出羽長官の話によると、ここ地球防衛省庁舎の地下には巨大な空間が広がっており、それらは緊急時に首都機能を移すことが出来るよう設計されているらしい。具体的には、地下30階までを非常用倉庫として、後の100階までを居住区画、行政区画の二つに分けている。そして今、源たちは66階にある、行政区画第一研究ブロックに、エレベーターで向かっていた。その途中、長官が源に話しかけた。
「君は先の戦闘で自衛隊時代の記憶を失っているそうだが、それは全ての出来事を覚えていないのか?」
源は想定外の質問に戸惑いつつ答えた。
「全く覚えていないというか、何というのでしょう。頭の中のある部分だけが、もやがかかったように不透明なんです。断片的な記憶なら、何かの拍子に思い出すことはあるのですが……」
「そのある部分というのが自衛隊の記憶か」
長官は意味ありげに腕を組んだ。
「あの、その時に僕に何かあったのですか?」
「事故の詳細は聞かされていないのかね」
「はい、まだそれには時期が早いと」
長官はそれを聞いてため息をついた。
「いずれ知らなくてはいけないことだ。その時の記録のアクセス権を君に与える、自分の目で確かめろ。」
「長官、よろしいのですか?」
たまらず東雲がこっそりと尋ねた。政府サーバーへのアクセス権はこの時代厳しく制限されているのだ。
「いずれ国防の切り札となるかもしれない男だ。今の内からこれくらい与えておかねば後に後悔する」
長官はそう東雲にささやいた。当然源には聞こえていない。長官は続けた。
「いいか東雲、お前があの男を制御するのだ。あれの持つ力は今の我々にとって剣呑すぎる。この言葉、忘れるなよ?」
「……了解しました」
東雲がそう答えたタイミングでエレベーターが目的地に到着した。そして、ポーンという音とともに何やら物騒な機械音がすると、人ひとり分ほどもある分厚い二重扉が開いた。その先には、白衣姿の若い男と、重武装した自衛隊員が二人立っていた。
「お待ちしておりました、長官殿。そちらが例の?」
白衣の男はそう言って源を見た。その目には好奇の色が浮かんでいた。まるで心躍るような何かを見ているようだった。長官はその様子には全く気を留めなかった。
「そうだ。案内してくれ、狛江主任」
「もちろんです」
狛江主任はくるりと向きを変えると果ての見えない長い通路を歩き始めた。武装した自衛隊員たちは後ろに回った。その際になにやら東雲に挨拶をしていた。
「あの、僕はこれからどこに」
源は狛江主任に話しかけた。
「ああ、知らされていなかったのか。君にはいくつか身体的な検証をしてもらうんだ。だからこの階で一番大きい研究室に向かう」
(検証?いったい何をするんだ)
源はあれこれ考えてみたが納得のいく答えは見つからなかった。
「さあ、着きましたよ」
不意に狛江主任の声がした。
「ここが第一特殊研究棟です」
狛江主任がそばの壁に触れると、その部分に突如扉が浮かび上がった。
「最新式の実体ホログラムです。これが現時点の一番のセキュリティとなっています」
主任はそう言って扉に触れた。すると扉が瞬時に透明になった。これも恐らく実体ホログラムらしかった。主任はそのまま当たり前のようにその中に入っていった。源は少し抵抗があったが、長官が構わず中に入っていったので慌ててそのあとを追った。
第一特殊研究棟はその入り口からは想像できないほど広々としていた。
「これは凄いですね…。サッカースタジアムが丸々入りそうですよ」
源はその広さに圧倒されながらそう口にした。
「広さだけじゃない」
主任はそう言って手を挙げた。すると周りに林立していた実験機材や装置らしきものがひとりでに動き出した。そして開けた視界の先には、ある物体がパイプまみれの台座の上に鎮座していた。その様は宗教における偶像崇拝のような神秘性があった。
「これは……」
「怪獣のコアを再現したものだよ。もちろん危険性は除いてあるがね」
主任はどこか誇らしげだった。
「主任、まさかこれに触らせようとしているのかね」
不意に後ろから声がした。長官は表情を硬くしている。だが主任はひるむことなく続けた。
「ですから、危険性はすべて除去しています。我々が再現したのはあくまで怪獣の精神構造だけ。その過程で発生した自我は完全に消し去りました。」
「100パーセントそう言い切れるのか?」
その問いに主任は自信たっぷりに答えた。
「はい、もちろんです。まさか出羽長官、我々の技術力を疑っておられるのですか?」
「……分かり切ったことを。いいだろう、そのまま続けたまえ」
主任はやれやれと言った感じで首を振った。長官は……見るまでもないだろう。
「では源君、こちらに」
主任はそう言って源を例の物体の元へ案内した。そばまで寄ってみると、それはとてもきれいな曲線をしていた。まるで完全な球と言った感じだ。
「その曲面が気になるかい?でもその話をし始めると退勤時間をとっくに過ぎてしまう。さあもっと近くによって」
主任に言われるがままその球に近づいた。球からブーンという低い機械音が聞こえる。主任はその横で、タッチウィンドウを立ち上げると何やら素早く操作し始めた。すると二人の周囲に突如白衣姿の人間が出現した。正確には人間の姿をした実体ホログラムだ。主任は他に三つのウィンドウを立ち上げると源を見た。
