第二章 憂鬱の祭〈Akina's distress〉
1
その日、平良は神人の協会の関西支部の者に拘束、連行された。翌日、クウガは蓮たちに、護国輔翼会の本拠地は平安神宮のすぐ北東にある邸宅である旨、自首勧告の期限は四日後、十一月十八日、日曜日の十時である旨などの説明を行った。
クウガの命で、蓮は水、木、金、土と、アキナの護衛の下で中学校に通った。授業中、アキナは教室の後ろに控えており、護衛としての使命感ゆえか落ち着いた佇まいを見せていた(唇を引き結んだ表情はやはり子供っぽく、警察ごっこのようにも見えなくもなかったが。
土曜は午後半休だった。昼食を取ってから、二人は中学校を後にした。
「それで、そろそろ教えてもらいたいんだけど。俺たちが、円山公園に向かわなきゃいけない理由をさ」
四条大橋上の歩道、右側を歩くアキナに蓮はおずおずと尋ねた。アキナはどういうわけか、意欲に溢れたような明るい表情をしていた。
歩道に挟まれた中央の大きな道では、自転車や人力車が通行していた。橋の下は鴨川で、流れはいつもと変わらず悠然としたものだった。
「良い質問だ。それでは教えて進ぜよう。私たち神人は、圧倒的な力で世界大戦を治めた。だけれど中には、強すぎる私たちの武力に恐れを抱いている人もいる。さあて、ここでクイズだ。どうすればみんなの恐怖心を和らげて、仲良しこよしでやってけるでしょーか」
人差し指をピンと立てて、アキナは抑揚をつけて朗らかに問うてきた。蓮を見つめる眼差しは、どこまでも真っ直ぐである。
顎に右手を当てた蓮は、黙考する。(何だろ。参加者を募って講演するとか?)
「はい、ざぁんねん。タイムアップ、アーンド時間切れ……。って、あっ」
五秒程してから、アキナは蓮の思考を断ち切った。
「答えは見てのお楽しみ! とゆうわけで走るぞ、蓮くん! 実はもう時間ギリギリ、ケツカッチンってやつだ! まことにまことに申し訳ないけどねっ!」
焦ったように叫ぶやいなや、アキナは走り始めた。走り方は女の子らしいが、疾走と呼んで差し支えない速度だった。
「ケツカッチン? 何語だ、それ。とにかく急がなきゃ間に合わないんだな。っていうか、もっと早く教えてくれよ。いくらでもやりようはあっただろ?」
呆れた思いの蓮が大声で返した。
「ついさっき気づいたんだよー」と、先を行くアキナから泣きそうな声が飛んできた。
2
二人はどうにか、時間前に円山公園に辿り着いた。快晴の芝生広場の中心へとアキナは移動し、老若男女が取り囲む。
蓮は、アキナから少し遠目の位置で立っていた。群衆の向こうには桜の木が見られるが、時期でないため花はなく、葉を茂らせているのみだった。
神人と一般市民との友好を計るための、アキナの演舞披露の集いだった。人の輪の中心で、アキナは緊張を感じさせない堂々たる振る舞いで、伸びやかに動き回っている。
(俺も武を志す者の端くれだ。何か取り入れられるかと思ったけど、ありゃあ、つくづく人間の動きじゃあないって。「神人」って呼び名は、見事なまでに本質を捉えてるよな)
大きな側転を終えたアキナは、両の拳を胸の前に構え、左半身を前にした姿勢を取った。芝生広場に、一瞬の静寂が訪れる。
アキナは右前になり、頭を軽く斜め後ろに引いた。同時に曲げた右脚を胸の位置まで持ってくる。
次の瞬間、ブォン! アキナが斜め上方を蹴り込むと、重々しい音がした。遥か高くを飛んでいた二羽の雀が、風圧で飛行の制御を失った。
(テコンドーのヨプチャチルギ(横蹴り)、か。けどあんな上を飛んでる鳥が、盛大にふらつくかよ。まともに食らったらどうなるんだ?)
