雪虫と玉虫が隣り合っていた冬

リーダー、みたいな人は、どんな集団の中にだっている。

たとえば、中学校のクラスにも。

タピオカジュースをみんなに奢っちゃうような。海辺の白砂に勝手にシートを敷いて、これまた勝手に買ってきたスイカを置いて、目隠しと棍棒を適当な子に渡して、突如スイカ割り大会を開催しちゃうような。幽霊が怖いくせに、自分から友だちを集めて肝試しをやっちゃうような。

……そんな子が、なんか一人くらいは、いる気がする。

というか、いつも、いた。

何を隠そう。玉枝自身が、そういう子だった。
ハッピー番長、なんて、幼稚なのか意外と怖い意味でも込められているのか、よくわからないあだ名で呼ばれていた。
まあ、多分前者なんだろう。
玉枝は全然、怖くない人だったから。
自分で言っていてなんだ、と思うかもしれないけれど、実際そうだった。怖がらせるようなことなんて一度もしたことないし、なんなら、雨みたいにさっぱりしていて虹みたいに明るい人だね玉枝ちゃん、とか真正面から言われたこともある。けっこう嬉しかった。誰が言ってくれたんだったか。まあいいや。忘れたし。


あれは、春。
中学校へ入学してから、さほど時間も経っていなかった頃のこと。
教室の窓が開いていて。
ふわん、と虫が飛び込んできたことがあった。
虫は虫でも、尻に針がついているやつ。つまり、ハチ。

体育前の着替えの時間のことで、ちょうどその教室には女の子しかいなかった。当たり前のように、騒然となった。ぎゃ!とか、わあっ!とか言いながら、身をかがめたり教室の隅っこに退避したり、その隅っこの大変な渋滞になったところへ蜂が飛んできて人間ドミノ倒しが発生しかけたりと、まあカオスなことになっていた。
誰も彼も、何もできずに右往左往、てんやわんや。

玉枝だけが、王者のように立っていた。

「ったく、しょうがねーなぁ。」

力の緩やかに抜けた自然体で、パッと羽織る用のジャージを手に取る。
チェスをやりながら、そういやぁナイトってめっちゃかっこいいよな、なんて言うような気軽さで、玉枝は笑った。

「私がいなきゃ、ミツバチ一匹だれも処理できねーとはなあー。」

あ、あぶないよ!とか、虫取り網を職員室から……いややっぱ事務室に行ってそれから……!とか、やっちゃえハッピー番長!!とか何とか勝手に騒ぎ始める女子たちの声を背に、玉枝はさっとジャージを振った。
はためくジャージ。吹きすさぶ春風。燦然と煌めく玉枝!

ハチの飛行軌道を読む。捉える。全開になっている窓へ連れて行く。そのまま腕ごと突き出して外へ出す。戻ってこないようにと空いてる手で窓を閉めながらゆっくり慎重にジャージを振り、ハチを逃がす。
よし、いけ。そのままいっちまえ!
ブーン、飛んでいく。どこかの花壇か草むらかへ向かって、ハチは静かに飛んでいく————。

できた。
完璧だ。

そう思った瞬間、爆発的な歓声が湧き上がった。

「ありがとう〜っ!!」
「今日から拝みますハッピー番長さま!」
「命の恩人!」
「ちょーかっけえじゃん!!すっげえ!」

いや、いいってそーゆーの、と玉枝はちょっと照れたように笑って言った。
てゆーか、拝むって何だよぉ、私は菩薩のポーズなんて勘弁だぞー?金箔を体に貼ってくれれば満足です!いやいやそっちのほうが嫌だろーが。じゃあ菩薩のポーズならやってくれますか?どうして了解すると思ったんだよオメー。

などと、そんな風にみんなで戯れていれば、当然のように体育の授業に遅刻。
更衣中にハチが乱入して!と全員で言い訳すれば、体育教師は微妙に頷きながらもちょっと難しい顔をしていて。だからみんなで遅刻の一件から教師の気を逸らそうと、玉枝の武勇伝を大袈裟に語り。教師は興味を惹かれたのかついに熱心に話に聞き入り初めて相槌を打ち、「すごいな。」と玉枝のほうを振り返った。

「別に、そんな大したことやってねーっすよ。」
頭をかきながら言うと、教師は「ほんとに?」と聞いてきた。
もちろんみんなが、「絶対に大したことをやっていた。」と玉枝の発言を全否定する。教師の顔には笑顔が戻り、遅刻は見逃され、説教もなく、いつも通り楽しい体育の授業が始まった。


玉枝の虫好きは、ゆるやかに知れ渡った。

————玉枝ちゃんって、ハチ怖くないの?
————うーん、別に。ミツバチとかなら、むしろ可愛いやつらだしなー。
————かっ…可愛い……?
————そーだな。虫はみんな好きだかんな、私。
————へえ……。

目を丸くして玉枝を見つめるクラスメイト。
自分を見る目があの体育教師みたいにキラキラしていて、尊敬や憧憬の念を含んでいるのがわかって、玉枝は嬉しかった。

ハッピー番長の意外な一面を発見した、ということで、この情報は数日でクラス中に広まることとなる。

そして。






楽しかった。
嬉しかった。
幸せだった。

……なのに。

玉枝は、あの頃のことを思い返すたび、どうしてだろう、と思う。あんなに満ち足りていたはずなのに、どうしてだろう、と。

ハッピー番長でいる自分が大好きだった。自分もみんなも、幸福そうに笑っていた。
それでも、どこか玉枝は……虚しかった。
辛かった。
苦しかった。
もがいてももがいても抜け出せない網に絡まっているような息苦しさを、感じていた。

変わらない日々。
殻を破れず、どこに向かっても飛び立てず。
よくわからない薄ぼんやりした何十年後かの自分のために生き続けているような、そんな感覚がずっと付き纏っていて。
誰のために笑っているのかも、わからなくなっているような。
知っているはずなのに。それなのに、知らない。わからない。

……つまり“あの出来事“は、根本の原因ではないのだ。と、玉枝は何度も思っていた。
あれは、きっかけだった。
いつ崩れるともしれないトランプタワー。それを壊す静かな風が、たまたまあの日に吹いただけ。風なんていつか吹くものなんだから。遅かれ早かれ、同じ結果になっていた、と思う。