「じゃあ早速だけど、まずは適合率を計らせてもらう。その球に触れてくれ、素手でね」
源は言われるままに手を触れた。球は少し温かかった。まるで生きているみたいだ。
「これは!」
突然狛江主任が叫んだ。
「すごい!こんな数値見たことも聞いたこともない。まさかこんな人間が……」
主任はぶつぶつと独り言をいいながら4つのウィンドウを見比べている。
「主任、結果は?」
少し離れたところから見ていた長官が尋ねた。主任の反応は尋常ではなかった。
「は、80パーセントです!」
「それは……!」
東雲はその値を聞いて驚きの声をあげた。
「常人の約100倍か」
長官は相変わらず冷静だった。
「主任、浄化の測定も…」
「言われなくとも今から実行します!」
狛江主任は興奮状態でまた新たに3つウィンドウを開いた。源は周りの驚きようが理解できなかったが、どうやら自分がある一点において前代未聞の結果を出したということはなんとなく分かった。
「さあ源君、今度は手をそれにかざしてくれ。君ならできる!」
主任から謎の励ましをもらった源は手を球から少し離した。しばらくすると、不意に頭がクラクラしてきた。源は立っているのもやっとの状態となり、遂にしゃがみこんだ。
「これは一体なんなのですか」
たまらず源はそう質問した。
「素晴らしい!まさか触れずに干渉できるなんて!」
主任は源の言葉など耳に入っていない様子だった。
「長官殿!確かに彼は千年に一人の逸材だ。ご覧の通り、完全な浄化には至らなかったものの、コアに直接触れず精神体を破壊している!」
東雲はそれを聞いて耳打ちした。
「出羽長官…」
「分かっている、次の活性期までに現地で使えるよう訓練しろ」
「了解しました」
そして長官は源を見た。
「源君、協力ありがとう、今日はここまでだ。狛江主任も一旦冷静になれ」
長官の言葉で我に返った狛江主任は口惜しそうに長官を見た。
「ですが長官、彼は戦略的な運用が可能で…」
「二度言わせるな、狛江主任。」
長官は鋭い口調で主任の発言を遮った。
「源君、立てるか?」
長官の問いに源はよろよろと立ち上がった。頭痛がするのか頭を押さえている。
「……僕は大丈夫です」
源はそう言って台座から危なっかしい足取りで降りた。
「今日の用事はこれで終わりだ。宿舎に戻って休みたまえ。明日は処理班の面々との顔合わせだ」
そう言って長官は源に歩くよう促した。
主任に見送られ地上に戻った後、長官と東雲は先ほどの研究棟よりさらに広い地球防衛省エントランスホールで源を見送った。
「なあ東雲、お前、俺が自衛隊からココに転属した時どう思った?」
「……一体どうしたんです?」
訝しむ東雲を尻目に長官は続けた。
「俺はやっとか、って思ったんだ。やっと俺の番が来たって」
「俺の番?」
「汚れ役ってことだよ。俺みたいなのは今じゃ時代遅れの野蛮人だ。そりゃそうだろうよ、俺がお前ぐらいの年のころに世界大戦があったんだ。その時の俺の仲間はみんな死んだ。お偉いさんもベッドの上で老衰だ。いまじゃ俺と総理ぐらいだろう、大戦前の世代は」
長官はなおも続けた。
「若い連中は俺たち死にぞこないにぴったりの役をあてがった。お前も見ただろう?俺が防衛費を5兆円も増やしたとき、世間は俺に対する非難の嵐だった。だれも俺の味方にはならなかった。」
ここで長官は言葉に詰まった。
「でもな、俺はこの仕事に誰よりも責任を感じてるんだよ。だから今日、源を見て思ったんだ。俺はまた前途ある若者を死地に追い立てるのかってな。」
「そんなことはないですよ、我々はいつもあなたのその振る舞いに敬意を持っている。少なくとも軍人は誰も長官を憎んでなんかいません。もちろん私もそうです。そして、彼もきっとそうだ」
「……すまない東雲。少し感傷的になりすぎたようだ。お前ももう仕事に戻ってくれていい」
「はっ」
東雲は長官に敬礼すると、庁舎を後にした。長官はその後姿をしばらく眺めると、またあの執務室へと戻っていった。
源は今、地下鉄に乗っていた。新たに配属される、怪獣特殊処理班は衛生環境庁の処理科に属している。その庁舎が新たに移転された国会議事堂の近くにあるため、こうして宿舎のある旧国会議事堂から地下鉄に乗って移動しているのだ。幸い、この二つは直通線が通っており、源はそれに乗っている。その行き先からか、源の周りには各省庁の職員や自衛隊員、そして本土守備隊の隊員たちの姿が見えた。一般人は一人も乗っていない様子である。
源はふと前を向くと、向かいの壁のモニターに繰り返し流れているニュース映像を見た。ニュースキャスターが順番に記事を読み上げている。
『おはようございます。今日の天気は晴れ、風量は2、砂嵐の心配はありません。』
源はそれを聞いてほっとした。今日は防塵マスクをつける必要はないらしい。というのも、怪獣の初出現に端を発した、資源をめぐる世界的紛争、第三次世界大戦によって、地球温暖化がさらに加速したのだ。その影響は当然日本にも波及した。局所的に砂漠化が起き、砂漠の飛び地は互いを吸収して、今に至るまでに中国地方、東北地方の大半が砂漠に覆われた。その砂漠の砂が時折砂嵐となって、居住圏まで流れてくるのだ。
