王家の秘宝が安置されている宝物庫の扉が、私の家のキッチンにあります。

「そうか」
「はい、ギルベルト王太子殿下」

 騎士団つきの魔術師からの報告に、ギルベルトは執務室で、指を組み執務机の上に置いた。今の魔術師もまた、始祖王の魔法陣について知る限られた者の一人だ。

 ギルベルトが王宮に戻ってきてから、二週間が経過した。
 秘宝を定められた位置に置き、魔法陣を起動させる事になる〝星叡の日〟まで、一ヶ月を切っている。

「秘宝の入手が間に合ったのは僥倖だったが」

 一人になった執務室で、ぽつりとギルベルトは呟く。
 次期国王であるギルベルトが自ら秘宝の捜索に行く事には、制止の声が本当に多かったが、王宮の古文書がある禁書庫自体が、王族と王族の許しを得た者しか入出できない決まりの上、精霊達に動きを気づかれないようにするためには、どうしてもごく少数で動かなければならず、なにより星叡の日になんとしても間に合わせなければならないという強い想いから、ギルベルトはキースにしか出立の日を知らせず、強引に旅立ったという事実がある。

 帰還した時の、両親――国王と王妃のほっとした顔と、同時に激怒していた姿には、ギルベルトは心配されていると心から実感し、申し訳なさを感じたものである。まだ五歳の歳の離れた弟の第二王子には泣きながら抱きつかれた。確かに、王族としては、その意識が欠けた行為だったかもしれないが、後悔はない。

 ここ最近、精霊による被害が多くなり、既に民草に精霊の存在を隠しておくことが困難なほどになってきている。理由は、精霊王の封印が解けかかっているからだ。それを強固にかけ直すためには、現状の王族の力では困難を極める。だから誰かが、始祖王と同等の、浄化の力を得る必要がある。なによりも、精霊を討伐するための武器もまた必要だ。剣や魔法だけでは負傷者無くしては討伐できないのが現状であり、錬金術師が作る回復薬は常に不足している。

「それが、(いにしえ)の昔には日常だったとはな」

 創造神とはいうが、その日常がいかに大変だったのかを想像すれば、ギルベルトは祖先に尊敬の念を抱く。だが、始祖王には仲間の術士達がいたとされる。それが今は、いない。何処は行ったのか、それもまた禁書庫の古文書に記されているはずだとして、限られた者が読み込んでいる最中だ。膨大な古文書は、まだ全てを確認できてはいない。

 理由は一つで、禁書庫自体が、危機的状況になるまで扉を開けてはならないとされていたからだ。それを知らせるのは、王冠に嵌められた宝玉で、その色が黒く染まったら、扉を開くよう伝わっていた。最初、それに気づいた周囲は半信半疑だった。だが嫌な予感がして禁書庫へと、キースを伴い踏み入ったギルベルトが、『扉』と『番人の一族』について初めて知ったのである。

 魔法陣自体が王宮の地下にあるのは、王族ならば誰でも知っていたが、その用途と起動方法を知ったのも、その日だった。次の星叡の日は、鷹の月の三日だ。それを逃せば、次は十年後まで、星叡の日は訪れない。危機は今だと記されている以上、急ぐほかなかった。

 ――宝玉の火を消せば、魔法陣は起動しない。
 そもそも、宝玉を指定の位置に置くのも、メリルにやってもらうしかない。

 ギルベルトはじっくりと瞼を伏せる。

 道中で何も知らせずに危険に遭わせた事が気に掛かっていたから、今度は彼女に事実を伝えた。誠実でいようと考えた結果だ。彼女に対してではない。己の心にだ。利己的な理由である。

「……」

 だが、と、最近思い悩むことがある。
 本当にそれでいいのか? と。

 脳裏に浮かぶのは、純真爛漫なメリルの笑顔だ。ぱっちりとした紫色をした目で、長い睫毛を瞬かせ、自分を見て両頬を持ち上げる彼女の姿。キラキラとした眼差しで自分を見上げられる度、最近では僅かな罪悪感と、不思議な感覚で胸が疼く。

 心を鬼にしてでも、とにかく利用し、ここへと同行させる。
 それが当初からの一貫した目的であり、実行した結果だ。
 今だって優しく接しているのは、魔法陣の起動のため、それだけのはずだ。

 意識的にはそう考えているのに、ふとした時に、どうしているのかと気になってばかりいる。彼女の笑顔が脳裏に浮かんでくる。

 目を伏せたままでギルベルトは腕を組む。
 きっかけは、やはり旅路だ。必死で歩く、頑張って進む彼女を見ていると、正直己もまた励まされていた。宿屋で自分より先に眠った彼女のあどけない寝顔を見ていると、きちんと守り抜き、王都にたどり着かなければならないと、決意を新たにした。いつしか、隣を歩くのが自然になっていたのだろう。

 それが、今はない。
 その必要も無い。
 あとは時折顔を出し、彼女が帰ると言い出さないように仕向けるだけだ。

 なのに――『もっと会いたい』。
 この一言が尋常ではなく嬉しかった。メリル『が』そう望んでいるからと、内心で言い訳し、ギルベルトは今では可能な限り、日に一度は顔を出すようになった。多忙な王太子としての執務の合間、不在の最中に溜まった仕事の合間を縫ってまで。

