「お邪魔します……」
「あ、だれもいないから気ぃ使わなくていいよ全然」
「そう、なのか?」
「うん。おれん家、父さんと二人暮らしだから」
 さり気なく言ったつもりだけれど、上手く言えただろうか。晴太は努めて明るい口調を心掛ける。
 柚月の家も何か訳ありのようだったっけ。そう考えて、すぐに晴太は小さく首を振った。それは柚月が話したくなったら話せばいい。おれが気にすることじゃない。

「おれの部屋、突き当たりのドアんとこ。飲み物持ってくから、先行ってて」
「おう」
 晴太の部屋へ向かう柚月の背中を視線で追いかけると、晴太は台所に行き、二人分のグラスにコーラを注いだ。
 
 柚月が、おれの部屋へ遊びに来ている。晴太の心は、小さい子供のようにはしゃいでいた。
 高二で彼女がいるやつはたくさん周りにいるけれど、晴太はそういった付き合いに興味はなかった。サッカーをしているか男友達とつるむか。ちょっと前までは、それで良かったはずなのに。

 夏休み、図書室で柚月の横顔を見たあの日から、柚月に対する感情はどんどん膨らんでいっている。
 その感情に何という名前が付くのか、晴太は少しずつではあるけれど、気付き始めていた。気付き始めて、それは口に出したらだめなやつだと思う。せっかく柚月と仲良くなれたのが台無しだ。
 はしゃぐ心を制するように、晴太はグラスを持つ手に力を込めた。

「柚月、コーラでいいか? てかコーラしかない」
「いいよコーラで」
 部屋に入ると、柚月が興味深そうに本棚の本を見つめていた。大した本は置いていない。サッカー読本と、サッカーマガジン。あるだけましな程度の参考書、そして兄の置いて行った写真入門の本や写真集が数冊。

「へえ、たくさん持ってるじゃん」
「兄貴がさ、大学で写真部に入ってて。で、お下がり」

 これな。本棚の空いているところに置かれたデジタルカメラを手に取って、柚月の手に乗せた。
「お、おい。こんな高価なもの、簡単に渡してくるなよ。怖えな」
「大丈夫だよ。古いやつだし別に」
「それだって大事なもんだろ」
 柚月は恐る恐るといった感じで、カメラを眺めている。初めて触れるものみたいに、珍しそうに、だんだん楽しそうに。
 そんな柚月の、少しずつ表情の変わる横顔に思わず見とれる晴太だった。

「おい、おい晴太」
「ん、あ、何?」
「これ、どうやって画像見んの」
「ああ、えっとね」
 カメラに入れっぱなしのデータを呼び出すと、画面をフリックして見せる。
「何枚撮ったかなぁ。そろそろパソコンに移さないと」
 サッカー部の活動内容を撮って以降は、バックアップを取っていないのを思い出す。
「データ消えたらまずいだろ、早く移せよ」
「まずいもんなんてないよ。どれも適当に撮ったやつだし」
「これなんか」
 柚月が、表示させた画像をずい、と晴太の目の前に突き付けてきた。
「これなんか、いいと思うけど」

 早朝、学校へ行く前に何気なく撮った空の写真だ。
「この写真、俺にくんない?」
「へ?」
「気に入った」
 この空。色や空気。柚月の脳裏に新しい脚本の構想が浮かび上がり、急に喉の渇きと空腹を覚える。心が何かを欲している感じだ。

 柚月はカメラを晴太に押し付けると、乾いた喉をコーラで潤し、持ってきたドーナツにかぶりついた。その様子を晴太は呆気にとられた顔で見つめている。
「何だよ」
「いや、柚月見てると面白ぇなぁって」
「は?」
「何かさぁ、見てて飽きねぇんだよな」
「馬鹿にしてんの?」
「してねぇよ」
 晴太は小さい子供のようにニヤニヤと嬉しそうにしながら、ドーナツに手を伸ばしている。何なんだ。俺なんかのどこが面白いってんだ。面白いことなんてひとつも言えないぞ、俺。

