俺が幼馴染の今宵に告白し、そしてフラれてから一週間が経過していた。
 放課後になり楽しそうに談笑するクラスメイト達を横目に見ながら、俺は騒々しい声に眉を顰めた。
 
 残念なことに元の世界で死んだと思っていた俺は、この一週間で「走馬灯」を見ているわけではないと理解していた。
 目で見て耳で聞き、肌で触れる全てに、紛れもない現実感がこの世界にはあるのだ。
 では、アラサーだった俺が男子高校生に戻っている、この非現実的な現象の正体は何なのか?
 それは――所謂「タイムリープ」というものだろう。
 どうして俺の身にこんな非現実的なことが起こったのか、意味も理由も全く分からない。

 はぁ、と俺は深くため息を吐いた。
 元々、大きな不満のある人生ではなかった。
 悔いと言えば、今宵に気持ちを伝えられなかったことだけ。
 そのことを解消した今、高校生から人生をやり直せと言われても、正直面倒だとしか思えなかった。
 その上、この高校生活には――以前の高校生活にはなかったハンデがあった。

「いい加減、元気出せって」

「またあのカッコイイ告白をすれば、幼馴染の今宵ちゃん意外落ちない女はいないって」

 心配しているように見せかけて、半笑いで揶揄うように声を掛けてくる、クラスメイト達。
 走馬灯だと信じて疑わなかった俺は、時と場所を考えず、あろうことか授業中に、クラスメイト達の目の前で告白をしていた。
 ちなみに玉砕した俺は、教師には職員室に呼び出されて厳重注意と反省文の提出を命じられていた。謹慎処分を喰らわなかったのは、フラれたことに同情されたためかもしれない。

 そのため俺は今、クラスメイト達の好奇の視線にさらされ、フラれたことをいじられまくっていた。
 挙句、話したこともないような他のクラスの連中まで、面白がって俺を揶揄うようになっている始末。

 ――無性に苛立ちはするものの、田舎のクソガキどもの一時的ないじりだ。
 すぐに飽きるだろうし、イラつくだけ損だ。
 ……と頭では分かっていても、苛立ちは止められない。

 俺は無言のまま、席を立った。早く帰宅したいとも思うが、帰り道でいろんな連中に声を掛けられる可能性がある。
 しばらく時間を置いてから帰ろう。

 俺はカバンを教室に置いたまま、とりあえず教室を出ることにした。
 しかし、タイミング悪く教室に入ろうとしていた女子と、ぶつかった。

「悪い」

 ぶつかって後ずさった女子に、俺は謝る。

「こっちこそ! って、暁……」

 ぶつかった女子は、あろうことか今宵だった。
 彼女はこちらを見て、気まずそうな表情で俺の名前を呼んだ。

 俺はその視線から避けるように、早々に廊下を歩き始めた。
 後腐れなく告白できるチャンスとばかりに気持ちを伝えたわけだが、どうしても気まずさはある。
 背後から今宵が俺に呼び掛けていたが、その声を無視して、俺は階段を昇っていった。

 そして、階段を昇り終え、屋上へ続く扉の前に辿り着いた。
 屋上の扉は常に施錠されており、ほとんどの生徒はわざわざここまで来ることはない。
 今も、いつも通り人は全くいなかった。

 しばらくここで一人、時間でも潰しておこう。そう思って俺は手すりに体重を預ける。
 暇つぶしに、懐かしさを感じる携帯電話(ガラケー)をポケットから取り出そうとしたところ、屋上の扉越しに、激しい雨音が耳に届いた。
 この過去に来てから、晴れた日は一度もなかった。梅雨時とはいえ、こう雨が続くと気が滅入る。

 俺は自然と扉に目を向けていた。そして、今さらながら気が付いた。
 普段、扉の施錠に使われている南京錠がなく、扉が開いている。
 ……屋上に誰かいるのだろうか? 

 興味が出た俺は、ゆっくりと扉を開いた。
 降りしきる雨のせいで視界は悪かったが、それでも確かに、そこに生徒が一人いるのを見つけた。
 女子の制服を着ているが、後ろ姿なので顔はわからない。
 誰が何のために屋上にいるのか、気にはなったものの……傘をささずにこの雨の中を歩くのは、正直嫌だった。

 何も見なかったことにして扉を閉めようとしたが……。
 扉が閉まりきる直前、俺の目に入った光景を見て、俺は考えを改めた。

 女子生徒が、手すりを乗り越えた。 
 ……よくない想像が、一瞬のうちに頭の中を巡る。
 飛び降りを見過ごせば、気分は最悪だ。俺は扉をもう一度開き、急いで彼女の背後に歩み寄った。
 あっという間に、全身が雨に濡れた。
 しかし、その雨が幸いしたのか、俺は気づかれることなく彼女の背後へと辿り着いた。