ニュースは続く。
『まずは本土防衛関連のニュースです。次の怪獣発生予測が1か月早まることになりました。新たな予測時期はおよそ2か月後です。繰り返します、次の怪獣発生予測時期は二か月後です。」
怪獣の発生時期が早まるのは今年に入ってもう4度目らしい。第一次進攻以来、怪獣の発生サイクルは徐々に短くなっており、最初、数年周期だったのが、今ではたった3か月で次の怪獣が現れる。
『それに伴い、元旦から行われていた電波灯台ハートポイントの定期メンテナンスが延長され、各種弾薬補充も再度行われる見通しです。』
電波灯台ハートポイントは防衛の要だ。これが無くては毎回莫大なコストの損失と人的損害が出かねない。
『次に、政治経済関連のニュースです。昨日行われた国連サミットにて三神総理は、怪獣根絶を強く訴えました。三神総理は首相就任以来この姿勢を継続的に国内外に示し続けており、今回の件で一部官僚からはまたも疑問の声が上がっています。』
三神総理は出羽長官と同じ第一次侵攻前の世代だ。いくつもの政策を成功させてきた宰相だが、侵攻前世代特有の強硬さがあり、国会でもよくそれを追及されていた。軍部からの信頼が厚く、その地位はしばらく安泰だと言われている。
『また、本日の国会討論では、本土守備隊の独立問題について意見が交わされる予定であり、総理はこの件について言及を避けています』
源は隣をちらっと見た。本土守備隊の軍服を来た隊員が、2人座っていたからだ。2人は何事か言葉を交わしていたが、声が小さくて聞き取れなかった。本土守備隊は防衛戦線の拡大によって新設された部隊であり、今では自衛隊に比肩するまでに急成長した軍事組織である。この守備隊には近頃右的思想が流行しており、政府ではそれを危惧する見方が広がっている。
『最後にその他のニュースをお届けします。東京地方渋谷経済特区での連続失踪事件はいまだ解決の糸口が見えません。警視庁は夜の巡回を強化するとともに……』
そこでニュースキャスターの声をかき消すように車内放送が流れた。
『都営地下鉄中央線をご利用頂きありがとうございます。まもなく終点国会議事堂前です。お荷物をお忘れの無いようお願い申し上げます。お気を付けてご登庁ください。終点国会議事堂前です。』
しばらくして車内が明るくなった。地上に出たのだ。窓からは東京湾が臨める。太陽光を反射してキラキラと青く光るその地平線には、違和感しかない灰色の大小様々な塔が立ち連なっている。まるで巨大な墓場のように見えるそれは人類の生活を支える防衛設備、電波灯台ハートポイントだ。海の中にあってはまさしく灯台である。最大高さ1キロもあるそれは、陸からも充分に確認できる。源はその様子をまじまじと眺めていたが、他の乗客たちはまるで興味を示さなかった。彼らにとっては通勤途中の1風景に過ぎないのだろう。だがその美しい風景はすぐに遮られた。駅のホームに入ったのだ。源は他の乗客たちと共に駅のホームに降りた。
つい最近改修したばかりの国会議事堂前駅は、最新の設備がふんだんに盛り込まれていた。目的地である衛生環境庁の最寄り出口に向かう間、天井に出現するホログラムが、様々な広告を流していた。中でも本土守備隊の広告は目を引いた。まるで歴史の教科書に出てくるような旧時代然としたデザインで、旧日本軍を彷彿とさせる軍服に身を包んだ若い将校がこちらを指差している。ホログラムだからというのはあるが、明らかに周りから浮いていた。
動く歩道に乗って道のりを大幅にショートカットすると、議事堂前の大通りに出た。この通りに庁舎が集中しており、特に第三次大戦後にできた省庁が多い。源は人混みをかき分けるようにして進んだ。通勤時間とかぶっていたので特に人が多い。そしてその半分は外国人だった。東京は今ではアジア1の大都市であり、アジアでの復興事業の中心地として大いに栄えた。それは今でも続いており、世間では第二次高度経済成長期とも呼ばれている。
「あ、おい!」
不意に声がした。どうやら源に向けられたものらしい。
「おい、源。ちょっと待てって」
そう言って源の肩を後ろから声の主は掴んだ。源が振り返ると、守備隊の軍服に身を包んだ将校がこちらを見て笑いかけている。
「随分ひさしぶりだな、源。どうだ、びっくりしただろ?」
「えっと、ごめん。俺今記憶が……」
「ああ、そうだったな。いやまてよ、じゃあ俺のことも忘れてるのか?」
「…残念ながら」
それを聞いて将校はがっくりとうなだれた。
「えっと、ここだと邪魔になるから端に寄らない?あんまり時間ないけど」
大体5分くらいで切り上げないと遅刻してしまう。将校は源の言葉にうなずき移動した。
「じゃあまずは自己紹介だな。俺は神田明、自衛隊でお前と同部屋だった。しかしお前、口調までまるっきり変わってるんだな。別人みたいだ。」
「元はどんな口調だった?」
「何というか、斜に構えたような感じだったな。まあそれがお前らしかったんだけど」
「…そうなんだ」
何だか以前の自分が心配になってきた。
「こんなに変わってて何だか申し訳ないな」
「まああんなことになって無事で済むわけないんだし。生きてるだけましだろ。……あっ」
