ブルー・ブライニクルの回想録

 僕は前方に板を見つけた。ただ真っ白な大きな板を。そこには正方形をかたどる線以外、何も描かれていなかった。唯一、右斜め上方向に小さなかすりのような黒い汚点があるだけだ。周りが白い分、その黒さが格段に目立っていた。一切の物音もしない、薄暗く、無機質な壁に囲まれた部屋で僕は一人、白い板を見つめていた。
 意識がはっきりしない。ゆらゆらと脳みそが揺られているような感覚が体全体を支配する。何も考えることなく、頭を回す気力もなく、流れゆく時間の中で、僕はまた、眠ってしまったらしい。再び目を覚ますと、今度は少し、周りの様子に目が向くようになった。
 ただの板は天井だったようで、僕はベッドの上に寝かされていた。隣に意識を向けるとそこには一つ、二つとずっと遠くまでベッドが整然と並んでいた。だだっ広い部屋に、誰がいるでもない空白のベッド。僕は体中にもの恐ろしさが広がるのを感じた。

 ここは病院なのだろうか。しかしなぜ病院にいるのだ。僕はぼんやりとした心もとない脳内を懸命にぐるりと回し、状況を掴もうとした。白い天井に何台も連なる簡素なベッド。要塞を彷彿とさせるこの飾り気のない壁。じっとこの壁を見ていると空気が薄くなり、息が詰まりそうで僕は咄嗟に白い天井に目を戻した。結局僕には、この天井を見つめること以外、できることはなかった。
 このとき僕は、今日一日、自分が何をしていたのか、思い出せなかった。そもそもそれは今日なのか明日なのか、朝なのか夜なのか、何もわからなかった。頭の中はぽっかりと大きな空洞ができたようで、クリスマスのクの字も出てこず、記憶はすっかり遠く離れたところへ隠れてしまっていた。


 針葉樹。凍りついた葉先。凍てつくような寒さ。突然、どこからともなくやって来た走馬灯が、僕の脳内を激しく駆け巡る。夢か現か。しかし脳裏にはこの景色が残像の如くしっかりと張り付いていた。意識が朦朧としながらも、どこか遠くの方で、けれどはっきりと、これは夢ではないと囁かれているような気がした。
 永遠に何度も繰り返し映し出される同じ光景。針葉樹。凍りついた葉先。凍てつくような寒さ。そして再び針葉樹。何かを僕に訴えかけているようで、それが何か、全くわからない。果てしなく抽象的で、どこか気味悪く、無性に不安に駆られる。
 ふと、違う光景が見えたかに思えた。靄がかかっているようで全貌はわからない。しかしそれは凍った湖面、いや海面のような、凍りついた水面に広がる無数のヒビ割れ、そんな情景が映し出されたようだった。
 僕はただじっと白い天井を見つめたまま、流れてくる光景を理解しようとおぼつかない脳内を必死に動かした。この景色はいつどこで見たものなのか。本当に現実なのか。一体何が起こっているのか。ベッドに横たわったまま、大きく深呼吸をし、この鬱々とした空気を吸い込んだ。だめだ。このままベッドに張り付いていては気が滅入ってしまう。

 僕はすっかり重たくなった頭を持ち上げようと両手に力を加えた。頭を持ち上げ、上半身を起こそうと、神経に命令を下す。が、何も起こらない。まあ長い時間この体制だったのだ、直ぐに動けなくても無理はない。再び両手に力を加える。思いきり腹筋にも力を加える。はずが、ベッドにめり込むように、深く沈んでゆくばかり。体は一向に動く気配を見せない。
 冴えぬ頭に動かぬ体。まるで金縛りにでもあったかのよう。体は全ての命令を無視し、しっかりと眠りについている。唯一目覚めているのは、文字通り僕の目だけであった。
 これは一体どうしたものか。身体の中に小さく蠢く何かがいるような気がして、僕は体を震わせた。結局何をしても僕の体は起き上がることを許してはくれず、仕方なく僕は、またひたすらに白い天井を見つめることとなった。