 驚かせないように、ゆっくりと俺は彼女の肩に手を置いた。
 ――そしてその瞬間、思い出した。
 俺の記憶では、夏休み前に学校の屋上から生徒が飛び降りた、という話を聞くことはなかった。
 この少女は少なくとも、今日この時に飛び降りることは、なかっただろう。

「……手、離して」

 そう言って振り向いた彼女の顔を見て、俺の記憶がさらに、急速に蘇った。
 不機嫌そうなその表情は、雨に濡れた髪が頬に張り付いてうっとおしかったから、という理由ではなさそうだ。
 俺に向ける眼差しには、強い警戒感が見て取れる。

「……那月(なつき)未来(みく)

 思わず、俺は彼女の名前を呟いた。
 
 彼女は高校2年の春、東京の高校から転校してきた女子生徒だった。
 洗練された、垢ぬけた都会の美少女。その上成績優秀な才女。
 学校一の美少女と言われていたが、彼女にとってその賛辞は全く意味のなかったものに違いない。
 
「あのさ、手放してくんない?」

 再び告げられたその言葉。しかし俺は、この手を放して良いものか、迷っていた。
 なぜなら彼女は俺の知る未来の世界で、この学校を卒業する前に自らの手によって、その人生に幕を閉じていたのだから。
 無言のまま手を離さない俺を、鋭いまなざしで睨みつける那月が、口を開く。

「あんた、何しにここに来たわけ?」

「屋上の扉が開いてるのに気づいて、気になってここまで来ただけだ」

 俺の言葉に、嘲笑を浮かべた彼女が言う。

「へぇ。てっきり私は、あんたが幼馴染にフラれたショックで、屋上から飛び降りに来たんだと思ったけど、そうじゃないんだ?」

 挑発するようなその言葉。
 俺はその言葉に反論をせずに、彼女に向かって問いかける。

「お前こそ、ここで何をしてるんだよ。扉の南京錠を開けたのも、お前だろ? どうやってそんなことしたんだ?」

「……質問ばっか、うっざ」

 馬鹿にしたような態度で、那月は言う。
 俺が一周目の高校生であれば、ここでキレていたかもしれない。
 
「とにかく、危ないからこっち側に来いって。下から教師に見つけられたらすぐにここまで来ちまうだろうし」

 俺の言葉を聞いた那月は、険しい表情が困惑に変わった。

「この雨で、外で部活やってるとこはないし。学校から帰る生徒も教師も、傘さしてるから気づかないわよ」

 那月は俺の言葉に素直に従うつもりはないようだ。
 面倒だと思った俺は、いっそのこと無理やり手すりからこちら側に引きずり倒してやろうかと考えていると、

「……分かった、そっちに戻ればいいんでしょ?」

 無言でいた俺の表情を見て察したのか、那月は手すりを跨いだ。
 足を滑らさないか心配だったが、それは杞憂だった。
 彼女は俺の隣に立つと、「はぁ」とため息を吐いてから、俺に向かって言う。

「一人になりたかったから、屋上にいたの。南京錠は、ネットで開け方を調べて自分で開けた。クリップ二本で簡単に開いたわ」

「……いきなりどうした?」

「あんたが聞いてきたんでしょ」

 不機嫌そうに、那月は言った。
 どうやら俺の質問に、今さら答えてくれたらしい。

「そうか、どうもありがとう」

 俺が言うと、那月は肩をすくめてから言う。

「なんだかあんた、失恋で精神的に参ってるからいつもと雰囲気違う?」

「そんなとこ」

 タイムリープしていることを気取られたくなかったため、適当に答える。

「いつもは私のこと無視する癖に、自分が弱っているときは、話し相手になってもらいたいってわけ?」

 嘲るように、那月は言った。
 俺は彼女のその言葉を聞いて、真顔になる。
 その言葉の通り、俺は那月のことを、無視していた。
 それは、俺だけじゃない。
 那月は、クラスメイト中――いや。
 学年中の嫌われ者だった。

「みんなから無視されるのが苦になって、ここから飛び降りようとしたのか?」

 さっき、那月は一人になりたかった、と言っていた。
 それは、周囲の対応を苦にしていたからではないか?