「柚月、今なんかいいこと思いついただろ」
 口の中のドーナツをコーラで飲み下しながら、晴太が言う。柚月の表情から何かを読み取ったとでも言いたいらしい。
 柚くんて何を考えているのか分からないのよねぇと伯母さんお墨付きの不愛想は、柚月本人も自覚している。俺の考えていることが分かるなんて、珍しいやつもいたもんだ。

「おれも今、いいこと思いついた」
 晴太が続けた。
「柚月の写真、撮ってもいい?」
 今度は柚月が呆気に取られる番だ。
「は? お前なあ。男なんか撮って何が楽しいんだよ。もっと綺麗な景色とか可愛い女の子とか」
「柚月を撮りたい」

 構図とかシチュエーションとか浮かんできた。やべ、なんか楽しくなってきた。晴太はそう言うと、カメラのレンズをふいに柚月の方へ向けた。
「あ、おい。こら」
「柚月、口の周りにドーナツの粉付いてんぞ」
「ウソ、マジ。ちょ、撮んなっつの」
「さっきの空の写真、柚月にやるからさ。あれだろ、何か書きたいもの思い浮かんだんだろ」

 晴太に言い当てられて悔しい気もするけれど、同時に嬉しさも込み上げてきて、柚月の胸の奥はきゅっと反応した。自分のことを分かってくれるやつがいる。

「次のさ」
「うん」
「演劇部の脚本」
「うん」
「空を飛びたい少年の話……とか」
「いいじゃん」
「まだイメージしか湧いてねえけど」
「あの写真でなんか湧きそう?」
「うん」
「そっか」
 おお、おれの撮った写真が脚本の題材になるなんてな、と晴太は嬉しそうだ。

──やっぱり晴太は、他の友達とは違う気がする。もっと自分のことを分かってもらいたいという感情に駆られた。
「俺……さ。両親がずっと海外にいて、伯母さん家に居候してんの」
 柚月の告白に、晴太は一瞬驚いたような表情を見せたものの、すぐに柚月へと向き直った。まるで柚月がそれを話すのを待っていたかのように。
 可哀そうでも同情でもない、晴太の真っすぐな視線に励まされるように、柚月は言葉を続けた。
「昔から周りの同級生と話が合わなくて。運動神経がめちゃくちゃ悪いのもあって本ばっかり読むようになって。心配した伯母さんが、青南高校を探してきてくれたんだ
「ああ、ここ有名な作家が卒業してるもんな」
「そ。両親が日本に戻ることは殆どないから、伯母さんたちには世話になってばかりでさ。あんまり好き勝手も出来ねえんだよな」
「……分かるよ。おれもそうだから」
「え、晴太……?」
 柚月が自分から話してくれたことが嬉しかった。と同時に、柚月が小学校の頃から感じてきた生きづらさみたいなものが伝わってきて、それは晴太にはないもので、そんな風に思いながら生きてきた柚月に胸が苦しくなる。
 おれなら。晴太は思った。おれなら、柚月がだれにも言えないでいる夢や、やってみたいことを応援出来るんじゃないだろうか。だっておれも。

「……分かるよ。おれもそうだから」
 晴太の言葉に、柚月もまた驚いた表情を見せた。
「え、晴太……?」
「両親が離婚した時、サッカーを続けたいから青南高校に行きたいって言って、父さんがこっちに残ったんだ。離婚したっていう負い目があるから、父さんはおれの希望を聞いてくれたんだと思う」
「そうだったんだ」
「だから、今更サッカーじゃなくて写真がやりたいなんて言いづらくてさ」
「だから迷ってたのか」
「うん。内緒で兄貴と会ってたのも面白くないだろうしさ、きっと」
「はは、俺たち、いろいろと面倒くせえな」
「な」
 柚月の言葉に頷き、晴太も笑う。お互いの本心を口に出せば、何だかすっきりした気分だ。

