土を掘って、掘って。
よくわからない植物の根っこやら小石やらにたくさん当たって。
カブトムシの幼虫を探すということが思いのほか大変な作業だったと気づいた時、二人はとある結論に達した。
それはつまり。

「……休憩、しましょうか。」
「ああ。そうだな。」

一旦諦めよう。
潔く。

「頭空っぽにしたあとでやり直したら、案外パッと見つかるかもしれないですし。」
「うん。そうかもしれないな。」

潔く……はなかったかもしれないが。それでも。
気分転換は大切なことに変わりはないのだから。

「うーん。」
「ってて、腰が痛え……。」
「ふふ。何だか私たち、おばあちゃんみたいですね。」
「あー、かもなぁ。」

冬の最中にじっと屈んで作業すると、体が固まる。それに、単純に寒い。
スコップを置いて、立ち上がる。腰に手を当てて、ゆっくり伸びをする。
そうすると、それだけでちょっと生き返ったような気分になった。爽やかな風に吹かれ、目を細めたお互いの表情が、微笑んだようになる。

十分に腰を伸ばした後のことだった。
雪子が玉枝に提案した。

「お絵描き、してみませんか?」と。

え、お絵描き?
玉枝がキョトンとした表情を浮かべると、雪子は頷く。

「嫌だったら別にいいんですけど。」

という雪子の言葉に、玉枝は少し迷った。

「……嫌じゃないが全然上手に描けないぞ。」
「上手じゃなくていいですよ。何なら棒人間とかでも。」
「なるほどな。」

まあ、そんぐらいなら。
というわけで、落書きタイムが始まった。

適当な木の枝を拾ってくる。それを使って、さっき散々掘り返して柔らかくなった土の上に、絵を描く。
ぐい、と地面に線を刻みつけるのは、案外気持ちがよかった。

玉枝は隣で絵を描く雪子をチラリと見た。
雪子はまったく迷いなく、すいすいと描いてゆく。
……少女。ボブカットで、花のかんざしを飾っている。三日月を見上げている。鞄を提げて、優雅に唇に手を当てている。少女の背景では、煙を上げながら汽車が走っていて……

「さすがに上手いな。」
「ありがとうございます。」

玉枝は素直に感動した。
土の上に木の枝で描けるモチーフ、といったら、その内容はかなり限定されてしまう。それを、ここまで詳細が人に伝わるようなものを描いている。すごいことだと思った。
ふう、と息をついた雪子が、ふと玉枝のほうを見る。玉枝が描いた絵を、その視界に入れて。そして。

ん?

玉枝は首を傾げた。
なぜだろう……雪子が、目を見開いている。そしてポツリと、一言。

「すごい。」

いやいや、と玉枝は思った。
さすがに冗談だろう、と。だから、こう言った。

「ん、何が?」

そして雪子は、「……何かが。」
こう答えた。

……それが含む意味は、よくわからなかった。
玉枝は、はあ、と曖昧に言ってみる。

雪子がポンと手を叩き、「漫画だ。」と言ったのは、それから大体三十秒後のことだった。

「漫画?」
「そうです。漫画っぽいんです。」
「………。」
「物語のキャラクター的なオーラがある……って言ったら、もうちょっとわかりますか?」
「……なん、となく。」
「ごめんなさい。わからなかったですね。」

雪子が謝る。玉枝は、いやいや、とそれを遮った。多分、雪子ちゃんのせいじゃない。むしろ、これは。

「私の家族のせいだな。」
「へ?家族って……ファミリー?」
「ファミリー。ファミリー・メンバー。」

なぜか英語になったが、それは別に気にするところではない。
突拍子もない返答に面食らう雪子に、玉枝は咳払いをして説明する。

「私、漫画とか、読んだことないんだよな。その、家族のせいで。」
「はあ。」

それはつまり、どういうことかをギュッとまとめると。
“少女漫画アレルギーの母さんと少年漫画アレルギーの父さんとほのぼの漫画アレルギーの姉さんがいるから、漫画関連の書籍は家に一冊も置いてない“……ということになる。
いわゆる、家族みんなが漫画嫌いなせいで、自分も読んでいない、みたいなやつだ。