 同時に、王族は即位するまでは、騎士団に所属し、率先して精霊討伐に当たるため、その例に漏れず戦っているギルベルトには、その仕事もある。本来、討伐のあとなど、疲れきっている。それなのに、彼女『が』望んでいるのだからと部屋に向かって、笑顔を見ると、疲れが溶けていくように感じる自分がいた。

 それに気づいて、ギルベルトは思わず息を呑み、目を開いて、片手で唇を覆った。

「僕は一体何を考えているんだ」

 慌てて頭を振ると、ギルベルトの艶やかな髪が揺れた。それから彼は立ち上がり、窓の前に立った。そこから見える、広がっている、平穏にしか感じられない王都の街並みは、景観がよく、歩く者達には活気がある。ごく近くの、王宮の裏手の森に、悪しき精霊と、その王の封印があるとも知らずに。今は、王宮が防衛の砦の役目も果たしている。だが、旅路で襲ってきた時のように、例外だってある。最近では街中でる事もあるから、王国全土に騎士を派遣している状態だ。

「平和ぼけしている場合じゃない」

 気合いを入れ直して――……本日もギルベルトは、メリル『が』望んでいるから、彼女の部屋へと向かう事にした。ノックをすると、扉を開けた笑顔のキースが、入れ違いに外へと出た。扉越しに、楽しそうに話している声が聞こえた事実に、何故なのかギルベルトはキースに笑顔を返す事が出来なかった。王族として、上辺の作り笑いはお手のもののはずなのに。尤もキースの前では自然体でいる事が多いから、彼が不審に思った様子はない。それに安心する。

 キースは、奨学金で王国学園に通っている際に、ギルベルトと友人になった。
 平民出自だが、学園の主席であり、文武両道で、性格も明るい。
 ギルベルトにとっては数少ない、心を開ける友人だ。

「ギルベルト!」

 室内に入ると、非常に嬉しそうにメリルが両頬を持ち上げた。ワインレッドの服がとてもよく似合っている。扉の前で、ギルベルトは以前、「ワインレッドが好きだ」と話した事がある。それは事実だった。理由は、王家に伝わる聖剣に嵌まる宝玉の色が深い赤だからだ。すると翌日から、露骨にメリルの服はこの色が増えた。それもまた、彼女の好意を実感した瞬間である。今も、それを彼女が律儀に覚えている事実に、気分が一瞬で浮上し、ギルベルトは明るい気持ちになった。

「あのね――」

 メリルが雑談を始める。その肉厚な淡いピンクの唇を眺めながら、対面する席に座し、ギルベルトはミルクティーを入れた。そしてカップを傾けながら、囀るように話をしながら楽しそうに、嬉しそうに笑っている彼女を見る。そしてメリルの瞳が自分に向き、相変わらず恋情を滲ませキラキラしている事に――無性に安堵していた。

 どうしてこのように安心しているのかと、ギルベルトは一瞬あとに困惑した。
 だが笑顔を崩さず、メリルの話に相槌を打つ。
 いつからなのか、彼女を前にすると、作り笑いではなく、心から笑っていることが増えた。いいや、日に日に増えていく。ギルベルトは、それが不思議でたまらなかった。





 それにしても……と、メリルは考えた。部屋を見回すが、代わり映えしない。いくら豪華なお部屋であっても、三週間もいたら飽きるのだと、メリルは気がついた。

「おはよ、メリル」

 この日もキースが訪れたので、メリルは思いきって言ってみた。

「あのね、キース」
「ん?」
「私、王都を見てみたいの。外へ行ってみたい!」

 当初は村の中ですら怯えていた彼女だが、旅で鍛えられた結果、元々のアクティブさが顔を覗かせている。するとキースが少しの間思案するように瞳を揺らしてから、ニッと笑って頷いた。

「いいぞ。俺が守ってやるし、王都の中なら安全だしな。いつ行く?」
「いつでもいいけど、できたらすぐにでも行きたいの。正直、ここにずっといるのは飽きちゃって」
「俺がいるのに?」
「あんまりそれは関係ないかな」
「おい」

 キースが吹き出すように笑った。キースには軽口がたたけるから楽しいと、メリルは最近考えている。できたらギルベルトとも、そういう関係になりたい。今はただ、嫌われたくなくて必死だ。

「じゃ、行くか」
「ええ。お財布を取ってくる」
「俺が買ってやるぞ?」
「いいの。私は自分で欲しいものは、自分で買うから」

 こうしてメリルは、寝室に置いていた荷物から、小さな鞄を取り出し、中にお財布を入れて、肩からかけた。そして居室に戻ると、メリルを見てキースが立ち上がる。彼が扉へと向かったので、メリルもその後に続いた。

 来た時以来初めて通る廊下を、メリルはまじまじと見る。最初の日は観察している暇など無かった。白い床の上に、緋色の絨毯が長く敷かれている。等間隔に銀色の甲冑が並んでいて、どれも槍を持っている。右手には規則的に窓があり、そこからは鬱蒼と茂る森の木々が見える。どれも常緑樹のようだ。左手には部屋の扉と油絵が交互に並んでいた。灯りは天井にあり、魔導光が白く廊下を照らしている。魔導光は、王国全土に広がっている灯り取りだ。