神田は不意に口をつぐんだ。まるで不謹慎な何かを言ってしまったみたいだ。一体何が気にかかったのか源は気になった。
「どうした?なんで途中で話を止めるんだよ」
「いや、これはこんな場所で俺が言うべきじゃない。自分で確かめてくれ、すまない」
と、どこか聞き覚えのある事を言って謝った。そうだ、昨日長官がエレベーターの中で言ったことと同じだ。確かあの時、なにかの記録のアクセス権を貰ったはずだ。
「源、俺はもう行くけど、何か困ったことがあったらいつでも頼ってくれよ。じゃあな」
神田はそう言って人混みの中に消えていった。急いでいる様子はなかったが、気まずそうだった。
また源は人の波にもまれながら、やっとの思いで衛生環境庁の前にたどり着いた。源は何回も踏まれた足先をかばいながら、正面入り口の自動ドアを通過した。
中は驚くほど静かだった。地球防衛省とは比べ物にならないほど小さなエントランスホールには、受付以外に人影はなく、閑散としていた。だが、そんな空間にひときわ目を引くものがあった。巨大な骨格標本である。その標本は天井から吊り下げられていて、周囲を威圧していた。その骨格はところどころ奇妙な部分があり、例えば、どう見ても哺乳類の骨格なのに足が6本あった。まるで宇宙人の様にも見えた。源はその標本に気を取られながらも受付に向かった。
「元自衛隊三等空佐の源王城です。処理科、特殊処理班の場所を知りたいのですが」
「特殊処理班ですか?少々お待ちください」
受付は源をチラチラ見ながらタッチパネルを操作していた。どうやら疑われているらしい。恐らく源と同じようにしてここを訪れる人はあまりいないのだろう。源が初めての可能性もある。
「確認しました、源様ですね。処理科は29階になります。そちらのエレベーターをお使いくだい」
どうやら身元の確認が済んだようである。源は受付の案内に従ってエレベーターに乗り込んだ。当然と言えば当然だが、地球防衛省のものよりずいぶん狭かった。室内にはインテリアなどは一切なく、その内装は旧市街地の設備を彷彿とさせた。
29階はこの庁舎の実質的な最上階だ。本当の最上階である30階は改修中だからだ。現場入り口の液晶モニターには『庁舎の規模縮小に伴う屋上緑地化について』と表示されていた。
源がフロアに入ると、入り口近くの職員が一斉にこちらを見た。何やら小声で囁きあっている。そんなに来客は珍しいのだろうか。源は真っ直ぐその中を進んだ。途中で曲がると、その先には特殊処理班と書かれた扉が見えた。なぜかその一角だけぽっかりとスペースが空いている。他の職員たちから避けられているようだった。源が扉の前まで来ると、後ろの職員たちの話す声が大きくなった。
「おい、あいつ特殊処理の前まで来たぞ」
「まじかよ、また増えるのか?」
「勘弁してくれよ、安心して仕事が出来やしない」
源はそれらの声を無視して扉の横についているインターホンを押した。するとすぐに扉が開き、どこからか声がした。
「時間通りだな、源君。もう他の面々は待機している。さあ、入りなさい」
恐らく東雲班長だろう。源は唾をごくりと飲み込むと、その中に足を踏み入れた。
ついに新しい仲間たちと対面だ。
源が扉の中に足を踏み入れると、そこは狭い空間となっていて、正面にもう一つ扉があった。
「一旦そこで立ち止まってくれ」
東雲は音響壁越しにそう言った。源が言われたままに部屋の真ん中で立ち止まると、微かな電子音がした。
「今のは金属探知だ。入室前の決まりだから覚えておくように」
この電子音は金属探知機の音らしい。恐らく盗聴器や隠し武器を警戒してのことだろう。
「チェックが終わった。今度こそ入室してくれ」
源はその声を聞いて目の前の扉に手のひらで触れた。すると、ガコっという音とともに扉が後ろにスライドした。源はそのまま扉の取っ手を掴み、重い扉を押し開けた。
「失礼します…」
そう言って入った室内には、東雲を含めて5人班員がいた。東雲以外、部屋の横に整列している。
「へえ、この人が」
と、そのうちの一人が言った。細身で色白で、学者の様に見えた。源を見る目はどこか哀れみや蔑みを含んで見えた。
「おいヤブ医者、初めての新入りだぞ?初っ端からカマかけてどうする」
横に立っていた男が小声で注意している。生憎、すべて丸聞こえだ。
「ひどいな、コレは元々だろ?」
「それを抑えろって言ってるんだよ」
注意した方はため息をついた。この二人の関係性が若干気になるところだ。更にその横には二人女性が立っていた。一人はどうやら立ったまま眠っているらしく、頭をうなだれている。そしてもう一人の方が肘で小突いて起こそうとしていた。中でも寝ていないほうは源と同世代に見えた。かなり整った顔をしていて、実用性重視で短く束ねたポニーテールと、キリっとした目元が実直さを醸し出していた。
源は彼らを横目で見ながら東雲が立っている机の前に立った。恐らく執務机であろうが、とても綺麗に物が整理整頓されていて、全く使用感を感じさせなかった。
「よく来てくれた、源王城。今日からお前は正式にここ怪獣特殊処理班の一員だ。まずは自己紹介をしておこう。」