 気の抜けたコーラのグラスは、ひんやりと汗をかいている。中の氷がカラン、と音を立てた。
「おかわり、いるよな。持ってくるよ」
 立ち上がった晴太の腕を、柚月が軽く掴む。部屋の中はエアコンが効いているとはいえ、外はまだまだ蒸し暑い夏の陽気だ。なのに柚月の指はひんやりとしていて、晴太はどきっとした。

「晴太も俺もさ」
 晴太を見上げるその目は、強い意志の塊のように見えた。あの時、図書室で見た横顔の印象と同じ、強い心だ。
「お互い言ったからには、やるしかねえよな」
 ニヤリと笑みを浮かべる柚月、やっぱり写真に撮りてぇな。
「そうだな」
 晴太もニヤリと笑った。

 まずは進路相談だな。柚月の言葉に後押しされた晴太は、帰宅した父親に思い切って大学名を書き込んだ用紙を見せた。
「お前の偏差値じゃ厳しいだろう」
「頑張るよ。だからこの大学に行かせてほしい。今までサッカーにたくさんお金掛けさせてごめん」
「分かった。お前が行くと決めたんなら、受験勉強頑張れ」
「うん」

 部屋に戻ると、晴太は柚月に教わったIDへメッセージを送った。
『言えた。柚月は?』
 すぐに柚月から返信が届く。
『俺も言った』
 晴太は、小さくガッツポーズを決めた。
 やっとスタートラインに立てた。隣にいるのは、もちろん柚月だ。柚月のおかげで強くなれる自分がいる。
 様々な思いの入り混じった進路相談も終わり、学校内はいよいよ文化祭ムード一色に染まる。
 柚月自身は、クラスの出し物「謎解きリアル脱出ゲーム」のシナリオに携わったところでお役御免だ。当日の会場設営や進行は担当じゃないので、演劇部の芝居を観に行こうと思っている。
「おれも柚月と一緒に行く」
 学食でオレンジジュースを飲んでいた柚月の前に、「よう」と笑いかける晴太の顔が出てきて、また柚月はジュースをこぼしそうになった。
「急に出てくんの、やめろ」
「いや、何度か声掛けたぞ? 柚月、ぶつぶつ独り言言いながら自分の世界に入ってたから気が付かなかっただろうけど」
「……気が付かなかった」

 やっぱりなー。ニヤニヤと笑いながら、晴太が柚月の顔を覗き込んでくる。近い。柚月は自分の顔に熱が集まるのを感じ、それがまた余計に焦りを呼んだ。
「な、何だよ」
「演劇部の芝居。おれも観に行くって言ったの」
「晴太だって自分のクラスの出し物あんだろ」
「あるよ。青南高校カレー食堂。おれは午前中担当だから、午後の演劇部は観に行けるんですー」
「あっそ。行ったらいいじゃん」
「柚月と観るんだよ」

 晴太の一挙手一投足に、いちいち心が跳ねるのは何故だろう。どうして晴太は、俺なんかに構うんだろう。どうして俺は、晴太と一緒に芝居を観に行けたら嬉しいと思っているんだろう。

「好きにすれば」
 柚月の口から出たのは、思いとは裏腹の不愛想な一言。自分でもその返事はないな、と思うのに、晴太は嬉しそうに笑うから。
「よっしゃ。いろいろ解説してくれよな」
 俺だって楽しみにしてしまうじゃないか、文化祭。晴太のクラスはカレーか。

 大勢の人間はやっぱり苦手だ。
 文化祭当日の朝。柚月はトラブルがないよう早めに家を出て、クラスの控室に座り待機をしていた。
 余計に、大勢の中の孤独を味わっている。柚月は、私たちも行こうかという伯母さん夫婦の申し出を断ってしまったことを、少し後悔していた。自分のことを分かってくれている人がいれば、孤独感を感じなくて済んだのに。