蓮が舌を巻く一方で、アキナの演舞は続いた。ベースは種々の蹴り系格闘技だが、終始、動作は常識外れだった。
アキナは疲れを一切見せず、演舞を進めた。アウー・シバータ(前方宙返り踵落とし、カポエィラの技)に、またしても小さく歓声が上がる。
すぐにすうっと立ち上がり、アキナは直立姿勢に戻った。
「ありがとうございました。そしてごめんね、雀さん」と、芯の通った高い声とともに深々と礼をした。
蓮は物思いから復帰して、観衆とともに拍手を始めた。視線の先では、アキナが照れたような面映ゆい表情で何度も小さくお辞儀をしていた。
3
演舞は十五時に終わり、十九時からは祭の時のように多数の露店が出るということだった。帰り道で、蓮はアキナに誘われて参加を決め、二人は一度解散した。
「悲しいけれどしばしの別れだ。私には大事な準備があるんだよ」路上での別れ際、大げさな調子のアキナは妙に自信満々な笑顔だった。
その後、二人は、きっかり十九時に円山公園の入り口で再会した。アキナは浴衣姿だった。
「予想通りの好反応だね! 良かった良かった。だいぶ苦労したけど、頑張って着たかいがあったってもんだね」
幸せそうに呟くアキナは、見せびらかすように片足を軸にくるりと一回転してからウインクを決めた。絶句する蓮は、満足げに微笑むアキナの身体を眺める。
アキナの浴衣は、白地に淡い桃色と紫色の大輪の花が描かれたものだった。一般的な紺色、白色を用いたものより鮮やかであり、優しげで健康的なアキナが身に纏うと、なんともあたりが華やぐのだった。
「そうかそうか、私はそんなに魅力的か。そうだろう、そうだろう。しかしだ。蓮くん。いつまでも見とれてる場合じゃないぞ! 今宵の宴は現在進行形でガンガン進んでるんだ! ぼけっとしてると乗り遅れちゃうぞー」
芝居がかった調子のアキナは、左手で蓮の右手をぎゅっと握った。掌に伝わる柔らかで暖かい感触に蓮はどぎまぎするも、アキナに従いて早足で歩き始めた。
4
「そんなに大きな催し事じゃあないのかと思ってたけど、とっても賑やかで華やかだよね。京都在住の皆々様の並々ならぬ意欲を感じるってやつだね」
木の棒の先端に付いた練り飴を小さな舌で舐めつつ、アキナは真剣な調子で呟いた。おでんの屋台を通り過ぎた蓮の鼻を、甘くも香ばしい香りがくすぐる。
木々の生えた芝生の間の道の両端には、木製の簡素な櫓の天井を布で覆った屋台がずらりと並んでいた。夜の闇をぼんやりと照らす提灯と紅白ののれんのような飾りが、祭り特有の情緒を醸し出している。
お面を売る屋台にはおかめやひょっとこの面が飾られており、道の少し先では、バナナの叩き売りの二人組が発する威勢の良い声がしていた。
和装、洋装、浴衣。思い思いの服を着る装いの人々の顔は一様に明るく、めったにない非日常を堪能している様子だった。
ひょっとこのお面を被った男の子が、アキナのすぐ左を楽しげに走り抜けた。アキナは練り飴と逆の手には、缶詰をぶら下げた針金を握っている。金魚すくいで手に入れた金魚を入れていた。
「店の人に任せたままだと、早死にしちゃう気しかしないんだよ。私が責任を持って、無辜なる金魚さんたちに天寿を全うさせます」
五分ほど前、金魚すくいの屋台を後にしたアキナは、大真面目に蓮に宣言していた。得意げに澄ました顔が何とも可愛らしかった
「京都人にとって祭は誇りをかけた一大事業だからな。まあ今回は厳密には祭とは言えないけどさ。それだけあなたたち神人の存在は、普通の人に取っちゃあ大きいんだよ」
蓮は間を置かずに返答した。縁日の空気に充てられているため、自分の声は予想以上に弾んでいた。
するとアキナは、「むっ」というような、眉を顰めた不満げな面持ちで蓮の顔を覗き込んでくる。緩やかで滑らかな髪が、重力でさらりと下に落ちた。
「いったい何度言ったらわかるんですか。『あなた』だなんて、そんな他人行儀極まりない、一歩離れた呼び方はお断りです、ダメダメです。『アキナ』以外は認めません。アキナ一択ってやつです。はい、私に続いて発音どうぞ。『ア・キ・ナ』」
「ああ、うん。アキナ」