クラスの男子の雑談。
声を潜めていなかったのは、それが悪口や陰口の類ではなかったから。けれど玉枝に聞かせる気があったかといえば、それは否だったのだと思う。

「————なあ、合理的に考えて、彼女にするとしたクラスメイトの誰が理想だと思う?」

壁を挟んで漏れ聞こえた会話。
玉枝は続きが気になって、思わず立ち止まった。
その理由の一つに……『ハッピー番長』の言葉が聞こえたから、というのもあっただろう。
何気なく、耳をそばだててみた。

「番長は、うーん……縄文時代の完璧ガールフレンドって感じじゃねえか?」
「ハアー?縄文時代?」
「ほら、虫も怖がらねえし。採集とか集落のみんな引っ張ってバンバンやってくれそうじゃん。飢え死にしそうな冬も元気づけてくれてさ。な、縄文時代の嫁さんとしちゃあ最高だろ?」
「ほーん。」
「なあ、現代だったらどうよ?」
「現代?……とりあえず……番長は除外するとして……うーん、現代っぽいやつ……川島とか?」
「ギャルじゃねーか。」
「オメーそれ、現代ファッションと映画とメイクが好きだから選んだだけだろおー。バレバレだぞー。」
「覚えてんぞー。この前、大人しい子が好みっつってたよなぁ?」
「理想のガールフレンドの話だろーが。恥ずかしがんなよなー。」
「………。」
「おいおいコイツ本気で悩み始めたぞ。大丈夫かー?」

————ぷっつん。

何かが、どこかで、切れたような気がした。

……ああ、そう。

玉枝は冷えきった何かが、腹の底に降りていくのを感じていた。

私は縄文時代に最適なガールフレンド。
でも。現代においては。
とりあえず除外することが許されてしまう存在なんだ。


こんなのはただノリに任せて喋ってるだけの男子の戯言だ、とか。玉枝がクラスで絶対的な人気者であるからこそ、あんなふうにジョークでいじることができているのだ、とか。冷静に考えてすぐに思い浮かんだ思考が、全てどうでもよくなっていた。

そう。
本当の、本当に。
何もかもがどうでもよくなっていて。だから。

……学校、やめてしまおうかな。

昨日までだったら、絶対に思いつかないようなことを、玉枝は考えた。

そして、実際に。
翌日から玉枝は、不登校になった。






白い息が、空気にほわほわと溶けてゆく。
木枯らしが冷たい。
藍色のセーター。それを覆い隠す黒いフードつきロングコート。手袋は身につけていないがその代わりに手をポケットに突っ込んで、玉枝は小さな公園に佇んでいた。
冬枯れの樹木に、黒っぽい蛾が止まっている。
玉枝は、それを、ただじっと見ている。近づきはしない。触るとこっちの指がかぶれるかもしれないし、第一虫の羽なんて脆いもの。お互いに傷つかないように、ちょうどいい距離を保っている。

……けれど可能なら、その美しい模様の染め込まれた羽をそっと撫でて、血の巡りをもつ人間というもののぬくもりを感じてほしいと、そんなことを思う。だって、それぐらい、虫が好きだから。
などと、とりとめのないことを考えていた時だった。

午前中。
大体は年配の人か、犬の散歩をする人などが訪れる時間帯。小さな子供連れも来ないことはないが、遊具が全くない小さな公園なのでかなり稀だ。
……つまり、元同級生と顔を合わせるなんてことが、万が一にもないような時間帯なのだけれど。

「……あ。」
「………。」

誰だっけ。顔は覚えている。名前は完全に忘れた。

「雪子です。覚えて……ますか?」
「あー、うん。」

雪子。そういえばそうだった。
玉枝は、気まずそうに頷いた。久しぶり。言うと、素直な返事が返ってくる。はい、久しぶりです。


クラスに少なくとも一人、リーダーがいるとすれば。
————同じく少なくとも一人は、目立たない影のような子がいる。

その代表とも言える存在……雪子が、そこに立っていた。

雪子について覚えていることはあまりない。
ふと見れば、教室の隅っこでノートに絵を描いている。集合写真では後ろの方の端っこで埋もれている。そうして注目の的になれないことを、特に気にすることもなく。数人の静かな友人とたまに一緒に下校していたかもしれない。
雪子という同級生は、そんな子だった。

「えっと……学校は、今日は、」
「今日から冬休みです。」
「……なるほど。」

名前が思い出せなかった罪悪感を隠すように話の転換を試みれば、見事に撃沈した。日付感覚がなくなっていたらしい。玉枝の間抜けぶりが露呈しただけだった。

それにしても、と思う。
よくもまあこんな偶然があるものだ、と。

雪子は、公園に遊びに来るような少女ではなかったはずだ。
繊細で、優しく、雪細工みたいに大事にされていて、常に屋内で箱入り娘のように過ごしていたお絵かき少女。

とはいえ、二年。玉枝が学校に行かなくなってから、二年が経つ。

玉枝自身、こんな風にこそこそと誰もいない時間を狙って公園に行くとか、目立たない黒いコートとフードを被って隅っこに立っているとか、昔ではほとんどありえなかった行為を行っている。玉枝もこんなに変わってしまったのだから、雪子が劇的な変身を遂げていたとしても何ら不思議はない。
そう。雪子が暇さえあればあちこちの公園に出没する公園お化けになっていたとしても、別に驚くことでもないはずなのだ。

……ただし。
まだわからないことが、ある。

「あー、その。」と玉枝は切り出した。
「バケツとスコップは、一体何のために……」持ってきたのか、と聞こうとして。全部言う前に雪子が「ああ。」と頷いた。
「カブトムシの幼虫を、取りに。」
「……カブトムシ?」
「え、っと……その、弟が欲しがっていて……それで。」

なるほど。
弟が欲しがっていて、カブトムシの幼虫を。……弟が?
玉枝は雪子の顔を見た。ちょっと気まずそうに、頬を赤く染めている。そしてそれはきっと、寒さのせいだけではなくて。
玉枝がじっと見つめていると、雪子はコホン、と咳払いをした。

「……嘘ではないです。私“も“飼ってみたかった……というだけで、弟が欲しがっていたという点は嘘ではないです。」
「……カブトムシって、雪子ちゃん……好きだったのか?」
「最近、好きになりました。」
「なるほど。」

例のハチの騒動の時。雪子は真っ先に後退りして避難していた。その他の場面を思い出しても、雪子が虫好きだと感じるエピソードは特にない。逆に、虫嫌いだと断定できるエピソードなら手から溢れるくらいにあったように思うのだけれど。玉枝はへえ、と声を漏らした。

「……変わったんだな、雪子ちゃん。」
「玉枝さんこそ。初めは全然気づきませんでした。」
「悪かったな。びっくりさせただろ。」
「あ……その、それはお互い様だと思うので、別にいいんですが。」
「ん?」

