変わりたかった。変わらなければいけないと思っていた。
最初はただ、つまらない日常を過ごすことに嫌気が指しただけだった。
皆と一緒の学校へ行って、一緒の時間を過ごして、一緒の思い出を作る。素敵なことのようだけど、どうしてもその他大勢の中に自分がいるような感覚しか湧いてこなかった。
だからといって、何か特別な行動をすることも、奇を衒った発言ができるわけでもないけれど。
朝は登校して、退屈な授業を受けて、家に帰ったらゲームで暇を潰す。そんなことしかできなかったし、変わるための勇気なんて簡単には出るはずもない。
でもあの瞬間、自分が変わる絶対的な理由ができた。やりたいこと、というより、果たすべきことのようだけど。
役割のように感じたからか、自分が変わる理由ができた嬉しさよりも、焦りが勝った。
もちろん理由ができたその日その瞬間から、変わるための行動はしてきたつもりだ。
しかし、すぐに自分が納得できる姿にはなれない。あまりに規模が大きいことに対して右往左往するだけ。
約五年前、世界中の人の常識を覆すシステムが作り出された。
この世には並行世界というものがある。世界と分岐し、それに並行して存在する世界のことを指す。自分たちがいる世界からは、並行世界がどうなっているかは分からない。パラレルワールドという人もいる。
研究者たちによって、並行世界へ干渉することが可能になった。その使い道を考え続けた国は、今の自分と並行世界にいる自分を入れ替えるシステムを作り上げた。
そしてこのシステムを追想転移と名付けた。
東京にある転移公安委員会に行けば、任意で簡単にできてしまうこのシステムだが、実は絶対的なものではない。実体を交換できるという画期でもあり不審でもあるこの追想転移は、行う際に必ず記憶を失い、元の自分と性格が多少変わってしまう。
並行世界は一つだけではなく、いくつかあるとされていて、どの並行世界の自分と入れ替わるかまでは制御できないらしい。また、すべての並行世界の時世が同じというわけではない。それが記憶を失う程度や精神年齢の差異、稀に年齢さえ変わってしまう原因となるのだ。
この不具合を、国は個人差と言っている。
加えて、記憶を失うと言っても、ほとんどの記憶は消え去ってしまう。精々覚えていても自分の名前くらいだ。一般常識が失われたケースは未だ聞いたことはないが、理論上はあり得るのかもしれない。
できたばかりのシステムであるから、わからないことだらけである。
国はこの追想転移のシステムを、人生のやり直しを目的で推奨している。これから先の人生に絶望してしまった時、挫折するのではなくやり直す。そんな選択を与えた。
けれど、このシステムに簡単に手を伸ばすのはあまり現実的ではないし、良くないとも言えるだろう。そもそも追走転移自体が、一種の自殺行為と言えてしまうのだから。
水上秀也は高校二年生でありながら、転移公安委員に勤めている。普通なら認められない事例だが、学生で公安の者がいるという利点を説明した結果、利害一致の例外として認められた。
転移公安委員会も新たにできたばかりの機関なのだから、こういった例外も多くあるようだ。しかし、決してこのことは口外してはならないと釘を刺されている。
秀也は、追想転移のシステムに批判的な人間なのである。どんな理由であれ、記憶を消してしまうのはあんまりだと思うのだ。嫌なことがその直前にあったとしても、記憶の全てが絶望へ導くはずがない。必ず、その人にとって宝物となる記憶が存在すると信じている。
そのため、公安に出向く人を減らすために、自ら公安に勤めているのだ。
しかし不都合なことに、追想転移しようとしている人を物理的に止めるのは、人権侵害の観点から禁じられている。秀也が出来ることは少ないけれど、現状把握や制度をいち早く公安で知ることはできる。
そして秀也には、他でもない公安に勤める絶対的な理由があるのだ。
また、公安に勤めてはいるものの、普段はただの学生である。日本で随一の進学校、陽ノ森高等学校の二年生。
普通の学生ではないからといって、優越感に浸って過ごしているわけではないが、周りから見れば至って普通の高校生。
普通じゃない点で言えば、一応学年で次席という立場にいることくらいだ。
将来を見据えての努力というわけではないが、一度ついた習慣から抜けることができず、日々勉学に勤しんでいた。
ちなみに、公安に勤めているというのは、担任と校長にしか伝わっていない。
「二週間後、生徒会選挙が行われる」
朝のホームルームで、担任が諸連絡をしている最中。
朝の連絡の時間なんて、学生にとってはただ億劫なだけの瞬間で、秀也の視界に見える皆の姿は、気だるげそうにしている。中には、担任にバレないように机の下でスマホをいじっている人まで。
そんな中、秀也だけはソワソワして仕方なかった。なぜなら、この後自分の名前が呼ばれるから。
「うちのクラスからは、生徒会長に高峰が、副会長に水上が立候補してる」
担任の声を聞いたクラスメイト達の視線が、二人の下へ集まる。驚き、賞賛、無関心、様々な思いを孕んでいた。
高峰玲、この学年の主席。容姿端麗、温厚篤実、才色兼備。無数の褒め言葉が彼女に当てはまると言っても過言ではない人物。非の打ちどころのないその性格から、誰も彼女が生徒会長に立候補することに対して、驚きの眼差しを向けることはなかった。全ての人が当然と感じた。秀也もそのうちの一人だ。
ざわざわとした空間が静まりを見せたころ、再び担任が教卓の前で話し始め、
「じゃあ二人とも、意気込み的なものを一つもらっていいか」
と、要求する。
これはホームルーム前に職員室で伝えられていたことで、この一言を考えていたから、秀也はソワソワしていたのだ。
秀也の左斜め前に見える玲は、早速席から立ち上がった。
皆の注目が集まる中、明らかな冷静さを見せながら一言。
「学園祭や体育祭など、学校行事をもっと盛り上げていきたいと思います。応援よろしくお願いします」
拍手の中、彼女は一礼して座る。次はもちろん秀也の番。
人前に出るというのはあまり得意ではない性格だが、選挙演説の時よりマシだと自分に言い聞かせて立ち上がる。
そうして言葉を放つ。
「まあ、基本は同じです。応援お願いします」
とだけ言って座った。
しんと静まり返る一同。これで終わりかというのが、誰かが口に出さずとも伝わってきた。
そして十数秒経った後、微かな笑い声と一緒に拍手が鳴った。先ほどより拍手の音は小さい。
笑みと呆れを織り交ぜた表情を浮かべた皆が、「今ので終わり?」や「やる気ないだろー」などと口々に言う。
適当に済ませた自信は確かにあるけれど、まさかこんな扱いを受けるとは。
「えー、会計長、議長などの他の生徒会メンバーは、全て他クラスの生徒が立候補した。うちのクラスの二人は信任投票だが、他は決選投票になる。そして今日から、選挙当日まで校内活動が――」
そこからは担任が話すだけで時間が過ぎていく。
先ほどの一波乱とも言える一瞬とはうって変わって、いつもの日常の始まりを予感させた。
ホームルームが終わるとすぐに、秀也の席の周りにクラスメイトが数人集まってくる。どうやら皆選挙の話をしに来たらしい。
「やっぱり秀也が立候補したんだね」
「さっきの一言めっちゃ酷かったな」
「副会長なれないんじゃない?」
言われたい放題である。
「お前ら、俺を責めるのはいいけど、俺以外誰も立候補してないんだから偉く語るなっての」
「高峰の後にあんなこと言う秀也が悪い」
反論も受け入れてもらえなかった様。
そうして一時間目の授業が始まるまで、周りのクラスメイトを適当にあしらう。笑い物の中心となっていたその時、秀也の席から見える、とある光景が目に入った。
生徒会長に立候補した高峰玲、彼女の席の周りには誰も集まっていない光景が。
実は、これがこの学校の主席の姿なのだ。学力以外の能力も優れていて、容姿も恵まれている彼女が、交友関係に乏しく話す場面がない現状。
休み時間でさえも一人で勉強に勤しんでいるため、声をかけにくい空気が完成してしまっている。
放課後に遊びに誘っても、勉強を理由に断られてしまうことが多いから、堅い印象ばかりが強く根付いているのだ。もっとも、容姿は非常に優れているため、男子からの評判はいいらしいが。
孤高であり孤独。それが高峰玲という人物である。
この学年は、人気でも嫌われてもいない首席の生徒会長候補者と、比較的受け入れられている次席の副会長候補者で成り立とうとしていた。
しかしこの中で秀也だけ、玲が堅苦しい性格ではないことを知っていた。
昼休みになった途端、ある人が秀也に声をかけてきた。
「シュウ、昼ごはん行こうぜ」
彼は田沼和哉。秀也がこのクラス――この学校で一番仲良くしている人。和哉はバスケットボール部に所属していて、所謂スタメンというのに選ばれているほどの実力者だったりする。また、他校に彼女がいるとか。
秀也と和哉は、お互いの名前が「や」で終わることから、それを省略して「シュウ」、「カズ」と呼び合っていたり。
「うん。ただ、今日は購買でいい?」
懸念点を先に言う。
陽ノ森高等学校には、学食と購買の両方が存在している。大半の人は学食に行くのだが、昼食を軽く済ませたい人は購買に出向くなど、ニーズによって使い分けられている。
「いいけど、何かあったのか?」
「一応今日から校内活動できるから、昼休みの後半にする可能性を考慮した結果」
「なるほどな。それなら納得だ」
校内活動とは、候補者、推薦人が自ら、選挙による一票を入れてもらうために自ら生徒達に協力を仰ぐこと。昇降口の前や、正門の前で行う人が多い。
ちなみに秀也の推薦人は、現生徒会副会長。とても心強い立場の人物となっている。
彼の昼休みの都合次第では、終わりの方に校内活動を行うつもりのため、しばらくは昼食を購買で済ませることが多くなりそうなのである。
購買でパンを二つずつ買って教室に戻ってきた二人は、秀也の席の前の席が空いてることを確認して、席をくっつけて食事を始める。
パンを食べ始める時に、秀也のスマホにメッセージが届いていることに気付き、内容を確認する。副会長からのメッセージで、校内活動は今日の放課後から始めたいという旨が書いてあった。
秀也は即座に『わかりました。放課後教室まで行きます』と送信し、買ってきたパンを食べ始める。
「カズ、昼の校内活動なくなったわ。学食行っておきゃよかったな、ごめん」
「いやいや、仕方ないことだよ。明日からも購買なら、ちゃんと付き合うよ」
和哉は筋肉質の、いかにも体育会系という見た目であるため、昼食がパン二つでは、当然足りるわけがない。
それでも彼は秀也に合わせてくれているのだ。悪いとは思っているけれど、そんな優しいところを秀也は気に入っていた。
普段二人は学食で昼食を済ませているため、昼休みの教室の様子を知らなかった。もちろん学食に行っている生徒が圧倒的に多いため、教室に残っている生徒は少ない。一人一人数えることが容易なくらいだ。
その中に玲がいて、やはり一人でお弁当を広げていた。
和哉を含めた、この場にいる十人弱はこの状況をなんとも思っていない。数人でグループを構成し、それぞれのグループ毎で昼食をとっている中、玲だけ一人という状況を。
所詮はいつも通りだと、誰も目を向けてさえいない。このクラス、学年ではそれが当たり前なのだ。
けれど秀也だけ、玲の背中から孤独を感じる。彼女が寂しいと言っている気がした。だからと言って、すぐ行動に移せるわけでもなかった。なぜなら、玲の方から壁を作られている気がするから。
寂しいと嘆いていても、その本人が壁を作っているのだから、何が正解か、どうするべきかなど簡単には決められない。
それが、秀也が日常で終始考えていることだった。
二人が昼食を食べ終えた頃、和哉がそういえばと前置きを挟んで話し出した。
「隣のクラスの斎藤が、一昨日追想転移したって話知ってるか?」
「……え、なに、それ」
確か斎藤とは、サッカー部のエースではなかっただろうか。追想転移したことに驚いたのは確かだが、そんな人がという部分にも驚いた。
そもそも追想転移自体に、皆は何ともいえない反応を示す。一種の自殺行為とも捉えられるそれなのだから、喜びを見せる人はいなく、どちらかというと悲しみが先に出てくるだろう。
ただし秀也は、明らかなショックを受けていた。正直な話、追想転移したのが斎藤でなくてもショックは変わらないのは否めない。けれど、人一倍は悲しんでいる自信があった。
秀也は転移公安委員に勤めているけれど、追想転移することに反対している。
話したことがない人だけれど、かなり身近な人物に起きた事態と考えてしまえば、募っていくのは自分の無力感。ただただ辛いだけ。
「そんな追想転移するほど、だったの?」
斎藤と話したことがないため、詳しいことも知らず。その前兆があったのかを聞いて見ることにした。
「んー、俺もあんまりわかんない。けど側から見る分には全然そんな気しなかった。話した時もすげーいいやつだったし」
「……そうなんだ。本当に謎なんだな」
原因さえわからないことに残念さを隠し切ることができず、吐き出すように言った。
その後に和哉は、
「うん。でもあいつってサッカー部のエースだろ? そういう恵まれてるやつなりの悩みってのもあるかもな」
と言う。
妙に的を得ているような気がした。和哉の目から見て、性格もいいと評判なのであれば、悩みなどないように普通なら見える。
けれど恵まれている人だって、楽に生きているわけではないだろう。人間なら誰だって、周りの人からは理解しえない事情があったりする。それが原因なのだとしたら、簡単に気付けるはずがない。
秀也は追想転移する人を減らしたいと考えている。だからといって自殺を勧めるのではなく、追想転移しようとした根本を解決したいということ。
人それぞれの悩みがあって、その悩みを上手に緩和する。しかし、その悩みはすぐ気付けるものもあれば、今回のように最後まで気付かないことだって。
それが改めて難しいことだと学び、この先に若干の不安を抱いて、今はそれを悟られぬように必死に演じるだけで精一杯だった。
放課後、副会長と校内活動を終わらせ、一人で教室に戻る。部活動で校舎に残る生徒はまだまだいるが、その生徒たちまで待っていたらキリがないため、いい具合のところで切り上げたのだ。
鞄を取り教室へ入ろうとしたところ、一人だけ教室に残っているのが外から見えた。玲だ。
机に向かって座り、何か書いているよう。いつもの如く勉強しているのだろうか。
その姿を見て思い出す。二人きりの瞬間なんていつぶりだろうかと。いつもは周りに合わせてというか、話しかけにくいというか、そんな理由で玲と接することなんてなかった。
でも、今なら話しかけても自然なはず。というか、話しかけない方が気まずいのではないだろうか。ならば逃げずに話してみよう、そう決意して扉に手をかける。
「あれ、玲じゃん。まだ残ってた――っていうか、校内活動はしてなかったんだ」
軽く小芝居を打って、なるべく自然になるようにする。
「……! あ、うん。今日は会長が休みだから、明日からになったの」
久しぶりの会話はぎこちなかった。
その後の会話の繋げ方を一瞬忘れてしまいそうになったが、ここで終わっては意味がないとなんとか喰らいつく。
「そうだったんだ。だから居残りで勉強って、相変わらず変わんないな」
「まあ、私にはこれくらいしかやることないし」
はっと自分で言ってから気付いた。少し棘のある発言だったかもしれない。
彼女の反応的にも、このまま話し続けていたら無自覚に傷つけてしまう恐れがあると思った。多少の勇気を振り絞った行動だったけれど、そんな甘い考えで行動したのが間違いだったかもしれない。
そんな自分の心を嘲り、あと一言だけ言ってこの場を立ち去ろうとした。けれど、意外なことに玲が会話を続かせるのだった。
「そういえば、今日の朝の一言、びっくりしちゃった。流石に適当すぎるんじゃない?」
持ち出された話題は思っていたよりフラットな内容。
彼女がその気ならと、秀也も言葉を繋げる。
「んー、人前で話すの苦手なんだよ。頑張って考えてたけど、全部玲が言ってくれたから」
「とか言って、ただ良い風に使われただけだったけどね」
二人の間に、微かな笑いが生じる。気まずさはもちろん含んでいたけど、ただ二人が笑い合っただけ。その事実だけは変わらない。
最後に玲と話したのはいつだろうか。思い出せないくらい前のことで、どうやって会話していたのかも忘れていたけれど、なんとなく懐かしいような気がした。心が温まるような感覚がした。
それから二人はぎこちない会話を続ける。時間にすれば五分くらいだろうけど、それでも久しぶりの会話は素直に楽しく、普段は見られない彼女の笑顔も見ることができた。
頃合いを見て教室を出る。
「じゃあ俺は帰るよ。またな」
「うん。また明日」
最後はそれだけ。こんな短い会話が、その日ずっと頭の中から離れなかった。
翌日。
朝早く登校し、校内活動に励む。近くに玲の姿は見えていた。
昼休みも同様に、副会長と校内活動に向かおうと思っていた時、スマホに着信が入っていたことに気付く。その着信主を見ただけで用件が容易にわかった。
軽く周りを見て、すぐ近くにいた村上蓮に話しかける。
「村上、体調優れないから早退したって、担任に言っといてくれ」
「お、おう。わかったけど、具合悪そうには見えないよ?」
「バレたか。皆には秘密にしといてくれ」
「了解」
駆け足で昇降口まで行き、早退する。
これから向かう先は公安。仕事がある場合は着信が入るようになっている。稀に授業中でも呼ばれることがあるのだが、その時は授業が終わった後すぐに向かうことになっている。
担任には、後から公安の仕事だと伝えれば問題ないように、学校側が対応してくれている。
公安での秀也の仕事は、追想転移し終えた人の対応。追想転移をすると必ず記憶を失うため、利用者はなぜ自分がこんな場所にいるのか、どこに帰ればいいのか分からなくなる。だから利用者を実家に帰し、家族や同居人に説明する必要がある。それが秀也の仕事の基本であった。
東京の中心にある公安。建物の大きさは区役所と同じくらいなのだが、国の機関であるため、警備は厳重。
入り口には警備員が待ち受けており、公安の人間であることを証明しなければ中に入ることはできない。
公安で働く人には、一人一人にネームカードが配られていて、入り口にある窓口にそれを示すことで中に入ることができる。一般の人は、事前に追想転移の予約を通した上で、窓口で本人確認をする。基本的に追想転移以外の要件では入ることができない。
しかも一般の人が公安に入る際には、必ず警備員を伴う。それほどこの施設は厳戒態勢を敷いているのだ。
窓口で仕事内容を聞いた後、転移室へ出向く。今日の担当はある中学校の女生徒、明智朋美という人であった。こういった情報は、窓口で貰う資料に書かれている。
資料には住所まで書かれていて、その理由はもちろん、利用者を家まで送り届けるためである。
追想転移は、転移室と呼ばれる場所の中の、カプセルの中に入ることによってできる。転移室には十数個のカプセルが存在し、一人当たり一時間もあれば終えてしまう。
朋美のカプセルは左から5番目。しばらくその前で待っていると、カプセルがひとりでに開く。追想転移が完了したのだ。
目を開けた彼女は、意識が覚醒すると表情が突然強張った。
「だ、誰ですか?」
いかにも怯えた顔で秀也に聞いてくる。利用者の大抵は、この反応を示す。
これに対して秀也は、仕事モードに切り替え、対応を始める。
「初めまして、水上秀也と申します。まずはそこから出てきてくれませんか」
「は、はい……」
記憶をなくした人に、この施設やシステムのことを一から説明しても伝わらないことは、とうに理解している。ただの経験則に過ぎないが。
だから効率を求めるためにも、まずは家に帰すことを先決する。とは言っても、多少の説明はしないといけないが。
「ええと、自分の名前、言えますか?」
「あ、明智朋美です」
名前は覚えているようだ。
「ちゃんと覚えていますね。俺はこの公安に勤めている、水上秀也と言います」
名刺を渡しながら伝える。
「決して怪しい者ではないので、安心してください」
「……あ、怪しい人は全員そう言うと思います」
これは一本取られた。
「それもそうですね。じゃあ身の危険を感じたらすぐに通報してください。――それでですね、まずは明智さんを家まで送りたいと思います」
あまりの不審な発言に、朋美は眉をグッと寄せた。
利用者を自宅に帰す方法だが、大抵の公安の人は成人しているため、車を使う。しかし秀也は高校生であるため、免許など持っていない。このためだけにバイクの免許を取った。
「何故家に帰すのかと言いますと、簡単に言えば明智さんには、記憶がありません」
「………」
突然記憶がないと告げられても、何のことだかわからないという反応を示す。それは当然。
ただ、少し時間が経つと実感が湧いてくるもの。なにせ、何も思い出せないのだから。
「今はわからなくて仕方がないです。でもこのままではいけないのも事実です。なのでご家族に説明させていただくためにも、一度ご自宅まで送らせていただきます。申し訳ないことにバイクに乗っていただきますが」
そう指示して、朋美をバイクの後ろに乗せた。なるべく秀也を放さないように促して、エンジンをかける。
彼女の自宅は、公安からバイクで二十分ほどの場所にある。秀也からすれば短いと思えるのだが、右も左もわからない朋美からすれば、とても長く感じるはずだ。
見慣れない景色、空っぽの頭、知らない人の背中。安心できる材料は一つも用意されていない。この仕事の時間、どうやって安心させるべきかをいつも考えるのだが、これといった正解を見出せるわけもなかった。
しばらくバイクを走らせていると、後ろから朋美の少し張った声が聞こえてきた。
「あの、私の記憶がないっていうのは、事故とかですか?」
恐らく、この落ち着かない状況を埋めるための質問。なにか思い出せられるのならもっとよかっただろうが、生憎といった感じである。
「いや、実は明智さんの意思なんです。あの施設には、人の記憶を消すことができるシステムがあります。今言っても何も分からないと思いますが」
「……はい、よくわからないです」
「今はそれで充分。時間をかけて理解していってほしいです」
そこからはあまり会話はなかった。気まずさももちろんだが、どちらかと言えば話す内容がない。そういった状況である。
公安からバイクを走らせること約二十分後、朋美の実家らしき場所に着いた。
「着きました。ここが明智さんのお宅です。ちなみにですけど、家を見て何か思い出せましたか?」
「……い、いえ。なにも」
「……そうですか」
正直に言うと、追想転移した人が記憶を取り戻す確率はゼロである。少なくとも、そのようなケースを見たことがない。
変わったのは記憶だけではない。ただ記憶を失うことが追想転移ではなく、並行世界にいる自分と実体を入れ替えるため、極論、別の人間に成り変わっているのだ。
つまり、取り戻す記憶すらない。
そんな事実があって、思い出せるかどうかを聞いた理由は、一人の人間としてこれからの人生に絶望してほしくないからだ。記憶が取り戻せないと現時点で知ってしまっては、この先の期待すら抱くことができない。精神が不安定になることは見え透いている。
一度は諦めてしまった人生を、二度も手放してほしくない。これが秀也の思想であった。もっとも、追想転移する人を減らすのが一番の目標ではあるが。
朋美の実家のインターホンを鳴らす。チャイムの後に女性の声が聞こえた。
『はい?』
「失礼します。こちら明智さんの自宅でしょうか?」
『はい。何でしょうか?』
「転移公安委員の水上と申します。お宅の娘さんの朋美さんのことでお話があって、伺わせていただきました」
『………』
返ってきたのは無言。
一般的に、公安の人間が家に突然来るケースは一つしかない。無論、家族の誰かが追想転移したということになる。
だから、今インターホン越しに話していた彼女は察してしまったのだ。
しばらくした後、玄関の扉が開く。
その女性は、秀也の隣にいる朋美の存在に気付き、すぐに悲しい表情を見せた。
「あまり長居はしないので、玄関での説明でもよろしいでしょうか」
「はい……」
二人とも意気消沈といった様子だった。
そこからは公安としての仕事をするだけ。
記憶を失った初めはあまり刺激し過ぎない方がいいこと、追想転移に至るほどの過去を掘り下げないようにすること、そして今までとは性格が変化している可能性があること。それら全てを説明した。
追想転移という行動自体、利用者以外にも大きな影響を与え、迷惑を掛けることだってある。だから実は、かなり無責任な行動だったりする。
しかし、無責任と知った上での行動であれば、余程の理由があるということに繋がるだろう。現実逃避、人生をやり直すことを選択するほど辛い状況。それを抱え続けた結果なのだ。
自殺にまで及ばなかっただけいいと考える人もいるが、結局は同じことだと秀也は思う。確かに、追想転移というシステムが可能になってから、自殺者の数は全国で圧倒的に減っているというデータがある。
それでも、こうやって悲しむ人がいるということを知ってほしい。
明智家の人に一通りの説明を終える。
やはり、相当な衝撃を受けているようだった。大人とはいえ、信じがたい瞬間が唐突にやって来ると、すぐには受け入れられないものだ。