「うむ、よろしい。わかれば良いのだよ」偉ぶったような言葉とともに、アキナはきりっとした顔になった。アキナのペースに巻き込まれて、終始、おどおどの蓮とは対照的な奔放っぷりだった。
「ところでやっぱり蓮くんも、祭大好き京都人? 祭と聞いたら夜も眠れなくなっちゃうお祭男なの?」
小さな舌で練り飴を舐めつつ、アキナは気易い調子で問うてきた。
「ずいぶんと持って回った言い回しだな。でも祭は大好きだよ。小さい頃から祇園祭、時代祭、葵祭だけは毎年参加してるからな」
穏やかな気持ちで語る蓮を、アキナは暖かい笑顔で見つめ続ける。
「でも一番の思い出は、吉田神社の節分祭なんだよな。最後に行ったのが十年前か。父さん母さんに手を引かれて、幻想的な雰囲気の屋台が並ぶ間の道を歩いて。素戔嗚尊と八岐大蛇が出てくる神楽に大興奮して。
ああそうだ。何を間違ったか、あの時甘酒を飲んじゃったんだったな。それで母さんは落ち着いてるのに、父さんは『子供が飲んだら毒だ!』って慌てて。ふらふらになりながら『ほんとに僕が大事なんだな』ってなんかおかしくて。……って、あれ」
蓮の右手に、ぽたりと水がこぼれた。すぐに目に手をやると、再び涙で手が濡れた。
(何を泣いてんだよ)
焦りながらうつむくも、蓮の涙は止まらなかった。
するととんっと、左肩に柔らかい手の感触が生じた。ゆっくりと顔を上げると、右手で蓮の肩に触れるアキナが、憂いを帯びた微笑で蓮を見ていた。心の奥底を見透かすような深みのある視線だった。
「泣いたら良いんだよ。いっぱい泣いて、きっちりお父さんにお別れして。それでそこから、緒形蓮の人生の第二章の始まりだ。心配ないよ。私も一緒だからさ」
優しくも力強い声を聞きつつ、蓮は泣き続けた。しかし既にその意味は変わっていた。アキナへの感謝に父親との思い出。様々なものが頭を巡った後、やがて蓮は毅然と顔を上げた。
「ありがとう。もう大丈夫」
お礼に目一杯の慈しみを込めつつ、蓮はアキナをしかと見返した。
するとアキナは、今日一番の大輪の笑顔になって蓮の右手をぐっと握った。
「よーし、完全復活! 行くぞ蓮くん! 宴はまだまだ始まったばっかだ! この程度じゃあ、私の底なしの欲求は満たすことなんてできないんだよ!」
大げさに宣言して、アキナは威勢良く駆け始めた。
5
二人はあちこちを見て回り、様々な露店に顔を出した。今回の催しの主役であるアキナは、どこに行っても注目の的だった。
蓮や多くの群衆の注目の中、アキナは赤い布が敷かれた台に肘を突き、射貫くような眼差しで前方を凝視していた。
両手には火縄銃のような銃を持っており、視線の先には、髷を結った男のメンコやブリキの自動車など子供の好きそうな品々が階段状に並んでいる。
数秒後、バン! 銃口から破裂音がして、猫の人形が宙を舞った。「おーっ!」と歓声が上がり、やがてぱちぱちと拍手が始まった。
「ありがとう、かっこいいお姉ちゃん」おかっぱ頭の浴衣姿の女の子が、控えめなお礼を口にした。大人しそうな顔は、ほっこりとした喜びに染まっている。
店主から人形を受け取ると、アキナは屈んで女の子と目線を合わせてにこりと笑った。
「はい、大事にしてね。なくしたらダメダメだよ」
ふざけたような言葉とともに、アキナは女の子の髪をゆっくりと撫でた。
「うん!」と元気いっぱいで叫んで、女の子は母親へとたたたっと帰っていった。
やがてぞろぞろと、二人を囲んでいた群衆が移動を始めた。
「ふう、一仕事終えたって感じだね。射的はやっぱり神経を使うよね。さすがの私も、遊び疲れの色が見えてきたんだよ」
手の甲で額を拭いつつ、アキナは落ち着いた雰囲気で呟いた。
蓮は辺りを見回す。終わりも近くなり、一時と比べると人影はまばらになっていた。
「よし、そんじゃあ最後に、俺が円山公園で一番好きな場所に案内するよ。それで今日はお開きで良いか?」
蓮はアキナに笑いかけつつ、明るく声を掛けた。
一転、アキナは瞳を輝かせ、人なつっこい笑顔になった。
「それそれ、そういうのを待ってたんだよ! さすがは京都を知り尽くす者! 待ってるだけの男じゃないね! さあて彼は、私をどんな素敵スポットに連れてってくれるのでしょーか!」
