御鏡学園、資料室。四時間目授業中。
 蓮見と向き合い、資料室の窓を閉める。
 狐面とヘッドフォンをしたままに僕は思わず蓮見の手元を凝視する。

 「蓮見、引き摺ってるそれ(・・)は何?」
 「先程捕まえた不審者です」

 不審者。そっか不審者かぁ。
 あ、じゃあ盗聴器の持ち主じゃ…………。
 うわぁ、危なっ!蓮見が来てくれて良かったぁ。

 「この後の時雨様の目的をお聞きしても良いですか」
 「まずは屋上に行って昼休みに先生と合流したら、手っ取り早く拐われようと思って」

 「危険過ぎる」
 「危険過ぎます時雨様」

 今ヘッドフォンの向こうからも聞こえたね。
 同じタイミングでって逆に凄い。

 「あー、やっぱり駄目?」
 「怪我したらどうするんですか」
 「僕には異能もあるし、早々怪我しないと思うよ」
 「それでも危険過ぎます!」

 資料室に、蓮見の声が響いた。

 「よく言った」

 ヘッドフォン越しに父様が蓮見を誉める。
 これ僕じゃなかったら拗ねてるな。

 「蓮見も知ってると思うけど、僕は一応護身術も身に付けてはいるし、戦闘訓練にも参加し始めたし。蓮見が居るからこそ出来る提案だと思ってるんだけど…………」
 「…………」

 無言で僕を見つめる蓮見は、不服そうだ。

 「蓮見、屋上に行こう」

 僕は蓮見に両腕を広げ、抱っこをせがむ。
 本来の時雨はここまで軽い態度も甘える様な態度も取らないだろう。
 蓮見は一瞬僕と手元を見比べ、一言。

 「両手が塞がるのはよろしくないのですが」
 「そう、じゃあ僕は先に行こうかな」

 僕は資料室の扉を開いて廊下に出てしまう。
 人気の無い廊下を階段目掛けて歩く。
 そこでふと、視線を窓に向ける。窓の先は向かいの教室。
 そこから妙に視線を感じると思ったら。
 たまたま窓の外を眺めていたらしい生徒と、目が合った気がした。
 多少の目撃者は仕方ないとし、僕はゆっくりと屋上に向けて階段を登る。
 その内、蓮見も付いてきた。手元の男を引き摺ったままに。
 そうして屋上前に着いてから十数分後、昼休みの時間を告げる(チャイム)が鳴る。
 後は先生が来るのを待つだけ、だったのに。
 階下が騒がしい。僕は蓮見に様子を見るついでに先生を迎えに行くように言った。
 蓮見は一瞬躊躇ったものの、僕が引き摺られていた男に異能を使い始めると階下に降りて行った。
 蓮見が十分に離れた事を確認すると僕は屋上に続く扉を無理矢理抉じ開け、外に出た。
 男は僕が異能を使って暫くしたら意識を戻したが、妙におとなしかった。
 それから数十分後、中庭も騒がしくなった。
 続々と生徒が出て来ているようだった。
 何が起きているのか判断が付かないまま隣に立った男を見ると、男はヘッドフォン越しに聞こえるか聞こえないかぐらいの声で「襲撃です」と言った。
 男をよく見ると、耳に小さな狐の影絵ピアスをしていた。
 目印…………目印と言えば目印だが目立たない。
 目の前の男がやけにおとなしかった理由に納得した。
 誘拐はこの男に任せよう、と思った。

 「蓮見と先生が大怪我しなければ良いなぁ」

 僕の呟きに、ヘッドフォン越しに応えがあった。

 「先生、については何も言えません。ですが避難誘導は終わっていると報告が上がってますので、無事に数人の援軍が侵入、戦闘に参加しているかと」
 「…………え?」
 「相当な手練(てだ)れがいない限り、彼は無事でしょう」

 つまり蓮見を信頼しろ、と。
 ヘッドフォン越しに使用人が落ち着いた口調で優しく言った。
 なんか、会って数日の僕より随分蓮見の事信頼してるじゃん?
 蓮見が怪しい。雪見とどう関わったらここまで信頼されるのか。
 それから暫くして、先生に肩を貸した蓮見が戻って来た。
 所々かすり傷や片足を引き摺る先生とは対照的に、蓮見はほぼ無傷。
 彼等の背後には二人、控える様に着いて来ていた。

 …………うわぁ、使用人の言った通りになった。

 僕は微妙な表情で彼等を迎える事になった。
 蓮見は先生から手を離すと僕の側に立つ男を睨む。
 慌てて、男を庇う様に前に立った。

 「蓮見、先生とそこの男は協力者だ。保護対象だよ」
 「…………知ってます」

 知ってて睨み付けるってどういう心境!?






 あれから数時間後、夕方に差し掛かる頃合い。僕は拐われている。
 勿論蓮見も、雪見家も把握しているのでわざとと言って良いだろう。
 あ、僕を拐っているのは蓮見が引き摺っていた奴だったりする。
 つまり、僕の提案は通った訳だ。
 それでも僕の提案は結構無理矢理だった。
 何せ、護衛対象と保護対象者が一辺に拉致事件と現場に首を突っ込むんだから。
 それでも一応確認はした。
 僕一人増えて怪しまれないだろうか、と。
 答えは、「怪しまれない」との事だった。
 理由を聞いて見ると数時間前の盗聴器の事があって、誘拐する人間が増えた所で問題にはならなくなった、らしい。
 何それ、どんな強制力!?もしかして小説の時雨も情報を集めてる内に巻き込まれ、事件に関わらざる得なかったのだろうか。
 それにしても何も見えなくて怖い。目隠しされてる。
 黒い狐面はとうに外してる。と言うか、蓮見や先生達の目の前で外した。
 僕の顔を知っている蓮見はともかく、先生と今僕を運んでるこの男は少し驚いていた。
 髪型と雰囲気以外、赤井蛍(あかい けい)に似ていたから。
 そして非常に揺れて吐きそう。腹にめっちゃ圧迫感。
 子供は繊細なんだ!丁重に扱えよな!!
 声出す余裕とか、そんな元気無いわぁ。

 「うぷっ…………」

 そう言えば、今回が多分最初の誘拐なんだと思う。
 まだ誰かが拐われたとか聞いてないし。
 あれ、最初?
 最初ってアレじゃん?
 被害者は浅葱君の姉だった筈では???

 「うわっ!おい吐くなよ!?」

 ()から驚いた様な馬鹿っぽい男の声がする。
 それは僕を運ぶあなた次第って事で…………。
 ってかさっきまでの落ち着きはどうしたんだ。

 妙な衝撃と圧迫感。乱暴に投げ入れられたんだろう。
 耳元に届く高い悲鳴。低反発な硬いシートの感触。車の扉が閉まる音。
 どうやら車に乗せられた様だ。舌打ちと車のエンジン音。

 「そいつがさっきの盗聴器から聞こえてた奴か?」
 「あぁ、そうらしい。資料室から怯えて逃げようとしてやがった。捕まえんのに手間取ったぜ。あー、疲れた」

 二人の男のやり取りと不定期的な車の揺れ。
 怪しまれないってそう言う事か。
 男はきっと僕の提案が無くても僕か先生、囮に使える人間を連れてくる予定だったんだろう。理解は出来るが、納得は出来なかった。
 そう考えている内にも遠退く意識。

 「僕は最初の被害者を助ける事は出来なかった
 死んでしまった最初の被害者の名前は、浅葱薫(あさぎ かおる)
 可愛らしい、女の子だった
 僕は今でも彼女の名前を覚えている
 そして、彼女の死んでしまった後の青ざめた顔も」

 沈む意識の中、(よぎ)る小説での時雨の言葉。

 瞬間的に意識が鮮明になる。気を失っている場合じゃない。
 さっき聞こえた悲鳴。僕以外にも誰か居る。
 もしかしたら。その予感はどうやら、当たっていた。
 手元の拘束を時雨の持つ異能力によって、無理矢理(ほど)く。
 視界と両手の自由を確保すると僕は直ぐに隣を確認した。
 赤井蛍ではない。目隠しを含む拘束をされた状態の可愛らしい女の子が、二人(・・)
 二人?はっ、二人も居る。
 これじゃどっちが浅葱薫か分からない。
 浅葱薫は時雨の罪なのに。
 それに小説じゃ確か最初に拐われたのは浅葱薫と雪見時雨の二人だった筈だ。
 それがどうして。
 でも、そう。二人居ても僕のやることはどうせ変わらない。
 僕は直ぐに彼女達の手を掴んだ。それも一度ビクッと肩が跳ねた後は大人しくなった。

 「必ず守り通してみせる」

 自分の足の拘束も解き、振り返る。
 彼女達だけでも守りきれる様に。
 車内には僕と二人の女の子を含め、五人。
 車はもう、動き出していた。
 結論から言うと、誘拐事件は僕が犯人達を殺して幕引きとなった。
 相手は単独犯ではないのに技量の足りない子供が相対するとか原作が鬼畜過ぎる。
 けれど、今回幸いだったのは蓮見と雪見を含めた周囲の力を借りれた事か。
 それでも避けられなかった初めての殺人、だった。
 僕に技量が無かったが為に意識がある状態や、生きたままの無力化も出来ず、殺す事しか出来なかったのだ。それも、相討ちの様な形で。息が切れる。初めて人を殺した。
 目撃者は四人。先生の協力者らしき男と浅葱姉弟(あさぎきょうだい)と蓮見。
 浅葱姉弟に関しては、誘拐犯と戦っている内にわかった。
 浅葱姉弟の拘束はいつの間にか解けていて、二人共驚きに目を見開いて青褪(あおざ)めた顔色で硬直していた。
 ただし蓮見に関しては後から僕を追い掛けて来てた様で、蓮見が現場に来た時、僕の腹には大振りのナイフが刺さったまま、力なく倒れた犯人の首から僕が持ったままのナイフがずるりと抜けた。
 つまり、全ての事が終わった後だった訳だ。
 浅葱姉弟は僕と一緒に誘拐されてしまっていたからある意味僕がどう犯人を殺したのかをまともに見ている可能性があった。
 四人と目が合ってしまった。自らの血と、返り血にまみれた僕と。
 気が付けば()()くんで、声もなくひたすら泣いていた。
 ふ、と息を吸った瞬間に腹を容赦なく刺された痛みを思い出してしまったから。
 本当に痛い時は声も出なければ、少し体を動かそうとするだけで意識が全部痛みに持っていかれるからまともに体を動かす事も(まま)ならない。息が続かない。指先が(かじか)んで麻痺してきた事を認識するのと同時。僕はいつの間にか倒れていた。
 痛い、寒い。辛い。死にたくない。助けて、誰か。

 「お嬢様!!」

 痛みに支配された(にじ)む視界の中で誰かに抱き締められた、気がした。
 熱い、痛い、空気に触れるのさえ痛い。息が、苦しい。楽になりたい。もう、少しも動きたくない。
 抗えない吐き気が僕を襲う。

 「かふっ、はっ…………」

 喉が焼ける様に熱を持ったのを感じる。
 胃酸と一緒に何かを吐き出した。
 鉄錆(てつさび)の匂いはもう、嗅ぎたくなかった。

 でも良かった。今度こそ、君たちを助けられたみたい。

 僕の痛みを無視して誰かがそう言った気がした。
 それ以降、僕に記憶は無い。





 自我が芽生えて、前世の様な記憶を取り戻してから数年。
 僕は未だ僕が雪見時雨と言う認識を持てていない。
 それどころかこの世界に僕だけが異物として紛れてしまっている事実に、一抹の寂しさを抱えていた。
 それならば僕はこのまま死ねば、このまま目を覚まさなければ僕は元の世界に戻れるのだろうか。
 元の世界で僕がどう生きていたのかも覚えていないのに漠然(ばくぜん)とそう思ったら、力が抜けていくのがわかった。
 それなのに。誰かに手を掴まれ、腕を引っ張られた。