一応、公安専属のカウンセリングも紹介した。これで秀也の仕事は終わりとなる。
「では、自分は失礼させていただきます。何かあればご連絡ください」
「……はい。朋美をここまで、ありがとうございました」
気力が欠けた礼を見た後、明智家を出て、再びバイクに乗る。業務を終えたと報告するために、公安に戻る。
秀也の仕事は毎度こういうものであり、気分は当然優れない。仕事内容としても社会貢献とは思えないし、やりがいもあまり感じない。正直に言えば、稀に公安に勤めていることを後悔してしまう。
しかし、秀也の中にある絶対的な理由のため、この生活は続けなければいけない。この胸の辛さを、戒めかのように言い聞かせ、自分を無理に奮い立たせる。
随分暗くなった景色の中、夜道でも明るい都市の光とは対極に、秀也の心だけは未来を暗く照らされているように感じた。
二週間後。
生徒会選挙は滞りなく行われ、無事に秀也は副会長の座を欲しいままにした。実際信任投票であったため、落選の可能性は著しく低かったけれど。
それでも周りは称賛してくれた。和哉をはじめ、ほとんどのクラスメイトがおめでとうと言ってくれた。周りが称賛してくれることが、こんなにも嬉しいことだと久しぶりに気付けた気がする。
そして今日は、選挙当選から初めての生徒会だった。
当選した生徒会メンバーは、会長の玲、副会長の秀也と、議長の吉田と金本、書記・書記長の青山と細川、会計長の藤沢、そして庶務・広報の夏村だ。
初回の生徒会ということで、大きな仕事から始まるのではなく、自己紹介と今後の方針を決めるのみとなっている。もちろん進行は玲が務める。
高校二年生の自己紹介など面白いはずもなく、ただ順調に進んでいくだけ。話題はすぐに今後の方針へと変わった。
「じゃあここからは、今後の方針について話したいんだけど、皆は生徒会を通してこの学校でやりたいことってありますか?」
生徒会といっても、裏の書類作業をするだけではない。生徒会に入るために、それぞれ公約を立てていることもあるため、何か生徒会でやりたいことはあるはずだ。
玲の言葉を聞いて、皆は口々に話し始めた。
「やりたいこと……急に言われても思いつかないなぁ」
「進学校だから、もっと意欲を高めていくとか?」
「それだけじゃつまんなくない?」
「大体仕事ってなにするの?」
「書類作業が基本だろ」
「えーつまんねー」
なんというか、まとまりのない集団である。意見とも話し合いとも言えないような内容がしばらく続き、このままではまずいと玲が思い、話を切り出す。
「私は選挙の時も言ったけど、もっと学校行事を盛り上げていきたいと思ってます。進学校だから、イベントの時くらい肩の力を抜いてほしくない?」
玲が具体的な提案を一つすることによって、話し合いの方向性を決めようとした。流石と言えるだろう。
「それいいかも」
「でも行事以外の仕事ってあるのかな?」
「生徒会なんだから、それ以外もあるでしょ。イベントの時に企画としてだすだけだから、増えるだけだと思うよ」
狙い通り、話し合いらしい内容になっていった。
けれど、玲の一言がなければ何も進みそうになかった。果たしてこの人達は、きちんと活動する気があるのかという疑いが出てくるほど不安である。
ちなみに、ここまで秀也は何も発言していない。
またしばらく話が飛び交った後、再び玲が話し始めた。
「あと、私はもう一つ絶対やりたいことがあるの。学校の前の桜並木わかる?」
「あー、敷地外まで伸びてるやつ?」
「そう。それが伐採される計画が立てられてるらしくて、私はそれをなんとか阻止できないかなって思ってるの。どうしても守りたくて」
「それはどうしてですか?」
「この学校の良さを守りたいってのも一つなんだけど、正直、私情があるっていうか……」
誰かが聞いては答え、また誰かが聞いては答えての繰り返し。しかし最後の私情を聞いた途端、皆が静まりを見せた。
その様子を見て玲が続ける。
「これは私が持ち込んだ話だから、皆が手伝ってくれなくても私はやりたいの。一人でもやりたいことだから」
どう反応していいかわからないといった雰囲気だ。皆の様子は、生徒会の方針の話に急に私情が持ち込まれ、なんとなく納得いっていないようだった。協力したくないわけではないが、気が乗らないような、そういった雰囲気。
「……一人でやるって言うなら、多少は協力しますけど」
「私情って言葉を聞いちゃうと、私はあんまりかなぁ……」
いかにも賛否両論といった感じであった。やはり私情という言葉に引っ掛かっている。
その後、玲の視線は秀也へと向けられた。一度も言葉を発していなかったため、標的にでもされたのだろうか。
「しゅ、秀ちゃんはどうかな……?」
まずい。話を振られる以前に、皆にとあることが知れ渡ってしまいそうだ。当然周りは疑問を抱き始めている。
「秀ちゃんって何?」
案の定質問されている。
正直に言えば、特に秘密にしていたわけではない。だからそれが知られることは別に問題ではないのだが、秀也が気にしていたのは呼び方の方であった。
「あ、実は私たち幼馴染なの。私が小学三年生の頃に引っ越してきて、それ以来ずっと遊んでたんだよ。別に隠してたわけじゃないんだけど」
そう、実は秀也と玲は幼馴染であった。
玲が先程言った通り、彼女は小学三年生の冬頃、この街に引っ越してきた。その家が秀也の家の隣であったため、当然同じ小学校に通い、一緒にいることも多かった。
さらに言えば、玲の親が仕事で家にいないことが多かったため、しばらくの間秀也の家で面倒を見ていたことも。
その時に玲は秀也の母親の呼び方を真似て、『秀ちゃん』と呼び始めた。その名残が今も残っている。
しかしいつの日からか、二人の間に明確な壁ができた。心当たりはあるけれど、はっきりとした理由は今も分かっていない。
それ以来関わることがなくなった――できなくなったの方が正しいのかもしれない。周囲に幼馴染ということも伝わらず、この呼び方も浸透されなくなったのだ。
「へ、へー。そうだったんですね……」
特別大きなことを打ち明けられたわけではないため、生徒会メンバーはまたも反応に困っていた。けれど物珍しさというのが表情から読み取れた。
玲は学年全体に対し、会話することがあまりない。所謂業務連絡というものだけで、雑談などの日常での会話をしているところを見たことがない。だから堅苦しいイメージが定着してしまっている。
だから、玲のことについて詳しく知る人はいなかった。幼馴染という小さな存在がいることでさえも、皆にとっては初めての情報である。しかもその相手が、副会長の秀也であるのだから、より驚くことなのかもしれない。
「――で、桜並木の話はどうかな?」
すっかり秀也と玲の間柄の話になってしまい、肝心の桜並木を保護するという話を忘れてしまっていた。彼女が話を戻していなければ、話題はそのまま進んでいただろう。
確か秀也に同意を求めていたはずだ。適切な返答を試みる。
「私情云々は置いといて、この学校の良さを残すって意味でも、その活動はありなんじゃない?。皆がどうするかは任せるけど、俺は手伝う気でいるよ」
「――!! ありがとう!」
すっかりご機嫌である。
玲が桜並木をそうまでして守りたい理由はわからないが、一人でも活動すると言っている以上、意志というか信念を感じる。彼女にとって桜並木が大事なものであるのならば、手伝いたいと純粋に思う。他の生徒会メンバーは、この際どうだっていい。
「じゃあ今日の生徒会はこの辺で終わりたいと思います。活動方針は私から先生に伝えておきます」
そこからは会議が順調に進み、初日の生徒会は終了した。少しだけ先行きが不安に感じることもあったが、これから一年間このメンバーで頑張っていく、そう決意する。
翌日。
本日も放課後に生徒会があるのだが、今日は公安に活動記録を提出しなければならない。二日目にして欠席してしまうことになる。
公安には、月の終わりに毎回活動記録を提出する。今日は十月の二十九日で、大抵この辺りに公安から催促の連絡が入る。
追想転移利用者の確認をするためでもあるのだが、これは秀也の収入にも関係する。提出しなければその月の収入はなくなってしまうのだ。
また、学生である以上は就職扱いにはならず、形上はバイトということになっている。学生で一般の方と同じ収入を得るわけにもいかない。
資料を提出するだけであるため、用事を終わらせたらすぐに学校へ戻り、生徒会に参加しようと思っていた。
しかし、結局学校へ戻った時には既に五時を過ぎていて、昨日の通りならば生徒会は終わっている時間だった。
家に帰るのもありなのだが、実は秀也の家から学校までは徒歩で十分もかからないのだ。玲が保護したいと言っている桜並木を辿れば着いてしまう。
学校の外から校舎の様子を見てみると、生徒会室の明かりがついていることに気付いた。
生徒会がまだ終わっていないのであれば、少しでも参加しようと急いで向かう。すると、生徒会室にいたのは玲一人だけだった。
「あれ、秀ちゃん? 今日は休むんじゃなかったっけ」
ドアを開ける音で気付いた彼女が、不思議そうにこちらを見つめてくる。
「用事を終わらせて学校に来てみたら、生徒会室の電気が点いてたから来た。……っていうか、一人で何してたんだ?」
「今日の仕事内容が、引継ぎ関係の書類整理だったんだけどね? 皆話しながら作業してたから中々終わらなくて。気付いたら昨日の生徒会が終わった時間になってたから、一先ず解散して残ってた書類を私が居残りで作業してたの」
「………」
本人は精一杯笑みを作っているようだったが、バツが悪そうな様子を隠しきれていない。
なんとなく察したことだけれど、他の生徒会のメンバーは、書類の進捗状況を確認もせずに去っていったのではないだろうか。もしくは、玲が居残りすると言っても何も思わず、自分たちは帰っていった。ただの想像にすぎないが、昨日の雰囲気を知ってしまうと、このような悪い方向へ考えてしまう。
仮にも選挙に立候補し、当選した人達。仕事は最後まで責任をもって行うべきではないだろうか。一人に任せきりにするのは、あってはならないことだろう。
この時秀也が彼らに対して抱いた感情は、失望だった。
「やっぱり、人付き合いって難しいなぁ……」
ボソッと小声で放つ玲。ギリギリ聞こえた言葉だったけれど、その声の中には彼女自身を責める気持ちと一緒に、残念さが含んでいるように感じた。恐らく、彼女も皆の行動に少しだけがっかりしてしまったのだろう。
当然だ。もちろん、玲が自分で引き受けやすい一面はあるけれど、だからといって全員が一任するのはあり得ない。ましてや生徒会ともあろう人間が。
今すぐ彼らに文句をぶつけてやりたかった。だが、今どこにいるか分からない彼らを当てもなく探すのは現実的ではないし、玲だってそれは望んでない。今日だけは見逃すことにした。次に会う時には、怒りがこみあがってくるかもしれないが。
だから今するべきことは、
「あとその書類、何枚あるんだ?」
「え? あと三十枚くらいかな……」
「じゃ、さっさと終わらせるぞ」
秀也の言葉を様子から察した玲は、可愛い笑顔を浮かべて、
「ありがとう」
そう言った。
まずは残っている仕事を二人で終わらせることを優先としよう。
居残りで作業をしているとはいえ、状況としては玲と二人きり。なんだか小学生の頃を思い出させるような空間で、懐かしいようなくすぐったいような、そんな感覚だった。楽しいのは間違いないけれど。
彼女とは、一時期関わりがなかった。一時期といっても、数えてみれば五年くらいになるのかもしれない。話という話は一切なかったが、不仲などと思ったことは一度もない。逆に今この楽しい雰囲気を考えれば、なぜ話さなくなったのか、より一層わからなくなってしまうほど。
今までの秀也の生活に、学生らしい輝かしさはなかった。公安で仕事をしている以上、人が沈んでいく姿を見るばかりで、励みになどなるわけがない。自分の心も沈んでしまう。
それでも、この楽しさを知れたから、再び玲といることができると思えたから、自然と気持ちは軽くなった。これからの不安も吹き飛んでいきそうだった。生きる楽しみさえも与えられた、そんな気がした。
私は小学三年生の十二月末に、この街に引っ越してきた。
理由は両親の離婚。どうやら私の母は、父の職業の肩書が欲しくて結婚したらしい。恋愛による結婚なんかじゃなくて、とても卑しい理由。
けれど父の地位があまり高くないことから、離婚を決めたようだった。
父の職業は弁護士。弁護士という仕事は、実績を上げないと被疑者からの指名も無ければ、弁護すらさせてもらえない。そういった状況ということを知らずに結婚し、しばらく経った後に母は父の立場を知ったのだ。その二人の間に産まれてしまった私は、母に引き取られることになった。
母は私にいつも、弁護士になれと、あいつの仇を取れという。口癖のようなもので、耳にタコが出来るなんてレベルじゃなかった。
私は弁護士になることなど正直望んでいなかったけれど、それを口に出してしまうと、母は鬼の形相で私に裁きを下す。ただ、自分の無念を晴らすためだけに。
離婚してからは当然母子家庭になり、母の仕事は以前にも増して忙しくなった。家にいないことの方が多くなり、小学生だった私を長く留守番させることに悩んでいた。その結果、母が仕事から帰ってくるまで隣の家庭――水上家に私を預けることにした。
「高峰玲です……これから、よろしくお願いします」
玄関先で挨拶をする。
見知らぬ土地、初めて顔を合わせる人。不安だらけだったけれど、これからお世話になる人だと自分に言い聞かせて、礼儀正しくなるように振る舞った。礼儀を大切にすることは、母から散々言われてきた。
元々人と話すのが得意ではなかった私にとって、初めましての人と会話をすることさえ、相当勇気の要ることだというのに。
「いらっしゃい、玲ちゃん。ここでは、自分の家みたいに自由にしていいからね」
水上家の恵美さん――秀ちゃんの母親がお出迎えしてくれる。一目見ただけで、優しくて温かそうな人だと思った。
「は、はい。ありがとうございます……」
「気にしなくていいんだよ。――ちょっと待っててね、玲ちゃん」
恵美さんはそう言うと、「秀ちゃーん」と家の中に向かって大声で呼んだ。その後に出てきた人は、同い年くらいの男の子だった。
「……どうも。俺、秀也」
これが私と秀ちゃんの出会いだった。
私と秀ちゃんは、通う学校も学年も、クラスも一緒だった。初めての土地で常に一緒に行動できる人がいるというのは、とても心強かった。でも最初は打ち解けることも無く、ただ一人で勉強していただけ。
勉強は母から言われて、暇なときは家以外でもずっとしている。だから水上家にいる時も勉強ばかりで、ほとんどゲームしていた秀ちゃんとは、会話をすることもなかった。
ちなみに水上家には、秀ちゃんの父親や、既に一人立ちした海人――秀ちゃんの兄もいると聞いたけれど、もちろん顔を合わせることはなかった。
ある日、リビングで宿題をしていると、
「玲っていつも勉強してるよな。つまんなくない?」
と、ゲームを手に持ちながら秀ちゃんが聞いてきた。これが初めてのちゃんとした会話。聞かれた内容である、つまんないというのは、勉強のことかそれとも私のことなのか。
「お母さんに言われてるの。勉強ばっかりはあんまり楽しくないけど、やらないと怒られちゃうから……」
「ふーん」
彼はそれだけ言うと、目線はまたゲームへと戻していた。反応は示してくれたけれど、その声色に興味は感じられない。ゲームと勉強、やっていることは正反対。娯楽と勉学、不必要なものと必要なもの、比べるほど対極の位置にあるとわかる。
普段ゲームをやっている人からしたら、勉強なんて退屈、そう思うのは当然。
それが、今まで二人の間に会話が生まれない理由だと思っていた。秀ちゃんから見たら、勉強ばかりしている人は、性に合わないのだろう。
そう思っていたその時、勉強している私の隣に、突然秀ちゃんが座ってきた。
「俺も勉強やる」
「……え?」
一瞬、彼が何を言っているのかわからなかった。
「玲が勉強好きじゃないなら、誰かと一緒にやった方が楽しいだろ」
「……!!」
その言葉に動揺を隠せなかった。
今までこんな人はいなかった。一緒に勉強するなんて言ってくれたのは、秀ちゃんが初めて。他の人は私に目もくれない。だって、勉強は楽しくないから。
でも秀ちゃんは、自分とは合わない人でも、優しく接しようとしてくれる。そんな人柄に触れて、優しさを分け与えてもらって、抱く感情は尊敬だった。
何より優しさが心地よかった。母からもらう感情より温かく感じられて、この瞬間だけでも満たされた気分だった。
誰かと勉強するのは初めてで、妙な緊張が胸を走る。でも、緊張よりも嬉しさの方が幾分大きかった。隣に誰かがいてくれることが、こんなに嬉しいことだとは。
勉強で秀ちゃんがわからないところは、私がその部分を教えた。教えることも初めてで、この日だけで経験ばかりしている。
勉強は勉強でも、誰かとするのなら悪くない気がした。特に教えることが、役に立てているという実感が湧いて好きになった。
小学校の先生が言っていたことだが、人に教えることは自分の学びにもなるらしい。確かに教える時は、相手に伝わる言葉を使わないといけなかったため、自分の頭の中も整理出来た気がした。
これからもこうやって二人で勉強できるかもしれないと思うと、今こうして勉強している最中でも明日からが楽しみになっていた。
楽しい時間はあっという間に過ぎていき、母が帰ってくる時間になり、私も同じように家に帰った。
夕食を食べている時、母が話し掛けてきた。
「玲、勉強は捗ってる?」
母からのこういった言葉は、いつも心配というより脅迫のように感じる。
「してるよ! 学校でも水上さんの家でもちゃんとやってる! 特に今日はね、秀也君にも勉強教えてあげたの。喜んでたみたいだし、私も楽しかったんだよ!」
今日の日中の出来事が私の中でキラキラと輝いていた。だからいつもより元気に母に報告していた。
けれど返ってきた言葉は、私の予想とははるかに違ったものだった。
「そう。捗っているならよかったわ。でも、これからは教えるなんてこと、しなくていいのよ」
「……え?」
何を言っているのか、さっぱり分からなかった。私は勉強を教えていた。秀ちゃんがわからないと言っていた部分を、教えているだけ。人助けと言っても間違いじゃないはず。
それを突然しなくていいと言われたのだ。聞き間違えかと疑うほどに、なぜ母がそんなことを言ったのかわからなかった。
「お母さん、よくわからないよ」
「レベルの低い人に合わせなくていいって意味なのよ。時間をその子のために使うのは、玲にとって無駄でしょ?」
まさかそんなことを思っているとは。なんだか秀ちゃんが貶されているような気がして、嫌な感じがした。
「で、でもね? 先生がね、教えるのって自分のためになるって言ってたんだよ! だから……無駄じゃないよ」
「自分を下げる必要はないと言っているのよ。勉強が出来る人と競った方が、玲のためになるでしょ? わからないところを自分で悩まずに、すぐ誰かに聞く人になんて、助ける必要ないのよ。玲までその低いレベルになりたくないでしょ?」
まだ納得できなかった。あんなに楽しかったのに、あんなに喜んでくれていたのに。これが、良くないことなんて信じられなかった。
「……で、でも、困ってるのに――」
「それともなにか文句でもあるのかしら」
「っ……、なんでも、ないです」
喉から上がってきそうだった言葉が、母の氷のような冷たい眼差しによって、口から出ることを禁止させられた。もう何を言っても、無駄なのだと嫌でもわかる。
良いことをしたはずなのに、母には許されなかった。いや、良いことをしていたと思い込んでいただけなのかもしれない。そうでも考えないと、自分の行いが間違いだと言われたことに、耐えられなかったから。
話に夢中になっているうちにすっかり冷めてしまっていた夜ご飯に手をつけ、私の心はどんどん締め付けられていた。
翌日。
昨日母に、レベルの低い人に合わせる必要はないと言われた。レベルの線引きなんて、すぐにはわからなかった。もしかしたら、玲の周りにいる人が全員それだったらと思うと、怖くなってしまう。私はこれからも、誰とも話せないのかと。
その日も放課後に水上家に来ていた。昨日の母の言葉がずっと気掛かりで、勉強に身が入らない。
本当はもっと秀ちゃんと話していたい。一緒に勉強がしたい。けれど母の言う通りにしなければ、また叱られてしまう。それは嫌だった。
どうするべきか頭の中で思考を巡らせても出てこなく、最後には勇気を出して、秀ちゃんにそのことを話してみるのだった。
「……秀也くん、話があるの」
「どうした?」
秀ちゃんはゲームをしていた。興味があるようには聞こえない声だけれど、昨日、ちゃんと話を聞いてくれていることを知った。だからこのまま話し続ける。
「あのね、昨日一緒に勉強したでしょ? そのことをお母さんに話したの。そしたら、そんなことはしなくていいって言われたの」
「なんで?」
「……レベルの低い人と関わらない方がいいって、言ってた」
自分でも酷いことを言っていた自覚はあった。だって、目の前の人に対して、あなたはレベルが低いと言っているのだから。母の教えである、礼儀を大切にすることを破ることになってしまったが、私がわからないことを相談できる人は、今のところ秀ちゃんしかいなかった。どうしても、自分がどうすればいいのか知りたかったから。
「無茶苦茶だな。よくわかんない」
彼もよくわかっていないようだった。
「なんかね、頭いい人と一緒にいた方がいいらしいの。そうした方が、私のためになるって」
「………」
とうとう彼は無言になってしまう。私に失望したのだろうか。頭が悪いと言われて、悲しんでしまったのだろうか。
何も出来ないまま、秀ちゃんの前で立ちつくす。返事を待っていても、私が望んだ声は聞こえてこなかった。
だから、私は勉強に戻ろうとして、秀ちゃんに背を向ける。
「ごめんね。私、秀也君とあまり一緒にいれないかも……」
それだけ言って、リビングの椅子に座り、勉強を始めようとした。その時、
「玲はそれでいいの?」
後ろから声が聞こえてきた。秀ちゃんに背を向けて座っていたから、彼が今どんな表情なのかもわからなかった。
顔が見えないことを良いことに、本音を話す。
「嫌だけど、そうしないとお母さんに怒られちゃう……。それはもっと嫌なの……」
「ふーん」
小学生だった私は、怒られることが本当に怖かった。自分の意見を貫き通すより、怒られないことの方がはるかに大事だった。秀ちゃんにひどいことをした自覚はあるけれど、それでも叱られるかもしれないという恐怖が、私の中で強く根付いていた。
そもそも、レベルの線引きがすぐにできるわけがないのだから、こうするしかなかったのだ。
そう自分に言い聞かせても、結局苦しい言い訳になるだけ。何一つ解決していないから、今はこのままで、一人で耐え続ける。秀ちゃんも何も言ってこない。もう、二人の間に会話はない。そう感じた瞬間だった。
辛い気持ちを勉強にぶつけよう、そうして熱心に取り組む。
しかし数分後、
「俺も勉強する」
「っ!?」
隣に秀ちゃんが来た。しかも、昨日と同じような言葉を放って。
「どういうこと?」
「レベルの低い人だっけ? そいつと話しちゃダメなら、レベルの高い人ならいいんだよな? 俺が頭良くなれば、何も問題ない!」
「っ!?」
彼の優しさが、痛いくらい胸に刺さった。
最初はどういう風の吹き回しなのかとか、疑ってばかり。でも考えてみるほど、彼が本当に優しいのだという結論に至る。私が思っていたよりもずっと優しい。昨日それが分かったはずなのに、彼はその想定をはるかに超えてくるのさ。
私はさっき、彼にひどいことをたくさん言ったのに、それでも秀ちゃんは私に優しさを与えてくれる。
受け取った感情が、じんわりと胸に広がる。泣き出してしまいそうだった。今まで触れたことのない温もりに、涙が出そうだった。
この優しさなしでは、生きていけなくなってしまいそうになる。そうして少し涙を流しながら、また二人で勉強をするのだった。
賢くなると宣言した秀ちゃんは、私に追いつくために、復習だけでなく予習をしだした。
私は一年先の内容まで予習していた。なんとしてでも私を弁護士にさせたい母は、学校の課程では足りないと言い出し、暇さえあれば予習を無理強いする。
「玲、これは何?」
「このxっていうのは、わからない数字を置き換えるって意味だよ。xを使って式を作って、後からそのxの数字を出すんだよ」
「おー、なるほど」
学校でも習っていない範囲に苦戦している様。努力するといっても、慣れないことをいきなり始めるのは厳しかったりする。その苦しみはわかっているつもりだったため、そういう部分に関しては、私が精一杯教えてあげることにした。
習っていない内容でも、秀ちゃんはかなり理解が早い方だった。分からないところを聞いてきた時も、私が教えればすぐに理解する。
「玲、ここは?」
「ここも――」
話すようになってからまだ二日だというのに、こんなに彼の隣にいるのが安心するとは、以前なら思わなかっただろう。
しかも彼は、私と接するために予習に付き合ってくれている。流石に無理があると思ったけれど、彼は一言も文句を言わなかった。たったそれだけでも、私は救われた。一緒の時間を共有してくれているだけで、心の支えになった。
何よりも母の言葉に抗おうとしてくれたことが、私の気持ちを第一に考えてくれたことが、本当に嬉しかった。
