまよわせる。
 いや、でも、だって。なんか……紫苑、くんが、慈愛に満ちたっていうか、そんな変なふうに見てくるから。調子が狂ったっていうか。
 紫苑くんはくすりとおかしそうに笑った。

「呼び捨てじゃないんだ」
「え、呼び捨てのほうがよかった……!?」
「君の好きにすればいいと思うけど」
「じゃあ、紫苑くんがいっかな。なんか紫苑くん、“紫苑くん”って感じだから」

 平常心、平常心……! と自分に言い聞かせながら、会話を続けていく。
 しかし何が引っかかったのか、みず……紫苑くんは、「また、()()?」と首をかしげた。

「また?」
「目の色も、僕って感じの色って言ってた」
「あー、確かに、言ったような。だめだった? でも他の表現しっくりこないからな……」

 俺の語彙力がないだけかもしれないけど、他に表現しようもない。
 紫苑くんを、紫苑って呼ぶ? ……いや、それはやっぱりなんか違うだろ。紫苑くんは紫苑くんだ。

「だめとは言ってない」

 つまりは大分お気に召している、ということである。よかった、と笑って、それからふと気になった。

「ところでみ、し、紫苑くんって、俺の名前覚えてる?」
「クラスメイトの名前なんて一日で覚えたよ」
「すっげ、俺女子の名前いまだに怪しい」
「君の記憶容量どうなってるわけ?」
「はは、だよな~……」

 思わず乾いた笑いが出る。

「それで、君の名前がなんだって?」
()()だよ」
「……?」
「紫苑くん、俺の名前一回も呼んだことないから。知らないのかなーって思って」

 いくら記憶を遡っても、名前を呼ばれた記憶がないのだ。
 いつも『君』。それが紫苑くんにめちゃくちゃ似合う言葉だから違和感はなかったけど(『君』って二人称が似合う男子高校生ってそういない。すごい)、気づいてしまったら気になるものだった。

「目を見て『君』って呼べば、君のことだってわかるでしょ」
「そうだけど! でもさぁ……俺の言いたいこともわかるだろ?」
「さあ」

 意地悪くすっとぼけてみせる紫苑くんに、むっと口を尖らせる。こういう気安いやりとりができるようになったことも嬉しいけど、名前を呼ばれないのは寂しい。
 もうこれは直球でお願いするしかないか。これまでの付き合いでわかったことだけど、紫苑くんは結構直球に弱いのだ。

「……紫苑くんに、名前呼んでほしい。呼ばれないのは、寂しいよ」

 目を真っ直ぐに見つめてお願いをすれば、紫苑くんは虚を突かれたように、何度か瞬きをして。

「――紬」

 それから、すごくやわらかい響きで、俺の名前を呼んでくれた。
 虚を突かれたのは、今度は俺のほう。

「えっ、よ、呼び捨て?」
「なにか不満でもある?」
「いえ滅相もない! じゃなくて、あー、っと……ありがと、紫苑くん」

 ゆるゆると緩んだ口元を隠しもせず、俺はお礼を言った。
 紬。紬だって。
 紫苑くんがそんなふうに、そんな声で呼んでくれると、なんだか自分の名前が特別なものになったように思えてくる。ちょっと女の子っぽくてやだなとか思ってたけど、今この瞬間に、そんな思いは一切消え失せてしまった。

「俺、自分の名前そんなに好きじゃなかったんだけど、紫苑くんにそんなふうに呼んでもらえるなら、好きになれそう」
「……そういえば、僕の目の色」

 急な話の転換に、「うん?」と首を傾げる。……もしかして、なんか照れてるのか? それをごまかそうとしてる?

「父親も似たような色なんだけど、地元だとたまに見かける色だったらしいから、地域差かも」
「えっ、そんなんあるんだ! 地元……ってどこ?」
「福岡」
「ラーメンだ!」
「ふ、だね」

 しまった、食い意地が張ってると思われたかもしれない。いや、別に思われたところで問題はないんだけど。
 でも福岡のイメージがラーメンしか出てこないというのもちょっと申し訳なくて、他のものを引っ張り出す。

「福岡、福岡といえば……あ、そうだ、博多弁って可愛いよな。好いとーよ! とか」

 なんとかばい、とか、よか、とかもそうだっけ? 違うかな、わかんないけど。
 とにかく、俺的に一番好きな方言は京都弁だけど、博多弁も大分好き。
 しかし紫苑くんはなぜか、真顔で数秒沈黙した。

「…………それ、実際は言わないらしいよ」
「えっ、マジで? っていうかなんか変な間あったけど……もしかしてキモかった?」
「うん」
「こういうときだけ素直!」

 冗談だったのに肯定されて地味にショックだ。いや単純に冗談に乗ってくれたんだろうけど、それにしたって即答だった。割と本気でキモかったんだろうな……。

「こういうときだけってどういうこと? 僕はいつでも素直でしょ」
「え、それは本気……? 冗談?」
「はあ?」
「うそうそ、紫苑くんはいつでも素直です!」
「わかればいいんだよ」
「ふはっ、ふふ、今のなんか面白かった」
「わかればいいんだよ」
「完璧に繰り返すのはずるいだろ~!」


 ――なんかもうこういうの、本当にフッツーの友達だよな……。
 しみじみと感動してしまうと同時に、少しだけもやりとしたものが心を覆う。
 紫苑くんも、俺のことを友達だと思ってくれている。それなのに俺は、そんな紫苑くんに恋をしようとしているのだ。
 ……それは、紫苑くんに対する裏切りなんじゃないか?

 テストも終わって、エンドレス追試も抜け出せそうで。
 後回しにしていた問題に向き合うときが、すぐそこまで迫っていた。