「は? あんたたち田舎者に無視されたくらいで、どうして私が自殺なくちゃいけないの?」

 俺の言葉を鼻で笑いながら、那月は続けて言う。

「私なら、あんたたちをぶっ殺してでも生きるけど?」

 硬い声音で言ったそのセリフが、強がりだと俺は知っている。
 なぜなら彼女は、その言葉に反して、自ら死を選ぶことになるのだから。

「俺は、お前のことが嫌いだった」

「だった? 私は今もあんたのこと、嫌いだけど」

 俺の言葉に、彼女は間髪入れずに答える。しかし、その強がりな言葉が、なんだか可愛らしいものに見えてきた。

「田舎の高校に都会から転校してきた、美人で頭の良い女子。TVのアナウンサーみたいな綺麗な標準語を話せるのに、俺たちと話すときはわざとらしく訛ってみせる。……馬鹿にしたかったわけじゃなくって、本当は早くみんなと馴染みたかっただけなのは分かってるんだけど、俺たちの多くは素直にそうは思えなかった」

 俺の言葉に、那月は真剣な表情で耳を傾けている。

「馬鹿にされたくないと思った俺たちは、お前を仲間外れにして、みんなで無視を決め込んでいる。田舎者らしい陰湿さだろ? 笑えるよな」

「それで実害を被っている私からすれば、笑えないわよ」

「それは、そうだよな……」

 正論にたじろぐ俺。

「これまで無視し続けて、悪かった」

 俺はそう言ってから、那月に頭を下げる。

「本気で悪いと思ってるなら。ここから飛び降りてくれる? ……ま、できるわけないだろうけど」

 那月は冷たい声音でそう言った。
 本気で俺に飛び降りてほしいわけではないのだろう。だが、急に謝られても、素直に許せるわけがないのだ。
 ……それでも俺は手すりを乗り越え、下を覗き込んだ。

 4階建ての校舎の屋上。

 下にはクッションとなる草木などはなく、地面はコンクリートで固められている。ここから落ちればただでは済まないだろう。
 このまま飛び降りてしまえば、俺はこの二週目の人生を終わらせられるのだろうか?

 ……未来に戻る方法は、分からない。
 だからと言って、この世界でももう一度、勉強して、良い大学に入って、良い企業に就職して、何不自由ない人生を送ることに価値を見出せない。
 ならば、未来の知識を使って株や仮想通貨で稼いで、悠々自適な生活を送ることに魅力があるかと問われれば、それも違う。

 そもそも、俺は今宵に想いを伝えなかったこと以外、悔いは残していなかったのだ。
 つまり今の俺には……生きる目的も、気力もないのだ。

「本気じゃないくせに、カッコつけないでよ」

 無言のまま真下を見続けていた俺に、那月は硬い声音で言った。
 俺は彼女の言葉に答えずに、一歩前に進んだ。
 あともう一歩でも踏み出せば、俺の身体は地面に向かって墜ちるだろう。
 それでこの無意味な二周目の人生が終わるのなら……悪いことじゃないのではと思った。

 俺はもう一歩踏み出そうとして……できずに、その場に座り込んだ。

「……やっぱ死ぬのは怖いな」

 俯きながら、彼女に向かって言った。
 俺の脳裏には、未来で交通事故にあった時の記憶が蘇っていた。
 あの強烈な痛みと苦しみは、ほんの一時に過ぎなかったが、忘れることはできない。
 ここから落ちれば、きっとあの時と同じ苦しみを味わう。

 そう思うと……俺はどうしても動けなくなっていた。

「良いよもう、別に。あんたがふざけてたわけじゃないのは、分かったから」

 そう言って彼女は、座り込む俺に手を差し出した。
 俺は立ち上がり、彼女の手を握り、手すりをもう一度乗り越えた。

「とりあえず、これからは私のこと無視しないでよ?」

 那月は柔らかく微笑んで、そう言った。
 これまで見せていた険しい表情よりもずっと綺麗だと思った。
 ……そして、彼女は恐怖を乗り越えて自殺をしたことに、思い至った。
 俺は、まっすぐに彼女を見る。

「ウソ、早速無視?」

 冗談っぽく、彼女は笑った。やはりその顔は綺麗で、普段からその笑顔を見せていれば大層モテただろうなと思った。
 しかし俺は、彼女の言葉には応じずに、とある覚悟を口にする。

「ここから飛び降りることはできなかった。俺は一人じゃ死ねない腰抜けだけど……約束する」

 一人では、最後の一歩を踏み出せなかった俺でも。

「お前が死ぬときは、俺も一緒に死んでやる」

 彼女と一緒になら、きっと。
 この無意味な人生を、自らの意思で終わらせることができるだろうから――。

「きっしょ……」

 俺の言葉を聞いた那月は、顔を引き攣らせてそう呟いた。
 それから、まるで熊と遭遇時の対処法のように、俺から決して視線を逸らさずに後ずさり、屋上から脱出した。

 俺は屋上に一人、雨に打たれて佇む。
 そして――。

「やってしまった……!」

 俺は呟き、その場に蹲る。
 那月の立場から見ると、嫌いな相手が急に話しかけてきたと思ったら、一緒に死んでくれとか言い出してきたのだ。
 それは――恐怖以外の何物でもないだろう。

