校門の鉄格子は閉まっていたけど、乗り越えるにはわけなかった。鉄格子に片足をかけ、昇ってしまえば、あとは反対側に向かってジャンプするだけだ。わずかにガシャンと音が鳴って、K高校の敷地内に降り立った。潜入成功だ。
早朝につき、夏にしては気温がまだまし。
剥き出しのコンクリート校舎には人影もなく、寂しい印象だ。
目的地は校舎と体育館の間にある、綺麗に手入れされた花壇。
たどり着いた花壇の前にしゃがむと、鞄を開け、ゆっくりとプラケースにしまわれている人形(ドール)を取り出した。乱れたウィッグを手櫛で整え、皴になっているスカートを指で伸ばす。陽に照らされたガラスの瞳は、美しく輝いていた。人形はこの世において、いかなる美少女も敵わぬほどに可憐で、美しく、完璧な造形美をたたえている。
花壇のベゴニアを背景に人形をポージングさせ、スマホを構えて撮影ボタンを押す。写真を確認すると長方形の枠の中に、ベゴニアに負けず劣らない可憐な人形がそこに生きている。
たまらず頬が緩んだ。早起きして、暑い中汗だくだくになりながらチャリをこぎ倒して、こっそり学校に忍び込んだ甲斐があったというものだ。先日、ベゴニアが開花したことに気づいてから、ずっと人形の撮影チャンスを狙っていたのだ。
どこかから何かが継続的に跳ねる音が聞こえてきて、なんだろと思いながらも撮影ボタンを押したら、なにか違和感のある物体が画面に映り込んだ。おかしいなと思い、スマホから顔を上げると、花壇を挟んだ先にある体育館の扉がいつのまにか開け放たれていて、入り口にバスケットボールをドリブルしている緒方君が立っていた。
どうしてこんな早朝に緒方君が? 体育館からここまで、大声を張らないと届かないような距離なのに、私は緒方君と目が合ったような気がした。どうしよう、まずは人形を隠さなければ。急いで人形を鞄に仕舞わなければいけないのに、それができない。人形はものすごく繊細な造りをしているので、少しでも雑に扱えば、たちまち腕が外れ、ウィッグは絡まり、ブーツが破損してしまう。
「こんな時間に、なにしてんの」
人形を持ったまま、わたわたとタオルに包もうとしていたら、いつのまにか花壇の向かい側に緒方君が立ち、バスケットボールを片手に抱えたまま、私を見下ろしていた。
「え、いや、ちょっと、別に大したことは……してないよ?」
なんとも言い訳がましい。誰もいない校舎前の花壇で、左手に人形、右手にスマホを持つ私は不審者以外の何者でもないというのに。
「それ……なに?」
緒方君の視線が一心に人形に注がれていた。私はなんて答えたらいいのか捻り出すこともできず、
「これはね、人形(ドール)って言って、球体(きゅうたい)関節(かんせつ)人形(にんぎょう)、です」
馬鹿正直に返答してしまった。
緒方君は何か衝撃を受けたのか、いつもだるそうにしているわりには、驚いたように人形を見据えてる。
「へえ、キュウタイカンセツニンギョウっていうのか、それ……。それさ……服脱がしたりして、変な遊びでもしてるの……?」
おかしい、人形を持っているだけで、エベレスト級の“変態”だと認識されている。
「脱がすんじゃなくて、着せて遊んでるんです。さらにいわせてもらうとベゴニアを背景に、ちょっと写真を撮らせていただいていたんです」
せめて最低限の誤解を解かなければ。服を脱がせて良からぬことを妄想するタイプの変態仮面を被されるわけにはいかない。
「緒方君こそ、こんな時間に何してーー」
緒方君は花壇の向こうにしゃがみ込み、なんだか不思議そうに人形を見つめながら、
「バスケの朝練。もうすぐ、他の連中も来るけど、それ…、大丈夫なの」
はっとしてスマホの画面に目を走らせると、午前7時になろうとしていた。緒方君の言うように、運動部が朝練を始める時間だ。
「大丈夫じゃない、ありがとう、ごめんね、すぐに消えるから……!」
ここから退散しなくてはと、立ち上がろうとしたところ、扉が開いたままの体育館に、ジャージを着たバスケ部員数人が視界に入った。人形撮影に夢中になり過ぎていた。朝練の時間が7時からだということは、事前の調査でわかっていたはずなのに。
「早く、人形隠して」
一緒にしゃがんでいる緒方君の背中に遮られ、体育館前から人形は死角になった。
「あ、ありがとう、すぐに片づけたいんだけど、急ぐと人形を痛めてしまいそうで」
プラケースに収めて、人形を眠らせようとしたとき、緒方君を呼ぶ声が聞こえてきた。
「緒方、おまえ、そんなところで何してるんだ? 早くこっちこいよ、朝練始まるぞ」
しゃがんだ体勢のまま緒方君は後ろを振り向くと、部員に向かってふりふりと手を振った。
それを見た部員は「早くしろよ」とだけ告げると、また体育館に戻っていった。
「しまえた?」
「しまえた。ありがとう、隠してくれて」
「専用のケースは持ってきてないのか」
「専用のケース?」
緒方君が何のことを言っているのかわからなかった。人形専用のケースは相当かさばるので、学校に持ってくるわけにはいかないのだけど、なぜ専用ケースを普段私が持っていることを知っているのだろう。
「専用のケースは休みの日に持ち歩く用だから、学校には持ってきてないよ」
「そうなんだ」
緒方君はそのまましゃがんでいた。
「部活、行かなくていいの?」
いつまでも立ち上がらない緒方君が心配になり、聞いてみると「いや、よくない」と、花壇越しに伸びた脚が浮かび上がった。
「ほんとに隠してくれてありがとう。こんなとこ見つかったら、変態扱いされるとこだった」
体育館に戻る途中振り返った緒方君は、まるで面白いおもちゃを見つけたかのような目をしていた。
「俺は一路(いちろ)のこと、もともと変態だと思ってるけどね」
悪態を残した緒方君は体育館に消えていった。
今撮った写真をスマホで確認しながら、私は教室に向かった。狙い通り、ベゴニアに囲まれて佇む人形は無敵で最高にかわいく、いい写真が撮れたと満足。そのまま画像掲載アプリのインスタグリンにアップした。
緒方君が去り際に言ったことが少し気になった。私がもともと変態ってどういうことだろう。それに人形専用ケースを普段持ち歩いていることも、知っているようだったけど。どこかで見られでもしたんだろうか。
明日の休日に連れていく人形を、持っている12体の中から選んだ。腰まで届く茶色いロングヘアが下の方でカールしていて、焦げ茶色のお嬢様風ドレスを身にまとう淑女だ。この子が散歩しているところを撮影しよう。人形専用ケースにそっと収め、蓋をした。
ベッドに寝転がり、今朝、学校でインスタグリンにアップした人形の写真を開いた。閲覧数を確認すると25PV。相変わらず少ない。そもそも人形に興味がある人は少ないし、さらに素人が撮影した写真を見たいという奇特な人はさらに少ない。
仕方がないのかな、それとも私の撮影テクニックや人形にかける愛がまだまだ足りないのかな。溜息を吐きつつも「明日は近くの橋で撮影予定です。風が強くないといいな」と本文を投稿した。
寝る前。部屋の電気をまめ球にし、人形の写真に「いいね」をつけてくれた人をチェックしていると、初めて見るユーザがいた。アイコンはサボテンで、ユーザー名はサボ、だった。そのままだな、と思った。でもなんかかわいい。
そういえば緒方君て、サボテンみたいにぬぼーっとしているところがあるな。今までほとんど話したことがなかったけど、意外に話しやすかったような。今度、なんで私が人形専用ケースを持っていること知っているのか、聞いてみようと思いながら抱き枕を抱えた。
橋の上はやや風が強いけど、青い空が澄み渡り、雲はどこまでも広がり、いつも行く手を阻む窮屈なビル群は遥か遠くにあった。これ、これだよ、と私は自転車を漕ぐ速度を上げていった。橋の中央の欄干に人形を座らせて写真を撮りたい。世間を知らないお嬢様が、冒険に飛び出たような清々しい画がきっと撮れる。
うきうきして橋の中央まで到達したところで、私は目を疑いつつ、自転車を降りた。
「な、なんでいるの? 緒方君」
橋の中央で欄干に手をつき、立っているのは緒方君だった。
「今日、部活休みだったから」
「ほんとに? 運動部って土曜日部活あるんじゃないの?」
「……ほんとはあるけど、抜けてきた」
よく見ると緒方君は上は白Tシャツで、下はジャージだった。
「そういうことじゃなくて……、なんでこの橋にいるの?」
それが不思議だった。昨日、人形をかくまってもらって、今日は休日だというのに、こんな何のつながりもないところで、あれ偶然だね、なんてことがあるはずない。
「ここ、風が気持ちいいから、つい……」
つい、なぜこんな学校から離れた橋の上に。疑問が疑問を呼んだが、緒方君はそれ以上答えてくれそうもなく黙った。私としてはこれからここで人形を取り出し、パシャリパシャリと撮影をしたかったので、大変困ってしまった。
「それ、撮らないの」
自転車の籠に入れたままの人形専用ケースを緒方君が指さした。
「これが何か、わかるの?」
「人形が入ってるんでしょ。俺、以前、早朝に駅の改札で、一路がそのケースから人形を取り出して、写真撮りまくってるところ、見たことがある」
突然の種明かしに、もし今、コーラを口に含んでいたら、橋の端から端まで吹き飛ばしてしまいそうなほど、狼狽えた。
「いつ? いつ見たの? あれ、あれはええと、確か」
「三か月くらい前だね」
口籠っていると、先に緒方君がさらっと答えた。
「そう、三か月前、春だった気がする……。ええええっ、あのとき見てたの?」
「部活で遠征があったから、そのとき偶然見かけて、何やってるのかと覗き見てたら、そのケースから、それ、球体関節人形を取り出して、写真撮り始めたんで、驚いた」
驚いたのはこっちだ。まさかあの光景をクラスの男子に見られていようとは。あの日はお花見日和だったので、人形の撮影のため電車に乗って、桜で有名な大木槌公園まで行くことにしたのだ。そのついでに休日の朝は人波が少なくてチャンスと、駅の改札を人形が通るショットをちゃかちゃかと撮影していたのだ。
私は心底頭を抱えた。
緒方君にはこの先どうしたって、まともな人間だと判断されることはない。一般的な人には理解されない行動だから。
「私、人形が大好きなの。生きている人間より、よほど美しくて、妖精のように可憐な人形を、もっと世界中の人に知ってもらいたくて、生気が宿ったような人形の写真を撮って、インスタグリンに上げてるの。だからいつも人形を外に連れ出してるの」
息切れするほど、一気に捲し立てた。怖くて顔を上げられない。変態だ、馬鹿だ、頭おかしい、きちがいだ、あれ、全部同じ意味かな、なんていう言葉を散々今まで他人から投げかけられた。できることなら知人には見つかりたくなかった。
緒方君は特に表情を変えることなく、
「わかった、撮ろう」と、いきなり人形専用ケースに手を伸ばした。
「ど、どういうこと?」
何が起こっているのかわからず、ケースを掴んだ緒方君をおろおろしながら見守る。
「橋の上で人形を撮りたいんだろ、俺が手伝った方がポーズ取りやすいんじゃない」
と言いながら、ケースの蓋をパカッと開いた。学校の鞄にタオル越しとはいえ直に入れているときとは違って、人形の身体に沿ってくぼんだ箇所に、頭や、腕や、足がぴったり嵌め込まれている。
「壊れそうで怖いから、取り扱い方教えて」
言われるがまま、私は人形の扱い方を説明した。壊れ物を扱うみたいに優しく、だけど落とさないように胴体はしっかり握って、指紋が付くからうっかりガラスの目を素手で触ってしまわないように、関節は折れやすいから、無理して曲げないように。
「そういえば英語の例文で、”その人形は壊れやすいので、慎重に取り扱わなければいけない”っていうのがあったな」
ひととおり私から扱い方を習った緒方君は、人形をケースから取り出すと、持ち上げ大事そうに日にかざした。人形の細い髪が風に吹かれ、さあっとたなびいた。ケースに閉じ込められていた人形が、風を感じていた。
「その例文、覚えてる。fragiie(フラジール) 壊れやすい、だよね」
今にも動き出してしまいそうな人形が緒方君の手の中にあることが、なんだかくすぐったいような、うれしいような、不思議な気分になった。
「一路、英語苦手じゃなかった?」
「これだけは、覚えてるんだよね」
どうして私が英語できないこと知っているのか疑問だけど、それ以上に今日橋の上で偶然会ったことのほうがもっと大きな疑問だ。
「人形が例文に出てきたからだろ、どうせ」
「そうだよ、どうせ」
「……言い過ぎた」
緒方君は人形を持っている手とは反対の手で、私の頭にぽんぽんと触れた。
ほとんど話したこともないのに、なぜ頭をぽんぽんされるのかわからない。びっくりしたけど、嫌じゃなかった。緒方君によって人形が風を感じたように、私の髪も微かに風になびいた。
橋の上に人形を立たせることに緒方君は成功した。人形の足はかなり小さいので、そのままでは自立できない。実際の寸法よりサイズの大きい靴を履かせ、そのままでは脱げてしまうので、両面テープで一時的に足に靴を固定する。サイズの大きい靴で地面に着地させることで、人形は支え棒に頼ることなく自立できる。
「うまく考えるもんだな」
あきれているのか感心しているのかわからないけど、緒方君は無事人形の自立を見届け、胸を撫で下ろしていた。
「次は微風だよ。さっきまで吹いてた風が止んでしまったから、はい、これ」
「微風?」
「そう、微風。強風は人形が倒されるからいらないよ」
緒方君の手にリュックサックから取り出した携帯扇風機を渡した。
携帯扇風機を人形にかざしてくれる緒方君のおかげで、撮影に集中できた。両手でスマホを構え、縦横無尽に動き回りながら、被写体を捉えていく。人形は微風に吹かれポーズを決めていた。ふんわりしたスカートが風をためこみ、ますますふんわりとしていた。
「人、来てる」
助手となった緒方君から声がかかるたび、私たちは欄干に身を寄せた。早朝だから、そんなに橋を利用する人は多くないが、助手のおかげで早く気づくことができた。撮影をするにあたって、一般人に迷惑をかけることのないよう、これでも一応務めていた。
橋の上での撮影が終わると、人形を欄干に移動させた。欄干に座らせポーズを決める。真っ逆さまに落下してしまわないよう、人形のおしりにマジックテープを貼り付け、それから欄干に人形の幅で隠れる程度の、帯状のマジックテープを巻き付ける。その上に人形を座らせれば設置完了だ。
助手はてきぱきと働いていた。携帯扇風機をモデルに当て、ときに絡まった髪をほどき、スカートのしわを引っ張った。「ここまでする必要あるの?」と泣き言を漏らす助手に、「緒方君の献身的なお世話のおかげで人形が喜んでるよ」とはっぱをかけた。事実、今日の人形はいつもより頬が上気し、瞳が輝いているようにさえ見えた。
橋での撮影を終了すると、橋を渡り、河川敷へ移動した。練習中の少年野球チームや、ランニングしている老若男女を差し置いて、人形の撮影を再開した。河川敷は庶民みなさまの憩いの場所ゆえ。
「生き生きしてるね……」
緒方くんの呟きは、人形のこと、それとも私のことだろうか。