朗らかに喚くと、アキナはぐっと左手を蓮へ出してきた。少し迷った蓮だったが、ゆるくアキナの手を掴んで力強い足取りで歩き始めた。
6
「ふうむ、なんと趣深い空間なんだ。空間いっぱいに漂う静寂と調和。日本という国の本気を垣間見た気分だね」
手摺に両手を乗せるアキナは、感服したような語調で呟いた。興味深げな瞳を、まっすぐに前方へと向けている。
二人がいる場所は、円山公園内の庭園の欄干橋の上だった。視線の先、二十メートルほど、雄大な知泉が広がっており、周囲には鮮やかな紅葉の木々が揺れていた。
真正面には二階建ての東屋があり、透き通った満月の光を浴びて悠久の佇まいを見せている。
二人はしばし、風景に没頭した。ひんやりとした秋風が吹いて、水面に漣が立つ。二人以外に人影はなく、外界から隔離されたような静寂の空間だった。
一分ほど経っただろうか、神妙な面持ちのアキナが口を開いた。面持ちにはいつになく、憂いの色が見受けられる。
「蓮くんはさ、普通の日本人だよね。やっぱそうゆう仲間がいっぱいいる人って、自分の存在に疑問を抱いたりはしないのかな?」
アキナはぽつりと静謐に言葉を漏らした。前にやったままの眼差しは、依然として静かなものである。
「哲学的というか、考えさせられる質問だな。そりゃあ父さんがいなくなって寂しくて悲しいけど、己の存在をどうこうって感じではないかな。母さんには、すごい良くして貰ってるしさ。……アキナは、何か悩んでたりするのか? だったら言ってくれ。相談に乗るよ」
質問の意図を計り兼ねる蓮は、アキナと調子を合わせて穏やかに返した。リーリーと、遠くから鈴虫の鳴く音色が静けさの中に響き渡る。
「私のお父さんとお母さんね。消えたの」
何気ない調子でとんでもない発言をするアキナに「は? それってどうゆう……」と、呆気に取られた蓮は思わず口走る。
「二人はね、私が生まれた瞬間、突然現れた黒い影に呑まれて消滅したの。私たち神人がこの世界に出現した時の逆回しみたいに突然にさ。私は赤ちゃんだったから記憶はなくて、人から聞いた話なんだけどね」
寂しげなアキナに、蓮は返す言葉が出てこない。
「他の神人はだーれも、私みたいな生まれ方はしてないの。だから私は、異端の中の異端。あなたたちが英雄視したり、時には恐れたりする神人の中でも異質な存在なの。
蓮くんの事件の調査の時に、超念武の力の残り香を調べたでしょ? 神人が進めてる研究によると、あの能力も私の生まれに由来があるみたい。調査途中だから、未確定事項がてんこ盛りなんだけどね」
投げやりな言葉を切ると、アキナはその場にしゃがみ込んで両手を膝に乗せた。
「だから不安なんだ。自分のルーツが、というか、あまりにも他と異なる自らの在り方がさ」
俯くアキナに、(親が消失?)と、蓮は驚きとともに絶句し続けていた。
だが不意に、にっとアキナは破顔した。いつもの混じりっ気のない笑みだった。すっと立ち上がって身体を左前にし、人差し指をびしりと前に持って行った。
「だから私は戦うの! そりゃあお仕事は辛いよ。警察というより、軍人に近い任務ばっかだからね!
でも私は頑張る! 死ぬ気で頑張る! そんでもって自分の有用性を示して、いろんな人にありがたがられて、私だって神人の仲間だって証明する! 出自の不確かさも吹き飛ばす、絶対に揺らがない居場所を作る! そうしていつか、このどーにもできない孤独を隅から隅まで埋めてみせるよ」
時折見せる芝居がかった口調だが、蓮は空元気を感じてしまう。
「アキナは今、こうして俺と語らっているだろ? 今日だってみんなに大歓迎されてた。射的の景品をあげた子供は大喜びだった。それでもどうにもならないのか? 『孤独』『ひとりぼっち』。誰にどれだけ愛されたって、身を削って作る居場所でしか幸せを感じることができないのかよ?」
やりきれない気持ちの蓮は、思いを率直に吐露した。耳に届く自分の声は、想像以上に悲痛さが籠もっていた。
蓮は悲しかった。「死ぬ気」という洒落にならないほど重い語を用いるほど強い、アキナの孤独が。