五年生の三月頃。最近、秀ちゃんは学校の友達と遊ぶ回数が増えて、一緒に勉強する時間も減ってしまっていた。
それでも、遊びに行かない日は私にずっと付き合ってくれ、楽しく過ごした。秀ちゃんの学力は見る見るうちに上がっていき、テストの点数にも影響してクラス中が秀ちゃんの点数に驚いていた。
そんなある日、
「玲、お前って誰かと遊びに行ったことある?」
と、聞いてきた。
「ないかな」
「遊びたいって思うことないの?」
「羨ましいって思うことはあるけど、勉強しないとダメだから……」
素直に本心をぶつけた。
話すようになって約二年、私たちはたくさんのことを遠慮なく話せるような間柄になっていた。
私の返事に対して秀ちゃんは、少しだけ不満そうな声色で言ってきた。
「玲はそれでいいのか?」
「それは……っ、嫌だけど……」
ふと彼の表情を見ると、母ほどではないが、何かを憎んでいるような、恐ろしく冷たい目と声をしていた。間違いなく気分を損ねていると断言できる。
私の態度が気を悪くさせてしまっているのだろうか。二年も経ったのに、私の心中は変わらないままで、母の言われるがまま、叱られることを恐れて行動する。そんな変わらない姿が、秀ちゃんの気に障ったのだろうか。
「前から思ってたけど、玲が勉強する理由ってお母さんに言われてるからだろ? なんでそんなに厳しいんだ?」
答えるのを一瞬躊躇う。あまり聞かれたくはないことだから。
「……お母さんは、私を弁護士にさせたいの。弁護士は頭が良くないとなれないし、資格とかも必要なんだって。だから、たくさん勉強するの」
「玲は弁護士、なりたいの?」
「どうだろう。将来の夢とかないから、これでもいいんじゃないかな」
曖昧な回答しかできず。
正直なことを言えば、私は自分の夢を持つことを半ば諦めている。母の態度はずっと変わらなかったし、時々弁護士になるための専門知識に関する本を、私に買ってきた。母の信念に思いやられてしまっていた。
そんな母に対して抵抗しても、全て言いくるめられるだけ。私の気持ちなど聞いてくれたことなんて無いから、無意味ということが嫌というほどにわかる。私はなりたいと思った職業もなかったので、弁護士になるのもいいのかもしれない。
そんな卑屈な気持ちで胸がどんどん冷たくなっていくと、秀ちゃんは勢いよく立ち上がった。
「玲、今から遊びに行くぞ」
「え? な、何を言ってるの……?」
「玲を外に連れていく」
「だ、ダメだって! また怒られちゃうから!」
魅力的な提案だった。放課後に誰かと遊ぶなんて経験、今まで一度もなかった。だけど、この時は欲よりも恐怖が勝っていた。勉強を放り投げて遊ぶなんて、許されるわけがない。
「その時は俺のせいにすればいい。いい加減、やりたくないことばっかりやるのは、玲も嫌だろ」
秀ちゃんが必要なものを用意し、支度をしている。本当に外に出るつもりらしい。
なぜ今更そんなことを言い出すのだろうか。最近友達とたくさん遊んでいるから? その楽しさを知ってしまったから、勉強がつまらなくなった? ただ単純に悲しい気持ちになってしまう。
「違う、勉強のほうが大事だって――」
「うるさい! いいから行くぞ」
私の手を掴み、無理やりにでも連れて行こうとする。
このままでは、初めて勉強を投げ出すことになる。母に怒られてしまう。弁護士になれなくなってしまう。そんな後ろ向きなことばかりが頭を埋め尽くしていた。
必死に抵抗したけれど、秀ちゃんの強い力に負けてしまい、すでに玄関まで来てしまった。
今までは優しかったのに、なんで今日だけ私の言葉を聞いてくれないのだろう。私を救ってくれた秀ちゃんは、どこに行ってしまったのだろうか。
玄関の扉が開き、外からの光が差し込む。
まだ間に合う。まだ勉強から逃げなくて済むかもしれない。そんな気持ちで抵抗する。けれどやっぱり引っ張り出されてしまった。
ごめんなさい、ごめんなさい、お母さん。私、勉強できなくなっちゃった。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……。
しばらく彼に付いていき、私が歩いたことのない方向まで行く。登下校の時とは違う道。
見慣れない場所に不安を抱きながら歩くしかなかった。そして次の交差点を曲がった、その時だった。
「………」
突然私の視界がキラキラと輝きだす。それが私にとって、あまりにも衝撃的だったから。
「わぁ……!」
つい声を上げてしまうほど。
家から歩いて十分もしない場所。登下校の道とは少しだけ違った方向。
一度も遊んだことがないからだろうか、それともこういったものには、興味がなかったからだろうか。私の目に入るそれらが、宝石のように輝いて見えた。
さっきの卑屈な心など、もはや思い出すことも難しい。それほどこれに心が高鳴っている。綺麗に、色鮮やかに見える。
目の前に広がる、桜並木が。
「どうした、玲?」
桜並木を見たまま立ちつくしてしまっていて、秀ちゃんが心配になって聞いてきた。
桜一つで、ここまで自分の思考が吹き飛んでしまうとは。まるで世界が変わったように、すべてが美しく色付いている。今までの私は、どれだけ狭い世界で生きていたのだろうか。花の一つさえ、真剣に見ていなかったのだから。
「桜が……すごく綺麗だなって、思って」
「まぁ春だしな」
秀ちゃんは、私とは正反対なくらい落ち着いていた。
いつもこんな景色の中で過ごしているのだろうか。これが当たり前なのだろうか。だから、桜を意識することはないのだろうか。
勉強から解放されているだけ。ただ遊んでいるだけなのに、私の心は瞬時に軽くなったように感じた。私は今まで、辛い状況にいることさえ分からなく、ただただ追い詰められていたんだ。
そんな状況の私に、桜は安らぎを与えてくれた。小さなことのように見えるけれど、私にとっては世界がひっくり返るくらい、大きなことになっていた。
この時から、私の中で桜は、自由と安らぎを表すようになった。
「玲、行くよ?」
彼はその後も私の手を離さなかった。でも、家に帰りたいなんて考えていなかったし、むしろもっと外の世界を見てみたいと望んでしまっていた。
そこから歩いて約五分、付いていった先に見えたのはショッピングモール。まずはその中に併設されているゲームコーナーに行った。
初めてゲームコーナーに来た。たくさんの機械がずらりと並んでいるけれど、どういうゲームなのかさえ知らない。
けれど、一つだけ知っているものがあった。時々テレビで目にする。それは、UFОキャッチャー。
透明なケースに入っている賞品を、クレーンで上手に掴んで運ぶことによって、賞品を獲得するゲーム。
そのうちの一つに、かわいいうさぎのぬいぐるみが賞品になっているものがあった。それを一緒にやることにした。もっとも、提案したのは秀ちゃんだったけれど。
私は既に興味津々で、勉強から逃れることに対しての負い目など、全く感じていなかった。
初めてのUFОキャッチャーは思っていたよりも難しく、何度挑戦しても取ることはできなかった。けれど、その後に秀ちゃんが二回ほどプレイすると、うさぎのぬいぐるみを獲得した。
「これ、玲にあげる」
「! いいの!?」
「うん。俺の趣味じゃないし」
「ほんと!? やったぁ!!」
彼が取ってくれたのに、私にプレゼントしてくれた。こういった経験がない私は、嬉しさのあまりその場ではしゃいでしまった。こうやって誰かと遊ぶことが、こんなに楽しいことだったとは。
この時私は、初めて心から笑えた気がした。
その後私たちは、ショッピングモールの入り口の近くにあるアイスクリーム屋に行った。アイスクリームも、こういったお店で食べたことは一度もなかった。
秀ちゃんと同じチョコアイスを選び、近くのベンチに座って二人で食べた。さっきのUFОキャッチャーもそうだったが、お金は秀ちゃんが全部払ってくれている。
秀ちゃんと食べたチョコアイスは、文字通りほっぺが落ちそうなくらい美味しかった。一口食べただけで幸せな気持ちになり、私の表情から笑顔が絶えない。
先ほどから秀ちゃんは、私が笑顔になるたびに、嬉しそうな表情を見せる。まるで自分のことかのように。だから、二人で楽しめている気がして、素直に嬉しかった。
初めは罰が当たると思っていた。勉強を投げ出すなんて考えたことがなかったし、連れ出した秀ちゃんも許せなかった。でも今では、ここに来てよかったと思っている。連れ出してくれてありがとう、とまで思っている。
たった一日気分転換しただけなのに、私は今までの日々を見直していた。心が軽くなって初めて、私は弁護士になることを望んでいないとはっきりわかった。
そして、
「あのね!」
アイスクリームを食べながら話しかける。
「どうした?」
「私ね、学校の先生になりたい!」
自分のやりたいことに、この日で気付けたのだ。
「おお、いいなそれ! 勉強教えるの上手だし、向いてるよ!」
いきなりのことで驚かせてしまったかもしれないが、向いていると言ってくれた。肯定してくれたことが嬉しかった。教えることが上手かどうかは、実は理由には関係なかったけれど。
秀ちゃんにはずっと感謝してばかりだ。特にこの日一日を通じて、私は彼に憧れた。いや、それ以上の気持ちを抱いていたのかもしれない。
普段は少し荒い言葉を使う彼だが、それとは真逆なくらい優しくて温かい。それがなんとなくおかしかった。
でもまずは、遊びに連れてくれて、私を笑顔にしてくれて、
「ありがとう!」
と、最大限の感謝を告げるのだった。
「――そうだ、私も秀ちゃんって呼んでいい?」
「なんで母さんと同じ呼び方なんだよ……」
この時から、私は秀ちゃんと呼び始めた。
放課後から遊びに行ったため、長く外出することはできなかったけれど、その日が人生の中で最も楽しかった瞬間だった。
UFОキャッチャーの戦利品、うさぎのぬいぐるみを持って家に帰る。母が出迎えてくれた。
「おかえりなさい。……あら、どうしたの? そのぬいぐるみは」
幼い頃の私には、全てを話すことを疑わなかった。今日の楽しかった出来事を母にも教えてあげようと、嬉々として話してしまった。それが失敗だった。
「これ? 今日ね! 秀ちゃんと遊びに行ったの! その時に秀ちゃんと一緒にUFОキャッチャーやって、取ってもらったんだよ!」
「……遊びに行った? 勉強は、どうしたの」
「勉強もしたよ! でもね、気分転換に秀ちゃんが連れてってくれたの! でね、その時に――」
その瞬間、パチンという冷たい音が玄関に響き渡る。母に頬を叩かれたのだ。その衝撃で、胸の前で抱えていたぬいぐるみが床に落ちてしまう。
私はすぐに叩かれたと気付くことができず、頬に痛みを感じ取った時初めて気付けた。それまで、何をされたか自分で理解できていなかった。叩かれた後も、なぜなのかわからなかった。
「……はあ? なによ、それ」
はぁはぁという荒い息とともに、怒りを見せる母。それだけで私の頭は恐怖でいっぱいになった。手足は震えだし、もう反論するなんて気は起きない。
「誰が、いつ、遊びに行っていいなんて言ったのよ、玲。私は勉強しなさいとしか言ってない。気分転換なんて、必要ない」
母のひどく冷たい声が、幼い頃の私に響く。声が、感情が、心臓にぐさりと突き刺さって痛い。
そうだった、この人は私を道具としか見ていない。地位と名誉のため、そのために私は利用されるだけ。今まではその事実に気付かぬように、見て見ぬふりしていただけだった。
そう気付いてしまったから、私はより一層心を閉ざし始める。未来なんて最初から暗く閉ざされていた。先生になりたいなんて、間違っても口に出せない。だって、認められることも、なれるわけもないのだから。
叶わないと分かりきっている夢なら、もう抱くのはやめよう。母のために弁護士になった方がいいに決まっている。
その後母は、
「水上さんの子どもが、玲に……」
そんなことを言い出した。敵意が明らかに、秀ちゃんへと向けられていた。
それだけ、それだけは許せなかった。どうしても秀ちゃんを悪く言ってほしくない。だって秀ちゃんは何も悪くない。
「待って! お願い! 秀ちゃんには何もしないで! 私が全部悪かったから!」
「うるさい! あんたは黙ってればいいのよ!」
「っ……」
あまりの迫力に、喉から上がっててきていた言葉が引っ込んでしまう。もう私は、何をすることもできないらしい。秀ちゃんのための行動も、なにも。
自然と下を向く。床に転がっているぬいぐるみが目に入った。楽しかった思い出の品は、無残にも黒く汚れてしまっていた。
それを拾って、汚れを一生懸命落とす。せっかくのプレゼントがこれ以上台無しにならないように。
けれど汚れは落ちても、次はじんわりと濡れていく。私が流す涙が、どんどん零れていくのだ。もう、泣くことしかできない。なぜかぬいぐるみの滲んだ部分が、私の心そっくりに見えた。
楽しかったはずなのに、夢も見つけられたはずなのに、全て無駄となった。最悪な結末を迎えた。
たくさん与えてくれた秀ちゃんは、これからどうなるのだろうか。母からの制裁が下されてしまうのだろうか。それだけが気がかりだった。
どうか神様。秀ちゃんだけは、幸せなままでいられますように。
その日から三日後、私は水上家に行くことを禁止にされた。母が仕事でいなくても、一人で留守番をすることに決まった。
私が秀ちゃんと遊びに行った日、たった一日だけで水上家への信頼がなくなり、私を預けることをやめた。
母は私に、秀ちゃんと今後関わるなと言った。
でもこれでよかったのかもしれない。私が一緒にいなければ、これ以上母からの敵意を向けられなくなる。平穏に過ごすことができる。私さえ我慢すれば、全てが収まる。
学校でも私は、彼を避けた。何度も話しかけてきたけど、理由をつけて逃げ出した。本当はもっと話したしたかったけれど、これが秀ちゃんのためと言い聞かせて、気持ちをぐっとこらえる。
……なのに。なのに、毎日家に帰ると涙が溢れてくる。自分の気持ちにはどうしても嘘をつけなかった。秀ちゃんと出会う前に戻っただけ、たったそれだけなのに、その時より辛い、苦しい、胸が痛い。
自分の気持ちを押し殺して、押し殺して、押し殺して、大人になっていく。それが私の運命なのだと思い知る。真っ暗な未来を一人で歩んでいく。それが皆の幸せになると願って。
中学校に進学してからも、私は秀ちゃんを避けた。いつの間にか会話は一切なくなり、一緒にいる場面もなくなった。
私の家の近くには、日本で一番有名な進学校がある。三年になると、母はそこへの進学を勧め、言うとおりにした。
高校に進学すると、入学式で秀ちゃんも入学していたことを知った。とても努力したようだった。
自分を殺すことに慣れてしまった頃、高校二年生。生徒会選挙。副会長候補者に、秀ちゃんがいることを知る。再び出会う。
玲と二人で居残りで生徒会活動をした日から、一週間が経った。
生徒会の皆は相変わらずで、秀也と玲の二人で仕事をすることも多々あった。
しかし書記長の青山だけは、生徒会を休むことも少なく出席し、稀に居残りも付き合ってくれていた。
この際、玲との二人だけでも別に良かった。彼女と話す機会は生徒会に入るまでは一つもなく、最近になって時間ができたに過ぎない。だからその時間が増えたのは嬉しいことであるし、単純にその空間が心地よかった。もちろん、作業を手伝ってくれるのはありがたいのだけど。
けれど逆に、青山以外の生徒会メンバーの素行が目立った。生徒会の出席率も低く、居残りに付き合ってくれたこともない。二人で居残りで作業したあの日以降の生徒会は、二回開かれる予定だった。けれど作業の進捗状況により、三回に増えたのだ。
その原因は間違いなく作業効率の悪さ。二人、三人では絶対的に遅れてしまう。
生徒会の日数が増える以上に、秀也たちの解散の時間が全て居残り前提のものとなってしまう。それは流石に問題なのではないだろうか。
いい解決方法は何かないかと考えているが、怒りをあらわにする以外思いつかなくて、試行錯誤している最中である。
「シュウ、次俺らだぞ」
「ああ、うん」
今は体育の授業中。男子はバスケットボールで、女子はバレーボール。体育館をネットで二つに区切り、男女を区別して行われている。
男子バスケットボールの方は、男子の人数を三分割して試合を交代で行っている。秀也のチームが休憩の時に、ネット越しで女子側のコートを見ているところを、和哉に話しかけられたのだ。
ちなみにバスケ部の和哉と同じチームになったため、非常に楽をしている。
「なんだ、高峰さんをずっと見てたけど、夢中になってる最中だったか?」
と、口元をにやりと歪ませて言ってくる。内容を聞かなくても、その心中を察することが容易だった。
「そういうのじゃない。言ってなかったけど、俺と玲って幼馴染なんだよ」
「え、本当に聞いたことないやつじゃん。なんで今まで黙ってたんだよ」
「黙ってたっていうか、わざわざ言うことでもないし」
話す機会があればついでで言うことはあるだろうが、自分からひけらかすように言うことはないだろう。
「それもそうだけど、じゃあなんで今日は言ったんだ?」
「カズが勘違いしてそうだったから」
「本当に勘違いかなー」
再び口元をにやりと歪ませる和哉。その表情に若干の面倒くささを感じたため、適当にあしらうことに決めた。とは言っても、玲をずっと見ていたのは事実だったけれど。
六人のチームでバレーコートに入り、器用にボールを捌く彼女。運動神経も抜群な玲だが、周りとの連携は上手にできていないようだった。普段からクラスメイトと話していないため、こういった時にもコミュニケーションがうまく取れないのだ。だから、あまり楽しめているようには見えなかった。
そんな状況を見て、生徒会長となった今でもこのままでいいのかと思ってしまう。ほぼ全員と壁を作り続け、自分の肩身を狭くするのみ。それでは楽しいはずのものも楽しくなくなってしまう。
そんなことを考えて、和哉の背中を追いかけながら次の自分たちの番のために準備するのであった。
放課後。
今日は目安箱とその記入用紙の作成をすることになっている。目安箱とは生徒の要望や状況をいち早く知るための、任意のアンケートのようなものだ。これは前期からあったもので、引継ぎという形で秀也たちの代にも適用されることとなった。
少し遅めに生徒会室へ入ると、中にいたのはたったの二人だけ。玲と書記長の青山だった。
「あれ、他の皆はまだ来てないの?」
「いや、今日は三人だけなの。普通に休む人もいれば、部活の強化期間だったりするらしいよ」
「……へー」
またしても失望を抱く。生徒会のメンバーは全員で八人で、今日いるのは三人。半分も参加していないこの状況は、果たして見逃すことができるものなのだろうか。
一日だけであれば、秀也もここまで呆れていないだろう。けれど、実際生徒会初日以来、全員が揃ったことはない。そんな状況だからこそ、垣間見えている皆のサボり癖が光って見える。もちろん悪い意味で。
「それさ、休んでる人って、何で休むのか聞いてたりする?」
「皆用事があるって言ってたよ」
「そうなんだ」
これではっきりとわかる。それらしい理由をつけて、彼らはただ休みたいだけ。少なくとも本当に用事がある人はいるかもしれないが、全員そしてそれが何日もというのは普通はあり得ない。
もちろん、ここまで生徒会が忙しいのは最初のうちだけである。前期から引き継いですぐは、様々な書類があるためその作業を行うのだが、それが一通り終わってしまえば後は楽である。だから一定期間が過ぎてしまえば、仕事量も減るため、出席状況は問題とならなくなる。
けれど、それでもここまで揃わないのはいかがなものかと思う。今だけの辛抱だと耐えるのは、本当はあってはならないことだろう。生徒会に立候補したのであれば、最後まで責任を持って取り組むべきだと秀也は思うのだが。
「なあ、これ……このままでいいのか?」
「ん? なにが?」
「こうやって全員揃うことがない状況。だって仕事全然進まないじゃん。そのせいで先週生徒会が一日増えたんだし」
「まぁ……確かに」
玲はバツが悪そうにしていた。改善した方がいいことはわかっているが、その方法に見当がついていないようであるし、それが自分にできるかもわからないといった様子。
この場にいる青山も、眉をぐっと寄せていた。
二人が懸念しているのは、他の生徒会メンバーの態度だ。もちろん褒められたものではないから、良くない行いには注意をするべき。今回で言うならば、きちんと生徒会に参加するように促す。
しかし注意をするというのは、相手にとって最も良い選択とはならない。生徒会への参加状況が改善されたとしても、皆の関係や雰囲気を悪くしてしまう恐れがある。だからこそ、簡単に行動できるものではないといった問題なのだ。
「まあ追々考えていこうか。それよりも記入用紙の制作ってどこまで進んでる?」
「えーっとね、もうレイアウトはできたから、これをコピーするだけ。どっちかというと、これから校内に目安箱を置きに行く方が時間かかるかも」
これからの作業内容を把握し、早速取り組もうとする。今日は終了時間を過ぎた後の居残り作業もなさそうだ。そのことに少し安心できた。
終了時間に終わるかどうかなど、普通はする心配ではない。この考えがずっと続いてしまうのかと、やはり気が重たくなるばかりであった。
翌日。
朝のホームルームの時間で、先日行われた模擬試験の結果が返される。
成績表をじっくり見て、現状をしっかりと把握する。正答率は八十パーセントを超え、全国偏差値は六十四。もちろん学年順位は二位。秀也にとっては及第点といった結果であった。
ホームルームが終わった後、クラスメイト達各々が自分の結果に対しての反応を話し出す。中には「終わったー」とクラス中に響く大声を出す人まで。
そうしてすぐ和哉がやってきた。
「シュウ、今回もダメだった……」
と哀愁が漂う様子で話し始めていた。
ちなみに今回もというのは、前回の模擬試験で和哉は見事に落第した。落第といっても学年の中間層より少し下に行っただけであるが、個人的には相当なダメージを負っていたようだった。
「成績落ちたまま上がらなかったのか?」
「そう。これ以上落ちなかっただけいいんだけど、上がらなかったのが一番ダメなんだよ」
「まあまだ二年だし、これが最後なわけじゃない」
「それもそうなんだけどさ、実は親との約束があるんだよ」
思わぬ事情がありそうな予感がした。
「どういう約束?」
「俺部活やってるじゃん? でも本当は中学までの約束で、高校からはバイトすることになってたんだよ。俺の家あんまり裕福じゃないから」
「……うん」
話の方向がかなり重たいというか、暗い方へと変わっていく。以前の模擬試験の際も和哉はかなり落ち込んでいたが、その理由はただ成績が下がっただけでなく、家庭の事情にまで繋がっていたのかもしれない。
「でも俺中三の頃、バスケのインターハイで決勝まで行ったんだよ。結果は負けたけどさ、それがどうしても諦められなくて親に高校でも部活やらせてくれって頼んだ。けど条件つけられて、いい大学入るために、いい成績を維持することっていう約束になった」
「なるほどな」
「そのいい成績を取れてないから、部活やめさせられるかもしれない」
はあっとため息をつきながら話す和哉。彼がここまで弱気なのは見たことがなかった。和哉にとってバスケットボールは、自分の心を大きく動かせてくれるもので、やる気はそこへすべて注がれているのだろう。部活の時間になるたびに和哉の調子は良くなり、稀に体育館を覗いてみると、いつだって楽しそうにしていた。その瞬間が失われようとしている。
だから前回の模擬試験の時も、かなり落ち込んでいたのだ。
そして和哉はまだ問題があると言って、話を続ける。
「聞いてくれよ。先週の練習試合の結果でさ、俺スタメン外されたんだよ。最近うまくいってないとは思ってたけどよ、まさかスタメンまで外されるとは思わなかったわ」
「………」
かける言葉が見つからなかった。和哉に良くないことが立て続けに起こり、落ち込むことしかできないでいる。アドバイスの一つや二つでもできればいいのだが、生憎スポーツのことはからきしで、同情することしかできない。
逆に精神状態が不安定の時に、こうした方がいいと言うこと自体間違っているのかもしれない。相手からすれば、気持ちもわからない人に口を出されるのは、助けを与えるのではなく苛立ちを与える場合がある。
それでも何も言わないのも違うと思った。最大限配慮して、手探りで言葉を見つける。
「うまくいってないってのは、ただ不調って感じか? それとも周りが上手くなったとか」
「んー……両方かな。最近一年の成長すごいから、あいつらもスタメンまで上がってくる可能性はある。……最後のインターハイまでにスタメン戻れっかなー」
「カズのことだし、何とかなるんじゃねって思ってるけど。それでもキツいんなら、彼女にでも慰めてもらえ」
「そうするわー」
そうして話が収束する。先ほどより和哉の表情はやわらかいものになり、苦しさも少し紛れたよう。特に恋人の存在を思い出せたことが大きかっただろうか。
けれど安心はできなかった。こういった苦しい状況下に置かれている人は、あと一つピースが揃っただけで人生に絶望してしまう。つまり、追想転移を考え始めてしまう。
それだけは嫌なのだ。追想転移すること自体止めるべきことだが、それが一番仲の良い和哉となればより阻止しなければならなくなる。これからは和哉の様子に気を付けながら過ごしていこうと、決めた瞬間であった。