 その後は階段を降りていき、広いエントランスホールを抜け、桟橋を通る。
 初めて通る正門を抜けると、整備された白い坂道が、王都へと繋がっているのが分かった。

「王都の屋根が、全て灰色なのが分かるか?」
「ええ」
「景観を統一して作られた街なんだよ。街並みだけでも綺麗だろ?」

 キースの自慢げな言葉に、メリルも笑顔を浮かべ、素直に頷いた。
 ――キースの歩幅は、少し早い。だからメリルも早足で歩きながら、ギルベルトはやっぱり優しいなと比べてしまった。王宮なのだから本物の王子様もいるのだろうとメリルは考えたが、メリルの中の王子様といえばギルベルトだけだ。ギルベルトが貴族かどうかも知らなかったが、メリルはいつも輝いて見えるギルベルトを心の中でそう評している。

 坂道をくだりきると、突き当たりに曲がり角があった。右と左に別れている。

「右に行くと、店舗街がある。左手に行くと、王立博物館や王立図書館、植物園なんかがあるぞ。どちらに行く? 観光なら、左だ」

 キースの言葉に、小首を傾げてメリルは悩んだ。

「うーん」

 少し唸ってから、右を見る。

「私、お買い物をしたいの。人生でね、食べ物と服以外、ほとんど買ったことが無いから。何事も経験って言うじゃない?」

 それを聞くと、髪をかき上げてから、キースが頷いた。

「了解。じゃ、行くかー!」

 こうして二人は右に進んだ。横を馬車が通っていく。メリルが馬車側を歩いている。
 ……いつもギルベルトは、歩道側にメリルを歩かせ、自分は馬車が通る側を歩いていた。そんな旅路が懐かしくなってくる。

「ここが、武器屋。騎士団にも納品してる店だ」

 飾られている剣を示されて、メリルはまじまじと見る。だが、特にピンとは来なかった。それに気づいた様子のキースは歩を進め、隣の隣にあった衣類の店を見る。

「ここはどうだ?  流行(はやり)のドレスが沢山置いてあるぞ?」
「王宮で用意して頂いたもの。いらないよ」
「それもそうだな。あ、じゃあここなんかどうだ?」

 キースはその隣にある装飾具の専門店に視線を向ける。

「お守りの魔法石だの、首飾りだの、そういった品があって、俺もたまに行くんだ」

 それを聞いて、やっとメリルは興味を惹かれた。
 だから立ち止まり、大きく頷く。

「入ってみたい」
「よしよし。行こう」

 こうして二人は、店内に入った。半地下にある扉から中に入ると、清廉なお香の匂いが漂ってくる。そして右手のガラスケースには、様々な魔法石を用いた大小様々な輪が並んでいた。首飾り、ブレスレット、足輪、指輪。どれも繊細な意匠が施された銀細工で、小さな魔法石が嵌まっている。

「あ」

 その中に、メリルはワインレッドの魔法石を見つけた。他の品に比べると大きめの魔法石が、銀の輪の中央に嵌め込まれている。そばの説明書きには、『悪しき精霊を退散させるお守りの魔法石』という記述があった。レッドベリルという魔法石なのだという。

 金額を見ると、メリルの手持ちでも、なんとか変える金額だった。
 ギルベルトの事を思い出す。お守りとしても渡したいし、純粋に贈り物もしたいし、なによりギルベルトの骨張った指に、これはとても似合う気がした。説明を読むと、魔法で自動的に、指のサイズになると書いてあるから、サイズに問題は無い。

「私、これを買う!」
「お。買ってやろうか?」
「ううん。ギルベルトにあげるの!」
「……ほう。俺には?」
「え?」
「ギル様にはあげて、俺にはくれないのか?」
「うん。ギルベルトにだけあげるの」
「そ、そっかぁ」

 キースが苦笑した。それからキースが店主を呼んでくれ、店主は指輪を小箱に入れて、包装してくれた。メリルはお財布の中身を使い果たしたが、とても満足した。ギルベルトは、喜んでくれるだろうか? と、そればかりを考える。

 その後は、昼食の時間になるからと、二人は王宮へと戻った。
 すると、メリルの部屋には、ギルベルトがいた。

「ギルベルト!」

 メリルは丁度いいと思った。今、渡すことが出来ると、心が躍る。
 だがキースは何故なのか、苦い顔をし、顔を思いっきり背けた。何故だろうかと首を傾げつつ、気を取り直してメリルはギルベルトを見る。するとギルベルトが、いつもは浮かべている笑みを本日は浮かべておらず、無表情だった。若干不機嫌そうに見える。

「えっと……その……王都に出かけてきたの」

 メリルが告げると、ギルベルトが静かに頷いた。

「ああ、報告を受けたから知ってるよ」

 その声も冷ややかに聞こえ、理由が分からず、メリルは困惑した。

「あの……もしかして、王都に行ってはダメだった?」
「別に。君を軟禁したいわけではないし、キースを伴っているのならば危険はほとんど無いから、構わないよ」

 淡々と答えるギルベルトを見て、ならば何故、そんな風に怒ったような顔をしているのか、いよいよメリルは分からなくなった。

「だけど、メリル」
「なに?」
「最近、随分とキースと楽しそうだな」

 メリルは首を傾げた。実際楽しいが、何故ギルベルトがそんな事を言うのか分からなかったからだ。だがその疑問を解消するよりも先に、メリルは指輪を渡さなければと考える。ほぼ毎日来てくれるとはいえ、ギルベルトは来ない日だってある。数日来ないこともあるのだから、渡せる時に渡せる時に渡さなければと決意した。