家族の影響、というものはかなり大きい。
漫画に対するありとあらゆる悪口を聞かされるうち、自分の心にも『読みたくない』の気持ちが無意識に芽生えてしまう。友達の家に遊びに行って勧められても、図書館で学習漫画を見かけても、自然と敬遠して通るようになってしまった。
だからつまり、“漫画っぽい”と言われてもいまいちピンとこない。だって、漫画なんて読んだことないんだから。

「へえ……。」

雪子はびっくりしたように目を見開いている。
実際、びっくりしたのだと思う。本当の本当に一冊も読んだことないんですか?と食い気味に尋ねてきた。ああ、一冊もないな。奇跡的怪奇ですね。奇跡的カイキ……なんだそれ?いえ何でも、忘れてください。……わかった、忘れる。

というわけで、玉枝は自分の描く絵が“漫画っぽい”のだと知った。
キャラクターが生き生きして動き出しそう、とか、玉枝さんは絵を雑に描くイメージだったから意外に綺麗で丁寧でびっくり、とか、色々な角度から雪子は褒めてくれた。

絵が上手、という褒め方をされたのは人生で初めてではなかった。
母さんなんかよく『玉ちゃん絵が上手ね〜。父さんに似たんだね〜。』と嬉しそうに言っていた。特に幼少期。
けれどそれはただの『上手』だったから、具体的に何がどういいのかさっぱりわからなくて。しかも鉛筆や水彩絵の具なんかを使った写生はどうにもつまらない上にあまり得意ではなく、適当にババッと塗って終わらせてしまうことが多かった。

「へえー。この落書き、そんなにいいか?」
「はい。少なくとも、私は好きです。」
「それを言ったら、私も雪子ちゃんの絵が好きだけどな。」

玉枝は穏やかに笑って、ふと気になったことを雪子に問いかけてみる。

「将来絵描きになったりする予定あったりすんのか?」
「うーん。さすがにそこまで絵を描くの好きじゃないので……。」
「そっか。じゃあナシだな。」
「はい。」

仕事にするほど好きじゃない。その気持ちはよくわかる。玉枝も虫は好きだけど、虫博士になるほどじゃない。
思う存分絵を描いて遊んだ後、カブトムシの幼虫探しを再開した。
そう上手くは見つからないよね、なんて言っていた矢先、見事に二人は掘り起こした。白くて丸々太った幼虫が出てきた時、逆にびっくりしてしまって、大いに混乱した顔を見合わせる。互いの顔が面白くて、二人は同時に吹き出した。

「ありがとうございました。幼虫探し手伝ってもらっちゃって。」
「全然。私もこういうの好きだし。」
「ああ、確かに。」
「“ハッピー番長は虫番長“……なんてな。」
「懐かしい……そういえばそんな歌も流行ってましたね。」

くすり。
雪子は笑う。玉枝は釣られたようにちょっと笑った。

「ああ、」と玉枝は言う。

ちなみに、この場所、この時間。
「私、だいたい蛾とかアリンコとか眺めてダラダラしてるから。」

会いたかったら、いつでも会いにこいよ、なんて。

ほんの少しだけ昔の自分に戻ったような偉そうな言葉遣いをして。それに応えるように雪子が笑って。
それで、その日は別れたのだった。






雪子は、ほとんど毎日公園にやってきた。
そして玉枝も、いつもそこで待っていた。

公園を訪れる時。雪子は学校ではめているという薄い白手袋ではなく、もふもふのあったかい手袋をはめてくる。
しかし。一度それをわざと取ってもらった時、玉枝は思わずうーんと唸ってしまった。