 いくな。いかないで。どうか、まだ…………。

 泣きそうな誰かの掠れた様な声が僕を引き留めた。

 「うぅ……」
 「…………お目覚めですか、時雨様」

 (まぶた)の向こうがやたら眩しくて目が覚めたら何処かの病院の個室ベッドに居た。
 寝ている分には痛まないが、起き上がろうとするとお腹に痛みが走る状態だった。
 早々に起き上がる事を諦めた僕を目の下に濃い(くま)を作った蓮見が見下ろしていた。
 喉がカラカラなんだけど。

 「…………」

 水が欲しくて蓮見に腕を伸ばす。
 伸ばした腕の細さに驚く。

 「時雨様」

 名前を呼ばれたと思ったら蓮見に抱き締められていた。
 僕のお腹が痛くない様にか、首と頭を支えられる形で。
 蓮見めっちゃしゃがんでる。
 まぁ、でもこの距離なら流石に聞こえるか。

 「み……ず」

 予想よりずっと(かす)れた声が出た。
 それでも僕が何を言いたいのかは伝わったらしく、言い終わった途端に蓮見が動いた。
 硝子(ガラス)吸口(すいくち)を当てられるままに中の水を飲み込む。
 数口飲んで、ようやっと声が出る様になった。

 「おはよう、蓮見」
 「はい、おはようございます時雨様」
 「心配、掛けたね」
 「…………もう二度とあんな事はごめんです」

 蓮見から話を聞いた所、あれから一ヶ月は経っているらしい。
 ついこの前まで面会謝絶だったのだとか。
 その上、僕はこのままずっと目を覚まさない可能性もあった、と。
 全治は三ヶ月。医者に告げられたらしい。重体じゃん。
 それから、蓮見のナースコールによる看護士と医者による診察の後。
 僕はまた蓮見と二人になった。

 「…………それで、父様は何と?
 恐らく僕は警察からの事情聴取がある筈なのだけど」
 「はい、まずは時雨様が目を覚まさしたら連絡をするようにと。
 それから事情聴取についてはあちらで対処するとも。
 しかし、何度か刑事の方もこちらに来ています」
 「あぁ、それならば今度来たときにでも少し話すとしようかな」

 父様と蓮見以外の異性はまだ怖いし、出来れば女性が良いなぁ。

 なんて掠れたままの声で呟いた僕の言葉に蓮見は眉を寄せる。
 きっと今までは僕が目覚めなかったから、蓮見が追い払い続けてくれていたんだろう。

 「時雨様」
 「ん?」
 「…………時雨様が生かした協力者と浅葱様方はどうなさいますか」
 「父様が許してくれるなら、名前知らないけどあの男は監視ついでに僕の部下か侍従あたりにでもすれば良いと思うよ。浅葱家には一部の情報をのぞいて曖昧に情報を流すと良いんじゃ無いかな。後は父様に任せる」
 「…………伝えておきます」

 それから眠る前に父様に連絡した。

 報告は聞いている。心配した。会いに行きたかった。今度見舞いに行く。具合はもう大丈夫なのか。何か欲しい物は無いか。

 怒濤の質問。愛されていると実感が出来るが、同時に心の内の幼い僕は何もいらないから会いに来て欲しかったと泣きそうになりながら拗ねてもいた。
 僕はこの複雑な気持ちを隠すのに必死になった。
 切る間際、父様が僕のお腹の傷はどうやら残ってしまうと謝ってきた。
 僕はその言葉にどう返すか迷った結果。

 「傷痕が残る事で父様や母様、蓮見に嫌われるなら困るけど、そうならないなら別に良い。」

 電話の向こうから誰かの(すす)り泣く声と、父様の「嫌いになる筈が無いだろう」と言う声が聞こえた。
 蓮見は部屋の外に出ている。
 それから数日後、警察の人間が病室までやってきた。
 僕の要望通り、ちゃんと女性が。

 「こんにちは、私は如月って言います。貴方が雪見時雨さんですか?」
 「こんにちは。うん、僕が雪見時雨。
 何度も来てくれたみたいだけど、今までは会えもしなくてごめんなさい」
 「…………大丈夫です。それでお話を聞かせてもらえるかな」
 「うーん。一応話すけれど、見せた方が話が早いと思うんだ」

 それに、話す以上は雪見に協力して貰わないと、ね。

 「父様が貴方達にどこまで話したのかは分からないけど、あの時は父様と通話で繋がっててね。当事者って意味じゃ父様や蓮見も巻き込めちゃうんだけど、どうする?」
 「えっと……」
 「あ、僕は蓮見を側から外す気は無いよ。勿論、事情聴取の間もね」

 それから数日間。数回に別けて事情聴取は行われ、最終日に僕は蓮見に頼んでUSBチップを渡して貰った。



 あれから残り一ヶ月で退院というタイミングで、僕は病院から雪見家に帰ってきていた。
 どうやら、僕が寝てる内に運び出したみたいで車の扉が閉まった音で目を覚ましたら、僕は蓮見の膝の上で大量の汗と息切れ、心臓をバクバクと鳴らして(すが)り付いていた。

 「大丈夫、何も起きない。時雨、大丈夫だから」

 蓮見に暫く宥める様に背中を撫でられ、いつの間にかまた寝ていた。
 そうして、今。蓮見の手により、部屋に運ばれてソファーで一息。
 僕は何故かまだ蓮見の腕の中に居た。僕は起きているのに何故。

 父様に聞いた所、時々病院に行く必要はあるけれど父様が安心したかったらしく、自宅療養と言うやつになった。帰って来た雪見家が妙に懐かしく感じる。


 「そういえば蓮見」
 「はい」
 「生き証人、もう一人居なかった?」
 「…………誰の事でしょう」
 「あれ、僕の手から逃れたのが一人居た気がするんだけどな」
 「気のせいでは無いですか?」
 「蓮見は見掛けなかったのか」
 「えぇ、きっと気のせいでしょう」

 蓮見が僕を安心させる様に微笑む。
 やはり、と言うかなんと言うか。
 なんか手馴れてるなぁ。

 「蓮見」
 「はい」
 「降ろして」
 「…………御嫌ですか?」
 「嫌と言うか、うぅ……」

 返答に困り、蓮見の耳に触れる。
 あの時僕が外した耳飾りだった物はいつの間にか、ピアスになって蓮見の耳に()められていた。
 僕は結局、その日一日を蓮見に抱き抱えられたまま過ごした。
 帰って来たとはいえ、自宅療養。
 安静にする必要があるのも、下手に動くと傷口が開くのも解るが。
 僕はぬいぐるみじゃないぞ。



 20XX年、2月XX日。
 雪の降る中で開かれた赤井蛍誕生パーティー。
 私の愛娘、蛍は最近大人振る可愛い盛り。
 蛍にはそろそろ従者(友人)を付けないと、と開いたものだ。
 今夜のパーティーには将来有望な子供達に加え、雪見夫妻が溺愛し、秘匿し続けた子供も来ると聞いて期待していた。

 それから雪見夫妻が連れていたのは母親の手に引かれて歩く狐面の幼子だった。
 雪見家にしては目立つ事を、と最初は呆れた物だったが。

 雪見時雨。

 顔は見せないが挨拶は立派な物だった。
 その後も流れる様に挨拶を交わしては、するりと何処かへと消える動きは正に雪見なのだと実感させられる物だった。
 反面、今私の視界に映るのは雪見夫妻の腕の中で眠る黒い狐面の幼子。
 先程の大人びた行動とは違い、雪見夫妻に甘えている様子。
 時折、雪見夫妻の腕の中で頭を刷り寄せて眠るその姿が雪見時雨はまだ子供なのだと思い出す。
 ふと興味が沸いた。
 私が抱き上げても、眠ったままなのかと、私の腕の中で目を覚ましたらどんな反応をするのかと。
 私はいたずら心のままに雪見夫妻から狐面の幼子を腕の中に迎え入れた。
 頭と腰を支え、胸元に寄り掛からせた時。
 素直に寄り掛かって刷り寄ったかと思えば手が伸びてきた。

「時雨っ!」
「時雨ちゃんっ!」

 雪見夫妻が慌てていたが原因は直ぐにわかった。
 私が身に付けていた毛皮だ。
 手は毛皮を離れる事無く撫で続けているあたり、余程手触りが良かったのだろう。
 ふむ、眠っていて無意識とはいえ素直だな。
 空気が緩む。
 私も親だから、と言うのもあって腕の中の存在が可愛く見えるのだ。
 そう、和んでいると──────

 ギャリリリリィッッ

 私の真後ろ。
 丁度首辺りから、金属同士の摩擦とぶつかる音がした。
 音に驚いたのは私だけではなかった様で、一瞬の硬直。
 周りが騒然とする。
 ゆるりと振り返った先では攻撃が防がれた事を認識し、逃げようとする男。
 男を捕らえん、と雪見が動く。

「クソッ」
「待て!逃がすか!!」

 ────前に腕の中の幼子が動いた。

「御前である、(ひざまず)け」

 やけに響いた(ささや)く様な低い声。
 その声には妙な圧力があった。
 何かを合図する様に、振り下ろされる細腕。

 ダァンッ

 強い何かの力によって男は床に縫い付けられていた。

「ぐあああぁぁっ!!」

 ゴキンッッ

 悲鳴に紛れて、何本かの骨が折れる音が聞こえた。

 ミシリッ

 この音はまさか、床か?
 恐らくこの力は、雪見時雨自身が持つ異能力だろう。
 静まり返る会場。唖然とする雪見夫妻。わかるぞ雪見、私も同じだ。
 そして会場内の参加した子供含む全ての者が私と私の腕の中の存在に一斉にザッという音と共に跪いた。

 その瞬間、私は雪見時雨と言う存在と将来に興味を抱いた。

 足元から男の悲鳴が消え、力無く倒れている事が分かると私は周囲に声を張った。

「拘束せよ!
 …………時雨、といったかな。起きているかい?」

 腕の中の存在の意識を確かめる為に手を伸ばす。
 頭を撫でるが、反応は無かった。もしかして、寝惚けている?
 私は困惑しきった雪見夫妻に時雨を返す。
 ハッとした様に立ち上がる参加者を見回し、パーティーを締めた。

「騒がせてしまったね。悪いけれど、時間も時間だ。今宵のパーティーはこれまでとしよう」


 後日雪見夫妻から話を聞くと雪見時雨に当時の記憶は無く、年齢はまだ五歳の女の子だという。
 あの日、あのパーティーをきっかけとして私は手触りの良い毛皮を用意しては纏い、度々狐面の雪見時雨を抱き上げる事になる。
 子供を慈しむ様に。
 時に人形の様に、時に恋人の様に。
 その間、雪見時雨が起きている事は殆ど無い。