妙に歯切れの悪い雪子の言葉に首を傾げながら、玉枝はとりあえず頷いておく。
雪子は、ふう、と息を吐く。白く霞んだ空気が生み出され、冷たい空気に消えてゆく。
凛としたその横顔。美しい。まるで、冬の妖精のように。
彼女が儚げで綺麗だったのは、昔からのことだった。
けれど……。
玉枝はどこか雪子の纏う雰囲気が変化しているような、そんな思いに囚われた。そして、実際に、口に出してみる。

「なんか、雪子ちゃん……変わった?」
「……さっき『変わったんだな雪子ちゃん』って断定したばかりじゃないですか。玉枝さん自身が。」
「あー、いや、そうなんだけどさ。」

なんかこう、別の意味で、と玉枝が言う。
背が伸びたからかな。まあ、背は伸びましたが。ああそうか。はい。いやちょっと待て。ええ、待ちますよ。その、よく考えたら背が伸びてなくても数年すれば何か変わるのは当たり前のことっつーか、逆に変わってなかったらおかしいくらいだから、私の言うことは結局当たり前の範疇にあると思うんだが————

「————雪子ちゃん、なんか姿勢よくなってないか?」

玉枝が言う。
それを聞いた雪子の反応はというと、

「へ。」

ポカンと、呆けたような顔をした。
本当に、予想の斜め上のそのまた斜め上の回答がきた、というような顔で、玉枝はさすがに内心ちょっと慌てた。

「むむ。やっぱ勘違いか?」
「勘違い……かどうかはわかりませんが。もしかしたら、その、少しくらいは姿勢がよくなってるかもしれないですね。私自身自覚がないだけで。」
「あー、自覚なしか。じゃあ意識して姿勢改善とかしたわけじゃあないってことだな。」
「そうですね。」

雪子はほんの少し複雑そうな表情で、でも、と言った。
ゆっくりと、口を開く。

「でも、私、出世はしたんで。」

はあ。
玉枝の口から出てきたのは、それだけだった。はあ。
真面目に考えてみても、よくわからない。
出世?……出世……?
ビジネスマンのセリフではないだろうか、それは。中学生が出世というと、なんだろう。部長に……つまり、部活動のリーダーになった、とか、そういうことか。

戸惑う玉枝に向かって、目を合わせ。
雪子は、淡々とこう言った。

「まずはクラスの学級委員、その次に生徒会の会長になりました。」
……と。





「ちなみにクラス内でのあだ名は、“白手袋の姫“です。」

ハッピー番長、みたいな感じでなんかいいですよね。
真顔でそんなことを言う雪子に、玉枝はあいた口が塞がらない。思ったよりも地位が上がっていたし、何ならかつての玉枝自身よりよっぽど権力を持っている。
……まあ、たかが中学校の学級委員や生徒会がそこまでの権力を持っているわけもなく、部活の延長のようなものであることも承知しているが。それでも。

「えっと……私も雪子ちゃんのこと、“姫“ってなかんじで呼んだほうがいい、のか……?」
「いえ、“雪子ちゃん“のままで大丈夫です。くすぐったいので。」
「だよな。」
「はい。」

何があったんだ、と素直に思う。
クラスの端っこで絵を描いていたような子が、いきなり生徒会長などと。

選挙活動とか、どうしたのだろうか。あれは自分を宣伝する大会だから、襷かけて挨拶したり、校内に手作りポスターを貼ったり、応援演説者を連れてきたり、マイクの前で公約を発表したり、色々と引っ込み思案な人には厳しいハードルがたくさんある。

というか、そもそも学級委員をやっていたという時点で、ある程度の人望はあったと思うのが自然だ。
クラスの中心に立つわけだから、みんなを引っ張れる自信がないと仕事をしていて辛い。それがわかるから、多くの人が立候補の挙手を遠慮する。
それに、候補者が何人もいれば当然選挙になったことだろう。つまり、雪子はクラスメイトから信頼される立ち位置にいた、というわけで。

「……すごいな。」

思わず呟けば。雪子も大きく頷いた。

「なんか、びっくりですよね。」
「自分で言っちゃうのか。」
「言っちゃいます。だって、自分でもびっくりなんですから。」

……どういう経緯で、自分でもびっくりするような事態に?
玉枝の疑問に応えるように、雪子は口を開いた。


「そう。あれは確か、一年半ほど前のこと————」





桜舞う麗らかな春。
二年生に進級し、晴れてクラス替えでシャッフルされた生徒たち。
雪子は、ひらひらと白く花弁を落としてゆく桜の花びらを眺めながら、こう思った。

————人生、案外短いものなのかもしれない……。と。

あんなに美しい桜でさえ、あっという間に散ってしまう。命を煌めかせるように。一瞬の輝きに全てを委ねる流星のように。雨が降れば、一日で葉桜に変化してしまう桜。風が吹けば、吹雪のようにたくさんの花びらを散らしてしまう桜。
桜というものは雪子にとって、思い入れの強い花だった。
昔好きだった男子が、言っていたのだ。
“満開の桜って、木に積もった雪みたいだよね。“と。
『雪』の一文字を名前に持つ雪子は、だから、桜を自分の分身のように思っていた。

生きよう。
悔いの、ないように。
失敗なんて、いくらでもしたっていいんだから。

始業式で浮かれたりゲンナリしたりしている人々に囲まれて、雪子はひたすら、ぼんやりと桜を眺め続けていた。
そして誓ったのだ。


生きよう、と。


かといって、じゃあこれをしよう、それをしよう、といった具体的なことは特に思いつかなかった。
思いつかないままに新年度が始まり。
そして教師が「あ、二日後くらいに委員会決めをしますねー。希望を考えてきてくださいー。」と連絡事項を伝達してきた時、唐突に雪子は思った。
「あ、学級委員やってみよう。」と。
でも、わからないことがあった。
それは、“どうやったら学級委員になれるんだろう“ということ。
とりあえずなってしまえばいいんだ、と思わなくもなかったが、さすがにこんな事態に直面するのは初めて。戸惑い、困ってしまったその時、雪子が思い出したのが————

「ハッピー番長の姿だったんです。」

なるほど。
玉枝は曖昧に頷いておいた。
私の姿を思い出した。なるほど。

「とりあえず、虫を怖がるのをやめようと決意しました。ハチが飛び込んで来た時、または蜘蛛が出た時、最悪の場合ではGが襲来した時、などといった緊急事態に、学級委員が逃げていたらなんかカッコわるいなと思って。」
「………。」

