外は変わらずの銀世界で、雪は何事もなかったかのように静かにしんしんと降り続けていた———そうならどんなに良かっただろう。僕の淡い期待など当然のように掻き消される。
どれほどの年月が経ったのか。町は確実に時を進めているというのに、僕は一人、隔絶された世界に取り残されたようだった。
僕は足早に家へと向かった。収容所からの道のりは長かった。自分の足音がうるさく脳裏に付き纏う。自分は人間と何も変わらないのだと言い聞かせる。だがこの能力を手にしてそんな暗示など、何の意味もなさなかった。町の人の目が痛いほど刺さる。どこからか聞こえてくる声に過剰に反応してしまう。皆が自分のことを指差し、噂しているようで身が縮こまる。
人間とヒト。同じ姿形をしているのに、目に映る世界も、生きてゆく世界も、その全てが異なる。自分が人間ではなくなったことを思い知らされる。この能力で人間を支配することなんてきっと簡単なのだ。しかしそれゆえに、ただ穏やかに生きていたいだけの僕は、これほどの力を得て、この先どう生きてゆくのか。得体の知れないこの能力に、変わり果てた自分自身に、ただただ怯えるほかなかった。
あまりに心臓が高鳴るものだから、僕はだんだんと息切れがしてきた。全ての思考を停止して邪念を払おうとするのだが、そう簡単ではない。忌々しい能力を持ったことで、こんなにも惨めな思いをしなければならないのか。僕はじっと視線を落とし、黒にしか見えなくなった、ブラウンのはずの革靴だけを見つめ、努めて無心で歩いた。ただひたすらに家を目指して。
家は変わらずそこに建っていた。じっと主の帰りを待って。けれどあれほど待ち望んでいた我が家を前にしても、心の痺れは取れない。黒・白・青の三色の世界となった僕の家は近づこうとする者全てを拒むような、そんな雰囲気を醸し出していた。唯一の砦と思われたこの家にも僕は受け入れてもらえないのだろうか。そんな不安が胸を騒つかせる。
郵便箱は入りきらないほどの郵便物で溢れ、ネジは外れていた。肝心の郵便物はすでに原型を留めてはいなかった。かつては綺麗に手入れされていた庭の草木も美しい花たちも、もはや縦横無尽に自由奔放に、ただ生えそびえていた。変わり果てた我が家を目の当たりにし、僕はどれほどの時間あの収容所にいたのだろうかと、改めて呆然と立ち尽くしてしまった。
家の中はあの日のままだった。玄関には靴がきちんと揃えられ、鞄やコートが服掛けにかかり、全ての物たちはしっかりと彼らの居場所で眠っていた。そう、僕はきちんと生活を送っていたのだ。そこには人間らしさが見て取れた。僕は少しだけ安堵して気が抜けたのか、崩れ落ちるように玄関に倒れ込んだ。僕の周りは静かに氷が張っていった。
カチリ、カチリ。頭上で何かが静かに音を立てる。その音は心地よい一定のリズムを刻む。
秒針の音に我に返ると、彼はしっかりと自分の業務を遂行し、僕が知りたくてたまらなかった時間を教えてくれた。四時四十分。
外からは子どもたちの遊ぶ声が聞こえる。あの広場で駆け回る足音が、子の声が、町へ帰ってきたことを思い出させる。そうだ、間違いない。そろそろ夕刊の配達員がチリチリと自転車に乗ってやってくる時分だ。それをいただけば確かな年月がわかる。
逸る気持ちを抑えつつも、幾度となく窓の外を眺めてしまった。あの青年配達員はまだか、まだかと。いつもくたびれた服装で晴れやかな笑顔を向けてくれた彼は、かつて一度たりとも配達時間に遅れたことはなかった。しかしこの日、彼は午後六時を回ってもやってこなかった。そこで気づく。もう、我が家の前は通らないのだと。
仕方なく僕は、道に落ちている夕刊の端切れを拾いに出かけることにした。ふたたびコートを羽織り、慎重に歩みを進める。そして一枚の端切れが飛んできた。あの日からすでに十年の月日が流れていた。
この日を境に、忌々しい能力を制御しながら生きる、というただただ息苦しい生活が始まった。それは収容所で受けていた訓練とはまるで違った。あそこではいくら失敗しても失敗に過ぎず、看守から怒鳴られるだけで、本当に誰かが命を落とすわけではない。