 あぁ、一度だけ時雨が起きた事があったな。
 ──────あれ(・・)を起きたのだと認識して良いものかは、判断に困るが。
 以前、会議を始める際に雪見から私の腕に時雨を受け入れてから数時間後に。
 仮面越しに耳まで真っ赤にして、ぐったりしていた。
 私はその時たまたま時雨からゆるりと力なく腕を掴まれたのでわかったが、熱を出していた。
 雪見が慌てて時雨の仮面を取って額に手を当てた時に会議に参加していた面々だけが、まだ幼い雪見時雨の素顔を見る事が出来たのだ。
 その日だけは、時雨はマスクはしたが殆ど素顔で過ごしていた。
 私と、時々雪見の腕の中で。
 たまにある襲撃も、全て雪見家の手で退けるか捕縛していた。
 親子揃って優秀だな。

 だからこそ惜しい。
 雪見時雨を蛍の従者筆頭にしたかったのだが、提案をしたその日に保留にしてほしいと言われてしまった。
 何か問題があるのかを聞いてみればパーティーの日から時折、夜中に屋敷内を出歩く様になったのだとか。
 酷い時には素足で庭に出て夜空を眺めて、そのまま倒れる日もあるのだとか。
 何度呼び掛けても反応が無く、記憶も無い事から夢遊病だと判断されたらしい。
 このままでは夜間は特に支障が出る事から保留なのだそうだ。
 やはり惜しい。
 今は私の腕の中に居る事が殆どだが、いつか雪見時雨を蛍の側に置きたいものだ。

 次に抱き上げる機会があるのなら、その時が楽しみではあるが最近の時雨は中々眠らないらしい。心配だと雪見も言っていたが、私も心配だ。
 時雨の体調を心配してしまうのは、やはり安心したように擦り寄る姿を知っているからか。
 私にとっても時雨はもう私の子供の様な存在なのだろう。

 雪見家にある兄弟がいた。
 兄は雪見家の当主になり、弟は中学生になるのと同時に蓮見家の姓を借り、一人暮らしをしていた。
 弟の名前は蓮見 柊(はすみ しゅう)
 現在、雪見時雨の護衛を務めている。
 年齢は十七。
 時雨はまだ知らない、と言うかまだ理解出来ないだろうからと言う理由で教えられてないらしいが。
 時雨の叔父と言う立場でもある。
 雪見の数ある内の小さな秘密。

俺がまだ中学生の時。
 時雨が生まれてから一週間しない内に雪見家に呼ばれた時は驚いた。
 雪見家は秘密主義だから。

 俺はその時にはもう、雪見を離れ「蓮見」の姓を名乗っていたから。
 兄さんは俺を(雪見)として見ていると言って、義姉さんと時雨に会わせてくれた。
 小さな命、儚い命、か弱い命、目が合った子に手を伸ばせばフワリ、と笑顔を向けられた。
 その柔らかな頬に指先を這わせる。
 この子が雪見を継ぐ子。
 そう思った瞬間、この子を殺せば俺が雪見の次期当主になるのだろうな、と言う妙に冷静な考えが過った。
 それ以降、時雨と会うことは無いと思っていた。

 それから時々聞く兄さんから時雨の写真と子供の印象は雪見らしくはない、だった。
 兄さんは兄さんでそんな時雨を溺愛していた。
 そして、時雨の御披露目があったパーティーの夜。
 赤井 蛍(あかい けい)誕生日パーティー。
 この日、俺は時雨を遠くから見ていた。

 狐面をしたままの綺麗な挨拶も、義姉さんに甘える姿も。
 そして、赤井当主に抱き上げられ、襲撃される所も。
 その時俺は兄さんの後ろに居たから色々心臓に悪かった。
 兄さんが時雨を心配出来ない分、俺が時雨を心配する羽目になった。
 兄さんはそんな俺を知ってか知らずか、パーティーの帰りは俺が時雨を抱き上げて雪見家に共に帰る事になった。
 車の中でも抱き上げたままだった。何なら時雨を抱き上げたまま部屋に案内されても暫くは安心出来なかった。
 後日、兄さんに聞いたら荒事があってもあまり顔色が変わらない俺が顔色を青褪めさせて時雨をじっと見つめ続けていたらしい。
 兄さんはそんな俺を見て驚いて、安心したそうだ。
 呆れて何も言えなくなった。
 俺にあれだけ時雨の事を可愛いと、今しか見れないと思うと尊いのだと語っておきながら、俺に兄さんが時雨に(かたむ)けた情が移ると思わないとは。

 そうして俺はその夜に兄さんと共に目撃する。
 俺が蓮見邸に戻ろうと、兄さんと話を終えた頃合いだった。
 部屋を出てすぐ、中庭を挟んだ向かい側で時雨の部屋が静かに開き、薄い寝間着のままの時雨がフラフラと覚束無い足取りで出てきているのが見えた。
 俯き加減の時雨の表情から感情は読み取れない上に瞳は瞳孔が開き切っていて、とても見えているとは思えない動きをしていた。
 目が合っている様で合っていない事に恐怖心を煽られる。
 廊下に出た兄さんと俺は呆然と立ち尽くす。
 何せ、時雨の歩く方向の直線上には俺達が立っていたから。
 つまり時雨は廊下から少し広い中庭に降り──────いや、落ちていた。
 俺は靴を履いてないのも中庭用の外履きを履くのも忘れて、慌てて走り時雨の腕を掴む。
 そのまま抱き締め、時雨の頭を支えて受け止めるつもりで足を地面に着いた時だった。
 予想外にも、暗くて見えなかったか何かで石を踏んだらしくバランスを崩した。

 「あ」

 が、転ぶ事はなく俺はそのままの姿勢で、浮遊感に包まれた。
 と思ったら目の前が夜空だった。
 上空に投げ出されたのだと気付いた瞬間、ゆるりと落下し始める。
 腕の中で顔を上げた時雨は夜空を眺め、月に手を伸ばす。
 まるで焦がれる様に。
 俺はただそれを見ていた。
 落下し始めていると言うのに、今にも時雨はどこか遠くに行ってしまいそうな雰囲気があった。
 下から俺達に呼び掛ける兄さんの横で数人の使用人が毛布を広げ、俺達を受け止める準備をしていた。
 何だったら屋根に上った数人の使用人も俺達を受け止めようとしていた。
 時雨がどこに降りるのか俺には分からないが、俺は時雨に声を掛ける。

 「時雨、降りよう」

 時雨は瞳孔の開ききった瞳で俺をじっと見つめた後、素直に屋根に向かって降り始めた。
 そして無事に使用人に確保された。
 時雨は使用人に声を掛けられても、兄さんに声を掛けられても反応しなかった。
 その代わり、時雨を震えて抱き締める俺の腕の中でおとなしく寝ていた。
 それにしても見つめられてる間は恐怖で背筋が震えてしまった。

 「時雨、柊」

 無事で良かった。
 時雨が迷惑掛けたね。
 今夜は泊まっていきなさい、と言う兄さんの言葉で俺は終電を逃した事を悟った。
 俺は蓮見邸に戻るのを諦め、時雨の部屋で一夜を過ごした。
 監視である。しかし流石子供。
 寝ている内に毛布を剥ぎ取っていたり、何かを探す様に動き出す為時雨の眠るベッドに毛布を掛ける様に近付くと腕を取られ、引っ張られた。
 驚いた俺がベッドに手を付いて衝突を避けようとした瞬間。

 「誰……」

 心臓がドクリ、と一際強く跳ねた。
 同時に先程とは種類の違う恐怖も沸いた。
 今ならこの無防備な幼子を殺そうと思えば殺せる瞬間でもあったから。
 俺の小さな殺意に似た感情に時雨が気付いたのかもしれない。
 俺ですら認識したのは今だってのに。
 小さく囁く様な声ではあったが、時雨が初めて俺を認識した瞬間だった。
 しかしまぁ、時雨は(まぶた)を閉じたままだったので応えられなかったのだが。
 そして俺は結局時雨と衝突するようにベッドに落ちた。
 咄嗟の行動が時雨自身によって止められたのだから仕方ないのだと、言い訳をしておく。
 早朝、兄さんに起こされて気付いた時には時雨を抱き締めた状態で寝ていた様で時雨を起こさない様に抜け出すのが大変だった。

 「おはよう、兄さん。この事は誰にも言わないでね」
 「あぁ、そうだね。二人の可愛い姿を見れたし、秘密にしておこうか」

 兄さんに微笑ましげに見つめられて気まずくなった俺は時雨の部屋を急いで出た。
 雪見家を出る頃、兄さんにお弁当を持たされた。
 パーティーの翌日が休日で良かったと心の底から思った。



 数年後、俺は高校生になっていた。
 兄さんに呼ばれて学校帰りに雪見家に伺うと時雨の護衛をやらないか、と提案を受けた。
 おこずかいもくれるとか何とか…………。
 まるで護衛のアルバイトでもどう?と言わんばかりに軽い提案だ。

 「…………兄さん、俺の立場わかってる?
 受験を控えた高校生で、絶賛思春期真っ只中で。原付自動車の免許も取りたいのに。
 それに時雨の叔父と言う立場上、雪見の継承権も手にしようと思えば出来て────」
 「あ、心配するところはそこなんだ。じゃぁ、大丈夫だね」
 「は!?」

 兄さんは微笑み、どこが大丈夫なのか全く分からない内に時雨への挨拶と護衛の予定が埋められて行く。どうやら基本的な護衛は雪見家と御鏡学園の行きと帰りだけの様だった。
 俺の予定を聞きもしない辺り、俺があまり予定を作らない事を知っているのだろう。
 流石雪見家。
 この時、時雨には聞かれたりしない限りは雪見家に連なる者だと言わない様に、と兄さんに言い含められた。聞かれたら、叔父であることも伝えて良いと。
 しかし俺個人的には叔父さん等とは呼ばれたくは無いため、暫くは秘密にしようと心に決めた。数日後の朝、俺は高校の制服のまま時雨に挨拶していた。
 提案されてから三日しない内だった。

 「時雨、今日から護衛が着くからね。」

 兄さんの声で紹介される。
 俺はその声に合わせ、一歩前に出て一礼する。

 「蓮見、と申します。よろしくお願いいたします、お嬢様」

 いつだって、時雨の傍から離れるのは不安が残る。
 けれど、そう思い始めたのはあの時からだった。

 時雨の護衛をして数日の朝。
 ふと、玄関先の門前で立ち止まる時雨。

 「あ、そうだ蓮見」
 「はい」
 「今日から暫く一人で帰る」

 ピシリッッ

 音が聞こえそう。
 と言われても不思議じゃない固まり方をした自覚がある。

 「は、何を…………」
 「一人で帰る」
 「どういう事でしょう」

 思わず、だった。思わず俺からするりと、表情が落ちた。

 「なるべく蓮見には迷惑がかからない様にするから」
 「そういう問題じゃありません」
 「……ちゃんと誰かと一緒には帰るから」
 「誰とですか。あなたの事です、赤井蛍様とご一緒はなさらないでしょう」

 最近、時雨はよく俺と会話をしたがる事が増えた。
 だから今回もそうなのだろう、と油断した。
 そして話せば話す程、時雨にはまだ友人が居ないと言う事がわかった。

 「浅葱 薫(あさぎ かおる)って子。まだ仲良くなれてないけど」

 照れた様に頬を赤くする時雨。
 けれど友人を作りたいと言うのに表情にはどこか焦りと不安が伺えた。
 何かに急かされる様に時雨の顔色は少しずつ、白くなっていた。
 こうなると人間、周囲が見えなくなる事が殆どだ。
 少なくとも、時雨から事前に「今日何かするかも」と言うサインの様な発言に気付けた。
 俺はその事実に小さく安堵した。

 学園に到着するまで、会話はしなかった。
 まぁ、当然だ。時雨がそもそも心ここに在らず、と言う状態だったのだから。
 いつも通り(てのひら)を差し出す時雨を見て、俺はある種の覚悟を決めなければならなくなった。