……別にカッコわるくはないのでは?と思った。
むしろ逃げるのは当たり前なのでは、という言葉が喉まで出かかったが、ギリギリで玉枝は踏みとどまった。真剣な雪子の話に水をさしては悪い。

「ですがやっぱり、虫は怖かった。特に、蜘蛛です。ハチはジャージ、Gは丸めた新聞の攻撃で対処できます。……しかし蜘蛛相手に、そんなまどろっこしいことをしていてはカッコわるい。そこはやっぱり素手でさっと逃してしまうのがクールです。」
「………。」

だからカッコわるくないのでは、と思ったが、やっぱり玉枝は黙っておいた。なんだかここまでくると、この話の行きつく先が気になってきてしまったので。

「ですから私は翌日、白い手袋を持参しました。シンデレラが舞踏会で嵌めていそうな、薄くて白い手袋です。そして私はその準備のおかげで見事、たまたまその日に襲来してきた蜘蛛を、さっと持ち上げてクールに外へ逃すことに成功したのです。」
「………。」

どうしよう、と玉枝は思った。どう反応するのが正解なのだろう。
一秒間の間に目まぐるしく悩んだ後、ここは無難に、と玉枝は決意した。

「あー、それはよかったな。」
「ありがとうございます。」

雪子も頷いた。無難に。
そして。雪子が昔を懐かしむように、静かに唇の端に微笑みを浮かべた。

「そういうわけで、新学年序盤から色々と何やかんやして。それで、あとノリと勢いで学級委員に手を挙げたら立候補者が一人だけだったおかげですんなり希望が通って。それで学級委員をそれなりにやっていたら、ついでになんか、私の白い手袋姿が人気になりました。」

……なるほど。そういう経緯で“白手袋の姫“がニックネームになったのか。
玉枝が呟くように言えば、雪子は同意するように頷いた。

「はい。不思議に担ぎ上げられてしまって、なかなか外すこともできず。というより、調子に乗って四六時中つけていたら外そうにも外せなくなって……」
「外せないってどういうことだ?」
「敏感肌だったので蒸れてかぶれてしまって、荒れた肌を見せたくないので手袋で隠し続けていたらもっとひどくなって……みんなを失望させないようにそれを手袋で隠して……」
「悪循環じゃねえか!」

思わず玉枝は声を上げた。つーか、水泳とかあるだろ。手袋外さなきゃダメな授業はどうしてんだ?

うーん、と。
雪子は玉枝の前でちょっと考え込むように首を傾げ。そして。

「見学、とか。」
「素直に外せばいいだろ……」
「皮膚科の先生にも同じことを言われました。正論だと思います。」
「思うのかよ。」
「はい、それは誰が考えてもそうでしょう。」
「………。」

微妙な空気が流れた。
ま、まあ、とにかく。一旦はこの話は置いておくことにして。
玉枝は空気を切り替えるように頷いてみせる。

「色々あったが、出世したわけだ。」
「はい、そうです。」
「よかったな。雪子ちゃん。」
「まあ……クラスメイトにはお姫さまみたいに担ぎ上げられちゃってますけど。」
「そういうの、案外楽しいもんだろ。」
「よくわかりましたね。私の心の声が読めるんですか?」
「いや読めないが。」

さとり妖怪じゃないのだから、読めるわけがない。そう言えば、そうですね、という応えが返ってくる。
そう。ただちょっと、自分はそうだったなぁという思い出と、雪子の態度の感じから推測してみただけだ。つまり、ほとんど勘だ。

はあ、と玉枝は息をついた。
そしてふと思う。
……いつの間にか、雪子はこんなになったんだな……。と。

周囲から認められて。偉くなって。
クラスの中央に君臨しているその立場を、案外いいものだな、と楽しめるくらいに。


でもまあ、と玉枝は思った。
改めて考えてみれば、けっこうわかる気がする。
クラスメイトが彼女を姫と担ぎ上げる、その理由。

何となく想像がつくのだ。
ちょっと不思議ちゃんだけど凛としていていざとなったらカッコいい頼れるリーダー。
基本はおとなしくて無表情だけど、優しいし、穏やかだし、絵が抜群に上手だし、それから危険な虫も追い払ってくれるらしいし。
おまけに、白い手袋をしている。それも手品師の燕尾服か貴族の夜会服に似合うような、オシャレのための一品……といった具合のデザインのものを。

……下手したらカルト的な人気が出るだろうな、と思った。

それに人間というものは、環境に合わせてある程度の自然な振る舞いができる生き物だ。
一度学級委員になってしまえば、あとは案外みんなを気にかけて引っ張っていく頼れる人格が完成してしまうものかもしれない。たとえ今までに雪子が一度も、誰かの中心で目立つような経験をしたことがなかったとしても。

「そっか。」

玉枝は、空を見上げた。白い雲が、夜明けの月のような淡い色で、うっすら漂っていた。

「雪子ちゃん、頑張ってるんだな。」

嫌いな虫も手袋越しに触れるようになったみたいだし。
それどころかいつの間にやら、“カブトムシを最近好きになった“とか何とか言えるようになっていたし。

「ああ。実はそれはですね、」と雪子が何でもないことのように言う。
「虫を触るようになってみると、意外とカッコよかったり綺麗だったりすることに気づいたってだけですよ。」
「へえ。」
「だんだん色んな虫に愛着が湧いてきて、最近では芋虫も可愛く思えるようになってきました。あとはたとえばゴキブリとかも、何だか黒くてピカピカで美しい甲冑に見えてきて……」

なるほどな……。
玉枝は頷こうとして、んぐ、と途中で踏みとどまった。

「……って、待て雪子ちゃん。さすがにそりゃ嘘だよな?」
「嘘じゃないです。玉枝さんはゴキブリ綺麗だなって思いませんか?」
「ん、むむ……ま、まあ、実は心の底でそう思ってはいたが……口に出すかどうかは別問題というか、何というか。」
「禁忌、みたいな?」
「そうだろ。うかつにそんなこと言ってみろよ、周囲にすごい目で見られるぞ。私なんか、虫が好きってだけで……」

言いかけて、玉枝は慌てて口をつぐんだ。
玉枝をじっと見る雪子が、どこか不安そうな目をしている。

玉枝はぐ、と唇を噛んだ。

————縄文時代の完璧ガールフレンドって感じじゃねえか?