 今宵にフラれ、那月に「きっしょ……」と言われるのも納得である。
 タイムリープのせいで混乱しているとはいえ、もう少し慎重に行動するべきだった。
 
 後悔してももう遅い。俺は立ち上がり、力なく歩く。もう、家に帰ろう。
 屋上の扉を開け、校舎内に戻る。南京錠で扉を施錠した後、肩を落として階段を下り、荷物を取りに教室まで戻ろうとしていると、

「玄野、お前までどうした!?」

 驚いた表情で俺にそう言ったのは、若い男性教師、熱田邦男(あつたくにお)だった。
 彼は、気さくで話しやすく、生徒からは人気のある教師だ。

「いや、これは……」

 と言うものの、説明がしづらい。
 というか、さっき彼は「お前まで(・・)」と言っていた。おそらく、雨に濡れた那月も見ていることだろう。

「さっき那月ともすれ違ったけど、お前らどうかしたのか?」

 俺が黙っていると、心配した様子で彼はそう言った。
 やはり、予想通りだった。

「那月から何か聞きました?」

「いいや、逃げられたよ」

 事情を説明するのを面倒だと思ったのだろう。
 しかし、それなら好都合だ。

「……那月に、話を聞いてもらってたんですよ」

 適当に嘘を吐いて誤魔化すことにしよう。

「話……? 何の話をしていたんだ?」

「俺、この間みんなの前でフラれたじゃないですか。そのことで今、色々と気まずくって……」

 俺が言うと、熱田先生は頷きつつ、「青春だな」と呟いていた。

「それで、誰でも良いから話を聞いてもらいたくて。那月に聞いてもらっていたんですよ」

「……なんで那月だったんだ?」

 俺が説明すると、熱田先生は少しだけ視線を鋭くして俺に問いかける。
 那月がクラスで浮いているのは、教師も知っている。
 もしかしたら、俺との間でトラブルがあったのかもしれないと思っても、おかしくはないだろう。

「あいつ友達少ないから、相談したことを言いふらされることはないだろうと思って」

 俺が言うと、熱田先生は真顔で、

「それは失礼じゃないか、玄野……?」

 と言った。
 マジなトーンで急に来られた俺は、「あ、はい」と素直に頷いた。

「まぁ、それはわかったけど……どうしてそんなに濡れているんだ?」

 そして、当然の疑問を熱田先生は問いかけてきた。
 屋上に立ち入るのは禁止だから、正直に説明をすることは出来ない。合理的な説明も、もちろんできない。
 とにかく、勢いで押し切るしかない……!

「教室では話しづらかったんです。でも、雨の降る渡り廊下なら、周囲には誰もいなくて、都合が良かった。それに――降りしきる雨が、俺の過去を洗い流してくれるような、そんな気がして……」

 俺は遠い目をして、窓の外を眺める。
 そして、横目で熱田先生を見ると、非常に優しい目を俺に向けてくれていた。
 いたいけな思春期男子を心から案じてくれているようだ。
 
 ――その優しさが心苦しいっ!

 俺の中身は熱田先生よりも年上だ、情けなさ過ぎて目じりから自然と一筋の涙がこぼれた。

「事情は分かったけど、雨の降る中を付き合わせるのは良くないだろ?」

 熱田先生は、俺の涙を指先でぬぐってから、肩を優しく抱き寄せて、そう言った。

「ええ、今後気を付けます」

 俺の言葉に、熱田先生はにっこりと笑ってから、

「玄野、お前は那月と仲良くしてやれよ」

 そう言って、俺の肩を力強く二回叩いた。

「それじゃ、早く帰って風呂入って温かくしてから寝ろよ!」

 俺との話は終わりのようだ。熱田先生は振り返ることなく、廊下を歩き始めた。
 それにしてもあの人、指先で涙を拭った後に肩を抱き寄せるとか――生徒との距離感おかしいな。



 熱田先生と別れた俺は、教室へと戻った。
 放課後、既にある程度の時間が経過していたが、そこにはまだ居残りをして、適当に駄弁っている生徒たちがいた。

「うわ、どしたんアッキー、びしょ濡れじゃん!」

「スッケスケだぞ、おめ―」

 アッキーというあだ名に、この一週間で懐かしさを感じることもなくなるくらいには慣れていた。
 俺は、こちらを見て爆笑している3人の女子を見る。
 気合の入ったメイクを施し、制服は着崩し、髪の毛は染めている。
 高校三年のこの時期に、放課後に居残りをして勉強もせずに時間を浪費していることからも分かる通り、大学受験を半ば諦めているギャルグループである。
 ちなみに、彼女たちは基本的には誰にでも平等に接していて、「オタクにも優しいギャル」という稀有な存在だが――。
 例外として、那月のことをひどく毛嫌いしている。