 「今日もありがとう蓮見。さ、学園に着いた。イヤホンを────蓮見?」
 「────くれぐれもお気を付け下さい」

 渋々、イヤホンを返す。
 無線イヤホンを付けたままの時雨をいつもとは違う見送り方をする。
 学園の校門前から敷地内の高等部に足を向けつつ、兄さんに電話を掛ける。

 『柊?さっき振りじゃないか、どうしたんだい』
 「兄さん、時雨の様子がおかしいんだけど、理由知らない?」
 『あぁ…………今報告が入った。今日は一日サボタージュするみたいだねぇ』
 「兄さん、何人か応援を…………万が一を考えて比較的動じない人を下さい」
 『…………用途は?』
 「避難誘導と後始末です」
 『戦闘、とは言わないんだね』
 「戦闘…………あるかどうかもわかりませんが、あるなら俺がします。
 代わりに小回りの利く移動手段持ちが来ると尚良いんですが」
 『ふむ、用意しよう。杞憂で終わることを願っているよ』
 「ありがとう、兄さん」

 通話を切って直ぐ、俺は高等部に走った。
 時間帯的にはどうやら朝のHR(ホームルーム)直後。
 まばらに生徒が行き交う廊下を息を整えながら歩く。
 教室近くの階段の踊り場に着いた時、俺は意外な人間を見付ける。
 階段に寄り掛かってスマホを操作する色素の薄い前髪の長い青年。

 「おはよう蓮見、遅刻かな」
 「…………残念。サボりだ」
 「珍しいね」
 「理由は欠片も珍しくは無いがな」
 「ふーん、大変だね」
 「俺としてはここにお前(・・)が居たことに驚いてるが」
 「あぁ、それはね。いつもなら来てる筈の蓮見が居ないって聞いて。
 遅刻とも休みとも聞いていなかったから、丁度連絡しようか迷っていてね。来てくれて良かった」

 待っていたよ。

 優しげに微笑む青年。クラス委員長。播磨透(はりま とおる)
 同時にかつて俺と、中学生時代に共に修羅場を(くぐ)った事のある一般(不良)の協力者だった。
 だが今は俺が播磨を遠ざけていた。
 播磨の指には今も雪見製の指輪が(はま)って…………ない。

 「播磨、指輪はどうした」
 「あぁ、何処に行ったかな」
 「…………どいつもこいつも。今日は厄日か?」

 思わず播磨の指先を掴む俺を、長い前髪越しに楽しげに見つめる播磨。
 そのニヤケ面に腹が立つ。

 「嫌だな蓮見。協力者は必要無いのかな?」
 「…………まさか」
 「そのまさかだとしたら?」

 まさか本当に兄さんに頼んだ結果の協力者なのか。
 確かに播磨は俺と丸二年を過ごし、その間に散々巻き込まれて荒事に慣れている。
 しかも今回は播磨の指に指輪が見当たらない。
 雪見製の指輪が無ければ播磨の位置特定が難しくなり、播磨に付けている護衛も意味がなくなってしまうのだ。

 「…………良いだろう。俺から離れるなよ」
 「忘れたの?俺も闘えるって」
 「ある程度だろ、命のやり取りまではした事が無い筈だ」
 「あぁ、最近そっちでも落ち着いて動ける様にはなったんだ」
 「…………あれだけやったのにまだ、何かされるのか」
 「え」

 播磨の一瞬呆けた顔に俺は「気にするな」と続ける。
 播磨に念の為に聞いておく。

 「播磨、朝から校舎の何処かで時間を潰すのと早退するの、どっちが良いんだ」
 「え、近いの?」
 「…………」
 「わかった。わかりました、直前までは聞きません。
 今の俺的には早退の方が都合が良いかな」
 「優等生だな」
 「これ(・・)は蓮見の為でもあるんだけどな」
 「…………そうか」
 「そうと決まれば、とりあえず職員室に向かおうか」
 「あぁ」

 慌てた様に両腕を上げて降参の意を示す播磨。
 俺としては中学生時代の時とは少し違う聞き分けが良いと言える態度に多少の違和感を覚えつつ、播磨の優等生的な発言に苦笑を溢す。

 優等生。
 俺が接触を控え、遠ざけてから播磨は少しずつ変わった。
 授業態度の改善、気が付けばクラスが同じ奴と話している瞬間を目撃した事もある。
 そして高等部に上がる頃にはクラス委員長になっていた。
 凄い変わり様だった。
 以前の播磨を知っているのは内部進学者くらいな者だろう。
 それでも以前の播磨と今の播磨を同一人物だと気付く人間が何人いるか。

 そんな事を考えながら、俺は播磨の背を追う。


 「播磨、覚えているか。
 任務中は「下の名前で呼び合う事、か?」
 「…………そうだ。名字は俺達の所属を示す」
 「俺達の所属が聞いてる誰かに、わからない様に?」
 「あぁ、覚えていたか」

 職員室が見えた。
 そこで何故か焦った顔の担任と目が合った。

 「あ、蓮見。やっと見つかったか。流石だ播磨。ありがとうな」

 担任の第一声に俺と播磨は思わず目を合わせる。
 そして担任が続けて言った言葉に納得した。
 雪見の誰かが気を利かせた様だ。

 「さっき蓮見の実家の(かた)から連絡が入ってな」


 「蓮見の親戚が危篤だと、今日は蓮見は早退すると聞いた。」
 あぁ、何故か知らんが播磨も早退する様だな。
 連絡が来ていたぞ、と面倒そうに俺達を睨む担任。

 中学生時代の察しの良い先生から聞いた事でもあるのか、妙に理解のある担任に苦笑を溢す。
 そうして俺達は、高等部を早退した。

 校舎を出た頃合いでスマホを確認すると、通知が入っていた。
 チャット通知に校門の前に車が待機していると書かれていた。
 スマホから顔を上げて校門を見てみる。
 校門の前に黒いスーツの男が居た。
 見覚えは、ある。
 雪見家で過ごす時、毎回俺の世話をしている男だ。
 幼い頃、一度だけ遊んでもらった覚えもある。
 目が合う。一礼される。
 ふと、横から播磨の声が掛かった。

 「蓮見、あの男は……」
 「実家が用意した協力者だ」

 俺はそのまま校門に向かう。

 「お待ちしておりました。お坊ちゃん」
 「……あぁ」

 言葉と共に車に導かれ、後部座席の扉を開ける男。
 流れる様に車に乗り込み、播磨を手招く。
 隣に播磨が乗り込んだ事を確認し、車が動き出す。
 車は直ぐにそのまま御鏡の敷地内に入り、駐車場に止まる。
 但し、中等部の駐車場に。

 「まさか、学園内なのか……」
 「正確には中等部だな」
 「は、何で」

 播磨と俺の会話に違和感を感じたらしい。
 運転席から鏡越しに視線を感じる。
 言ってなかったのか、と言いたげな視線。

 「そうだな、まだ時間はあるようだから話しておこう」

 そうして俺は時雨が事を起こすまでの時間。
 車内で時雨の護衛に着任した事とこれから何をするのかを、かいつまんで話す事になった。


 私達が拐われたのは一瞬の出来事だった。
 そう、本当に一瞬で。
 わざととはいえ、護衛を付けなかった私達は簡単に拐われた。
 私達は、囮だった。赤井蛍様を狙う輩がいると聞いたその日から。
 赤井家と浅葱家が一緒に決めた事だった。
 だから、拐われる事は知っていたし、幼心でも覚悟を決めていた。
 傷付く事も、最悪死んでしまう可能性も。
 だから、まさか私達以外の誰かが来るなんて思ってなかった。
 まさか命懸けで守られるなんて、思ってなかった。

 何も見えない真っ暗な視界の中。強い衝撃、車に誰かが投げ入れられた。
 と思ったら、手を掴まれた。予想以上に冷たく、震える手。

「必ず守り通してみせる」

 小さく紡がれたその声は掠れていた。
 それからは怒濤の展開だった。車が走っていたのは時間にして約15分。
 車の扉が開かれて直ぐに、手を引かれた私達は暗い視界の中で車の外に出されたのだと知らされた。私達の手を引く誰かの声によって。

「いきなり拉致したかと思えば、()達を連れて何処へ行こうと言うの!?」
「おいてめぇ、ピーピーうるせぇと思ったら。
 どうやって拘束を解いた!?」
「丁度良い、二人の足の拘束も解いてやらぁ。おら、てめぇの足で歩いて貰おうか。
 死にたくなきゃ、付いてきな」
「っっ…………」

 そんなやり取りの後に、足元が急に自由になった。
 最後の男の言葉に、怖いと思った。死にたくない。弟を死なせたくない。
 思わず、握られている手をぎゅっと強く握ってしまった。

「大丈夫、君達は必ず…………」

 私達を落ち着かせる様に、同時に自分の事も落ち着かせようとするように囁かれた頼り無さげな声。
 これは少し後から思った事なのだけれど、私達の手を引く誰かは全ての拘束を解いていたって事は、当然視界も良好だったことになる。
 つまり、男達の脅しも凄みも正面から受け止めていた事になる。
 だからその誰かは私達よりずっと、怖い思いをした筈なの。
 声が震えてしまうのなんて当然だったのよね。

 そうして手を引かれて歩く。途中カツン、と何かが落ちる音がした。
 私達は何処かの部屋の中に連れ込まれて、地面に座らされた。
 脅され何かを投げつけられたらしい硝子(ガラス)の割れた音に心臓を跳ねさせて。
 そうこうしている内に、誰かに電話を掛け始める男の声。
 誰かを呼んでいるかの様なやり取りの後に、違う所に電話を掛けたと思ったら身代金を強請(ゆす)り始めた。
 そのやり取りをどのくらい聞いていたのか、どのくらい時間が経ったかも分からない内に。

 チャリッ
 コトッ

 装飾品の擦れる音と、何かを置く音が聞こえたと思ったら。
 扉が開かれる。誰かが来た様だった。

「よぉ、おもしれぇもんが釣れそうなんだって?」

 足音が近付いてくる。
 視界が暗いのに。ず…………と重くなる空気。
 気配なんて欠片も分からない私にも伝わる、威圧感。

「自分の面倒が見れない場合は早めに触れて!」

 目の前の誰か(・・)がそう叫んだ瞬間、何かが弾ける音が響いた。

 パアンッ

「へぇ、異能力者。
 こいつは確かにおもしれぇな」
「いきなり撃つとか恐ろしい事するわね。ある程度の安全が確約された人質だと思ってたのに」
「あぁ、あんたの後ろにいるヤツは確かに人質だよ」

 つまり、あんたは殺しても問題は無い。
 そう言った男の声に、ゾッとした。
 この時やっと、さっき聞こえた「何かが弾ける音」が銃声だったのだと気付いた。
 そして私達がその誰かの異能力によって庇われた事も。
 きゅっと、腕の中の存在()が私を強く抱き締める

「そう、()が誰であってもその結論は変わらないのかしら」
「あん?」
「私の事を調べなかった、とは言わせないわよ」
「お前、まさか…………」
「あら、今更気付いたの?
 これなら掠り傷の一つくらい負っておくべきだったかしら」
「はっ、言うじゃねぇのお嬢ちゃん」
「これで私は人質としての価値は…………」
「あぁ、本命(・・)が釣れたんだ。これで後ろの二人は殺せるな」

