変わりたかった。変わらなければいけないと思っていた。
 最初はただ、つまらない日常を過ごすことに嫌気が指しただけだった。
 皆と一緒の学校へ行って、一緒の時間を過ごして、一緒の思い出を作る。素敵なことのようだけど、どうしてもその他大勢の中に自分がいるような感覚しか湧いてこなかった。

 だからといって、何か特別な行動をすることも、奇を衒った発言ができるわけでもないけれど。
 朝は登校して、退屈な授業を受けて、家に帰ったらゲームで暇を潰す。そんなことしかできなかったし、変わるための勇気なんて簡単には出るはずもない。

 でもあの瞬間、自分が変わる絶対的な理由ができた。やりたいこと、というより、果たすべきことのようだけど。
 役割のように感じたからか、自分が変わる理由ができた嬉しさよりも、焦りが勝った。
 もちろん理由ができたその日その瞬間から、変わるための行動はしてきたつもりだ。
 しかし、すぐに自分が納得できる姿にはなれない。あまりに規模が大きいことに対して右往左往するだけ。

 約五年前、世界中の人の常識を覆すシステムが作り出された。

 この世には並行世界というものがある。世界と分岐し、それに並行して存在する世界のことを指す。自分たちがいる世界からは、並行世界がどうなっているかは分からない。パラレルワールドという人もいる。

 研究者たちによって、並行世界へ干渉することが可能になった。その使い道を考え続けた国は、今の自分と並行世界にいる自分を入れ替えるシステムを作り上げた。
 そしてこのシステムを追想転移と名付けた。

 東京にある転移公安委員会に行けば、任意で簡単にできてしまうこのシステムだが、実は絶対的なものではない。実体を交換できるという画期でもあり不審でもあるこの追想転移は、行う際に必ず記憶を失い、元の自分と性格が多少変わってしまう。

 並行世界は一つだけではなく、いくつかあるとされていて、どの並行世界の自分と入れ替わるかまでは制御できないらしい。また、すべての並行世界の時世が同じというわけではない。それが記憶を失う程度や精神年齢の差異、稀に年齢さえ変わってしまう原因となるのだ。
 この不具合を、国は個人差と言っている。

 加えて、記憶を失うと言っても、ほとんどの記憶は消え去ってしまう。精々覚えていても自分の名前くらいだ。一般常識が失われたケースは未だ聞いたことはないが、理論上はあり得るのかもしれない。
 できたばかりのシステムであるから、わからないことだらけである。
 
 国はこの追想転移のシステムを、人生のやり直しを目的で推奨している。これから先の人生に絶望してしまった時、挫折するのではなくやり直す。そんな選択を与えた。

 けれど、このシステムに簡単に手を伸ばすのはあまり現実的ではないし、良くないとも言えるだろう。そもそも追走転移自体が、一種の自殺行為と言えてしまうのだから。

 
 水上秀也(みずかみしゅうや)は高校二年生でありながら、転移公安委員に勤めている。普通なら認められない事例だが、学生で公安の者がいるという利点を説明した結果、利害一致の例外として認められた。
 転移公安委員会も新たにできたばかりの機関なのだから、こういった例外も多くあるようだ。しかし、決してこのことは口外してはならないと釘を刺されている。

 秀也は、追想転移のシステムに批判的な人間なのである。どんな理由であれ、記憶を消してしまうのはあんまりだと思うのだ。嫌なことがその直前にあったとしても、記憶の全てが絶望へ導くはずがない。必ず、その人にとって宝物となる記憶が存在すると信じている。

 そのため、公安に出向く人を減らすために、自ら公安に勤めているのだ。
 しかし不都合なことに、追想転移しようとしている人を物理的に止めるのは、人権侵害の観点から禁じられている。秀也が出来ることは少ないけれど、現状把握や制度をいち早く公安で知ることはできる。
 そして秀也には、他でもない公安に勤める絶対的な理由があるのだ。


 また、公安に勤めてはいるものの、普段はただの学生である。日本で随一の進学校、陽ノ森高等学校の二年生。
 普通の学生ではないからといって、優越感に浸って過ごしているわけではないが、周りから見れば至って普通の高校生。
 普通じゃない点で言えば、一応学年で次席という立場にいることくらいだ。

 将来を見据えての努力というわけではないが、一度ついた習慣から抜けることができず、日々勉学に勤しんでいた。

 ちなみに、公安に勤めているというのは、担任と校長にしか伝わっていない。

「二週間後、生徒会選挙が行われる」

 朝のホームルームで、担任が諸連絡をしている最中。
 朝の連絡の時間なんて、学生にとってはただ億劫なだけの瞬間で、秀也の視界に見える皆の姿は、気だるげそうにしている。中には、担任にバレないように机の下でスマホをいじっている人まで。

