雪見家にある兄弟がいた。
 兄は雪見家の当主になり、弟は中学生になるのと同時に蓮見家の姓を借り、一人暮らしをしていた。
 弟の名前は蓮見 柊(はすみ しゅう)
 現在、雪見時雨の護衛を務めている。
 年齢は十七。
 時雨はまだ知らない、と言うかまだ理解出来ないだろうからと言う理由で教えられてないらしいが。
 時雨の叔父と言う立場でもある。
 雪見の数ある内の小さな秘密。

俺がまだ中学生の時。
 時雨が生まれてから一週間しない内に雪見家に呼ばれた時は驚いた。
 雪見家は秘密主義だから。

 俺はその時にはもう、雪見を離れ「蓮見」の姓を名乗っていたから。
 兄さんは俺を(雪見)として見ていると言って、義姉さんと時雨に会わせてくれた。
 小さな命、儚い命、か弱い命、目が合った子に手を伸ばせばフワリ、と笑顔を向けられた。
 その柔らかな頬に指先を這わせる。
 この子が雪見を継ぐ子。
 そう思った瞬間、この子を殺せば俺が雪見の次期当主になるのだろうな、と言う妙に冷静な考えが過った。
 それ以降、時雨と会うことは無いと思っていた。

 それから時々聞く兄さんから時雨の写真と子供の印象は雪見らしくはない、だった。
 兄さんは兄さんでそんな時雨を溺愛していた。
 そして、時雨の御披露目があったパーティーの夜。
 赤井 蛍(あかい けい)誕生日パーティー。
 この日、俺は時雨を遠くから見ていた。

 狐面をしたままの綺麗な挨拶も、義姉さんに甘える姿も。
 そして、赤井当主に抱き上げられ、襲撃される所も。
 その時俺は兄さんの後ろに居たから色々心臓に悪かった。
 兄さんが時雨を心配出来ない分、俺が時雨を心配する羽目になった。
 兄さんはそんな俺を知ってか知らずか、パーティーの帰りは俺が時雨を抱き上げて雪見家に共に帰る事になった。
 車の中でも抱き上げたままだった。何なら時雨を抱き上げたまま部屋に案内されても暫くは安心出来なかった。
 後日、兄さんに聞いたら荒事があってもあまり顔色が変わらない俺が顔色を青褪めさせて時雨をじっと見つめ続けていたらしい。
 兄さんはそんな俺を見て驚いて、安心したそうだ。
 呆れて何も言えなくなった。
 俺にあれだけ時雨の事を可愛いと、今しか見れないと思うと尊いのだと語っておきながら、俺に兄さんが時雨に(かたむ)けた情が移ると思わないとは。

 そうして俺はその夜に兄さんと共に目撃する。
 俺が蓮見邸に戻ろうと、兄さんと話を終えた頃合いだった。
 部屋を出てすぐ、中庭を挟んだ向かい側で時雨の部屋が静かに開き、薄い寝間着のままの時雨がフラフラと覚束無い足取りで出てきているのが見えた。
 俯き加減の時雨の表情から感情は読み取れない上に瞳は瞳孔が開き切っていて、とても見えているとは思えない動きをしていた。
 目が合っている様で合っていない事に恐怖心を煽られる。
 廊下に出た兄さんと俺は呆然と立ち尽くす。
 何せ、時雨の歩く方向の直線上には俺達が立っていたから。
 つまり時雨は廊下から少し広い中庭に降り──────いや、落ちていた。
 俺は靴を履いてないのも中庭用の外履きを履くのも忘れて、慌てて走り時雨の腕を掴む。
 そのまま抱き締め、時雨の頭を支えて受け止めるつもりで足を地面に着いた時だった。
 予想外にも、暗くて見えなかったか何かで石を踏んだらしくバランスを崩した。

 「あ」

 が、転ぶ事はなく俺はそのままの姿勢で、浮遊感に包まれた。
 と思ったら目の前が夜空だった。
 上空に投げ出されたのだと気付いた瞬間、ゆるりと落下し始める。
 腕の中で顔を上げた時雨は夜空を眺め、月に手を伸ばす。
 まるで焦がれる様に。
 俺はただそれを見ていた。
 落下し始めていると言うのに、今にも時雨はどこか遠くに行ってしまいそうな雰囲気があった。
 下から俺達に呼び掛ける兄さんの横で数人の使用人が毛布を広げ、俺達を受け止める準備をしていた。
 何だったら屋根に上った数人の使用人も俺達を受け止めようとしていた。
 時雨がどこに降りるのか俺には分からないが、俺は時雨に声を掛ける。