……あれは別に、大した揶揄でもなかった。玉枝は自分の胸に、当たり前のことを言い聞かせる。……彼らには悪気も何もなかった。むしろあれはきっと、褒めているつもりだった。……そういう言葉を、使っていた。

玉枝は静かに一呼吸置くと、ゆるゆると全身の力を抜く。

「……いや、まあ。」

すう、ともう一度深呼吸をして息を鎮めた。

「私、かなり浮いてたよな、って思うけど。でも、多分そりゃあ、あれだ。私が常日頃から大騒ぎして、目立つことばっかやってたからな。虫のせいってよか、たとえば体育祭の後に花火打ち上げ計画にみんな連れてって危うく補導されかけたりとか、そういうことばっかやってたハチャメチャなハッピー番長だったからってことのほうがおっきいだろうな。」
「そう……ですね。」

雪子は、頷いた。
色白のその顔に柔らかな日の光が降り注ぎ、いっそう白々と光って見える。
少し、俯いて。
まつ毛をちょっと伏せたまま、雪子は口を開いた。

「確かに、ある意味では、私も浮いていますが。」

一度黙って、再び言葉を続ける。

「————“かっこいい“、と。そう思ってくれる人が、ほとんどだと思います。」

どうしてだろうか。
雪子の表情は、ほんの少し寂しそうだった。
玉枝は、“弟がカブトムシを欲しがって”と言い訳するように話していた雪子のことを、思い出していた。






土を掘って、掘って。
よくわからない植物の根っこやら小石やらにたくさん当たって。
カブトムシの幼虫を探すということが思いのほか大変な作業だったと気づいた時、二人はとある結論に達した。
それはつまり。

「……休憩、しましょうか。」
「ああ。そうだな。」

一旦諦めよう。
潔く。

「頭空っぽにしたあとでやり直したら、案外パッと見つかるかもしれないですし。」
「うん。そうかもしれないな。」

潔く……はなかったかもしれないが。それでも。
気分転換は大切なことに変わりはないのだから。

「うーん。」
「ってて、腰が痛え……。」
「ふふ。何だか私たち、おばあちゃんみたいですね。」
「あー、かもなぁ。」

冬の最中にじっと屈んで作業すると、体が固まる。それに、単純に寒い。
スコップを置いて、立ち上がる。腰に手を当てて、ゆっくり伸びをする。
そうすると、それだけでちょっと生き返ったような気分になった。爽やかな風に吹かれ、目を細めたお互いの表情が、微笑んだようになる。

十分に腰を伸ばした後のことだった。
雪子が玉枝に提案した。

「お絵描き、してみませんか?」と。

え、お絵描き?
玉枝がキョトンとした表情を浮かべると、雪子は頷く。

「嫌だったら別にいいんですけど。」

という雪子の言葉に、玉枝は少し迷った。

「……嫌じゃないが全然上手に描けないぞ。」
「上手じゃなくていいですよ。何なら棒人間とかでも。」
「なるほどな。」

まあ、そんぐらいなら。
というわけで、落書きタイムが始まった。

適当な木の枝を拾ってくる。それを使って、さっき散々掘り返して柔らかくなった土の上に、絵を描く。
ぐい、と地面に線を刻みつけるのは、案外気持ちがよかった。

玉枝は隣で絵を描く雪子をチラリと見た。
雪子はまったく迷いなく、すいすいと描いてゆく。
……少女。ボブカットで、花のかんざしを飾っている。三日月を見上げている。鞄を提げて、優雅に唇に手を当てている。少女の背景では、煙を上げながら汽車が走っていて……

「さすがに上手いな。」
「ありがとうございます。」

玉枝は素直に感動した。
土の上に木の枝で描けるモチーフ、といったら、その内容はかなり限定されてしまう。それを、ここまで詳細が人に伝わるようなものを描いている。すごいことだと思った。
ふう、と息をついた雪子が、ふと玉枝のほうを見る。玉枝が描いた絵を、その視界に入れて。そして。

ん?

玉枝は首を傾げた。
なぜだろう……雪子が、目を見開いている。そしてポツリと、一言。

「すごい。」

いやいや、と玉枝は思った。
さすがに冗談だろう、と。だから、こう言った。

「ん、何が?」

そして雪子は、「……何かが。」
こう答えた。

……それが含む意味は、よくわからなかった。
玉枝は、はあ、と曖昧に言ってみる。

雪子がポンと手を叩き、「漫画だ。」と言ったのは、それから大体三十秒後のことだった。

「漫画?」
「そうです。漫画っぽいんです。」
「………。」
「物語のキャラクター的なオーラがある……って言ったら、もうちょっとわかりますか?」
「……なん、となく。」
「ごめんなさい。わからなかったですね。」

雪子が謝る。玉枝は、いやいや、とそれを遮った。多分、雪子ちゃんのせいじゃない。むしろ、これは。

「私の家族のせいだな。」
「へ?家族って……ファミリー?」
「ファミリー。ファミリー・メンバー。」

なぜか英語になったが、それは別に気にするところではない。
突拍子もない返答に面食らう雪子に、玉枝は咳払いをして説明する。

「私、漫画とか、読んだことないんだよな。その、家族のせいで。」
「はあ。」

それはつまり、どういうことかをギュッとまとめると。
“少女漫画アレルギーの母さんと少年漫画アレルギーの父さんとほのぼの漫画アレルギーの姉さんがいるから、漫画関連の書籍は家に一冊も置いてない“……ということになる。
いわゆる、家族みんなが漫画嫌いなせいで、自分も読んでいない、みたいなやつだ。

家族の影響、というものはかなり大きい。
漫画に対するありとあらゆる悪口を聞かされるうち、自分の心にも『読みたくない』の気持ちが無意識に芽生えてしまう。友達の家に遊びに行って勧められても、図書館で学習漫画を見かけても、自然と敬遠して通るようになってしまった。
だからつまり、“漫画っぽい”と言われてもいまいちピンとこない。だって、漫画なんて読んだことないんだから。

「へえ……。」

雪子はびっくりしたように目を見開いている。
実際、びっくりしたのだと思う。本当の本当に一冊も読んだことないんですか?と食い気味に尋ねてきた。ああ、一冊もないな。奇跡的怪奇ですね。奇跡的カイキ……なんだそれ?いえ何でも、忘れてください。……わかった、忘れる。

というわけで、玉枝は自分の描く絵が“漫画っぽい”のだと知った。
キャラクターが生き生きして動き出しそう、とか、玉枝さんは絵を雑に描くイメージだったから意外に綺麗で丁寧でびっくり、とか、色々な角度から雪子は褒めてくれた。