 そんな中、秀也だけはソワソワして仕方なかった。なぜなら、この後自分の名前が呼ばれるから。

「うちのクラスからは、生徒会長に高峰が、副会長に水上が立候補してる」

 担任の声を聞いたクラスメイト達の視線が、二人の下へ集まる。驚き、賞賛、無関心、様々な思いを孕んでいた。

 高峰玲(たかみねれい)、この学年の主席。容姿端麗、温厚篤実、才色兼備。無数の褒め言葉が彼女に当てはまると言っても過言ではない人物。非の打ちどころのないその性格から、誰も彼女が生徒会長に立候補することに対して、驚きの眼差しを向けることはなかった。全ての人が当然と感じた。秀也もそのうちの一人だ。

 ざわざわとした空間が静まりを見せたころ、再び担任が教卓の前で話し始め、

「じゃあ二人とも、意気込み的なものを一つもらっていいか」

 と、要求する。
 これはホームルーム前に職員室で伝えられていたことで、この一言を考えていたから、秀也はソワソワしていたのだ。

 秀也の左斜め前に見える玲は、早速席から立ち上がった。
 皆の注目が集まる中、明らかな冷静さを見せながら一言。

「学園祭や体育祭など、学校行事をもっと盛り上げていきたいと思います。応援よろしくお願いします」

 拍手の中、彼女は一礼して座る。次はもちろん秀也の番。
 人前に出るというのはあまり得意ではない性格だが、選挙演説の時よりマシだと自分に言い聞かせて立ち上がる。
 そうして言葉を放つ。

「まあ、基本は同じです。応援お願いします」

 とだけ言って座った。

 しんと静まり返る一同。これで終わりかというのが、誰かが口に出さずとも伝わってきた。
 そして十数秒経った後、微かな笑い声と一緒に拍手が鳴った。先ほどより拍手の音は小さい。
 笑みと呆れを織り交ぜた表情を浮かべた皆が、「今ので終わり?」や「やる気ないだろー」などと口々に言う。
 適当に済ませた自信は確かにあるけれど、まさかこんな扱いを受けるとは。
 
「えー、会計長、議長などの他の生徒会メンバーは、全て他クラスの生徒が立候補した。うちのクラスの二人は信任投票だが、他は決選投票になる。そして今日から、選挙当日まで校内活動が――」

 そこからは担任が話すだけで時間が過ぎていく。
 先ほどの一波乱とも言える一瞬とはうって変わって、いつもの日常の始まりを予感させた。


 ホームルームが終わるとすぐに、秀也の席の周りにクラスメイトが数人集まってくる。どうやら皆選挙の話をしに来たらしい。

「やっぱり秀也が立候補したんだね」
「さっきの一言めっちゃ酷かったな」
「副会長なれないんじゃない?」

 言われたい放題である。

「お前ら、俺を責めるのはいいけど、俺以外誰も立候補してないんだから偉く語るなっての」
「高峰の後にあんなこと言う秀也が悪い」

 反論も受け入れてもらえなかった様。
 そうして一時間目の授業が始まるまで、周りのクラスメイトを適当にあしらう。笑い物の中心となっていたその時、秀也の席から見える、とある光景が目に入った。
 生徒会長に立候補した高峰玲、彼女の席の周りには誰も集まっていない光景が。

 実は、これがこの学校の主席の姿なのだ。学力以外の能力も優れていて、容姿も恵まれている彼女が、交友関係に乏しく話す場面がない現状。
 休み時間でさえも一人で勉強に勤しんでいるため、声をかけにくい空気が完成してしまっている。
 放課後に遊びに誘っても、勉強を理由に断られてしまうことが多いから、堅い印象ばかりが強く根付いているのだ。もっとも、容姿は非常に優れているため、男子からの評判はいいらしいが。
 孤高であり孤独。それが高峰玲という人物である。

 この学年は、人気でも嫌われてもいない首席の生徒会長候補者と、比較的受け入れられている次席の副会長候補者で成り立とうとしていた。
 しかしこの中で秀也だけ、玲が堅苦しい性格ではないことを知っていた。


 昼休みになった途端、ある人が秀也に声をかけてきた。

「シュウ、昼ごはん行こうぜ」

 彼は田沼和哉(たぬまかずや)。秀也がこのクラス――この学校で一番仲良くしている人。和哉はバスケットボール部に所属していて、所謂スタメンというのに選ばれているほどの実力者だったりする。また、他校に彼女がいるとか。
 秀也と和哉は、お互いの名前が「や」で終わることから、それを省略して「シュウ」、「カズ」と呼び合っていたり。

「うん。ただ、今日は購買でいい?」

 懸念点を先に言う。
 陽ノ森高等学校には、学食と購買の両方が存在している。大半の人は学食に行くのだが、昼食を軽く済ませたい人は購買に出向くなど、ニーズによって使い分けられている。