荒れていた。
ひどく、ひどく、肌荒れしている。夏場に手袋をしていたとすれば、蒸れてあせもになったりすることは予想がつく。けれど、今は冬の最中。

「……冬でも蒸れるもんなのか?」

思わず問いかけた玉枝に、雪子は頷いた。

「蒸れます。あと、けっこう重症の霜焼けも発症してます。学校行く時につけてる手袋が薄すぎるせいで。」
「……踏んだり蹴ったりじゃねーか。」

雪子の手が可哀想になってきた。白手袋の影響が大きすぎる。何もかもお洒落な白手袋のせいで、手肌が犠牲になっている。

「本気で手袋やめるべきだと思うんだが。」
「私も、わかってはいるんです。」
「じゃあ……って言って解決すれば悩んでるわけないんだよな、それ。」
「はい……。」

アイデンティティ、という言葉がある。
自己同一性。自分が自分である、という感覚。
他人と自分を区別できるものがあると、その感覚はより強くなる。
そして。

————“白手袋の姫“

そう祭り上げられて慕われ、『手袋をはめてからの蜘蛛逃し』を学校中に流行らせることまで成功した雪子。
けれど元々は何者でもない、ただの目立たない女の子だったからこそ。手袋を脱いでしまえば、誰でもなくなってしまうのではないかという不安がある。
服を着た透明人間が服を脱いで、誰の目からも見えなくなってしまうのを怖がるように。雪子もまた、自分という存在を手袋に依存していたのだった。

「もう、手袋を取るのも取らないのも嫌だから……」
「嫌だから……?」
「……学校やめちゃいましょうか。」
「待て待て待て。」

不登校の自分がどの口で言ってるんだ、と思わなくもないが。玉枝はさすがに突っ込まざるを得なかった。

「一応聞くぞ。なんでそうなった?」

問えば、なんでって……と雪子は呟くように言う。
なんでって、もう、どうしようもないですよ。こんなになってしまったら。
その答えを聞いて、玉枝はハア、とため息をついた。

「取ればいいんだよ、取れば。」

え、と。
ちょっと戸惑ったようにこちらを見る雪子に向かって。玉枝は無造作に言った。

「もう一度言うぞ。手袋なんて、取っちまえばいい。つーか、取れ。」

だって、と玉枝は言う。

————“生きよう“って、思ったんだろ?

あ、と。
雪子が大きく目を見開いた。
ゆっくりと。はっきりと。
そして……

その瞬間、奇跡的な何かが起こった。
雪子の美しく澄んだ瞳に、幻のように桜吹雪が舞った。
たくさんの花びらが、雪のように。ひらひらくるくると空気に散りばめられた花吹雪が、天を目指して昇ってゆく。

雪子が静かに、思い出している。
そういえば、そうだった。と。
四月に自分は、何かとても大事なことを決意した。
それはきっと、選択の結果で自分をがんじがらめに縛るために決めたことでは、なかったはずだ。と。

「……そう、ですね。」

雪子が、静かに微笑む。その目に、涙が滲んでいること。それを玉枝に隠そうともせず、ゆっくりと上を向く。心底幸福そうに、空を見上げている。

「生きます。今までの私がそうだったように、これからも。」

だから、と雪子は玉枝に言った。

「玉枝さん、ありがとうございます。」

どういたしまして。
その言葉を自分が言えたかどうか、玉枝はわからなかった。
玉枝もまた、雷に打たれたような衝撃と共に、立ち尽くしていたのだから。

“生きます”。

雪子の宣言。静かで、短い、シンプルな一言。
でも、と玉枝はその時思った。
私は、同じことを言えるだろうか。

玉枝はただ沈黙したまま、その場に佇み続ける。




カブトムシの幼虫探しから始まった、玉枝と雪子のささやかな関わり。
優しさ。幸せ。寂しさ。悲しみ。ありとあらゆるものが混ざり合って、二人の関係は深みを増した。
そして。
お互いがお互いの心に小さなさざなみを立てたあと。

長いようで短い冬休みが、終わる。