放課後。
生徒会の前に、今日は特別区域の掃除があった。今日というか今週の話ではあるのだが。
最近考えることが多い。主に生徒会のことと、和哉のこと。二つの問題を同時進行で行っている訳だが、どちらも解決の糸口は掴めず。特に和哉の件は本人次第の部分が大きいため、悩み損な箇所もあった。
そんなことを考えているうちに掃除はあっという間に終わっていて、鞄を取りに一度教室に戻る。
教室の前に着くと、中から誰かの話声が聞こえてきた。扉が開いていたため、会話の内容まで筒抜けだ。
普段ならそんなことなど気にせず中へ入るのだが、会話の主と内容に引っ掛かりを覚えた。ぴたと足が止まり、その会話を聞いてしまう。完全に盗み聞きとなっているが、頭で理解していても体が動かないのだ。
会話の主は担任と玲だった。
「そっか。じゃあこれで書類送ることにするぞ」
「ありがとうございます」
「――にしても、これから寂しくなるな」
「そうですか? 嬉しい言葉ですけど、実際大したことないと思いますよ」
話の芯が見つからない。会話の方向に違和感は感じても、その正体がわからなければ、自分ではどうすることもできない。頭の中の整理だって不可能。
話はまだ続く。
「高峰は成績も素行もいいから問題ないとは思うけど、不安なことがあったら先に言うんだぞ? かなり大きなことだから、万全にして行った方がいい」
「はい。たぶんたくさん聞くことになると思うので、その時はよろしくお願いします」
やはり手がかりらしいものは発見できず。少なくとも規模の大きいことだということがわかったのだが、一体それが何なのかは予想すらできなさそうだ。
「先生はちゃんと応援してるから、頑張れよ」
「はい。――では、生徒会があるので失礼します」
二人の会話が終わりそうになり、慌てて教室に入ろうとする。なるべく盗み聞きしていたと知られないように振舞おうとしたところ、ちょうど入り口でばったり会うという形になってしまった。
「おお、水上か」
「ちょうど掃除が終わって、荷物取りにきたところです」
「そっか。水上も生徒会頑張れよ」
「はーい」
そうしてようやく教室へ入る。玲はその場に残り、秀也を待ってくれていた。目的地が同じで、一緒に向かわない理由はないということだ。
二人は歩きながら少し話す。先に話題を出したのは玲だった。
「秀ちゃん、もしかして今の会話、聞いてた?」
まさかの内容にぎくりと心が反応する。バレてしまっていたのか心配になったが、ここは敢えてそのまま告げようと思った。
「んー最後のほうだけ。でも何の話かはわかんなかったし、マジで聞こえてた程度」
「そっか……」
彼女は少し遠くを見ていた。少し寂しげな表情をしていて、秀也の方から話しかける雰囲気でなくなる。しばらくの間沈黙が訪れ、気まずさを含んだ空気が晴れるまで数分かかった。
聞こえるのは外で部活をやっている生徒たちの声だったり、吹奏楽部が練習している音だったり。そんなものしか聞こえていなかったからこそ、時間にすれば数分でも、それ以上の感覚を覚える。
永遠にも感じたその長い沈黙を終わらせたのは、玲だった。
「さっきの話だけどさ……、聞かないの?」
「どういうこと?」
「何の話かわからなかったんでしょ? 知りたいって思わないの?」
なんというか、曖昧な言葉だった。何かを濁しながら言っているようで、それはつまり聞いてほしくないと言っているのと同じ。正直に言えば、担任と何を話していたのか知りたいところ。
しかし、彼女がこんな調子ならその気も薄れる。嫌なことまで無理強いをするつもりもないし、聞いてほしくないのならそれに従うまで。
「思う。でも教えてって言っても、教えてくれるものじゃないんだろ?」
「……うん。ごめん」
案の定といった反応を見せた。玲が嫌と言うならそれまでの話。彼女が話してくれるのを気長に待ち、その日が来なかったとしても割り切るのが大事だろう。
「それにね、まだ正式には決まっていないことだから、言いたくない気持ちもあるけど、どっちかっていうと話せないの……」
「そうだったのか」
「だから、ちゃんと決まったら一番に教える。それだけは約束するから」
「わかったよ」
約束してくれるのならば、秀也は信じるのみ。盗み聞きしていた時から感じていた違和感は消えないけれど、その解消よりも玲の方が大事なのだ。
そうしているうちに生徒会室に着き、本日の生徒会が始まる。いつもより参加人数は多かった。
今日の内容は、会議で決めた生徒会の活動を、担当の教師に承認してもらうこと。こちらで決めたことを全て行えるわけでなく、学校内で可能な範囲を見定めなければいけないのだ。
そのため、生徒会担当の先生に決定したことを報告し、その場で不可能と判断したら棄却。案が通る可能性があると判断すれば、職員会議に回してもらえるということになっている。
早速生徒会の先生に、決定事項を報告する。主に玲がするのだが。
「まず目安箱についてですが、昨年からの引継ぎなので昨日既に設置は終わりました。今年から新たにやるものとしては、来年度の学園祭と体育祭で、生徒会が何か企画をできたらいいなと思っています。あとは離任式の際に、離任される先生方への花束の贈呈を生徒会でやろうかと」
「ふむ、なるほど」
一つ一つじっくりと吟味している。詳しい内容を聞き、どこかに実施が困難な点がないかを確認する。
「うん。それなら恐らく、職員会議でも通ると思う。逆にもっとあってもいいくらいだ。今後何か決まったら、その都度報告してほしい」
玲は基本抜かりがないため、案に対する穴はなるべく作らないようにしている。そのため、案が認められるのは想定していたよりも早かった。
しかし実は、ここからが本番であった。
「そのことなんですけど、あと一つだけありまして……」
「? 是非とも教えてくれ」
「えーっとですね、学校の前に桜並木があると思うんですけど、それの保護をしたいと思っています」
「ほう。それが何か問題あるのか?」
先ほどとは話し方に違いがある玲の様子から、何かがあると悟ったのだろう。その大事な本題を早く話せと言いたげな雰囲気で、教師が言う。
「それが……実は、学校の敷地外まで続く全部を保護したくて……。今度その桜並木が伐採される計画が立てられているみたいなんです。春になるとすごく綺麗に咲きますから、それを伐採するのはどうかと思いまして……」
「なかなか難しいことだね。敷地内ならまだしも、敷地外となると生徒会ではどうにもならないかもしれない」
「でも、私個人の話になりますが、どちらかというと桜並木の保護を一番大事にしたいと言いますか、これを一番職員会議で話していただきたいと言いますか……」
どんどん弱気になっていく玲。元々私情を含めた提案だったため、その点で強気に出ることができないのだ。どう話が転がっても、彼女がやりたいと言ったからという結論になってしまう。
「はあ、なるほど。正直に言えば、職員会議に出したとしても却下の可能性が高い。というか、ほぼ却下だ」
「はい。それでもいいです。私が何としてでもやると伝えてください」
「……そこまで言うのならば、ダメ元で言ってみよう」
「!! ありがとうございます!」
こうして報告会は終わりとなった。半ば無理やりに桜並木の件を押し通すことになったが、一先ず一件落着といった感じだろうか。玲が悲しむ結果にならなくてよかったと、心から思う。
残りの時間は、先日終わらなかった書類の作業となる。他の生徒会メンバーは、通常の終了時刻までは全員出席していた。いつもならこの後秀也と玲が居残りで作業を続けるのだが、今日は違う。
「青山、今日は俺らも帰るから、居残りしなくていいよ」
「あーそうなの? じゃあお言葉に甘えて――」
普段から出席し、稀に居残りにも付き合ってくれている青山に、今日は帰るように促す。
なぜ今日は終了時刻で帰るのかというと、この後玲とご飯を食べに行く約束をしていた。
今日の昼休みに、秀也が誘ってみたのだ。少し相談したい内容があったため、じっくり話す場を設けたのだ。ただし、彼女の家は相当厳しく、夜ご飯を一緒にとることすら断られてしまうかもという懸念があった。けれど今日は玲の母親の帰宅時間が遅いと言っていたため、実行することができる。
「どこに行くつもりとか、決めてる?」
「ゆっくり話せる場所がいいから、無難にファミレスがいいかなって。どう?」
「いいと思う」
そうしてこれから向かう場所を決め、歩き始める。相談したい内容はファミレスに着いてから話したいため、今は他愛もないことをひたすら話す。今日結果を配られた模擬試験の話だったり、生徒会の話だったり。
びっくりするほど話題には尽きず、歩いている間無言になることはなかった。今日の放課後に、気まずい瞬間は訪れたけれど、それは二人の関係が崩れたわけではなく、話題の問題。こういう楽しい会話を続けると、やはり彼女といるのは楽しいと実感することができる。
ファミレスに着き、二人はそれぞれの食べたいものを注文する。秀也はハンバーグで玲はドリア。しかもここは全て機械で完結していて、注文も食べ物の運搬も全て機械が行っているのだ。だから席についている間は、店員に話を聞かれることもない。そういった面では、真剣な話をしやすい場所となっている。
タッチパネルで注文をし終えて数秒後、早速といった感じで、秀也は話し始めた。
「――で、昼休みに言った相談なんだけどさ」
「うん」
「俺の友達の和哉のことで」
相談したかったのは、今朝の和哉の件。良くないことが連鎖している彼を、このまま放っておくのはダメだと感じたのだ。もしあと一つでも心に傷を負ってしまえば、本当に追想転移し兼ねない。そう考えてしまった秀也は、何かできることはないかと思考を巡らせ、一先ず誰かに悩みを打ち明けることにした。
和哉と話したことを一通り玲に話し、状況を伝えた。追想転移させたくないという部分だけは隠したけれど。
「それでさ、何かできることないかなって思って。でも正直さ、勉強の方は本人の努力次第だったり、家庭の問題の部分あるから、あんまり言ってあげられることもないし。かと言ってバスケ部のスタメンの話はさ、俺スポーツとか全然わからんからって感じで、できること思いつかないんだよ」
「……なるほど」
「それで聞きたかったのが、解決法ってより、玲は上手くいかなかった時にどうしてるのかを聞きたいんだよ」
いくら優秀な玲だからといって、何とかしてくださいとお願いするのは無理な話。突然持ち出された話題に、全てを一度に解決できるような策など思いつくはずもない。
だからこそ、彼女の普段していることを聞きたかったのだ。玲であれば、自分の失態等もコントロールしていると思っている。最悪、有益な情報を得ることができなくても、悩みを吐き出すことはできた。既にそれだけで大分気は楽になっている。
少し悩んだ素振りを見せ、いかにも真剣に答えてくれた。
「私は、特に意識していることは少ないかも。ミスしちゃったりすることはもちろんあるけど、何が悪かったのかなーって振り返ってみるくらいかな……」
「なるほど……」
「今回の件に関しては、あまり参考にならないかもだね、ごめん」
「いや、そんなことはない」
でも実際、和哉に話せるようなことではないのは確かかもしれない。一度自分の行いを振り返ってみようと助言したとする、けれどそれは思いつきそうなことでもあり、和哉を不快にさせてしまうものの一つかもしれない。そう思ってしまうと、なかなかこれは伝えにくいと感じてしまう。
その後玲が、何か思い出したかのように話し出した。
「でもね、意識してるっていうか、考えないようにしてることはあるかも」
「マジ? それ教えてほしい」
「うん。あのね、ちょっと言葉にするのが難しいんだけど……、ミスとか失敗を取り戻そうとは思わないようにしてるの」
すぐに理解できるものではなかった。言っていることはわかるけれど、それが何に繋がるのかがイマイチというか。
「今回みたいな成績の話を例にすると、模試の点数が思い切り下がったら、それを目標の点数まで上げる努力をするでしょ?」
「うん。でもそれは普通じゃないか?」
「普通のことなんだけど、上を目指しすぎると他が見えなくなっちゃう時があるの。だから、より改善して良い点数を目指すってよりは、いつも通りまで戻すみたいなイメージ」
「なるほど」
少し納得できた。確かに和哉は、学力を親から部活を続けていいと言われるまで上げ続け、部活もスタメンに戻るまで努力を続けるだろう。落ちたあまりのショックで焦りを感じ、目標点を上げすぎる。そうなってしまえば、がむしゃらに努力し続けるのみになってしまう。玲はそういうことを言っているのだろう。
だからこそ、目標点を上げすぎずに、いつも通りに戻すと玲は言っているのだ。
「結構参考になったかも」
「ほんと? ならよかった」
安心したかのような笑みを見せた。そもそも話を聞いてくれている時点で助かっているのだから、不安に思うこともないというのに。
それにしても、彼女の案は秀也にとっては的確だった。斜め上からの発想のようなもので、思いつきもしなかった。具体的な行動ばかり考えていたから、意識から変えるという案が魅力的だった。これを軸にして和哉を少しでも助けられたらなと思う。
「それにしても、よくそんなこと思いつくもんだな。玲でも苦労することあるんだな」
「そりゃあるよ。秀ちゃんは私を何だと思ってるの?」
「別にそういう意味で言ってるわけじゃないんだけど、一つや二つじゃないんだなって思って。ちなみに、今何かに悩んでたり、苦しんでたりする?」
「んー、今は大丈夫かな。大きな悩み事はないよ」
「そっか。ならよかったよ」
彼女なら、悩みがあっても大丈夫と言ってしまうのだと、何となく思っている。けれど特に苦しみを抱えているようには見えないため、その大丈夫の言葉は本当なのだと思う。強いて言うのであれば、今日の生徒会が始まる前の件で、何かあるのだろう程度の話。もしそれが玲に悪影響を及ぼすのならば、その時は秀也が取っ払ってやろうと思う。
玲の協力も得て、和哉の件はなんとかなる気がしてきた。やはり心強い味方がいるというのは安心できるものだ。
数日後。
玲とファミレスで食事した翌日に、秀也は和哉に得たことを教え、追い込み過ぎる必要はないと言った。週末には遊びに行き、リフレッシュにも付き合った。他校の彼女とのスケジュールが合わなく、慰めてもらうことができなかったらしく、その代行を秀也が務めることとなったのだ。少し不本意な部分はあったけれど、和哉のためになると考えれば嫌な気はしなかった。
そんな日々を過ごしながら、今日は何をしているかというと、公安の仕事。昼休みに学校を抜け出し、通常通りの仕事を終えたところだ。
時刻を確認すると、今から学校へ戻っても生徒会の終了時刻くらいに着いてしまうくらいの時間だった。けれど居残りで作業することが多いため、もしかしたら間に合うかもしれない。そう思って急いで学校へ向かった。
急いでバイクを走らせ、学校へ着くとちょうど終了時刻の五時となっていた。生徒会室へ向かい、まだ中に誰か残っているかと思っていた時だった。
「それじゃ、失礼しまーす」
「失礼します」
生徒会メンバーが生徒会室から出てきた。今日は出席者が多く、普段出席している青山以外全員だったらしい。
珍しいこともあるのだと思っていると、皆の先に玲が一人で生徒会室に残っていたのが見えた。ということは今日も居残りの作業があるのではないだろうか。人数が多いため、今日は居残りなしだと勝手に思っていたがそうではないらしい。
つまりこの人達は玲一人に任せようとしているということだろうか。
全然出席すらしないこいつらは終了時間で帰り、毎日出席している玲が居残りで作業をする。逆ではないだろうか。しかも表情から察するに、そのことを何とも思っていないよう。
もう、耐えられなかった。
「お前ら、ちょっと待て」
この手段は最後にしようとしていたのに、もう理性が許してくれなかった。
生徒会のメンバーはたった一言だけで秀也の怒気に恐れ、全員黙り込んだ。
「このまま帰ろうとしてんのか? いいご身分だな。玲はいつも居残りで作業してくれてるってのに、お前たちは何も思わないわけ?」
この場に青山がいなくてよかったと思う。正直に言えば、生徒会のこれからを思って言っているというよりも、玲のために怒りを見せている部分はあった。
だってそうだろう。一度も欠席することがなかった玲が、全て引き受けて仕事をしてくれているのだ。秀也も居残りで作業をしていた方だが、負担ははるかに違う。だから、そんなことも知らずにへらへらしている彼らをどうしても許せなかったのだ。
「生徒会に立候補して、決選投票で勝ち上がったやつらがこんなザマだったとは。あれか、内申だけほしくて生徒会入った感じか」
傍から見たらただの誹謗中傷になるだろう。怒りというよりただ文句をぶつけているだけ。正義なんて言葉は似合わない。でも、それでもよかった。これで少しでも玲の負担が減ってくれるのなら、悪にでもなってやる。それくらいの覚悟が秀也にはある。
「これからもサボり続けるんなら別にいいけど、そうなったらちゃんと生徒会やめますって言った方がいいぞ。それと玲にちゃんと感謝しておけ。今までお前らが生徒会参加してないこと、担当の先生に一切報告してないんだから」
玲は生徒会の出席率に問題を感じながらも、一切その情報を漏らさなかった。一番負担を背負っているはずなのに、どこまでも優しいから彼らにまで優しくしてしまう。
「生徒会に入ったんなら、仕事はきちんと最後までやり遂げた方がいい。明日から期待してるよ」
捨て台詞のようにそれだけ言って、生徒会室に入った。彼らはその場を立ち去ったようだったけれど、正直秀也の言葉がちゃんと届いているのか心配である。あそこまで素行が悪かったのだから、怒りも響いていないかもしれない。もし響いていなければ、そこまでだと割り切ってしまおう。
今の一連の流れを見ていた玲が話しかけてきた。
「あそこまでしてよかったの? 秀ちゃんが悪く見えちゃうよ」
と言ってきた。彼女は必ず他人の心配を先にする。自分のための行動は二の次三の次で、今の話の中でも秀也の立場を考えてくれていたようだ。
「いいんだよ。俺の立場なんかより、生徒会をちゃんと動かすことの方が大事だ。これくらい気にすんな」
「……ありがとう」
最後のお礼は、玲のための行動だったことがバレた上でのありがとうに聞こえた。
生徒会の居残り作業を終え、二人で家に帰る。なんだかいつもより疲れた一日で、夕飯の前にベッドに横たわる。
目を瞑り、明日からの生徒会が良くなることを祈りながらウトウトしていた時だった。ズボンのポケットに入れていたスマホが鳴り出す。和哉からの着信だった。
「……もしもし?」
『……シュウ、俺、もうダメかもしんねえわ』
声が、覇気が弱すぎる。ここまでしなしなという表現が適切な状態は今までいなかった。確実に、和哉の身に何かが起こったのだとわかる。
「カズ、どうした。なにがあった」
『沙織が……浮気してた』
「っ!?」
沙織というのは、和哉の恋人。他校の生徒だと聞いていて、秀也は一度も会ったことがない人であった。
浮気と言っていた。和哉の彼女が、浮気をした。この弱気はそこから来ているのだと瞬時に理解する。
「ま、待て。なんでそうなった。いきなりなんでそんなことになってるんだよ。今度慰めてもらうとか言ってたじゃないか」
『今さっき帰ってる時に、街でばったり会ったんだよ。……別の男を連れて。どういうことかを聞いたらさ、浮気してるって言われて。しかも本命は俺じゃなかった……』
「……カズ」
和哉は何も悪くない。悪いのは全て恋人の沙織だ。でもこういった話は、どちらが悪いとかの問題ではない。状況を整理するよりも、ショックが圧倒的に勝る。
『それにさ、やっぱり俺バスケやめないといけないかもしんない。母親に見せたら、やめること考えとけって言われたんだ。一番大好きなものもなくなって、拠り所もなくなった。なあ、シュウ……』
その次に続く言葉がわかってしまう。誰だって気付く。こんな精神の人が耐えられるわけがない。
『追想転移しちゃ、ダメかな……?』
予想は外れてくれなかった。
「ダメだ! それだけは絶対にダメだ、カズ!」
『でもさ――』
「うるせえ。でもとか言うんじゃねぇ。追想転移だけはとにかくダメなんだよ。そんなこと俺が絶対に許さない!」
家中に響くくらい叫んだ。無理やりにでもこの声が届くように、余分なほど声を荒げて話す。いや別に意図してこんな話し方をしているわけじゃない、とにかく止めなければならないのだ。なんとしてでも、和哉を追想転移してはならない。
「おいカズ、今どこにいる」
『家の近くの公園』
「今すぐ行くからそこで待ってろ。わかったか、絶対そこから動くなよ! もし一歩でも出てたら友達やめてやるから覚悟しておけ!」
勢いよく通話を切り、すぐに家を出ていく。
とにかく走った。和哉が動き出してしまう前に、彼の下に辿り着く必要がある。
まだ何とかなるかもしれない。ここで和哉を説得して踏みとどまらせれば、救うことができるかもしれない。小さな望みかもしれないが、それだけが頼りだった。
一体どれだけ走ったかはわからない。もう目の前に、和哉がいるはずの公園がある。もう少しだと走る速度を上げ、全速力で向かった。
夜のライトが付くその公園では、人の気配が全くしなかった。そんな中、奥の方のベンチにぽつんと一人で座っている人がいた。和哉だ。
間に合った。和哉が追想転移を決心する前に、辿り着くことができたのだ。
「はぁ……、はぁ……。……カズ、来たぞ」
あまりの疲労に、膝に手をついた状態でしか立つことができなかった。でもここで倒れるわけにもいかない。なにせ本題はここからなのだ。和哉の前に来ることがゴールではない。
「……シュウ」
「カズ、追想転移したいか? 人生やり直したいって、本当に思うか?」
「……ああ。もう、何も残されてないんなら、やり直した方がいいだろ。こんな人生諦めちまった方が楽になれる」
秀也が向かっている間に、少し考え直してくれているかと期待したが、まだ頭は冷えていないようだった。
「そうか。カズが追想転移したいって、本気で思ってるなら、俺はそれを全力で止めなくちゃならない」
「……なんでだよ。俺なんか放っておけばいいだろ。ここまで疲れただろ、もう会うことのないやつのためにそこまで頑張んなくていい」
もう、彼の頭は壊れてしまったのかと思った。秀也が諦めれば、楽になると思っているのだろうか。何もかもが収束すると、本気でそう思っているのだろうか。
「……カズ、お前が追想転移して誰かが楽になると思ってるのか? それは大間違いだ。そんなことは絶対にない」
「なんでそんなことが言え――」
「今までたくさん見てきたからだ。追想転移した人とその家族の姿を、たっくさん見てきた。俺が見てきた中で、楽にも幸せにもなった人は一人もいなかったぞ」
「なんで。シュウはそんなこと知ってるんだよ」
「……俺が、公安で働いてるからだ」
秘密にしなければならないことを話す。禁止とされている行為だが、こうまでしないと彼は止まらないだろう。
「俺は公安で働いてるから、たくさんの人を見てきた。人生に絶望して、やり直した人たちの末路を見てきたよ。その姿を家族の方が見てさ、全員同じ行動をするんだ。それが何かわかるか、カズ?」
「……わからない」
「泣くんだよ。自分の子どもの記憶がなくなってしまったことに、辛い思いをさせていたことに気付けなくて涙を流すんだよ。だから、カズを大事に思っている人が必ず悲しむ。楽になるのはお前だけだ」
かなりきつい言葉を言ってしまったかもしれない。それでも、どれだけ追想転移が悲しいものなのかを知ってほしいのだ。
「でも、俺を大事に思ってくれる人なんているかな? 親は俺を家計を支える金づるとしか思ってない。誰が俺をちゃんと見てくれているかな」
声に覇気はまだ戻っていない。心を閉ざし続けている。一体どうすれば和哉に元気を与えられるかなんてわからないけれど、それでも話し続けようと思った。
それに、彼は大きな勘違いをしている。
「馬鹿かよ。お前を大事に思ってるやつ、俺は知ってるぞ」
「はっ、いるわけないだろ。どうせ名前なんて出てこないだろ――」
「俺だよ、俺。水上秀也」
「………」
なぜ気付かないのか不思議なくらいだった。
「あのな、これだけ長いこと一緒にいて、大事じゃなくなるわけないだろ。一番仲いい友達なのに、大事じゃないなんてあり得ん。逆にカズは、俺がもし死んだらどうだ? ショックじゃないのか?」
「……それは、確かに嫌だよ」
「だろ? それと同じなんだよ。カズの中で俺は既に大切な人になってる。それと同じように、俺の中でもカズは大切な人なんだよ」
「………」
和哉の表情が少しだけ変わる。先程まで影しかなかったその顔が、今では面を食らったかのように目が大きく開いている。
「それにさ、記憶も全部なくなるんだぞ? 嫌な記憶だけじゃなくて、楽しかったものも全部。俺と遊んだ思い出、部活の時の思い出、インターハイの思い出。全部なくなってもいいのか?」
「それは……嫌だな」
「だろ? だったら、追想転移なんてゴミみたいなこと考えるな」
もう、言いたいことは全て出し尽くした。もしこれでも、和哉が通移送転移したいと思うのならば、もう止める術はない。実際、追想転移しようとする人を物理的に止めるのは権利の侵害になってしまうため、本当にできることは何もない。だからあとは和哉次第。