「あっきー、なにぼーっと突っ立ってんの?」

 無言でいる俺を不思議に思ったのか、女子の一人が俺に問いかける。

「いや……教室にいるの、お前らだけ?」

 俺よりも早く教室に戻ったであろう那月だが、彼女らがいる中一人だったと思うと……不憫だ。

「そうだけど、どしたん?」

 にやにやと笑みを堪えられない様子で、そう答えた。

「俺の前に女子が一人教室に入っていったように見えたんだけど、見間違い?」

「見間違いっしょ。ウチらだけでずっと駄弁ってたし」

 キョトンとした様子で言うギャル。
 嘘を吐いているようには見えない。もしも那月が来ていたのなら、彼女に意地悪をしたことを得意げに話すはずだ。
 であれば、那月は教室に荷物を置いていたわけじゃないらしい。俺が気付かなかっただけで、階段付近に荷物を置いていたのかもしれない。彼女は既に帰ったのだろう。

「なら、俺の見間違いだな」

 そう言って俺は、自分の席に移動する。
 そして、カバンからタオルを取り出し、まず頭を拭く。
 今日はタイミングよくジャージを持ってきていたから、着替えてから帰ろう。
 しかし……この場で着替えて大丈夫だろうか? セクハラと言われないだろうか?

「恥ずかしがってないで、さっさと着替えなきゃ風邪引くぞー」

 平坦なテンションで、一人のギャルが言う。
 セクハラ云々は大丈夫そうだと考えてから、俺は制服を脱いで体をタオルで拭ってから、制汗シートで身体を拭いた。

「うわ、部活の匂いだ」

「部活したことねーじゃんおめー」

 ぎゃはは、と笑うギャル三人。
 俺はジャージに着替え終わってから、改めてギャル三人組を見た。
 こいつらが那月にちょっかいを掛けるのをやめたら、大分精神的に楽になるだろうな。
 那月と友達になったとは思っていない。
 それでも、無意味に怖がらせてしまった分くらいは、お詫びしたい。

「伊織、ちょっと二人で話したいんだけど、良いか?」

 俺はグループの中心人物である、伊織(いおり)トワに声を掛けた。

「お、告んのか?」

「早速新しい恋か!」

 伊織の両脇にいたギャル二人が、楽しそうに囃し立てている。
 俺は、彼女らの揶揄いを余裕で無視して、伊織を見ていた。
 ……この余裕が、逆効果だったようだ。

「あっきー、ガチじゃん……」

「とりあえず行ってきな、トワ」

 両脇のギャルは、真剣な面持ちで伊織にそう言っていた。

「ここじゃダメな話なの?」

 伊織は、長い金髪の毛先を弄りながら、どこか照れ臭そうに問いかけてきた。

「あ、ああ。出来れば二人で話がしたい……」

 俺が言うと、

「むしろウチら外すけど?」

「そしてリア充爆発しろ?」

 両脇のギャルが瞳を輝かせている。
 伊織は二人の頭を叩いてから「ウザイからやめて!」と言ってから、立ち上がった。

「今、廊下に人いないんじゃない?」

 と言って、彼女は教室を出て行った。
 俺も伊織の後をついて歩いていると、

「脈ありっす」

「トワのこと、幸せにしてやんなぁ」

 と、声を掛けてきた。
 ……話しやすい良い奴らのはずなのに、どうして那月のことはいじめるんだろうか?
 俺はそう思いつつも、教室を出た。

 廊下で話をする、と言っていた伊織だったが、流石に教室前で話すつもりはなかったらしい。
 見ると、階段前まで歩いていた。
 人気は少なく、盗み聞きしようとギャル二人が教室を出てきても、すぐに見つけることができる。
 密談するには、悪い場所ではないだろう。
 俺は伊織の隣に立ち、彼女に向かって話しかける。 