 どこからか微かに声が聞こえてきた。あの扉の向こうから聞こえてくるようだ。要塞の壁に反響するように、その声はうねりを打っていた。
何を言っているのかはっきりとは聞こえない。確かなのは外で遊んでいる子どもたちでも、その母親の声でもないということ。野太い男の声だ。二、三人はいるだろうか。聖歌を歌わせるのならバリトンが似合いそうな、恰幅のいい、そんな人を僕は想像した。
 その声はだんだんとこちらに近づいてくるようだった。声が大きくなるにつれ、なぜだか僕は、再び意識が朦朧としてきた。
 どこかへ引き摺り落とされていくような感覚。そちらへ行ってはいけないと僕の意識が全力で抗う。そんな小さな闘いも虚しく、今の僕に抵抗できるだけの体力は残されていなかった。されるがまま、僕は、深い眠りへと連れ去られていった。
 僕の意識はどこか知らぬ場所へ向かっていた。その直前、黒い人影を視界の片隅で捉えたような気がした。



 目の前が青一色で染まる。見たこともないほどの神秘的な青。ふわふわと宙を漂うような感覚。息が苦しい。
 鈍く白い光が僕の目を捉える。一匹の魚が僕の顔を掠めたようだ。彼の動きに沿って小さく波が立つ。次第に周りの状況が呑み込めてきた。ここは海の中だ。なぜこんなところにいるのか。しかしこのままでいいはずがないと僕の全細胞が喚き立てる。
 濃紺のオーバーコートに深緑のマフラー。そんなものでは耐え切れぬ、息も凍るほどの寒さ。冷たさ。それは次第に痛みに変わり、手足の感覚を奪い、体中にキリキリとめり込んでくる。耐え切れず僕は叫びを上げた。けれどそれは海の中ではあまりに無力で、ただ空気の泡となって暗闇の中に消えてゆく。海面がどちらにあるのかもわからない。地上へと導いてくれる光も無い。一瞬のうちに海底まで押し込められた僕は、手に当たった何かを拾い上げた。薄っすらと白い何者かに覆われた物体。先程見た魚の屍であった。

 目の前に広がる光景に息を吞む。僕は自分の体が小刻みに震えるのを感じた。寒さからではない。異常な数の海底生物の屍。後ろを振り返ると次々と生物たちが凍ってゆく姿が目に飛び込んできた。これはただ死んだのではない。皆、凍りついているのだ。尾鰭から背鰭、そして頭の先へ—。僕はこの凍てつく寒さの中、ただひたすらに怯えた。かつてないほどに。
 海の中で育つ一つの氷柱。小さくもろい氷柱は海底が近づくにつれ、太さと強度を増してゆく。海面から海底へ向かってゆくその姿は、すべての生物を困惑させるほど美しく、神秘的で、そして残酷であった。まるで魔の手のように忍び寄る氷柱は、海底にたどり着くと、底を這うように動き回り、静かに、でも確実に、生物を殺めていった。鋭く伸びたその氷柱は、死を生み出す指のようであった。
 青い世界に溺れ、もがき苦しむ僕に、その死の指はこちらへおいでと囁くように静かに迫ってくる。逃げなければと全身が警鐘を鳴らしているのに、僕の体は動かない。その神秘的な姿に、僕もまた、愚かに、酔いしれた—。

 一瞬にして硬直状態に陥った。息が詰まって、思考が停止する。
 ついに僕もその指に捕まった。捕まってしまったらしい。
 世の中奇怪な出来事というのは自分の身に起こっていないだけで、意外と身近なところで起きているのかもしれない。ただそれに気づけるかどうか、というだけだ。実際、誰一人としてその変化に気づく者はいなかった。周囲は皆変わらずこれまで通りの日常を過ごした。