 カチャッ

「ちっ、どっちかだった訳か」

 銃の安全装置(セーフティー)を外す音。
 さっきまで身の安全を確保しようとしていたらしい誰か(・・)の声色が変わったのは急だった。
 殺す?後ろの二人? 私達姉弟(きょうだい)を、殺す?
 ただでさえ拘束されて視界が暗いのに。底知れない恐怖と絶望感を味わった。

「姉様…………」
「…………ん?姉様?」

 弟の声に返答を返したのは私じゃなかった。

「浅葱?」

 分かりやすく明らかなその油断が…………

 パアンッ

「ちっ」
「はっ、護衛も居ねぇのに油断するわけ」

 舌打ちと銃声。男を馬鹿にするような笑い声。
 とその時、目元を拘束していたらしい布が切られた。

「薫さん、で合ってるか?」

 一瞬、光が眩しくて眉を寄せる。馴れてきた視界に入って来たのは私と目を合わせる私と変わらないぐらいの年齢層の少女。
 黒と青の、服がやたらフリフリした…………目立つ格好をしているが、突っ込めない程に恐ろしい状況だった。
 私達はどうやら部屋の角に案内されていたらしく、背中に壁がぶつかる。
 両腕を拘束されている私の腕の中で目隠しと両腕を拘束されつつも器用にしがみつく弟。
 腕の先で静かに私達を見つめる少女、と後ろで悔しそうに顔を歪める男。

「君は…………」
「残酷かもしれないけど、あなたには目撃者になって貰おう」
「え」

 私が驚いてる間に少女は自分の片耳から私の片耳に、ある装飾品を取り付けた。
 それはどうやらイヤリングの様で。

「あなた達は渦中の人間。仮に僕らが生き延びたなら、第一目撃者になって事情聴取がされると思う。だから、これを着けてもらう。もし、事情聴取の時、混乱して何も話せなかったらその時は。このイヤリングを警察に渡して。そうすればどうにかなるから。

 但し、イヤリングを渡してしまったら返して貰うまでは安全の保証が無いから今後は護衛を付けてね。絶対に返して貰って。出来なさそうだと判断したら僕が直接迎えに行こうかな。だからとりあえずは、ここを動かないで見ていて」

 そう言った少女は、後ろを振り向いてやっと男と対峙した。
 男は、私と少女が話している間にも何発か銃を撃っていたらしく、弾が無くなったのか大振りのナイフを取り出していた。

「テメェみてぇな餓鬼にはこれで充分だろ」

 男は醜く顔を歪ませた。そして力強く振りかぶる。
 少女は男の言葉を聞いていないのか無言で男の動きをじっと見つめていた。
 本来なら誰もが恐怖で目を閉じるような所だ。
 私も思わず悲鳴が漏れた。

「ひっ」

 けれど少女は恐怖を顔に彩らせず、男が振りかぶったナイフを頭上に(かざ)しただけの(てのひら)で受け止めた。
 瞬間、金属が壁にぶつかる音がした。
 さっき銃弾を弾いて見せた様に、「異能力」を使っているのだろう。
 ただ、私にはその異能が何なのかが分からないだけで。
 形が無い(・・)のだ。実際見えないから無い、としか言い様がないのだけれど。
 けれど男は少女の様子が変わった事に違和感を感じたらしい。

「何だぁ?急に黙って。面白くねぇ、なぁ!」

 男のその言葉と共に脚が少女に迫る。

 パァンッ

 同時だった。少女が男に蹴られて吹き飛ばされるのと、私の目の前で銃弾が落ちるのは。
 流石、と言えた。

「はっ、はははははは!おいおい、異能力者とは言えこんな餓鬼が武器も持たせて貰えなかったのかよ!可哀想だなぁ?」
「ぐすっ」

 お腹を抱えて泣きそうな、でもそれを必死に堪える様に表情が険しくなった少女が男を睨む。
 こればかりは身長差、力の差や経験の差、年の功。
 それらが当てはまってしまうのだろう。
 私も一緒に悔しさを感じる。
 男は味を締めた様に周囲に視線を走らせて叫ぶ。そこには二人の男。
 一人は携帯を閉じ、呆れた様に二人を眺めていた。
 もう一人は…………私と目が合った。
 淡々と静かに私達を見つめていた。

「おいお前ら、そこの餓鬼共を始末しろ!」

 男の言葉に片方は気だるげに動き、もう一人も後ろに続く。
 きっと少女は私達の為に異能力を使うのだろう。
 そしてきっと少女は男に暴力を(ふる)われて、最悪殺されてしまう。
 ハンデなんて一つも無い。実践は想像以上に容赦がない。
 その状況に、10(じゅう)になるかならないかの少女が立たされている。
 なんて残酷。けれど、そう考えてる間にも男達は近付いて来ていて。
 目の前に来た男の拳銃が私達に向けられた。その時。

 バチバチンッッ

 電流の音と共に意識と拳銃を手放した男が崩れ落ち、後ろから銃を奪って男の首根っこを掴む。
 彼はもう私達ではなく、少女を見ていた。
 そして、隠し持っていたらしいナイフを少女に向けて脚で蹴る。
 後で知った事だが、この時私の両腕と()の拘束を全部ナイフで切っていたらしい。

「ちっ、テメェ…………裏切りもんがっ、あ……」

 私も少女の方を見る。床を滑ったナイフはちゃんと少女の近くにあった。
 少女の蹴りが、男の顎に見事に入っていた。
 それでも男が気絶しないのは攻撃が軽かったからか。

「クソガキ!」

 男は叫ぶと少女に様々な角度からナイフを振りかぶる。
 そのいくつかが、少女に浅い傷を作る。

「んぐっ」

 けれど少女もいつ拾ったのか、飛ぶ様に近付いてはナイフを男の顔に向けて振るう。
 男はそれをナイフで払う。と、男の蹴りがしゃがんだ少女の頭上すれすれを通り過ぎる。
 そしてやっぱりと言うか、先に体力の限界が来たのは少女の方だった。
 肩で息をして倒れそうな少女。
 少女を惜しむ様に、けれどやっとか、と言うように深いため息を付く男。
 軽い息切れはをしているので一応疲れてはいるらしい男が表情を消して言った。

「もう良い。お前、死ね」

 男のその言葉と同時だった。廃工場の扉が勢いよく開かれ、何処かの制服を着た青年が入って来た。後で調べたら、御鏡学園の高等部の制服だったと知れた。
 その一拍後。少女の持つナイフは男の首に、男のナイフは少女のお腹に。
 吸い込まれる様に刺さった。どちらも致命傷。先に崩れたのは男の方だった。
 ふと、少女と目が合う。少女は呆然と涙を流していた。
 ホロリホロリ、静かな涙だった。けれどそれも一瞬の事で。
 ぐらり、と倒れる少女を「お嬢様!」と叫び受け止める青年。
 青年の腕の中で、血を吐く少女。

「かふっ、はっ…………」

 涙を流し続ける少女と目が合った気がした。

「いっっ……良かっ……今度、こそ……助け…………」

 廃工場内に響く少女の小さな声。何がここまで少女を命掛けにさせるのか。
 これが、私と雪見時雨との出会いだったのは確かだ。

 どのくらい経ったのか、呆然としている間に救急車と警察車両(パトカー)が来ていたらしく、ふと気付くといつの間に拘束が解かれていたのか、毛布を被った誠に覗き込まれていた。毛布は私も被せられていた。

「姉さん、行こう」

 誠に促されて、救急車に乗り込む。
 私の傍に居た二人の男はいつの間にか、居なくなっていた。
 救急車に運ばれた私達は一日入院することになり、少女も同じ病院で入院している事がわかった。けれど、会う事は叶わなかった。
 後日、事情聴取後に病院に向かった私達の面会を断ったのは、かつて少女を抱き上げていた青年だった。

「申し訳ありませんがお嬢様の容態が悪く、まだ目覚めておりません。どうか、お引き取りくださいますよう願います」

 青年の目元には濃い隈が出来ていた。
 あれから、浅葱家の使用人や弟と入れ替わる様に病院に向かうも、一ヶ月後には少女は居なくなっていた。それならば元気になって別の病室に移ったのだろう、と名前も知らない少女を病院内で探している矢先だった。
 浅葱家でも少女の事は調べ、唯一の手掛かりであるイヤリングをお父様に見せると、受け取ってから暫く固まった気がした。

「薫、持ち主からこれを渡された時、何と言われたんだい」
「え…………」

 お父様の表情は強張っていた。お父様のあんな表情、初めてだった。

「とりあえず、肌身離さず持っていなさい。そのイヤリングが薫を守ってくれるだろうから」
「御守り、みたいね?」

 私がそう言うと、お父様は苦笑した。
 そして、お父様はそのままこう言った。

「薫と誠を守った少女は死んでしまった」
「え」

 頭が真っ白になった。
 お父様が何か言葉を続けているみたいだったけれど耳にも頭にも入って来なかった。
 お父様はそんな私を見て、諦めた様に私を部屋に返した。
 それから数日後、誠にも同じ話がされたらしく、誠も呆然としていた。

「二人揃って…………」

 こめかみを押さえてため息を付いていたお父様は数年後、覚悟が出来たら読みなさい。
 と、私にある書類を渡した。
 お父様曰く、数年掛けてやっと許可を頂いて受け取った物らしい。
 私は長女だから特別に知らされる事実で、誠にはまだ知らせてはいけないらしい。
 そこには、数年前かつて私達を救った少女の名前と現在が書かれていた。

 雪見時雨。
 数多くの秘密を隠し持つと言われた雪見家の次期当主。

 雪見家の秘密に触れた者は殆どが生きていないと噂の。
 以前から狐面を付けてパーティーやお茶会に参加し続けているらしい。
 資料にクリップで挟まれていた写真には、文豪少年(書生)風の着物を着た狐面の青年が写っていた。ん?狐面?私はふと、少し前に雪見家の人と挨拶した事がある事を思い出す。
 私の知る狐面はドレスを着ていたので、性別不詳なのだと言うことが分かる。
 何度か命が危ない瞬間もあった。護衛がいない瞬間だった。
 けれど、そういう時に限って必ず誰かに助けられていた。
 つまり、私達はずっと雪見時雨に守られ続けていた事になるのだ。
 私はピアスに変わった、かつてのイヤリングを撫でた。

「いつか、ちゃんと御礼言わなきゃ、よね」

 俺は雪見家が寄越してくれたバイクの後ろに乗せて貰っていた。
 運転操作をするのは、播磨透(はりまとおる)
 俺達は、先に行ってしまった護衛対象(雪見時雨)を追っている。
 行き先はどうやら今は使われていない廃墟と化した工場。
 工場への到着と同時に播磨にスマホを渡し、伝える。

「ここから逃げ出す奴が居たら、雪見に電話を掛けろ」

 雪見家に繋いだ通信に従って工場の敷地内で時雨が意図的に落とした片方のイヤリングを拾い、自身の耳に装着する。
 そのまま急いで工場の扉を開け、護衛対象を見付けた時には既に遅く全てが終わっていた。

 時雨!!