 しかし、いざ渡すとなると緊張する。
 だが勇気を出して、かけたままだった小さなカバンから、メリルは白い紙で包装され、淡いピンクのリボンがついた小箱を取り出し、ギルベルトの元まで歩みよると、両手でそれを差し出した。

「ギルベルトに買ってきたの! お、お土産、お守り! よかったら、つけて……?」

 緊張と、なんともいえない羞恥に似た感情から、メリルは頬を朱く染めて、ギルベルトをチラリと見る。

「っ」

 するとギルベルトは、虚を突かれたように目を丸くして、その小箱を見た。
 それから静かに受け取ると、メリルに向かって顔を上げる。

「開けてもいいか?」
「ええ! 勿論!」

 メリルが勢いよく頷くと、ギルベルトが開封し、ヴェルベット張りの小箱を見る。
 そしてパカりと開けて、中に鎮座している指輪を見た。
 ギルベルトが、やっといつもの通り、いいや、いつもより優しい表情に変わる。その穏やかな、ただどこか苦笑するような顔を見て、メリルの胸がドキリと啼いた。ギルベルトはそれから、安堵したように息を吐くと、指輪を取り出し、左手の人差し指に嵌めた。

 それから立ち上がり、メリルの正面に立つ。
 身長差があるから、メリルは見上げた。彼女のふわふわの髪が揺れる。

「メリル」
「な、なに?」
「ありがとう」
「う、うん。いいの。その……似合うと思って……」

 真っ赤になったまま、メリルはしどろもどろで答える。すると口元を綻ばせ、吐息に笑みを載せたギルベルトが、不意にメリルの頭を優しく撫でた。

「メリルは、本当に僕の事が好きだな」
「え?」
「違うのか? メリルは僕の事が好きだろう?」

 それを聞いて、さらに真っ赤になり、メリルは口を半開きにして、動揺から唇を震わせた。己の気持ちが露見していたと気づき、プルプルと震えながら、非常に焦る。

 ギルベルトはしばらくメリルの柔らかな髪を撫でた後、微笑したままで扉を見る。

「そろそろ戻らなければ。また来る」

 そう言って、ギルベルトは出て行った。

 メリルはこの日、ずっと動揺と混乱から、朱くなったり青くなったりしており、キースは終始、呆れた顔をしていたのだった。





 数日、メリルは朱くなったり青くなったり過ごしたのだが、その間ギルベルトは来なかった。嬉しいような、寂しいような、会いたいけれど、遭ったらどんな顔をしたらいいのか。一人で考えたかったから、キースには申し訳ないが、廊下にいてもらった。複雑そうな顔をして、キースは同意し、食事を運んでくる時以外は入ってこなかった。

 だがある日、ギルベルトがとうとう訪れた。

「メリル」
「ひゃ、ひゃいっ!!」

 思いっきり舌を噛みながらメリルが返事をする。本日のギルベルトは真剣な顔をしていた。自分の気持ちへの返事が放たれるのだろうかと、メリルの心拍数は極限まで上昇する。

「実は、何故メリルの一族が、番人だったのか判明したんだ」
「――へ?」

 全然想像と違った、想定外の言葉に、メリルはきょとんとしてから、何度か瞬きをした。長い睫毛が揺れる。

「創造神と共に精霊王を封印した術師の末裔が、メリルの一族だったんだ」

 真剣な声音で、ギルベルトが続けた。
 唾液を嚥下し、メリルは必死で平静を保つ。

「古文書から分かったこととして、メリルにもまた、術師の血が流れていると判明したんだ。秘宝を持てるのがその証拠だと書かれていた。だから、メリルにも術師の力が受け継がれているか、調べたい」
「どうやって調べるの?」

 メリルが問いかける、ギルベルトが持参した箱から、小さな台座を取り出して、テーブルの上に載せた。そこには、丸い宝玉が載っており、中では虹色の粉のような物が煌めいている。

「これに手で触れると、術師の力があるか否か判別できるそうだ。王宮の宝物庫にあった。触ってみてくれないか?」
「わ、わかった!」

 大きく頷き、落ち着こうと一人頷いてから、メリルは右手を伸ばした。
 華奢な白い手が宝玉に触れると、その瞬間、球体から光が溢れた。その光はどこか柔らかく見え、とても暖かい。

「やはり、メリルにも術師の素質がある」

 ギルベルトが怜悧な目をし、静かに続けた。そちらを一瞥したメリルが手を離すと、光は収束して消えた。

「メリル、術師は複数いて、この王宮にも、幾人かの術師の末裔が仕えているんだ。闇青の森でのように精霊に襲われた時、メリルが一人だったら――そう考えると、精霊に襲われた場合に備えて、メリルにも術師としての訓練を受けて欲しい。身を守るために。キースや僕が、必ず守るつもりだ。だが、万が一のこともある」

 真剣なギルベルトの声音を耳にし、メリルはこくこくと頷く。
 ――確かに、守られるだけでは駄目だもの。そう、じっくりと考えた結果だ。

「私、頑張るよ」
「ありがとう、メリル」
「ううん。自分のためだから、お礼はいらないよ」
「そうか」

 メリルの声に、ギルベルトが優しい顔で笑った。最近は、旅路の頃よりも、ずっと暖かい笑みが増えたように、メリルは感じている。その表情が、メリルは好きだ。

「早速術師の元に案内する」

 そう述べて、ギルベルトが立ち上がる。指にきちんとレッドベリルの指輪がある事を確認して嬉しくなりながら、メリルもまた立ち上がった。

 その後案内されたのは、王宮の二階にある騎士団の鍛錬場の一つだった。
 主に精霊を倒すのが専門の術師が、ここで訓練を、先達の術師から受けるのだという。
 魔法とも錬金術とも異なる、対精霊術を学ぶ者、それが術師と呼ばれるそうだった。