写真に収まると、一定のアングルからしか見られない人形は、ある意味ではそれ以上、手を尽くせない最上のかわいさを有しているが、今、物体として目の前に存在する人形は、実際にそこで息を吸い、日差しは暑く、うるさい野球少年の声に耐えながら、夏を楽しんでいるように見える。
ついうっとり人形に見入っていたら「手、止まってるぞ、早くしろよ」と助手に何度か我に返らされた。
「昼めし、どうするの」
人形をケースに仕舞いながら緒方君が言った。
「どうしよう、何も考えず家出てきたから、特に決めてないんだけど」と私は申し訳なさそうに笑うしかなかった。そもそも一人で行動するときには目的だけ決めて、食事のことは一切考えていない。
人形専用ケースと携帯扇風機を私に渡しながら、緒方君は口を開いた。
「俺のおじさんがやってる喫茶店が近くにあるから、行ってみる?」
「いいのかな?」
思いもよらない提案だった。
「いいと思うよ。しょっちゅう、来い来い言ってるし」
荷物を自転車の籠に入れ、自転車を押しながら歩こうとしたら、
「トレーニングになるから走りたいんだけど、自転車乗ってもらっていいかな」
緒方君が今にも走りたそうに、両腕をリズミカルに振った。部活抜け出してきた割に、真面目? 言われた通り自転車に乗った。案内をするように先陣を切って緒方君は走り出した。
「人形のケース揺れて大丈夫?」
「ケースの上に撮影道具がいっぱい入ったリュックを重しにしてるから大丈夫だよ」
「へえ、撮影道具あるんだね」
「今日は使わなかったけど、レフ板もあるよ」
「レフ板……」
「反射板のことだよ、光を直接人形に当てるのではなく、いったんレフ板に当てた光を顔に反射させることで、ガラスの眼にキラキラした光が入って、つややかな表情になるんだよ」
「本格的だね、今度はそれも使おう」
助手は一気に加速し、あっという間に離され、白いTシャツが前方に小さくなった。
「は、はや…い」
置いて行かれないよう、サドルを力一杯踏んだ。
カフェの店内には青々とした観葉植物がぽつぽつと配置されていた。星形のアルミでできた壁飾りがポップな横で、世界地図のポスターが張られていた。奥には壁に直接板を張り付けた棚があり、本や写真やゴジラのフィギュアなんかが飾られていた。床のフローリングは濃いダークブラウンで、どっしりと配置されたソファに座ろうもんなら、いっそのこと、もうずっとここで寝てしまいたいくらいの雰囲気があった。
「足、速いんだね」
通されたソファに座ったときに、私は相当ぐったりとしていた。自転車をあんなに一生懸命漕がされることになるとは思わなかった。
「一路が運動不足なだけだよ」
汗を滴らせながら緒方君は水を飲んだ。
私が運動不足なのは認める。体育では運動するふりだけをして、まともに上半身も下半身も動かしたためしがない。休日に自転車で遠出はするが、所詮、下半身の重心はサドルに預け切っている。
「どうせ、ふぬけた身体してるよ」
疲れた体がどこまでもソファに沈みそうだと思っていたら、緒方君はコップを置いて、私を上から下まで眺めた。
「そこまでは言ってない」
どっちでもいいけども、そんなにガン見されると恥ずかしい。
おしゃれなカフェの割に、お客さんはあまり入っていなかった。住宅街という立地のせいだろうか。
「なににしますか?」
眼鏡をかけた長髪をくくっている男性がオーダーを取りに来た。
アイスコーヒーを緒方君が注文したので、私も同じにした。店員は私に朗らかな微笑みを向けた。会釈することで、その微笑みに応えた。
「今の、おじさん……?」
「そう」
幾分か赤面し、緒方君は視線を反らした。
「やさしそうな人だね。私のこと、慈しみの眼で見たような。気のせいかもしれないけど」
「……一路の話したことあるから、多分それで、あんな顔したんだと思う……」
一体どんな展開になったら、私のことを話す機会があるのか不思議だ。
「なんで私の話したの?」
「クラスに人形に対して並々ならぬ情熱を抱えた変態がいるって、ネタでつい」
そりゃあのおじさん、絶対引いてるぞ。
緒方君はあらぬ方向を向いたまま、まだ目を合わせてくれない。
「アイスコーヒー、お待たせいたしました」
テーブルにラッパ上に広がったガラスコップに入ったアイスコーヒーが置かれた。この人が私のことを変態人形野郎だという目で見ているのだとしたら、と恥ずかしくて、私まで顔を上げられなくなった。
「それ、人形ですか」
頭上からおじさんのやさしい声が降ってきたので、おじさんの視線の方向を確認すると、人形が入ったケースのことを言っているようだった。
「はい。そうです」小さい声で肯定した。
「忍から色々教えてもらっています。まるで生きているかのように人形の写真を撮られるとか。僕も一路さんの写真拝見させてもらってるんですよ。よかったらこのカフェでも撮影してくださいね。うちのカフェ、ほら、あの、映えっていうんですね? すると思いますよ」
おじさんは私に自身のスマホの画面を見せた。そこにあったのは私がインスタグランに載せた人形の写真だった。人形は木陰に膝をついて座り、長い髪が風にさらされたように乱れているのが自然だった。
「緒方君からそんな話をですか? はい、ありがとうございます。ご迷惑をおかけしないよう、お写真撮らせていただきます。人形も喜びます」
立ち上がり、おじさんに向かって頭を下げた。
それよりも、だ。今、時系列がおかしくなかっただろうか。なぜインスタグランに人形写真を掲載していることを、緒方君は知っているのだろう。あくまで駅での撮影風景を目撃しただけではなかったのか。アイスコーヒーにさされたストローを回転させながら思案した。
「緒方君あのね、ここのカフェのマスコットかわいいよね」
氷がからんからんと涼しげな音を奏でる。
「そうかな」
「看板にイラストがあるわけじゃないけど、すぐ気が付いたよ。あそこの棚と、カウンターと、観葉植物のプランターの中と、ここ……」
アイスコーヒーのグラスを持ち上げ、敷かれていたコースターを指で挟み、緒方君に向けた。
「ここにも、サボテンのサボがいるよ。昨日、私のインスタグランに初いいね、をしてくれたユーザーとまるきり同じイラストだよ」
なんだそんなことか、とでも言いたげに、緒方君はストローを口に加えアイスコーヒーをごくりごくりと喉を鳴らしながら、一気に飲み干した。
「何が言いたいんだ」
あくまで白を切るつもりなのか。だけどそれは無理がある。ここまで条件がそろっていて、偶然であるわけがない。そもそも、ばれてもいいから「いいね」を押して、ここに連れてきてるんでしょ。
「サボは……お、がた……」
「ちがうよ。俺、人形になんか興味ないし」
ちがうわけないじゃないか。それならストレートにおじさんが、サボ、だとでもいうのか。本当はおじさんが人形オタクで、インスタグランに私の人形写真を見つけ、甥っ子に、ねえねえ、この人形かわいい、と教えたとでもいうのか。そんなことあるわけないだろう。
インスタグリンに「いいね」をしてくれたユーザーのアイコンのサボを見せたが、頑として緒方君は首を縦に振らなかった。仕方なくそれ以上問いただすのはあきらめた。
緒方君にならって、ストローを口に咥える。アイスコーヒーを飲んでいる間、緒方君は突然立ち上がると、店の奥へと消えていった。戻ってきたときには、私もアイスコーヒーのほとんどを飲んでしまっていた。
「飲み終わったら、一路も手を洗ってきたらいい」
「普通、逆じゃない? 飲む前に手を洗うんじゃないの?」
当然の疑問を投げると、緒方助手は首を振った。
「ちがう。人形を触る前に手を洗うんだ。人形が汚れたら災難だろ。さ、撮影始めるぞ」
それこそ、なんかちがう。逆、逆だ。どうして助手の方が乗り気になっているんだ。
「お手洗い、あっち」
「……」
うん、行くよ。助手の言うことは正しい
サボテンのサボがあらゆる場所から見守る中、inカフェの撮影会も、無事に終了した。私以上に撮影に真剣な緒方助手を前に、うろたえることもあったけど、協力者がいてくれることはありがたかった。これまでずっとひとりで撮影をしてきたので、画面に写る人形を見て、もうちょっと光を取り込もうとか、構図が平凡だ、とか言い合えるのは単純に楽しかった。
窓から夕日が差し込んで来て、人形を痛めてしまう前に、撮影会は終了になった。西日はガラスの眼をくもらせてしまう。
緒方君は最後まで自分をサボだと認めなかった。
その夜、お風呂から上がってさっぱりした頭で、今日撮った写真のどれをインスタグランにアップしようかなとチェックしていたら、人形に混ざって、私が写っている写真が出てきた。私は人形の髪を撫でていた。二人でカメラワークを決めているときに、私のスマホを何度か緒方君が手にするときがあった。そのときだろうか、これを撮ったのは。
人形を触っている自分を目にするのは初めてだった。不思議だ。人形はいつも完璧な美を備えている。それに比べて人間は、食べ過ぎれば太るし、変なところにニキビはできるし、髪はごわごわになるし、完璧な美とは程遠い。それでもここに写っている私は、なかなかにいい顔をしていた。少しでも完璧な美を世の中に届けたくて、知ってもらいたくて、懸命に被写体を整え、その被写体をさらに輝かせるため、カメラワークを模索する。そうした一連の動作に必死になっているときの自分は、美しくはないが、変な迫力があった。
見た目の美しさ以外の価値とは。美は正義だしなあ。
なんてことを思いながら、とびきりの可憐さを放つ人形の写真をインスタグリンにアップした。
ベッドの中でアップした写真の閲覧数や「いいね」を確認しようとマイページを開くと、「いいね」をつけてくれたユーザーのトップに、サボがいた。サボが脳裏で緒方君と重なった。
なんでこんなに協力してくれるんだろう。ここまでしてもらえることに思い当たるふしはなかった。人形に興味はないと言いながら、本当は乙女趣味の持ち主で、人形がかわいくて仕方ないんだろうか。やっぱり緒方君のことはよくわからない。
翌週の土曜日。学校近くの小高い山に私は向かっていた。背中にはリュックを背負い、人形を入れたケースはリュックの中に納めていた。山といっても、山道が整備されているので、緑を眺めながら、軽快に登っていった。
登っている最中、部活動をしている男子部員たちが、一斉に山道を駆け下りてきた。体力作りの一環だろう。部員たちはTシャツにハーフパンツの格好で、肩で息をし、額に汗をにじませていた。部員の中に、一人だけ下がジャージの男子がいた。その男子はすれ違いざま、私を凝視した。目は、おまえ、なにやって…、とでも言いたげだった。部員たちはあっというまに通り過ぎ、穏やかな風が戻った。
何度か立ち止まり、手をウェットティッシュで拭いてから、人形を取り出し、緑や下界の小さな建物を背景に、何枚か写真を撮った。私は山歩き用に動きやすい恰好をしていたが、人形は苦労を知ることもないので、バラのお花を胸元にあしらったレースのエプロンワンピースを着用し、髪も束ねることなく胸元と同じバラが施されたカチューシャを頭に巻き、山登りとは無縁の佇まいだ。
山の中腹まで登ったところに、砂地の広場が開けた。抽象的な銅像とベンチがあるだけの、何でもない場所だ。
指で砂をつまみ、はらはらと下に落とし風の角度を確認してから、ベンチに腰を下ろし、となりに人形を座らせた。そのまま人形の写真を何枚か撮った。入道雲をときおり仰ぎ見ながら、スマホでこれまで自分が撮影した人形の写真と、ネット上に掲載されている人形の写真を見ていた。
日も傾いてきたころ、はあはあと息を切らしたTシャツとジャージ姿の緒方君が、ベンチに寝そべりながら、眠りかけていた私の横に立っていた。
「よかった、まだいて。こんなところで何してんの」
視線が人形に向かい、「写真、撮ってたんだな」と言ったので、私はそうだと返事をした。緒方君の座るスペースを確保するため、人形をケースに仕舞った。
「ここで部活あるの知ってたの?」
どう答えようか思案し「知らないよ」と答えた。緒方君がサボであることを認めないなら、私も部活の練習場所を前もって調査し、見張っていたことを教えるつもりはなかった。
「日に焼けても知らないぞ」
もともと口数の多くない緒方君なので、それ以上追及してこない。
「ずっとここにいたのか? 暑かっただろ、水分、ちゃんと取ってた?」
目の前に500mlペットボトルのスポーツドリンクを出され、受取ろうとしたけど、手に力がうまく入らなかった。指がうまく動かないし、指の力に対してペットボトルが重たすぎるように感じる。
「……大丈夫か? いや、大丈夫じゃないな。……悪いな。気にするなよ」
身体がふわりと浮き上がり、顔にごつごつとした物が当たるなと感じていたら、それは緒方君の肩だった。どこかほっとしていると意識は遠のいていった。
目が覚め、どこかで見たことがある星形だなと、壁にかけられた飾りをぼんやり眺めていると、段々と意識がはっきりしてきた。ここには来たことがある。身体は異常にだるいが、どうにか上体を起こした。
「気分、どう?」
緒方君のおじさんのカフェのソファに私は寝ていた。ソファ横の丸椅子に座り、緒方君は心配そうに私を見ていた。
「大丈夫……。あれ、私倒れたの?」
「熱中症で倒れたのかと心配してたら、気持ちよさそうに眠ってた」
「あ、ごめん……。昨日ちょっと遅くまでスマホ見てたから。あんまり寝れてなかったかもしれない」
勝手に緒方君が部活をしている山まで来て、猛暑の中何時間も待って、期待通り彼が来てくれたときには睡魔に襲われて眠りこけてしまうとは、迷惑この上ない。
椅子から立ち上がり、待ってて、と告げると緒方君はカウンターに消えていった。窓の外は暗く、どうやらマスターのおじさんもおらず、私と緒方君二人だけのようだった。テーブルに置かれていたリュックからスマホを取り出し、時刻を確認すると、午後9時前だった。緒方君の部活が終わる時間がおそらく5時。そこから山の中腹にある広場まで徒歩で約三十分。部活が長引く可能性も含めて、緒方君が私を見つけたのが6時前。会ってすぐに私は意識を失ってしまったので、3時間近く眠ってしまっていたことになる。あまりの失態に軽く絶望。
「なに、変な顔してんの」
「いや、別に変な顔してるわけでは」
カウンターから戻ってきた緒方君は、茶色い飲み物が注がれたグラスを私の眼前に差し出した。
「あのさ、ただの寝不足なのかもしれないけど、夏にあんなところに何時間もいたら危ないからね。ちゃんと飲んで」
グラスを受け取るとき、指が触れ、ぶわっとした感覚が指先に走り、突如、緊張が訪れた。落としてはいけないと、懸命にグラスを掴んだ。緒方君の何食わぬ顔が妙に頭にこびりついた。
「なに?」と問われ、
あまりに凝視してしまっていたことに気づく。あれ、なんだろう、これ。多分、このときの緒方君の顔を、今後一生忘れないだろう、と思った。無意識で魅せられ、その直後、意識的に眼前の光景を記憶に焼き付ける作業を、瞬時に行った。多分、今これが、恋に落ちたというやつだ、と齢16歳で悟った。