 そう叫びそうになって思考が一瞬止まる。

「お嬢様!!」

 時雨によって首を刺された男が倒れた後、腹に大振りのナイフが刺さったまま倒れそうになる小さな体を抱き止めるのが精一杯で。
 時雨が血を吐いた後に続いた言葉に思わず固まった。

「いっっ……良かっ……今度、こそ……助け…………」

 俺の腕の中で、只でさえ軽かった体がより軽くなっていく感覚と白かった肌がより白く冷たくなっていく小さな子供。
 制服が血で濡れるのなんて気にしていられなかった。

 痛い。良かった。今度こそ、助けられた。

 途切れ途切れに小さく(ささや)かれた言葉は俺の脳内でそう整理された。
 だからこそ、意味がわからない。
 今度こそってなんだ。
 俺の腕の中の子供が命を捨ててまで守る対象は赤井家の命令と、赤井蛍だと雪見家当主(兄さん)に聞いて数日しない内に起きた事だった。
 通信越しに播磨の電話を掛ける声と、救急車と警察を呼ぶ電話が掛けられる声が聞こえる。
 それから十五分しない内に救急車が来て運ばれる腕の中の子供と俺。
 時雨が子供に託したイヤリングと俺のイヤリング越しに殆ど同じ光景を見たらしい雪見家当主と一部の使用人は呆然と顔を白くしつつも最後まで見届けた。

 この時、雪見家と俺と使用人含む一同の中で時雨は「か弱く儚く、無茶をしがち」な存在になった。

 その後、一ヶ月と少し。
 一面真っ白な物だけが配置された無菌室で二週間。
 時雨は意識不明のままで面会謝絶の重体だった。
 それでも一度だけ、ほんの瞬きの間だったが窓越しに時雨と目が合った。
 だけど、それも一瞬の事で。
 その一瞬が幻覚だったのでは、と感じる程には時雨の意識は回復していなかった。

 途中、浅葱家の者が病院に、と言うより時雨に会いに来ていたが、生憎と時雨はまだ目覚めていない。

「申し訳ありませんがお嬢様の容態が悪く、まだ目覚めておりません。
 どうか、お引き取りくださいますよう願います」

 時雨が命懸けで助けた浅葱家のお嬢様であろうが俺には殆ど関係無かった。
 俺は冷たく、慇懃無礼(いんぎんぶれい)な対応で浅葱家の使用人ごと追い払った。

 それから数日後、朝方と言える時間帯に時雨の容態が急変した。
 医者と看護士が付きっきりとなり、「今日が山場の様です。
 この子が今日を乗り越えられなければ…………」と言われた俺は急いで兄さんに連絡を入れ、時雨の傍に控える様になった。
 それから数時間後、昼間。
 雪見家当主(兄さん)が時雨の病室に来た。

「柊、少し休むかい」
「兄さん…………」

 俺の肩に手を置く、やけに落ち着き払った態度の兄さんにほんの少し苛立ちが滲んでしまう。

「随分遅かったな、兄さん」

 力無く呟いた俺の言いたい事は存分に通じたらしく、頭上から溜息が聞こえた。

「柊、何日寝てない」
「3日以降は数えてない」
「…………柊、今すぐ寝なさい。
 柊が寝ている間くらいは時雨の事は私が見ていよう」
「…………」

 返事を返す余裕はもう無かった。
 兄さんの言葉を合図に、俺の意識は簡単に落ちた。

 いくな。いかないで。どうか、まだ!…………

 ふと、誰かの声で意識が浮上する。
 今にも消えそうな者を必死に留めようとする声。
 声に(つら)れる様に重たい腕を伸ばす。
 その腕を誰かに取られ導かれた先で、力無い誰かの手を掴んだ気がした。




「……ん」

 はっ。
 意識が一気に浮上する。
 視界が何かに遮られていることに気付き、目元に手を伸ばす。
 触れたのはどうやら兄さんの掌。

「おはよう、柊。
 丁度良かった」

 退かした掌越しに兄さんと、目が合う。
 兄さんに膝枕をされていたらしい。
 兄さんのもう片方の手は、時雨の手を握っていた。

「時雨はもう大丈夫だよ。でも念のため時雨の手を握っていてくれないかな」
「もうって…………」
「うん、一度心臓が完全に止まってしまってね。
 でも奇跡的に吹き返したんだ」
「何で起こしてくれなかったんですか」
「何でって。
 時雨の心臓が止まった時、急に時雨の手を掴んで離さなかったじゃないか」

 兄さんの言葉に一瞬思考が飛んだ。
 は?
 急にって。
 声に連れて腕を伸ばしたのは確かだが、誰かに腕を取られてそのまま手を掴んだのであって……。

 俺の驚いた表情に兄さんの方も驚いたらしい。
「え、無自覚?」そう言って俺をまじまじと見詰められた。


 と、そんな事があってから一週間と数日後。
 一度、一番忙しい時に来ていたらしい。
 来たのは二度目だと言う警察の人間を慇懃無礼に追い払う。
 浅葱家の次は警察か。
 時雨の容態は意識の目覚めこそ無いものの安定し、個室に移されていた。
 俺の目の前で時雨は目を覚ました。

「うぅ……」

 時雨の呻き声に俺は時雨に視線を動かした。
 このまま目覚めてくれ。
 そう願って声を掛ける。

「…………お目覚めですか、時雨様」

 ゆっくりとした動きで俺を見詰め、起き上がろうとしたのか、顔を一瞬歪める時雨。
 早々に起き上がる事を諦めたらしい時雨を見下ろしていると実感が湧いて、視界が滲んだ。

「…………」

 薄らと滲む視界に見えた伸ばされた細腕。

「時雨様」

 俺は時雨を抱き締めていた。
 時雨の怪我に配慮して、首と頭を支える様にして。

「み……ず」

 耳元で(かす)れた声が聞こえた。
 痛む喉を無視して無理矢理出したかの様な声だった。
 俺はその声を聞いた瞬間に動いた。
 背中に腕を伸ばして、後頭部も支えながら硝子(ガラス)吸口(すいくち)を口元に当て、ゆっくり傾ける。
 時雨は数口飲んで、やっと声が出るようになったらしい。

「おはよう、蓮見」
「はい、おはようございます時雨様」
「心配、掛けたね」
「…………もう二度とあんな事はごめんです」


 医者に告げられたのは全治三ヶ月。
 それを時雨に伝えると、一瞬顔が強ばっていた。
 その後、冷静になった俺はナースコールを押す。
 時雨の目覚めを伝え、医者が来るのを待った。
 診察後、もう一度二人になった俺は時雨と話を進める。

「…………それで、父様は何と?
 恐らく僕は警察からの事情聴取がある筈なのだけど」
「はい、まずは時雨様が目を覚まさしたら連絡をするようにと。
 それから事情聴取についてはあちらで対処するとも。
 しかし、何度か刑事の方もこちらに来ています」
「あぁ、それならば今度来たときにでも少し話すとしようかな。
 父様と蓮見以外の異性はまだ怖いし、出来れば女性が良いなぁ」

 警察の一人や二人ぐらい、追い返す事も出来るのに。
 掠れたままの声でそう呟かれては俺はもう何も言えないじゃないか。
 あぁ、そういえば――――――

「時雨様」
「ん?」
「時雨様が生かした協力者と浅葱様方はどうなさいますか」
「父様が許してくれるなら、名前知らないけどあの男は監視ついでに僕の部下か侍従あたりにでもすれば良いと思うよ。
 浅葱家には一部の情報をのぞいて曖昧に情報を流すと良いんじゃ無いかな。
 後は父様に任せる」
「…………伝えておきます」

 時雨が眠る前に「父様に電話を掛ける」と言うので、俺は病室を出た。

 微かに聞こえる時雨の声。

「傷痕が残る事で父様や母様、蓮見に嫌われるなら困るけど、そうならないなら別に良い。」

 微かなのにやけにはっきり聞こえたその言葉に一瞬思考が止まった。

 その程度で俺が時雨を嫌う筈がねぇだろ。

 俺は悔しさのあまり、顔を歪める。
 直ぐに、してはならない表情であったと気付いて周囲に視線を走らせる。
 すると、時雨に用があったらしい二人組の男と目が合った。
 何度か追い返している刑事だ。
 表情管理の為に笑顔を貼り付ける。

「こんにちは、蓮見柊君。
 雪見時雨さんはお目覚めですか」

 げ、名前覚えられてる。
 一瞬、口角がピクリ、と動いたのを自覚する。
 俺もまだまだだなぁ。

「こんにちは、刑事さん。
 えぇ、事情聴取には応えると本人が言いました」
「おぉ、それでは早速……」

 俺がにこやかに伝えると、病室の扉に手を掛けようとする刑事。
 俺はその手を静止する。

「ですが申し訳ありません。
 今日はお引き取り願います。
 時雨は先程目覚めたばかりな上、異性を見ると恐怖で喋れなくなる様で。
 人員を替えて(・・・・・・)後日改めて来て下さいますよう願います」

 仕事熱心なのは分かるが、気が早ぇんだよ。

「そ、それは……配慮が足りませんでしたね。
 ではまた後日」
「えぇ、お待ちしております」

 数歩離れる刑事。
 さっさと消えろ。
 そう思いつつ、ゆるりと頭を下げる。

 それから数日後、二人組の刑事が時雨の病室までやってきた。
 時雨の要望通り、片方は女性の様だ。
 気の強そうな感じも無い事から、俺は女性のみ入室を許可した。
「お待ちしておりました。
 しかし、入室は女性の方のみとさせて頂きます。
 どうぞ付き添いの方(・・・・・・)は俺と此方でお待ち頂くか、病院の外でお待ち頂く事をご理解くださいますよう」


 それから数日間。
 数回に別けて事情聴取は行われ、最終日にUSBチップを渡して貰った。



 そして残り一ヶ月で時雨が退院出来るというタイミングで、兄さんが限界を迎えた。
 いつだって忙しいと言って家に帰る時間は遅い癖に、時雨の寝顔が見れないだけでこうも(やつ)れるとは。
 まぁ、俺としてもそろそろ交代制で仮眠やシャワーを浴びているとは言え、そろそろ蓮見家に帰りたい。
 そう思いつつ、眠る時雨を抱き上げる。
 こうして時雨を抱き上げるのは何度目だろうか。
 そうしてゆっくりと運び始める。
 車に着いた時も慎重に乗せたと言うのに。
 扉を閉める音が聞こえた瞬間。
 時雨は膝の上で大量の汗と息切れ、心臓をバクバクと鳴らして俺の服と首に震えながら(すが)り付いていた。

「大丈夫、何も起きない。
 時雨、大丈夫だから」

 胸がキュッと締め付けられる程に痛々しい時雨に俺は暫く宥める様に頭と背中を撫で、落ち着かせる事しか出来なかった。
 雪見家に着いて、部屋のソファーで一息。
 時雨は俺の膝の上で降りたそうにソワソワしている。
 あんまり動かれると時雨の腹の傷口に響くからおとなしくしていて欲しい。
 自宅療養万歳。
 これで俺は心配する事無く、高等部に通える。
 三ヶ月分の単位に遅れが出てるからな。
 大学への進学の為にも、巻き返しをしなければならないんだ。

「そういえば蓮見」

 腕の中から掛かる幼い声。

「はい」
「生き証人、もう一人居なかった?」

 居たか?