「時間とらせて悪かったな、伊織。それで話ってのはな……」

 俺が本題を切り出す前に、

「良いよ」

 伊織は、俺に向かってそう言った。

「……え? 何が?」

 突然のことに驚いて言うと、彼女は俺の表情を、上目づかいで覗き込んできた。
 そして、ゆっくりと口を開く。

「好きなんでしょ、トワのこと?」

「……え?」

「トワもさ、あっきーのこと。結構前から良いと思ってたんだよねー。今宵ちゃんがいたから正直遠慮してたけど、もうそんな必要ないしね?」

 彼女は俺のジャージの裾を引っ張りながら、甘い声音でそう言った。
 想定外の言葉に戸惑いつつも、俺は話を続ける。

「わ、悪い。話っていうのはそうじゃないんだ」

 伊織は何を言われたのか理解できていないようで、キョトンと首を傾げていた。

「那月にいやがらせするの、そろそろやめた方が良いと思うぞ」

 俺の言葉を聞いた伊織は、先ほどまでの可愛らしい表情を嫌悪に歪めた。

「はぁ? どういう意味?」

 あからさまに不機嫌になった伊織は、硬い声音で俺に問いかける。

「さっき熱田先生と話をしていたんだけど、那月のこと気にしてるみたいだった。あいつのことを表立っていじめてると、そろそろ面倒なことがあるかもしれないぞ」

「はぁ? あいつと仲良くしろって言いたいの?」

 伊織の那月嫌いは筋金入りのようで、彼女は俺のことを睨みつけながら問いかけてくる。

「仲良くなれとも、上手く付き合えとも言わねーよ。これからも無視し続ければいいと思う。ただ、クラスメイトがお前らのことをやり過ぎだと思ってチクる可能性だってある。そうならないように、あいつに対してきつめの嫌がらせはやめた方が良いってだけだ」

「無視とか陰口とかは、他の子も言ってんじゃん」

「だからだよ。一番目立つお前らが、チクられたときに一番割りを喰らう立場になるんだから。誰も自分が不利になることは言いたくない、その時に矢面に立たされるのは間違いなく、良くも悪くも目立つお前らだよ」

 俺の言葉に、伊織は黙った。
 その光景が、想像出来てしまったのだろう。

「どうしたって、気に食わない奴はいるんだ。だからって派手に敵対するのはリスクが高い。それならお互い無関心でいた方がよっぽど健全だよ」

 彼女は、機嫌が悪い……というよりも、どこか拗ねた様子で呟く。

「何それ……」

「俺の経験則だ」

 社会に出れば、理不尽なパワハラ上司と嫌でも接する必要があったし、明らかにすぐに辞めるようなやる気のない新人の面倒を押し付けられたりもする。
 いじめられる側の話は別だろうだが、そうでないなら逃げ場のない会社と違ってどうとでもなるように思う。

「何それ」

 伊織は、先ほどと同じセリフを呟いた。しかし今度は、微かに笑っていた。

「ねぇ、なんでみんなの前じゃなくって、トワにだけ言ったの? トワがあいつをいじめるの一番好きだとか、そう思ったから?」

 先程までの嫌悪感はもうないようだった。
 しかし、彼女はどこか不安そうな表情を浮かべていた。

「3人同時に言っても、お前ら聞き流すだけだろ? だから、一番話をちゃんと聞いてくれる伊織に言った」

「……そっか」

 俺の言葉に、彼女は少しだけ寂しそうに苦笑した。

「いーよ、あっきーの口車に乗せられてあげる」

 伊織は溜息を吐いてから、続けて言う。

「正直あいつに意地悪すんの飽きてきてたし。二人にはトワから言っとくよ」

「悪いな」

「別にいーよ。トワたちのこと心配してくれたんでしょ?」

 正直に言うと、別に伊織達の心配なんてしていないのだが……俺は無言で頷いた。
 その反応を見た伊織は、満足そうに頷いてから、歩き始めた。
 話は終わったため、教室に戻ろうとしているのだろう。
 俺も、伊織の後について歩き始めた。

「あ、それからさ」

「なんだ?」

 伊織はそう前置きをしてから、振り返って言う。

「今回は違ったみたいだけど。トワがフリーの間なら、いつでも告ってくれて良いから」

 揶揄うように、クスクスと笑う伊織は、続けて言う。

「失恋を新しい恋で上書きしたくなったら、早めに言いなよー?」

「……その時はお言葉に甘えるよ」

 俺は笑みを浮かべる彼女に向かってそう答えた。
 もしも俺が普通の男子高校生で、今宵とも出会っていなかったなら、間違いなく惚れていただろうな。

 そう思うくらいには、魅力的な笑顔だった。



 那月と熱田先生相手に黒歴史を晒した翌朝。

 学校へ登校した俺は、教室に入ってクラスメイト達と挨拶を交わし、自分の席へと向かった。
 しかしその途中、読書中の那月の横を通ることになる。
 無言で通り過ぎるか迷ったものの、那月からは「これからは無視をするな」と言われていたため、俺は一応彼女に声を掛けることにした。