少し黙り込んだ後、意を決したかのように和哉は立ち上がり、秀也の目を真っすぐに見て言った。
「わかった。俺やめるよ、追想転移。シュウの言葉を信じて、もう少しだけ頑張ってみる」
彼の口から出てきた言葉は、秀也がもっとも望んでいたものだった。
「おう。安心したよ」
「……それにしても、シュウが公安で働いてたとはな。なあ、この際だから聞いていいか? なんでシュウが公安に入ったか」
「わかったよ」
そうして過去の出来事を話し始めた。
約六年前。
玲が家に来なくなった。秀也が無理やり遊びになんて連れて行くから、玲の母親に目を付けられ、ウチに預けることがなくなったのだ。
この前、玲の母親が実際秀也の家に来て、鬼のような険相で文句を言ってきた。確かに怖かったけれど、秀也から見た玲の母親は、ただ間違った人間というだけだった。そんな人になんと言われようと、何も気にならない。
そんなことよりも、玲が来なくなったことの方が問題だった。毎日が暇で、退屈すぎる。今まではゲームをしていれば楽しかったのに、今では何も楽しくない。
学校でもなぜか玲と話すことができなかった。話しかけに行っても、何故か避けられてしまう。だからもう話すことはないのかと寂しい気持ちでいっぱいになる。
やはり、秀也がいけなかったのだ。あまりに軽率な行動だった。玲のためを思っての行動のつもりだったが、結局彼女のためにも、自分自身も辛くしているだけ。ただ間違えたのだ。
勉強の邪魔をする人は排除する、そういった考えを玲の母親は持っていそうだった。だからこれが当然の結果なのだろう。
でも、一つのことが頭によぎる。レベルの低い人と関わってはいけないと玲は言われていた。でも裏を返せば、レベルが高ければ関わってもいいということになる。
軽率な行動をしてしまった秀也は、レベルが低い。つまり、もっと勉強をしてレベルの高い人になれば、再び玲と話すことができるのではと思う。
玲の母親に認められる人になれば、また楽しい日常が続くかもしれない。そう思って、その日からずっと勉強を続けた。いつか訪れるだろう日を待ち遠しく思いながら。
約二年後。
中学生生活にも少し慣れてきた。初めてのテストは、学年で二位だった。もちろん一位は玲で、このまま玲と近い順位を取り続ければ、目的は達成されると考えた。
しかし懸念点が一つある。秀也は子どもである。いくら学力を伸ばしても、成長できても子どもとしか見られない。それでは玲の母親に認められないと思ってしまった。
だから、学力以外のことで、何でもいいから変わりたかった。誰もが認めてくれるような、凄い功績や立場が欲しかった。子どもでは成し遂げるのが難しいこと、それを探し続ける。
けれどすぐになんて見つかるはずもない。そもそも中学生では選択の幅が狭すぎるし、やれることも少ない。賞を取ると言っても何から手を付ければいいのか理解できない。
とにかく変わりたかったのだ。なんとしてでも、玲の母親から認められる人間となるために。
そうして半年が過ぎたころだった。秀也の家で一つの事件が起きる。
ある日、就職して一人立ちをするために家を出た秀也の兄――海人が帰ってきた。隣には知らない女性を連れて。
秀也の母と、その知らない女性が玄関で何かを話していた。あまりに長い話だったから、玄関の方へ行って盗み聞きをしてしまった。
そこで聞こえてきた言葉は、追想転移。海人が追想転移をしたようだった。
テレビで何度か見たことがあった言葉。確か、記憶を消去し、人を入れ替えてしまうシステムではなかったか。つまり、兄の海人の記憶は何もない。秀也のことなんて覚えていないのだ。
追想転移をする人は、とても辛い思いをした人だと母から聞いたことがあった。つまり海人は余程の辛いことがあったのだ。そうして追想転移に至った……ということなのだろう。
幼い頃の秀也には、それがどれだけ大きなことなのかはわからなかったが、記憶を失った海人は笑えていなかった。普段はいつも笑顔の海人が、一度も笑顔を見せることはなく、辛そうだった。
母も毎晩のように涙を流し、後悔している様。秀也は数日間かけて、追想転移が悲しいものなのだと理解した。追想転移した人と周りの人すら苦しめる。そんなものがただ許せなかった。
しかしそれと同時に頭によぎったのは、玲の存在だった。秀也と一緒にいた時の玲は、ずっと苦しそうだった。母親に怯え続け、勉強し続けるしかない状況だった。
もし、玲も追想転移してしまいそうなくらい苦しくなってしまうのなら、助けたいと思った。絶対に追想転移させては行けないと思った。
その瞬間、秀也の中の何かが繋がり、最後には公安で働くことを決めた。玲を追想転移させないために、できることは小さくても何でもやる。秀也は、高峰玲を追想転移させたくなくて、公安に入ったのだ。
そうして今に至る。
「こんな感じだよ。なんとなくわかったか?」
和哉に、公安に入った経緯を全て話した。
「……ああ。わかったよ。だから、あんなに高峰を気にかけていたんだな」
「そうだ。俺は、何があっても玲を守りたい」
もちろん、他の人も追想転移させたくない気持ちも嘘ではない。追想転移というものすら批判しているのだから、なるべく多くの人を助けたいと考えている。
でも玲だけは別格だ。彼女を救えないのなら、今まで頑張ってきた意味がない。やっと玲と話せるところまでは来たけれど、それが彼女を救うことには繋がらない。この先何かあれば、秀也は真っ先に駆け付け、その絶望を払拭しなければならないのだ。
「なるほどな。でもよ、シュウ。お前がそこまでするってことは、ただの親切じゃないだろ。優しいだけじゃそこまではしない」
その通りである。公安に勤めることを決めた時は気付いていなかったけれど、今なら断言できる。
「ああ、好きで悪いかよ」
秀也は玲に恋をしている。それが何よりの理由なのだ。
十二月半ば。
この前、和哉が追想転移することの阻止に成功した。それ以来、秀也は上機嫌だった。
自分の身近にいる人、特に失いたくない人をこの手で救うことができた。それが何より嬉しかった。
今までずっと公安に勤めてきたが、その成果というものはなかったように思える。追想転移利用者を減らそうと努力してきたが、そもそも減らすための方法もわからずに、ずっと手付かずだった。仕事をするたび、自分への戒めかのように言い聞かせ、縛り上げていた。
だからこそ、今回和哉を追想転移させなかったことは、秀也にとってとても大きな一歩であった。これほど、自分が成長できたと実感したことはなかったかもしれない。
そんな秀也は今どうしているかというと、自分の家で玲と二人で勉強している。一体なぜ、こうなったのだろうか。
つい先日、突然玲から二人で勉強したいと言われた。それも秀也の家で。
いきなりのことで、何が何だかわからなかったが、二人が小学生だった頃――玲が秀也の家に来ていた頃を彼女が思い出したかった、そんな要素を感じる提案だった。
もちろん断る理由なんかなく、あっさりと受け入れている訳だが、やはりあの頃と同じようには振る舞えない。妙な緊張感があった。玲は前から容姿が整っていたが、高校生になった今では磨きがかかっている。
女子と二人きりという空間を改めて考えてしまうと、玲を意識してしまう。余計に昔と同じようには出来ない。
「秀ちゃんって、ずっと学年二位をキープしてるよね? 普段から勉強してるの?」
秀也の気も知らないで、玲はそんなことを聞いてくる。
返すのに一瞬あたふたしそうになったが、冷静を装って話す。
「玲と毎日勉強してた時に習慣付いてな。自分から成績上げようとはしてないけど、この習慣続けてたらこうなった」
嘘と事実を織り交ぜた。
勉強の習慣がついたというのは本当で、玲を秀也の家で預かっていた時、過ごす時間のほとんどが勉強だった。小学生の簡単な範囲とはいえ、習慣になってしまうとその後も同じ行動を自然ととるようになる。
特に二人は復習だけでなく予習もやっていたため、内容には尽きなかった。
嘘というのは、自分から成績を上げようとしていないという部分だ。
同じく小学生の時、秀也は玲に頭がいい人になると約束した。これは玲の母親が玲に対して、レベルの低い人と関わらない方がいいと言ったことが発端だ。恐らくここでのレベルとは、能力のことを示すのだろう。
レベルの低い人と関わってはいけないのならば、レベルの高い人とは関わってもよいということになる。そうであれば、秀也自身がその人になればいいと思ったのだ。
ある時期から一切話さなくなった間柄でも、その努力は欠かさず続けていた。いつ、玲と再び話すようになってもいいように。
「え、あれからずっと? 学年二位になるのも当たり前だね」
などと言ってくる。
「そんなこと言って、玲は断トツの一位だろ? どんだけ勉強してるんだか」
「知っての通り、空き時間ずっとだよ。休み時間も、放課後も、家でも全部」
えへんとでも言いたげな様子だった。
本当に変わっていない。これで目指している夢というのが、教師というのだから、努力の量を間違えているのではないかと思う。もちろん教師になるためにも努力は必要だが、もっと気を楽にしてもいいのではないだろうか。
「ずっとそうだよな。俺なら絶対すぐにやめるよ。まぁそう思って連れ出して迷惑かけたのは……俺なんだけどな」
口から言葉を発している途中で、なぜか無性に罪悪感が出てきた。二人で昔を思い出していたからだろうか、自然とあの日のことが頭に浮かんでくる。
玲が秀也の家に来なくなった理由。秀也が無理やり遊びに連れ出したから、玲の母に目をつけられて玲は来なくなった。二人が話さなくなった理由まではわからなかったけれど、彼女が家に来なくなった理由だけは当時すぐに理解できた。
だからこそ、玲には悪いことをしたと思っている。秀也自身が、彼女ともっと話したかったという気持ちも含んではいるが、迷惑をかけたのは間違いなかっただろう。
この前のファミレスでの食事の時も、罪悪感は頭の片隅に残っていた。あの時は相談することを念頭に置いていたため、玲の家庭の事情を浅く考えていたけれど、正直な話良くなかったのではないかと後から考えたことも。
けれど彼女は、
「そんなことない。迷惑なんかじゃなかったよ。私は思いっきり楽しんでたし、今でも素敵な思い出だよ」
と、穏やかな笑みを浮かべてそう言った。
「そう? ――なら、よかったよ」
謝りの言葉は口に出さなかった。お互い、過去のことだと割り切るのが正解だ。これ以上掘り返す必要もない。
どちらが悪いかという話ではない、ということで終わらせるのが一番平和だろう。心の中の罪悪感は全然消えてくれないけれど。
そのような会話を挟みながら、勉強を進めていく。
学年トップ一位と二位がこの場にいるため、お互いに取り組む問題はかなり難易度の高いものだった。時々秀也が問題に詰まった時は、玲に助けを求めた。
小学生の頃に思っていたことだが、彼女は人に教えるのが非常に上手なのだ。わからないところを把握する能力が異常に早く、秀也に合った解決策を提示してくれる。
玲が志している教師という職業には、これ以上ないほど適している能力だった。
そんな矢先、
「秀ちゃん、聞いてほしいことがあるの」
と、少し落ち着いた声色で玲が話し始める。
「どうした?」
なぜか嫌な予感がした。彼女の周りの空気だけぴりぴりとしていて、どんよりとひどく重たい。そう感じる。
「実は私……、来年から短期留学に行くことになったの」
「は? 留学?」
思いもよらない単語が出てきて、素っ頓狂な声が出た。
「うん。お母さんが、行った方がいいって」
「え、教師になるのに留学って必要ないよね? それとも、ただの経験的な?」
そう聞くと、玲は途端にバツが悪そうな表情を浮かべた。口を開くまで大分時間がかかり、その後に出てくる言葉が何なのか考える時間まで与えられるほど。
「そういえば、先生になりたいって言ったことあったっけ。それはね、やめたの。お母さんに勧められた通り、弁護士になるから」
「……は?」
秀也がこの瞬間待っていた言葉は、そんなものだったのだろうか。
何も納得できなかった。秀也自身、本当に彼女は教師に向いていると思っている。小学生のころ、玲は親の指示ですべて動かされていて、目指していた弁護士も親から勧められたと言っていた。いや、あれは命令や脅迫の類いだ。
しかし今は違うと言う。先生になりたいと言ったあの時の表情、あの表情は一点の曇りもなかったように見えた。玲の心からの言葉だと思った。それは勘違い……いや、嘘だったのだろうか。
あんなに純粋な笑顔を浮かべていたから、これからの玲は母親の言いなりばっかりではなくなると、安心していたというのに。
「なんで、なんでやめたんだよ! 言ってただろ、先生になりたいって。玲に合ってると思うんだよ、人に教える仕事は」
「うーん、あの時は確かに思ってたんだけど、今では弁護士も悪くないかなって。お母さんもそれを望んでるし、私としても自信がつく仕事だからね」
「……玲は、本当にそれでいいのか?」
「うん。これが一番いいよ」
即答だった。もう決まりきったことと言っているような気がして、これ以上深堀り出来なかった。
けれど、何かが引っかかる。彼女が問題ないと言っているけれど、おいそれとは見逃せない。彼女がまだ、母親からの呪縛から解放されていない気がして。
「でね、私が話したかったのは留学のことなんだけど」
その話はここで終わりという雰囲気を出し、少し強引に話を戻す玲。
「来年……って言っても二月からなんだけど、そこから半年間留学に行くんだよね。だからその間の生徒会を秀ちゃんに任せたいの」
「あ、ああ。それはもちろん」
そういえばと思い出す。以前彼女が「まだ正式には決まっていないことだから」と言って教えてくれなかったことがあった。教室で玲と担任が二人で話していたことを、たまたま秀也が聞いてしまった時。
確か担任は寂しくなる、みたいなことを言っていて、何のことなのかさっぱりだった。しかしそれが留学の話だったとすれば、全てがつながる。ということは、留学の件が正式に決まったということなのだろうか。
「それとね? 来週のクリスマスにデートしてほしいんだけど」
「それももちろん……じゃないな。勢いですごいこと言い出すじゃん」
危うく流されて了承するところだった。
一度整理しよう。さっきまで玲の夢の話をしていて、そこから留学の話に戻された。なかなか規模の大きい話だったから、頭の中が留学ということでいっぱいになっていた。
だから会話も多少雑になっていたせいで、突然彼女が言い出したデートという言葉に、反応できなかった。
果たして、どういうつもりなのだろうか。
「なんで急にそんなことを?」
「留学行く前にさ、こっちで思いで作りたいんだよね。せっかくのクリスマスだし、遊びたいなーと思って」
妙に納得できる内容。思い出作りと言われてしまっては、断るものも断わりにくくなってしまう。
「でもさ……」
「今回はお母さんの目とか気にしなくていいよ? 流石にクリスマスだからお母さんも家にいるけど、一日くらいは駄々をこねてみせるから」
「じゃあデートするか」
「よろしい」
自分でもびっくりするほど、あっさりと約束してしまった。クリスマスに遊ぶこと自体はいいのだが、デートという言葉に引っ掛かりを覚える。
玲はあえてデートという言葉を選んでいるが、そのような意味ではない……はず。
それに、やはり思い出作りという点に弱かった。それならば玲のためにしてあげたいという感情が勝ってしまう。
玲とクリスマスにデート。正直に言えば、魅力的すぎる話だった。誰かと遊ぶことはあっても、こういったクリスマスに外に出ることは今までなかったから。まだ一週間あるというのに、楽しみで仕方がなかった。
翌日。以前と同様に、昼休みに公安からの着信が入っていた。仕事の連絡だ。
学校を早退し、すぐに公安に向かう。
和哉を救えたことといい、クリスマスのデートの約束といい、秀也にとって良いことが連続で起こっていた。だから足取りが妙に軽い。
いつも通り窓口で自分の名前を言い、資料を受け取った。その資料に目を通す。そこまでは、いつも通りのはずだった。
その内容を見た瞬間、先ほどまでの浮ついた気持ちは遠く彼方へ消えていき、焦りと困惑と自責の念で埋め尽くされる。
そんなはずはないと、いつまでたっても信じ切ることができない。そんな素振りは見えなかったし、悩みがあるようにも見えなかった。だから何故なのだと虚空に向かって問い続ける。
その資料には、今日学校を欠席していたはずの人物、村上連の名前が書いてあったのだ。
ついに、クラスメイトから追想転移の利用者が出てしまった。
気付けなかった。村上がそんな事態になっていることを。彼が人生をやり直したいと思うほどに、絶望してしまっていたことに。
何が皆を救うだ。全然自分の力が行き届いていないではないか。油断しているつもりはなかったけれど、結果としてクラスメイトから被害者が出てしまっている。和哉を救って上機嫌になるのではなく、より努力することが必要だったのではないのか。完全に秀也の責任である。
村上が追想転移してしまったということがあまりにショックで、変わってしまった彼を見ることに怖気づく。自分の失態を目の当たりにしたくなかった。
それでも、守れなかった責任が秀也にはある。今日のこれは仕事としてではなく、一つの使命として果たさなければいけない。
恐怖をかなぐり捨て、自分の過ちを受け入れる覚悟をする。
転移室の扉を開け、中のカプセルから出てくる村上を待つ。
そこで見たのは、
「おじさん、誰?」
高校生とは程遠い、子どもの姿だった。
追想転移というシステムは、稀にイレギュラーが起こる。よく起こるのは、性格が元のものと大きく変わってしまうこと。それはよく見るのだが、今回起こっているのは年齢の変化のようだ。
年齢の変化というケースは今まで経験したことがない。稀に起こるということを耳に挟んだだけ。それが村上の身に起きてしまっていた。
目の前の状況が、頭の中を乱す。
「俺、は……水上秀也。君の名前、言える、かな?」
「村上連」
名前が一致している。窓口でもらった資料を見ても、年齢は十七歳で、通っている学校は秀也と同じ。目の前にいる少年からも、秀也が知っている村上の面影を感じる。
色々なことを確認していくたび、村上に似ている誰かではないということが繋がっていく。村上蓮本人だということが、秀也の中で事実になっていく。
これは……流石にしんどいものがある。状況的な問題としてだけ見ると、彼自身の今後の生活や戸籍上の問題。けれどそれとは別に、クラスメイトとしての問題があった。
今後、彼は陽ノ森高等学校に登校することはない。もちろん、今目の前にいる村上が高校生になれば、陽ノ森高等学校に入学する可能性はある。けれどそれは未来の話。
同じ学園生活を共にすることはもうない、そう思うと、途端に胸がつらくなる。
これが守れなかった代償なのだろうか。改めて自分の無力さを痛感する。
仕事の通り村上を実家まで連れていき、親御さんに説明をする。今回は年齢が変わってしまっているため、より多くの時間を要した。
「村上さんの場合、年齢変動という個人差から、公安より特別支援金が出ます。詳しくは後日書類が郵送されますので、そちらをご覧ください」
「はい……ありがとうございました」
村上の母親は、心ここにあらずといった様子だった。会話もただ言葉を並べているだけ。
当然だ。突然息子の記憶がなくなり、年齢も変わってしまったと言われるだけ。冷静でいられる方がおかしい。他人の秀也でさえ、可哀想に思えてくるというのに。
ちなみに、追想転移後は服装も変化する。今回のケースで言えば、幼くなったからといって服が大きいままということではなく、ちゃんとその体に合った服を着ている。こことは違う、並行世界で過ごしていた服装を着ている。そのつり合いは取れているのだ。
見た目に相応しい、無邪気な表情をしている幼い村上を最後に見て、秀也はその場を立ち去った。心の中で、彼に謝罪と今までの感謝を告げた。直接言っても、伝わらないだろうから。
最後に見た村上の表情。あの表情は、今まで見たことがない類いのもの。それが、村上が変わってしまったという何よりの証拠で、改めてもう会うことはないと知らされた。
そう思うと、やはり追想転移というシステムは頼るべきではないと再び思う。確かに自殺よりはマシかもしれない。しかし、イレギュラーで様々なものが変化してしまうと、その人自身の面影がどんどんなくなっていってしまう。
外見も内面も変わってしまえば、それは同一人物だと言えないだろう。
そうなることを防ぐために、秀也は再び決意する。もう二度と、同じ学校から被害者を出さないと。
仕事を終え、急いで学校へ戻る。生徒会は既に始まっている時間だが、十分活動できる時間が残っている。
生徒会室の前まで着く。扉を開けようと取っ手に手をかけた瞬間、中から誰かの叫ぶような声が聞こえてきた。内容を聞き取るのは難しいけれど、声の判別だけは簡単だった。
それが誰か分かった瞬間、すぐに扉を開ける。
「なんとか出来ないんですか!? 必要な仕事があるなら私が全部やりますし、休日だって使います! だから、もう一度……」
「そういう問題じゃないんだ、高峰。これは学校の問題なんじゃなくて、この地域の問題なんだ。私や高峰が何と言おうと、変えられるものではないということだ。いい加減わかれ」
「……そんな」
中で話していたのは、玲と生徒会担当の先生。外にまで響いていた声は、玲のものだった。
玲はとても必死に嘆いていた。どうしても諦められないとでも言いそうな、少ししつこいくらいの反応。それが上手くいかずに終わってしまった結果、彼女はその場で跪いてしまった。
今の二人の会話だけではわからず、近くにいた青山に聞いてみることにした。
「……何の話?」
「会長が言ってた桜並木だよ。うちの学校から続いてる桜って、敷地外まで続いてるでしょ? それが、近くのショッピングモールくらいまで全部保護しようとしてて、そこまで行くと学校だけじゃどうにもできないって話。そもそも伐採される原因が、桜の肥大化だけじゃなくて、マンション建設のせいなんだって。建設の邪魔になっちゃうから保護することはできないって話を今してたの」
「……なるほど」
こればっかりは仕方ない。生徒会の定義はあくまで、学校内の改善・向上だ。校外のことになってしまうと、思うように活動することはできない。特にマンション建設がこの町で計画されているのであれば、その建設の妨げになる桜並木を伐採するのは普通のこと。伐採阻止はただの迷惑になってしまう。
さらに言えば、最終の決定権は市にある。あちら側がダメだと言い続ければ、ダメになってしまうもの。力は及ばないだろう。
生徒会活動の初日から、玲は桜並木を守りたいと言っていた。桜並木にこだわる理由は、皆も秀也も正直分からない。けれど、言い始めた際は一人でもやり遂げると宣言したほどで、意志というか信念を感じた。だから秀也はそれに賛成したのだ。
そうまでして彼女がやりたかったことが、実行できないと知った今、玲の心は折れてしまった、そういうことだろう。
こんなに気持ちが沈んでいる玲を見るのは初めてで、秀也自身も動揺してしまう。なんだか、これ以上見ていられなかった。基本的に失敗しない彼女が挫折する姿は、見るだけで苦しくなる。
それに、玲にはどうしても苦しい思いをしてほしくない。どうにかしようと、玲のもとへ行って言葉を掛ける。
「玲、今日はもう帰ろう。生徒会活動も今日は終わりにして、一回落ち着く時間を作ろう。今はそれが必要だよ」
「……うん」
聞いたことないくらい低い声で、どんよりしていた。全ての希望を失ったようだった。このままではまずいと感じ取る。
彼女の体を起こし、一緒に下校した。幸いなことに、家は隣同士だ。
下校している最中は、いつもの会話ができるような様子ではなかった。無言で気まずい空気が漂いながらも、秀也はどうにか玲の元気を取り戻す方法を考える。
この状況を打開できるほどの案は思いつかなかったけれど、少なくともこのまま彼女を一人にしてはいけないと感じた。玲の家は、よくない意味で普通でない。その普通じゃない家庭が、彼女を苦しめている原因だと秀也は思っている。
この絶望状態の最中、さらに悪化するような状況にしてはならない。せめて落ち着くまで、秀也の家に上げようと考えた。
その旨を伝えると、玲はこくんと首だけ振って、何も言わずについてきた。
ついこの前に玲を家に上げたが、その時のような楽しい空気は訪れない。構図は一緒でも、こうなった背景が違う。それだけでこんなにも重苦しくなるとは。
玲をソファーに座らせ、一先ずお茶を出す。あえて日常と同じ行動をすることによって、自分自身の心も落ち着かせようとした。今の彼女には何が必要か、何をするのが正解なのか。精一杯思考を巡らせる。
でも結局解決策なんて出てくるわけもなく、会話も始まらない。わざわざ明るい空気を作るというのも、違う気がした。
なのであれば、今の玲の具合に付き合うことにした。今まで聞きたかったことを単刀直入に聞きながら。
「玲、……なんで桜並木を守りたかったんだ?」
なんとなく避けていた疑問。でもこんな状況になってしまっては、知る権利くらいはあるはず。
しかし玲の反応は、凍り付くような冷笑を浮かべた後、
「守れないならもうどうでもいいよ」
恐ろしくぞっとするような声。この先へ踏み出すことを躊躇ってしまうくらいには、怯えてしまった。
