カトリーヌとフローラ姫

 フローラ姫が頷くと、カトリーヌは立ち上がって、再び目を閉じた。実のところ、この魔法を使うのは、初めてだったので、彼女は少なからず緊張していた。その緊張を解くためにも大きく息を吸って吐いた。それから手を左右に向かって広げると、動きを止めた。頭の中で、全身に力が行き渡る様をイメージしながら、魔法の本で覚えた長い呪文を彼女は唱え始めた。すると、青ざめていたカトリーヌの顔に徐々に、血の気が戻りはじめ、ぐったりとしていた体は、急に生気を帯びたように活力が出てきたように見えた。フローラ姫は、魔法の力を目の当たりにして、思わず声が出かかったが、急いで呑み込み、カトリーヌの魔法が終わるのを待った。
 しばらくすると、カトリーヌは目を開き、また息を整えた。体の中から、瑞々しい力が吹き上がってくるのを感じ、ようやくカトリーヌは安心して微笑んだ。
 魔法が無事終わったことを知ると、フローラ姫も安堵して、声をかけてきた。
「どう、具合は?」
「おかげさまで、よくなりました」
元気になったカトリーヌを見たタムは大きく頷いた。
「魔法の腕をあげたようだな」
「そうですね」
彼女が素直に喜んで言うと、フローラ姫が訊いてきた。
「それってどういう意味?」
「今の魔法、初めて使った魔法なんです」
「まあ! そうなの? やっぱりあなた魔法の才能があるのね」
「それは分かりませんが、魔法がうまくいくと嬉しいです」
カトリーヌは、恥ずかしそうに、そう言った。 
「何はともあれ、元気になってくれてよかったわ! じゃあ、そろそろ開かずの間のところまで行きましょう」
 フローラ姫はそう言うと、ずんずん一人で歩き出した。カトリーヌとタムは、彼女に遅れずについて行った。
 廊下を歩いていくうちに、カトリーヌはなぜか天井が低くなっていくような錯覚を覚えた。思わず頭を下げて、かがんで歩きたくなった。しかし前を行くフローラ姫は、何も感じていないようで、どんどん歩いて行ってしまう。後ろを振り向くと、タムも歩きにくそうな表情を浮かべていた。
「タム、ここって何かがあるんですか?」
 眉をひそめながら、カトリーヌが尋ねてくると、タムは頷いた。
「前ここに来た時も歩きにくさを感じた。おそらく、魔法を使う者は通さないようになっているのだろう」
「それではフローラ姫が、気にせず歩けるのは」
「彼女は魔法を使わないからだろう」
 気がつくと、フローラ姫はずいぶん先まで行ってしまっていた。二人は行きずらさを感じつつも、なんとか前へ前へと進んで行った。途中から、猛烈な風が廊下の奥から吹いてきて、二人は床に踏ん張りながら、なんとか歩いて行った。一方フローラ姫は、二人の様子に気づかなかったので、一人でどんどん先へと進み、赤いドアの前に早々にたどり着いてしまった。振り返ると、二人の姿がずいぶんと遠くに見えた。
「何してるの、二人とも」
 見ていると二人は、引きずるように足を運んでいるのが分かった。さすがにちょっと不安になり、フローラ姫は今来た廊下を戻り始めた。しばらくすると、彼女は二人のところまで戻って来た。
「いったいどうしたの?」
 事情の分からないフローラ姫は不思議そうに訊いてきた。
「俺とカトリーヌは今、魔法のトラップにかかって、歩くのが大変なんだ」
「今、私達は嵐の中にいます」
 カトリーヌは、なんとか口を開くとそう答えた。二人が見るからに、歩くのが困難なのを見て取ると、彼女は眉間にしわを寄せた。
「なぜ私だけ平気なのかしら」
「それはそなたが、魔法を使えない者だからだ。どうやらここのトラップは魔法を使える者だけにはたらくらしい」
「まあ! それならどうしたらいいのかしら」
 彼女は腕を組んで考え出した。
「私にはたらかないと言うなら、どうしたらいいのかしら……」
 二人が難儀そうに歩くのを見つめているうちに、カトリーヌはぱちんと指を鳴らした。
「だったら私が連れて行けばいいのよ!」
そう言うなり、フローラ姫はカトリーヌをいきなり背負い、腕にはタムを抱えて、歩き出した。
「えっ?!」