「おはよう、那月」

 しかし、彼女はこちらを一瞥もせずに、無言のまま読書を続けた。
 だが、聞こえていないわけではないのだろう、確かに反応はあった。
 彼女の本を持つ手が、小刻みに震えているのだ。

 ……どうやら昨日の屋上の出来事で、恐怖心を植え付けてしまったようだ。
 無理もない、交友関係のない男子生徒から一緒に死のうと言われてしまえば、ヤバい奴だと誰でも思う。
 
 俺は苦笑してから那月の隣を通り過ぎ、それから自席に座った。
 カバンを開いて、荷物の整理をしていたところ、前の席に人が座った気配があった。

「東京の人は挨拶も出来ないんだねー」

 俺の挨拶が無視されているのを聞いたのだろうクラスメイトが、嫌味っぽくそう話しかけてきた。

「あんまそういうこと言ってやんなよ」

 荷物の整理が終わった俺は、顔を上げて答えた。俺に話しかけていたのは、幼馴染の今宵だった。

「……おはよう、今宵」

「うん、おはよう」

 俺の挨拶に返事をするものの、今宵は、俺が那月を庇うような発言をしたためか、訝しんだような表情を浮かべていた。
 話を変えるために、俺は彼女に問いかける。

「……何か用か?」

「学校一の美少女に無視をされて落ち込んでいる幼馴染を元気づけようとしたんだけど?」
 
 今宵は不機嫌そうに言った。
 彼女も那月のことを嫌ってはいるが、その容姿が人並み外れて優れていることを認めてはいるのだ。

「てかさ、何で昨日逃げたの? ……つーか、私のこと最近ずっと避けてるよね?」

 彼女への告白をしてから、1週間以上が経過しているが、俺は未だに気まずくてまともに話せていなかった。
 ……しかし、それも改めないといけないだろう。
 今宵は何も悪いことをしていないのに、避け続けるのは確かに失礼だ。

「悪かったな」

 俺が謝ると、彼女は驚いたような表情を浮かべた。俺が素直に謝るとは思っていなかったのだろう。

「大好きな今宵ちゃんにフラれて傷心中の俺は、お前と話すのが気まずかったんだよ」

 真顔で俺が言うと、今宵は「はぁ?」と言いながら、照れ臭そうに頬を赤らめた。
 それから、「ばーか」と言って、彼女は立ち上がる。

「……これからは、無視しないでよね」

 そう言った後、今宵は逃げるように自分の席へ戻ろうとした。
 その背中を見ていると、視界の端で那月がこちらの様子を伺っていることに気が付いた。
 俺が視線を那月へと向けると、彼女はそっと視線を逸らした。

 どうしたのだろうか? と思っていると、

「ようやく吹っ切れたか、暁」

「受験生に恋愛は不要、フラれてよかったと思う日がすぐに来るさ」

 今宵との話に聞き耳を立てていた周囲の男子が、俺の肩を叩き、優し気に語り掛けてきた。
 ……ように見せているが、彼らは笑いをこらえているように見える。

「うるせーよ」

 俺はその後、朝のHRが始まるまでの間、クラスメイト達にいじられ続けるのだった。



 今宵と普通に話すようになったが、相変わらず那月とは全く話さないまま、日々は過ぎていった。
 この二周目の高校三年生活も、気づけば明日から夏休みだ。

 終業式も終わり、今日は帰宅をするだけ。しかし、クラスメイトの大半は、憂鬱な表情をしている。
 明日以降も、補講や夏期講習のせいで、勉強漬けとなるのだ。受験生にとっての勝負の夏、能天気に休むことは、ほとんどの人には出来ないだろう。
 ――なんてことを考えながら、俺は席を立つ。

 帰ろう、そう思い出口へ向かって歩くのだが、その途中で、那月が席を立った。
 そして彼女は俺を見て、

「この後、屋上で」

 とだけ言って、教室を出て行った。

 ……反応することもできないような、わずかな時間でのやり取り。
 何なら聞き間違いを疑ってしまいそうだったが……念のため、屋上へ寄ってみることにした。
 

 
 屋上へ続く扉の前に来ると、南京錠が開けられていた。
 どうやら、聞き間違いではなかったようだ。
 そう思い、俺は扉を開き、屋上へ足を踏み入れた。

 以前来た時とは違い、今は梅雨も明け、眩い太陽が空には見えている。
 そして、屋上には那月がいた。
 扉が開いたことに気付いた彼女が、こちらを振り向いた。

 俺は彼女の目前まで歩み寄り、それから問いかけた。

「……何の用だよ?」

「あの頭の悪いギャルどもに、なんか言ったでしょ?」

 質問には答えずに、那月は逆に俺へ質問をしてきた。

「教師に目を付けられる前に、いやがらせをするのはやめておけって言っただけだ」

「あんた、性格悪いね」

 俺の回答を聞いてニヤリと笑みを浮かべた那月が、そう言った。

「今のやり取りで、なぜその結論になる?」

「頭の悪いギャルで通じたみたいだったから」

「……一理あるな」

 俺の反応に、那月は満足そうに頷いた。

「あんたと屋上で話をした次の日から、あいつらから悪口を言われたり、嫌がらせを受けたりすることがなくなったから、タイミング的にあんただってわかったんだけどさ。……なんでそんなことしたわけ?」