「いいけど、何かあったのか?」
「一応今日から校内活動できるから、昼休みの後半にする可能性を考慮した結果」
「なるほどな。それなら納得だ」
 
 校内活動とは、候補者、推薦人が自ら、選挙による一票を入れてもらうために自ら生徒達に協力を仰ぐこと。昇降口の前や、正門の前で行う人が多い。
 ちなみに秀也の推薦人は、現生徒会副会長。とても心強い立場の人物となっている。
 彼の昼休みの都合次第では、終わりの方に校内活動を行うつもりのため、しばらくは昼食を購買で済ませることが多くなりそうなのである。


 購買でパンを二つずつ買って教室に戻ってきた二人は、秀也の席の前の席が空いてることを確認して、席をくっつけて食事を始める。

 パンを食べ始める時に、秀也のスマホにメッセージが届いていることに気付き、内容を確認する。副会長からのメッセージで、校内活動は今日の放課後から始めたいという旨が書いてあった。
 秀也は即座に『わかりました。放課後教室まで行きます』と送信し、買ってきたパンを食べ始める。

「カズ、昼の校内活動なくなったわ。学食行っておきゃよかったな、ごめん」
「いやいや、仕方ないことだよ。明日からも購買なら、ちゃんと付き合うよ」

 和哉は筋肉質の、いかにも体育会系という見た目であるため、昼食がパン二つでは、当然足りるわけがない。
 それでも彼は秀也に合わせてくれているのだ。悪いとは思っているけれど、そんな優しいところを秀也は気に入っていた。

 普段二人は学食で昼食を済ませているため、昼休みの教室の様子を知らなかった。もちろん学食に行っている生徒が圧倒的に多いため、教室に残っている生徒は少ない。一人一人数えることが容易なくらいだ。

 その中に玲がいて、やはり一人でお弁当を広げていた。
 和哉を含めた、この場にいる十人弱はこの状況をなんとも思っていない。数人でグループを構成し、それぞれのグループ毎で昼食をとっている中、玲だけ一人という状況を。
 所詮はいつも通りだと、誰も目を向けてさえいない。このクラス、学年ではそれが当たり前なのだ。
 けれど秀也だけ、玲の背中から孤独を感じる。彼女が寂しいと言っている気がした。だからと言って、すぐ行動に移せるわけでもなかった。なぜなら、玲の方から壁を作られている気がするから。
 寂しいと嘆いていても、その本人が壁を作っているのだから、何が正解か、どうするべきかなど簡単には決められない。
 それが、秀也が日常で終始考えていることだった。

 二人が昼食を食べ終えた頃、和哉がそういえばと前置きを挟んで話し出した。

「隣のクラスの斎藤が、一昨日追想転移したって話知ってるか?」
「……え、なに、それ」

 確か斎藤とは、サッカー部のエースではなかっただろうか。追想転移したことに驚いたのは確かだが、そんな人がという部分にも驚いた。
 そもそも追想転移自体に、皆は何ともいえない反応を示す。一種の自殺行為とも捉えられるそれなのだから、喜びを見せる人はいなく、どちらかというと悲しみが先に出てくるだろう。
 
 ただし秀也は、明らかなショックを受けていた。正直な話、追想転移したのが斎藤でなくてもショックは変わらないのは否めない。けれど、人一倍は悲しんでいる自信があった。
 秀也は転移公安委員に勤めているけれど、追想転移することに反対している。
 話したことがない人だけれど、かなり身近な人物に起きた事態と考えてしまえば、募っていくのは自分の無力感。ただただ辛いだけ。

「そんな追想転移するほど、だったの?」
 
 斎藤と話したことがないため、詳しいことも知らず。その前兆があったのかを聞いて見ることにした。

「んー、俺もあんまりわかんない。けど側から見る分には全然そんな気しなかった。話した時もすげーいいやつだったし」
「……そうなんだ。本当に謎なんだな」

 原因さえわからないことに残念さを隠し切ることができず、吐き出すように言った。
 その後に和哉は、

「うん。でもあいつってサッカー部のエースだろ? そういう恵まれてるやつなりの悩みってのもあるかもな」

 と言う。
 妙に的を得ているような気がした。和哉の目から見て、性格もいいと評判なのであれば、悩みなどないように普通なら見える。
 けれど恵まれている人だって、楽に生きているわけではないだろう。人間なら誰だって、周りの人からは理解しえない事情があったりする。それが原因なのだとしたら、簡単に気付けるはずがない。

 秀也は追想転移する人を減らしたいと考えている。だからといって自殺を勧めるのではなく、追想転移しようとした根本を解決したいということ。
 人それぞれの悩みがあって、その悩みを上手に緩和する。しかし、その悩みはすぐ気付けるものもあれば、今回のように最後まで気付かないことだって。
 それが改めて難しいことだと学び、この先に若干の不安を抱いて、今はそれを悟られぬように必死に演じるだけで精一杯だった。