東雲はそう言うと整列していた班員たちに目で合図した。源はそれに合わせて体の向きを変えた。まずは一番端の、小声で注意していた男からだ。男は前に進み出ると直立不動の姿勢をとった。源はそれを見て思わず息をのんだ。あまりにも動作が洗練されていたからだ。一切の筋肉を無駄にしない簡潔な動きはそれでいて一切隙を感じさせなかった。恐らく相当の人物なのだろう。今の米海兵隊でも通用しそうだ。
「副班長、赤本明石。班全体の護衛、監視を担当している。」
赤本はそこで一呼吸置いた。
「もしその能力にかまけて班の足を引っ張るようだったら俺が許さない。くれぐれも日頃の訓練を怠らぬようにしろ」
そう言って源のことを睨んだ。源は一瞬ひるんだが、表情は崩さなかった。
(ここでたじろぐようであれば、僕は信用してもらえないだろう)
そう思って耐えた。
「じゃあ次は僕だ。僕は諏訪部蒼志、獣医兼生物学者で、ここだと生体解析を担当している。さっきのやくざみたいな副班長と違って、心優しい非戦闘員だから是非よろしく」
後半の部分は赤本に睨みつけられていたが、諏訪部は全く動じていなかった。いつもあんな調子なのだろうか。
「私は白石燈、前の二人と違って一般の公務員上がりです。浄化を担当しています」
(まさかあの人も浄化を担当してるとは)
源は若干驚いた。
(浄化は確か僕でも耐えられないほどひどい吐き気と倦怠感があったはずだ。体調は大丈夫なのだろうか)
「ちょっと、起きてください!」
不意にそう囁く声が聞こえた。なんと今になっても白石の隣の女性は眠っていたのだ。
「ん、ああ。えっと、緑屋広葉です。解剖医です。経路確保を担当してます。」
緑屋はそう言ってまた寝始めた。源はなぜそこまでして眠るのか気になってきた。
「最後に、以前軽く紹介したが、ここ怪獣特殊処理班班長の東雲侑だ。全体の統率を担当している。この通り普通では無い連中だが腕は一流だ。次の怪獣駆除までにこの班員たちに追いつけるよう励んでくれ」
「は、源王城、鍛錬に励みます」
源は東雲に敬礼した。赤本の敬礼と比べれば子供の真似事のような敬礼だった。
「うむ、それで何か質問はあるか?」
この時を待っていた。源は昨日から気になっていたことを早速聞いた。
「それでは一つだけ、ここ特殊処理班の具体的な業務内容を知りたいのですが…」
「そういえばまだ詳しく説明していなかったな、ではこれを見てくれ」
東雲はそう言って机からウィンドウを出現させると、そこにホログラム映像を映し出した。
「我々の業務は、一重に怪獣のコアの完全な破壊だ。このように駆除された怪獣のコアを探し当て、そこの近くの臓器に侵入、浄化担当が直接コアに触れて浄化、つまり破壊する。もし仮にコアを完全に破壊しなければ、その中に宿る精神体が新たな素体を得て復活してしまう」
映し出された映像には、灰色のコアに触れる班員と、次第に灰色から透明に変わるコアの様子が確認できた。何やら皆白い制服を着て作業に当たっていた。
「着ている服が気になるか?これは特殊処理班のみが着用できる専用の防護服だ。最新の強化繊維と機械類によって迅速に怪獣の体内を移動できる。もちろんお前にも支給されている。服が白いのは、当然知っていると思うが、怪獣の血が赤ではなく黒だからだ。怪獣の血は人間にとって毒となるから、こうしてその血が付着した場所を分かりやすくしている」
そう言って東雲は服の全体が映った写真を見せた。どこかナチスドイツの兵士服を彷彿とさせる制服だった。そして皆ガスマスクとゴーグルをつけている。怪獣の死亡によって発生した有毒ガスから身を守るためだろう。そしてゴーグルは怪獣の黒い血液による視界不良を改善させるものに見えた。ヘルメットにも大きなヘッドライトがついている。
「そして、我々の業務はこれだけではない。」
東雲はスライドをすべて消して、新たに一枚の写真を映し出した。昨日見た怪人と呼ばれていた人たちの写真だ。
「ごくまれにだがこのように怪人も現れる。そう言った場合においても浄化を行う」
それは昨日聞いた。問題は…
「ですが、この人たちにコアは」
「コアはある」
「そもそもコアというのは、ベースとなった生物の脳が変形してできるもので、それは人間も同じだ。」
今度は東雲はスライドを出さなかった。余りにもその光景が凄惨だったのだろう。
「最後に言っておく。怪獣は紛れもなく我々の、人類の敵だ。怪人もそうだ。無意味な慈悲は持つな。お前の判断一つで日本が滅びる可能性もある。自分の職務の重みをよく考えて行動しろ。」
東雲班長の言葉は重く、源は自分の認識を改めざるを得ないことに気づいたのだった。
「ではいったん解散だ。赤本、部屋を案内してやれ」
「はっ」
東雲はそのまま椅子に腰かけた。それと入れ替わりに赤本がこちらに近づいてきた。
「ついてこい新入り、お前のロッカーまでは案内してやる」
「ついてこい新入り、お前のロッカーまでは案内してやる」
そう言って赤本は、源が何を答える間もなく、隣の部屋につながる扉まで歩き始めた。
「ちょ、ちょっと待ってください」
「どうした?」
赤本はなおも足を止めない。
「あの、ロッカー以外も案内してほしいんですけど…」
そこで初めて赤本の足が止まった。
「それはどういう意味だ?」
「えっと、それは。単純に他の設備とかも見てみたいなーとか……です」
(絶対調子乗ってると思われた!)