もともとあまり男子を好きになることがなかった。というのも、なんかやさしくないとか、なんか品がなさそうとか、なんか子供っぽいとか、なんかばかり言っていても仕方ないけど、このなんかをクリアできなくて、好きにまでなることがなかった。それが今、なんかを一足飛びに越えていった。なんかなんて言っている場合ではなく、ほとんど話したことがなくても、橋の上で突如出くわして驚かされても、むしろなんか一緒にいて楽しいし、部活中予告もなしにすれ違ったらどう思うかな、とどきどきわくわくするくらいには、緒方君は意識下に潜み、グラスを渡され、指が触れるという幼稚園レベルの触れ合いが発生しただけで、好きが爆発したのを悟った。
渡された茶色い飲み物は麦茶だった。口をつけると一気に底が見えるまで飲み干した。思っていた以上に身体は水分を欲していた。
幾分かすっきりしてきた。山で意識がもうろうとしている私をおぶって緒方君は下山し、タクシーでカフェまで連れて行き、すでに閉店時間を迎えていたため、おじさんに頼んでソファに寝かせてもらい、いつまでも私が目を覚まさないので、店を後にするおじさんから店の鍵を借り、ひたすら眠る私の様子をずっと見ていた、と説明された。聞いている最中再三、穴があったら入りたかった。
約束もしてないのに、俺のこと待ってたんだろ、と言われ、はい、と頷くしかなかった。ここまで迷惑をかけておいて、緒方君がサボじゃないと認めないのと同じように、待ってないもん、と恰好をつけるわけにはいかなかった。
大きな溜息を吐かれ、私は悲しくなった。緒方君はテーブルに置いていた自分のスマホを手に取った。
「連絡先交換しよう。会いたいときに会えるように。スマホ出して」
予想もしていなかった提案にしばらく思考回路が追い付かなかった。連絡先を交換するのは、わかる。私が待ち伏せをしたせいで迷惑をかけられたからだ。スマートにストーカーは行えなかった。では、会いたいときに会えるようにとは、どいうことだろうか。会いたいときに会える、という言葉を何度も胸の内で反芻した。
「ほら、変な顔してないで、スマホ、はい」
ソファの上に置いていた私のスマホを手渡される。私だけでなく、緒方君も私に会いたいとき。さきほど突如恋心を自覚したもので、混乱していたが、そういえばもともとは緒方君が私をストーキングしていたのだ。緒方君こそ、私に会いたいんだ。
緒方君のスマホに映し出されたQRコードを、私のスマホが読み取ると、通信アプリの友達欄に”サボ”というユーザー名が現れた。
「やっぱり、緒方君がサボだ」
アイコンはサボテンだった。「まあ、今更だしね」と緒方君はバツが悪そうに答えた。
「一路が駅でひとりで人形の撮影してるのを見かけたときから、変な奴だなって思ってて、いつか話してみたかった。人形の商品名を調べて、ネット検索したら、すぐに一路があのとき駅で撮ってた写真が出てきたよ」
「よく、そのときの写真だってわかったね」
「一路が写真撮ってるところを、俺も撮ってたからね」
緒方君はスマホの画面をスクロールして、こちらに向けた。そこには確かに、あの日の私が写っていた。
「よく、撮れてるね」
不思議な感覚だった。片膝をつき被写体に向かって構えている姿形、スマホを向けられてポーズを取っている人形は、まんまあの日を切り取った光景だった。
「びっくりした。人形の撮影に興味持ってくれる人がいるなんて思わなかったから」
どぎまぎしながら感想を伝えると、緒方君は小首を傾げた。
「さっきも言ったけど、人形にも人形の撮影にも興味ないよ。ひとりで人形撮り続けてる変な奴に興味はあるけど」
「そ、そうなんだ……」
込み上げてくる昂りを抑えることに必死だった。普通だったらストーカーだ、と怖くなるところかもしれないが、さきほど麦茶を渡されただけで、この感情は恋だと自覚したばかりだ。喜びしかない。興味あると言われると、期待してしまいそうになる。これまで経験したことがないほど感情を揺さぶられて、思考回路がうまく働かない。
「今日、どうする。明日休みだし、このまま泊ってく?」
飄々とした視線を投げかけられた。凝視攻撃につづく、殺し文句? いや誘い文句? の合わせ技を受け、軽いパニック状態に陥っている。
「ううん、ありがとう。今日は迷惑かけてごめんね。今日のところは帰るね」
一段大きな声で告げた。妙な興奮状態だった。
緒方君が何も言わないので、伏せていた顔をそろそろと上げてみると、緒方君は笑いをかみ殺すように、口元に手を当て、肩を上下に揺らしていた。
「からかったでしょ? 私今、いろいろパニック状態なんだからね」
一体何がどうパニックなのか、緒方君にはわからないだろう。好きの自覚と、好きな人から夜に誘われた、という二巨塔感情に襲われてるのだから。なのに、そんなにおかしそうに笑われたら、つられてこっちまで笑ってしまいそうになるよ。
それから夏休みに入り、私と緒方君はたくさんの時間を共有した。連絡可能になったことで、お互いに下手な待ち伏せをする必要もなくなった。
ただし、私と緒方助手のあいだには、いつも人形がいた。人形なしで会う名目は何もなかった。
二学期に入った。
青空に入道雲も見なくなり、制服も半袖から長袖に移り変わっていた。
放課後、自転車置き場で自転車の籠に鞄をつめ、鍵穴に鍵を通していると、知った声に呼び止められた。
「帰んの?」
どこの部活にも所属していないので、授業が終わってから学校に長居する理由がなく、私は「帰るよ」と答え、なにか話題がないかなと探った。
「緒方君は部活だよね」
大して話題が広がった感じはなかったけど、自転車を押しながら、自転車置き場の入口に立つ緒方君のところまで歩いた。
部活前のようで、白Tシャツにジャージという定番のスタイルだった。秋になったら、上もジャージになるんだろうなと、つい妄想が膨らんだ。
「そう。4時からだから、まだ少し時間ある。あのさ来週の日曜空いてる?」
「空いてるよ」
「涼しくなってきたし、遊園地いかない? こないだ、人形が空飛ぶとこ撮りたいって言って、ラジコン飛行機に乗せて飛ばす方法考えてただろ。ネットで色々調べてたみたいだったけど、それよりも遊園地の遊具に乗せて飛ばせた方が、確実で叶いやすいんじゃないかと」
腕組みをした指を顎に当てながら、緒方君は提案した。
「それいい案だね。行きたい」
人形の飛行撮影と遊園地デートが同時に叶う。願ってもない提案だった。来週の日曜日までに、できる限り女を磨かなければ。目的が逆転しているような気がしないでもないけど。
インスタグリンに挙げている人形写真の「いいね」の数は、以前と比べて25%は増えていた。緒方助手の協力を得たことで、撮影場所はヴァリエーションに富み、人形により難しいポージングを取らせることも可能となり、写真のクオリティが上がったことが要因だろう。
ページビュー数も増え、今では毎日100~400回は閲覧してもらえている。人形写真というジャンルはそもそも人気がないので、一日数100回も閲覧してもらえれば、現時点では満足だった。
眠りに入る前は、こうしてインスタグリンのチェックをしてから、布団を被るようにしていたが、最近は日もうひとつ日課が増えた。緒方君の写真を眺めることだ。
人形をメインで撮りながら、こっそり緒方君を画面に捉える。緒方君はまさか自分にカメラが向けられているとは気づかないので、普段通りの姿をたくさん隠し撮ることに成功していた。
毎回撮った写真は、緒方君もチェックするので、隠し撮りがばれないように、緒方君を撮影した都度、別フォルダに隠し撮り写真を移していた。これでバレる心配はない。
緒方くんと約束の遊園地に行く道中。横並びで電車に乗った。何度も会っているのに緊張する。
「そういえば、中学のときもバスケ部だったの?」
返事が返ってこず、聞こえなかったのかなと隣りを見ると、緒方君は何となく怖い目をしていた。
「中学のときは陸上の短距離だった」
なんで高校では陸上部に入らなかったの、と聞きたかったけど躊躇われた。緒方君の目は、どことなく辛そうでもあった からだ。
「こないだ体育館が開けっ放しのとき、バスケしてるとこ見えたよ。手に吸い付いてるみたいにドリブルしてて、かっこよかった」
体育でやるようなバスケとは全然違っていた。何度も練習を重ねたテクニックがあった。
「そう? まだまだだよ」
それきりなぜか緒方くんは口を閉ざしてしまったので、遊園地に着くまでの間、車窓を眺めているしかなかった。
掃除の時間、またしても体育館の扉は全開放されていた。私は掃除をする振りをしながら、ちらちらと体育館に目線を向けていた。校舎から体育館まで、花壇と舗道を隔て、10メートルほどの間隔がある。体育館内は薄暗く、はっきりとは見えないが、時折ドリブルをする緒方君が視界を掠めた。
休日はなぜか献身的に人形撮影の手伝いをしてくれるけど、バスケをしているときの彼は別人で高校生らしく、ドリブルする姿が現れては、体育館の奥に消えていった。
「掃除当番?」
帰りがけの智咲(ちさき)に声を掛けられ、思わず身構えた。掃除そっちのけで体育館を覗き見していることが悟られてはいけない。
「うん、今週は渡り廊下なんだ」
そそくさと持っている箒を左右に動かす。
「実羽(みう)はまじめだよね。掃除なんか適当にやっとけばいいのにさ」
不良の智咲は、掃除なんか舐めた真似できるか、と箒を蹴飛ばし、イチゴジュースを飲みながら、その辺を闊歩するような女子だ。中学のときは割と大人しめの眼鏡女子だったのに、高校からがらりと雰囲気が変わった。もともと挨拶をするくらいの仲だったけど、最近やたらと話しかけられる回数が増えていた。
「大丈夫、適当にやってるよー」
あえて語尾を伸ばし、適当感をアピールした。
「あんまり無理すんなよ」
智咲はへしゃげた鞄を肩に提げ、校門の方に消えていった。
掃除ぐらいで大げさだな、それに別にまじめに掃除だけしているわけではない。箒を持ってここに立っていると、堂々と体育館を覗けるチャンスがある。
ふたたび体育館に目をやると、全開だった扉が狭まり、ほとんど中が見えなくなってしまっていた。いつもならあきらめて帰宅するところだが、今日はちがった。智咲に「まじめだよね」と言われて、なんとなく、むかっとした苛立ちともつかぬ冒険心が湧いていた。
箒を持ったまま、体育館の裏側に回り込んだ。ここから体育館に入ることはないが、扉だけはあるのだ。念のため周囲を見渡し、誰もいないことを確認してから、そっと扉を押した。
「あいつ、足だけは速いよな。バスケは全然なくせにさ」
開けた途端、男子部員の声が漏れ聞こえてきたので、驚いて腰を屈めた。
「ああ、緒方な。あいつ中学のときは短距離やってたみたいよ」
すぐ離れようとしたが、緒方君の名前が出てきたため、先が気になり、退くことができなくなった。
「ならなんでバスケやってるんだ? 玉遊びより、単細胞らしく直線走ってる方がお似合いだろ?」
「それがあいつ、試合中にアキレス腱やっちゃったらしくて、選手生命絶たれたらしいよ」
あまりの内容に力が抜け、その場に座り込んだ。以前、緒方君から中学のときは短距離走をしていたと聞かされたことを思い出した。
「まじか……? だからって、それでバスケかよ。俺たちも嘗められたもんだよな。走れませんがバスケならできますって、勘違いされたら堪らなーー」
声が途切れたと思ったら、「緒方!」とその部員が驚いたように言った。
恐る恐る扉の隙間から覗いてみると、バスケットボールを小脇に抱えた緒方君が、二人の部員の前に立っているのが見えた。無表情の中に怒りをはらんでいるようだった。
「先輩たち、まだ話してていいんですか。もうすぐ顧問来ますよ」
先輩だったらしい二人は、そそくさと練習に戻っていった。
ふうとため息をついた緒方くんが、開いている扉に気づき、そこから覗いていた私と目が合った。緒方君はこんな場所で変な生きものを見つけてしまったとでもいうような、複雑そうな表情を浮かべた。
「こんなところで何してるの?」
「いや、ちょっと探し物があって。もう見つかったから退散しようとしてたんだけど」
苦しい言い訳。誰も立ち入ることのない体育館裏で、そもそも何を探すというのだ。
「もしかして今の全部聞いてた?」
緒方君は扉から首を出し、他に誰もいないことを確かめるように、体育館裏をきょろきょろと見回した。私は多分、漏れなく聞いてしまったことを、正直に答えた。
「いらっしゃいませ、お、忍か。奥の席どうぞ」
緒方君のおじさんは私たちを定位置の席に通してくれた。
「遅い時間にごめんな」
「ううん、大丈夫。こっちこそ、変なところで盗み聞きしててごめんね」
「それは俺も驚いたけど」
バツが悪そうに緒方君は片手で頬杖をつきながら口元を覆った。
「あれ、全部聞こえてたんだよね?」
首を縦に頷いた。
「どこまで? あ、全部か、先輩たちが話してたとこも全部?」
ふたたび頷いた。
頬杖を突きながら、緒方君はふうと息を吐き出した。ストローをかき混ぜながら、私は緒方君が口を開いてくれるのを待った。
「中学のとき、県大会の試合中にアキレス腱断裂して走れなくなった。それで短距離は終了」
何て言ったらいいのかわからなかった。短距離が緒方君にとって、どれほどの意味を持っているのか、知らない。
「それで一番好きなバスケットをすることにした」
「一番好きな、バスケット?」
「そう。俺、一番好きなのは走ることじゃなくて、バスケットなんだ。走るだけより、ドリブルして、オフェンスして、シュートして、ディフェンスして、ブロックして、相手の連係プレイを読んでカットして、またオフェンスして、繰り返し練習してきた連携プレーをかましてやるほうが、走るより面白いだろ」
バスケットを語る緒方君は、バスケが楽しくて仕方ないっていう顔をしていた。
「じゃあ、短距離に未練は?」
「一切ない」
こういうところ、たまらないなと思う。潔いというか、もう寸分の隙も無いほどしっかり考えましたというような逞しさを感じる。
「先輩たちは色々言ってるけど、実際、走るのは速いけど、バスケットはまだまだでさ。ドリブルも下手だし、シュートも成功率低いし。でもセンスはあると自分で思ってるんで、これからまだまだ練習するよ」
「バスケ頑張らなきゃいけないのに、さぼって橋の上で私のこと待ち伏せしたの?」
あのとき確かに部活さぼって来た、と言っていたのを忘れていなかった。
「ああ、あれは……バスケも大事だけど、今しかないチャンスを逃さないことも同じくらい大事だから」
臆面もなく、彼はさらりと言いのけた。
私に会いたかったということなのかな。会いたい人に会うことと、やりたいことを努力することは、平行して行えばいいじゃん、ということかな。となると、やっぱり私のこと好きなんじゃないかな。
「一路なんか、誰からも理解されないのに、ひとりで懲りずに人形の写真撮り続けてるじゃん。見習うとこ多いわ」
いつのまにかアイスコーヒーを半分まで飲んでいた彼が、透明になった半分のグラス越しに、じとっとした割りに濁りのない目で私を見つめていた。思わずどきりとした。グラス越しという直接ではない目線が、奇妙であり、色気があり、そのグラス越しの目を一直線に見返してもいいものか迷った。
「誰にも理解されない?」
緒方君はさっきからにやにやしている。
「誰にも理解されてなくないよ。熱烈サポーターが目の前にいるもん」
恥ずかしい。けど、負けてられないのは私も同じだ。人形の撮影も、恋も、がんばらなきゃ。
と思いながら、はて? と疑問が浮かんだ。これ以上、どうがんばればいいの?