 そうまでして朝から文化祭に来たかったのは、隣のクラスの出し物に行きたかったからだ。そう、青南高校カレー食堂。晴太が腕をふるっている姿を覗いてみたい。
 グループやカップルが楽しそうに廊下を歩いている間を、柚月は制服のポケットに手を突っ込みながら無言ですり抜ける。
いや、ポケットに手を入れていたら危ないと思い返して、慌てて手を出すけれど、そんな柚月の姿を見ている人はだれもいない。アウェイなのはいつものことだけれど、こういう時はちょっとつまらない。

 飲食を扱うクラスは、調理室を交代で使うことになっていた。晴太のクラスが割り当てられたのは、今日のお昼までだという。
「朝五時起きで仕込みだぜ? ヤバくね?」
 今は朝十時。晴太は元気でカレーを作っているだろうか。柚月はドアの前で食券を受け取ると、緊張ぎみに調理室へと足を踏み入れた。

「いらっしゃいませー!」
 晴太の声だ。はやる気持ちを抑えながら、柚月は声のした方を見る。調理スペースから、まるで晴れた日のような笑顔が柚月を迎えていた。
 柚月が来てくれるなんて思わなかったから、慌てた晴太は、思わず持っていたカレー皿を取り落としそうになる。
「ちょっとぉ入江君、ちゃんとやってね」
「ごめんごめん」
 クラスの女子に眉をひそめられ、晴太は何とか体勢を立て直した。

「いらっしゃいませ!」
 ひと際大きな声で呼びかければ、柚月はびっくりした顔で晴太を見つめたあと、顔を赤くして「おう」と小さく呟き、ふいっとそっぽを向いて案内された席へさっさと行ってしまった。
 可愛いな。そんな思いを抱いて晴太はいやいや、と否定する。だめだって。そういうのは、きっと。
「入江君、カレー! よそって。早く」
「あーはいはい」
 一瞬よぎった思いは忙しさに紛れてしまったけれど、晴太の確信は深まる。柚月への感情。その名前は。

「食いに来てくれてありがとな」
 給仕が一通り終わると、接客係の生徒が、カレーを食べているお客さんのところへ水を注ぎに回る。晴太も持ち場を離れて、柚月のいるテーブルへ水を持って行った。近くの椅子をずりずりと引っ張って、背もたれを支えにして逆向きに座る。
「ちょっと早めに着いたから、ついでだ」
 口ではそう言っているものの、綺麗に平らげたカレー皿を見れば、晴太としては大満足だ。

「……だって、青南高校カレーなんて言われたらさあ……」
「五時起きで学校来た甲斐があったわ」
「おま、っ、午後から演劇部あんの忘れてないよな? 寝るなよ?」
「大丈夫だよ、柚月の脚本だもん」
「ハードル上げんなよ」
「飛べる飛べる」
「ったく他人事だと思ってさ」
 大丈夫だと晴太は強く思う。柚月が毎日図書室で真剣に取り組んだあの脚本なら、きっと皆に伝わる。
「おれもさっさとメシ食ってくるわ。一時に講堂の前でどう?」
「おう、遅れんなよ」

 一時五分前に講堂の前へ到着。遅れるわけないだろう、だって柚月と待ち合わせているんだから。晴太の心拍数は上がりっぱなしだ。柚月はぴったりの時間に、いつものようにぶすっとした顔をしてやって来た。
 少し後ろの席に並んで座る。客席を見渡せば、なかなかの盛況ぶりだ。

「これ一応パンフレット」
「へぇ、ガチじゃん」
「文学部は冊子くらいなら作れるからな」
 受け取ったパンフレットには、着ぐるみの頭を抱えた女の子がぽつんと描かれている。
「この子が主人公?」
「そう。遊園地のアルバイトをするんだけど、いろいろトラブルが起こる」
「へぇ」
 ページをめくると、登場人物と配役、物語のあらすじ、そして最後のページにスタッフの名前が記載されていた。脚本、清沢柚月。
「柚月の名前載ってんじゃん、テンション上がるな」
「別に。スタッフは皆載ってるし」