源は焦って、なんとかその誤解を晴らそうとした。
「お前、まさか俺のことを…」
「いやいや、まさかそんなことは!先ほどからの立ち振る舞いといい、とてもそんな気持ちは抱きようがありません」
「立ち振る舞い……確かお前、ここに来る前は航空自衛隊だったな」
「え?ああ、はい。確か富士大隊という所で1年ほど」
赤本は振り返って源を見た。
「富士大隊だと?お前、あの富士大隊か」
赤本は意外そうな目で源をまじまじと観察した。
(言われてみれば体つきが戦闘機乗りのそれだな。だが……)
「富士の連中は自衛隊一のエリートだ。実戦の数からして一般隊員の比じゃない。だから精神的にも熟達している奴が多いんだが。それにしてはお前、弱そうだな」
赤本はそうバッサリ言い捨てた。
「弱い…ですか。実は自衛隊の時の記憶が無くて、元はどうだか知りませんが、実際はもう少しはましなはずですよ」
源はむっとしてそう言い返した。
「いや、それはない。お前が記憶喪失なのは当然知っている。それを踏まえたうえで、だ。最初から思っていたが、お前のその以前との変わりようというのは、記憶の喪失だけじゃない、感情の変化もその要因に含まれている様に感じた」
「感情の変化、ですか」
「そうだ。源、お前ほっとしてるだろう」
源は予想外の問いに驚いた。
「ほっとしたって、なんでそんなこと」
(何にほっとしたというのだ)
「お前の細かな所作を観察した。歩き方、立ち方、話し方、もちろん表情も、その動きを見れば感情の機微もつかめてくる。お前の筋肉には通常よりも弛緩が多い。リラックスして、油断しているのが分かる。後は簡単な考察だ」
(そんな観察をものの数分で…)
「赤本さん、一体前職は何を?」
赤本は一瞬表情を硬くした。
「…お前と同じ自衛隊だ。」
「やっぱり。所属はどちらに?」
「そこまで答える必要はない。その代わり、一つだけロッカールームと別に紹介してやる。」
赤本はそれ以上の追及を避けるように今度はもう一つ横の扉に歩き始めた。
扉の前に着くと赤本は隣の壁に手のひらを当てた。するとカシュッと音がして扉がスライドした。赤本はそのまま中に入ると電気をつけた。
「備品倉庫だ」
そういう赤本の背後に奥で直角で降り曲がっている通路が現れた。通路の端には謎の機器が入った段ボールが山積みされている。
「この段ボールは…」
「旧式の装置類だ。うかつに捨てられるような代物じゃないからこうして一旦保管している。」
「もしかしてこれ、あの曲がり角の先にも続いてます?」
「だからここまで溢れてきてるんだよ」
赤本は崩れかけていた段ボールを体で押し戻した。二人がなおもその段ボールの山を進んでいくと、曲がり角を曲がった先にまた扉が現れた。側面にも一つついている。
「横の扉がロッカールームだ。今は扉が故障していて開かない。そして目の前の扉が現役の装備を仕舞っている第二倉庫だ。」
赤本は扉に手のひらを当てると、扉が乾いた音を立てて少し開いた。恐らくずっと使われてこなかったのだろう。
「まあこのくらい空いてれば充分か」
赤本はそう言うと振り向いた。
「今からこれを開ける。お前も手伝え」
源は理解が追い付かなかった。
「その扉、開かないんですか?」
「そうだ、いいから早く来い。いいか、せーので扉を引っ張るんだ。」
言われるままに源は少し開いた扉のふちを掴んだ。指の先に冷気が伝わってくる。倉庫は冷房がついているらしい。
「いくぞ?せーの」
赤本の合図とともに源は全体重をかけて引っ張った。案の定、電磁レール式の扉はびくともしなかった。と思った矢先、なんと扉が動き始めた。
「そのままキープしろ」
赤本は先ほどのトーンのままそう言った。とんでもない馬鹿力である。
そのまま扉は開ききり、全力を出して火照った体を倉庫から流れてくる冷気が冷やした。
「よし、このぐらい広ければ十分だな」
赤本は全く疲れの色を見せないままその室内に入っていってしまった。
(もしかして僕、この扉開けるために案内されたのか?)
源はしゃがみこんで息を整えた。
「あ、赤本さん。ちょっと待ってください」
赤本はそんな言葉を意に返さずどんどん奥に入っていった。そして、倉庫で一際でかい、人が丸々一人入れそうなカーボン製の黒い箱を持ち上げると、それをこちらに運び始めた。
「源、早くそこから端に避けろ。これは当たると痛いぞ」
そう言って赤本は黒い箱を備品倉庫から運び出した。
「その箱、何が入ってるんですか?」
「エアガンだ」
まさかの答えだった。
「エアガンって、あのエアガンですか?」
「正確には殺傷性空気銃だ。怪獣の体内はガスが充満していて火器が持ち込めない」
「そんなの、浄化作業に必要なんですか?」
「そういえばここのマニュアル読んでないんだったな」
「極秘扱いで…」
「まあ現地に行ってみれば分かる。あのマニュアルは結局役に立たなかったしな」
赤本はそう言って箱を開けた。中には折り畳み式のライフルが二丁入っていた。
「エアライフルだ。基本は俺と班長が携帯する」
赤本は丁寧に機関部を検査していた。
「…一回バラすか」
「お、エアライフル。久しぶりに見たなあ」
不意にそう声がした。源が顔を上げて見ると、もう一人の男性班員、諏訪部蒼志が立っていた。
「さっきはごめんね?俺、昔からああなんだよ。」
諏訪部はそう言って源に手を合わせて謝ってきた。
(なんて気持ちのこもっていない謝罪なんだろう)
源はその薄っぺらさに面食らった。