「今度、試合があるんだけど、よかったら来る? 体育館での人形の撮影も兼ねて」
「いいの? 楽しみ」
試合を見に行く、つまりは緒方君を応援する。
人形の撮影も最初の一枚があって、少しずつ続けながらがんばってきた。恋も、少しづつでもいいから、 がんばっていこう。
晩御飯に呼ばれるまで、部屋でスマホを見ていた。インスタグリンに掲載されている、世界の人形の写真を見ていると、新しい人形が欲しくなってしまう。すでに12体持っているけど、飽きが来ていた。新しいモデルが欲しい。人形はとても高価だ。緒方君と出かけることもあって、出費が増えている。新規のお迎えはしばらく我慢するしかない。
アルバイトをしてもいいのだけど、そうすると土日の撮影時間や緒方君との時間が減ることになり、本末転倒な気がした。被写体の新しい魅力を引き出せるような撮影を模索することがベターだと、決意を新たにしていると、スマホの通信アプリが鳴った。
メッセージは智咲からだった。めずらしいなと思いながら、通信アプリを開くと、そこには目を疑うような内容が、写真とともに記載されていた。
“これ、実羽のアイコンの人形じゃない? 一緒に写ってるサボテンキャラクターのキーホルダーって緒方が鞄にぶら下げてるやつだよね? 美羽と緒方ってつきあってんの? この写真、学校の裏掲示板サイトに流されてるよ”
それはインスタグリンに掲載している写真だった。しくじった。確認が甘かった。私が普段よりウェブ上で使用している、ユーザーアイコンの画像は、共通して人形写真にしていた。その人形は、12体のうちお気に入りの1体で、お気に入りがゆえに、緒方君と行う撮影にも、よく連れ出していた。さらにその写真は、緒方君のおじさんが経営しているカフェで撮影していたので、背景にはカフェの様子がはっきりと映し出されていた。そのソファに置かれている緒方君の鞄には、確かにサボのキーホルダーがぶら下がっていた。
みんなにばれた。頭の天辺から足の爪先まで、ぞわりとした恐怖が駆け抜けた。祈るような気持ちで恐る恐る学校の裏掲示板サイトを開くと、智咲が教えてくれたように、さきほど転送された写真と、匿名たちのささやきが、詰まりを知らない排水溝のように流れつづけていた。ひとつ幸いなことは、想像していたほど攻撃的な書き込みは少なく、みんな興味本位で騒ぎ立てているという印象だった。
智咲にお礼のメッセージを送った後、すぐに緒方君に通話をかけた。着信音が鳴り響く中、緊張と恐怖に押しつぶされそうだった。
「もしもし?」
いつもはメッセージのやり取りをしているだけなので、突然の通話に驚いているようだった。
「もしもし、急にごめんね。今、大丈夫かな」
「全然大丈夫。なんかあった?」
普段と変わらない声だった。おそらくまだ何も知らないのだろう。
「学校の裏掲示板で私たちのことが噂されてる」
神に祈るような気持ちだった。私も緒方君も学校では目立つタイプではない。波風立てず、地味な学生生活を送っている。噂の的になるようなことは慣れていない。
「それ、いつの話?」
「あ、今日。さっき、智咲から教えてもらって」
「わかった。見てみる。ちょっと待ってて」
通話は切れた。ちょっと待っててと言われ、すぐに連絡がもらえるのだろうと、しばし待つことにした。しかし十五分経ち、三十分経っても音沙汰はなかった。
今日はもしかしたらもう連絡は来ないのかと不安になりながら、お風呂から上がり、肩にタオルをかけ頭をがしがし拭きながら自室に戻ると、ベッドの上のスマホのランプが点滅していた。つかの間の安堵と、画面を開く恐怖とのせめぎ合いの末、ゆっくりとスマホの画面をスライドした。そこには緒方君からの着信が一件入っていた。メッセージはなかった。
スマホを握りしめベッドまで移動し、一呼吸置いてから通信ボタンを押した。何度か呼び出し音が鳴り響き、その間、緊張と、いっそ相手が出なかったらいいのにという思いが過ぎった。悪い話を聞きたくなかった。呼び出し音が途切れ、通話が繋がった。
「遅くなってごめん。もう少し早くかけられたらよかったんだけど、見たいテレビがあったから、遅くなった」
「え、うそ、理由それ?」
「掲示板見たけど、あれ、気にしなくてもいいんじゃないかな」
とても、のほほんとした口調だった。
「え、気にしなくても、いいのかな? あんなに噂になってるのに? 私たち、場合によってはつきあってると思われてるよ?」
「別につきあってると思われても、俺は気にしない。特に困ることないし、むしろ一路と一緒に行動しやすくなる」
確かに悪口を書かれたわけでもないし、みんな興味本位で騒いでいるだけだろうから、ほとぼりが冷めるのも時間の問題だろうし、こういうのは気にしないのが一番なのかもしれないけど。
「でも、でもさ、実際にはつきあってないじゃない。それなのに疑われたままでいいのかなあ」
長い沈黙があって、通話口の向こうで緒方君が息を呑むのがわかった。
「一路がいやだっていうなら、誤解解いてもいいけど」
どこかつまらなさそうにも聞こえるけど、気のせい?
「今日のとこは寝るわ。一路も歯磨いて寝ろ。いいな、あまり気にするなよ、わかったな? おやすみ」
「えええ、ちょっまっ……おや、すみ……」
唐突に通話は切れた。
気にするなというのは無理があるけど、それでも噂の相手である本人がいたって平気そうにしているのは救いかもしれない。明日学校に行ったら、みんなからどんな反応をされるのか怖い。
翌日の登校ほど、気が重たい日はなかった。雀が麗しくチュンチュン鳴いてみようが、お母さんの作ったみそ汁になぜかトーストが漬かっていようが、そんなことは一斉気にならなかった。
「お母さん、なんだか熱っぽいみたい」
みそ汁を十分に吸い込んだトーストを箸でつまみ上げながら、私は暗に、休みたい、と訴えた。朝御飯を作りながら、会社に行く準備もしているお母さんは、ひとこと「はあ?」と言ったきり、相手にしてくれなかった。熱を測る素振りさえしてくれなかった。お母さんも朝は忙しいのだ。娘の仮病につきあっている暇などなかった。
学校をずる休みすることはあきらめて、バターとみそ汁を吸ったトースト(と、もはや呼べるのかわからないけど)をかき込んで、バターが染み出たみそ汁を最後まで喉に流してから家を出て、自転車にまたがった。
ペダルを力強く漕ぐ度に感じる風。不安な場所へペダルを漕ぐほどに近づいている。口の中に残るバターと小麦と味噌の風味。心地いい風と不穏な口内にアンバランスを覚える。学校に着かなければいいな、という願いとは裏腹に、道は確実に学校に続いている。
学校に着いてから、とうしたらいいのか、まだ答えが出ていなかった。友達になんて言おうかも、どういう顔をしたらいいかも、わからないでいた。だから未知の学校(せかい)へ進むこの道が怖いのだ。昨夜、緒方君が言った、気にせずに寝ろ、なんて言葉を真に受けず、対策を練ればよかった。そうしたら今朝になって、こんな覚悟のつかない宙ぶらりんな気持ちで登校することなんかなかったのに。ややもすれば、人のせいにしそうになる自分に、さらに嫌気が差した。
自転車置き場に自転車を止め、教室に向かう途中、下しか向けなかった。心は重しが乗っかったようだった。足取りは重く、扉が開いたままの教室に入り、自席に向かうところ、吏奈(りな)とノノが早速近づいてきた。
「噂の的だね、実羽!」と吏奈。
「めずらしいじゃない、あんたがこんなに注目されるなんて」とノノ。
私は愛想笑いを浮かべながら、鞄を机に置き、次の言葉を待った。
「いつのまに人形撮影同好会なんて作ってたの? 人形好きなのは知ってたけど、私たちにひとことくらい相談してくれてもよかったんじゃなーい? どうせ、入ることはないけどね」
そう吏奈が笑い飛ばした。全く聞き覚えのない単語に耳を疑った。
「人形撮影同好会? なんのこと?」
こんなときでもオウム返しは最高のパフォーマンスを発揮する。というか、これしか会話する術を持ち合わせていない。
「知らない振りしたって無駄だよ。もうネタは上がってるんだから」
ノノは私の机に手を置いたまま、まるで勝ち誇ったかのようだった。
「ネタ? ネタって、え、ネタ?」
もはやオウム返しで対応できるコミュニケーションレベルは超えているようだった。何のことを言っているのか、本気でわからない。
「おまえ、人形愛好者だったんだな……、ほとんどしゃべらないから、何考えてるかわかんないやつだったけど……。実物の女より、人形のがいいのか?」
なんか今どこかから、とんでもなく誤解されていそうな発言が飛び込んできた。扉が開け放たれたままの教室の外、渡り廊下でたむろしている男子たちだった。実物の女より人形がいいの? なんて聞きようによっては、危ない嗜好に走ったのかと問われている相手は誰かと視線を送ると、つまらなさそうに欄干に座っている緒方君だった。
「え、ちょっとなに、どういうこと、私と緒方君が人形撮影同好会の部員だっていうことになってる?」
おもしろがっている吏奈とノノに詰め寄ると、二人は顔を見合わせて、くすくすと笑いだした。
「だって、そうなんでしょう――――? お似合いじゃない、楽しそうだよ、あんたらの写真」
速攻でスマホの画面に、私の人形と緒方君のサボキーホルダーが写っている写真を目の前に見せられ、なるほど、そういうことか、とやっと納得した。
私たちがつきあっているという噂を阻止するために、緒方君は人形撮影同好会という恰好の理由を作り上げたのだ。これなら休日に二人でいても、同好会活動の一環です、と胸を張れる。
「ちょっと残念だったけどなあ。実羽と緒方がつきあってたら、もっと、笑え……おもしろ……、いや、応援できたのになああああああ。にんぎょ、人形好きとはねえええええええ。うけるううううううう」
吏奈は腕組みをしながら腹を抱えるようにけらけら笑い、
「何が好きかとかは、個人の自由だけど、よりによって緒方が美少女人形好きとは、まったく理解できないわ。笑えるけど……ふふ」
ノノも抑えきれない爆笑を喉の奥に留めるのに精一杯のようだった。
「はは、私も協力者ができて助かってるんだ。ごめん、ちょっと、行ってくるね」
機嫌よく爆笑してくれている二人を残し、外の渡り廊下に向かった。言われたい放題の緒方君の前に立った。
「一路、おはよう」
「どういうこと、いつ同好会なんか作ったの? なんでひとことも相談なく……」
「おまえら、人形の服脱がせて遊んでるんだろ」
言い終わるより先に、お調子者の中林にからかわれた。聞いた覚えのある台詞に、私たちは顔を見合わせ、思わず吹き出した。
「ちがいます。人形に服を着せて遊んでるんです!」
二人の声はぴったり揃い、まるで同好会に掲げている教訓をなぞらえているようだった。中林はずれた黒縁眼鏡を直しながら、「な、なにいってるんだ? おまえら」と口をぽかんと開け、それ以上は言えないでいた。
「ちょっと、こっち」
そのあいだに緒方君のシャツの袖を引っ張って、階段の踊り場の隅まで拉致した。
「おまえら仲いいなー! やっぱりつきあってんじゃないのか!」
中林以外の男子たちから野次が届いた。緒方君は私に引っ張られるまま、横向き歩きでついてきていた。
「同好会ってなんのこと? いつ作ったの? ちゃんと説明して欲しいんだけど」
ぎゃんぎゃん怒鳴られることがうるさいのか、緒方君は面倒くさそうに、耳を指で塞ぐ仕草をした。
「朝、学校来て、すぐに人形撮影同好会の申請書提出して、その場で受理された」
「ええええええええええっ!」
人間、本当に驚いたらとんでもなく素っ頓狂な声が出ることを知った。同好会って、そんなに簡単に許可が下りるものなの? そもそも私に何の相談もしないでいいと思ってるの? 聞きたいことが濁流し、むしろ何から聞いたらいいのかわからない。
「あ、そうそう、部長が一路で、副部長が俺だから」
「これで今後はどれだけ一緒に行動しても、人形を振り回しても、誰からも何も文句言われないよ。よかったね」
勝利宣言とも取れる緒方君の勝ち誇ったような笑顔が恐ろしくも頼もしく、朝のHRを告げるチャイムが学校に鳴り響いた。
今日は待ちに待った、緒形君のバスケットの試合の日。
惜しくも試合は攻防の末、2点差で負けてしまった。緒方君は選手交代で出場し、スリーポイントシュートを3本も決めたけど、相手チームの攻防にあぐね、最後まで追いつくことはできなかった。
試合終了後、他の部員たちはみんな体育館から出ていったのに、ユニフォーム姿の緒方君だけが、まだコートの中央に残っていた。
「残念だったね。でもまた、来年があるよ」
熱気の残った体育館に、わたしたち二人だけ。何て声を掛けたらいいのかわからない。下手な励まししか言葉が見つからない。
「本番は来月だよ」
ぽかんとした顔の緒方君が、バスケットボールを人差し指で回転させた。
「え? 来月?」
「そ。今日のは練習試合。あれ、いってなかった?」
首を横に振る。
「ごめんごめん、誤解させて」
緒方君は笑っているけど、さっきコートに一人で残っていた時の悔しそうな顔。練習試合とはいえ、毎日いっぱい努力してたもんね。
「人形の撮影は、ちゃんとできた?」
突然、緒方君の顔が人形撮影同好会副部長の顔になった。
「ごめん! 緒方君がプレイしてるとこを撮るのに必死だったから、人形の写真は一枚も撮れてないの!」
抜けてるなとか、馬鹿だなとか言われるのかな。仕方ない。でも今日のわたしは自分に正直でいたかった。人形よりも、撮っておかないといけない瞬間がたくさんあったから。
「一路、抜けてるな。そんなんじゃ人形撮影同好会の副部長として情けないぞ」
ほら言われた。予想通りの台詞。だけどひとつだけ予想に反していたのは、緒方君の顔が耳まで真っ赤だったことだ。
【完】
早朝につき、夏にしては気温がまだまし。
剥き出しのコンクリート校舎には人影もなく、寂しい印象だ。
目的地は校舎と体育館の間にある、綺麗に手入れされた花壇。
たどり着いた花壇の前にしゃがむと、鞄を開け、ゆっくりとプラケースにしまわれている人形(ドール)を取り出した。乱れたウィッグを手櫛で整え、皴になっているスカートを指で伸ばす。陽に照らされたガラスの瞳は、美しく輝いていた。人形はこの世において、いかなる美少女も敵わぬほどに可憐で、美しく、完璧な造形美をたたえている。
花壇のベゴニアを背景に人形をポージングさせ、スマホを構えて撮影ボタンを押す。写真を確認すると長方形の枠の中に、ベゴニアに負けず劣らない可憐な人形がそこに生きている。
たまらず頬が緩んだ。早起きして、暑い中汗だくだくになりながらチャリをこぎ倒して、こっそり学校に忍び込んだ甲斐があったというものだ。先日、ベゴニアが開花したことに気づいてから、ずっと人形の撮影チャンスを狙っていたのだ。