蓮はアキナが、苦しい戦場で誰かを助けるという取り柄があるから親しみを感じるのではなかった。誰とでも打ち解けられる朗らかさ、父親の死を悼んでくれる優しさ。アキナ=アフィリエという女の子の全てが愛しく、心から大切だった。
しかし言葉は届かない。どこまでいっても蓮とは別の生き物であるアキナは、蓮の思いを余所にそろそろと口を開く。
「蓮くんはほんとに素敵な人だと思うよ。鴨川沿いで私を守ってくれた時は、とてもとっても嬉しかった。まだちゃんと伝えられてなかったよね。あの時の蓮くん、本当にかっこよかったよ。ありがとう」
親愛の籠もったアキナの告白に、蓮は照れ臭くさのあまり返答ができない。
「でもそういうもろもろとは無関係に、私の中にはどうしても埋めがたいものがあってしまうんだよ」
身体の横に手を戻したアキナは、悲しい調子で言葉を紡いだ。
「なんてね、じょーだん、じょーだん。まあ両親の消えた話と心の隙間の話は、嘘でも何でもないんだけど。湿っぽい話してごめんね。せっかくのお祭りが台無しだよね」
(何が冗談なんだよ。全部事実じゃないかよ)どこまでも寂しげなアキナの言葉に蓮は悲しみを深くする。
「さあて、明日はいよいよ勧告期限だ! 関ヶ原も赤壁も真っ青の、護国輔翼会との天下分け目の決戦だ! 遅れを取るんじゃあないぞ! いや違った。私がばっちり守るから、蓮くんはバルチック艦隊に乗ったつもりでどおーんと構えてなさいな!」
一転元気になり、アキナは有無を言わせず畳みかけた。納得のいかない蓮はふうっと息を吐く。
「ああよろしくな。だけど俺も一人の武人だ。未熟だけど、脚だけは引っ張らないよ」
更なる追及を飲み込んで、蓮は静かに断言した。うんうんと、アキナは愉快げに上下に首を振った。
間章1
1
三人は、ぽっかりと宙に浮く黒色の階段を延々と上っていた。幅は狭く、皆で並ぶと間の通行が難しくなるほどである。進行方向、斜め上を見ても終わりは見えず、階段はどこまでも続くかのように思われた。
周囲は一面、おどろおどろしい黒色や紫色のグラデーションで満ちており、何かが蠢くかのようにぐにゃぐにゃと、ひっきりなしに色が移り変わっていた。頭上には血のような赤の星々が見られ、時折、雷のような光がはるか遠くで轟音を鳴らしている。地獄もかくやといった風景に、三人の切迫感は否応なしに高まっていた。
「気ぃ引き締めろよ、おめぇら。俺らがやらなきゃ掛け値なしに世界が終わる。責任重大ってやつだ。『ヘマやって負けちまいました』じゃあ、済ますこたぁできねえぜ」
三人の中央に位置する柔道着姿の男が、刺すような笑みとともに不穏な調子で呼びかけた。
男の名はアギト=ダンクレー。真っ黒な短髪は自然な感じで立っており、顔付きは掘りの深いものである。
やや細い目と顎にだけ短く生やした髭は粗野な印象だが、整った顔立ちの男前であった。長身で堅牢な体躯は、筋肉ではちきれんばかりである。
「ええ、そうね。この世界に初めて来たときは、まさかこんなことになるとは思わなかった。あの通告を聞いたときは、正直目の前が真っ暗になった思いだった」
右端を歩くルカ=ヴァランは、言葉を切って自らの身体に目を遣った。胸部のみを完全に覆った布製の胸当てと、青のコルダォン(腰から膝下まで垂らした帯)の付いた白の長ズボン。破れてこそいないものカポエイラの衣服はこれまでの戦いでぼろぼろで、ところどころに血が付いていた。
「おうおう、なんだその己に向ける意味深な視線は。『あらやだ、高貴なる私の美貌が傷で台無しだわ』ってか。確かにあんたは美人だが、いけねえよなぁ。時と場合は選んでもらわねえと。カポエイラ界のホープも、所詮は一人のうら若き乙女だっつぅてわけだ」
破顔したアギトは、ルカの身体に視線を向けてきた。だがその眼差しに嫌らしさはなく、試しに言ってみた、といったような口振りだった。
「ちょっとアギトさん。年頃の女性に失礼ですよ。いくら恐怖心を紛らわしたいからって、何を言ってもいいってわけじゃあないでしょ。言葉の乱れは心の乱れ。ですよね、ルカさん」
気安い言葉の後に、左端を行く者がひょこっと顔を前に出した。ルカに向ける視線は柔和なもので、穏やかな笑みを浮かべていた。