「源、しばらくそいつには慣れないだろうが、とりあえず何言われても聞き流しておけ。このヤブ医者は全部冗談のつもりで言っている。」
「なんだよ、今日はやけに機嫌がいいな。源君が入ったからか?」
赤本は手を止めた。
「…やるか?」
「まさか。僕が勝てるわけないだろ?」
諏訪部はそう言ってポケットに手を突っ込んだ。そして源を見た。
「源君、一か月後の浄化作業楽しみにしてるね。」
「はあ。って、俺が浄化するんですか!?」
「あれ?聞いてなかったの?浄化は基本ローテーションなんだよ。体の負荷が大きいからね。まあ適合者がいない国はほぼワンオペか、外部委託状態らしいけど。」
「それで僕が次の番ですか」
「その通り。白石ちゃんはもう3回連続で浄化作業してるからね。さすがに限界ってことだよ」
源は以前受けた適性検査を思い出した。ひどい吐き気とめまいで立っていることすら困難だった。それを本物の怪獣相手に3回連続は相当の負荷がかかるだろう。
(よく持ちこたえたな)
「そういう事だから源君、頑張ってね」
諏訪部はそう言うと奥の部屋に入っていった。おそらく通常勤務のための部屋だろう。中に事務机とパソコンが見えた。
「あのヤブも言ってたが、次の浄化作業はお前が担当だ。それまでの一か月間、東雲さんに最低限鍛えてもらえ。お前ら戦闘機パイロットは持久力ばかりで足腰が貧弱だからな。怪獣の体内は良く滑るし、起伏も大きいからすぐダウンするぞ」
赤本は一旦箱に銃を収めると蓋を閉じた。
(まさかあと一か月で初仕事になるなんて。でも決まったことは仕方がない。とにかく周りと差を埋めよう)
「赤本さん、案内ありがとうございました。皆さんの足を引っ張らないよう努力します」
「当たり前だ」
赤本は箱を持ち上げるとロッカールームに入っていった。
「頑張れよ」
赤本が部屋に入る直前、そう言ったように聞こえた。
次の日から源は、ここ特殊処理班での仕事を始めた。と言っても、入って間もない新人がデスクワークを出来るわけもないので、とりあえず、次の浄化作業で使うという空気銃、エアライフルの整備や、部屋の掃除などの雑用を任された。ただ、ライフル整備は雑用感覚でするものではないので、赤本に細かな構造を教えてから行った。
「源、お前中々手際がいいな」
「もしかしたら体が覚えてたのかもしれませんね」
「そうだな、手先が器用だとこちらも助かる。」
赤本はとても丁寧に教えてくれた。
(最初こそあんな対応されたが、実は口下手なだけで、案外優しいのかもしれないな)
源は上から目線にそう考察した。
「源、それが終わったらトレーニングルーム行くぞ」
「え、また赤本さんとですか?」
「東雲さんは少しお前に甘すぎるからな。この前の筋トレも本来なら更に追い込めたはずだ」
赤本はそう言って席を立った。今源がいるのはロッカールームだ。これが思ったより広く、作業用の机と丸椅子もあるのため、銃の整備にはもってこいである。
「あ、お疲れ様です」
赤本と入れ替わりに入ってきた白石は、律儀に少し頭を下げた。それに源も答える。
「お疲れ様です」
白石は真面目だ。源のような新参にも欠かさず挨拶をしてくれる。そんな白石は何やら自分のロッカーを物色している。源はさっと目を逸らしたが、すぐその必要はなかったことに気が付いた。白石がロッカーから引っ張り出したのは白い軍服だった。正確には特殊処理班の制服兼防護服だ。実物は映像で見るよりくすんでいて、白というより薄い灰色だった。それが染みついて落とせなかった怪獣の血であるということは、クリーニングに出して初めて気づいた。
「あの、白石さん。その服、ここの防護服ですよね?」
源は思わずそう尋ねた。実際に見て興味が湧いたのだ。
「そうですけど。それがどうかしましたか?」
白石は服を抱えたままこちらを振り返った。
「その服って何で出来てるんですか?」
「確かカーボンナノチューブを何層も折り重ねたものだと…」
「重くはないんですか?」
「軽いですよ。可動域も広いですし。公式には重量0.5キロと記載されています」
「そんなに!」
源はまじまじとその防護服を観察した。生地の質感は至って普通に見える。源がそうして服を睨んでいると、今度は白石が話しかけてきた。
「源さん、実は私からも少しお聞きしたいことが」
「なんでしょう?」
「源さんの…」
「源、終わったか?」
白石の話を遮るように赤本が部屋に入ってきた。
「すいません、あともう少しで終わります」
源は慌てて目の前の作業に戻った。白石の話の続きは気になったが、今はそれどころではなかった。
「なんだ、まだ終わってなかったのか。じゃあ今回はラントレ1セット追加だな」
赤本は源に容赦なくそう告げた。
(また死にかけるのか…)
源はうっすらと吐き気を感じた。赤本のしごきは東雲班長の比ではない。だが、なぜ赤本が源に入れ込むのかはさっぱり分からなかった。
源は手慣れた様子で機関部を所定の場所にはめ込むと固定器具でロックした。
「出来ました」
「よし、じゃあその二丁とも内部圧下げてそこにおいとけ。白石、それ備品倉庫に頼む。」
「……了解です」
白石は軽々とライフル二丁を持ち上げると、防護服と共に脇に担いで部屋を後にした。
「白石さんって…」
「腕相撲だったらお前が負けるな」
「え、」
源はしばらくそのことで頭がいっぱいだった。
「まあ白石はここに来て随分経つからな。それに元の運動神経が良い。確か格闘技を習ってたはずだ」
「うぷ、はあ、そう、うっ、ですか…」