どれほど縛られた生活であっても、どれほど隔絶された場所であっても、それは外界から守られた世界だったのだ。
しかし一歩外に出るとそこは常に死と隣り合わせだ。それも自分の死ではなく、他人の死と。何をするにも常に気を張っていないと、手の触れたものを途端に凍らせてしまう。一瞬の気の緩みが、取り返しのつかないことになってしまう。至極全うな人生を歩みたかった僕にとって、この能力との共存は恐怖と嫌悪の連続であった。
それは生き物に限った話ではない。ささやかな日々の生活すべてで起こるのだ。折角作った料理を盛り付けている間に全て凍らせてしまう。無様に凍りついた器、レンガのように固く凍りついたタオル、溶けては滴る水。
こんなこと収容所で何度も経験してきた。自身の失敗も他人の失敗も幾度も目にしてきた。それでもあそこでやるのと我が家でやるのとでは違う。全く違うのだ。ここでは一人。怒鳴ってくれる人も、馬鹿にしてくる憎らしい奴も、哀れな目で見つめてくる者も、誰もいない。孤独とやり切れなさが否応にも僕を痛めつける。家へ帰れば救われると思っていた僕が愚かだったのか。得てしまった力は邪魔者でしかなく、人生を絶望へと押し進めていった。
その後も僕の能力の対象となった可哀想な彼らは、凍っては溶け、凍っては溶けを繰り返し、みるみるうちに劣化していった。おかげで何度家具を買い替えたことか。金額は嵩み、一方でこれまでのようにまともな職に就けない———就く勇気の持てなかった———僕は、あらゆる家具を手放さざるを得なかった。家の中が空っぽになってゆくほどに、心にできた空洞も深く大きくなってゆくようだった。
万が一にも誰かの命を奪うことがあってはならない。それだけは決してあってはならない。家の中にさえいれば誰にも迷惑かけることなく生きてゆける。影を潜めて生きていくことこそがヒトに課せられた、僕に課せられた義務。そう、ヒトになったこと自体がそもそも罪なのだ。誰とも関わりをもってはならない。
そうして僕は百三十五年もの間、一人で生活を続けた。そう、僕は三十歳として、いや、三十歳の姿のまま、百七十五歳として、ひっそりと息を続けていたのだ。
どれほどの年月が経ったのか。町は確実に時を進めているというのに、僕は一人、隔絶された世界に取り残されたようだった。
僕は足早に家へと向かった。収容所からの道のりは長かった。自分の足音がうるさく脳裏に付き纏う。自分は人間と何も変わらないのだと言い聞かせる。だがこの能力を手にしてそんな暗示など、何の意味もなさなかった。町の人の目が痛いほど刺さる。どこからか聞こえてくる声に過剰に反応してしまう。皆が自分のことを指差し、噂しているようで身が縮こまる。
人間とヒト。同じ姿形をしているのに、目に映る世界も、生きてゆく世界も、その全てが異なる。自分が人間ではなくなったことを思い知らされる。この能力で人間を支配することなんてきっと簡単なのだ。しかしそれゆえに、ただ穏やかに生きていたいだけの僕は、これほどの力を得て、この先どう生きてゆくのか。得体の知れないこの能力に、変わり果てた自分自身に、ただただ怯えるほかなかった。
あまりに心臓が高鳴るものだから、僕はだんだんと息切れがしてきた。全ての思考を停止して邪念を払おうとするのだが、そう簡単ではない。忌々しい能力を持ったことで、こんなにも惨めな思いをしなければならないのか。僕はじっと視線を落とし、黒にしか見えなくなった、ブラウンのはずの革靴だけを見つめ、努めて無心で歩いた。ただひたすらに家を目指して。
家は変わらずそこに建っていた。じっと主の帰りを待って。けれどあれほど待ち望んでいた我が家を前にしても、心の痺れは取れない。黒・白・青の三色の世界となった僕の家は近づこうとする者全てを拒むような、そんな雰囲気を醸し出していた。唯一の砦と思われたこの家にも僕は受け入れてもらえないのだろうか。そんな不安が胸を騒つかせる。
郵便箱は入りきらないほどの郵便物で溢れ、ネジは外れていた。肝心の郵便物はすでに原型を留めてはいなかった。かつては綺麗に手入れされていた庭の草木も美しい花たちも、もはや縦横無尽に自由奔放に、ただ生えそびえていた。変わり果てた我が家を目の当たりにし、僕はどれほどの時間あの収容所にいたのだろうかと、改めて呆然と立ち尽くしてしまった。