「こちらが講師のローベル師だ」

 ギルベルトが紹介してくれたのは、白い顎髭を持つ老人だった。
 長身で威圧感があり、叡智を湛えた眼光は鋭い。
 だが、口元には笑みを浮かべていた。

「きみがメリルちゃんだな?」
「は、い!」
「鍛錬は厳しいものだが、頑張れるかね?」
「はい!」

 ギルベルトに勧められたのだから、絶対に頑張り抜きたいとメリルは考えている。

「では僕は行く。メリルを宜しくお願いします」

 そう言って、ローベル師に一礼してから、ギルベルトは歩き去った。

「ギルベルトも、儂の弟子だったんだ」
「そうなんですか?」
「ああ。先輩に負けぬようにな」
「はい!」

 威勢良く、メリルは返事をした。

 この日から、メリルの術師としての訓練が始まった。
 初日は呼吸法を習い、迎えに来たキースと共にあてがわれている客間に戻ってからは、村で購入したガラスのペンで、覚えたことをノートにメモした。翌日からは、ノートとペンを持参し、その場で必要事項は書き取った。メリルの真面目な姿勢と、実技への真剣な態度に、何度も笑顔でローベル師は優しく褒め、そして次の課題を与えていく。徐々にそれは厳しいものへと変わっていった。だがメリルはめげずに頑張る。次第に上手く出来なくなり、泣きそうになりながらも、諦めることだけはしなかった。

 するとある日、ギルベルトが訪れた。
 それを見ると、ローベル師が休憩だと声をかけて、ギルベルトに微笑してから、鍛錬場から出て行った。汗をだくだくにかいていたメリルは、ぐったりとしながら、床にへたり込む。そして歩みよってきたギルベルトに、やっと気づいて、慌てて顔を上げた。

「メリル。ほら」

 ギルベルトは冷たいタオルを、メリルに渡した。受け取り、ほっと息をつき、メリルは首の汗を拭う。髪が乱れて、肌に張り付いている。次第に呼吸が落ち着いてきた頃、屈んだギルベルトが、微苦笑した。

「頑張っていると聞いている」
「うん」

 なにせギルベルトに勧められたのである。頑張らないわけにはいかない。
 ギルベルトがいてくれると思うと、頑張る事が苦にはならない。
 ギルベルトがいるから、メリルは、自分が頑張れるのだと感じている。

「メリルは偉いな。本当に凄い。君にこんなに根気があるとは――知ってはいた。旅路でも決して弱音を吐かなかったからな。メリルは頑張り屋だと僕は思う。本当に、メリルは凄い」

 その言葉を聞いて、メリルは目をまん丸にした。
 褒められた。ギルベルトに褒められた。その事実に動悸が始まる。胸がドクンドクンと鳴り響き、疲れなんて吹き飛んだ。

 ――メリルは考える。まだ、告白こそしていないが、自分の気持ちをギルベルトは知っている。ギルベルトは、何も答えてくれないし、あの日の言葉に触れる事もしない。けれど、だ。メリルが、ギルベルトを好きだと知っていて、このように優しくしてくれるわけで……もしかしたら、これは、脈があるのでは無いだろうか? と、どうしても考えてしまう。

 ギルベルトは元々優しい。けれど、メリルの気持ちを知った今も優しい。

 思わずメリルは、前向きに考えてしまう。ギルベルトも、自分の事を好きなのでは無いかと。そうすると思わず照れて、実技での体の熱とは異なる、羞恥からの熱で、頬が熱くなってきた。

「メリル? どうかしたのか?」
「う、ううん。なんでもないよ」

 メリルは慌てて笑顔を浮かべて誤魔化した。

「そうか。悪い、もう行かなければならないんだ。また来る」

 こうしてこの日は、短時間だったがギルベルトは会いに来てくれたのだった。

 以後も毎日、メリルは修行を続けた。
 少しずつ、一歩ずつ、術を覚えていく。まだまだ初歩の初歩の段階だそうで、精霊を倒すのは困難だと言うが、逃げる事はもしかしたら出来るかもしれないと、ローベル師が言っていた。本来であれば、この段階になるまで半年はかかるところを、メリルは短期間に学び終えている。メリル本人には自覚が無いが、才能があるのは間違いなかった。あとは、やる気がずば抜けていた。ただしその動機は不純で、ただ一心に、もっとギルベルトに褒められたいだけだった。

 それを、護衛のキースは、壁際に立って眺めている。

「メリルはすごいなぁ。よくそんなに頑張るな。俺には無理だわ」

 キースもまた褒めてくれるのだが、メリルはそれには反応しない。だが笑顔で会話はするし、それは弾む。

「頑張らないとね。ギルベルトのために!」
「……へぇ。妬けるな」
「どうして?」
「メリル。お前、鈍いって言われないか?」
「あんまり人に会ったことがないから、特に言われたことは無いかな。自分では、どちらかといえば鋭いような気がしてる!」
「その自己認識は、早急に改めた方がいい」