 しかし僕は、変わった。誰しもが当たり前と思う、人間ではなくなったのだ。
 僕自身、自分の身に起こった出来事を正確に理解するまでにはかなりの時間を要した。深い眠りから目を覚ますと、僕は未だあの無機質な壁に囲まれた部屋で、ベッドの上に横たわっていた。相変わらず体は動かず、重力に従うようにベッドにしっかり沈み込んでいた。

 目の前には黒い服を着た男が一人、そこに立っていた。彼は警察官のような格好で、黒い丈の長いジャケット—ジャケットには意味を成さないであろう細かな装飾が施されたボタンが、九個ずつ左右に縦列していた—に黒いパンツ、そして同じく黒いロングブーツを身につけていた。
 彼は野太いバリトンの声の持ち主で、あのとき、遠くから聞こえた声の一人だったようだ。想像とは異なり、恰幅がいいとは程遠い中背より少し背の高い、どちらかと言えば華奢な男であった。彼は僕にあの日の出来事を説明してくれているようだったが、相変わらず意識が冴えていなかった僕は、その話を理解する以前に、耳に入ってきているかすら怪しかった。
 焦点の定まらない虚ろな目で天井を見つめたまま、僕は数日間、数ヶ月間をこのベッドの上で過ごした。それだけの時間が経っても僕はツリーを買いに行った日の出来事を思い出せなかった。あまりの衝撃に記憶から一時的に抹消されたらしい。自分にとって不幸で衝撃的な出来事が起こると、自己防衛のためその記憶を消してしまうことがある、とかいうやつだ。


 黒い服を着たその男は毎日三度、朝八時、正午、夜九時と同じ時間にやってきて、同じ話を繰り返した。一語一句違えることなく淡々と。一ヶ月か、二ヶ月か。その唱えを聞き続けた甲斐あって、僕は徐々に当時の記憶を呼び覚ましていった。あのクリスマスツリーを買いに出かけた日のことを。そしてあの時、僕の体の中で何が起こったのかをようやく知り得た。

「お前は『人間』としての生命を終えた。これからは『ヒト』として生きてゆくのだ」

 ある日その男は、突然そう告げた。
「変態しただけだ、正確な訓練を積めば何も恐れることはない」と。

 『人間』と『ヒト』。何を言っているのだ。変態?僕は自分の耳を疑った。僕が一体何になったというのだ。変わらず四肢は揃っており、視界も良好。いつもと違うところがあるとすれば、体がずんと重いだけだ。困惑する頭で、その意味を理解し、受け入れることなど到底出来るはずもなかった。

 変わらず男は日に三度、この部屋を訪れては人間とヒトの違いを繰り返し教え込んだ。聞けば聞くほど、人間が変態することやヒトという別の生き物の存在を知った衝撃などは些細に思えるほど、そこには恐怖だけが残っていった。人間とヒト、その二つの言葉の持つ意味を知ることは、先の見えない暗闇の中へ、僕を深く深く陥れていった。
 男は言う。

「ヒトとして生きていくにはとてつもない責任が伴う」と———。

 自分の身に降り掛からなければ知らないこと、理解し得ないことなんて、この世の中恐ろしいほどたくさんあるのだ。知ることで幸せになることもあるが、大半はその逆だ。できることならばヒトなど知りたくも関わりたくもなかった。
 もしあの日あの時間に出かけていなければ。あの道を通っていなければ。僕はあのまま人間として生きてゆけたのだろうか。ヒトという生き物の存在を知らずに済んだのだろうか。考えても仕方のないことが頭の中で虫の羽音のようにうるさく飛び回る。
 今までのごく平凡で穏やかな生活が奪われることは恐怖でしかなく、ヒトという生き物で生きていくことは絶望でしかなかった。ましてそれがこんな結末をたどろうとは、この時はまだ想像もしていなかった。
 変化も刺激も望んでいない僕が、ヒトとしての生に幸せなど何一つ見出せるはずもなく、ただただ一刻も早く、人間へ戻してくれと祈るばかりだった。