「れ、玲らしくないじゃん。ここで引くような人じゃないだろ」
「だって、私が勝手に言い出したことだもん。それに、もうどうしようもないって言われちゃったら、諦めなきゃいけないんでしょ?」
なんだろう、言っていることは普通のことなのに、なぜか納得できなかった。どこかでいつもの玲と違うと思ってしまったから。以前ファミレスで一緒にご飯を食べた時、彼女は失敗したときは取り戻すと考えるのではなく、いつも通りに戻すことを考えていると言っていた。秀也からはその行動をしているようには見えなかったし、そもそも考えることすらできていないのではないだろうか。
玲は話し続けた。
「なんか自分の無力さに打ちひしがれたっていうか、私ひとりじゃ、結局何もできなかったんだなぁって」
まるで自分を嘲るかの様。
なんとなくわかった気がした。彼女は今、塞ぎこんでしまっている。塞ぎこんだ人は客観的に物事を見ることなんてできず、冷静な判断に欠けてしまう。
普段の彼女ならば、ショックな出来事さえも見事にコントロールしてしまうはず。だが、今回のような大きすぎる出来事に対して、心はやられてしまった。今はもう、秀也の言葉に耳を傾けることもできなさそうだ。
共感の言葉も、まだ諦めないで――などのような励ましの言葉も、今は無意味。
村上の件で先程まで落ち込んでいた秀也だから気付けた。今は誰かに言われても、自分を曲げることはない。秀也ががむしゃらに努力すると決意したように、玲はひたすら絶望してしまったのだ。
だから、せめて少しでも良くなるようにと、
「クリスマス」
別の話題を振ることにした。
「……え?」
「行きたいところ考えとけよ。俺もデートプラン考えておくけど、折角ならお互いの行きたいところの方がいいだろ」
桜並木の話をこれ以上してしまうと、さらに追い詰める恐れがある。ならば、彼女が楽しみにしていた話をすればいい。
「それはそうだけど、なんで今、急にその話を?」
「これ以上この話しても、玲が辛いだけだろ。俺は楽しい話がしたい」
「……秀ちゃんには勝てないや」
そこからは秀也が少し強引に話を振った。基本は秀也が話し続け、たまにする質問の返事を玲がするだけ。そんな中身もないような会話を、秀也の母が帰ってくるまでしていた。
さっきよりも玲に覇気が戻っていて、少しは役に立てたのかなと、そう思えた。
それに、村上の件の直後というのもあり、少しだけ彼女を救えたのかなと考える。そう思えただけで、自分の気も楽になった。
翌日。
朝のホームルームで、珍しく正装の担任が教室に入ってきたことにクラスメイト達が戸惑い、異様な空気で一日が始まった。
皆が気になっていた内容は担任から告げられる。村上が追想転移してしまったこと、年齢が変わってしまったことにより、このクラスの名簿から村上蓮の名前が除かれてしまうこと。
予期せぬ出来事に、クラス中が騒然としていた。驚き、悲しみ、嘆き、涙を流す人まで。感情のあらわれ方は人それぞれだったけれど、喜ぶ人は一人としていなかった。
授業中や休み時間も、クラスで笑いが起こることは少なく、皆何かを抱えながら過ごしていた。
昼休みには、和哉が話しかけてきて、
「シュウ、やっぱ俺間違ってたみたい。追想転移しようなんて、思うべきじゃなかった。今こうなって初めてわかったよ、自分が楽になるだけで皆が苦しむってこと」
と放った。
和哉も改めて思い知らされたようで、秀也としてはこの先和哉が追想転移しないということがわかって、一つだけ安心できることが増えた。
和哉の言う通りであるが、やはり追想転移はそれに伴う代償が大きい。自分が追想転移してしまった後は、皆がどう思うかなど知る術もない。だからこそ周りを大切に考え、一度踏みとどまってほしいと思う。
国が推奨する人生のやり直しは、本当に希望を与えるものなのか、それとも破滅へ導くのか。より信じがたいものへと変貌し、この場にいる全員が、この先の人生を考え直す瞬間となった。
約一週間後。
ようやくやってきたクリスマス当日。二人はイブではなく、二十五日の本命に約束をした。
今日は平日で、しかも午前午後ともに授業である。そのため、当然夕方からのデートで、当然格好は制服。
周囲から見た二人は、完璧なカップルだろう。クリスマスに男女二人が一緒にいる理由は一つしかない。けれど本当は違っていて、玲の思い出作りのために来ている。普段外出できない彼女の少ない機会だ、精一杯楽しませ、秀也自身も思い切り楽しもうと思う。
先日、お互いの行きたい場所へ行きたいと言ったのだが、玲を楽しませることばかり考えていたせいで、自分の行きたい場所など考えていなかった。
お互いデート慣れなどしていなく、どこへ行くか話し合った末、結局場所は近くのショッピングモールに決まる。ここならある程度の用件は済んでしまうし、利用しやすさは桁違いだった。
「秀ちゃん、ゲームコーナー行こ!」
ショッピングモールに着くなり、玲ははしゃいでそんなことを言い出す。デートってなんだっけと一度考えてみる秀也だったが、本人が行きたがっているので、早速そこに決定することに。
数分歩いて目的の場所に着く。
「本当に最初がゲームコーナーでよかったのか? 服とか見たりしても――」
「UFОキャッチャーやりたい」
はい。承知いたしました。
軽い足取りでUFОキャッチャーの台を見て回る玲を傍から見守りつつ、自分もよさそうな台を探す。
無邪気な笑顔を浮かべる彼女を見て、本当にゲームコーナーに来たかったのだと思い直す。もう少し歩けば、近くにより大きなゲームセンターがあったのにと思う秀也だったが、それとは別に過去のことを思い出した。
小学生の時に玲を無理やり連れ出した場所が、このショッピングモールで、その時もここでUFОキャッチャーをした。だから彼女はここを選んだのだろうか。そうだとしたら合点がいく。
それほど玲は、あの日の出来事を大切にしてくれていたのかもしれない。
「秀ちゃん、これやりたい!」
玲が目をつけていたのは、うさぎのぬいぐるみが景品になっている台。あの日に獲得したのも、うさぎのぬいぐるみではなかっただろうか。全く同じではないけれど、ほとんど同じと言っても間違えではない。本当にそれでいいのかと一瞬迷ってしまう。
けれどワクワクが溢れている玲を見て、ここで別の台を提案する気にもなれず、彼女の言う通りにすることを決めた。
「了解。まずは一回やってみようか」
機械に百円硬貨を一枚入れ、一回目の挑戦をする玲。前にやったのは、もう五年以上も前になる。それ以来彼女は遊んだりはしていないようだから、やはり苦戦しているようだった。
一回の挑戦では獲得出来ず、彼女は続けて挑戦した。台を変えないということは、このぬいぐるみが本当に欲しいのだろう。
何度も挑戦する玲を見て、秀也は微笑ましい光景を見ているような気がした。普段は見られない子どもらしい姿を見て、こんな一面もあるのだと知る。このまま見ているだけでも満足できそうだった。
しかし、失敗するたびに百円硬貨はどんどん消費されていき、すでに何枚入れたかわからなくなる。金銭的な意味でも時間的な意味でも、ここで大量消費するのはもったいないと判断し、
「玲、一回だけ俺がやってもいい?」
「? いいけど……」
ちょっとした手助けをすることにした。
同じように百円硬貨を一枚投入し、挑戦してみる。機械にある二つのボタンを順番通りに操作し、いいタイミングで離す。
「すごい! あともう少しで取れそうだよ!」
一段と明るい笑顔を咲かせる玲。
うまい具合に調整できたようだった。景品を獲得できそうになった瞬間の彼女の喜び方が、素直に可愛くて仕方がない。まだ取れていないというのに、その場で飛び跳ねそうになっている。逆に獲得してしまったら、どんな反応を示すのだろうか。
チャンスの到来に、玲がやる気満々で再度挑戦する。そして無事にぬいぐるみを落とすことができたのだ。
「やったー!!」
想定通りのはしゃぎ具合だった。普段は温厚な彼女だけれど、この瞬間だけは年相応の感情をさらけ出していて、心から楽しめているのが見て取れる。
幸運なことに、クリスマスにゲームコーナーを訪れる人はほとんどいなかったので、周囲の注目の的になるようなことはなかった。それもあって、こんなにはしゃいでるのだろうか。
「秀ちゃん、ありがと!」
「いやいや、結局玲が取ったんだから、お礼なんていらない」
「それでもだよ」
こんなにも喜んでいる彼女の姿を見て、もはや謙遜すらどうでもよくなってきていた。こんな小さな幸せで、こんなにも喜んでもらえるのならば、いつでも与えるというのに。
心からの笑顔を咲かせている玲を見て、この笑顔がこの後も続くようにと願うのだった。
その後は、いくつかのゲーム機で遊んだ後、ショッピングモールに併設されている服屋などを見て回った。物色しているだけでも十分楽しむことができた。もちろん、玲と一緒だからというのは間違いない。
しかし彼女は何も買わなかった。小物や雑貨でさえも買おうとすることはなく、見て回るだけ。秀也も特別何かを買おうとしていたわけではなかったけれど、二人揃ってゼロというのも珍しい話である。
そんな時間もあっという間に過ぎ、夜ご飯の時間となる。
秀也が事前にチェックしていた場所に連れていった。少し奮発して、高校生らしくないレストランを選んだ。慣れない高級感に二人とも緊張するが、こういう時でないと出向こうともしないため、これはこれでありだと二人で話した。
金銭的には公安の仕事をしていることもあって、大きな問題はない。ただ、玲の金銭事情が全く分からなかったけれど、了承してくれたのでお金には困っていないのかもしれない。
クリスマスデートは本当に楽しいもので、食事中も会話が弾んでいた。
「さっきはありがとね。これ取るのサポートしてくれて」
玲は袋の中に入ったうさぎのぬいぐるみを指さして言った。
「いやいや、わざわざ感謝されることじゃない。それより、前に取ったのもうさぎだったよな? 一緒でよかったのか?」
「うん。一緒がいいの。――あ、もちろん前のも大事にしてるよ? 部屋に飾ってるし、たまに一緒に寝てるよ」
エピソードがとことん可愛くて困る。
それに、昔の思い出の品をそんなに大事にしてもらえているのは、非常に嬉しいことだった。
「ねぇねぇ、秀ちゃんが今も勉強続けてる理由って、絶対私のせいだよね?」
「え、なんでそうなる」
話題が突然思わぬ方向へ転換した。
「だって、前は私が秀ちゃんと話せるように、勉強に付き合ってくれてたでしょ? 習慣付いたって言ってたけど、私のせいだろうなって思って」
この話をした途端、不安そうな表情をしていた。本当に自分のせいだと思い込んでいる様。
事実ではある。秀也がここまで勉強を頑張ってこられたのは、小学校の頃があったから。あの日々がなかったら、今頃はこんなに優秀ではなかっただろう。
だが、一度も玲のせいなんて思ったことはない。きっかけが彼女なだけで、それを悪く捉えてもいなければ、憎んだり恨んだりもしていない。
「別に気にすることない。実際成績は上がったし、結果的にはよかったんだよ。それに、誰かと違って勉強モンスターにはなってないから大丈夫」
「誰がモンスターだって?」
おっと失言。
その後は料理、会話とともに楽しみ、満足したところでレストランを去る。いつもは来ないような高級レストランでも、途中から緊張はすっかりなくなり、肩の力を抜いて満喫することができた。値段なだけあって、料理も空間も素晴らしかった。
二人が次に向かったのは、クリスマス時期になると作られるイルミネーション。近くに有名なイルミネーションがあり、折角ならということで行くことになった。
定番になぞるようだが、こういう時期には自然と見たくなるものだ。
ツリー型やトンネル型。様々な形状のものがあり、これを目的で来ている人の注目はもちろん、通りかかっただけの人の注目さえもすべて集めていた。
家族で来ていたり、友達のグループでいる人たちもいたけれど、やはり多いのは恋人たち。ロマンチックな雰囲気が用意されており、まさにといった様子であった。
「綺麗……」
隣にいる玲が、ふとそんな声を漏らす。思わず声に出してしまうくらいには、綺麗に輝いていた。
色々な種類のものを見て回り、最後に一番大きな、ツリー型のイルミネーションの前で立ち止まった。最も豪華に装飾されているこれの前でするのが、相応しいと思っていた。
しかし、しばらく経つと玲が話し始めた。
「私ね、桜並木をどうしても守りたかった」
「………」
秀也はこの場でやりたいことがあったのだが、そんな空気ではなくなってしまう。しかし逆に、彼女の本音が聞ける瞬間だと理解する。
少し真剣な様子の彼女を横目で見ながら、発される声に集中する。
「留学の予定があったから、保護する計画の基盤だけ作って、あとは秀ちゃんに任せようかなって思ってたの。……なのに、それすら出来ないんだから困っちゃうよね」
どこか遠くを見ているようだった。目の前にあるイルミネーションに焦点は合っているように見えず、もっと遥か遠く。それが彼女の不甲斐なさ、後悔を表しているようだった。
やはり玲はまだ、桜並木のことを割り切れていない。仕方のないことだと思うことができずに、ずっと心の奥底で悔やんでいる。それをどうにか拭ってあげたかった。
「留学ってさ、二月から行くって言ってたけど、いつ頃帰ってくるんだ?」
「半年間の留学ってことになってるの。現役で大学に行くために、あまり長くは行けなくて」
「じゃあそれまでに、俺が何とかしとく」
「え?」
それをどうしても伝えたかった。
「理由はどうであれ、全てが無意味なんてことは絶対にない。玲が今まで頑張ってきたことも、きっと意味はある。だからさ、その頑張りを無駄にしないためにも、俺が桜並木を守るよ」
「……でも、どうにもならないって」
「俺だって無策なわけじゃないよ。少なくとも、学校の敷地内ならなんとかなるだろうし、やってみる価値はある」
「……そっか。敷地外を守りたかったんだけどなぁ」
最後に玲が何を言ったのかは、あまり聞き取れなかった。
ずっと、諦める必要はないと伝えたかった。秀也が何とかして見せるからと、そう言って安心して留学に行ってほしかった。最終的に行き着く先が弁護士だとしても、余計な心配は抱いてほしくないから。
「だから、安心して頑張ってこい!」
「うん。ありがと」
この行動が本当に玲のためになったかはわからないけれど、何もできない自分も嫌だった。だから納得できる行動をするのみ。それが彼女を救う一つになると信じて。
この話が落ち着いたところで、秀也はこの場でやりたかったことを思い出し、その話へと転換させる。
「玲、ちょっといい?」
「? どうした?」
鞄の中に忍ばせていた、とあるものを取りだす。
「クリスマスプレゼント。デートなんだから、これくらいあってもいいだろ?」
「……!!」
玲の表情が一転し、パァッと明るい笑顔が見られた。驚きと喜びたっぷりの笑顔。これをずっと見たかった。
「開けていい?」
「もちろん」
プレゼントを渡す際の様式美のようなやり取り。ここで開けてはダメなんて言うことなどほとんどないというのに、大抵はこの一連の動作をする。もらった側はワクワクのせいで、そんなことを考えてもいないだろうけど。
中身も見ていないのにすでに嬉しさを溢れさせて、玲はラッピング袋を開ける。その中から出てきたものは二つ、マフラーと腕時計。
「おお。思ったよりも高価なものでびっくりしたよ」
公安に入っていて本当に良かったと思うくらい、奮発してしまっていた。
「ちょっと重たいかもだけど、留学に行くって言ってたから、腕時計とかいいかもって思ったんだよ」
「そして日本時間に合わせるんでしょ? 恋人みたいだね」
いたずらめいた表情をされる。痛いところを突かれてしまった。
実際それを買う瞬間は、同じことを考えていた。その時からなんだかくすぐったかったけれど、それでもプレゼントしたかったのだ。特に、デザインが桜をモチーフとしていて、似合うと思った。季節とは全然合わないけれど。
ちなみに、マフラーは保険も兼ねて選んでいたりする。
玲はすぐにマフラー、腕時計を身に着け、これ以上ないほどの幸せオーラを出してそれらを見つめている。腕時計はサイズ合わせをしなくてもぴったりだった。
刹那、彼女の頬に一筋の涙が流れる。
「……え?」
玲も、なぜ泣いているのかわかっていないようだった。
「ち、違うの! これは……嬉し涙だから!」
「泣くほど喜んでもらえたんなら、俺も嬉しいよ」
必死に涙を拭いて、笑顔を作っていた。そんなに必死にならなくてもいいのにと思いながら見守った。たまには感情を爆発させたっていい。
「……いいのかな。私、秀ちゃんからもらってばかりだよ」
「いいんだよ。俺があげたいと思ってるだけだから」
「そういう意味じゃないんだけどなぁ」
困ったように笑う玲。秀也があげたいと言ったのはプレゼントのことで、彼女がもらっていると言っているのは、気持ちのこと。そんなことはわかりきっていたけど、敢えてとぼけることにしたのだ。
「この二つ、全部持っていけるかなぁ」
そう零す玲。持っていくというのは留学先にということだろうか。
そんな感情に浸るのも束の間、玲ははっと思い出し、
「こんなこと言ってる場合じゃないの。あのね、私もプレゼント!」
慌てて取り出していたのは、リボンがついた小さな箱。
早速開けてみると、ブレスレットが入っていた。ただの金属製や紐製のものではなく、白と緑が混ざったような色の石がついているものだった。恐らくパワーストーンというやつだろう。
「ありがとう。大事にするよ」
そう言って、秀也もそれをすぐに自分の腕につける。
「私もちょっと重たいけど……、気に入ってくれると嬉しいな」
玲が、下から顔を覗き込むようにして言ってくる。気に入るかが不安と、行動だけで伝わってきた。
「もちろん。玲がくれたってだけで、本当に嬉しい」
「よかった。……あのね、私のこと、忘れないでほしいな」
またしても唐突すぎる内容。
秀也がブレスレットを気に入るかどうかの不安とは、また違った不安が含まれていた。なぜ彼女を忘れてしまうという方向に繋がるのかわからないけれど、それはたぶん、留学に行ってしまう間のことを指しているのだろう。
「大袈裟だろ。もしかして、思い出してほしくてアクセサリにしたのか? そんな程度じゃ絶対忘れるわけないし、忘れてほしくても忘れてやんない」
「……そうだよね。それもそうだよね」
彼女の不安を全て拭うことはできなかったかもしれないが、さっきより表情は明るくなっていた。秀也の回答にも満足そうにしていた。
「秀ちゃん、思い出を、ありがとね」
そう言った後、秀也が今まで見た中で、最も綺麗な笑みを見せた。
二人一緒に帰宅した後、秀也は一人ベッドに横たわる。さっきの出来事が頭から離れてくれず、今日は寝れそうにない。
楽しかった。素直に楽しかった。本当に楽しかった。
二人きりの空間は、今までも何回かあったはずなのに、今日だけ特別に幸福感を感じた。この気持ちが、玲も同じだったらいいなと願う。同じ温度感でいられたらいいなと思う。
あと一か月と少しで、彼女はいなくなってしまう。この一か月は、玲に捧げよう。今日だけでなく、この先ももっと思い出をたくさん作ってあげよう。そうすれば、留学先でも心細くない。秀也もいい気持ちで見送ることができる。
この先のことを考えてしまうと、どんどん次に会う日を待ち遠しく思う。今から楽しみの気持ちが止まらない。
次に会った時は、どんな会話をしようか、どんな場所に連れて行こうか。そんなことばかりが、頭の中を埋め尽くしていた。そして玲が留学から帰ってきた時には、桜並木が残っていることを報告できるように、精一杯努めよう。
そうして二人がまた笑顔になれる。
そう、思っていた。
翌日。
十二月も終盤になった。年末は公安が休みになるため、いつもより少しだけ早く月末の活動記録を提出しに行く。
関東は久々の大雨で、傘を差して公安に来るのも大変だった。
窓口で用件を伝えて、公安の建物に入る。
いつも通りのはずだった。
「秀ちゃん……?」
背後から聞こえる声。今秀也のことをそう呼ぶ人は、世界で一人しかいない。
後ろを振り向くことを体が拒む。鼓動はあり得ない速さまで到達し、呼吸は荒くなる。
本当にその人なのか、なぜここにいるのか。だって、ここに来る理由は他にないのだから。
信じたくない。いや、そんな訳がない。昨日、あんなに楽しそうだったではないか。
体の震えを抑えながら、振り向く。そこにいたのはやはり、警備員と一緒にいる高峰玲。昨日クリスマスデートした、玲がいた。
秀也はこの日、今までの日々を後悔することになる。
「秀ちゃん……?」
公安での出来事。偶然玲と遭遇する。
首にはマフラー、腕には腕時計が。どちらも昨日秀也がプレゼントしたものだった。
「玲……。なんで、ここに」
状況をうまく掴めない二人は、結局そんなことを聞くしかできることはない。お互い、公安にいるなんて考えるはずもなく、会えたということよりも何故の気持ちが強い。それに場所も場所である。
秀也の言葉に対し玲は、
「こっちのセリフだよ。秀ちゃんこそ、……なんで」
お互い気持ちは一緒であった。
戸惑い――だけではない。お互いに衝撃と心苦しさといった感じであった。そんなドギマギが二人を襲い、この空間に静寂が訪れる。
………。
無限のようにも感じるこの瞬間が、いつまで経っても終わらない。このまま黙り続けるわけにもいかない、そう思って口を先に開いたのは秀也だった。
「俺は、公安で働いてるんだ。隠してたってことになるけど、秘密にしなきゃいけなくて、今まで話せなかったごめん。今日は月末の活動記録を提出しに来たんだ」
「そ、そうなんだ。全然わからなかったな。……働いてるなら、お仕事の邪魔しちゃったよね。忙しいだろうから、私は行く――」
「待て、玲!」
なぜか先を急ごうとする玲に怒鳴りつけて呼び止めた。彼女の表情に見える笑顔が、無理に作ったものだと容易にわかる。
「何しようとしてるんだよ」
動揺は見せない。至って冷静に振舞う。ここで取り乱してしまえば、手遅れになると感じたから。
「……ん? 秀ちゃんには関係ないよ。私のことはいいから、お仕事続けて?」
「関係なくない。俺は公安の人間以前に、玲の幼馴染だ」
「………」
秀也のその言葉を聞いて、もう誤魔化せないと悟った彼女は、途端に真剣な表情へと変える。
しかしそれと同時に、必死に振舞おうとしていた秀也の冷静さがどんどん失われていく。だって、彼女の行動の理由がどうしても一つに絞られてしまうから。
「もう、わかってるはずでしょ? ここで働いてるなら、わざわざ聞かなくてもいいんじゃない?」
「じゃあ今すぐ引き返せ。この建物から出て、一緒に帰ろう。このまま先に進んでも、いいことなんて一つもないんだから」
「……それじゃダメなんだよ」
こぶしを握り締め、何かに耐えながら話し続ける玲。
「ごめんね、嘘ついてた。昨日のデートは留学に行く思い出作りって言ったけど、本当はこっちの思い出作りだったんだ」
「あんなに楽しそうにしてたのに、あれも嘘だったのか? 全部、消えてもいいって思ってたってことなのか!?」
「違う!!」
公安の入り口中に、彼女の叫び声が響き渡る。
「違う。昨日は本当に楽しかった。……一番幸せだったよ、素敵な思い出だったよ。……でも、どうしても耐えられないの」
青ざめた表情で何かに怯えながら語る。今にも崩れてしまいそうなくらい、脆いように見えた。実際言葉は震えてしまっていた。
「いつからだ。追想転移を決意したのは、いつからだ」
「桜並木を守れないって知った日。それよりずっと前から考えたことはあったけど、全部あの日に決めたの」
「何が……玲をそこまで追い詰めた? 前から考えてたって言われても、そんな様子なかったじゃないか。ちゃんと笑えてたじゃないか!」
そう問いかけた刹那、玲の様子が一転する。何と言えばいいだろうか、黒だ。負のオーラしか見えない。
「わからないの……? これだけ近くにいたのに、それでもわからないの!?」
「っ……」
彼女はずっと苦しみ続けていたのだろうか。周りには迷惑をかけないように、表面上には出さず、内側に溜め込んでいたというのだろうかか。それともただ気付けなかっただけなのか。どちらにせよ、玲が抱え込んでいたことは事実。
ということはつまり……、
「玲の、お母さんが原因……か?」
「そうだよ。どれだけ自分を殺せばいいの……? 私は、弁護士なんて望んでない。留学になんて行きたくない! ……優等生になんて、なりたくなかった!!」
「玲……」
「ずっとお母さんの奴隷だった。勝手に人生を、未来を決められてた。弁護士になるしかなくて勉強するしかなくて、その結果、皆とも打ち解けなくなって……。……なりたかったよ、先生。すごくなりたかったのに、その夢は諦めなきゃいけなかった。そうしなきゃ救われなかった。ねぇ秀ちゃん、教えてよ。私は自分を殺す以外、どうやって生きたらよかったっていうの!?」
玲の痛々しい叫び声が、胸に刺さる。こんな彼女は見たことがなかった。感情をさらけ出し、思いのままにぶつける彼女は、最早何かに憑かれているようだった。
こんなに壊れそうになるまで、独りで耐えていたとは。なんで、気付いてあげられなかったのだろう。もう遅いかもしれないのに、今になって後悔し始める。
秀也はとにかく、玲を守りたかった。そのために公安に入った。だというのに、全然守れてなんていなかった。彼女が発する、大丈夫という言葉を信じ切っていた。その言葉に、絶対的な信頼を置いてしまっていた。