どこかから何かが継続的に跳ねる音が聞こえてきて、なんだろと思いながらも撮影ボタンを押したら、なにか違和感のある物体が画面に映り込んだ。おかしいなと思い、スマホから顔を上げると、花壇を挟んだ先にある体育館の扉がいつのまにか開け放たれていて、入り口にバスケットボールをドリブルしている緒方君が立っていた。
どうしてこんな早朝に緒方君が? 体育館からここまで、大声を張らないと届かないような距離なのに、私は緒方君と目が合ったような気がした。どうしよう、まずは人形を隠さなければ。急いで人形を鞄に仕舞わなければいけないのに、それができない。人形はものすごく繊細な造りをしているので、少しでも雑に扱えば、たちまち腕が外れ、ウィッグは絡まり、ブーツが破損してしまう。
「こんな時間に、なにしてんの」
人形を持ったまま、わたわたとタオルに包もうとしていたら、いつのまにか花壇の向かい側に緒方君が立ち、バスケットボールを片手に抱えたまま、私を見下ろしていた。
「え、いや、ちょっと、別に大したことは……してないよ?」
なんとも言い訳がましい。誰もいない校舎前の花壇で、左手に人形、右手にスマホを持つ私は不審者以外の何者でもないというのに。
「それ……なに?」
緒方君の視線が一心に人形に注がれていた。私はなんて答えたらいいのか捻り出すこともできず、
「これはね、人形(ドール)って言って、球体(きゅうたい)関節(かんせつ)人形(にんぎょう)、です」
馬鹿正直に返答してしまった。
緒方君は何か衝撃を受けたのか、いつもだるそうにしているわりには、驚いたように人形を見据えてる。
「へえ、キュウタイカンセツニンギョウっていうのか、それ……。それさ……服脱がしたりして、変な遊びでもしてるの……?」
おかしい、人形を持っているだけで、エベレスト級の“変態”だと認識されている。
「脱がすんじゃなくて、着せて遊んでるんです。さらにいわせてもらうとベゴニアを背景に、ちょっと写真を撮らせていただいていたんです」
せめて最低限の誤解を解かなければ。服を脱がせて良からぬことを妄想するタイプの変態仮面を被されるわけにはいかない。
「緒方君こそ、こんな時間に何してーー」
緒方君は花壇の向こうにしゃがみ込み、なんだか不思議そうに人形を見つめながら、
「バスケの朝練。もうすぐ、他の連中も来るけど、それ…、大丈夫なの」
はっとしてスマホの画面に目を走らせると、午前7時になろうとしていた。緒方君の言うように、運動部が朝練を始める時間だ。
「大丈夫じゃない、ありがとう、ごめんね、すぐに消えるから……!」
ここから退散しなくてはと、立ち上がろうとしたところ、扉が開いたままの体育館に、ジャージを着たバスケ部員数人が視界に入った。人形撮影に夢中になり過ぎていた。朝練の時間が7時からだということは、事前の調査でわかっていたはずなのに。
「早く、人形隠して」
一緒にしゃがんでいる緒方君の背中に遮られ、体育館前から人形は死角になった。
「あ、ありがとう、すぐに片づけたいんだけど、急ぐと人形を痛めてしまいそうで」
プラケースに収めて、人形を眠らせようとしたとき、緒方君を呼ぶ声が聞こえてきた。
「緒方、おまえ、そんなところで何してるんだ? 早くこっちこいよ、朝練始まるぞ」
しゃがんだ体勢のまま緒方君は後ろを振り向くと、部員に向かってふりふりと手を振った。
それを見た部員は「早くしろよ」とだけ告げると、また体育館に戻っていった。
「しまえた?」
「しまえた。ありがとう、隠してくれて」
「専用のケースは持ってきてないのか」
「専用のケース?」
緒方君が何のことを言っているのかわからなかった。人形専用のケースは相当かさばるので、学校に持ってくるわけにはいかないのだけど、なぜ専用ケースを普段私が持っていることを知っているのだろう。
「専用のケースは休みの日に持ち歩く用だから、学校には持ってきてないよ」
「そうなんだ」
緒方君はそのまましゃがんでいた。
「部活、行かなくていいの?」
いつまでも立ち上がらない緒方君が心配になり、聞いてみると「いや、よくない」と、花壇越しに伸びた脚が浮かび上がった。
「ほんとに隠してくれてありがとう。こんなとこ見つかったら、変態扱いされるとこだった」
体育館に戻る途中振り返った緒方君は、まるで面白いおもちゃを見つけたかのような目をしていた。
「俺は一路(いちろ)のこと、もともと変態だと思ってるけどね」
悪態を残した緒方君は体育館に消えていった。
今撮った写真をスマホで確認しながら、私は教室に向かった。狙い通り、ベゴニアに囲まれて佇む人形は無敵で最高にかわいく、いい写真が撮れたと満足。そのまま画像掲載アプリのインスタグリンにアップした。
緒方君が去り際に言ったことが少し気になった。私がもともと変態ってどういうことだろう。それに人形専用ケースを普段持ち歩いていることも、知っているようだったけど。どこかで見られでもしたんだろうか。
明日の休日に連れていく人形を、持っている12体の中から選んだ。腰まで届く茶色いロングヘアが下の方でカールしていて、焦げ茶色のお嬢様風ドレスを身にまとう淑女だ。この子が散歩しているところを撮影しよう。人形専用ケースにそっと収め、蓋をした。
ベッドに寝転がり、今朝、学校でインスタグリンにアップした人形の写真を開いた。閲覧数を確認すると25PV。相変わらず少ない。そもそも人形に興味がある人は少ないし、さらに素人が撮影した写真を見たいという奇特な人はさらに少ない。
仕方がないのかな、それとも私の撮影テクニックや人形にかける愛がまだまだ足りないのかな。溜息を吐きつつも「明日は近くの橋で撮影予定です。風が強くないといいな」と本文を投稿した。
寝る前。部屋の電気をまめ球にし、人形の写真に「いいね」をつけてくれた人をチェックしていると、初めて見るユーザがいた。アイコンはサボテンで、ユーザー名はサボ、だった。そのままだな、と思った。でもなんかかわいい。
そういえば緒方君て、サボテンみたいにぬぼーっとしているところがあるな。今までほとんど話したことがなかったけど、意外に話しやすかったような。今度、なんで私が人形専用ケースを持っていること知っているのか、聞いてみようと思いながら抱き枕を抱えた。
橋の上はやや風が強いけど、青い空が澄み渡り、雲はどこまでも広がり、いつも行く手を阻む窮屈なビル群は遥か遠くにあった。これ、これだよ、と私は自転車を漕ぐ速度を上げていった。橋の中央の欄干に人形を座らせて写真を撮りたい。世間を知らないお嬢様が、冒険に飛び出たような清々しい画がきっと撮れる。
うきうきして橋の中央まで到達したところで、私は目を疑いつつ、自転車を降りた。
「な、なんでいるの? 緒方君」
橋の中央で欄干に手をつき、立っているのは緒方君だった。
「今日、部活休みだったから」
「ほんとに? 運動部って土曜日部活あるんじゃないの?」
「……ほんとはあるけど、抜けてきた」
よく見ると緒方君は上は白Tシャツで、下はジャージだった。
「そういうことじゃなくて……、なんでこの橋にいるの?」
それが不思議だった。昨日、人形をかくまってもらって、今日は休日だというのに、こんな何のつながりもないところで、あれ偶然だね、なんてことがあるはずない。
「ここ、風が気持ちいいから、つい……」
つい、なぜこんな学校から離れた橋の上に。疑問が疑問を呼んだが、緒方君はそれ以上答えてくれそうもなく黙った。私としてはこれからここで人形を取り出し、パシャリパシャリと撮影をしたかったので、大変困ってしまった。
「それ、撮らないの」
自転車の籠に入れたままの人形専用ケースを緒方君が指さした。
「これが何か、わかるの?」
「人形が入ってるんでしょ。俺、以前、早朝に駅の改札で、一路がそのケースから人形を取り出して、写真撮りまくってるところ、見たことがある」
突然の種明かしに、もし今、コーラを口に含んでいたら、橋の端から端まで吹き飛ばしてしまいそうなほど、狼狽えた。
「いつ? いつ見たの? あれ、あれはええと、確か」
「三か月くらい前だね」
口籠っていると、先に緒方君がさらっと答えた。
「そう、三か月前、春だった気がする……。ええええっ、あのとき見てたの?」
「部活で遠征があったから、そのとき偶然見かけて、何やってるのかと覗き見てたら、そのケースから、それ、球体関節人形を取り出して、写真撮り始めたんで、驚いた」
驚いたのはこっちだ。まさかあの光景をクラスの男子に見られていようとは。あの日はお花見日和だったので、人形の撮影のため電車に乗って、桜で有名な大木槌公園まで行くことにしたのだ。そのついでに休日の朝は人波が少なくてチャンスと、駅の改札を人形が通るショットをちゃかちゃかと撮影していたのだ。
私は心底頭を抱えた。
緒方君にはこの先どうしたって、まともな人間だと判断されることはない。一般的な人には理解されない行動だから。
「私、人形が大好きなの。生きている人間より、よほど美しくて、妖精のように可憐な人形を、もっと世界中の人に知ってもらいたくて、生気が宿ったような人形の写真を撮って、インスタグリンに上げてるの。だからいつも人形を外に連れ出してるの」
息切れするほど、一気に捲し立てた。怖くて顔を上げられない。変態だ、馬鹿だ、頭おかしい、きちがいだ、あれ、全部同じ意味かな、なんていう言葉を散々今まで他人から投げかけられた。できることなら知人には見つかりたくなかった。
緒方君は特に表情を変えることなく、
「わかった、撮ろう」と、いきなり人形専用ケースに手を伸ばした。
「ど、どういうこと?」
何が起こっているのかわからず、ケースを掴んだ緒方君をおろおろしながら見守る。
「橋の上で人形を撮りたいんだろ、俺が手伝った方がポーズ取りやすいんじゃない」
と言いながら、ケースの蓋をパカッと開いた。学校の鞄にタオル越しとはいえ直に入れているときとは違って、人形の身体に沿ってくぼんだ箇所に、頭や、腕や、足がぴったり嵌め込まれている。
「壊れそうで怖いから、取り扱い方教えて」
言われるがまま、私は人形の扱い方を説明した。壊れ物を扱うみたいに優しく、だけど落とさないように胴体はしっかり握って、指紋が付くからうっかりガラスの目を素手で触ってしまわないように、関節は折れやすいから、無理して曲げないように。
「そういえば英語の例文で、”その人形は壊れやすいので、慎重に取り扱わなければいけない”っていうのがあったな」
ひととおり私から扱い方を習った緒方君は、人形をケースから取り出すと、持ち上げ大事そうに日にかざした。人形の細い髪が風に吹かれ、さあっとたなびいた。ケースに閉じ込められていた人形が、風を感じていた。
「その例文、覚えてる。fragiie(フラジール) 壊れやすい、だよね」
今にも動き出してしまいそうな人形が緒方君の手の中にあることが、なんだかくすぐったいような、うれしいような、不思議な気分になった。
「一路、英語苦手じゃなかった?」
「これだけは、覚えてるんだよね」
どうして私が英語できないこと知っているのか疑問だけど、それ以上に今日橋の上で偶然会ったことのほうがもっと大きな疑問だ。
「人形が例文に出てきたからだろ、どうせ」
「そうだよ、どうせ」
「……言い過ぎた」
緒方君は人形を持っている手とは反対の手で、私の頭にぽんぽんと触れた。
ほとんど話したこともないのに、なぜ頭をぽんぽんされるのかわからない。びっくりしたけど、嫌じゃなかった。緒方君によって人形が風を感じたように、私の髪も微かに風になびいた。
橋の上に人形を立たせることに緒方君は成功した。人形の足はかなり小さいので、そのままでは自立できない。実際の寸法よりサイズの大きい靴を履かせ、そのままでは脱げてしまうので、両面テープで一時的に足に靴を固定する。サイズの大きい靴で地面に着地させることで、人形は支え棒に頼ることなく自立できる。
「うまく考えるもんだな」
あきれているのか感心しているのかわからないけど、緒方君は無事人形の自立を見届け、胸を撫で下ろしていた。
「次は微風だよ。さっきまで吹いてた風が止んでしまったから、はい、これ」
「微風?」
「そう、微風。強風は人形が倒されるからいらないよ」
緒方君の手にリュックサックから取り出した携帯扇風機を渡した。
携帯扇風機を人形にかざしてくれる緒方君のおかげで、撮影に集中できた。両手でスマホを構え、縦横無尽に動き回りながら、被写体を捉えていく。人形は微風に吹かれポーズを決めていた。ふんわりしたスカートが風をためこみ、ますますふんわりとしていた。
「人、来てる」
助手となった緒方君から声がかかるたび、私たちは欄干に身を寄せた。早朝だから、そんなに橋を利用する人は多くないが、助手のおかげで早く気づくことができた。撮影をするにあたって、一般人に迷惑をかけることのないよう、これでも一応務めていた。
橋の上での撮影が終わると、人形を欄干に移動させた。欄干に座らせポーズを決める。真っ逆さまに落下してしまわないよう、人形のおしりにマジックテープを貼り付け、それから欄干に人形の幅で隠れる程度の、帯状のマジックテープを巻き付ける。その上に人形を座らせれば設置完了だ。
助手はてきぱきと働いていた。携帯扇風機をモデルに当て、ときに絡まった髪をほどき、スカートのしわを引っ張った。「ここまでする必要あるの?」と泣き言を漏らす助手に、「緒方君の献身的なお世話のおかげで人形が喜んでるよ」とはっぱをかけた。事実、今日の人形はいつもより頬が上気し、瞳が輝いているようにさえ見えた。
橋での撮影を終了すると、橋を渡り、河川敷へ移動した。練習中の少年野球チームや、ランニングしている老若男女を差し置いて、人形の撮影を再開した。河川敷は庶民みなさまの憩いの場所ゆえ。
「生き生きしてるね……」
緒方くんの呟きは、人形のこと、それとも私のことだろうか。
写真に収まると、一定のアングルからしか見られない人形は、ある意味ではそれ以上、手を尽くせない最上のかわいさを有しているが、今、物体として目の前に存在する人形は、実際にそこで息を吸い、日差しは暑く、うるさい野球少年の声に耐えながら、夏を楽しんでいるように見える。
ついうっとり人形に見入っていたら「手、止まってるぞ、早くしろよ」と助手に何度か我に返らされた。
「昼めし、どうするの」
人形をケースに仕舞いながら緒方君が言った。
「どうしよう、何も考えず家出てきたから、特に決めてないんだけど」と私は申し訳なさそうに笑うしかなかった。そもそも一人で行動するときには目的だけ決めて、食事のことは一切考えていない。
人形専用ケースと携帯扇風機を私に渡しながら、緒方君は口を開いた。
「俺のおじさんがやってる喫茶店が近くにあるから、行ってみる?」
「いいのかな?」
思いもよらない提案だった。
「いいと思うよ。しょっちゅう、来い来い言ってるし」