 ところで僕がヒトになったことで変わった点はいくつかある。そのどれもが僕にとっては喜ばしいものではなかった。
 一つ目。肌が青白くなった。元々肌は白い方でそこまで気にならないかと思えばそうでもない。白いと青白いは天と地ほどの差がある。これを神秘的だと言う者もいるが、僕には死人としか思えなかった—夏でも日に焼けないことだけが唯一の利点だったか———。
 二つ目。とにかく爪が伸びるのが早くなった。人間だった頃は週に一回でよかったが、毎晩欠かさず爪を切らなければならなくなった。そうでもしないと人間のなりをすることができなかったのだ。この爪を見ていると、あの日見た死の指を思い出して身震いしてしまう。
 三つ目。歳を取らなくなった。永遠に生きられる命を手に入れた。これを羨ましいと思うか、思わないか。少なくとも僕は後者だ。自分だけが何年も何十年も何百年も姿を変えることなく生き続け、親しい人が亡くなっていくさまを永遠に見送ることになるのだ。その人と共に歳を重ねてゆくことすら許されないのだ。
 四つ目。目に見える色が三色になった。目に映るもの全てが黒と白、そして青、この三色で構成されているのだ。それに伴って瞳の色も海に近い青色に変化するわけだが、もともと青色の瞳を持っていた僕にとっては、外見にさほど変化は見られなかった。
 五つ目。この世の全てを凍らせ、人間を、生き物を、殺められるようになった。それも易々と。こんなこと恐ろしくて声には出せない。だが事実。ヒトに備わっている能力、人間には決して持ち得ない、悍ましい能力なのだ。手を触れただけで、場合によっては息を吹きかけただけで、そのものは一瞬にして凍りつき、命あるものは目の前で音も立てずに呆気なく息絶えてしまう。

 あの日僕の背中に走った衝撃は、どこからともなく飛来した氷の破片にほんの一瞬触れたせいだったらしい。迸(とばし)りと呼ばれるそれは飛び火のようで、こういうことは、意図せず稀に起こるという。それを浴びた人間に訪れるのは死か、ヒトとしての生を受けるかのどちらかだと。一体どこからそんなものがこの世界に入り込んできたというのか。それを喰らった僕は、幸か不幸か、人間からヒトへ変態したというわけだ。
 そもそもなぜこんな現象が人間に起こり得るようになったのか。毎日やって来る男に尋ねてみたが、奇妙なほどぴたりと動きを止め、黙ったまま遠くを見つめるばかりで答えは返ってこなかった。都合が良すぎるじゃないか。と憤ったところで仕方のないことだとよく分かったが、僕は自分がヒトになったことを心底恨んだ。


 なぜ僕がヒトにならなければならなかったのか。誰もがなる可能性がある中で、なにゆえ僕がその対象に選ばれたのか。偶然か必然か。憤りの矛先をどこにも向けられず、ただ苛立ちが募っていった。
 あの日はクリスマスツリーを買って家に帰り、ゆっくりそして鮮やかに、部屋をクリスマスに彩る手筈を整えていた。これからやってくるクリスマスを盛大に迎え入れよう、そんな心意気であった。
 しかし気づけば僕は、真っ白な天井を見上げていた。お世辞にも居心地が良いとは言い難い、あの要塞のような場所は、ヒトになった者たちが強制的に収容される施設であった。