 放課後、副会長と校内活動を終わらせ、一人で教室に戻る。部活動で校舎に残る生徒はまだまだいるが、その生徒たちまで待っていたらキリがないため、いい具合のところで切り上げたのだ。
 鞄を取り教室へ入ろうとしたところ、一人だけ教室に残っているのが外から見えた。玲だ。
 机に向かって座り、何か書いているよう。いつもの如く勉強しているのだろうか。

 その姿を見て思い出す。二人きりの瞬間なんていつぶりだろうかと。いつもは周りに合わせてというか、話しかけにくいというか、そんな理由で玲と接することなんてなかった。
 でも、今なら話しかけても自然なはず。というか、話しかけない方が気まずいのではないだろうか。ならば逃げずに話してみよう、そう決意して扉に手をかける。

「あれ、玲じゃん。まだ残ってた――っていうか、校内活動はしてなかったんだ」

 軽く小芝居を打って、なるべく自然になるようにする。

「……! あ、うん。今日は会長が休みだから、明日からになったの」

 久しぶりの会話はぎこちなかった。
 その後の会話の繋げ方を一瞬忘れてしまいそうになったが、ここで終わっては意味がないとなんとか喰らいつく。

「そうだったんだ。だから居残りで勉強って、相変わらず変わんないな」
「まあ、私にはこれくらいしかやることないし」

 はっと自分で言ってから気付いた。少し棘のある発言だったかもしれない。
 彼女の反応的にも、このまま話し続けていたら無自覚に傷つけてしまう恐れがあると思った。多少の勇気を振り絞った行動だったけれど、そんな甘い考えで行動したのが間違いだったかもしれない。

 そんな自分の心を嘲り、あと一言だけ言ってこの場を立ち去ろうとした。けれど、意外なことに玲が会話を続かせるのだった。

「そういえば、今日の朝の一言、びっくりしちゃった。流石に適当すぎるんじゃない?」

 持ち出された話題は思っていたよりフラットな内容。
 彼女がその気ならと、秀也も言葉を繋げる。

「んー、人前で話すの苦手なんだよ。頑張って考えてたけど、全部玲が言ってくれたから」
「とか言って、ただ良い風に使われただけだったけどね」

 二人の間に、微かな笑いが生じる。気まずさはもちろん含んでいたけど、ただ二人が笑い合っただけ。その事実だけは変わらない。
 最後に玲と話したのはいつだろうか。思い出せないくらい前のことで、どうやって会話していたのかも忘れていたけれど、なんとなく懐かしいような気がした。心が温まるような感覚がした。

 それから二人はぎこちない会話を続ける。時間にすれば五分くらいだろうけど、それでも久しぶりの会話は素直に楽しく、普段は見られない彼女の笑顔も見ることができた。
 頃合いを見て教室を出る。

「じゃあ俺は帰るよ。またな」
「うん。また明日」

 最後はそれだけ。こんな短い会話が、その日ずっと頭の中から離れなかった。


 翌日。
 朝早く登校し、校内活動に励む。近くに玲の姿は見えていた。
 昼休みも同様に、副会長と校内活動に向かおうと思っていた時、スマホに着信が入っていたことに気付く。その着信主を見ただけで用件が容易にわかった。

 軽く周りを見て、すぐ近くにいた村上蓮(むらかみれん)に話しかける。

「村上、体調優れないから早退したって、担任に言っといてくれ」
「お、おう。わかったけど、具合悪そうには見えないよ?」
「バレたか。皆には秘密にしといてくれ」
「了解」

 駆け足で昇降口まで行き、早退する。
 これから向かう先は公安。仕事がある場合は着信が入るようになっている。稀に授業中でも呼ばれることがあるのだが、その時は授業が終わった後すぐに向かうことになっている。
 担任には、後から公安の仕事だと伝えれば問題ないように、学校側が対応してくれている。
 
 公安での秀也の仕事は、追想転移し終えた人の対応。追想転移をすると必ず記憶を失うため、利用者はなぜ自分がこんな場所にいるのか、どこに帰ればいいのか分からなくなる。だから利用者を実家に帰し、家族や同居人に説明する必要がある。それが秀也の仕事の基本であった。

 東京の中心にある公安。建物の大きさは区役所と同じくらいなのだが、国の機関であるため、警備は厳重。
 入り口には警備員が待ち受けており、公安の人間であることを証明しなければ中に入ることはできない。
 公安で働く人には、一人一人にネームカードが配られていて、入り口にある窓口にそれを示すことで中に入ることができる。一般の人は、事前に追想転移の予約を通した上で、窓口で本人確認をする。基本的に追想転移以外の要件では入ることができない。
 しかも一般の人が公安に入る際には、必ず警備員を伴う。それほどこの施設は厳戒態勢を敷いているのだ。