 呆れたように、キースが言った。それから気を取り直したようにキースが笑顔を浮かべる。

「今日の昼飯はなんだと思う?」
「なぁに?」

 そんなやりとりをしていると、歩いてくる気配がした。何気なく振り返ったメリルは、ぱぁっと表情を明るくした。訪れたのが、ギルベルトだったからだ。

「調子はどうだ?」

 微笑してギルベルトが問う。

「うん。すごくいいってローベル先生が言ってくれたの」
「そうか。頑張っているんだな。では僕はもう行く」
「えっ……あ、うん……」

 最近のギルベルトは、一言声をかけると、いなくなってしまう。忙しいのだろうかと、メリルはその度にしょんぼりする。

「なぁ、メリル? 俺にしとけよ? な?」
「……」

 メリルはキースの言葉が耳にまるで入っていなかった。
 それからも、数日おきにギルベルトはやってきた。だが、笑顔で一言ではなく、無表情で一言の日が増え、本日など呆れたような、苛立つような、そんな顔でメリルを見た。直前までキースと笑顔で話していたメリルは、振り返ってギルベルトを見て、泣きそうになった。何故なのか、ギルベルトが怒っているように見えたからだ。

「術師として、やっていけそうなのか?」
「え、っと、ローベル先生は……まだまだ、だって……」
「それなのにお喋りに興じているとは、随分と怠慢な様子だが?」
「そ、その……」

 確かに休憩を、長く取りすぎかもしれない。褒められるどころではなく、呆れられているのだと、メリルは感じた。

「それで? 恋だの愛だのとうつつを抜かして? 暇そうでなによりだ」
「!」
「幻滅した」

 彼の言葉に、思わず口ごもったメリルを睨むように見てから、その後は何も言わずにギルベルトは帰って行った。

「……」

 メリルは沈黙して、俯いた。呆然とする。
 ギルベルトに……嫌われたのかもしれない。自分の気持ちを知っているんだから……迷惑に思われているのかもしれない。幻滅したと言うことは……そういう事なのではないのだろうか。そう考えると全身が震え、涙がこみ上げてくる。

 すると歩みよってきたキースが、ポンとメリルの肩を叩いた。

「気にすんな。お前が頑張ってるのは、誰よりも近くで見てる俺が知ってる」

 その言葉に、何故なのか苦しくなって、いよいよ本格的に涙が溢れてきた。
 そのまま静かに泣き出したメリルのそばに、無言で苦笑しながら、ずっとキースが立っていた。キースもまた、ギルベルトとは異なるが、本当に優しい人だと、メリルは考える。でも、本当はギルベルトにそばにいてもらいたかったし、ギルベルトに褒められたかった。ギルベルトに、優しくされたかった。けれど。

「ギルベルトに嫌われちゃった……」

 ポロポロと泣きながらメリルがいうと、キースがため息をついた。

「敵に塩を送るという古の言葉の気分だけどな――そんな事は無いと思うぞ?」
「どうして?」
「あれは、嫉妬だ」
「え?」
「俺とお前が楽しく話してるから、ギル様はイラッとしたんだと思うぞ」
「どうして?」
「……だから、嫉妬だ」
「嫉妬って、どんな感じ? 私、周囲に人がいなかったから、嫉妬ってあんまりよく分からなくて」
「んー、自分のものを取られたくないってところか?」
「キースは泥棒だったの?」
「そうじゃないけどな! あー、説明が難しいな。とりあえず、俺が側にいてやるから。落ち着け」

 キースはそう言って、メリルをずっと慰めてくれていたのだった。






 執務室に帰ったギルベルトは、左肘を執務机につき、左の掌に顔を預けて、眉間に皺を寄せていた。本当は、あんな事を言うつもりではなかった。メリルが頑張っているのは、ローベル師からの報告で、よく聞いていた。己の修行時より、習得速度だって速いと知っている。だが。

「なんでこんなにイライラしているんだ、僕は……」

 過去、このように感情が騒いだ事など、一度も無い。苛立った事が無いとは言わないが、それを感情的に表に出したり、八つ当たりじみた言動をした事は、少なくとも無かった。

 瞼を閉じ、大きくため息を吐く。
 それでも――今もまだ、苛立ちが収まらない。

 脳裏に浮かんでくるのは、キースと楽しそうに話しているメリルの姿だ。
 何故? 何故楽しそうにしているんだ? 君は俺のものだろう? と、いうような感覚に苛まれている。だが、ギルベルトはよく知っている。自分に一瞬で惚れた以上、メリルは大変惚れっぽいと考えられる。そして、キースは非常にモテる。容姿もさることながら、気さくな性格と言動で、王宮中の女性が好感を持っていると言える。出自など無関係で、貴族の女性も憧れの騎士として挙げるほどだ。その性格と、やる時はやる実力が好ましくて、ギルベルト本人もいつの間にか、親友と言える仲になっていたのだが――事今回に限っては、キースに対しても苛立ちが止まらない。

 キースは非常に面食いだ。そして、メリルは可愛い。少なくともギルベルトはそう思う。メリルのようなふんわりした女性が、キースの好みだと言うことは、友人であるからよく知っている。キースの過去の彼女は、皆メリルのような雰囲気の持ち主だった。