 カトリーヌは声をあげた。どう見ても非力な様子のお姫様なのに、いったいどこからその力が出てきたのか、唖然としたのだ。タムも意外そうな顔をしてフローラ姫を見上げた。
「そんなにびっくりしないでよ。こう見えて、非常事態に備えて鍛えているのよ。私は!」
意気揚々と語ったフローラ姫は、その勢いのまま、小走りで走り出した。
 だだだっと走っていくうちに、二人にかかっていたトラップはいつのまにか消え去り、苦悶の表情を浮かべていた二人はようやく落ち着いた。そうして、三人は無事に赤いドアの前にたどり着いた。
「ありがとうございました」
「いや、助かった」
二人が口々にそう言うと、フローラ姫は、えへんと一つ咳払いした。
「まあ、私がいればこんなもんよね」
 彼女はそっくり返りそうな勢いで、そう言った。
「それより、このドアほんとに鍵がかっているの?」、
 三人の目の前にある角ばった赤いドアは、中央に大きなト音記号の飾りがぐるりと彫られていた。ドアノブは金色に輝き、その下には四分音符の形をした鍵穴がこさえられていた」。
「ずいぶんとおかしな形の鍵穴ね」
 フローラ姫は、鍵穴を覗き込んだ。しかし中は真っ暗で何も見えなかった。それから彼女はドアノブをゆっくり回してみた。しかし、ドアが開くことはなかった。
「とりあえず、思いつく限りの魔法の呪文を唱えてみます」
 カトリーヌはそう言うと、本で覚えた鍵にまつわる呪文をひとつずつ試していった。あれも駄目、これも駄目。次々と呪文を唱えていったが、どれもしっくりこない。せっかくドアの前まで来れたのに、ここで諦めるわけにはいかなかった。それは三人とも同じ気持ちだった。
「どれ、今度は俺が呪文を唱えてみよう」
 カトリーヌが一通り、呪文を唱え終ると、タムがそう言ってあとを引き継いだ。彼もまた思いつく限りの呪文を唱えてみたが、ドアはぴくりともしなかった。二人の様子を見ていたフローラ姫は、顔に手をやり唸った。
「今までのことを考えると、ひょっとしたら魔法を使ったらいけないのかもしれないわね」
 考え深げに言う彼女に、タムは言った。
「魔法を使わずに鍵を持ってこいってことか。しかし鍵を見つけるのは至難の業だな。きっとパーリヤが肌身離さずに持っているに違いない」
「そうねえ、そうとも言えるけど。でも鍵穴が音符の形をしているんじゃあ、普通の鍵では開かなそうね」
「音符とはなんだ」
 タムは耳慣れない言葉に、眉間にしわを寄せた。
「音楽を奏でるために必要な記号のことよ」
 フローラ姫が教えると、カトリーヌは大きく頷いた。
「楽譜に並んでいる記号のことですね」
「あら、あなた楽譜見たことあるの?」
 意外そうに言うフローラ姫に、カトリーヌは相槌を打った。
「本に載ってました」
「それはきっと音楽に関する本だったのね」
「ええ、そうです。世の中には歌というものがあることを知りました」
「あなた、歌聴いたことないの?」
「ええ、そうなんです。一度聴いてみたいとは思いますが」
「歌を聴いたことないなんて、それはとても損な人生だと思うわ」
「そうなんですか」
「そうよ! 今私が歌ってあげるわよ」
「えっ、歌えるんですか」
「そりゃそうよ。王女のたしなみでもあるのよ」
 彼女は得意そうに言うと、姿勢を正して歌い出した。それは、この国に伝わる古くからの歌だった。フローラ姫は、軽やかな声で、歌い出した。

いつかたどりし まだ見ぬ大きなる大地
海の向こうに 何があろうとも
おお 懐かしき 故郷よ
父よ母よ いつかまた
我戻るその日を信じ 
勲をあげよう 青き竜を追う
羽ばたく翼 赤き炎
地に落ちながらも
我が心 いざ行かむ
おお 懐かしき 故郷よ
月が沈み 悲しみに覆われても
我が心は 安らかに眠る

フローラ姫の透き通った声は、カトリーヌの心の中に響き渡った。昔どこかで聴いたようなフレーズは、懐かしさを感じずにはいられなかった。急にカトリーヌの目には涙が溢れ、見たこともない父と母のことを想わずにはいられなかった。そんなカトリーヌの様子にフローラ姫は思わず微笑んだが、伸びやかなる声でそのまま歌い続け、最後まで歌い切った。