 この世にどれほどのヒトが存在するのか。圧倒的に人間が多いと聞かされている。基本的に人間はヒトの存在を知らない。というより我々の世界で、人間には知られてはならないという決め事が固く守られている。そのことを徹底的に叩き込まれる。
 そのため誤ってヒトの存在を知られれば、その人間からヒトの記憶は消される。記憶をすべて凍らせ、一気に破壊するのだ。そうすることで跡形もなくその記憶は見事に姿を消すという。記憶を消された人間たちは何事もなかったかのように、これまで通り生活を送る。ただ、ヒトの記憶はそのままだ———。
 ヒトは普段、人間のなりをして生きている訳だが、その術はそう簡単に身につけられるものではない。そこには計り知れない苦労が伴う。なり立ての頃は自分の能力の程度やその扱い方を知らない。意図せず突然物を凍らせたり、生き物を殺めてしまう恐れがある。そんな状態でこの怪物を世に放つわけにはいかない。人間と共存できると見なされるまで、この収容所での訓練は続く。
 収容所で自分の持つ能力を目の当たりにし恐れ慄くたびに、得体の知れぬ生物へ変わってしまったことを思い知らされた。怒りや苛立ちと同時に焦り、不安、悔恨、絶望、収拾のつかない混沌とした感情が、受け入れがたい現実を突きつけてきた。


 僕は早々にこの収容所での生活を終えた。何といっても家に帰りたかった。ただひたすらに帰りたかったのだ。あの家は僕を受け入れてくれるはずだとそう固く信じていた。いや、信じたかったのだ。
 その強い思いで過ごしていた僕は、驚異的な速さで制御法を身に付けたらしい。それは看守たちでも驚くほどだった—あのバリトンの声帯を持つ男たちは、ここの看守であった———。
 収容所での生活は全くと言っていいほど自由がなかった。僕が収容所へ入った頃は、十五人ほどの老若男女が同時に訓練を受けていた。
 小さな少年に腰の曲がった老婆、求婚者が後を絶たなかったであろう顔立ちの整った青年や目つきの悪い少女。いつでも身なりをかっちりと整える四十そこらの男に今にも泣き出しそうな表情を見せるどこぞの夫人。
 皆一人一人に部屋が与えられ、それは地下一階と地上二階、三階に割り振られていた。上の階へ向かうほど部屋は広くなり過ごしやすくなるそうだが、それはその分ここで長く生活していることを意味する。

 僕の部屋は地下一階、廊下の一番奥にあった。約八十平方フィートほどしかないこの部屋は、真っ白な薄く硬いベッドが無機質な壁に沿って一つ置かれているだけで他には何もなかった。限りない清潔さが、人間らしさを掻き消しているようだ。窓もなく、時計もなく、正確な月日も時間もわからない。扉のついた四角い箱に閉じ込められたような感覚。
 我々は毎日決められた時間に起こされる。僕はヒトになって聴力まで上がったのか、看守が部屋の前の廊下に通づる階段を降りてくる、その微かな靴音だけで目が覚めるようになった。
 看守が部屋へ入ってくるとまず部屋の中を隈なく確認される。就寝中に誤って能力を解放し、部屋を凍らせていないか———。
 窓一つない部屋で朝かどうかもわからずに、その間ただじっと待つほかなかった。もしどこか一箇所でも、それがたとえ部屋の片隅〇・五フィートほどであっても、凍っている場所、凍ったと確認できる場所が見つかると、眠り薬で強制的に眠らされ再度睡眠訓練となる。お墨付きをもらえるまで何度も繰り返し行われる。

 やっとのことで我々は朝食にありつく。一階にある大広間でいただくのだが、睡眠訓練のおかげで十五人全員が揃うことはなかった。
当然そこでも訓練は続けられる。とにかく能力を制御することを体に叩き込むのだ。無意識下でも生活していけるように。
 仮に飯を凍らせてしまっても新しい食事が与えられるわけではない。時間が経過し、氷が溶け、水浸しになった飯を食べるしかないのだ。そうやって能力を解放することは悪だと刷り込む。自分一人だけがあの大広間に取り残され、看守に監視されながら水浸しの飯を食べる時の虚しさといったらない。