荷物を自転車の籠に入れ、自転車を押しながら歩こうとしたら、
「トレーニングになるから走りたいんだけど、自転車乗ってもらっていいかな」
緒方君が今にも走りたそうに、両腕をリズミカルに振った。部活抜け出してきた割に、真面目? 言われた通り自転車に乗った。案内をするように先陣を切って緒方君は走り出した。
「人形のケース揺れて大丈夫?」
「ケースの上に撮影道具がいっぱい入ったリュックを重しにしてるから大丈夫だよ」
「へえ、撮影道具あるんだね」
「今日は使わなかったけど、レフ板もあるよ」
「レフ板……」
「反射板のことだよ、光を直接人形に当てるのではなく、いったんレフ板に当てた光を顔に反射させることで、ガラスの眼にキラキラした光が入って、つややかな表情になるんだよ」
「本格的だね、今度はそれも使おう」
助手は一気に加速し、あっという間に離され、白いTシャツが前方に小さくなった。
「は、はや…い」
置いて行かれないよう、サドルを力一杯踏んだ。
カフェの店内には青々とした観葉植物がぽつぽつと配置されていた。星形のアルミでできた壁飾りがポップな横で、世界地図のポスターが張られていた。奥には壁に直接板を張り付けた棚があり、本や写真やゴジラのフィギュアなんかが飾られていた。床のフローリングは濃いダークブラウンで、どっしりと配置されたソファに座ろうもんなら、いっそのこと、もうずっとここで寝てしまいたいくらいの雰囲気があった。
「足、速いんだね」
通されたソファに座ったときに、私は相当ぐったりとしていた。自転車をあんなに一生懸命漕がされることになるとは思わなかった。
「一路が運動不足なだけだよ」
汗を滴らせながら緒方君は水を飲んだ。
私が運動不足なのは認める。体育では運動するふりだけをして、まともに上半身も下半身も動かしたためしがない。休日に自転車で遠出はするが、所詮、下半身の重心はサドルに預け切っている。
「どうせ、ふぬけた身体してるよ」
疲れた体がどこまでもソファに沈みそうだと思っていたら、緒方君はコップを置いて、私を上から下まで眺めた。
「そこまでは言ってない」
どっちでもいいけども、そんなにガン見されると恥ずかしい。
おしゃれなカフェの割に、お客さんはあまり入っていなかった。住宅街という立地のせいだろうか。
「なににしますか?」
眼鏡をかけた長髪をくくっている男性がオーダーを取りに来た。
アイスコーヒーを緒方君が注文したので、私も同じにした。店員は私に朗らかな微笑みを向けた。会釈することで、その微笑みに応えた。
「今の、おじさん……?」
「そう」
幾分か赤面し、緒方君は視線を反らした。
「やさしそうな人だね。私のこと、慈しみの眼で見たような。気のせいかもしれないけど」
「……一路の話したことあるから、多分それで、あんな顔したんだと思う……」
一体どんな展開になったら、私のことを話す機会があるのか不思議だ。
「なんで私の話したの?」
「クラスに人形に対して並々ならぬ情熱を抱えた変態がいるって、ネタでつい」
そりゃあのおじさん、絶対引いてるぞ。
緒方君はあらぬ方向を向いたまま、まだ目を合わせてくれない。
「アイスコーヒー、お待たせいたしました」
テーブルにラッパ上に広がったガラスコップに入ったアイスコーヒーが置かれた。この人が私のことを変態人形野郎だという目で見ているのだとしたら、と恥ずかしくて、私まで顔を上げられなくなった。
「それ、人形ですか」
頭上からおじさんのやさしい声が降ってきたので、おじさんの視線の方向を確認すると、人形が入ったケースのことを言っているようだった。
「はい。そうです」小さい声で肯定した。
「忍から色々教えてもらっています。まるで生きているかのように人形の写真を撮られるとか。僕も一路さんの写真拝見させてもらってるんですよ。よかったらこのカフェでも撮影してくださいね。うちのカフェ、ほら、あの、映えっていうんですね? すると思いますよ」
おじさんは私に自身のスマホの画面を見せた。そこにあったのは私がインスタグランに載せた人形の写真だった。人形は木陰に膝をついて座り、長い髪が風にさらされたように乱れているのが自然だった。
「緒方君からそんな話をですか? はい、ありがとうございます。ご迷惑をおかけしないよう、お写真撮らせていただきます。人形も喜びます」
立ち上がり、おじさんに向かって頭を下げた。
それよりも、だ。今、時系列がおかしくなかっただろうか。なぜインスタグランに人形写真を掲載していることを、緒方君は知っているのだろう。あくまで駅での撮影風景を目撃しただけではなかったのか。アイスコーヒーにさされたストローを回転させながら思案した。
「緒方君あのね、ここのカフェのマスコットかわいいよね」
氷がからんからんと涼しげな音を奏でる。
「そうかな」
「看板にイラストがあるわけじゃないけど、すぐ気が付いたよ。あそこの棚と、カウンターと、観葉植物のプランターの中と、ここ……」
アイスコーヒーのグラスを持ち上げ、敷かれていたコースターを指で挟み、緒方君に向けた。
「ここにも、サボテンのサボがいるよ。昨日、私のインスタグランに初いいね、をしてくれたユーザーとまるきり同じイラストだよ」
なんだそんなことか、とでも言いたげに、緒方君はストローを口に加えアイスコーヒーをごくりごくりと喉を鳴らしながら、一気に飲み干した。
「何が言いたいんだ」
あくまで白を切るつもりなのか。だけどそれは無理がある。ここまで条件がそろっていて、偶然であるわけがない。そもそも、ばれてもいいから「いいね」を押して、ここに連れてきてるんでしょ。
「サボは……お、がた……」
「ちがうよ。俺、人形になんか興味ないし」
ちがうわけないじゃないか。それならストレートにおじさんが、サボ、だとでもいうのか。本当はおじさんが人形オタクで、インスタグランに私の人形写真を見つけ、甥っ子に、ねえねえ、この人形かわいい、と教えたとでもいうのか。そんなことあるわけないだろう。
インスタグリンに「いいね」をしてくれたユーザーのアイコンのサボを見せたが、頑として緒方君は首を縦に振らなかった。仕方なくそれ以上問いただすのはあきらめた。
緒方君にならって、ストローを口に咥える。アイスコーヒーを飲んでいる間、緒方君は突然立ち上がると、店の奥へと消えていった。戻ってきたときには、私もアイスコーヒーのほとんどを飲んでしまっていた。
「飲み終わったら、一路も手を洗ってきたらいい」
「普通、逆じゃない? 飲む前に手を洗うんじゃないの?」
当然の疑問を投げると、緒方助手は首を振った。
「ちがう。人形を触る前に手を洗うんだ。人形が汚れたら災難だろ。さ、撮影始めるぞ」
それこそ、なんかちがう。逆、逆だ。どうして助手の方が乗り気になっているんだ。
「お手洗い、あっち」
「……」
うん、行くよ。助手の言うことは正しい
サボテンのサボがあらゆる場所から見守る中、inカフェの撮影会も、無事に終了した。私以上に撮影に真剣な緒方助手を前に、うろたえることもあったけど、協力者がいてくれることはありがたかった。これまでずっとひとりで撮影をしてきたので、画面に写る人形を見て、もうちょっと光を取り込もうとか、構図が平凡だ、とか言い合えるのは単純に楽しかった。
窓から夕日が差し込んで来て、人形を痛めてしまう前に、撮影会は終了になった。西日はガラスの眼をくもらせてしまう。
緒方君は最後まで自分をサボだと認めなかった。
その夜、お風呂から上がってさっぱりした頭で、今日撮った写真のどれをインスタグランにアップしようかなとチェックしていたら、人形に混ざって、私が写っている写真が出てきた。私は人形の髪を撫でていた。二人でカメラワークを決めているときに、私のスマホを何度か緒方君が手にするときがあった。そのときだろうか、これを撮ったのは。
人形を触っている自分を目にするのは初めてだった。不思議だ。人形はいつも完璧な美を備えている。それに比べて人間は、食べ過ぎれば太るし、変なところにニキビはできるし、髪はごわごわになるし、完璧な美とは程遠い。それでもここに写っている私は、なかなかにいい顔をしていた。少しでも完璧な美を世の中に届けたくて、知ってもらいたくて、懸命に被写体を整え、その被写体をさらに輝かせるため、カメラワークを模索する。そうした一連の動作に必死になっているときの自分は、美しくはないが、変な迫力があった。
見た目の美しさ以外の価値とは。美は正義だしなあ。
なんてことを思いながら、とびきりの可憐さを放つ人形の写真をインスタグリンにアップした。
ベッドの中でアップした写真の閲覧数や「いいね」を確認しようとマイページを開くと、「いいね」をつけてくれたユーザーのトップに、サボがいた。サボが脳裏で緒方君と重なった。
なんでこんなに協力してくれるんだろう。ここまでしてもらえることに思い当たるふしはなかった。人形に興味はないと言いながら、本当は乙女趣味の持ち主で、人形がかわいくて仕方ないんだろうか。やっぱり緒方君のことはよくわからない。
翌週の土曜日。学校近くの小高い山に私は向かっていた。背中にはリュックを背負い、人形を入れたケースはリュックの中に納めていた。山といっても、山道が整備されているので、緑を眺めながら、軽快に登っていった。
登っている最中、部活動をしている男子部員たちが、一斉に山道を駆け下りてきた。体力作りの一環だろう。部員たちはTシャツにハーフパンツの格好で、肩で息をし、額に汗をにじませていた。部員の中に、一人だけ下がジャージの男子がいた。その男子はすれ違いざま、私を凝視した。目は、おまえ、なにやって…、とでも言いたげだった。部員たちはあっというまに通り過ぎ、穏やかな風が戻った。
何度か立ち止まり、手をウェットティッシュで拭いてから、人形を取り出し、緑や下界の小さな建物を背景に、何枚か写真を撮った。私は山歩き用に動きやすい恰好をしていたが、人形は苦労を知ることもないので、バラのお花を胸元にあしらったレースのエプロンワンピースを着用し、髪も束ねることなく胸元と同じバラが施されたカチューシャを頭に巻き、山登りとは無縁の佇まいだ。
山の中腹まで登ったところに、砂地の広場が開けた。抽象的な銅像とベンチがあるだけの、何でもない場所だ。
指で砂をつまみ、はらはらと下に落とし風の角度を確認してから、ベンチに腰を下ろし、となりに人形を座らせた。そのまま人形の写真を何枚か撮った。入道雲をときおり仰ぎ見ながら、スマホでこれまで自分が撮影した人形の写真と、ネット上に掲載されている人形の写真を見ていた。
日も傾いてきたころ、はあはあと息を切らしたTシャツとジャージ姿の緒方君が、ベンチに寝そべりながら、眠りかけていた私の横に立っていた。
「よかった、まだいて。こんなところで何してんの」
視線が人形に向かい、「写真、撮ってたんだな」と言ったので、私はそうだと返事をした。緒方君の座るスペースを確保するため、人形をケースに仕舞った。
「ここで部活あるの知ってたの?」
どう答えようか思案し「知らないよ」と答えた。緒方君がサボであることを認めないなら、私も部活の練習場所を前もって調査し、見張っていたことを教えるつもりはなかった。
「日に焼けても知らないぞ」
もともと口数の多くない緒方君なので、それ以上追及してこない。
「ずっとここにいたのか? 暑かっただろ、水分、ちゃんと取ってた?」
目の前に500mlペットボトルのスポーツドリンクを出され、受取ろうとしたけど、手に力がうまく入らなかった。指がうまく動かないし、指の力に対してペットボトルが重たすぎるように感じる。
「……大丈夫か? いや、大丈夫じゃないな。……悪いな。気にするなよ」
身体がふわりと浮き上がり、顔にごつごつとした物が当たるなと感じていたら、それは緒方君の肩だった。どこかほっとしていると意識は遠のいていった。
目が覚め、どこかで見たことがある星形だなと、壁にかけられた飾りをぼんやり眺めていると、段々と意識がはっきりしてきた。ここには来たことがある。身体は異常にだるいが、どうにか上体を起こした。
「気分、どう?」
緒方君のおじさんのカフェのソファに私は寝ていた。ソファ横の丸椅子に座り、緒方君は心配そうに私を見ていた。
「大丈夫……。あれ、私倒れたの?」
「熱中症で倒れたのかと心配してたら、気持ちよさそうに眠ってた」
「あ、ごめん……。昨日ちょっと遅くまでスマホ見てたから。あんまり寝れてなかったかもしれない」
勝手に緒方君が部活をしている山まで来て、猛暑の中何時間も待って、期待通り彼が来てくれたときには睡魔に襲われて眠りこけてしまうとは、迷惑この上ない。
椅子から立ち上がり、待ってて、と告げると緒方君はカウンターに消えていった。窓の外は暗く、どうやらマスターのおじさんもおらず、私と緒方君二人だけのようだった。テーブルに置かれていたリュックからスマホを取り出し、時刻を確認すると、午後9時前だった。緒方君の部活が終わる時間がおそらく5時。そこから山の中腹にある広場まで徒歩で約三十分。部活が長引く可能性も含めて、緒方君が私を見つけたのが6時前。会ってすぐに私は意識を失ってしまったので、3時間近く眠ってしまっていたことになる。あまりの失態に軽く絶望。
「なに、変な顔してんの」
「いや、別に変な顔してるわけでは」
カウンターから戻ってきた緒方君は、茶色い飲み物が注がれたグラスを私の眼前に差し出した。
「あのさ、ただの寝不足なのかもしれないけど、夏にあんなところに何時間もいたら危ないからね。ちゃんと飲んで」
グラスを受け取るとき、指が触れ、ぶわっとした感覚が指先に走り、突如、緊張が訪れた。落としてはいけないと、懸命にグラスを掴んだ。緒方君の何食わぬ顔が妙に頭にこびりついた。
「なに?」と問われ、
あまりに凝視してしまっていたことに気づく。あれ、なんだろう、これ。多分、このときの緒方君の顔を、今後一生忘れないだろう、と思った。無意識で魅せられ、その直後、意識的に眼前の光景を記憶に焼き付ける作業を、瞬時に行った。多分、今これが、恋に落ちたというやつだ、と齢16歳で悟った。
もともとあまり男子を好きになることがなかった。というのも、なんかやさしくないとか、なんか品がなさそうとか、なんか子供っぽいとか、なんかばかり言っていても仕方ないけど、このなんかをクリアできなくて、好きにまでなることがなかった。それが今、なんかを一足飛びに越えていった。なんかなんて言っている場合ではなく、ほとんど話したことがなくても、橋の上で突如出くわして驚かされても、むしろなんか一緒にいて楽しいし、部活中予告もなしにすれ違ったらどう思うかな、とどきどきわくわくするくらいには、緒方君は意識下に潜み、グラスを渡され、指が触れるという幼稚園レベルの触れ合いが発生しただけで、好きが爆発したのを悟った。