 実際、歩みよる時にキースの話が耳に入ると、『可愛いな、メリルは』だの『俺と付き合う気にはまだならないのか?』だの、『俺はメリルが好みだなぁ』だのと、明らかに口説いている様子だ。メリルはそれをニコニコと聞いている。嫌がる素振りも拒絶する素振りも無い。メリルは、とっくに心変わりしている可能性がある。

 ダンっと、気づくとギルベルトは、思わず右手で机を激しく叩いていた。
 握った拳が、非常に痛みを感じる。すると今度は、怒りの他に、空しさまでこみ上げてきた。そのため、両手で頭を抱えて、目を開ける。

「気づくのが遅すぎたな、僕は」

 緩慢に瞬きをしながら、ギルベルトは考える。これだけ激情に駆られているのだから、もう自分の気持ちの名前を、正確に判断している。これは、恋だ。いいや、愛だ。

 悔やまれてならない。偽りの、上辺の優しさだったとは言え、メリルは自分を一時は好きになってくれた。どうしてその時に、手を伸ばさなかったのか。手を離してしまったのか。ため息が止まってくれない。

 メリルは何も悪くない。なのに、先程の己の言動はなんだ? 幻滅されたのは自分の方ではないのかと、ギルベルトは後悔して唇を噛む。胸があんまりにも苦しくなったから、両腕を組んだ。しかしいくら胸板を圧迫しようとも、心は痛いままだ。

「メリルはもう、僕を好きじゃないだろうな」

 左手の指輪を見ながら、ギルベルトは自嘲気味に呟いた。
 しかしその、深い赤の宝石の煌めきを眺めていたら、いつも前向きで明るい、向日葵のようなメリルの笑顔が脳裏に浮かんだ。

「――そうだな。メリルは、いつも努力していたな。今度は僕の方こそが、メリルに好きになってもらえるように努力するべきだ」

 落ち込んで、そのまま、諦める、なんて――無理だ。
 絶対に無理だ。メリルが好きでたまらないのだから、その気持ちに誠実でありたい。
 今度は強く真剣な眼差しを指輪に向けて、一人ギルベルトは誓う。

「メリルに伝えたい。俺の愛を」

 星叡の日まで、あと三日。
 魔法陣の起動に成功したら、その時こそ。
 それまでは、やはり精霊対策、精霊王の封印の監視を最優先にしなければならない。だが、それが落ち着いた、その時は。この想いをメリルに伝えようと、ギルベルトは決意した。フラれたって、構わないではないか。諦めない――それを、誰でもなくメリルから、教わったのだから。そう考えると、自然と笑みが浮かんできて、ギルベルトは口元を保殺させた。

 そこへ、ノックの音が響いた。

「入れ」

 ギルベルトが告げると、騎士団に所属する術師が静かに扉を開けて、入ってきた。

「殿下、精霊王の封印に関して、古文書から分かったことがあり、ご報告に参りました」
「なんだ?」
「王宮地下の魔法陣を起動した段階で、封印は自動的にかけ直されるそうです」
「なに? 事実か?」
「はい。ですが……悪い話として、既に精霊王の配下だった邪悪な力がある精霊が、数体、封印から漏れ出し、外に逃れたようです」
「居場所の特定は?」

 鋭い眼差しで、ギルベルトが語調を荒くし言葉を放つ。

「出来ておりません。ただ、王宮の結界の一部が破損しているのが見つかりました」
「なんだと?」
「少なくとも一体は、王宮の敷地内にいる可能性がございます」
「そうか。王宮に配置している全術師に……いいや、扉の番人の末裔以外に通達してくれ」

 迂闊にメリルに話して、危険に巻き込みたくはないと、また心を煩わせたくないと、ギルベルトは考えた。私情ではない。彼女は、魔法陣を起動するまでは、絶対的に守らなければならない存在だ。

 古文書には、始祖王の末裔と、最も親しかった術師の末裔、それぞれの血を引くものでなければ、魔法陣の起動は不可能だと書いてあった。その二名が、誓いの元、魔法陣を残したのだという。数いる術師の祖先の中で、その者は特別だったそうだ。だからこそ、親愛の証として、秘宝が授けられたのだという。それこそが、メリルの先祖だ。

「畏まりました」
「邪悪な精霊の数の把握と、位置の特定も頼む。討伐には、僕が出る」
「承知しました」

 その後、知らせに来た術師は退出した。
 ――ギルベルトは、誰よりも力のある術師であり、剣士だ。王族たるもの、率先して討伐を行わなければならない。それは父である国王陛下も、若かりし頃に行ってきたことであるし、まだ幼い弟も既に修行を始めている。王宮に嫁いだ王妃である母も、現在は術をある程度習得しているから、万が一の際は、一人でも逃げることが可能だ。

「あと三日……」

 たった三日であるのに、それが無性に長く感じる。その間に、精霊王が外へと出てしまったならば、魔法陣を起動する前に、王国だけでなく、大陸全土が闇に飲まれる可能性さえある。

 ギルベルトは、祈るような気持ちで両手の指を組み、唇に当てた。






 特別な星が六芒星を描いたその日。
 いつか散らばる星の川をギルベルトと一緒に見上げた事を思い出しながら、この日メリルは客間で待っていた。本日の修行は無い。何故ならば、今日こそが魔法陣を起動する、星叡の日だからだ。三十年に一度と言われる、神聖な星の配置の日だと、メリルに教えてくれたのは、ローベル師だ。本来であれば、術師の祝祭だったらしい。生涯で二度参列できれば非常に幸運だとされる特別な夜が来るのだと、メリルは聞いた。しかしメリルはお祭りに参加するわけではない。秘宝を運ぶという重要な役割があるからだ。