 闘技場のような大きな円形の部屋で行われる訓練は、それはもう悲惨なものだった。青黒い小気味悪い空間で、初めは誰一人として能力を制御できないものだから、部屋中凍らせては水浸しになり、滑るやら転ぶやら、なかには本当に殺気だった者もいて、真剣になればなるほど滑稽に思えてきて惨めさだけが増していった。 
 講義と実践、いかにも学校のような時間が流れてゆく。しかしそこに、人間の通う学校のような楽しさは存在しない。
 ヒトの歴史や我々が持つ能力とその恐ろしさについて———そんなこと教わらなくても嫌というほど体感しているのだが———といった、この先いつ役に立つのかもわからない講義はただただ眠かった。夜もまともに眠れないのだから当然だ。思い返しても腹立たしい。

 ただ、僕には正直そんなことどうだってよかった。講義も実践も繰り返せばいいだけのこと。それ以上に僕が耐え難かったのは、今が一体いつなのか、僕の周りはどうなったのか、何一つわからないこと。外の世界と完全に遮断されてしまうこと。町に出ることや、そこで出会う人たちとの関わりを好んでいた僕にとって、それはたまらなく我慢ならないことであった。
 クリスマスはもう終わってしまったのか。もしまだならば、あの日のツリーを買いに行きたい。

 そうして僕は収容所から解放される日を手に入れた。誰よりも早く制御法を身につけ、一方で誰よりもヒトになった現実を受け入れられていなかった。
 外は変わらずの銀世界で、雪は何事もなかったかのように静かにしんしんと降り続けていた———そうならどんなに良かっただろう。僕の淡い期待など当然のように掻き消される。 
 どれほどの年月が経ったのか。町は確実に時を進めているというのに、僕は一人、隔絶された世界に取り残されたようだった。


 僕は足早に家へと向かった。収容所からの道のりは長かった。自分の足音がうるさく脳裏に付き纏う。自分は人間と何も変わらないのだと言い聞かせる。だがこの能力を手にしてそんな暗示など、何の意味もなさなかった。町の人の目が痛いほど刺さる。どこからか聞こえてくる声に過剰に反応してしまう。皆が自分のことを指差し、噂しているようで身が縮こまる。

 人間とヒト。同じ姿形をしているのに、目に映る世界も、生きてゆく世界も、その全てが異なる。自分が人間ではなくなったことを思い知らされる。この能力で人間を支配することなんてきっと簡単なのだ。しかしそれゆえに、ただ穏やかに生きていたいだけの僕は、これほどの力を得て、この先どう生きてゆくのか。得体の知れないこの能力に、変わり果てた自分自身に、ただただ怯えるほかなかった。
 あまりに心臓が高鳴るものだから、僕はだんだんと息切れがしてきた。全ての思考を停止して邪念を払おうとするのだが、そう簡単ではない。忌々しい能力を持ったことで、こんなにも惨めな思いをしなければならないのか。僕はじっと視線を落とし、黒にしか見えなくなった、ブラウンのはずの革靴だけを見つめ、努めて無心で歩いた。ただひたすらに家を目指して。



 家は変わらずそこに建っていた。じっと主の帰りを待って。けれどあれほど待ち望んでいた我が家を前にしても、心の痺れは取れない。黒・白・青の三色の世界となった僕の家は近づこうとする者全てを拒むような、そんな雰囲気を醸し出していた。唯一の砦と思われたこの家にも僕は受け入れてもらえないのだろうか。そんな不安が胸を騒つかせる。
 郵便箱は入りきらないほどの郵便物で溢れ、ネジは外れていた。肝心の郵便物はすでに原型を留めてはいなかった。かつては綺麗に手入れされていた庭の草木も美しい花たちも、もはや縦横無尽に自由奔放に、ただ生えそびえていた。変わり果てた我が家を目の当たりにし、僕はどれほどの時間あの収容所にいたのだろうかと、改めて呆然と立ち尽くしてしまった。