「…………誰の事でしょう」
「あれ、僕の手から逃れたのが一人居た気がするんだけどな」

 いや、そういえば播磨に逃げる奴が居れば雪見に連絡を入れるよう言っていて。
 あの騒動の中で俺は時雨の事に掛かりきりだったけど…………居たのかもな。
 それでも、確証は無いのだから今言う事では無い。

「気のせいでは無いですか?」
「蓮見は見掛けなかったのか」
「えぇ、きっと気のせいでしょう」

 今必要なのは、時雨の心の安定なのだから。

「蓮見」
「はい」
「降ろして」
「…………御嫌ですか?」
「嫌と言うか、うぅ……」

 恥ずかしそうに俺のの耳に触れる時雨。
 その耳はつい最近空けたばかりで若干痛むんだが。
 その少し痛む耳に時雨が落としたイヤリングをピアスにしてはめてる俺も俺だけど。
 そうして俺は時雨に恨めしげに見つめられながら、頭を撫でるのだった。
 あれから数年、僕はそろそろ御鏡学園(みかがみがくえん)の初等部を卒業する。
 赤井蛍より一年早く、中等部に上がるのだ。
 小説ではあの事件の後、入院中(直ぐ)に御鏡学園から違う学校に転校していた。
 けれど今回は浅葱姉弟(あさぎきょうだい)が生きているからか、(やま)しい事は一つもないからか。
 理由はいまいち分からないけれど、転校する事はなかった。
 「転校したい」って言えば良かったかな、とは若干後悔してる。
 浅葱薫(あさぎかおる)とは同じ歳だがあの事件以降、浅葱姉弟とは顔を合わせていない。
 …………と言うかそもそも今の僕は学園に在籍はしているものの、出席日数を取る為に月に数回程度しか登園(とうえん)していない。しかも時間をずらしての登園先は教室ですら無くなった。
 保健室になっていたのだ。しかも大体は蓮見に運ばれるか、車椅子で運ばれていた。
 所謂(いわゆる)、引きこもりに近い状態だ。
 お腹の傷は雨の日や時々、幻痛や引攣(ひきつ)る様な痛みも残る様になってしまったが、異能力を使えば日常生活に負担は殆ど無くなった。
 現在は異能力無しでも一人で動き回れる様にリハビリ中だったりする。
 ここで面白いのが、僕は学園には殆ど行かなくなった。
 代わりに学園、赤井家、他家主催、問わずパーティーや集まり、時々内容も知らなければ出席すると応えた覚えのない会議にも参加してるって所だね。
 勿論、学園主催のもの以外は狐面を着けて。

 今の僕はどうやら原作の時雨より勉強する時間があるらしく、復習も兼ねて勉強が出来ている。
 僕の勉強を見てくれているのはかつて 僕を誘拐現場まで導いた男だった。
 名前は小鳥遊 銀(たかなし ぎん)
 好奇心で情報を集めたらしい蓮見によると、どうやらかつて赤井蛍(あかいけい)の担任を務めた男の義兄との事。
 僕と蓮見の勉強を良く見て教えるのが上手い訳だ。
 試しに「小鳥遊先生」と呼んだら、「義弟と被るので止めて下さい」と真顔で言われた。
 いや、笑った顔は殆ど見ないけれど。
 そうして、何と呼ぼうかとなった時。
 本人から「銀、と呼んで頂けると」と自己申告があった。
 以降、僕と蓮見は彼を銀と呼ぶ様になった。
 現在の銀は消息不明かつ僕と共に死亡も予想されているらしい。
 …………僕の死亡説は目撃者のせいだろうなぁ。

 (ちな)みに余談だが。
 後に僕が中等部に上がった頃から、黒い狐面を着けた僕に付き合って白い狐面を被ってまで昼夜問わず付いて来るものだから、いつしか雪見家の誰もが「銀狐」と呼ぶ様になってしまっていた。
 そこそこの年齢に達している筈なのに、銀髪に染めた事にも驚いていると。

 「いつか俺の生存が気付かれるとしても、小鳥遊銀は消息不明のままの方が良いでしょう。それに、銀髪の方が分かりやすい(・・・・・・・・・・・)でしょう?」

 その時の銀の優しい笑顔に僕の心臓が跳ねた。
 いつも笑わない人のふとした笑顔って貴重(レア)過ぎて心臓に悪いんですけどぉ!



 蓮見は午前中は大体御鏡学園の大学に通っているらしく、僕が家から出ない限りは学業に専念すると言いつつ午後になると顔を見に来る。そして時々外に連れ出そうとする。

 「時雨様、本日の御予定は……」
 「…………」

 僕としては雪見として最低限の行事には出ているのだから良いのでは、と思うが蓮見はそうでも無いらしく護身としての術を学ぶ時以外も僕を気晴らしと称して連れ歩こうとする事がある。
 以前、何故なのかを聞いた。
 その時々で理由は違うそうだが大体は僕の意思を尊重した結果、直接目的に近付く為に出歩いているのだそうだ。気晴らしはついでらしい。
 疑問が若干晴れた僕は銀も随行させる。
 そのお陰でと言うかなんと言うか。
 蓮見と一緒に細い路地や薄暗い道、人気(ひとけ)の無い場所も把握するようなった。
 時々、銀の案内で緊急時に逃げ込める場所や知らない道も教えてもらえたが、逃げる場所については銀の同行が無いと入れない場所だった。
 今の僕はそれらを地の利とする為に出歩き、銀と蓮見の監視付きではあるが時々パルクールの練習をするようになった。
 パルクールは元々ダンスの一部だったらしいけど、動きの幅が広がるからって取り入れてみたのは僕自身。
 これも小説の流れ上、路地裏ではピンチになりやすいのだから仕方ない。
 そうして比較的平和な一年が過ぎて行った。
 最近の僕は壁走りを習得した。
 きっともう少しで壁に立つことが出来る、様な気もするがこれもまた練習次第だろう。
 後はフードを被ったままでも出来る様になれば、夜にまで狐面をする必要はなくなる。
 これもまた練習次第、と言った所か。
 それと同時に、夜になると赤井蛍(あかいけい)を目撃するようになった。
 小説通り過ぎて一瞬興奮した。
 赤井蛍は本当に中等部に上がると夜道を散歩しだすんだなぁ。
 そして当然と言うかなんと言うか。陰ながらの護衛も数人見掛けた。
 小説通りだったら、僕もあの中の一人だったんだよなぁ。
 なんて思いを馳せつつ、当然の様に素通りする。
 だって、今の僕は赤井蛍の護衛では無いのだから。

 気が楽で仕方ない。
 僕は今の身分に非常に満足していた。
 そう、そしてあの事件からも、小説からも変わった事と言えばもうひとつ。
 雪見家での事だ。

 「時雨様」
 「ん?」

 不意に、パソコンのキーボードを叩く僕の手に柔らかく添えられる大きな手。
 温かな手。この手は蓮見だろうか。目線を後ろに、上向かせる。
 少し色素の薄い感情の読めない瞳と目が合った。
 うん、蓮見だ。蓮見は最近護衛以上の働きをする。
 以前から蓮見についてはさりげなく父様に聞いてはいるが、蓮見が想像以上に僕と近い事を父様も把握しているのかその度に嬉しそうな、楽しそうな笑顔で「本人に直接聞きなさい」と言われてしまう。
 けれど父様がそんな態度だからこそ明確に分かるのは、蓮見は僕に害意が無い事だった。
 …………そんな蓮見の手に逆らう事なく、パソコンから手を離す。
 僕の部屋に時計は置いていない。代わりに、時間になると動き出す蓮見と銀。
 どうやら時間が来た様で、僕は蓮見に手を引かれるまま素直に机から離れる。
 但し、何の時間なのかは僕は把握していない。
 予定が明確に決まっている事が殆どではあるが、今日の様に予定を告げられない日も勿論ある。
 そう言った日は、車椅子が用意される事は殆ど無い。
 僕としては歩行のリハビリになるので異能力無しで立ち上がる良い機会なのだが、急ぐ時もあるらしく。

 「時雨様、失礼します」
 「え」

 異能力を使用していない僕の重さをものともせず、銀に脇に手を入れられ持ち上げられた。
 時々、こうして片腕で抱き上げられるのだけど僕にはそれがとても恥ずかしい。
 そうして僕は重さを軽くしようと慌てて異能力を使うのだ。
 リハビリの為に異能力使わないようにしてたんだけどなぁ。
 ピリ付いた空気とともに銀に半ば無理矢理部屋から廊下へ運ばれる。
 銀の雰囲気だけはいつかの誘拐時より怖い。
 この時、僕は廊下から見えた中庭の暗さにやっと夜だと知った。
 そして何があった。

 「銀?」

 蓮見が先導し、銀が僕を運ぶ。
 いつの間にか僕は着の身着のまま、雪見家を出ていた。
 完全に部屋着なんだが?
 いや、本当に何があった!?
 そうして連れて行かれた先は繁華街の路地裏。
   そこで見たのは何処かの高校生だろうか、制服を着た数人の不良に絡まれる赤井蛍。
 うん、赤井蛍についてはちょっと予想通りで捻りが無いなと思ってしまった。
 そして、近くで既に殴られている誰か。
 誰だろう、とよく見てみる。
 暗さも相まって見えにくい。

 「殴られてるのが誰か見えませんか」
 「見えないね」
 「浅葱誠(あさぎまこと)だそうです」
 「えー…………」
 
 蓮見の言葉に思わず顔が歪む。
 何してんの浅葱君。ほぼ無抵抗とか馬鹿なの。
 それとも抵抗が出来ないのだろうか。
 可哀想だと思う反面、滲む嫌悪感。
 僕は戦闘狂になったつもりは無いんだよなぁ。
 それで、つまりは僕にあれに乱入してこい、と?
 喧嘩っぽいし、死にそうにはないけど。
 思わず天を仰ぐ。

 「あぁ、せっかくの僕の平和が…………」

 所詮(しょせん)僕がせっかく築いた平和は薄氷の上だった訳だ。
 数年しか平和じゃないとか束の間過ぎる。
 小説を読み進めると明かされる数々の雪見時雨の秘密の内のいくつかがあるのだが。
 その内の一つが小説内での雪見時雨は指折りの実力者である事だ。
 雪見時雨には異能力がある。
 僕が実際に使用した感じだと雪見時雨の異能力は指定した空間、又は触れた対象と周囲に干渉、作用する物。
 指定する場合は視界の範囲内に限定されるが、それでも上手く立ち回ればその場に置いては最強を誇れるだろう。
 と、僕は解釈したが本物の雪見時雨と解釈が違えば異能力の使い方も変わるのだろう。
 小説内では空中に見えない壁を構築し、害悪を退ける事から「結界師」。
 触れた対象の重さを自由にする事から、「重力支配者」等と呼ばれていたらしい。
 が、僕からしたら凄く恥ずかしいので正直止めてほしい。
 現状、異能力を常時使用している僕が顔を隠そうと必死になる理由の内の一つだ。

 本来、異能力の存在と自らの異能力を晒す人間はまず殆どいない。
 けれど小説内での雪見時雨の立場は赤井蛍の友人で従者で、護衛で暗殺者の様な役割を持っていたから。
 必然的に異能力が高頻度で人目に晒されている。
 異能力が何かを教えてる様な物だったし、逆に顔を隠しても異能力でバレる可能性もあった。
 異能力は元々手探りで、何が出来るかは異能力を持つ者次第。
 異能力を持つ者の力に名称が付いたら、名のある実力者と言う認識が成される。
 雪見時雨はその中の一人だった訳だ。
 だから雪見時雨は顔を隠さなかった。
 その分、努力を重ねる必要性も生まれた訳だけど。
 そのお陰でなのか。
 雪見時雨に関しては異能力が何かを知り、対処をしようとしても相対した者が大体不利になっていた。
 精神に直接作用してしまう異能力を持つ赤井蛍、以外は。
 まぁ、そうでなくても赤井蛍は小説での雪見時雨の弱点だと明確に言えたが。
 では今は、赤井蛍は僕にとってどんな存在なのだろう。
 良い機会だから、少しずつ確めてみよう。






 今夜の僕の部屋着は帽子(フード)一つも付いて無いんだから運が悪い。
 顔が隠せないじゃないか。
 僕と蓮見、銀は彼等に声が届かないギリギリの位置で話していた。
 繁華街の喧騒も相まって、案外声は目立たないらしい。