 窓口で仕事内容を聞いた後、転移室へ出向く。今日の担当はある中学校の女生徒、明智朋美(あけちともみ)という人であった。こういった情報は、窓口で貰う資料に書かれている。
 資料には住所まで書かれていて、その理由はもちろん、利用者を家まで送り届けるためである。

 追想転移は、転移室と呼ばれる場所の中の、カプセルの中に入ることによってできる。転移室には十数個のカプセルが存在し、一人当たり一時間もあれば終えてしまう。

 朋美のカプセルは左から5番目。しばらくその前で待っていると、カプセルがひとりでに開く。追想転移が完了したのだ。
 目を開けた彼女は、意識が覚醒すると表情が突然強張った。

「だ、誰ですか?」

 いかにも怯えた顔で秀也に聞いてくる。利用者の大抵は、この反応を示す。
 これに対して秀也は、仕事モードに切り替え、対応を始める。

「初めまして、水上秀也と申します。まずはそこから出てきてくれませんか」
「は、はい……」

 記憶をなくした人に、この施設やシステムのことを一から説明しても伝わらないことは、とうに理解している。ただの経験則に過ぎないが。
 だから効率を求めるためにも、まずは家に帰すことを先決する。とは言っても、多少の説明はしないといけないが。

「ええと、自分の名前、言えますか?」
「あ、明智朋美です」

 名前は覚えているようだ。

「ちゃんと覚えていますね。俺はこの公安に勤めている、水上秀也と言います」

 名刺を渡しながら伝える。

「決して怪しい者ではないので、安心してください」
「……あ、怪しい人は全員そう言うと思います」

 これは一本取られた。

「それもそうですね。じゃあ身の危険を感じたらすぐに通報してください。――それでですね、まずは明智さんを家まで送りたいと思います」

 あまりの不審な発言に、朋美は眉をグッと寄せた。
 利用者を自宅に帰す方法だが、大抵の公安の人は成人しているため、車を使う。しかし秀也は高校生であるため、免許など持っていない。このためだけにバイクの免許を取った。

「何故家に帰すのかと言いますと、簡単に言えば明智さんには、記憶がありません」
「………」

 突然記憶がないと告げられても、何のことだかわからないという反応を示す。それは当然。
 ただ、少し時間が経つと実感が湧いてくるもの。なにせ、何も思い出せないのだから。

「今はわからなくて仕方がないです。でもこのままではいけないのも事実です。なのでご家族に説明させていただくためにも、一度ご自宅まで送らせていただきます。申し訳ないことにバイクに乗っていただきますが」

 そう指示して、朋美をバイクの後ろに乗せた。なるべく秀也を放さないように促して、エンジンをかける。
 彼女の自宅は、公安からバイクで二十分ほどの場所にある。秀也からすれば短いと思えるのだが、右も左もわからない朋美からすれば、とても長く感じるはずだ。
 見慣れない景色、空っぽの頭、知らない人の背中。安心できる材料は一つも用意されていない。この仕事の時間、どうやって安心させるべきかをいつも考えるのだが、これといった正解を見出せるわけもなかった。

 しばらくバイクを走らせていると、後ろから朋美の少し張った声が聞こえてきた。

「あの、私の記憶がないっていうのは、事故とかですか?」

 恐らく、この落ち着かない状況を埋めるための質問。なにか思い出せられるのならもっとよかっただろうが、生憎といった感じである。

「いや、実は明智さんの意思なんです。あの施設には、人の記憶を消すことができるシステムがあります。今言っても何も分からないと思いますが」
「……はい、よくわからないです」
「今はそれで充分。時間をかけて理解していってほしいです」

 そこからはあまり会話はなかった。気まずさももちろんだが、どちらかと言えば話す内容がない。そういった状況である。

 公安からバイクを走らせること約二十分後、朋美の実家らしき場所に着いた。

「着きました。ここが明智さんのお宅です。ちなみにですけど、家を見て何か思い出せましたか?」
「……い、いえ。なにも」
「……そうですか」

 正直に言うと、追想転移した人が記憶を取り戻す確率はゼロである。少なくとも、そのようなケースを見たことがない。
 変わったのは記憶だけではない。ただ記憶を失うことが追想転移ではなく、並行世界にいる自分と実体を入れ替えるため、極論、別の人間に成り変わっているのだ。
 つまり、取り戻す記憶すらない。

 そんな事実があって、思い出せるかどうかを聞いた理由は、一人の人間としてこれからの人生に絶望してほしくないからだ。記憶が取り戻せないと現時点で知ってしまっては、この先の期待すら抱くことができない。精神が不安定になることは見え透いている。
 一度は諦めてしまった人生を、二度も手放してほしくない。これが秀也の思想であった。もっとも、追想転移する人を減らすのが一番の目標ではあるが。