絵が上手、という褒め方をされたのは人生で初めてではなかった。
母さんなんかよく『玉ちゃん絵が上手ね〜。父さんに似たんだね〜。』と嬉しそうに言っていた。特に幼少期。
けれどそれはただの『上手』だったから、具体的に何がどういいのかさっぱりわからなくて。しかも鉛筆や水彩絵の具なんかを使った写生はどうにもつまらない上にあまり得意ではなく、適当にババッと塗って終わらせてしまうことが多かった。

「へえー。この落書き、そんなにいいか?」
「はい。少なくとも、私は好きです。」
「それを言ったら、私も雪子ちゃんの絵が好きだけどな。」

玉枝は穏やかに笑って、ふと気になったことを雪子に問いかけてみる。

「将来絵描きになったりする予定あったりすんのか?」
「うーん。さすがにそこまで絵を描くの好きじゃないので……。」
「そっか。じゃあナシだな。」
「はい。」

仕事にするほど好きじゃない。その気持ちはよくわかる。玉枝も虫は好きだけど、虫博士になるほどじゃない。
思う存分絵を描いて遊んだ後、カブトムシの幼虫探しを再開した。
そう上手くは見つからないよね、なんて言っていた矢先、見事に二人は掘り起こした。白くて丸々太った幼虫が出てきた時、逆にびっくりしてしまって、大いに混乱した顔を見合わせる。互いの顔が面白くて、二人は同時に吹き出した。

「ありがとうございました。幼虫探し手伝ってもらっちゃって。」
「全然。私もこういうの好きだし。」
「ああ、確かに。」
「“ハッピー番長は虫番長“……なんてな。」
「懐かしい……そういえばそんな歌も流行ってましたね。」

くすり。
雪子は笑う。玉枝は釣られたようにちょっと笑った。

「ああ、」と玉枝は言う。

ちなみに、この場所、この時間。
「私、だいたい蛾とかアリンコとか眺めてダラダラしてるから。」

会いたかったら、いつでも会いにこいよ、なんて。

ほんの少しだけ昔の自分に戻ったような偉そうな言葉遣いをして。それに応えるように雪子が笑って。
それで、その日は別れたのだった。






雪子は、ほとんど毎日公園にやってきた。
そして玉枝も、いつもそこで待っていた。

公園を訪れる時。雪子は学校ではめているという薄い白手袋ではなく、もふもふのあったかい手袋をはめてくる。
しかし。一度それをわざと取ってもらった時、玉枝は思わずうーんと唸ってしまった。

荒れていた。
ひどく、ひどく、肌荒れしている。夏場に手袋をしていたとすれば、蒸れてあせもになったりすることは予想がつく。けれど、今は冬の最中。

「……冬でも蒸れるもんなのか?」

思わず問いかけた玉枝に、雪子は頷いた。

「蒸れます。あと、けっこう重症の霜焼けも発症してます。学校行く時につけてる手袋が薄すぎるせいで。」
「……踏んだり蹴ったりじゃねーか。」

雪子の手が可哀想になってきた。白手袋の影響が大きすぎる。何もかもお洒落な白手袋のせいで、手肌が犠牲になっている。

「本気で手袋やめるべきだと思うんだが。」
「私も、わかってはいるんです。」
「じゃあ……って言って解決すれば悩んでるわけないんだよな、それ。」
「はい……。」

アイデンティティ、という言葉がある。
自己同一性。自分が自分である、という感覚。
他人と自分を区別できるものがあると、その感覚はより強くなる。
そして。

————“白手袋の姫“

そう祭り上げられて慕われ、『手袋をはめてからの蜘蛛逃し』を学校中に流行らせることまで成功した雪子。
けれど元々は何者でもない、ただの目立たない女の子だったからこそ。手袋を脱いでしまえば、誰でもなくなってしまうのではないかという不安がある。
服を着た透明人間が服を脱いで、誰の目からも見えなくなってしまうのを怖がるように。雪子もまた、自分という存在を手袋に依存していたのだった。

「もう、手袋を取るのも取らないのも嫌だから……」
「嫌だから……?」
「……学校やめちゃいましょうか。」
「待て待て待て。」

不登校の自分がどの口で言ってるんだ、と思わなくもないが。玉枝はさすがに突っ込まざるを得なかった。

「一応聞くぞ。なんでそうなった?」

問えば、なんでって……と雪子は呟くように言う。
なんでって、もう、どうしようもないですよ。こんなになってしまったら。
その答えを聞いて、玉枝はハア、とため息をついた。

「取ればいいんだよ、取れば。」

え、と。
ちょっと戸惑ったようにこちらを見る雪子に向かって。玉枝は無造作に言った。

「もう一度言うぞ。手袋なんて、取っちまえばいい。つーか、取れ。」

だって、と玉枝は言う。

————“生きよう“って、思ったんだろ?

あ、と。
雪子が大きく目を見開いた。
ゆっくりと。はっきりと。
そして……

その瞬間、奇跡的な何かが起こった。
雪子の美しく澄んだ瞳に、幻のように桜吹雪が舞った。
たくさんの花びらが、雪のように。ひらひらくるくると空気に散りばめられた花吹雪が、天を目指して昇ってゆく。

雪子が静かに、思い出している。
そういえば、そうだった。と。
四月に自分は、何かとても大事なことを決意した。
それはきっと、選択の結果で自分をがんじがらめに縛るために決めたことでは、なかったはずだ。と。

「……そう、ですね。」

雪子が、静かに微笑む。その目に、涙が滲んでいること。それを玉枝に隠そうともせず、ゆっくりと上を向く。心底幸福そうに、空を見上げている。

「生きます。今までの私がそうだったように、これからも。」

だから、と雪子は玉枝に言った。

「玉枝さん、ありがとうございます。」

どういたしまして。
その言葉を自分が言えたかどうか、玉枝はわからなかった。
玉枝もまた、雷に打たれたような衝撃と共に、立ち尽くしていたのだから。

“生きます”。

雪子の宣言。静かで、短い、シンプルな一言。
でも、と玉枝はその時思った。
私は、同じことを言えるだろうか。

玉枝はただ沈黙したまま、その場に佇み続ける。




カブトムシの幼虫探しから始まった、玉枝と雪子のささやかな関わり。
優しさ。幸せ。寂しさ。悲しみ。ありとあらゆるものが混ざり合って、二人の関係は深みを増した。
そして。
お互いがお互いの心に小さなさざなみを立てたあと。