 家の中はあの日のままだった。玄関には靴がきちんと揃えられ、鞄やコートが服掛けにかかり、全ての物たちはしっかりと彼らの居場所で眠っていた。そう、僕はきちんと生活を送っていたのだ。そこには人間らしさが見て取れた。僕は少しだけ安堵して気が抜けたのか、崩れ落ちるように玄関に倒れ込んだ。僕の周りは静かに氷が張っていった。
 カチリ、カチリ。頭上で何かが静かに音を立てる。その音は心地よい一定のリズムを刻む。
秒針の音に我に返ると、彼はしっかりと自分の業務を遂行し、僕が知りたくてたまらなかった時間を教えてくれた。四時四十分。

 外からは子どもたちの遊ぶ声が聞こえる。あの広場で駆け回る足音が、子の声が、町へ帰ってきたことを思い出させる。そうだ、間違いない。そろそろ夕刊の配達員がチリチリと自転車に乗ってやってくる時分だ。それをいただけば確かな年月がわかる。
 逸る気持ちを抑えつつも、幾度となく窓の外を眺めてしまった。あの青年配達員はまだか、まだかと。いつもくたびれた服装で晴れやかな笑顔を向けてくれた彼は、かつて一度たりとも配達時間に遅れたことはなかった。しかしこの日、彼は午後六時を回ってもやってこなかった。そこで気づく。もう、我が家の前は通らないのだと。
 仕方なく僕は、道に落ちている夕刊の端切れを拾いに出かけることにした。ふたたびコートを羽織り、慎重に歩みを進める。そして一枚の端切れが飛んできた。あの日からすでに十年の月日が流れていた。


 この日を境に、忌々しい能力を制御しながら生きる、というただただ息苦しい生活が始まった。それは収容所で受けていた訓練とはまるで違った。あそこではいくら失敗しても失敗に過ぎず、看守から怒鳴られるだけで、本当に誰かが命を落とすわけではない。
 どれほど縛られた生活であっても、どれほど隔絶された場所であっても、それは外界から守られた世界だったのだ。
 しかし一歩外に出るとそこは常に死と隣り合わせだ。それも自分の死ではなく、他人の死と。何をするにも常に気を張っていないと、手の触れたものを途端に凍らせてしまう。一瞬の気の緩みが、取り返しのつかないことになってしまう。至極全うな人生を歩みたかった僕にとって、この能力との共存は恐怖と嫌悪の連続であった。

 それは生き物に限った話ではない。ささやかな日々の生活すべてで起こるのだ。折角作った料理を盛り付けている間に全て凍らせてしまう。無様に凍りついた器、レンガのように固く凍りついたタオル、溶けては滴る水。
 こんなこと収容所で何度も経験してきた。自身の失敗も他人の失敗も幾度も目にしてきた。それでもあそこでやるのと我が家でやるのとでは違う。全く違うのだ。ここでは一人。怒鳴ってくれる人も、馬鹿にしてくる憎らしい奴も、哀れな目で見つめてくる者も、誰もいない。孤独とやり切れなさが否応にも僕を痛めつける。家へ帰れば救われると思っていた僕が愚かだったのか。得てしまった力は邪魔者でしかなく、人生を絶望へと押し進めていった。

 その後も僕の能力の対象となった可哀想な彼らは、凍っては溶け、凍っては溶けを繰り返し、みるみるうちに劣化していった。おかげで何度家具を買い替えたことか。金額は嵩み、一方でこれまでのようにまともな職に就けない———就く勇気の持てなかった———僕は、あらゆる家具を手放さざるを得なかった。家の中が空っぽになってゆくほどに、心にできた空洞も深く大きくなってゆくようだった。
 万が一にも誰かの命を奪うことがあってはならない。それだけは決してあってはならない。家の中にさえいれば誰にも迷惑かけることなく生きてゆける。影を潜めて生きていくことこそがヒトに課せられた、僕に課せられた義務。そう、ヒトになったこと自体がそもそも罪なのだ。誰とも関わりをもってはならない。


 そうして僕は百三十五年もの間、一人で生活を続けた。そう、僕は三十歳として、いや、三十歳の姿のまま、百七十五歳として、ひっそりと息を続けていたのだ。

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