青年、いや外見的には少年という表現がふさわしい者の名は、ハクヤ=ゼロルド。テコンドーの使い手であり、白色の道着に黒い帯といった出で立ちだった。
頭頂部がアギトの肩の高さと、身長は少し低めである。だが身体付きにはか弱い感じはなく、立ち居振る舞いはしなやかで力に満ちていた。
丸めの顔は眉がやや太く、ぱっちりとした目と相俟って温和で優しげで涼しげな雰囲気である。
「ああん? 俺がびびってるだぁ? ずいぶん面白い冗談だよなぁ。だいたいてめえは、はなっから気に入らなかったんだ。テコンドーの正装だか何だか知らんが、服、被せてきてんじゃねえよ」
野暮ったい語調のアギトは、自分の左腕をちょんちょんとつつきつつハクヤを見据えた。確かに二人の服装は、誰が見ても似通っている。
(まったくこの二人は。この期に及んで言い争いだなんて)ルカは呆れを抱きつつ、肩にかかろうかという長さの亜麻色の髪を、ふわっと後ろにやった。すうっと息を吸い込んで、精神を整える。
「さあて、そろそろ切り替えましょうか。私は、私たちは勝つ。勝って未来を作る。ただそれだけ」
自信を込めた言葉が暗黒の世界に響いた。すると数秒後、五歩ほど先に何かが出現し始めた。三人がぴたりと立ち止まると、やがて黒一色の扉が姿を現した。幅は階段の倍ほどで、高さはアギトの三倍近くあった。
アギトが右の掌で触れると、扉は音もなく開いた。ルカは二人とともに扉をくぐり、内部の空間に目を遣った。
中は円形の部屋だった。直径は、歩幅にして三十歩程か。天井はなく、頭上では数多の星々が邪悪な輝きを見せている。
壁は天井同様、石が敷き詰められており、等間隔に松明の炎が燃えていた。だが周囲をほんのり照らすだけで、そこはかとなく暗い雰囲気だった。
ルカが様子を確認し終えるや否や、部屋の中心から黒みがかった透明の光が差し込んできた。しばらくして、人の形をした何かが光と同じルートで降りてくる。
「……そう来たかよ。三対一仕様の特注品ってか」あざける風な調子でアギトが呟いた。絶句するルカは、「それ」を注視する。
「それ」は、一般的な女性の身長を有するルカと同程度の背丈だった。胸から膝は、黒色の革の鎧で覆われている。ただ異常なのは、肩から伸びる顔と両手だった。
鎧と同色の兜を被る顔は三面。どれもがいかめしい骸骨のもので、目の部分には不気味な赤色の光が宿っている。
毒々しい紫色の腕は六本。その全てがルカの脚ほどの太さで、剣、槍、斧、片手弓、ブーメランと、それぞれが異なる装備をしていた。腕の一本は徒手で、怪しげに開閉を繰り返している。
「当然わかってるだろうけど、こいつはただの手下の『魔臣』よ! 見てくれは異様でも、こんな前座の糞野郎に手間暇かけてなんかいられない! 即行で終わらせる!」
ぴしりと叫んだルカは、すぐさまジンガ(カポエイラの基本ステップ)で接近を開始した。他の二人も、おのおの構えを取った。
2
三つ顔の魔臣は、腕の一つに持つ欧風の剣を振り下ろした。ブウンと風を切る音がして、鋭い斬撃がルカに迫る。一メートル弱とリーチは長く、後ろに飛んでは避けきれない。
即断したルカは左に側転。身を起こすと向きを変え、左足を後ろにやった。素早く身体を倒し、ぐっとベンサォン(押し出すキック)を見舞う。
するとルカの蹴りを、紅蓮の炎が追随した。反応できない魔臣の腹に、炎のキックが命中する。魔臣はぐらりと姿勢を崩すも、返す刀で槍を突き込んできた。ルカはすかさずバク転で距離を取る。
ルカの念武術、「紅蓮演舞」は、カポエイラの蹴撃に炎の属性を付加する能力である。大技であるほど炎は大きく、近接攻撃時ほどの威力はないが飛び道具としても用いることができた。
「ほー、今のを食らってあの程度のダメージかよ。先が思いやられるぜぇ。手下でこれじゃあ親玉殿はどんな怪物なんだっつの」
なぜかのんきにアギトが感嘆を零した。
(敵に関心している場合?)ルカは呆れつつ、再び攻撃に移るべくジンガを再開する。
だがその瞬間、魔臣が唯一何も持たない手を大きく頭上に掲げた。ぐるぐるとゆっくり二回転させると、両目の赤色がギラリと光を増した。