 柚月の横顔を覗き見る。素っ気ない一言の奥に嬉しさが混じっているのを、晴太は聞き逃さなかった。おれの柚月センサーは、精度を増している。

 上演開始のブザーとともに、客席に静けさと暗がりが広がった。
 俺の書いた場面が動いている。
 セリフ、表情、背景。脚本が舞台に乗ると、こんな風になるのか。演劇部の芝居が始まると、自分の書いた脚本にもかかわらずまるで初めて見るもののように、柚月は舞台に引き込まれていった。
 主人公である、うさぎの着ぐるみを着た女の子には、柚月が今まで出来なかったことや経験したことのない体験を、代わりにしてもらっている。遊園地、アルバイト、仲間、喧嘩、恋愛。
 小さな子供に無理難題を言われて悩めば、バイト仲間が一緒に考えてくれる。どうやったら楽しんでもらえるか、意見が分かれて喧嘩になる。先輩の態度に一喜一憂する主人公。バイトと勉強の両立。進路。自分は将来、何をしたいのか。

「自分は何をしたいのか」
 主人公の根底にあるテーマは、そのまま柚月自身にも当てはまる悩みだ。
 人付き合いの苦手な柚月は、周りに相談することが出来ない。周りが何に悩んでいて何を楽しんでいるのかも分からない。
 今の自分が何に向いているのかも分からないし、だれも教えてくれない。そんな諦めの殻が、分厚く柚月の周りを覆っていた。殻は自分の力でも壊せないほど強固になり、柚月はいつしか、ずっと一人でいれば良いのだと殻の中に閉じこもるようになった。そしてそんな自分ですら『別にどうでもいい』。

 そんな殻にヒビを入れてこようとするやつがいる。柚月は、暗がりの客席で小さく隣に目を遣った。そいつは瞬きもせず、座席の肘掛けをぎゅっと握って一心に舞台を見つめている。
 夏休みに晴太と過ごすようになってから、心の殻に液体のようなものが少しずつ浸透していくのを感じていた。確実に、殻はふやけて柔らかくなっていっている。

 長い間、自分の中で決定的に足りていなかった何か。それを晴太が持っているんだとしたら、一体それは何という感情なんだろう。
 自分の出した問いかけに、柚月はひとつの答えを思い浮かべた。果たしてそれが正しいことなのか、抱いても良い感情なのかは分からないけれど。

 柚月の視線に、ふっと晴太が気付いたのが分かった。つい力が入ってしまったことに照れたような笑みを浮かべる晴太。つられて笑う柚月。
 それは、どちらからともなくだった。
 肘掛けに乗せた手が、やがて互いに触れる。柚月の手に晴太の手がほんの少しだけ重なり、柚月の手はそれを拒まない。
 
 二人の重なる想いを乗せて、舞台は主人公が夢に向かって歩き始めるクライマックスを迎えていた。
 触れた部分がピリピリするみたいだ。晴太の全神経が、柚月と重なっている片手に集中する。
 ほんの少し体温を共有しているだけなのに、凄く熱くなっている気がする。変だと思われていないだろうか。おれ、汗かいてない? 気持ち悪くない? 
 柚月の視線は、舞台の方を向いたままだ。何を考えているのかはいまいち読めないけれど、拒まれていないことだけは確からしい。ちらりと横目で確認すると、晴太も視線を舞台へと戻した。

 これは柚月の物語だと、晴太は思った。主人公を通して、柚月が何を思って生きてきたのかが泣きそうなほどに伝わってくる。
 夏休みに見た、強く凛としたあの横顔。周りの音も光も、一切入らないと言うかのように固く結ばれた唇。ひたすらにノートへと向かう視線。対照的にひんやりと冷たいであろう、シャープペンシルを握る指先。
 あの時紡いでいた物語がこうして息を吹き込まれ、躍動している。