 朋美の実家のインターホンを鳴らす。チャイムの後に女性の声が聞こえた。

『はい?』
「失礼します。こちら明智さんの自宅でしょうか?」
『はい。何でしょうか?』
「転移公安委員の水上と申します。お宅の娘さんの朋美さんのことでお話があって、伺わせていただきました」
『………』

 返ってきたのは無言。
 一般的に、公安の人間が家に突然来るケースは一つしかない。無論、家族の誰かが追想転移したということになる。
 だから、今インターホン越しに話していた彼女は察してしまったのだ。

 しばらくした後、玄関の扉が開く。
 その女性は、秀也の隣にいる朋美の存在に気付き、すぐに悲しい表情を見せた。

「あまり長居はしないので、玄関での説明でもよろしいでしょうか」
「はい……」

 二人とも意気消沈といった様子だった。

 そこからは公安としての仕事をするだけ。
 記憶を失った初めはあまり刺激し過ぎない方がいいこと、追想転移に至るほどの過去を掘り下げないようにすること、そして今までとは性格が変化している可能性があること。それら全てを説明した。

 追想転移という行動自体、利用者以外にも大きな影響を与え、迷惑を掛けることだってある。だから実は、かなり無責任な行動だったりする。
 しかし、無責任と知った上での行動であれば、余程の理由があるということに繋がるだろう。現実逃避、人生をやり直すことを選択するほど辛い状況。それを抱え続けた結果なのだ。
 自殺にまで及ばなかっただけいいと考える人もいるが、結局は同じことだと秀也は思う。確かに、追想転移というシステムが可能になってから、自殺者の数は全国で圧倒的に減っているというデータがある。
 それでも、こうやって悲しむ人がいるということを知ってほしい。


 明智家の人に一通りの説明を終える。
 やはり、相当な衝撃を受けているようだった。大人とはいえ、信じがたい瞬間が唐突にやって来ると、すぐには受け入れられないものだ。
 一応、公安専属のカウンセリングも紹介した。これで秀也の仕事は終わりとなる。

「では、自分は失礼させていただきます。何かあればご連絡ください」
「……はい。朋美をここまで、ありがとうございました」

 気力が欠けた礼を見た後、明智家を出て、再びバイクに乗る。業務を終えたと報告するために、公安に戻る。

 秀也の仕事は毎度こういうものであり、気分は当然優れない。仕事内容としても社会貢献とは思えないし、やりがいもあまり感じない。正直に言えば、稀に公安に勤めていることを後悔してしまう。
 しかし、秀也の中にある絶対的な理由のため、この生活は続けなければいけない。この胸の辛さを、戒めかのように言い聞かせ、自分を無理に奮い立たせる。
 随分暗くなった景色の中、夜道でも明るい都市の光とは対極に、秀也の心だけは未来を暗く照らされているように感じた。


 二週間後。
 生徒会選挙は滞りなく行われ、無事に秀也は副会長の座を欲しいままにした。実際信任投票であったため、落選の可能性は著しく低かったけれど。
 それでも周りは称賛してくれた。和哉をはじめ、ほとんどのクラスメイトがおめでとうと言ってくれた。周りが称賛してくれることが、こんなにも嬉しいことだと久しぶりに気付けた気がする。

 そして今日は、選挙当選から初めての生徒会だった。
 当選した生徒会メンバーは、会長の玲、副会長の秀也と、議長の吉田と金本、書記・書記長の青山と細川、会計長の藤沢、そして庶務・広報の夏村だ。

 初回の生徒会ということで、大きな仕事から始まるのではなく、自己紹介と今後の方針を決めるのみとなっている。もちろん進行は玲が務める。
 高校二年生の自己紹介など面白いはずもなく、ただ順調に進んでいくだけ。話題はすぐに今後の方針へと変わった。

「じゃあここからは、今後の方針について話したいんだけど、皆は生徒会を通してこの学校でやりたいことってありますか?」

 生徒会といっても、裏の書類作業をするだけではない。生徒会に入るために、それぞれ公約を立てていることもあるため、何か生徒会でやりたいことはあるはずだ。
 玲の言葉を聞いて、皆は口々に話し始めた。

「やりたいこと……急に言われても思いつかないなぁ」
「進学校だから、もっと意欲を高めていくとか?」
「それだけじゃつまんなくない?」
「大体仕事ってなにするの?」
「書類作業が基本だろ」
「えーつまんねー」

 なんというか、まとまりのない集団である。意見とも話し合いとも言えないような内容がしばらく続き、このままではまずいと玲が思い、話を切り出す。

「私は選挙の時も言ったけど、もっと学校行事を盛り上げていきたいと思ってます。進学校だから、イベントの時くらい肩の力を抜いてほしくない?」

 玲が具体的な提案を一つすることによって、話し合いの方向性を決めようとした。流石と言えるだろう。

「それいいかも」
「でも行事以外の仕事ってあるのかな?」
「生徒会なんだから、それ以外もあるでしょ。イベントの時に企画としてだすだけだから、増えるだけだと思うよ」