すぐに口から、不気味で毒々しい低音の唸りが発せられ始める。お経のようではあるが、ルカ達には理解のできない禍々しい言語だった。
「いけない! あれを止めなきゃ!」切羽詰まったハクヤの叫びの直後、頭上の血赤色の星の一つが、魔臣の瞳に呼応するかのように輝いた。
疾風のごとく駆け抜けたハクヤが、魔臣の一歩手前でダンッと踏み込んだ。鉛直上向きに逆足を上げてきて、水平一直線に脚を伸ばす。
ヨプチャチルギ(横蹴り)が魔臣の頭に飛ぶと、わずかに遅れて黒い影も同じ軌道を描いた。魔臣の頭から、ゴガッと鈍い音が二度する。
ハクヤの念武術は「幻影追随」。テコンドーの技による攻撃時、実体の蹴りに一瞬遅れて幻の脚がついていく力であり、大概の場面で攻撃を二回当てられる効果があった。
とてつもない急加速の後、魔臣の後頭部が地面と激突した。追撃すべく接近するルカは、地に伏す魔臣の邪悪で愉快げな笑みを目にした。
やがて遠くから、大きな物体が空を切る音がし始めた。ルカが視線を遣ると、先ほど鈍く光った星が徐々に大きさを増していっていた。
「こいつ!」焦燥に駆られるルカは、前方に大きく跳躍。左掌を地面について、斜め回転で宙返りする。渾身のアウーシバータ(前方宙返り踵落とし)だった。
しかし、閃光。魔臣に命中する寸前、ルカの視界は鋭い光により白一色に塗りつぶされた。
わずかに遅れて、耳をつんざくような爆音。ルカは凄まじい勢いで吹き飛ばされた。ノーバウンドで円形の部屋の壁に激突し、ガゴッ! 自分の体から聞こえてはいけない異音がした。
「がはっ!」一瞬ルカは呼吸が止まり、受け身も取れずに地面に落下した。全身を鈍い激痛が支配しており、頭にも脈動するかのような違和感が生じていた。
(立たなきゃ。立ってあいつを……)
無理矢理に己を奮い立たせつつ、ルカはどうにか顔を上げた。ハクヤはルカと同様、壁の近くで倒れ伏している。だがルカの視界の端で、一人の男が魔臣と相対していた。
アギトだった。敵意と決意に満ちた表情で、魔臣を鋭く睨んでいる。
大ダメージゆえか若干頼りない動きだが、ゆらゆらとした柔道の構えとともに魔臣を牽制していた。
威嚇するような視線をアギトに向けたかと思うと、魔臣はおもむろにブーメランを振りかぶった。と同時に、別の腕で持つ片手弓を引く。
二つの飛び道具がアギトへと飛来する。しかしアギトは、サイドステップで躱すと一気に魔臣に肉薄した。両手で魔臣の胴を掴むと、斜め上へと持ち上げる。
魔臣の身体は半円の軌道を描き、恐るべき速度で地面にぶつかった。明らかに通常の裏投げが出せる威力ではない。
アギトの念武術は「無双引力」。身体の中心から半径一メートルの空間の重力を、五〇から一五〇パーセントまで変化させられる能力である。
魔臣は、頭から落ちて仰向けで横たわった。
すかさずアギトは魔臣に近づき、巧みにポジションを取った。二の腕を首へと持って行き、逆の手とは握手する形で固定。自らのほうへ魔臣を引いて、全力で首を締め付ける。起死回生の裸締めだった。
六本の腕で魔臣が暴れる。斧や槍がアギトの顔を掠めるが、アギトはひるまない。
五秒、十秒。やがて魔臣の動きが弱まり、完全に意識が落ちた。
敵の気絶を見届けたアギトは、技を解いて立ち上がった。面持ちは苦しげだが、やりきったかのようなすがすがしい雰囲気を漂わせていた。
「アギト様、完・全・勝・利。悪辣なる化け物を完膚なきまで叩きのめしたってやつだ。皆の衆、好きなだけ讃えてもらって構わんぜ」
尊大な調子の勝利宣言とともに、アギトはサムズアップした。
ルカは痛みをこらえてどうにか起き上がった。やがてハクヤも、苦しそうではあるが起立した。
「ほんと助かりました。でもどうやって、さっきの攻撃を凌いだんですか?」ハクヤは興味深げにアギトに問うた。
「おめえらしからぬ質問だな。まあいい、教えてやんよ。答えは簡単。無双引力で、奴の放った流星の重力を半分にしたってわけだ。W=mgh、エネルギーは質量と高さだけでなく、重力に比例する。そいつが弱けりゃあ威力もがた落ち。っとまあこんな調子よ」
自慢げなアギトに、ハクヤは瞳を輝かす。