渡された茶色い飲み物は麦茶だった。口をつけると一気に底が見えるまで飲み干した。思っていた以上に身体は水分を欲していた。
幾分かすっきりしてきた。山で意識がもうろうとしている私をおぶって緒方君は下山し、タクシーでカフェまで連れて行き、すでに閉店時間を迎えていたため、おじさんに頼んでソファに寝かせてもらい、いつまでも私が目を覚まさないので、店を後にするおじさんから店の鍵を借り、ひたすら眠る私の様子をずっと見ていた、と説明された。聞いている最中再三、穴があったら入りたかった。
約束もしてないのに、俺のこと待ってたんだろ、と言われ、はい、と頷くしかなかった。ここまで迷惑をかけておいて、緒方君がサボじゃないと認めないのと同じように、待ってないもん、と恰好をつけるわけにはいかなかった。
大きな溜息を吐かれ、私は悲しくなった。緒方君はテーブルに置いていた自分のスマホを手に取った。
「連絡先交換しよう。会いたいときに会えるように。スマホ出して」
予想もしていなかった提案にしばらく思考回路が追い付かなかった。連絡先を交換するのは、わかる。私が待ち伏せをしたせいで迷惑をかけられたからだ。スマートにストーカーは行えなかった。では、会いたいときに会えるようにとは、どいうことだろうか。会いたいときに会える、という言葉を何度も胸の内で反芻した。
「ほら、変な顔してないで、スマホ、はい」
ソファの上に置いていた私のスマホを手渡される。私だけでなく、緒方君も私に会いたいとき。さきほど突如恋心を自覚したもので、混乱していたが、そういえばもともとは緒方君が私をストーキングしていたのだ。緒方君こそ、私に会いたいんだ。
緒方君のスマホに映し出されたQRコードを、私のスマホが読み取ると、通信アプリの友達欄に”サボ”というユーザー名が現れた。
「やっぱり、緒方君がサボだ」
アイコンはサボテンだった。「まあ、今更だしね」と緒方君はバツが悪そうに答えた。
「一路が駅でひとりで人形の撮影してるのを見かけたときから、変な奴だなって思ってて、いつか話してみたかった。人形の商品名を調べて、ネット検索したら、すぐに一路があのとき駅で撮ってた写真が出てきたよ」
「よく、そのときの写真だってわかったね」
「一路が写真撮ってるところを、俺も撮ってたからね」
緒方君はスマホの画面をスクロールして、こちらに向けた。そこには確かに、あの日の私が写っていた。
「よく、撮れてるね」
不思議な感覚だった。片膝をつき被写体に向かって構えている姿形、スマホを向けられてポーズを取っている人形は、まんまあの日を切り取った光景だった。
「びっくりした。人形の撮影に興味持ってくれる人がいるなんて思わなかったから」
どぎまぎしながら感想を伝えると、緒方君は小首を傾げた。
「さっきも言ったけど、人形にも人形の撮影にも興味ないよ。ひとりで人形撮り続けてる変な奴に興味はあるけど」
「そ、そうなんだ……」
込み上げてくる昂りを抑えることに必死だった。普通だったらストーカーだ、と怖くなるところかもしれないが、さきほど麦茶を渡されただけで、この感情は恋だと自覚したばかりだ。喜びしかない。興味あると言われると、期待してしまいそうになる。これまで経験したことがないほど感情を揺さぶられて、思考回路がうまく働かない。
「今日、どうする。明日休みだし、このまま泊ってく?」
飄々とした視線を投げかけられた。凝視攻撃につづく、殺し文句? いや誘い文句? の合わせ技を受け、軽いパニック状態に陥っている。
「ううん、ありがとう。今日は迷惑かけてごめんね。今日のところは帰るね」
一段大きな声で告げた。妙な興奮状態だった。
緒方君が何も言わないので、伏せていた顔をそろそろと上げてみると、緒方君は笑いをかみ殺すように、口元に手を当て、肩を上下に揺らしていた。
「からかったでしょ? 私今、いろいろパニック状態なんだからね」
一体何がどうパニックなのか、緒方君にはわからないだろう。好きの自覚と、好きな人から夜に誘われた、という二巨塔感情に襲われてるのだから。なのに、そんなにおかしそうに笑われたら、つられてこっちまで笑ってしまいそうになるよ。
それから夏休みに入り、私と緒方君はたくさんの時間を共有した。連絡可能になったことで、お互いに下手な待ち伏せをする必要もなくなった。
ただし、私と緒方助手のあいだには、いつも人形がいた。人形なしで会う名目は何もなかった。
二学期に入った。
青空に入道雲も見なくなり、制服も半袖から長袖に移り変わっていた。
放課後、自転車置き場で自転車の籠に鞄をつめ、鍵穴に鍵を通していると、知った声に呼び止められた。
「帰んの?」
どこの部活にも所属していないので、授業が終わってから学校に長居する理由がなく、私は「帰るよ」と答え、なにか話題がないかなと探った。
「緒方君は部活だよね」
大して話題が広がった感じはなかったけど、自転車を押しながら、自転車置き場の入口に立つ緒方君のところまで歩いた。
部活前のようで、白Tシャツにジャージという定番のスタイルだった。秋になったら、上もジャージになるんだろうなと、つい妄想が膨らんだ。
「そう。4時からだから、まだ少し時間ある。あのさ来週の日曜空いてる?」
「空いてるよ」
「涼しくなってきたし、遊園地いかない? こないだ、人形が空飛ぶとこ撮りたいって言って、ラジコン飛行機に乗せて飛ばす方法考えてただろ。ネットで色々調べてたみたいだったけど、それよりも遊園地の遊具に乗せて飛ばせた方が、確実で叶いやすいんじゃないかと」
腕組みをした指を顎に当てながら、緒方君は提案した。
「それいい案だね。行きたい」
人形の飛行撮影と遊園地デートが同時に叶う。願ってもない提案だった。来週の日曜日までに、できる限り女を磨かなければ。目的が逆転しているような気がしないでもないけど。
インスタグリンに挙げている人形写真の「いいね」の数は、以前と比べて25%は増えていた。緒方助手の協力を得たことで、撮影場所はヴァリエーションに富み、人形により難しいポージングを取らせることも可能となり、写真のクオリティが上がったことが要因だろう。
ページビュー数も増え、今では毎日100~400回は閲覧してもらえている。人形写真というジャンルはそもそも人気がないので、一日数100回も閲覧してもらえれば、現時点では満足だった。
眠りに入る前は、こうしてインスタグリンのチェックをしてから、布団を被るようにしていたが、最近は日もうひとつ日課が増えた。緒方君の写真を眺めることだ。
人形をメインで撮りながら、こっそり緒方君を画面に捉える。緒方君はまさか自分にカメラが向けられているとは気づかないので、普段通りの姿をたくさん隠し撮ることに成功していた。
毎回撮った写真は、緒方君もチェックするので、隠し撮りがばれないように、緒方君を撮影した都度、別フォルダに隠し撮り写真を移していた。これでバレる心配はない。
緒方くんと約束の遊園地に行く道中。横並びで電車に乗った。何度も会っているのに緊張する。
「そういえば、中学のときもバスケ部だったの?」
返事が返ってこず、聞こえなかったのかなと隣りを見ると、緒方君は何となく怖い目をしていた。
「中学のときは陸上の短距離だった」
なんで高校では陸上部に入らなかったの、と聞きたかったけど躊躇われた。緒方君の目は、どことなく辛そうでもあった からだ。
「こないだ体育館が開けっ放しのとき、バスケしてるとこ見えたよ。手に吸い付いてるみたいにドリブルしてて、かっこよかった」
体育でやるようなバスケとは全然違っていた。何度も練習を重ねたテクニックがあった。
「そう? まだまだだよ」
それきりなぜか緒方くんは口を閉ざしてしまったので、遊園地に着くまでの間、車窓を眺めているしかなかった。
掃除の時間、またしても体育館の扉は全開放されていた。私は掃除をする振りをしながら、ちらちらと体育館に目線を向けていた。校舎から体育館まで、花壇と舗道を隔て、10メートルほどの間隔がある。体育館内は薄暗く、はっきりとは見えないが、時折ドリブルをする緒方君が視界を掠めた。
休日はなぜか献身的に人形撮影の手伝いをしてくれるけど、バスケをしているときの彼は別人で高校生らしく、ドリブルする姿が現れては、体育館の奥に消えていった。
「掃除当番?」
帰りがけの智咲(ちさき)に声を掛けられ、思わず身構えた。掃除そっちのけで体育館を覗き見していることが悟られてはいけない。
「うん、今週は渡り廊下なんだ」
そそくさと持っている箒を左右に動かす。
「実羽(みう)はまじめだよね。掃除なんか適当にやっとけばいいのにさ」
不良の智咲は、掃除なんか舐めた真似できるか、と箒を蹴飛ばし、イチゴジュースを飲みながら、その辺を闊歩するような女子だ。中学のときは割と大人しめの眼鏡女子だったのに、高校からがらりと雰囲気が変わった。もともと挨拶をするくらいの仲だったけど、最近やたらと話しかけられる回数が増えていた。
「大丈夫、適当にやってるよー」
あえて語尾を伸ばし、適当感をアピールした。
「あんまり無理すんなよ」
智咲はへしゃげた鞄を肩に提げ、校門の方に消えていった。
掃除ぐらいで大げさだな、それに別にまじめに掃除だけしているわけではない。箒を持ってここに立っていると、堂々と体育館を覗けるチャンスがある。
ふたたび体育館に目をやると、全開だった扉が狭まり、ほとんど中が見えなくなってしまっていた。いつもならあきらめて帰宅するところだが、今日はちがった。智咲に「まじめだよね」と言われて、なんとなく、むかっとした苛立ちともつかぬ冒険心が湧いていた。
箒を持ったまま、体育館の裏側に回り込んだ。ここから体育館に入ることはないが、扉だけはあるのだ。念のため周囲を見渡し、誰もいないことを確認してから、そっと扉を押した。
「あいつ、足だけは速いよな。バスケは全然なくせにさ」
開けた途端、男子部員の声が漏れ聞こえてきたので、驚いて腰を屈めた。
「ああ、緒方な。あいつ中学のときは短距離やってたみたいよ」
すぐ離れようとしたが、緒方君の名前が出てきたため、先が気になり、退くことができなくなった。
「ならなんでバスケやってるんだ? 玉遊びより、単細胞らしく直線走ってる方がお似合いだろ?」
「それがあいつ、試合中にアキレス腱やっちゃったらしくて、選手生命絶たれたらしいよ」
あまりの内容に力が抜け、その場に座り込んだ。以前、緒方君から中学のときは短距離走をしていたと聞かされたことを思い出した。
「まじか……? だからって、それでバスケかよ。俺たちも嘗められたもんだよな。走れませんがバスケならできますって、勘違いされたら堪らなーー」
声が途切れたと思ったら、「緒方!」とその部員が驚いたように言った。
恐る恐る扉の隙間から覗いてみると、バスケットボールを小脇に抱えた緒方君が、二人の部員の前に立っているのが見えた。無表情の中に怒りをはらんでいるようだった。
「先輩たち、まだ話してていいんですか。もうすぐ顧問来ますよ」
先輩だったらしい二人は、そそくさと練習に戻っていった。
ふうとため息をついた緒方くんが、開いている扉に気づき、そこから覗いていた私と目が合った。緒方君はこんな場所で変な生きものを見つけてしまったとでもいうような、複雑そうな表情を浮かべた。
「こんなところで何してるの?」
「いや、ちょっと探し物があって。もう見つかったから退散しようとしてたんだけど」
苦しい言い訳。誰も立ち入ることのない体育館裏で、そもそも何を探すというのだ。
「もしかして今の全部聞いてた?」
緒方君は扉から首を出し、他に誰もいないことを確かめるように、体育館裏をきょろきょろと見回した。私は多分、漏れなく聞いてしまったことを、正直に答えた。
「いらっしゃいませ、お、忍か。奥の席どうぞ」
緒方君のおじさんは私たちを定位置の席に通してくれた。
「遅い時間にごめんな」
「ううん、大丈夫。こっちこそ、変なところで盗み聞きしててごめんね」
「それは俺も驚いたけど」
バツが悪そうに緒方君は片手で頬杖をつきながら口元を覆った。
「あれ、全部聞こえてたんだよね?」
首を縦に頷いた。
「どこまで? あ、全部か、先輩たちが話してたとこも全部?」
ふたたび頷いた。
頬杖を突きながら、緒方君はふうと息を吐き出した。ストローをかき混ぜながら、私は緒方君が口を開いてくれるのを待った。
「中学のとき、県大会の試合中にアキレス腱断裂して走れなくなった。それで短距離は終了」
何て言ったらいいのかわからなかった。短距離が緒方君にとって、どれほどの意味を持っているのか、知らない。
「それで一番好きなバスケットをすることにした」
「一番好きな、バスケット?」
「そう。俺、一番好きなのは走ることじゃなくて、バスケットなんだ。走るだけより、ドリブルして、オフェンスして、シュートして、ディフェンスして、ブロックして、相手の連係プレイを読んでカットして、またオフェンスして、繰り返し練習してきた連携プレーをかましてやるほうが、走るより面白いだろ」
バスケットを語る緒方君は、バスケが楽しくて仕方ないっていう顔をしていた。
「じゃあ、短距離に未練は?」
「一切ない」
こういうところ、たまらないなと思う。潔いというか、もう寸分の隙も無いほどしっかり考えましたというような逞しさを感じる。
「先輩たちは色々言ってるけど、実際、走るのは速いけど、バスケットはまだまだでさ。ドリブルも下手だし、シュートも成功率低いし。でもセンスはあると自分で思ってるんで、これからまだまだ練習するよ」
「バスケ頑張らなきゃいけないのに、さぼって橋の上で私のこと待ち伏せしたの?」
あのとき確かに部活さぼって来た、と言っていたのを忘れていなかった。
「ああ、あれは……バスケも大事だけど、今しかないチャンスを逃さないことも同じくらい大事だから」
臆面もなく、彼はさらりと言いのけた。
私に会いたかったということなのかな。会いたい人に会うことと、やりたいことを努力することは、平行して行えばいいじゃん、ということかな。となると、やっぱり私のこと好きなんじゃないかな。
「一路なんか、誰からも理解されないのに、ひとりで懲りずに人形の写真撮り続けてるじゃん。見習うとこ多いわ」
いつのまにかアイスコーヒーを半分まで飲んでいた彼が、透明になった半分のグラス越しに、じとっとした割りに濁りのない目で私を見つめていた。思わずどきりとした。グラス越しという直接ではない目線が、奇妙であり、色気があり、そのグラス越しの目を一直線に見返してもいいものか迷った。
「誰にも理解されない?」
緒方君はさっきからにやにやしている。
「誰にも理解されてなくないよ。熱烈サポーターが目の前にいるもん」
恥ずかしい。けど、負けてられないのは私も同じだ。人形の撮影も、恋も、がんばらなきゃ。
と思いながら、はて? と疑問が浮かんだ。これ以上、どうがんばればいいの?