 俺の行動に、疑問を感じているようだ。

「急に一緒に死んでくれって言ったせいで、那月を怖がらせただろ? だから、そのことに対するちょっとした償いのつもりだ」

「あれは普通にキモかったし、本当に怖かったわ」

「……誠に申し訳ございません」

 両腕で自分の身体を抱きしめる那月に、俺は頭を下げた。

「良いよ。あんたのおかげで学校生活が、多少はマシになったし。それはもう気にしてない」

 那月はそう言ってくれたが、俺は疑問を抱いた。

「そうは言っても、授業中や休み時間、結構な頻度でちらちら見て、様子を伺ってたけど……あれは俺のこと警戒してたからだろ?」

 最初は、今宵との会話の後にこちらを見ていた。
 同じように見られることが多くなり、俺は内心那月にトラウマを植え付けてしまったと反省をしていたのだが……。

「それは……警戒していたからじゃない。違和感があったから」

「……違和感?」

 俺は、今度こそタイムリープに気付かれてしまったか、と焦る。
 やはりアラサーが高校生活を送るのには、無理があったか……。
 彼女は、俺の目をまっすぐ見てから、口を開いた。

「イントネーション」

「……イントネーション?」

 何が言いたいのか分からず、俺は彼女の言葉をただ繰り返していた。

「授業中やクラスの連中と話す時、あんた結構訛ってるでしょ?」

「そうだな」

 相変わらず彼女が何を言いたいかが分からず、俺はそう相槌を打った。
 確かに、俺を含めてこの学校の生徒・教師は皆、地方の言葉や特徴的な語尾自体はないものの、かなり独特のイントネーションをしている。
 元の世界で東京の大学に入ってから標準語に慣れるまでの間は、普通に話をしていても、聞き返されることが多かった。

「でも、私と話すときは――、訛ってない」

「それは……」

 那月が訛っていないから標準語で話してしまうからなのだが、自然と話せる理由にはなっておらず、俺は口をつぐんだ。
 無言でいる俺を見て、那月は優しく微笑みを浮かべる。

「いつから勉強してたかは知らないけどさ。それって結局、この間あんたが言ってた通りなんでしょ?」

 那月に問われてから、俺は自分が何を言っていたかを思い出す。
 訛りを真似した那月に対し、『本当は早くみんなと馴染みたかっただけなんだろ?』と。
 そう言っていたのだ。

「田舎者のくせに、私と仲良くなりたくて頑張ったわけね? 殊勝な心掛けじゃない」

 揶揄うように、那月は俺に問いかけてくる。

「……東京の大学に行ったときに、田舎者だと馬鹿にされたくなくて隠れて練習してたんだよ」

「ふーん。それじゃあ、そう言うことにしておく」

 俺の答えに、那月はにやけた笑いを隠しもせずにそう言った。
 中身アラサーの俺が女子高生に揶揄われることに、どうしても抵抗があるが……俺が彼女に与えた精神的なショックが随分と薄れているようなので、良しとしよう。
 俺が自身をそう納得させていると、彼女はふと真顔になった。

「良いよ」

 唐突に、彼女はそう呟いた。
 ……また、何のことか分からなかった俺は、彼女の言葉の続きを待つ。

「約束する」

 これまでとは打って変わり、真剣な声音で彼女は言う。

「私が死ぬときは――あんたと一緒に、死んであげる」

 前回屋上で話した時から、どんな心変わりがあったのか、俺には分からない。
 だけどその言葉を聞いて俺は――歓喜していた。
 彼女と一緒ならば、俺はこの無意味な二周目の人生を終えられるのだ。
 
「ありがとう」

 俺が答えると、

「どういたしまして」

 彼女はそう言って、これまで見たことがないような、美しい笑みを浮かべた。
 その美しさは、儚げで、触れてしまえば崩れ去りそうで――どこか『死』を想起させた。

 ☆

 こうして、俺は那月未来と心中する約束をすることとなり。  
 ――その約束が果たされるのは、そう遠い未来の話ではなかった。