長いようで短い冬休みが、終わる。




白い息が、空気にほわんと溶ける。
はあ、と一生懸命に吐いて、もっと濃い白にしようと努力してみる。ほわほわほわ。ちょっと長持ちした。

黒いロングコートに身を包んだ玉枝は、ゆっくりと公園に足を踏み入れた。
冬枯れで寂しい木々が、何本も静かに佇んでいる。空を見上げれば雲が、ふゆふゆと薄紫色に漂っていた。いつも通りの、公園の景色。

土曜日だった。
ここに来るのは人のできるだけ少ない平日にする、というのが鉄則だったのだが。しかし玉枝は、公園を訪れていた。

……雪子がいるかもしれない。

そんな思いが、あったから。

冬休みが終わって学校が始まれば、雪子は公園に来なくなった。
だからあれから一度も、雪子に会っていない。

二週間くらい経てばだんだんと、もう二度と会えないのかも、なんて奇妙に静かな思いも湧いてくる。

それでも。
いい加減懲りもせずにここへ来るのは、雪子とのおしゃべりが楽しかったからだろうか。いや、それだけじゃないような気がする……と思いつつも、案外それだけなのかもしれない。人間って複雑だけど、意外と単純でもあるのだから。

また会えないかな。
いや、会えないだろうな。
今日は会えるかもって、期待してもいいかな。
いや、期待しないほうがいい。当てにすればするほど、外れた時にもっと傷つくから……。

色々ごちゃごちゃと面倒くさいことを考えながら、玉枝はいつもの場所へ向かう。土がふかふかで、虫がたくさん住んでいる、薄暗い場所。

「あ。」
「あ。」

当たり前のように。そこで。

「雪子ちゃん。」
「玉枝さん。」

久しぶり、と言ったのは、どちらが先だっただろうか。

「また、会いましたね。」
「ああ。」

再会は、とてもあっけなく。さりげなく。
二人はお互いの安心したような顔を見て、そして静かに笑い合った。






「……で、学校で手袋は外したのか?」

玉枝が問うと、雪子は頷いた。

「外しました。」
「どうだった。」
「全然大丈夫でした。」

雪子は、ニコニコと笑って言った。全然大丈夫だった、結局何をあんなに心配していたのか、自分でもよくわからない、と。

「発明家志望の友だちがすごく心配してくれて、“蒸れない手袋を作ってあげる!”って。約束してくれました。あと、ついでに手荒れ・霜焼けに関する知識をすごい勢いで流し込まれました。その子、皮膚科の先生になりたかった時期があったそうで。」
「……すごい子がいるんだな。」
「はい。」

それから、と、雪子は言った。
ためらうように口を淀ませ、そして、思い切ったようにくるりと玉枝のほうを見つめる。

「私、」

こく、と唾を呑むような音がして。

「……『虫が好きになった』ってこと、みんなに言ってみました。」

静かな雪子の言葉に、玉枝は。

「……そっか。」

やはり、静かに返した。
二人はじっと見つめ合う。
そしてふっと、雪子が微笑む。彼女は再び口を開いて、それで、と言った。

「やっぱり、全然大丈夫でした。」
「……そっか。」

やっぱりそうだったか、と玉枝は思った。

いつの間にか虫が好きになっていたことを、雪子は隠していたのだろう。彼女は玉枝以外の誰にも、今までそれを喋ってはいなかった。ましてや、ゴキブリが綺麗だ、なんて。玉枝の前で初めて喋った言葉だった。
きっと雪子はずっと、“手袋を嵌めなければ虫に触れないお姫さま“を、演じていたのだ。虫が嫌いだけど、みなのために白い清い手袋を身につけ、さっと一番前で虫払いをしてくれる優しい姫を。

けれど。
そんな風に演技をすることを、雪子はもうやめた。
虫が好きなら好きで、そう素直に言ってしまおう。そう、決めた。

そしてその結果は、“全然大丈夫”。

よかったな、と思う。案外優しい結末になった。これから未来で何が起こるかは、まだわからないけれど。

「脱皮したんだな、雪子ちゃん。」
「脱皮、ですか?」
「うん。」
「……ふふ。」

なんか、言い得て妙ですね。そう呟くように言って、雪子は笑った。それに乗じて、玉枝も笑う。


知ってるか、雪子ちゃん?玉枝は言いたかった。

雪虫っていう俗称の虫がいて。白いふわふわがついてるせいで、空を舞ってると淡雪がちらついているように見えるのだけれど。その虫は、何回も脱皮するんだ。

それから、玉虫っていう虫もいる。その虫はキラキラしていて虹みたいに鮮やかな翅を持っているんだけれど。雪虫みたいに何度も何度も脱皮したりはしない。

……なあ。まるで、私たちそのものみたいじゃないか?

玉枝は、息をつく。
そして決意を固めると、ふいにポケットに手を突っ込んで、スマホを取り出した。
起動して、検索機能を表示させる。
そしてそれを、そのままひょいと雪子に手渡した。

いきなり玉枝のスマホを渡されてハテナを浮かべる雪子に、玉枝は言った。

「検索履歴のトップに、イラスト・漫画投稿サイトの名前があるだろ?」
「はい。」
「まずはそれを押して検索してみて。」
「はい……あ、出ました。えっと……サイトの表示が紫になってるのですよね。」

……これ、開きますか?と聞かれたので、肯定してそのまま開いてもらう。

「で、右上あたり探して、『作者名から検索』のバーを見つけて。赤枠のやつ。」
「はい。」
「見っけたら『タマムシ』って打ち込んで。できたら決定ボタンをタップ。」
「はい。」

ちょっとの間、静寂がその場を支配する。
しばらくして、「あっ。」と雪子が呟いた。よくわからないことをさせられている、という戸惑いの顔から、何かを察して引き締まった顔へ、雪子の表情が変化する。

「……これって、もしかして。」
「興味あったら読んでいいよ。当然、興味なかったから読まなくていいけど。」
「読みます。」

イラスト・漫画投稿サイト。
どんな素人でも、勝手に自分の作品をネットに晒すことができるサイト。もちろんそれでお金を稼ぐことはできないけれど、様々な人に目を通してもらうことは、貴重な経験になる。
そんなサイトに、玉枝は少しずつ漫画を投稿し始めていた。
つまり、『素人の自称漫画家デビュー』、くらいはしているのである。

「全然人気ないですね。」
「面白くないんだろうな。」
「面白い……と私は思いますが。」
「えっ、もう読んでんのか?」
「はい。」
「早くね?!」
「私は夏休みの宿題を最初の二週間で片付けるタイプです。」
「逆にすごい……毎日一行日記とかどうやってんだ……?」