 「時雨、降りよう」

 時雨は瞳孔の開ききった瞳で俺をじっと見つめた後、素直に屋根に向かって降り始めた。
 そして無事に使用人に確保された。
 時雨は使用人に声を掛けられても、兄さんに声を掛けられても反応しなかった。
 その代わり、時雨を震えて抱き締める俺の腕の中でおとなしく寝ていた。
 それにしても見つめられてる間は恐怖で背筋が震えてしまった。

 「時雨、柊」

 無事で良かった。
 時雨が迷惑掛けたね。
 今夜は泊まっていきなさい、と言う兄さんの言葉で俺は終電を逃した事を悟った。
 俺は蓮見邸に戻るのを諦め、時雨の部屋で一夜を過ごした。
 監視である。しかし流石子供。
 寝ている内に毛布を剥ぎ取っていたり、何かを探す様に動き出す為時雨の眠るベッドに毛布を掛ける様に近付くと腕を取られ、引っ張られた。
 驚いた俺がベッドに手を付いて衝突を避けようとした瞬間。

 「誰……」

 心臓がドクリ、と一際強く跳ねた。
 同時に先程とは種類の違う恐怖も沸いた。
 今ならこの無防備な幼子を殺そうと思えば殺せる瞬間でもあったから。
 俺の小さな殺意に似た感情に時雨が気付いたのかもしれない。
 俺ですら認識したのは今だってのに。
 小さく囁く様な声ではあったが、時雨が初めて俺を認識した瞬間だった。
 しかしまぁ、時雨は(まぶた)を閉じたままだったので応えられなかったのだが。
 そして俺は結局時雨と衝突するようにベッドに落ちた。
 咄嗟の行動が時雨自身によって止められたのだから仕方ないのだと、言い訳をしておく。
 早朝、兄さんに起こされて気付いた時には時雨を抱き締めた状態で寝ていた様で時雨を起こさない様に抜け出すのが大変だった。

 「おはよう、兄さん。この事は誰にも言わないでね」
 「あぁ、そうだね。二人の可愛い姿を見れたし、秘密にしておこうか」

 兄さんに微笑ましげに見つめられて気まずくなった俺は時雨の部屋を急いで出た。
 雪見家を出る頃、兄さんにお弁当を持たされた。
 パーティーの翌日が休日で良かったと心の底から思った。



 数年後、俺は高校生になっていた。
 兄さんに呼ばれて学校帰りに雪見家に伺うと時雨の護衛をやらないか、と提案を受けた。
 おこずかいもくれるとか何とか…………。
 まるで護衛のアルバイトでもどう?と言わんばかりに軽い提案だ。

 「…………兄さん、俺の立場わかってる?
 受験を控えた高校生で、絶賛思春期真っ只中で。原付自動車の免許も取りたいのに。
 それに時雨の叔父と言う立場上、雪見の継承権も手にしようと思えば出来て────」
 「あ、心配するところはそこなんだ。じゃぁ、大丈夫だね」
 「は!?」

 兄さんは微笑み、どこが大丈夫なのか全く分からない内に時雨への挨拶と護衛の予定が埋められて行く。どうやら基本的な護衛は雪見家と御鏡学園の行きと帰りだけの様だった。
 俺の予定を聞きもしない辺り、俺があまり予定を作らない事を知っているのだろう。
 流石雪見家。
 この時、時雨には聞かれたりしない限りは雪見家に連なる者だと言わない様に、と兄さんに言い含められた。聞かれたら、叔父であることも伝えて良いと。
 しかし俺個人的には叔父さん等とは呼ばれたくは無いため、暫くは秘密にしようと心に決めた。数日後の朝、俺は高校の制服のまま時雨に挨拶していた。
 提案されてから三日しない内だった。

 「時雨、今日から護衛が着くからね。」

 兄さんの声で紹介される。
 俺はその声に合わせ、一歩前に出て一礼する。

 「蓮見、と申します。よろしくお願いいたします、お嬢様」