カトリーヌは感動のあまり彼女に飛びついた。
 その時だった。赤いドアが、カチャリと音を立てた。それから風もないのに、ドアが勝手にきしみながら、ひとりでに開いていった。三人はびっくりして体の動きを止め、その成り行きを見つめていた。ドアが奥の奥まで開いて止まると、三人は互いに顔を見合せながら、そっとドアの中の部屋をのぞいた。部屋の中は真っ暗で何も見えなかった。
「あ、開いたわね」
 開口一番、フローラ姫は驚きの声をあげた。
「そ、そうですね」
 カトリーヌもびっくりした様子で言った。
「どうやらこのドアは歌を歌うと、開くようだな」
 タムがそう言うと、フローラ姫は大きく頷いた。
「そうねえ、そういうことよね」
 カトリーヌは今聴いた歌の余韻が収まらず頬を赤く染め、興奮気味にしゃべった。
「あの、歌って素敵ですね。こんなに素敵なものが世の中にあるなんて嬉しいです」
「私の歌が、そんなに気に入ってもらえるなんて感激だわ。でも世の中には、もっと素敵なものがあるのよ。あなたはもっとそれを知らなくちゃいけないわ。それにはまず、パーリヤの弱みをつかまなくちゃね」
 そう言って、フローラ姫は開いたドアの向こう側を指差した。部屋は暗闇と静寂に包まれていたが、いつか誰かがこのドアを開け放つのを待っていたかのようにも見えた。その証拠に、部屋の奥からかすかな香りが漂ってきた。
「この香りは、眠れし時の花の匂いです。部屋の中に誰かいるのでしょうか」
カトリーヌは怪訝そうな顔をした。
「行きましょう! 部屋の中に。でもこんなに真っ暗じゃあ、歩くのも大変ね」
 いても立ってもいられそうな様子でフローラ姫は勢い込んで言った。
「廊下を照らしているろうそくを借りてきましょう」
 カトリーヌはすぐさま廊下へ行き、ろうそくと、ろうそく立てを一本持ってきた。
「それでは行きましょう」
 カトリーヌを先頭に三人は、その開かずの間の中へと一歩踏み出した。まず最初に入った部屋は、がらんとしていて家具らしきものは何も配置されていなかった。ろうそくで、隅から隅まで見渡したが、何も見あたらなかった。フローラ姫は失望を露わにした。
「おお! なんてこと。ここまで来たのに何もないなんて」
 泣き出しそうな様子のフローラ姫に、カトリーヌは慌てて言った。
「待ってください。ここに何かあります」
 カトリーヌはろうそくを掲げて、それを見せた。
 それは壁にかけられた大きな肖像画だった。頭に冠を抱いた女性は焦げ茶色の髪を頭に巻き、手には王錫を持ち、青色の豪華なドレスに身を包み、にっこりと微笑んでいた。優しげな灰色の瞳は、どことなくフローラ姫を思わせた。
「これは王妃様ですか?」
カトリーヌは、絵にろうそくの火を照らしながら、訊いてきた。
「そうね、これは私の母の肖像画だわ。でもなぜ魔女の塔にあるのかしら……」
 フローラ姫はかぶりを振りながら、唸った。そのあと三人は部屋の隅から隅まで調べたが、あとは物らしいものは何一つなかった。
「困ったわね」
「この部屋の後ろに、また別の部屋があったりしないんでしょうか」
「隠し部屋ってことね」
 カトリーヌはこくりと頷いた。
「そうなると、ドアはどこにあるのかしら。もう一度探してみましょう」
 三人は再び探してみたが、ドアらしきものは見あたらなかった。
「ここで探索も終わりになっちゃうのかしら」
フローラ姫がため息をつくと、タムが鼻をくんくんさせながらこう言ってきた。
「いや、この香りは、この絵のところからたくさん匂ってくるな。やはりこの絵に何か仕掛けがあるんじゃないか」
そう言われて、フローラ姫とカトリーヌも匂いを嗅いでみると、確かに絵の辺りから、強い匂いがするような気がした。そこで三人は絵のあちこちを調べ始めた。額縁から始まり、王妃の冠の辺りを指でなぞってみたり、いろいろしてみたが、どれもこれも駄目だった。彼らは眉間にしわを寄せたまま、しばらく熟考していたが、カトリーヌが口を開いた。
「もう一度歌を歌ってみたら、どうでしょうか」