村上の件以降、同じ学校の生徒は必ず守ると決意したはずなのに、一番守りたかった人を全然見ていなかった。
頭の中に浮かぶのは、自分を責めるものばかり。
「俺が、守ればよかったんだ。もっと、玲の側に、隣にいればよかったんだ」
それが答えであり、秀也の一番の失態。
しかし、玲の反応は違った。
「……それじゃ、ダメなんだよ。だって、私がこうなった理由に、秀ちゃんも大きく関わってるから」
「っ……」
それは、一体どういうことだろうか。
「もちろん、秀ちゃんが悪いわけじゃない。いつも私の心の支えだった」
「じゃあなんで――」
「私と一緒にいると、たくさん迷惑かけるから」
そういわれて頭によぎるのは、昔の出来事。玲を無理やり連れ出したあの日の続きを。
「迷惑なんて考えなくていい。昔のことを気にしてるなら尚更だ。俺は迷惑だなんて一回も思ってない! 確かに玲のお母さんから嫌味は言われたよ。俺の母さんまで巻き添えにしたよ。でもそれがなんだ、玲を救うためには必要なことだろ!」
「私が耐えられないの! またあんなことが起こるかもって思うと、耐えられないの……。どうしても秀ちゃんにだけは、迷惑かけたくないから。私の願いは一つ、秀ちゃんに幸せでいてほしいだけ。そんな小さな願いも叶わないの……?」
二人の息が荒れていき、肩で呼吸をするようになる。浅い呼吸でずっと攻防を続けている。
少しだけ息を整え、秀也は告げる。
「だから、気にしないって言ってるだろ。今までのどんなことも迷惑だと感じたことはない! 俺の幸せを願うなら、玲なしで達成することは絶対にない! 本当に願うなら、俺のためを思うなら、こんなこと考えないでくれ!」
「……私がいなくても、どうせ大丈夫だよ。だって、私たちどれくらいの間話さなかったか、わかる? その間も秀ちゃんは生きていけたじゃん」
お互い、どんどん冷静さが欠けていく。配慮も忘れていき、言葉の殴り合いになっていく。
「……そんなわけない。そもそも俺は、玲を追想転移させたくなかったんだ。だから公安に入ったんだよ。玲が諦めてくれないと、俺の夢が叶わないんだよ。居場所なら俺が作る。だから――」
「じゃあそれは、叶わなくなっちゃったね」
急に冷静になった彼女の姿を見て、途端に焦りが増す。だって、今の瞬間に、覚悟が決まったように見えてしまったから。
玲は、秀也の背後にある転移室へと歩き出した。流石の秀也も、このまま黙って見ている訳がない。進もうとする玲の腕を掴み、物理的にその足を止めた。
「玲、お願いだもう一度考えてくれ! 俺は玲と一緒にいたいだけ、隣にいてほしいだけなんだよ」
心からの願いを送る。これが最後な気がして、秀也の一番の本心を告げる。
「玲がいないと、俺は生きていける気がしない。幸せになんてなれない。それほど、もう大切になっちゃったんだよ」
その言葉を聞くと、彼女は少しだけ笑みを見せて言った。
「じゃあ、この後の私をよろしくね」
「っ……、玲――」
言いたいことが、まだたくさんある。伝えたいことが、伝えられていない。でもそれは、近くにいた警備員によって止められてしまう。
追想転移は国民の権利。それを止める行為は、権利の侵害につながる。
追想転移の利用者には、必ず警備員を同伴させる必要があり、警備員は利用者の身に何かがあった時に対応する。まさに、今この瞬間のように。
普段公安で働いているときは、警備員なんて意識したことがなかったというのに、今ではこんなに邪魔に感じる。
警備員の腕の中で精一杯暴れ、もがき、その拘束から抜け出そうとする。けれど、身動き一つとることすら適わない。
もう、玲の行動を妨げるものは何もない。あとはただ進むだけ。
「玲!」
必死に名前を叫ぶ。声だけでも届けられるのならば、そしてこの声が届くのならば。それだけが頼りだった。
本当にもう、出来ることはないのか。このままただ黙って見続けることしかできないまま、時間だけが過ぎていってしまうのか。
すると、遠くに見える玲が立ち止まり、秀也の方へ振り向いた。
左目から一筋の涙が零れ、唇には力が入っていた。
「秀ちゃん」
その後、最大限の笑顔を作って、
「大好きだよ」
「っ……!」
最後にそう言った。
そして彼女は、秀也の見えないところまで歩き、転移室へと消えていった。
ごめんね、秀ちゃん。
どうしてもダメだったの。私はもう、私が必要ないって思っちゃった。それに、これ以上苦しみに耐えたくない。
一緒に過ごす日々は楽しかったけど、その時間が増えていくたびに秀ちゃんは、お母さんからまた嫌味を言われちゃうから。私のせいで傷つけてしまうことが一番嫌だから。……でも、本当に楽しかった。毎日が綺麗に色付いて、どれも私の宝物だった。だから思い出も全部、持っていかせてください。
でも、でもね。たまに私を思い出してくれると嬉しいな。そうしてくれたら、私がやってきたことも報われるし、悪くない人生だったなって、思えるから。
私はずっと、秀ちゃんの幸せを祈っています。記憶がなくなっても、それだけは絶対に変わらない。
だから、笑顔でいてください。私の大好きな、秀ちゃんのままで。
ありがとう、秀ちゃん。
さっきまで建物中に響いていた二人の大きな声はなくなり、今では外の雨の音が聞こえるくらい、静かになっていた。
玲がいなくなるとすぐに、警備員は秀也を解放した。その瞬間、膝から崩れ落ち、地に両手がつく。立っている気力なんてどこにもなかった。
思考・判断能力は消え失せ、頭は空っぽになる。
しばらく経った後に頭の中に流れてきたのは、今まで玲と過ごしてきた日々。それらが走馬灯のように駆け巡る。だから余計に、もう玲は戻ってこないのだと、帰ってくることはないのだと実感する。
ずっと思い出の中に浸っていたいけれど、その思い出も共有する人がいないのだと、現実に戻される。
なにも、できなかった。玲のために、力になっていると思い込んでいた。追想転移させないために、苦しませないために公安に入ったというのに、結果がこれではないか。
お前はずっと、何をしてきた。五年間何もせず、きっかけができた時だけそれに乗っかっただけだ。ただ少しの手助けをしただけで、根本の解決なんてしなかった。
彼女が求めていたことは、ずっとできていなかったんだ。
「ふっ、はは……」
笑えてくる。
誰が救うって? 結局、ただ救えていた気になっていただけじゃないか。自分がどれだけ無力だったのか、今知ることになるとは。
もう、何もない。守るものも、目標も、生きる意味もない。人生さえどうでもよくなってくる。いっそ、秀也も追想転移してしまおうか。
「………。ダメだ」
頭から、玲の笑顔が離れない。消えてくれない。どうしても、彼女を忘れたくないと心が叫んでいる。ただ絶望するだけじゃだめだと、この気持ちに慣れるなと訴えかけてくる。
このまま、また何もできない訳にはいかない。体に気力が戻るのを感じると、すぐに立ち上がった。
まだやることがある。これだけは、秀也が責務を果たさなければならない。
窓口に事情を話し、玲の対応の担当をすることにしてもらった。他の誰にも、これだけは譲りたくない。
自分の中の恐怖を押し殺し、覚悟を決めて転移室の扉を開く。
追想転移が完了するには、およそ一時間ほどかかる。その長い間ずっと、玲が入っているであろうカプセルの前でただ待ち続けた。
どれほど記憶を失っているだろうか。どれくらい性格が変わってしまっているだろうか。どうやったら、彼女をもう一度笑顔にできるだろうか。考えることはたくさんあった。そんなことを考えているうちに、一時間なんて時間はあっという間に過ぎ去っていった。
目の前のカプセルが開きだす。その中にいる彼女の姿を、目に留める。
「っ……」
そこで秀也が見た彼女は、
「……? 誰? お兄さん」
どこか心配そうに見上げる、幼い子どもの姿だった。
思わず、首を横に振る。だってこれは、昔の玲の姿だ。初めて会った時と変わらないくらい、ずっと前の玲ではないか。
年齢が変わってしまうイレギュラー。以前、村上で体験した、時間軸が違う並行世界の自分と入れ替わってしまうイレギュラーが、彼女の身にも起こってしまったのだ。
今は悲しんでいる場合じゃない。まだ、始まったばかりだ。仕事としての対応をしなければと自分に言い聞かせる。
「俺は水上秀也。れ――君、の名前、言えるかな? できれば、何歳かも教えてほしい」
「……高峰玲。九歳だよ」
「……!」
玲の誕生日と年齢を照らし合わせる。すると、今ここにいる玲は小学三年生なのだとわかる。つまり、初めて秀也と会う前の玲なんだ。
……あんまりじゃないか。
記憶がなくなっているとはいえ、秀也と未だに出会っていない頃の玲だと思うと、途端に悲しみが込みあがってくる。本当に、秀也と過ごした日々は全部なくなってしまったのだと思い知らされる。
気が付くと目の前の彼女に抱きついていた。悲しんでいる暇はないと思っていたはずなのに、逃げていた感情に追いつかれてしまった。涙を流さずにはいられなかった。
抱きしめたその身体はとても華奢で、高校生の秀也が力を入れてしまえば、砕けてしまうのではないかと思える。それほどに小さくて幼い。……さっきまでの玲と違う部分がありすぎる。ここにいる玲はさっきまで話していた彼女ではないのだと、頭が追いつく。
どこかで信じたくない自分がいた。玲が追想転移して、記憶を失い、そして年齢さえも変わる。それが何かの間違いなのではないかと、心が勝手にその事実から目を背けていた。
でも、こうして触れることで、それが現実なのだと目が覚める。今現在の事態へと強制的に戻される。
彼女に限って、年齢まで変わってしまうなんて思いつきもしなかった。文字通り最悪の状況と言っても過言ではない。
服装も何もかも変化しているため、追想転移する前に身に着けていたマフラーと腕時計――それらもなくなっている。本当に思い出ごと持っていったということだ。
彼女がいたという証拠は、秀也が持っているブレスレットだけになってしまった。もしかしたら、桜並木もそういう理由で守りたかったのだろうか。自分の存在を示すために。今となってはその答えを聞くことも出来ないけれど。
彼女の境遇を考えれば考えるほど、涙が溢れてくる。果たして、彼女に少しでも幸せな瞬間はあったのだろうか。報われることはあったのだろうか。記憶を失う前にそれがあったとしても、こうして最後には何も残っていない。そんなことばかり頭によぎる。
「どうしたの? お兄さん」
ずっと目の前にいる幼い玲を抱きしめたまま、泣いてしまっていた。だから戸惑ったように聞いてきたのだ。この幼い玲からしたら、不審に思っても仕方がない。記憶がない玲にとって秀也は、初めて会った他人なのだから。
しかし顔を上げてみると、彼女の表情は秀也を訝しむものではなかった。むしろ心配しているように見え、どこまで優しい人なのだと、温かすぎる人だと思い知らされた。
年齢や記憶が変化しても、それでも変わらない玲らしさに触れることで、先ほどの決意を思い出す。
「ごめん、なんでもないよ」
涙を拭いて、安心してもらえるように笑顔を見せる。
「いきなりで悪いんだけどさ、まず俺に付いてきてくれないかな。今の君には記憶がないんだ。……難しくてわからないと思うけどさ、それはゆっくり分かっていけばいいから。だから、今は俺を信じてくれないかな」
「うん」
そう言ってくれた玲の手を繋いで、共に公安を出る。
外はまだ大雨で、遠くを見ても青空一つ見えない。空から一切光が差し込まないこの現状が、二人のこれからを指しているようだった。
いつも通りの帰路のはずなのに、隣に連れている幼い玲が理由で、落ち着くことがなかった。
帰る途中に色々なことを考えた。主にこれからのこと。まずは、玲の母――高峰望さんに事情を伝えなければならない。
昔、玲を連れ出した時に一度だけ対面した。あの時は、ただ怒りが飛び交ってきただけ。まともな会話なんてしたこともなく、秀也の印象は、玲を苦しめた張本人という認識、ただそれだけだった。今回もあの時の二の舞になることは、すでにわかりきっている。
隣にいる玲は、常にそわそわしている様子だった。当然のことだが、初対面の人と見知らぬ土地を歩いている状況で、落ち着いている方が不思議だ。
それでも、文句も弱音だって一つも零さなかった。今日はバイクを使わずに、雨の中をずっと歩いている。いつもより移動に時間がかかっているというのに、彼女は黙って手を繋いで付いてきてくれている。それがなんとも、玲らしいところだった。
秀也は責任として、これからも玲と関わっていこうとは思っている。ただ、心を許してくれるかどうかに対して不安を抱いていた。本当に笑顔にさせることができるのか、そしてその適任は本当に自分なのか。悩みが一つずつ増えていく。
二人の家の前に着く。玲の母、望さんは働いているため、家にいるかはわからなかったけれど、とりあえずインターホンを押すことにした。幸いなことに、応答があった。
『はい。どちら様ですか?』
「お久しぶりです。隣に住んでいる、水上秀也です」
『……何の用ですか』
名乗っただけで、この反応。やはり相当嫌われているようだった。会話すら困難に感じるけれど、それでもここは頑張りが必要なところだ。
「大切なお話があります。状況は……こちらに来てもらうと分かると思います」
そう言うと、インターホンからぷつんと音声の切れた音が聞こえた。こちらに向かってきているようだった。
これから、幼い玲に自分の母親を見せることになる。こんなにも厳しい母親だ、拒絶反応を示さなければいいのだが。
今接している限り、幼い玲は少しだけ性格が違っていると感じる。追想転移する前に比べて、表情の明るさが増している。天真爛漫さをより大きく感じ、活力も多少見られる。
そんな彼女に、この母親を見せるのはかなりのショックとなるかもしれない。玲の追想転移の原因は、心的外傷が基本であるため、再び心に傷を負ってしまうのは良くない。それが一番の不安である。
そんなことを考えている間に、望さんは出てきた。
「一体何の用ですか。玲なら今は――」
迷惑そうに歪めていた表情が、すぐに変わる。秀也の隣にいる存在に気付いたようだ。
腐っても母親。突然幼くなったところで、識別は容易だろう。
「な、どういうこと……? その子は、……玲? 何があったっていうの!?」
「順を追って説明します。だから、少しだけ時間をください」
大雨のため、玄関に入れてもらえることになった。そこで詳細を話し始める。秀也が公安に勤めていること、玲が追想転移してしまったこと、そのイレギュラーで年齢まで変わってしまったこと。
追想転移に至った理由は、今は敢えて隠した。
「なんでこんなことに……。やっぱり、またあなたが誑かしたんじゃないの?」
望さんからの敵意が、既に秀也に向けられている。けれど、こうなることは予想できていた。こんな程度じゃ怖気づいたりはしない。
「いいえ。俺は玲を助けてあげることはできませんでしたけど、迷惑でなかったことだけは断言できます」
「そんなの、あなたの主観での話でしょ? 結果、玲に毒となるなら迷惑と変わらないじゃない」
「……そう言うと思ってたよ」
この人は、自分が元凶だなんて思ったこともない。そもそも自分が正しいと思い込んでいる以上、疑惑は全て他人へと向けられる。そんな人に言葉をぶつけるのは、少々難しい。
「高峰玲さん。はっきりと申しますが、俺は玲をあなたのところへ帰すことに、かなりの抵抗があります」
「……は? 何を言ってるの、子どもを親の元に返すことは当たり前でしょ。ましてやこんな状況で」
「そもそも、あなたは玲を子どもとして見たこと――いや、一人の人間として見たことがあるんですか。俺はそこすら疑ってるんだけど」
頭に血が上ってきて、最初は意識していた敬語も気付けば外れていた。
「あるに決まってるじゃない。急に何を言い出すかと思ったら……、他所の親に対してなんなのその態度は? 今の発言は流石に失礼でなくて?」
「じゃあなんであんなに、玲は苦しんでたんだよ。やりたくないことをずっとやらされて、なりたくもない夢を目指すことになって、挙句の果てに留学まで行く。決めたの全部あんただろ」
敬語どころか、普段の口調の悪さの制御すらままならない。秀也の心に宿っている、静かに燃えた黒い炎のような怒りが、爆発していた。
先ほどは腐っても親だと思っていたが、今は人間かどうかすらも疑う。こんなにも相手を尊重する心がない人に出会ったのは初めてだ。こんな人に玲を預けてはダメだと再度思う。
「苦しんでた? 私は進むべき道を教えてあげただけ。あなたが勝手に私を悪者に仕立て上げてるだけじゃない」
「だったら、玲はこんなことになってない。玲は確かに言ってた、どれだけ自分を殺せばいいか分からないって。夢も諦めなきゃいけなかったって。そうやって子どもを縛り付けるのが親なのかよ」
「私がいつ間違ったことをしたっていうの? 私は玲のためにいつも――」
「……ふざけんな!!」
あまりの声量と勢いに、隣にいる玲がびくんと体を震わせる。
自分でも感情を抑えられなかった。だって、信じられない言葉が望さんの口から聞こえてきたから。
「玲のため? ふざけるのもいい加減にしろよ。勉強以外させずに常に孤立させ、勝手に人生を決める人が親を騙ってんじゃねぇよ。外の世界も、心から笑うこともできてなかったんだぞ? 追想転移した理由、お前以外あり得ないだろ」
「他人の家庭に口突っ込むんじゃないわよ! 子どもの分際で大人に楯突こうだなんて、生意気にも程があるでしょ!」
もう、止まらなかった。
「こんな大人に従うくらいなら、死んだ方がマシだ。玲だってそう思ったから、今こうなってるんだろ。それに、子どもの運命を決めるのは大人じゃない。どう生きるかを決めるのは、俺たちだ!」
「っ……。言わせてみたら随分なこと言うじゃない……。でも私に従っていれば、社会に出た後も安定した生活が手に入るんじゃないの? そこまで頭が回らなかったのかしら」
「その過程をないがしろにしていい理由なんてない。玲は、あんたの地位と名誉を守るための道具じゃない。……お前に、玲の親を名乗る資格はない!」
言いたいことを吐き出して、息切れが生じる。呼吸を忘れるくらい、頭に血が上っていたようだ。
「……だから、玲をあなたの下に返すことはできない。責任をもって、うちで預からせていただく」
二度も苦しめたくなかった。二回目の人生だからといって、環境の変化が起きなければ結局同じ道を辿るだけ。
それに、話していて分かる、会話でどうにかなる人ではないということを。望さんと対面するまでは、どうにか改心してもらおうとしていた。もちろん説得によって。
しかし、この短い会話の中で話など無駄でしかないと察する。望さんの中にある、自分が正しいという絶対的に覆らない柱がある限り、改心なんてありえないのだから。
怒りなどとうに越え、軽蔑、見下しが生まれてきた。もはや笑えてくるくらい。
「……何を言っているの? 玲は私の子よ? 玲を育てるのは、私がやるのよ!」
恐らくこの人は、恐怖政治を敷いて再び玲を殺すだろう。望さんは自分の地位を上げるために、玲を弁護士にさせようとした。留学させたのは、法曹キャリアとしてのメリットがあるから。
玲を孤立させたのも、能力の低い人間と関わらせたくないから。一体、どんな性根ならこんな考えが生まれてくるのだろう。
「あなたの下に帰して、玲が幸せになる未来はない。これ以上、不幸になんてさせたくない。俺は、玲を幸せにしたい!」
それだけ言って、逃げるように玲を抱きかかえて高峰家を出る。事実上、秀也がやっていることはただの誘拐。でも、それでもよかった。彼女が苦しまない未来を選べるのなら、明るい未来を歩いて行けるのならば。
「ちょっと、何してるのよ!」
後ろから怒鳴り声が聞こえてくる。このまま自分の家へ入ったところで、あまり意味はない。家が隣同士というのがここに来て仇となる。
その時だった。
「!」
ちょうど、秀也の母――水上恵美が帰宅してきたのだ。家の前で鉢合わせすることになり、お互いの顔を見て沈黙する時間が発生する。でも、ここで立ち止まっている暇はない。後ろから追いかけてきているだろうから。
「あら秀也。どうした――」
「ごめん、ちょっと任せる」
それだけ言って、自宅に駆け込む。しばらくしてもインターホンは鳴らなかったし、扉を叩かれることもなかった。さっきの言葉だけで察してくれたのか、母が外で話してくれているのかもしれない。
秀也とのさっきの会話は、あくまでも大人と子どもの間でのもの。それが大人同士ではどう転ぶか分からない。秀也の望む方向へ転んでくれと、あとは願うのみ。
問題は、秀也の母が味方でいてくれるかどうか。状況把握すらできていない母が望さんと会話することで、話は秀也が悪者へと捻じ曲げられる。状況的にも誘拐したことに間違いはない。果たして、そんな状態でうまく事が運ぶのだろうか。
考えているうちに、隣にいる玲のことを思い出す。そういえば、ずっと言い合いを見せられた後にこうして連れ去られている訳で、心境がどうなっているかさえ把握できていない。
許可も得ないまま、一緒に住ませようとしていたことに気付き、一度ちゃんとした話をしようと決める。
「玲、ちょっと話がある」
「……どうしたの?」
幼い玲は、秀也に対して少しだけ不審な目を向ける。
「今の玲には記憶がないって、さっきも話したと思う。だから家族も誰かわかんないと思うんだ。さっき話してたのが、玲のお母さんで、俺はなんでもないただの他人」
「………」
事実を全て包み隠さずに言う。なるべく彼女の気持ちを大事にしたいから。
「俺はね、これから玲と一緒に暮らしたいんだ。まだ何もわからない玲と一緒にいて、同じ道を歩んでいきたい。嫌だったらいい。お母さんと一緒に暮らしたいなら、俺はそれを尊重する」
さらっておいて何を言っているのだろう。今更玲を尊重したいだなんて、やっていることは結局、望さんと一緒なのかもしれない。自分の都合を押し付けているだけなのかもしれない。
「玲のやりたいようにしてくれていい。もし、どっちも嫌だったら、記憶がない人を一時的に預ける施設だってある。そこに行けば、優しい人が必ずいるから、安心はできる。それでもいい」
実際、自分の家庭を受け入れられなくて施設に入る人は少なくない。追想転移した理由の大部分が家庭であれば、尚更。
記憶がない彼女に、いきなり決めろというのは酷かもしれない。ついさっきの言い合いの中では、秀也の険しい姿しか見せられていないのだ。
それでも秀也を選んでほしかった。たとえ玲が望んでいても、あの人の下へ行ってほしくない。
「……玲、俺を選んでくれないか? 怒ってばかりだったけどさ、絶対に笑顔で過ごせるように頑張るから。幸せにするって約束するから。だから、……どうかな?」
つい本音を口に出してしまうほどだった。それくらい自分を選んでほしいという欲が出ている。
幼い玲は少し下を向き、答えに迷っているようだった。でもそれほど長い間ではなく、一分も経たないうちに顔を上げた。
そしてこう答えた。
「いいよ。お兄さんと一緒に住んでも」
純粋な表情だった。我慢をしているわけではなく、本当に秀也を選んでくれたと伝わってくる。
それだけで胸が熱くなった。涙が零れた。多少は無理をさせたのかもしれないけれど、それでも自分を選んでくれたことがこんなにも嬉しいとは。この涙が何故か少しだけ恥ずかしく思い、幼い玲を真正面から見られなかった。
「? どうしたの?」
「ご、ごめん。なんでもないよ」
もう涙は我慢せずに流すことにした。
秀也の母が家の中に入ってきたのは、約十五分後だった。二人の話の結末によっては、玲をあの人の下へ返さなければならない。玲の許可をもらっても、それが無に帰すことになる。
自分の親に賭ける――信じるしかできなかった。
母の声は、ただいまというものの後に続き、
「玲ちゃん、どこに寝かせるとかは決めてるの?」
などと、なんとも生活感のある一言だった。ということは説得ができたということだろうか。
「母さん……、いいの?」
「いいも何も、秀也が決めたことでしょ。あなたが不思議がってどうするの」
流石としか言いようがない。母はかしこまった話をせずに事を進めようとしているので、ただそれに乗ることにする。
それに、母は玲の生活の心配しかしていないようで、先ほどまで不安がっていた秀也が馬鹿らしくさえ思えてきた。それでも、玲と一緒に住む許可、望さんへの説得までしてくれたことに変わりはない。だから、母が作ってくれたこの流れを遮ってでも伝える。
「ありがとう、母さん」
「何言ってるの。こういう時の親ってものでしょ?」
玲には悪いことを承知で実感するけれど、こんなにも秀也は家庭というものに恵まれていたらしい。その分、今まで玲が感じられなかった温かさというものを、これから与えていきたいと思う。
そこからは、ひたすらこれからのことを話すだけだった。考えが足らなかった部分なのだが、女の子を住まわせるのは一筋縄ではいかない。生活用品を揃えなければならないし、寝るところも問題だった。
普通に考えれば、既に家を出た兄の海人の部屋を使うのが妥当だろう。しかし、最初のうちは誰かが一緒に寝た方がいいということになり、初めは秀也の部屋で就寝をともにすることになった。
こういった日常のことを考えられるくらいには、秀也の心は修復されていた。これからは平和な日常を送ることに重点を置き、秀也が背負わなければいけない責任を、果たそうと思う。