「今度、試合があるんだけど、よかったら来る? 体育館での人形の撮影も兼ねて」
「いいの? 楽しみ」
試合を見に行く、つまりは緒方君を応援する。
人形の撮影も最初の一枚があって、少しずつ続けながらがんばってきた。恋も、少しづつでもいいから、 がんばっていこう。
晩御飯に呼ばれるまで、部屋でスマホを見ていた。インスタグリンに掲載されている、世界の人形の写真を見ていると、新しい人形が欲しくなってしまう。すでに12体持っているけど、飽きが来ていた。新しいモデルが欲しい。人形はとても高価だ。緒方君と出かけることもあって、出費が増えている。新規のお迎えはしばらく我慢するしかない。
アルバイトをしてもいいのだけど、そうすると土日の撮影時間や緒方君との時間が減ることになり、本末転倒な気がした。被写体の新しい魅力を引き出せるような撮影を模索することがベターだと、決意を新たにしていると、スマホの通信アプリが鳴った。
メッセージは智咲からだった。めずらしいなと思いながら、通信アプリを開くと、そこには目を疑うような内容が、写真とともに記載されていた。
“これ、実羽のアイコンの人形じゃない? 一緒に写ってるサボテンキャラクターのキーホルダーって緒方が鞄にぶら下げてるやつだよね? 美羽と緒方ってつきあってんの? この写真、学校の裏掲示板サイトに流されてるよ”
それはインスタグリンに掲載している写真だった。しくじった。確認が甘かった。私が普段よりウェブ上で使用している、ユーザーアイコンの画像は、共通して人形写真にしていた。その人形は、12体のうちお気に入りの1体で、お気に入りがゆえに、緒方君と行う撮影にも、よく連れ出していた。さらにその写真は、緒方君のおじさんが経営しているカフェで撮影していたので、背景にはカフェの様子がはっきりと映し出されていた。そのソファに置かれている緒方君の鞄には、確かにサボのキーホルダーがぶら下がっていた。
みんなにばれた。頭の天辺から足の爪先まで、ぞわりとした恐怖が駆け抜けた。祈るような気持ちで恐る恐る学校の裏掲示板サイトを開くと、智咲が教えてくれたように、さきほど転送された写真と、匿名たちのささやきが、詰まりを知らない排水溝のように流れつづけていた。ひとつ幸いなことは、想像していたほど攻撃的な書き込みは少なく、みんな興味本位で騒ぎ立てているという印象だった。
智咲にお礼のメッセージを送った後、すぐに緒方君に通話をかけた。着信音が鳴り響く中、緊張と恐怖に押しつぶされそうだった。
「もしもし?」
いつもはメッセージのやり取りをしているだけなので、突然の通話に驚いているようだった。
「もしもし、急にごめんね。今、大丈夫かな」
「全然大丈夫。なんかあった?」
普段と変わらない声だった。おそらくまだ何も知らないのだろう。
「学校の裏掲示板で私たちのことが噂されてる」
神に祈るような気持ちだった。私も緒方君も学校では目立つタイプではない。波風立てず、地味な学生生活を送っている。噂の的になるようなことは慣れていない。
「それ、いつの話?」
「あ、今日。さっき、智咲から教えてもらって」
「わかった。見てみる。ちょっと待ってて」
通話は切れた。ちょっと待っててと言われ、すぐに連絡がもらえるのだろうと、しばし待つことにした。しかし十五分経ち、三十分経っても音沙汰はなかった。
今日はもしかしたらもう連絡は来ないのかと不安になりながら、お風呂から上がり、肩にタオルをかけ頭をがしがし拭きながら自室に戻ると、ベッドの上のスマホのランプが点滅していた。つかの間の安堵と、画面を開く恐怖とのせめぎ合いの末、ゆっくりとスマホの画面をスライドした。そこには緒方君からの着信が一件入っていた。メッセージはなかった。
スマホを握りしめベッドまで移動し、一呼吸置いてから通信ボタンを押した。何度か呼び出し音が鳴り響き、その間、緊張と、いっそ相手が出なかったらいいのにという思いが過ぎった。悪い話を聞きたくなかった。呼び出し音が途切れ、通話が繋がった。
「遅くなってごめん。もう少し早くかけられたらよかったんだけど、見たいテレビがあったから、遅くなった」
「え、うそ、理由それ?」
「掲示板見たけど、あれ、気にしなくてもいいんじゃないかな」
とても、のほほんとした口調だった。
「え、気にしなくても、いいのかな? あんなに噂になってるのに? 私たち、場合によってはつきあってると思われてるよ?」
「別につきあってると思われても、俺は気にしない。特に困ることないし、むしろ一路と一緒に行動しやすくなる」
確かに悪口を書かれたわけでもないし、みんな興味本位で騒いでいるだけだろうから、ほとぼりが冷めるのも時間の問題だろうし、こういうのは気にしないのが一番なのかもしれないけど。
「でも、でもさ、実際にはつきあってないじゃない。それなのに疑われたままでいいのかなあ」
長い沈黙があって、通話口の向こうで緒方君が息を呑むのがわかった。
「一路がいやだっていうなら、誤解解いてもいいけど」
どこかつまらなさそうにも聞こえるけど、気のせい?
「今日のとこは寝るわ。一路も歯磨いて寝ろ。いいな、あまり気にするなよ、わかったな? おやすみ」
「えええ、ちょっまっ……おや、すみ……」
唐突に通話は切れた。
気にするなというのは無理があるけど、それでも噂の相手である本人がいたって平気そうにしているのは救いかもしれない。明日学校に行ったら、みんなからどんな反応をされるのか怖い。
翌日の登校ほど、気が重たい日はなかった。雀が麗しくチュンチュン鳴いてみようが、お母さんの作ったみそ汁になぜかトーストが漬かっていようが、そんなことは一斉気にならなかった。
「お母さん、なんだか熱っぽいみたい」
みそ汁を十分に吸い込んだトーストを箸でつまみ上げながら、私は暗に、休みたい、と訴えた。朝御飯を作りながら、会社に行く準備もしているお母さんは、ひとこと「はあ?」と言ったきり、相手にしてくれなかった。熱を測る素振りさえしてくれなかった。お母さんも朝は忙しいのだ。娘の仮病につきあっている暇などなかった。
学校をずる休みすることはあきらめて、バターとみそ汁を吸ったトースト(と、もはや呼べるのかわからないけど)をかき込んで、バターが染み出たみそ汁を最後まで喉に流してから家を出て、自転車にまたがった。
ペダルを力強く漕ぐ度に感じる風。不安な場所へペダルを漕ぐほどに近づいている。口の中に残るバターと小麦と味噌の風味。心地いい風と不穏な口内にアンバランスを覚える。学校に着かなければいいな、という願いとは裏腹に、道は確実に学校に続いている。
学校に着いてから、とうしたらいいのか、まだ答えが出ていなかった。友達になんて言おうかも、どういう顔をしたらいいかも、わからないでいた。だから未知の学校(せかい)へ進むこの道が怖いのだ。昨夜、緒方君が言った、気にせずに寝ろ、なんて言葉を真に受けず、対策を練ればよかった。そうしたら今朝になって、こんな覚悟のつかない宙ぶらりんな気持ちで登校することなんかなかったのに。ややもすれば、人のせいにしそうになる自分に、さらに嫌気が差した。
自転車置き場に自転車を止め、教室に向かう途中、下しか向けなかった。心は重しが乗っかったようだった。足取りは重く、扉が開いたままの教室に入り、自席に向かうところ、吏奈(りな)とノノが早速近づいてきた。
「噂の的だね、実羽!」と吏奈。
「めずらしいじゃない、あんたがこんなに注目されるなんて」とノノ。
私は愛想笑いを浮かべながら、鞄を机に置き、次の言葉を待った。
「いつのまに人形撮影同好会なんて作ってたの? 人形好きなのは知ってたけど、私たちにひとことくらい相談してくれてもよかったんじゃなーい? どうせ、入ることはないけどね」
そう吏奈が笑い飛ばした。全く聞き覚えのない単語に耳を疑った。
「人形撮影同好会? なんのこと?」
こんなときでもオウム返しは最高のパフォーマンスを発揮する。というか、これしか会話する術を持ち合わせていない。
「知らない振りしたって無駄だよ。もうネタは上がってるんだから」
ノノは私の机に手を置いたまま、まるで勝ち誇ったかのようだった。
「ネタ? ネタって、え、ネタ?」
もはやオウム返しで対応できるコミュニケーションレベルは超えているようだった。何のことを言っているのか、本気でわからない。
「おまえ、人形愛好者だったんだな……、ほとんどしゃべらないから、何考えてるかわかんないやつだったけど……。実物の女より、人形のがいいのか?」
なんか今どこかから、とんでもなく誤解されていそうな発言が飛び込んできた。扉が開け放たれたままの教室の外、渡り廊下でたむろしている男子たちだった。実物の女より人形がいいの? なんて聞きようによっては、危ない嗜好に走ったのかと問われている相手は誰かと視線を送ると、つまらなさそうに欄干に座っている緒方君だった。
「え、ちょっとなに、どういうこと、私と緒方君が人形撮影同好会の部員だっていうことになってる?」
おもしろがっている吏奈とノノに詰め寄ると、二人は顔を見合わせて、くすくすと笑いだした。
「だって、そうなんでしょう――――? お似合いじゃない、楽しそうだよ、あんたらの写真」
速攻でスマホの画面に、私の人形と緒方君のサボキーホルダーが写っている写真を目の前に見せられ、なるほど、そういうことか、とやっと納得した。
私たちがつきあっているという噂を阻止するために、緒方君は人形撮影同好会という恰好の理由を作り上げたのだ。これなら休日に二人でいても、同好会活動の一環です、と胸を張れる。
「ちょっと残念だったけどなあ。実羽と緒方がつきあってたら、もっと、笑え……おもしろ……、いや、応援できたのになああああああ。にんぎょ、人形好きとはねえええええええ。うけるううううううう」
吏奈は腕組みをしながら腹を抱えるようにけらけら笑い、
「何が好きかとかは、個人の自由だけど、よりによって緒方が美少女人形好きとは、まったく理解できないわ。笑えるけど……ふふ」
ノノも抑えきれない爆笑を喉の奥に留めるのに精一杯のようだった。
「はは、私も協力者ができて助かってるんだ。ごめん、ちょっと、行ってくるね」
機嫌よく爆笑してくれている二人を残し、外の渡り廊下に向かった。言われたい放題の緒方君の前に立った。
「一路、おはよう」
「どういうこと、いつ同好会なんか作ったの? なんでひとことも相談なく……」
「おまえら、人形の服脱がせて遊んでるんだろ」
言い終わるより先に、お調子者の中林にからかわれた。聞いた覚えのある台詞に、私たちは顔を見合わせ、思わず吹き出した。
「ちがいます。人形に服を着せて遊んでるんです!」
二人の声はぴったり揃い、まるで同好会に掲げている教訓をなぞらえているようだった。中林はずれた黒縁眼鏡を直しながら、「な、なにいってるんだ? おまえら」と口をぽかんと開け、それ以上は言えないでいた。
「ちょっと、こっち」
そのあいだに緒方君のシャツの袖を引っ張って、階段の踊り場の隅まで拉致した。
「おまえら仲いいなー! やっぱりつきあってんじゃないのか!」
中林以外の男子たちから野次が届いた。緒方君は私に引っ張られるまま、横向き歩きでついてきていた。
「同好会ってなんのこと? いつ作ったの? ちゃんと説明して欲しいんだけど」
ぎゃんぎゃん怒鳴られることがうるさいのか、緒方君は面倒くさそうに、耳を指で塞ぐ仕草をした。
「朝、学校来て、すぐに人形撮影同好会の申請書提出して、その場で受理された」
「ええええええええええっ!」
人間、本当に驚いたらとんでもなく素っ頓狂な声が出ることを知った。同好会って、そんなに簡単に許可が下りるものなの? そもそも私に何の相談もしないでいいと思ってるの? 聞きたいことが濁流し、むしろ何から聞いたらいいのかわからない。
「あ、そうそう、部長が一路で、副部長が俺だから」
「これで今後はどれだけ一緒に行動しても、人形を振り回しても、誰からも何も文句言われないよ。よかったね」
勝利宣言とも取れる緒方君の勝ち誇ったような笑顔が恐ろしくも頼もしく、朝のHRを告げるチャイムが学校に鳴り響いた。
今日は待ちに待った、緒形君のバスケットの試合の日。
惜しくも試合は攻防の末、2点差で負けてしまった。緒方君は選手交代で出場し、スリーポイントシュートを3本も決めたけど、相手チームの攻防にあぐね、最後まで追いつくことはできなかった。
試合終了後、他の部員たちはみんな体育館から出ていったのに、ユニフォーム姿の緒方君だけが、まだコートの中央に残っていた。
「残念だったね。でもまた、来年があるよ」
熱気の残った体育館に、わたしたち二人だけ。何て声を掛けたらいいのかわからない。下手な励まししか言葉が見つからない。
「本番は来月だよ」
ぽかんとした顔の緒方君が、バスケットボールを人差し指で回転させた。
「え? 来月?」
「そ。今日のは練習試合。あれ、いってなかった?」
首を横に振る。
「ごめんごめん、誤解させて」
緒方君は笑っているけど、さっきコートに一人で残っていた時の悔しそうな顔。練習試合とはいえ、毎日いっぱい努力してたもんね。
「人形の撮影は、ちゃんとできた?」
突然、緒方君の顔が人形撮影同好会副部長の顔になった。
「ごめん! 緒方君がプレイしてるとこを撮るのに必死だったから、人形の写真は一枚も撮れてないの!」
抜けてるなとか、馬鹿だなとか言われるのかな。仕方ない。でも今日のわたしは自分に正直でいたかった。人形よりも、撮っておかないといけない瞬間がたくさんあったから。
「一路、抜けてるな。そんなんじゃ人形撮影同好会の副部長として情けないぞ」
ほら言われた。予想通りの台詞。だけどひとつだけ予想に反していたのは、緒方君の顔が耳まで真っ赤だったことだ。
【完】