(白石にそんな過去があったとは知らなかった。いや、それよりもまずは飲み物を)
「おい、何してる。今飲んでも吐くだけだぞ。」
赤本はそう言って源から水筒を取り上げた。今、源と赤本はトレーニングルームにいる。これは28階のフロアを丸々使ったとても大きなもので、怪獣の事後処理という肉体労働に従事する、衛生環境庁職員達にとって重要なものとなっている。もちろん特殊処理班もここを利用しており、基礎処理班に次いで二番目に使える部屋が多い。
「これで本当に最後だぞ、源。ほら、早く立て。」
赤本はそう源に呼びかけた。相変わらずバテる様子が見えない。これだけやって薄っすら汗がにじむ程度とは本当に同じ人間なのか疑問だった。
「…本当に最後ですね」
「本当だ。もう飯の時間だしな」
源は特に腹部に負担を掛けないようにゆっくり起き上がった。
「やりましょう、…うぐっ」
「よし、じゃあ今日はちょっと気分転換を兼ねて……」
赤本はそう言うと壁に取り付けられているタッチパネルをいじり始めた。
「…一体何を?」
「まあちょっと待て」
赤本がパネルを叩くと、目の前の鏡がガコっと窪んで扉が出現した。そして赤本がその扉を開けると、その中は全面畳張りの部屋だった。
「ここは……」
「柔道場だ。何、久しぶりに組み手がしたくなってな」
「その相手って、僕ですか?」
「他に誰がいる。安心しろ、俺は有段者だ。道着じゃないし、優しく投げ飛ばしてやる」
源はそれを聞いてがっくりとうなだれた。
(絶対手加減されないな)
源の予想通り、赤本は一切容赦しなかった。
「ッ……!」
源は声を出す間もなく投げられた。
「おいおい、そんなもんか?昨日も言ったろ、お前は足腰が弱いって」
赤本はそう言ってあおむけに倒れる源の顔を覗き込んだ。赤本はなんだか上機嫌である。
「そんな、一朝一夕で改善しませんよ……」
「はは、それもそうか」
赤本は笑って手を差し伸べてきた。源は縋りつくようにその手を掴むと何とか起き上がった。
「じゃあラスト一本はお前からかかってこい。安心しろ、流石に手加減はする」
(もう何も信じられないな……)
源は心の中でため息をつくと、渋々赤本と向かい合った。
「ハンデだ、源。俺は投げ技は使わない。お前は好きにしろ。柔道の技じゃなくてもいい」
「…分かりました」
源は赤本を見た。ただ直立しているようで、一切隙が見えない。多分俺が動き出したタイミングですでに決着はついているのだろう。
(でも、やられっぱなしもそろそろ限界だ。ここは一つ、アレに賭けてみるか)
源は腰を落とすとレスリングのような構えになった。
そして束の間、源は最後の力を振り絞って赤本に突進した。ように見せかけた。
(なんでもいいとは言ったが、タックルとは。少し絞りすぎたかな)
赤本は少し体の力を緩めて向かい合うような態勢をとった。このくらいは体で受け止められる。後は足を崩して終わりだ。源はそんな隙に、偶然か否か入り込んだ。
(行くぞ!成功してくれ!)
源は赤本の腕が届く直前でがくんと体を左に倒した。そして左足で片膝をつき、両手で体を下向きに支えると、勢いよく右足を赤本の胸めがけて振り上げた。
「……!おもしれぇ!」
(しまった!)
赤本はすかさず左手で、繰り出された右足をいなすと、足を掴んだまま体を源の右足と合わせてひねり、勢いよく引っ張った。源の体はぐんと引きずられ、そのまま赤本が背中から、体勢を崩して横たわる源にのしかかり、余った右腕の肘で源の喉を抑えた。
「まさか俺が隙をつかれるとは思わなかったぜ。やるな、源」
赤本はそう言うと源から体を離し起き上がった。源もなんとか上半身を起こした。
「はあ、はあ、何であれを対応できるんですか」
「いや、流石に卍蹴りは予想外だった。今のいなしもほぼ勘だ。もし東雲さんに同じことをやられてたら結構食らってた」
赤本は自分の水筒を取り上げると源に投げてよこした。
「まだ口付けてないやつだ。それ飲め」
「あ、ありがとうございます!」
源はよく味わうように冷たいミネラルウォーターを飲んだ。少し味がついているから中はプロテイン入りだろう。
「ふう、生き返りました」
「そうか、じゃあそろそろ切り上げるぞ。もう6時を回ってる」
二人はしっかり汗を拭きとると、源には湿布を張ってもらった。そして特殊処理班の部屋まで戻ると、
「それで、赤本。お前が珍しく張り切ってると思ったらこれか」
東雲班長は若干怒り気味だった。
「言ったよな?くれぐれも怪我はさせるなと。よりによってなぜ組手なんかしているんだ」
「……申し訳ありません」
赤本はさっきとは打って変わって、怖い教師に怒られる生徒のように小さく縮こまっていた。
(初めて汗かくところ見たな。冷や汗だけど)
源はそんな赤本の様子を横目で見ていた。この男、どうも東雲班長に弱いようである。
「はあ…。赤本、お前はおしばらく源とのトレーニングは禁止だ。」
「…了解しました」
「源も、もう少し自分の役割に自覚を持て。お前はこの班の虎の子なんだよ」
「すみませんでした…」
「じゃあ二人とも早く飯を食べて帰れ。もう本番まで一週間だぞ」
こうして源と赤本は、すごすごとロッカールームに引っ込んでいった。
東雲は応接室に一人残り、背もたれに深く倒れかかった。
(薄々気づいていたが、やはり赤本は源と相性がいいな。源をもう少し鍛えれば一連の作業もずいぶん楽になりそうだ。あとは一週間後に分かるだろう」
そしてきっかり一週間後、旧京都府に怪獣が発生、そして駆除された。