家の中はあの日のままだった。玄関には靴がきちんと揃えられ、鞄やコートが服掛けにかかり、全ての物たちはしっかりと彼らの居場所で眠っていた。そう、僕はきちんと生活を送っていたのだ。そこには人間らしさが見て取れた。僕は少しだけ安堵して気が抜けたのか、崩れ落ちるように玄関に倒れ込んだ。僕の周りは静かに氷が張っていった。
カチリ、カチリ。頭上で何かが静かに音を立てる。その音は心地よい一定のリズムを刻む。
秒針の音に我に返ると、彼はしっかりと自分の業務を遂行し、僕が知りたくてたまらなかった時間を教えてくれた。四時四十分。
外からは子どもたちの遊ぶ声が聞こえる。あの広場で駆け回る足音が、子の声が、町へ帰ってきたことを思い出させる。そうだ、間違いない。そろそろ夕刊の配達員がチリチリと自転車に乗ってやってくる時分だ。それをいただけば確かな年月がわかる。
逸る気持ちを抑えつつも、幾度となく窓の外を眺めてしまった。あの青年配達員はまだか、まだかと。いつもくたびれた服装で晴れやかな笑顔を向けてくれた彼は、かつて一度たりとも配達時間に遅れたことはなかった。しかしこの日、彼は午後六時を回ってもやってこなかった。そこで気づく。もう、我が家の前は通らないのだと。
仕方なく僕は、道に落ちている夕刊の端切れを拾いに出かけることにした。ふたたびコートを羽織り、慎重に歩みを進める。そして一枚の端切れが飛んできた。あの日からすでに十年の月日が流れていた。
この日を境に、忌々しい能力を制御しながら生きる、というただただ息苦しい生活が始まった。それは収容所で受けていた訓練とはまるで違った。あそこではいくら失敗しても失敗に過ぎず、看守から怒鳴られるだけで、本当に誰かが命を落とすわけではない。
どれほど縛られた生活であっても、どれほど隔絶された場所であっても、それは外界から守られた世界だったのだ。
しかし一歩外に出るとそこは常に死と隣り合わせだ。それも自分の死ではなく、他人の死と。何をするにも常に気を張っていないと、手の触れたものを途端に凍らせてしまう。一瞬の気の緩みが、取り返しのつかないことになってしまう。至極全うな人生を歩みたかった僕にとって、この能力との共存は恐怖と嫌悪の連続であった。
それは生き物に限った話ではない。ささやかな日々の生活すべてで起こるのだ。折角作った料理を盛り付けている間に全て凍らせてしまう。無様に凍りついた器、レンガのように固く凍りついたタオル、溶けては滴る水。
こんなこと収容所で何度も経験してきた。自身の失敗も他人の失敗も幾度も目にしてきた。それでもあそこでやるのと我が家でやるのとでは違う。全く違うのだ。ここでは一人。怒鳴ってくれる人も、馬鹿にしてくる憎らしい奴も、哀れな目で見つめてくる者も、誰もいない。孤独とやり切れなさが否応にも僕を痛めつける。家へ帰れば救われると思っていた僕が愚かだったのか。得てしまった力は邪魔者でしかなく、人生を絶望へと押し進めていった。
その後も僕の能力の対象となった可哀想な彼らは、凍っては溶け、凍っては溶けを繰り返し、みるみるうちに劣化していった。おかげで何度家具を買い替えたことか。金額は嵩み、一方でこれまでのようにまともな職に就けない———就く勇気の持てなかった———僕は、あらゆる家具を手放さざるを得なかった。家の中が空っぽになってゆくほどに、心にできた空洞も深く大きくなってゆくようだった。
万が一にも誰かの命を奪うことがあってはならない。それだけは決してあってはならない。家の中にさえいれば誰にも迷惑かけることなく生きてゆける。影を潜めて生きていくことこそがヒトに課せられた、僕に課せられた義務。そう、ヒトになったこと自体がそもそも罪なのだ。誰とも関わりをもってはならない。
そうして僕は百三十五年もの間、一人で生活を続けた。そう、僕は三十歳として、いや、三十歳の姿のまま、百七十五歳として、ひっそりと息を続けていたのだ。