今さら、学校に行く気は起きない。
玉枝は玉虫だから。そう何度も脱皮するような生き物ではないのだから。そんなにすぐに変われない。
でも。
何か一歩くらい、踏み出してみてもいいと思ったから。

「なんつーか、その……漫画家、目指してみようかと思ってな。」
「いいと思います。」

雪子の返事があまりにも爽やかだったから。玉枝は、まあ失敗するかもしれんが、と喉に出かかった一言を慌てて呑み込んだ。

失敗する。それがなんだ。別にいいじゃないか。まだ私たちは中学生だ。
そんな雪子の思いが、玉枝の心にまで伝播してくるようだった。

……そうだな。
玉枝は微笑む。

「別に、失敗したっていいしな。」
口に出して言ってみれば。

「はい。」
雪子が頷く。

ひらひら。どこかから飛んできた綿毛が地面に着地して、風に煽られながら転げてゆく。名もわからない小さな虫がひっくり返って、死骸を晒している。黒い土が、冷たく、けれどもふかふかと、大地を覆っている。
そんな光景を眺めながら、じっとその場に佇んでいる。

ふいに、雪子が口を開いた。

「……女優を目指そうかな。」

玉枝は、顔を上げた。
雪子の思いもよらない発言に、少し驚く。
雪子は少し照れたようではあったけれど、凛として涼しげな表情をしていた。まっすぐに、空を見上げている。

「みんなよってたかって『変わった変わった』って言いますけど、私、今も昔も全然変わったつもりないんですよ。ただちょっと、学級委員に手を挙げてみようかな、とか思ってみた自分がいただけで。別人になる演技とか、しようとしたわけでもないのに。いつだって私は同じ自分なのに。……それなのにいつの間にか『周囲から見える自分』が変わってて。」

おとなしい目立たない子。白手袋の姫。そして今はまた、雪子はもっと違う、別の何かになろうとしている。
けれどそれは、周囲の評価でしかない。
内面は何一つ、変わっている気がしない。
そう雪子は語った。

もちろんほんの少しは、変化しているかもしれない。いや、変化するのが当たり前。
けれど、それはあくまで樹木が葉っぱや花をつけるようなもので、根本の部分は年中同じ見た目をしている。劇的な衣装替えやお色直しのような変化は、全然内面では起こっていないのだ。と。

「……それで、意外とこういうの楽しいかもって思ったんです。で、そうしたら何か「女優いいかも」って。ふっと思い浮かんで。」

演技するって、意外と奥が深くて、面白いことなのかもしれない……なんて。ちょっと思ってしまったものだから。
雪子はそう言って、笑った。

玉枝はそんな雪子をまじまじ見つめながら、すごいな、と思った。すごい。かっこいい。

「いいんじゃないか?」

だから、素直にそう言った。思わず、笑みが漏れる。

「応援してやるぜ。ハッピー番長さんが。」
「響きだけで心強い味方ですね。」
「だろ?けっこう気に入ってたんだよ、あの呼び名。」

まあ、正直言って今はもう、それで呼ばれてもピンとこないんだが。そう冗談のように玉枝が言うと、雪子はちょっと考え込むような顔をした。

「玉枝さん……なんか、一皮剥けました?」
「……そうか?」
「あ、ここは『脱皮しました?』のほうがよかったですかね。」
「いや別に、そのへんはどっちでもいいんだが……」

戸惑いの表情を見せて雪子に応えながら、玉枝は内心、でも、そうか、と思っていた。
私も、脱皮したのかもしれない。と。

玉虫は、雪虫みたいに何度も脱皮しないけれど。それでも、一度もしない、というほど頑なな生き物ではないのだから。

……あとは。

「人間って、ある意味無限に脱皮できる生き物ですよね。」
「……かもな。」

もしかしたら、そういうこともあるかもしれない。
そうも思ったから。
哲学的すぎて、詳しい理屈はよくわからないけれど。


玉枝は、雪子の隣に肩を並べて空を見上げる。
雪子がさっそく、読んだばかりの漫画の感想を喋り始める。玉枝はちょっと照れて頬を染めながら、静かに耳を傾ける。
虫が主人公って、斬新で面白いですね。まあな。絵のタッチもやっぱり好きです。ありがとう。それから、あとは————


玉枝が描き始めた処女作の漫画。
その主人公は、カブトムシ。二人が公園で拾った幼虫をモデルにしているということ、雪子は気づいているだろうか。
まあ、気づいても気づかなくても、どちらでもいいのだけれど。

主人公はケージの中で飼われているカブトムシ。彼は中に迷い込んできたゼリーの魔法使いや風の子、パン屑の僧侶なんかの奇妙なキャラクターたちと交流していくのだが……実は彼は、自分を飼っている人間をよく観察している。まだそこまで物語の進んだ部分を描いていないが、これからその飼い主たちもばんばん登場する予定だ。
繊細なお姫様のような姉。パンを焼くのがやたら好きな弟。シャツの第一ボタンを絶対に閉めない父親と、貝殻蒐集家の母親。

そして————

ある日、飼い主の一人である“姉“が家に連れてきた“友だち“。
それは、かつて学校で不良を取りまとめる番長に君臨していた少女。彼女はふとしたことをきっかけで不登校になってしまい、今はもう、誰も昔の番長のことを思い出さない。

誰もいない寂しい公園でポツンと一人、空を見ていた少女。
しかし“姉“と一緒にカブトムシの世話をするうち、少女は自分にとって大切な何かを掴んでいく。

きっとそれを一つの言葉で言い表すのは難しいけれど。
それでも、きっと。
大事な何か。


二人は隣り合って、互いに互いを支え合う。

かつて誰もいない寂しい公園でポツンと一人、空を見ていた少女は。
今は二人で肩を並べて、あの日と同じ空を見上げていて……



……そんな風に、描こうと思っている。




漫画のタイトルは『虫が大好き』

それを決めてネットに投稿した時。ずっと言えなくなっていた一言とは、こんなにも簡単に出てくるようになるものなのかと、不思議に思った。



玉枝は静かに目を瞑る。
そして心の中で、静かに祈るように言葉を紡いだ。


ありがとう、雪子。
心から、思う。
あなたに会えて本当によかった。
願わくば、冬を乗り越えた先に、優しい春が待っていますように……。



青空が、広がっている。白い雲の塊が二つ、ぽわぽわとちぎれたわたあめのように、浮かんでいた。


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