 だれとも分かりあえないなら一人でいた方が楽だと悟ってしまった頃の柚月が今この芝居を見たら、少しは救われるだろうか。
 その頃の柚月を晴太は知らない。もしかしたら、気の毒だけど自分にも分からないで終わっていたかもしれない。
 けれど柚月と出会った夏休みのあの時、何かから飛び出したいと願うエネルギーを感じたのだ。晴太はその強さに惹かれ、自分もまた強くありたいと願うようになった。
 柚月に会いたい、話したいと身体中から力が湧いて、被写体へのイメージがあとからあとから溢れてくる。

 これは紛れもなく恋だ。隠しても隠しきれない。だれがなんと言おうと、晴太のその感情は、恋だ。

 エンディングと思しき曲が流れる中、主人公は、持っていた着ぐるみの頭をしっかりと被る。先輩には残念ながら失恋したけれど、彼女は子供のために何かがしたいという夢を見つけた。進路への挑戦、仲間からの応援。強さを身に付けて、彼女は立ち上がった。

 客席に拍手が起こる。晴太と柚月もそっと互いの手を離して、手を叩いた。ほっとしたような名残惜しいような気持ちがないまぜになる中、客席に明るさが戻っていく。

 現実の世界に引き戻された晴太は焦り、拍手はぎこちなくリズムを崩した。さっき触れた手は夢じゃなかったし、芝居のように「はいカット」で終わる話でもない。もちろん冗談で済ませられるはずもない。このあと、柚月にどんな顔で話せばいいんだ、おれは。

「寝てはいなかったみたいだな」
 照れたような怒ったような口調で、ぼそりと柚月が呟いた。
「寝るわけねぇだろっつの」
 パンフレットを見るふりをしながら、晴太もぼそりと答える。

「……ありがと。晴太のおかげだ」
 柚月の言葉が、客席のざわつきを一瞬で消した。晴太の胸に、静かな波紋が広がっていく。

 触れた手の熱も、柚月への恋心も、もうそれらは消そうとしても消えるものではなかった。
 文化祭が終われば、途端に秋の気配が朝夕の道路を駆け抜けていく。この時期が柚月は一番好きだ。みんなが少しだけ寂しさを感じるようになる。

 あの件については、柚月も晴太も触れないままでいる。隣のクラスとはいえ、頻繁に顔を合わせる機会があるわけではない。たまに教室移動でばったり会って、「よっ」「おう」と小さく手を挙げる程度だ。
 思い出すたびにくすぐったいような気持ちと小さな不安が一緒になってこみ上げてくるから、柚月はあの件のことを考えないようにしていた。

 晴太と手が重なった時、柚月の心に一番近い存在は晴太なんだと分かった。柚月の心にそっと寄り添って優しく殻を割り、温かく触れてくる手を嬉しいと思う自分は、やっぱり晴太のことが好きなんだと確信する。
 それと同時に、どうしようもない照れくささと、晴太も同じ気持ちでいるのかもしれないという期待、そうじゃないかもしれないという迷いが同時に溢れ出して困った。
 芝居が終わってから、晴太とどんな会話をして、どうやって別れて帰宅したのかよく覚えていないくらいだ。

 通常授業が再開して、晴太の様子はいつもと変わらないように見えた。もしかしたら自分にだけ分かるちょっとした空気感でもあるかと思ったけれど、目に見える変化は今のところ何もない。
 このまま口をつぐんで何事もなかったかのように接するのがいいのかな、シャープペンシルを指で回しながら、柚月は少し凹んでいる。

 今日は伯母さんが朝早く出かけてしまったから、弁当を持って来ていなかった。久しぶりに来る昼休みの学食は、案の定大混雑だ。こんな人込みの中をかき分けてまでは行きたくない。何かに引っかかったり、お盆を落っことしたり、きっと何かやらかすに決まっている。想像するだけで食欲が減退していく。

「柚月。昼飯、学食にすんの?」
 晴太の声だった。晴太はクラスの友達数人と連れ立って、学食の列に並んでいる。とっさに柚月は嘘をつく。
「いや、ジュース買いに来ただけ。じゃあ」
 視線が合う前に踵を返そうとした時、腕を掴まれた。
「待て待て、一緒に買ってくるから金だけちょうだい」
「は? だからいいって」
「ほら順番進んじゃう。どれ?」
「……竜田揚げ弁当」
「了解」
 柚月があれこれ言う前に列は進み、晴太は前の方へ送り出されて行った。