「おお、賢い! そんな利用法もあるんですね。いやー、さすがはアギトさん。冴えてる、冴えてる」
「……IQ180の天才格闘家に言われても、素直に喜べねえな。ってかおめえ、わかってやってんだろ?」
興奮を見せながらどこか軽薄なハクヤに、アギトは言葉を濁した。面持ちは不審げなような、苦々しいものだった。
茶番に辟易のルカは、パンパンと両手を叩いて気を引いた。
「アギトさんはお手柄でした。心の底から感謝してます。ハクヤも、あの追撃は追撃は効果的だった。でもしょーもない言い争いはそこまで。次が『本番』よ」
ルカはびしりと場を閉めると、二人の表情は真剣さの中に沈鬱を混ぜたようなものになった。
進行方向に視線を向けたルカだったが、数秒の後、視界から部屋の壁が消失した。最終決戦の地へと三人は誘われたのだった。
第三章 連戦〈restless battle〉
1
自首勧告の期限である十一月十八日になった。だが護国輔翼会からは何の通告もなかった。
十時になり、クウガ、アキナ、蓮の三人は、蓮の家から外に出た。家ではもう一人の神人が護衛役として、雪枝とともに残っていた。
「ついにこの日が来ちゃったね。降参してくれりゃあ、だーれも傷つかずに済んだけど、もう賽は投げられた。蓮くんのお父さんの敵の悪党どもだ。遠慮はなしでぼこぼこにぶっ潰しちゃうだけだね」
軽快な動きで屈伸をしつつ、アキナは平静な様子で呟いた。落ち着いた視線を向ける方向は、平安神宮。護国輔翼会の拠点があるあたりである。
瞑想するかのように目を閉じていたクウガは、アキナの言を受けて瞼を開いた。迂闊には近づけないような、抜身の刀のような鋭い佇まいを見せている。
「目標は一つ。首魁、水無瀬秀雄を初めとした護国輔翼会の外道どもを倒し、安寧を取り戻す。それを妨げるものは皆即刻排除! 問題ないな! 蓮、アキナ!」
有無を言わさぬ調子で宣言したクウガに、「もちろんだよ!」とアキナは声高に即答した。
「蓮」という初めての呼称に狼狽えるも、蓮は「了解!」と気持ちを切り替えた。
「あらあら、『即刻排除』と来はりましたか。血気盛んなことで。怖うおすなぁ」
おっとりとした京言葉が頭上から聞こえ、蓮は声の方向に顔を向けた。
道の少し先、十メートルはあろうかという木製の電柱の頂点に女の姿があった。朱色と白の銘仙(絹織物)と、胸の下にまで至る小豆色の女袴を纏っており、靴は黒色のブーツである。肩甲骨まで伸びた黒髪をお下げにしており、後頭部の朱色のリボンで締めていた。典型的な女学生といった出で立ちである。
薄化粧の上にわずかに頬紅を用いているようで、眉には眉墨、唇には紅を上品に付けていた。ぱっちりとした目鼻立ちの別嬪で、歳は二十歳頃かと思われる。
「何者だ」と、剣呑な調子でクウガが応じる。
「名乗るほどのものでもあらしまへんがなぁ。まあせっかくのご縁どすし、名前ぐらい教えるのも一興やろか。水無瀬葵依。護国輔翼会の長の一人娘や。よろしゅうおたのもうします」
場違いに緩慢な挨拶の後、葵依は雅に一礼をした。
「護国輔翼会の……。あんたが父さんを殺したのか!」蓮は強く詰問した。
「うふふ。そうとも言えるし、そうでないとも言えますなぁ。まあどちらでもそう変わらしませんやろ。肝心なのは、あんたはんの父親は既に失われてるゆうことと、あんたもすぐに同じ道を辿る運命やゆうことやさかいに」
蓮の怒りもどこ吹く風、嫋やかな微笑の葵依は他人事のような調子だった。
「先手必勝だ!」アキナは叫んで腕を振り、その場で一回転。遠心力を付けて、上方へとびしりとシャーパジラトーリオ(回転足刀蹴り)を繰り出した。
瞬時にアキナの頭ほどの大きさの、黒く燃え盛る火球が発生。唸るような音とともに葵依の頭部へと飛んでいく。
「あらあら、あきまへんな。嫁入り前の娘が、左様に血の気が多くてどうするん。折角の別嬪さんやのに、殿方に愛想尽かされてしまうえ」
葵依は驚いたような顔になったかと思うと、火球の衝突の直前にふうっと消え去った。
「逃げるのか、弱虫!」
アキナの子供っぽくも凛々しい挑発には、誰も応答する者はいなかった。