「歌を?」
「ええ、そうです」
「それもそうね、他にしようがないものね」
そこで、フローラ姫は、再び歌を歌った。彼女の声は部屋中に響き渡り反響した。カトリーヌはまたその歌声に魅了され、うっとりした。何度でもアンコールしたそうなカトリーヌだったが、歌っているフローラ姫は、気が気でなかった。もう一つの部屋へとつながるドアが、現れるかもしれないと思うと、あまり歌に集中できなかった。それでも最後まで歌い切ると、彼女は二人に訊いた。
「どう? 何か変化あった?」
 しかし二人は残念そうに首を振るだけだった。フローラ姫は、がっかりして、床に座り込んでしまった。
「ああ、駄目だわ。私は見たこともない隣国の王子と結婚しないといけない運命なんだわ。ほんと嫌になっちゃうわ」
 その言葉を聞いたカトリーヌは、歌を聴いた喜びも消え失せ、だんだんと顔が青ざめていった。もし、その隣国の王子の命を奪えと言われたら、どうしようか。考えるだけで、ぞっとした。ここでパーリヤに反旗を振らずに、どうするというのだろう。ともかく何か他にできることはないだろうか。私にあるのは、魔法だけだ。そう、魔法だけ……。そこで、いったん考えるのをやめると、カトリーヌはフローラ姫に言った。
「魔法でドアが現れないかやってみましょう」
「でもさっきのドアは歌で開いたのよ。魔法では駄目だったわ」
「けど、まだ試してないですよ」
 言われてみればそうだった。タムもそういえば、そうだなと頷いた。そこでカトリーヌとタムは魔法の呪文をかけあった。
ごく簡単なものから、難しいものまで、カトリーヌは本で知った全ての呪文を唱えることにした。タムもまた同じように唱えたが、全部唱え終えても何も起こらなかった。そして、いよいよカトリーヌも最後の呪文となった。それは本の中で一番古い呪文として記されていたものだった。これで駄目だったら、もうどうしようもない。カトリーヌは、祈るような気持ちで、最後の呪文を唱えた。するとどうだろう。今まで飾られていた絵が突然消え去り、もともと絵のあった場所には、角張った青いドアが突如現れたのだ。
「やったわね、カトリーヌ!」
「はい!」
 フローラに声をかけられ、カトリーヌも嬉しくなって返事をした。
「このドアには、鍵はかかっていないみたいね」
 フローラ姫は、青いドアに近づき、そう言った。なぜなら、そのドアには、鍵穴らしきものは、造られていなかったからだ。これでようやくパーリヤの秘密を握れると、三人は、ほっとした。フローラ姫は一呼吸おいてから、早速その青いドアに手をかけ、二人に言った。
「じゃあ、開けるわよ」
二人に心の準備を訊くと、二人とも同時に頷いた。
フローラ姫がドアを開け放つと、そこはまたがらんとした空間の部屋だった。部屋はしばらく闇に包まれていたが、突如天井に赤々とした火が灯った。上を見ると、見事なシャンデリアが、宙に浮いて輝いてた。
「シャンデリアが宙に浮いてるなんて、あれは魔法ね」
「そうですね。あっ、あそこに何かあります。あの黒い物はなんでしょうか」
そう言って、カトリーヌが指差したのは、部屋の隅にあった黒塗りのグランドピアノだった。
「あれはピアノよ」
「ピアノ?」
 カトリーヌは、不思議そうな顔をして、そのピアノを見つめた。
「あれは楽器なの」
「楽器?」
ますます困惑しているカトリーヌに、フローラ姫が言った。
「ちょっと説明するのは、面倒ね。いいわ、私がピアノを弾いてあげる」
「弾く?」
「そう、ピアノは弾くものなの。しっかり見てなさいよ」
 フローラ姫は、そう言うと、グランドピアノの椅子に座った。ピアノの蓋は既に開いていて、あとはもう弾くだけになっていた。彼女は指を鍵盤におくと、物悲しげな音色をさざ波のように打ち鳴らした。カトリーヌは徐々に高まっていくピアノの音を聴きながら、うっとりした。先程の歌も素敵だったが、このピアノとかいうものは、更に超越していた。美しいメロディーが流れていくうちに、この旋律はどこかで聴いたことがあるとカトリーヌは思った。
「なるほど、これは先程の歌と同じものだな」