 「浅葱薫(あさぎかおる)はどうしている?」
 「浅葱家に居ます。出てもいないようです」

 その言い様、浅葱君は抜け出したみたいだな。

 「…………。仮面か、靴はある?」
 「靴は持ちましたが仮面はありません」
 「分かった。じゃあ念の為あまり喋らないでおく」

 彼等の前で、正確には浅葱君に声を聞かれなければ大丈夫だろう。
 僕は蓮見が地面に置いた靴の上に降り、銀の手を借りて片足ずつ履く。

 トントンッ

 爪先を地面に当てて靴の具合を確かめる。
 うん、きっと大丈夫。
 蓮見の目を見る。

 「赤井蛍の安全確保は任せた」

 僕は銀の手を取ったまま、歩き出す。
 方向は赤井蛍とリンチ中と見られる集団に向けて。
 途中、街灯に灯りに僕の姿がさらされた頃。
 片方の集団の内の一人が僕に気付き、僕に向かって歩いて来る。

 「あ?何だお前ら。殴られてぇのか?」

 銀の手をパッと離して男の脅し(威嚇)を無視して歩を進める。
 打撃音が、背後で聞こえた。男の呻き声も同時に聞こえた。
 どうやら僕の背後で銀が動いた様で。
 僕が見た限りでは、浅葱君は寝惚けていた可能性がある。
 赤井蛍に関しては無防備過ぎて絡まれた、と言った所だろうか。
 可能性であって推測でしかない為に、迂闊な事は言えないのだけど。
 僕が集団の背後に辿り着いて真っ先にしたのは、浅葱君の救出だった。


 ジャリッ

 靴音をわざと鳴らし、気配を出す。
 まぁ気配を隠してはいないのだから、当然不良共に気付かれる訳で。

 「あぁ?」

 何人かの不良に振り向かれた時、足に異能力を使い重力に干渉。
 足に若干の違和感と共に重さを纏う。
 真っ先に浅葱君の胸ぐらを掴み殴っている男の頭に蹴りを入れる。
 そこそこの威力で蹴れたと思う。
 全員に気付かれた時にはもう衝撃で男は壁に激突して、僕は倒れた浅葱君に触れていた。
 至るところに傷を負う痛々しい浅葱君に抱きつく形で。
 当然あると思っていた浅葱君からの抵抗は無かった。
 もしかしたらそんな体力が無いだけかもしれないけれど。
 それでも意識はあったらしく、呻き声の様に「誰だ」なんて聞こえた。
 僕はそれに浅葱君の頭を撫でる事で応えるのだけど。
 うん、実質何も答えて無いね。それでも、敵じゃない事だけは伝わると良いな。
 そんな事してたら当然の様に僕に不良共の暴力が向かって来る訳なんだけど。
 銀が僕の背後から追い付いて来ているので。
 僕に構ってられるのは蹴られた男だけ、と言う形になる。
 何せ僕が異能力を使って浅葱君の重さを軽くして右腕で膝裏から腰を支えて左手で頭を固定する様に浅葱君を抱き上げた時には至るところから悲鳴が聞こえてきたのだから。
 僕が振り向いた時、何人かはもう倒れていた。

 そういえば銀の実力に関しては、どうも僕と接触する前までは名のある不良(ヤンキー)だったそうなので心配はしなくても良いかもしれない。
 確か、「白蛇(はくだ)」と呼ばれていたんだとか。
 蓮見が言ってた。
 目の前に二つ名持ちヤンキー(ネームドモンスター)が居るとか世界観が独特過ぎて、異世界実感してしまう。
 平和だった元の世界が恋しいなぁ、なんてつい遠い目をしつつ。
 後は浅葱君を安全圏まで運べば良いだけの筈、だった。
 赤井蛍の方を見るまでは。

 えっと、何に首を突っ込んだらそうなるの?

 慣れた暗闇の中で繁華街の明かりを薄ら浴びて見えた。
 赤井蛍の後ろに立つ見覚えのある男。
 あの男は数年前に僕が殺した男に言われて、浅葱姉弟を殺そうとした男だった筈だ。
 あの時の僕は拘束を全て外してガッツリ顔を合わせ、僕に凄んだり硝子瓶(ガラスビン)を投げたりと悪い印象が事欠かない程だったので記憶によく残っている。
 男と赤井蛍を囲む様に立つ制服を着崩した数人の不良(ヤンキー)共が蓮見の方をニヤニヤと笑って見ていた。
 肩に手を置かれる赤井蛍は人質になっている、のだろうか。
 蓮見はそれを見て、手を出し(あぐ)ねていた。

 「…………どういう状況でしょうか」

 男に見覚えが無い蓮見は、そう尋ねるが応える人間は居なかった。
 けど、僕は何故この場に連れて来られたのかを知るには充分な状況だった。
 どうやら雪見の管轄である筈の事に、赤井蛍を巻き込んでしまったらしい。

 浅葱君を抱上げている僕はまだ彼等に認識されていないらしい。
 それならば──────。

 僕は直ぐに浅葱君の頭を固定する様に撫でていた左手を止めて離した。
 浅葱君が僕の顔を見ようとゆるりと僕から上半身を離そうとしたのを見計らって、浅葱君の後ろから左手の指先を無理矢理突っ込む。
 ついでに浅葱君の背に腕が回る事で姿勢の安定を図る。

 「ん!?」

 目が合った浅葱君の驚いた顔に思わずふっ、と一瞬だけ笑って走り出す。
 慌てた様に浅葱君の腕が僕の首に回るのが分かった。
 (すが)り付かなければ落ちそうな不安定感があるのだろうと察しは付くが、それでも浅葱君から伸ばされた腕に嬉しいと思った。
 蓮見の背中に辿り着いて直ぐに、異能力全開で僕らの重さを軽くした状態で跳んだ(ジャンプした)
 トンッと軽く、蓮見の肩を蹴って一瞬空に舞う。
 僕の姿を下から唖然と見つめる赤井蛍と男含む不良共。
 この隙に、蓮見と銀が動き始めた。
 異能力を止め、僕ら二人分の重力そのままで赤井蛍の後ろに立つ男の肩を地面に向けて踏み付け着地するのと、蓮見と銀が不良共に殴り掛かるのは同時だった。
 本当は男の心臓部を目掛けていたんだけど、どうやら咄嗟にずらされたらしい。

 「うっ」

 浅葱君の呻き声と左指にも衝撃が来た。
   覚悟はしていたから、思っていた程痛くはない。
 奇襲と言う形で赤井蛍から男を剥がす事には成功し、僕は直ぐに浅葱君の口から左手を離して指先を鳴らす。

 パチンッ

 異能力によって赤井蛍の周りに結界(もど)きを構築する。
 維持をするのはそこそこ大変だけど、これで赤井蛍は怪我をしないで済む。

 さて、足元に目を向けると男は僕の足を退かそうと掴んでいたが、「クソッ」と叫び僕の足を殴ろうとしたので異能力含めもう一度力を込めた。

 ギシリッ

 骨が軋む音がする。僕を睨んでいた男が段々と目を見開く。
 おっと、どうやら僕の顔がよく見えたか思い出したかしたようだ。
 まぁいずれにせよ、薄暗いと言うのに僕が誰だか分かった様子。

 「お、前…………」

 あの時の──────

 その時、男の口がニヤリと歪んだ。
 男の肩を踏んでいた足にガツンッと冷たい衝撃が走った。
 冷たい感触がずるり、と抜かれた瞬間。
 ガクンッと意図せず足から力が抜けた。
 後々知ったが、この時結構深めに切られたらしい。
 浅葱君が衝撃で腕から落ちそうになるのをギリギリの所で留める。
 一瞬赤井蛍の周りを覆っていた結界(もど)きと、自身に使っていた異能力が解けた。
 息を止める。何も考えずに息をすれば、多分僕は腕の中の浅葱君すら投げ出すだろうから。
 全てを認識した瞬間に走った痛みと熱は、唇を開けたら直ぐにでも悲鳴が出るだろう。
 傷を負ってない足に力を入れて異能力の補助で立ち、男から距離を取る様に地面を蹴る。
 方向は赤井蛍が立つ場所。
 僕の異能力で地面に押さえ付けられたままの男にはもう、触れていない。
 トンットンットンッ、と数度片足で後退する様に移動する。
 ふわり、赤井蛍の隣に降り立って直ぐに足元に座り込む。
 この時、浅葱君をゆっくり降ろす事も忘れない。

 「え、君大丈夫!?」

 僕達に気付いた赤井蛍から掛けられた声に好都合とばかりに震える左手で僕に伸ばされていた手を掴み、結界(もど)きを再構築。
 これで、誰も僕達を害する事は出来ない。
 意識が遠くなってきた。
 駄目だ。今はまだ倒れられない。
 僕は結界の中から男を拘束する事に集中する。
 あと少し。逃げられない様に足を重点的に潰す必要がある。

 「────い!おい!息を吸え!」

 はっ。

 急だった。急に、僕の視界に浅葱君が入ってきた。
 気が付けば浅葱君に頬を両手で強引に掴まれ、覗き込まれていて。
 空気が僕の喉に引っ掛かる。

 げほっげほげほっ

 まるで、久し振りに息を吸い込んだかの様に。
 多分今まで息を止めていたんだろう。

 はっはっはっ…………

 息切れと共に誰かに背中を擦られ、気付く。
 いつの間にか浅葱君は僕の上から退いていて、赤井蛍は僕に寄り添っていた。
 周囲はもう静かになっていて、銀が男の拘束に向かっていた。
 蓮見は結界(もど)きに阻まれつつも僕に声を掛け続けていた。
 咳が治まった瞬間、僕は足の痛みを思い出した。

 「────あ」

 あまりの痛みに口元を掌で押さえ、声を殺す。
 そして都合良くまだ目の前に居た浅葱君の背に片腕を回し、胸元に飛び込む様にしがみ付く。

 「うおっ」

 浅葱君の驚いた声は敢えて無視する。
 いつの間にか左手で掴んでいた筈の赤井蛍の手を離していた事もあり、必然的に異能力は全て解除された。
 声は必死に殺したが、涙はどうしても流れた。
 浅葱君の胸元からチラリ、と視線を動かすと直ぐに僕の元まで来ていた蓮見はどこか不機嫌そうに僕の足の怪我をガーゼハンカチで手早く止血してくれた。
 そうして少し離れると直ぐに電話を掛け始めた。多分、雪見家に。
 その間に銀が男を俵担ぎで戻って来た。ご丁寧に全身を縛り付けて。
 銀が裏切る可能性もあった。
 でも男が「裏切り者!!」と叫んでるあたり、銀は男に顔を見られてでも捕まえてみせた事になる。

 「さて、迎えを用意しました」

 蓮見がそう言って戻って来た時、路地近くに車が着けられたらしく。
 雪見家の使用人が僕達の元まで歩いて来ていた。
 浅葱君の背から腕を離し、浅葱君と対面するように座っていた僕はさりげなく襟首が引っ張られ、指先が掛けられた事に気付く。
 異能力を使って僕の重さと周囲の空気を若干軽くした瞬間。
 ふわりと背後に引っ張られ、そのまま蓮見に抱き上げられる。

 「赤井蛍様、浅葱誠様、どうぞこちらへ。御案内させて頂きます」

 蓮見の冷たい、感情の読めない声が頭上から聞こえてすぐ。
 僕の意識は、プツリと落ちた。