 狙い通り、話し合いらしい内容になっていった。
 けれど、玲の一言がなければ何も進みそうになかった。果たしてこの人達は、きちんと活動する気があるのかという疑いが出てくるほど不安である。
 ちなみに、ここまで秀也は何も発言していない。

 またしばらく話が飛び交った後、再び玲が話し始めた。

「あと、私はもう一つ絶対やりたいことがあるの。学校の前の桜並木わかる?」
「あー、敷地外まで伸びてるやつ?」
「そう。それが伐採される計画が立てられてるらしくて、私はそれをなんとか阻止できないかなって思ってるの。どうしても守りたくて」
「それはどうしてですか?」
「この学校の良さを守りたいってのも一つなんだけど、正直、私情があるっていうか……」

 誰かが聞いては答え、また誰かが聞いては答えての繰り返し。しかし最後の私情を聞いた途端、皆が静まりを見せた。
 その様子を見て玲が続ける。

「これは私が持ち込んだ話だから、皆が手伝ってくれなくても私はやりたいの。一人でもやりたいことだから」

 どう反応していいかわからないといった雰囲気だ。皆の様子は、生徒会の方針の話に急に私情が持ち込まれ、なんとなく納得いっていないようだった。協力したくないわけではないが、気が乗らないような、そういった雰囲気。

「……一人でやるって言うなら、多少は協力しますけど」
「私情って言葉を聞いちゃうと、私はあんまりかなぁ……」

 いかにも賛否両論といった感じであった。やはり私情という言葉に引っ掛かっている。

 その後、玲の視線は秀也へと向けられた。一度も言葉を発していなかったため、標的にでもされたのだろうか。

「しゅ、秀ちゃんはどうかな……?」

 まずい。話を振られる以前に、皆にとあることが知れ渡ってしまいそうだ。当然周りは疑問を抱き始めている。

「秀ちゃんって何?」

 案の定質問されている。
 正直に言えば、特に秘密にしていたわけではない。だからそれが知られることは別に問題ではないのだが、秀也が気にしていたのは呼び方の方であった。

「あ、実は私たち幼馴染なの。私が小学三年生の頃に引っ越してきて、それ以来ずっと遊んでたんだよ。別に隠してたわけじゃないんだけど」

 そう、実は秀也と玲は幼馴染であった。

 玲が先程言った通り、彼女は小学三年生の冬頃、この街に引っ越してきた。その家が秀也の家の隣であったため、当然同じ小学校に通い、一緒にいることも多かった。
 さらに言えば、玲の親が仕事で家にいないことが多かったため、しばらくの間秀也の家で面倒を見ていたことも。
 その時に玲は秀也の母親の呼び方を真似て、『秀ちゃん』と呼び始めた。その名残が今も残っている。

 しかしいつの日からか、二人の間に明確な壁ができた。心当たりはあるけれど、はっきりとした理由は今も分かっていない。
 それ以来関わることがなくなった――できなくなったの方が正しいのかもしれない。周囲に幼馴染ということも伝わらず、この呼び方も浸透されなくなったのだ。

「へ、へー。そうだったんですね……」

 特別大きなことを打ち明けられたわけではないため、生徒会メンバーはまたも反応に困っていた。けれど物珍しさというのが表情から読み取れた。
 玲は学年全体に対し、会話することがあまりない。所謂業務連絡というものだけで、雑談などの日常での会話をしているところを見たことがない。だから堅苦しいイメージが定着してしまっている。
 だから、玲のことについて詳しく知る人はいなかった。幼馴染という小さな存在がいることでさえも、皆にとっては初めての情報である。しかもその相手が、副会長の秀也であるのだから、より驚くことなのかもしれない。

「――で、桜並木の話はどうかな?」

 すっかり秀也と玲の間柄の話になってしまい、肝心の桜並木を保護するという話を忘れてしまっていた。彼女が話を戻していなければ、話題はそのまま進んでいただろう。
 確か秀也に同意を求めていたはずだ。適切な返答を試みる。

「私情云々は置いといて、この学校の良さを残すって意味でも、その活動はありなんじゃない?。皆がどうするかは任せるけど、俺は手伝う気でいるよ」
「――!! ありがとう!」

 すっかりご機嫌である。
 玲が桜並木をそうまでして守りたい理由はわからないが、一人でも活動すると言っている以上、意志というか信念を感じる。彼女にとって桜並木が大事なものであるのならば、手伝いたいと純粋に思う。他の生徒会メンバーは、この際どうだっていい。