タムが、そう言って唸ると、カトリーヌは、はっとした。さっきフローラ姫が歌ってくれた歌と同じメロディーであることに彼女も気づいたのだ。同じものであるけれど、全く違うものに聞こえ、カトリーヌは更にびっくりした。尚且つフローラ姫の指が、目にも止まらぬ速さで、鍵盤を軽やかに叩いていくさまは、音楽とともにカトリーヌに感動を与えた。あのか細い指から、こんなに素敵な音色を醸し出すなんて、まるで魔法みたい。
 それからフローラ姫はピアノを弾きながら、先ほどの歌を歌い出した。
『いつかたどりし まだ見ぬ大きなる大地
海の向こうに 何があろうとも
おお 懐かしき 故郷よ』
 ピアノの音はゆるやかな小川のように流れ、

『父よ母よ いつかまた
我戻るその日を信じ 
勲をあげよう 青き竜を追う
羽ばたく翼 赤き炎』
 鍵盤は勇ましく力強く叩かれ、フローラ姫の指は速まった。
『地に落ちながらも
我が心 いざ行かむ
おお 懐かしき 故郷よ
月が沈み 悲しみに覆われても
我が心は 安らかに眠る』
 ピアノは激しく叩かれ、次の瞬間弱々しい悲しげな音色へと変わっていく。そうして余韻を伴いながら、曲は終わりを告げた。
 ピアノと歌声のハーモニーに、カトリーヌは感動で声をつまらせた。その時だった。どこからともなくフローラ姫の歌声ではない別の歌声が聞こえてきた。
『私はマリア 永久に眠れず悲しみに覆われたまま』
「誰っ?!」
 ピアノを弾き終わったフローラ姫は慌てて椅子から立ち上がり、辺りを見回して叫んだ。
『恐れることはないですよ 私のかわいい娘』
 またその声が歌うようにしゃべった。声は…井の方から聞こえてきたが、誰の姿も見えなかった。
「マリア……」
 タムも驚いていたが、その名を呟き、難しそうに唸った。
「あなた様はひょっとして、フローラ姫の母君マリア王妃では?」
 宙に向かって、タムは呼びかけた。
『その通り 私はバイチェスカ国の王妃マリアです』
「母だなんて、嘘だわ! 母は私が物心つく前に亡くなったんですもの」
 息巻いて言うフローラ姫に、マリア王妃は言った。
『確かに私は亡くなりました。そして私は知ったのです。パーリヤにしてやられたことを』
「パーリヤにですって?!」
 フローラ姫は顔色を変えて叫んだ。
『私の食事に少しずつ毒を盛ったのです。そうして私は死に絶えました』
「でも…。でもなぜでしょうか。パーリヤさんは、なぜ王妃様を殺したのでしょうか」
 腑に落ちない様子でカトリーヌが訊くと、マリア王妃はこう答えた。
『私は王妃でありながら魔法使いでもありました。なので私がいると城の専属お抱え魔法使いとしての彼女の働き口がなくなってしまうのです。それとともに私の魔力も彼女は欲していた。魔力を手に入れるために私を殺し、私の一番思い入れの強いこのピアノを手に入れた』
「思い入れの強いピアノ?」
 眉間にしわを寄せながら、フローラ姫は鸚鵡返しに訊いた。
『あなたは知らないでしょう。私は魔法も得意でしたが、ピアノも得意でしたのよ。だからピアノには愛着があるのです』
 それを聞いたカトリーヌは、大きく頷いた。
「この間読んだ魔法の本に書いてありました。相手の魔力を奪うには相手が一番大事にしているものを封印しなければいけないと」
『その通りです。パーリヤはそれを実践したのです』
「でも王が、母の大事な形見をパーリヤになんかにやるのかしら」
『そうですねえ……。誰もがそう思うところですけど、パーリヤは言葉巧みに王に言い寄り、形見のピアノから遠ざからないといけないと忠告したのです』
「どうして、そんな見てきたようなことを言えるの?」
 まだ半信半疑のフローラ姫は、マリア王妃に尋ねた。
『幽霊になると、どんなところでも行けてしまうし、聞こえてきてしまうものなのです。私は宙に浮きながら、王とパーリヤのやりとりを実際聞いたのです』
 言葉の終わりの方は、とても切なそうな声だった。そうして彼女は言葉をもうひとつ付け加えた。
『それから彼女の悪巧みの気持ちも手にとるように分かってしまうものなのです』