「はい、竜田揚げ弁当」
「いいのかよ」
「何が」
「クラスの友達。あっちで食べ始めてるぞ」
「いいよ別に。約束してたわけじゃねぇし。な、柚月一緒に食わね?」
「俺と?」
「そこ、テーブル空いてる」
 断る選択肢はないらしい、柚月は晴太にまたもや腕を掴まれている。
「二学期いっぱいでサッカー部を辞めるって言ったんだ。部長に」
 晴太が口をご飯でいっぱいにしながら、柚月に言った。
「お前なあ、喋るか食べるかどっちかにしろ」
「うん」
 もぐもぐ。
「でさ、きちんと決まってから柚月に言いたくて、タイミング見てた」
「だから、喋るか食べるかどっちか」
「うん」
 もぐもぐ。

 そんなやりとりが心地良い。
 そうだったんだ。晴太なりに、進路に向かって少しずつ動き始めていたのか。柚月はこのところもやっとしていた自分の胸の中に、少しずつ晴れ間が広がっていくのを感じる。晴太と喋っているだけで、曇りが晴れに変わるのが不思議だ。
「そっか」
 大した言葉を返せない自分がもどかしいけれど、そんな柚月の返事にも、口をもぐもぐさせながら笑う晴太が好きだと思う。

「写真一筋でいくのか?」
「いや、まずは兄貴に教わった映像学科のある大学を目指すことにした。難関だけど、やるしかねぇ」
「やる気だけは十分にあるみたいだな」
「元気もあるぞ?」
「あとは成績か」
「そこは言うなって」

 晴太と軽口を叩いていれば、何となく食欲も湧いてきたような気がする。どんな薬より効くエナジードリンクみたいな晴太を、俺が独り占め出来たらいいのに。
「じゃ、おれ戻るな」
 一足先に食べ終わって友達と教室へ戻る晴太の背中を、柚月はそっと見つめた。

 学校からの帰り道、思わず急いで渡ろうとした横断歩道で転んで、足をねんざしてしまった。
学校を休むほどではなかったけれど、整形外科の時間が取れなくて部活には行けなかった。部室には次の演劇部公演に向けて図書室で勢い込んで借りた本が置きっぱなしになっている。だれかが気付いてくれればいいけれど。

「あら、こないだの。また持ってきてくれたの? ありがとう」
 階下で、伯母さんの少し高い声が聞こえてきた。だれか来たようだけれど、相手の声は聞こえない。
「ちょっと今呼ぶけど、階段下りるのに難儀していてね」
「……」
「そう、悪いわね。ありがとうね。あ、そうそう。今日はクッキー焼いたの。良かったら持ってって」
「……」

 晴太だ。晴太が、きっとまた本を持って来てくれたんだ。柚月は布団の中でぎゅうっと丸まって、じわじわと滲み出る思いを噛みしめる。心細い時や自信のない時に、いつも決まって晴太の存在を近くに感じる。

 柚くーん、入るわよ。伯母さんの声がして、柚月は布団から顔半分を出す。
「ね、あの子、また本持って来てくれたわよ。階段下りるの大変だと思うからいいです、って帰っちゃったけど」
「入江だよ」
「入江君か。いい友達出来て良かったわね。柚くん、こっちの学校に来てから友達出来た様子なかったから、ちょっと心配してたの、伯母さん」
「うん」
「また様子見に来ますって。今度は家に上がってもらってね。いろいろご馳走しちゃうから」
「うん」

 伯母さんは柚月の布団を直すと、楽しそうに部屋を出て行った。晴太、お前の印象良いみたいだぞ。まあ、文化祭であった出来事は秘密だけどな。柚月は布団にもぐると、クスクス笑った。