「じゃあ今日の生徒会はこの辺で終わりたいと思います。活動方針は私から先生に伝えておきます」

 そこからは会議が順調に進み、初日の生徒会は終了した。少しだけ先行きが不安に感じることもあったが、これから一年間このメンバーで頑張っていく、そう決意する。


 翌日。
 本日も放課後に生徒会があるのだが、今日は公安に活動記録を提出しなければならない。二日目にして欠席してしまうことになる。
 公安には、月の終わりに毎回活動記録を提出する。今日は十月の二十九日で、大抵この辺りに公安から催促の連絡が入る。
 追想転移利用者の確認をするためでもあるのだが、これは秀也の収入にも関係する。提出しなければその月の収入はなくなってしまうのだ。
 また、学生である以上は就職扱いにはならず、形上はバイトということになっている。学生で一般の方と同じ収入を得るわけにもいかない。

 資料を提出するだけであるため、用事を終わらせたらすぐに学校へ戻り、生徒会に参加しようと思っていた。
 しかし、結局学校へ戻った時には既に五時を過ぎていて、昨日の通りならば生徒会は終わっている時間だった。
 家に帰るのもありなのだが、実は秀也の家から学校までは徒歩で十分もかからないのだ。玲が保護したいと言っている桜並木を辿れば着いてしまう。
 学校の外から校舎の様子を見てみると、生徒会室の明かりがついていることに気付いた。

 生徒会がまだ終わっていないのであれば、少しでも参加しようと急いで向かう。すると、生徒会室にいたのは玲一人だけだった。

「あれ、秀ちゃん? 今日は休むんじゃなかったっけ」

 ドアを開ける音で気付いた彼女が、不思議そうにこちらを見つめてくる。

「用事を終わらせて学校に来てみたら、生徒会室の電気が点いてたから来た。……っていうか、一人で何してたんだ?」
「今日の仕事内容が、引継ぎ関係の書類整理だったんだけどね? 皆話しながら作業してたから中々終わらなくて。気付いたら昨日の生徒会が終わった時間になってたから、一先ず解散して残ってた書類を私が居残りで作業してたの」
「………」

 本人は精一杯笑みを作っているようだったが、バツが悪そうな様子を隠しきれていない。
 なんとなく察したことだけれど、他の生徒会のメンバーは、書類の進捗状況を確認もせずに去っていったのではないだろうか。もしくは、玲が居残りすると言っても何も思わず、自分たちは帰っていった。ただの想像にすぎないが、昨日の雰囲気を知ってしまうと、このような悪い方向へ考えてしまう。

 仮にも選挙に立候補し、当選した人達。仕事は最後まで責任をもって行うべきではないだろうか。一人に任せきりにするのは、あってはならないことだろう。
 この時秀也が彼らに対して抱いた感情は、失望だった。

「やっぱり、人付き合いって難しいなぁ……」

 ボソッと小声で放つ玲。ギリギリ聞こえた言葉だったけれど、その声の中には彼女自身を責める気持ちと一緒に、残念さが含んでいるように感じた。恐らく、彼女も皆の行動に少しだけがっかりしてしまったのだろう。
 当然だ。もちろん、玲が自分で引き受けやすい一面はあるけれど、だからといって全員が一任するのはあり得ない。ましてや生徒会ともあろう人間が。

 今すぐ彼らに文句をぶつけてやりたかった。だが、今どこにいるか分からない彼らを当てもなく探すのは現実的ではないし、玲だってそれは望んでない。今日だけは見逃すことにした。次に会う時には、怒りがこみあがってくるかもしれないが。

 だから今するべきことは、

「あとその書類、何枚あるんだ?」
「え? あと三十枚くらいかな……」
「じゃ、さっさと終わらせるぞ」

 秀也の言葉を様子から察した玲は、可愛い笑顔を浮かべて、

「ありがとう」

 そう言った。
 まずは残っている仕事を二人で終わらせることを優先としよう。

 居残りで作業をしているとはいえ、状況としては玲と二人きり。なんだか小学生の頃を思い出させるような空間で、懐かしいようなくすぐったいような、そんな感覚だった。楽しいのは間違いないけれど。
 彼女とは、一時期関わりがなかった。一時期といっても、数えてみれば五年くらいになるのかもしれない。話という話は一切なかったが、不仲などと思ったことは一度もない。逆に今この楽しい雰囲気を考えれば、なぜ話さなくなったのか、より一層わからなくなってしまうほど。

 今までの秀也の生活に、学生らしい輝かしさはなかった。公安で仕事をしている以上、人が沈んでいく姿を見るばかりで、励みになどなるわけがない。自分の心も沈んでしまう。
 それでも、この楽しさを知れたから、再び玲といることができると思えたから、自然と気持ちは軽くなった。これからの不安も吹き飛んでいきそうだった。生きる楽しみさえも与えられた、そんな気がした。