本当はもっと真面目に受け止める必要はあるのだけれど、なんだかこうも心が軽いと、重苦しく感じることも少なくなる。目の前のことに対して努力しようと思える。まずは、玲を笑顔にさせてみせる、そう決意した。
その日の夜、追想転移する前の玲からもらったブレスレットの、パワーストーンの意味を調べた。
色とインターネットの資料を照らし合わせて判断すると、このブレスレットは翡翠石で作られていることがわかった。翡翠に込められているのは、『人生の成功を守護する、奇跡の石』というもの。
翡翠の意味を知って選んでくれたのかはわからない。それでも、彼女らしい優しさ、温かさを感じる。玲が遺してくれたもの、ブレスレットに込められた意味。それらを再確認することで、ただのプレゼントとして捉えることができなくなる。より大事なものとして心に残り続ける。
たぶん、涙脆くなってしまった。ブレスレットに思いの一部を感じるだけでまた泣いてしまう。
これからは幼い玲を見なければいけないのに、まだどこかで彼女を探している自分がいる。幼い玲の中に宿る、過去の玲を見ている。
『大好きだよ』最後に伝えてくれた言葉。この言葉がずっと、頭の中で居座り続けている。この好きの意味はどういったものか、それに今まで応えられていたのか、今後どう受け止めたらいいのか、そんなことばかり考えてしまう。そして、秀也自身の想いも伝わっていたのだろうか。
いつまで経っても、答えは出なかった。
次の日。学校は終業式であったが、秀也は登校することができなかった。
昨日、追想転移に向かう玲の腕を掴んで止めた。その行動は人権侵害であり、公安の人間のあるまじき行為として罰せられ、一週間の謹慎処分と、一ヶ月の公安への勤務停止を下された。
この謹慎中に年も越すことになる。
そういえば、玲の年齢が変わってしまったことで、彼女が陽ノ森高等学校に登校することは二度とない。その結果、生徒会活動に支障がきたしてしまうことに気付く。
引継ぎという形で秀也が副会長から会長に変わることができれば良いのだが、生憎しばらくの間登校することができない。つまり、冬休み明け後も数日間は生徒会に参加できないため、会長の枠は誰かに取られてしまっても不自然ではないのだ。ここまで来たら、秀也が玲の代わりを務めたいと思っているのに。
玲を引き取った日以来、夜は同じベッドで寝ていた。最初こそ幼い彼女は、接し慣れていない秀也と就寝を共にすることに戸惑いを隠せないでいたが、今では親子のように秀也の胸にくっついて寝ている。
一緒に過ごしている以上、肩の力が入ったままというのは喜ばしくない。なるべく玲に負担はかけたくないのだ。けれど寝ている姿を見ると、そういった様子には見えず、いつも可愛らしい笑顔を浮かべている。だからそのような部分では安心できていた。
玲にとって、記憶がないというのは不安材料でしかない。と言っても、記憶が戻ることのない過去を忘れているわけだが。そんな空っぽの部分を、秀也はこれからの思い出で埋めていきたい。
だからこそ、気を許せる相手というのは貴重だったりする。追想転移する前の彼女にはなかった居場所、それを作り出し、これからの記憶をより良いものにする。そう決めたのだ。
秀也の胸に顔を埋め、幸せそうにぐっすりと寝ている玲を見て、守りたいと思った。この笑顔をずっと、絶やさないと誓った。
正月。
年越しの瞬間に大きな出来事はなく、次の日の朝を迎えた。
正月といえど、謹慎処分の最中の秀也は初詣にも行けない。ひたすら自宅で過ごしている訳だが、静かな正月も良いものだとこんな時に思う。
秀也が起きると、隣で寝ていた玲も目を覚ました。起こしてしまっただろうか。
「おはよう、玲」
「ん……、おはよう」
やはり眠たそうにしていて、目を擦っていた。
「年、明けたな」
「……明けたね」
玲に対して、あけましておめでとうとという言葉が言えなかった。こんな時に意識してしまうとは、過去の玲を。
居場所を作ることに精を出していたはずなのに、切り替えていたはずなのに。まだどこかで、幼い玲の中にいる彼女の存在を探している。面影を探している。
正月という年一回のイベントなのに、めでたいはずのものに心が盛り上がれなかった。
朝から家族皆でおせちを食べ、正月特番を見て団欒し、ひたすら穏やかに過ごす。
テレビを見ている玲は、とにかく面白そうに笑っていた。こっちが微笑んでしまうくらい、純粋な笑顔だった。
もしかしたら過去の玲は、このようにテレビを見て、誰かとその気持ちを共有することさえもできていなかったのかもしれない。そう思うと――。
いや、やめだ。過去の彼女のことはあまり考えないようにする。今存在するのは、目の前にいる玲なのだ。過去のことを考えても引きずってしまうだけ。今の彼女を幸せにするには、思い出すことは不必要。
……でも、少し悲しかった。過去の玲から離れ、幼い玲を大事にすると、秀也の知っている彼女が手の届かないところに行ってしまうようで。
「玲、テレビ面白い?」
「うん。この人達面白いよ!」
テレビに映っているのは、正月ならではのお笑い番組。小学生の趣味に合っているのかはわからないけれど、彼女が満足しているのでこれでいいだろう。
「お笑い好きなのか?」
「んー、あんまりわかんないけど、なんかね? みんなを笑わせようと頑張ってて、それで私も笑顔になってるとすごいなーって思っちゃうの」
「……そっか」
深く考えるのはやめよう。
お昼になる直前、秀也の携帯に着信があった。和哉からだった。
玲が追想転移した翌日、実はその時も和哉からの連絡があった。けれど、その時は頭の整理の方でいっぱいだったため、電話に出れていなく、そのままだったのだ。
「もしもし?」
『あ、もしもし? あけましておめでとう、シュウ』
「……ああ。おめでとう、カズ」
和哉に対しても、おめでとうの言葉を出すのに時間がかかった。
『大丈夫か?』
「なにが?」
『しばらく学校に来れないって聞いた。それに……』
その後の言葉はなかなか続かれなかった。なんとなくその名前と事実を言うのに、躊躇ったのではないかと思った。
「ああ。まあそれなりに上手くやってるよ。まだまだ大変だけどさ」
『……だよな。家、隣って言ってたよな? 会いに行ったりしたのか?』
「まあ、うん。その辺は今度詳しく話すよ。……そのことなんだけどさ」
それから秀也は、玲の年齢が変わってしまい、今は九歳であることを話した。それから、秀也が謹慎になった理由も。
『……シュウ、お前全然大丈夫じゃないだろ』
「いや、今はさ、今いる玲のために頑張ろうって決めたから。落ち込んでる場合じゃない……っていうか」
『シュウ、そんな強がる必要ないって。なんでそこまで責任感じてるのかは知らないけどさ、ここでシュウまで壊れたら元も子もないだろ』
一番の友達なだけあって、心の中は悟られているようだった。心の通じ合った相手だと、嘘すら簡単につけないらしい。
「……ありがとう。でもさ、限界じゃないんだよ。救われることもたまにあるからさ、まだ頑張れる気もするんだよ。だから、俺が学校行った時に、たくさん話でも聞いてくれ」
『おう。寝るまで付き合ってやるぞ』
「そこまではいい」
そうして通話を切る。
なんだか久しぶりに話した気がしたけれど、秀也にも心強い味方がいるということに改めて気付かされた。
幼い玲にとって、こんな存在が見つかればいいなと、秀也もそのうちの一人になれればいいなと、そう思った。
年が変わったこともあって、玲のことについて真剣に家族と話すことになった。正月くらい、真面目な話を忘れてもいいと思ったけれど、両親揃って言い出すのだから、仕方ないだろう。
ちなみに玲は、たった今お風呂に入っているため、会話が聞こえることはない。
「今まで聞いてなかったけど、玲ちゃんはどうして追想転移したの?」
「家庭でのストレスと、やりたいことが出来なかったこと。それと……俺がちゃんと見ていなかったことが原因だ」
そんなつもりはなかったのに、つい自虐に走る。今まで罪悪感が消えることはなく、自分自身を許すことなんて簡単にできそうにない。そんな心が勝手に喋りだしたのだ。
「……そう。あまり、自分を思い詰めすぎるのもよくないから、そこは気を付けるのよ。玲ちゃんだって、秀也のせいなんて思ってないだろうし」
「……うん」
自分でもびっくりするほどの空返事だった。
母が続けて話す。
「それにしても、家庭のストレスは……どうしてあげるのが正解なのかしら」
「普通の日常を一緒に送ればいいと思う。玲にとっては、小さな幸せを積み重ねることが、何よりの幸せだと思うから」
「そうね」
誰かと遊ぶことすらなかった彼女にとって、秀也たちのように過ごすことは非日常なのだろう。でも、それを当たり前にしてあげたい。本当に些細なことからだが、そのたびに笑顔になるのならばそれが一番だろう。
また、話のついでに秀也は悩みの種を打ち明ける。
「一緒に暮らしてて思うことなんだけどさ、たまに過去の玲を思い出しちゃうんだよ、……今の玲を見て。それがどうしても治らなくて、困ってるっていうか……」
「どうして困ってるの?」
「だって、今の玲を幸せにするなら、過去の玲を引き合いに出すのは違うと思う。もちろん、一緒に楽しいことをするっていうことは、過去の玲もできなかったことだけどさ。でも、面影とか探しちゃうのはダメだろ」
そう弱みを見せるように言った時、今まで一言も発さなかった父が、満を持して話し始めた。
「それは違うんじゃないか、秀也。過去を引きずらないのは大事だが、過去を振り返らないのは違う」
「そんなことは分かってるよ。でも、それとこれとは状況が違うだろ」
「結果、秀也が満足する未来が来ればいいけどな」
吐き捨てるように言った父を見て、なんだか苛立ちを覚える。
全然理解ができなかった。今の玲のためを思って、幸せにするために必要なことではないか。正直秀也だって、やりたいわけではない。忘れたいわけではない。けれど、それでも今の彼女のために行動しようと決めてしまったから、頑張っているのではないか。
そんな文句をぶつけてやろうとした時、
「お風呂あがりましたー」
と、玲がお風呂から戻ってくる。
父に反論しようと思っていたのに、これからは会話を聞かれてしまうため、この時点で終了となる。三人は何もなかったかのようにいつも通りに戻った。
もし、父のいうことが本当だとして、……本当に、玲を思い出してもいいというのだろうか。
自分の部屋に戻るとすでに幼い玲がいた。秀也の机に向かって何かしている。
「何してるんだ?」
「んー? お絵描き」
なんとも可愛らしい。幼いといっても、他の子よりも彼女は大人びているように見えていたから、お絵描きなどの子どもらしいことをするとは思っていなかった。女の子であるのだから、それくらいは素直にしたいのだろう。
だからこそ、こういう場面を見ると心が穏やかになるし、玲がやりたいことを出来ているということにも繋がって、とても安心するのだ。
全く許可は取っていなかったけれど、興味本位で彼女が描いていたものをちらりと覗く。
すると、描いていたのは……桜の木だった。
「……さ、桜?」
「うん。今日夢見たの」
「初夢ってやつか」
「そうなのかな? あのね、あまり覚えてないんだけど、知らない男の子が夢で出てきたの。私がすごく困ってる時に、その男の子が助けてくれたの。手を引っ張ってくれたの」
「………」
「その時に見た桜がすっごく綺麗で! とてもキラキラしてたの! その桜が夢なのに頭から離れなくて、つい絵で描きたくなっちゃった」
「……そう、なのか」
なんというか、秀也の中の雑念が吹っ飛んだというか。
たった今言っていた夢というのは、明らかに過去の玲の記憶だ。
追想転移した者の記憶が継承されるという話は聞いたこともないし、あるはずもない。そもそも変わったのは記憶だけでなく、人間そのものも変わっている。
でも何故か、幼い玲には一部の記憶がある。これも追想転移のイレギュラーの一つなのだろうか、とにかく普通では起こり得ないことが起こっている。
追想転移というシステム自体、SFと言っても過言ではないのだから、イレギュラーが一つ増えたと解釈しても不思議ではない。
幼い玲が桜を知った――思い出したことにより、秀也は気付いた。
今までは過去の玲のことは忘れ、今の彼女が望むことをたくさん与えようと思ってきた。だって、性格も好みも違うと思っていたかあら。
でも桜の絵を描いている彼女の表情はどうだろう。好みが違うだなんて言えるはずもないくらいの笑顔。
もし過去の玲と違わないのであれば、過去の玲が出来なかったことを、今の彼女に与えればいいと思えた。
忘れなくてもいいのだ。わざわざ目を逸らす必要も、頭から取り除こうとする必要もない。今まで秀也は、今の玲を考える最中に過去の玲を思い出すのは失礼かと思っていた。でも、同じ喜びを与えられるのならばそれでいい。
それに、玲が桜並木を守りたがっていた理由もやっとわかった気がする。なぜ忘れていたのだろう。だってあの時、彼女は桜にあんなにも見惚れていたではないか。その景色が、彼女の記憶に鮮明に焼き付いていたのだ。だからこそ、あの桜並木が大事にしていたのだ。
そう思うと、連れ出した秀也も悪いことをしたのではないと、今改めて思う。あの時の記憶が、玲にとっての宝物になっていたのだとしたら、その宝物を今度は秀也が精一杯輝かせていこう。
「玲、もうそろそろ俺は学校に行き始める。そうしたらさ、帰ってくるのが少し遅くなるんだ。それでも待っててくれるかな?」
「うん! もちろんだよ」
その日から玲は、秀也のことを『秀也お兄ちゃん』と呼ぶようになった。呼び方が一緒でないことに多少の寂しさを覚えたが、『秀ちゃん』と呼べる間柄ではないことは理解しているつもりだ。それでも、まさかお兄ちゃんと呼ばれるとは思っていなかったけれど。
兄弟がいない玲にとって、兄のような年齢の秀也は、近しい存在に見えたのだろう。
彼女の両親は離婚し、家での望さんはただでさえあんな横暴っぷり。そうなってしまうと、家の中で心を許せる相手は存在しなかっただろう。友達を作ることもあまり許されていない中で、兄弟という立場は過去の玲にとって本当に望むものだったのかもしれない。その気持ちが、今の玲にも通じているのかもしれない。
本物の兄弟になるというのは不可能だが、心を開いてくれるのならそれでいい。
玲が笑顔でいられるのなら、それでいい。
約二週間後。
冬休みが明け、その一週間後に謹慎が明けた秀也は、しばらくぶりの登校ということになった。
公安勤務を明かせられないため、謹慎の理由は家庭の都合で通しているようだった。だから休みの理由を皆に問いただされることもない。
しかし和哉だけは事情を知っているため、朝一番に話しかけてきた。
「シュウ、久しぶり」
「うん。久しぶり」
「どうだ、体調っていうか気分の方は」
「あ、あー……」
そういえば和哉と電話で話した時は、まだ沈んでいるときだったかと思い出す。
「それなんだけどさ、今――」
そうして和哉に電話では話せなかったことを話す。主に一緒に暮らしている件について。
「シュウ、早く言え」
「すみませんでした」
「まあでもさ、落ち込んでばっかりじゃないなら本当によかったよ。でもやっぱり、自分を追い込み過ぎるのは良くないと思ってる」
「わかってる。それに、こうやってカズに全部吐き出せてるから、気は楽なんだよ」
「ならよかったよ」
このクラスから村上と玲がいなくなり、籍に空きができた状態でこれからは日常が進む。秀也には和哉のような仲間がいるのだと改めて気付き、この友達を大事にしていきたいと素直に思った。
放課後はやはり生徒会。秀也がいない間も生徒会は開かれ続け、二人不在の中でも奮闘していたらしい。ここに来て、秀也の一喝が効いたようだった。
今日の活動内容は、新しい会長候補について。当然玲が追想転移したことは皆に知れ渡り、もうこの学校に来れないことくらい把握している。
だからこそ、新たな会長を決めなければいけないのだ。
副会長は秀也なわけだが、こういった状況な以上、どうやら会長になる権利は平等にあるらしい。だから、生徒会に所属している人であれば誰でも可能だとか。
もちろん、新たに選挙をして、生徒会に所属していない人がなるという選択肢もある。その方法を含め、皆で話し合う必要があった。
けれど秀也は、どうしても会長という座が欲しかった。
プライドなんかはどうでもよく、他の生徒会メンバー全員に頭を深く下げて懇願した。そしてもう一つ、秀也のわがままを聞いてもらうために、再び頭を下げるのであった。
その結果、新たな会長には秀也が就任することになった。わがままも全て呑んでくれて、望んだ環境ができあがる。
これで、秀也が為すべきことを果たすことが出来る。
その日からの活動はひたすら忙しかった。
校内で人を呼び寄せ、校外でも暇さえあれば活動し、公安の繋がりを使って区役所にも出向いた。
仕事が増えた分、帰りは遅くなって毎日玲を待たせることになった。それでも玲はいつも秀也の帰りを、笑顔で出迎えてくれる。その笑顔で明日も頑張ろうという気持ちになれた。
この生活もあと少しで終わる。仕事が完遂されるまで我慢してほしい。
三月十二日。
陽ノ森高等学校では三年生が卒業し、受験関係の都合上で在校生はしばらく家庭学習期間となっている。この期間を使って、秀也は玲を連れてお出掛けをすることにした。
「秀也お兄ちゃん、どこに行くの?」
場所も告げずに家を出て、近くにある目的地に向かって歩く。
「ん、そんなに遠くないから楽しみにしてな」
今日は秀也が裏で回していた作業を、彼女に見せるために外に出ている。もっとも、裏工作といっても頭を下げてまでお願いした件のことであるから、秘密にしていたのは玲にだけなのだが。
人通りが次第に多くなっていく。視界にそれがどんどん映っていき、ずっと見せたかったものを見せることができる。ここで玲が見たものとは――
「わぁ……!」
瞳をキラキラと輝かせ、色鮮やかなそれに釘付けになっていた。他の建物や人には目もくれず、それしか目に入っていないよう。秀也としても予想通りの反応だったため、この一瞬だけでも努力した甲斐があったものだ。
「綺麗……!」
「だろ? もしかしたら思ってたものとは違うかもだけど、これは、俺にとっての宝物でもあるんだぞ」
幼い玲の瞳に映っているのは、深い記憶の中にある……桜並木。
過去の玲の思いを、今の玲を通して知った時から、桜並木を守る計画を立てていた。どうしても学校の力ではどうにもならないということで、公安伝いに区役所まで行き、この工事を管轄していた人と話すことも出来た。
しかし秀也一人の力ではどうにもならなかった。偉い人と話すことが出来ても、ただ押し返されるだけ。そのため、陽ノ森高等学校の生徒だけでなく、校外の人にも協力を仰いで署名活動をした。
過去の玲がどうしても解決できなかったマンション設立の案件。その計画のためには、確かに桜の木のサイズが大きすぎた。この計画を白紙にすることはもちろん不可能。
だから秀也は、木の伐採ではなく剪定の提案をした。
桜並木を守りたいと考えている人が多いことを説くための署名活動。その上での剪定案によって慈善団体に直接交渉することもでき、ようやく叶えることができた。
桜は既に剪定されてしまったため、見た目の豪華さこそ薄れてしまった。ただ学校の敷地内は全て保護することができたため、何も変わらず華やかで綺麗なままの桜の木が残っている。
だからといって敷地外まで広がる並木道が綺麗でないということではない。初めてここを通った人がいれば目を奪われるだろうし、見慣れている人も綺麗には見える。
ただ、玲が感動したものとは少し違っているだけだ。満足するものを見せられないのではと心配だったが、先程の反応を見ている限り、心配など無用だったらしい。
もっと時間が経ち、彼女が高校二年生になった時には、この桜が大きくなって、剪定される前の完全体になってほしいと思う。今は満足できていても、過去の玲が目を奪われた桜はこんなものではないと知ってほしい。だからこれからもこの桜並木を守り続ける。
隣にいる玲はまだ桜に釘付けで、下手をすれば声をかけるまでずっと立ち止まったままなのではないだろうか。それほど彼女の瞳に綺麗に映っているようだ。
「玲、大丈夫?」
「あ、うん。大丈夫だよ。見惚れちゃってた」
「そっか。初夢で桜の夢見てたって言ってたから、どうしてもこの桜並木を見せてあげたかったんだ。最近帰りが遅かったのも、そのせいだ。ごめんな」
「ううん。ちょっと寂しかったけど、大丈夫だよ!」
彼女の表情から笑顔は一切消えることなく、言葉の端々全てに嬉々とした様子が見られた。
ちなみに、玲は四月から近くの小学校に通い始める。もちろん、過去に秀也と玲が通っていた小学校。
国の制度として、追想転移した後は一定期間、回復の時間を与えられている。その期間がそろそろ終了し、普段通りの生活をさせなければならないのだ。流石にこのままずっと家で過ごさせるわけにもいかないということ。
そのため、小学校三年生までの過程を秀也が時々教えていた。正直三年生の範囲なんて正確にわかるはずもなかったから、教えすぎな部分もあるかもしれないと危惧している。そんな悩みも、今となっては幸せな悩みかもしれないが。
並木道を少し歩きながら、玲に話しかける。まだ周りをうきうきで見ていた。
「そういえば、来月から学校だけど、不安か?」
「緊張はするけど、頑張れるよ」
「そっか。でも、無理はしなくていいんだからな。いきなりで辛かったらいつでも俺に言うこと」
「うん。でもね、夢があるからなるべく頑張りたいの」
「……夢?」
そんな話は初めて聞いた。今日まであまり家から出なかった玲であるから、なりたいものを見つけることも難しいはず。
その後彼女は、何かを誇るように話し始めた。
「うん! なりたいものを見つけたの。私ね、先生になりたいんだ」
「………へ、へぇ」
まさかその単語が出てくるとは思わなかった。
「まだ学校に行ってないのに、憧れたんだ……。テレビで見たりしたのか?」
「ううん。私ね、秀也お兄ちゃんみたいになりたいの」
「俺?」
「うん。記憶がない私をずっと見てくれてたでしょ? 私も秀也お兄ちゃんみたいに、困ってる人を優しく助けてあげたいの。だから、先生になりたい!」
「………」
幼い玲は、夢として過去の玲の記憶を見ることができていた。性格は違えど、共通点として思考も似るのだろうか。それとも、同じく夢で記憶を見たとか。
そんな詳しいことはわからないけれど、同じものを志すからには、きっと強い理由がある。桜の夢だって、過去の玲の強い意志と思い出があったからこそ見れた。
玲が初めて先生になりたいと言ったのはいつだったか。確か秀也が遊びに連れ出した時だった。その時に、彼女は突然言い出した。
もしかすると、過去の玲も秀也を見て、教師になりたいと言ったのだろうか。あの時に彼女は救われたと言っていた。だとしたら、その手を引っ張った秀也自身に憧れて教師を志した可能性は十分にある。
予想もしなかった理由に、突然胸を打たれる。熱いものが満たしていた。
玲がいなくなった時の悲しみ、過去の玲の知らなかった思い、隣にいる玲の思い。それらすべてが秀也の心に深く響いている。玲がいなくなった後も、彼女は秀也にたくさんのものをくれている。たくさんの感情を与えてくれている。
「秀也お兄ちゃんどうしたの?」
突然様子が変わった秀也に、心配してくれた。知らぬ間に涙も流していたようだ。
「……ごめん。なんでもないよ」
今悲しみたいわけではなく、ただ今の玲に伝えたいだけなのだと。だからこれ以上涙が零れないように必死にこらえて、真っすぐに見て伝える。
「なれるよ。玲ならきっと、いい先生になれる。だってさ……」
過去の玲も、今の玲も変わらない部分。
「だってこんなにも、温かいんだから」
こらえようとしてくる涙が、どんどん溢れてくる。もう、歯止めなんて聞きやしない。だから、せめて笑顔で告げた。
「うん。ありがと!」
そう満面の笑みで応えてくれた。
記憶も性格も年齢も、秀也への呼び方さえ違う。けれど思考や信念は近しいものを感じた。
秀也はかつて望んだ姿に、果たしてなることはできたのだろうか。変われてなんていないのかもしれない。苦しい思いをしている人を助けたくて、公安に入ることを決意した。その結果、良い方向には向かうことができなかったかもしれない。
でも、それが全て悪い方向に傾いたとも思えなかった。救いたかったと思う気持ちはあるけれど、それよりも誰かを笑顔にさせたい気持ちの方が強かった。悲しみを取り除くよりも、その更に先の幸せに近付かせたい。そうして、なりたいものを変えていく。自分が満足する姿に近付いていく。
追想転移というシステムが一種の自殺行為だったり、人生を諦めてしまった人の行く末だったりするのかもしれない。今の自分の力だけでは、たくさんの人を救うことはできないかもしれない。そうだとしても、今目の前にいる人のための行動はできる。だから、人を笑顔にさせるための努力は欠かさない。まずは玲がずっと笑顔でいられるように、居場所を作り続ける。
ここにはいない、彼女の面影を噛みしめながら――
「玲、今日はたくさん遊ぼうか」
「うん!」
手を繋いで二人は歩み続ける。幸せという名の、明るい未来へ。
進む方向を疑ったりはしない。だって二人の進む道は、こんなにもキラキラと輝いているんだから。