 コンコンとノックの音がしたのは、その時のことだ。

「はい」

 メリルが声をかけると、静かにギルベルトが扉を開けた。
 その眼差しは真剣だが、最後に顔を合わせた時の事を思い出してメリルは肩に力を入れた。そんな事を考え、それこそうつつを抜かしていたら、さらにギルベルトに呆れられてしまうと考えて、メリルは表情を引き締める。

「行くぞ」

 ギルベルトの声に頷き、メリルは立ち上がった。そして気合いを入れるように息を吐くと、力強い足取りで、扉の所にいるギルベルトの元へと向かう。ちらりとギルベルトを見ると、眼差しは真剣だが、口元に苦笑するような、小さな笑みが浮かんでいた。

「メリル、僕がついている。緊張しなくていい」
「っえ、あ……私なら大丈夫!」

 以前の通り、優しい声音だったギルベルトに、逆に驚いて、メリルはビクリとしてしまった。ギルベルトは、単純に修行をサボっていると思って怒ったのかもしれないと、メリルは考える。それとも、秘宝を持っていけるのは自分だけだから、優しいのだろうかとも考える。そしてギルベルトに気づかれないくらい小さく(かぶり)を振った。後者のような、ネガティブな想像はするべきではない。きっと修行について怒っていただけだ、と、自分に言い聞かせる。そうであるならば、これからはもっと頑張ればいい。

 そう考えて、ふと思った。秘宝を魔法陣に設置したら、自分はどうなるのだろうか……? もう王宮に滞在する必要は無い。帰らなければならないのだろうか? それが、普通だ。己のような一般市民が、王宮に入れてもらえる事の方が、本来は変なのだから。

「どうかしたか?」

 扉に手をかけていたギルベルトが振り返る。慌てて笑みを取り繕い、メリルは扉から外へと出た。そして歩幅を合わせてくれるギルベルトの隣を歩きながら、長い廊下を進み、階段で地下まで降りる。

 魔法陣がある星叡の間は、四方上下が全て真っ白の大きな部屋で、ただ床に刻まれた金色の巨大な魔法陣だけが色を持っていた。六芒星に線が走っていて、五つの場所には、メリルが持つ秘宝そっくりのものが台座の上に置かれていた。一カ所だけ、それがない。

「メリル、あの頂点に、秘宝を置いてくれ」
「分かった!」

 すぐに位置を理解し、メリルはそちらへと向かう。そして紺色の台座の前に立つと、ゆっくりと首から鎖を外し、右手の上に秘宝を載せた。中ではやはり虹色にも見える赤い炎が揺らめいている。他の位置の秘宝は、緑や青、黄色や紫、黒色に見えた。

 両手で赤い焔の秘宝を持ち直し、ゆっくりとメリルは台座の上に載せる。

「壁際に下がってくれ」
「はい!」

 大きく頷き、メリルは広い床を歩いて、壁にたどり着くと、背を預けて魔法陣を見た。そして首を傾げた。確か、王族が始祖王の力を宿すと聞いたのだが、ここにはギルベルトしかいない。

「ねぇ、ギルベルト」
「なんだ?」
「王様も王子様も誰もいないよ? これから来るの?」

 メリルが首を傾げたのを見て、ギルベルトが驚いた顔をした。

「そうか……伝えるのを忘れていたな」
「なにを?」
「僕は、ギルベルト・プログレッソと言う。このプログレッソ王国の王太子だ」
「――えっ!?」

 耳を疑ったメリルは、ギルベルトを凝視した。

「え? え? ギルベルトは、じゃ、じゃあ、王子様なの? 本物の王子様だったって事?」
「ああ。僕は第一王子だ」

 メリルは唖然とし、気が遠くなりそうになった。
この国は、貴族と平民に垣根はほとんどない。だが、王族となれば、さすがに別だ。
 国を治める元首である。
 非常に偉い事は、メリルにだって分かる。なんたって祖父も、いつも、『王家の皆様は良きお方だ』『敬わなければならない』『お困り事があったならば、誰だってお助けせねばならない』『尊い存在だ』『我ら平民は、決して王族を蔑ろにしてはならない』『高貴な方々だ』『自分達とは身分が違う』『生まれが違う』と、繰り返し述べていたのだから。同じくらい騎士団も立派だと褒め称えていたから、メリルは騎士も偉いのだと思っている。

 ――つまり、圧倒的に立場も身分も違う。

 ギルベルトは、はなから己には、手が届かない存在だったと突きつけられたように思い、思わずメリルは震えてしまった。悲しみが溢れてくる。平民の自分が、王妃様になんてなれないからだ。驚きの直後、ショックで俯いたメリルは、それから気を取り直して顔を上げた。ならば、ギルベルトがしっかりと魔法陣を起動するところを見守るのが、扉の番人の末裔として出来る、ギルベルトに対して自分が唯一出来ることだと考えたからである。想いが叶わないとしても、ギルベルトのために出来ることをしたい。そう決意が固まった。

「はじめる」

 そう宣言すると、ギルベルトが魔法陣の中央に立った。
 そして剣を抜く。それを床に突き立てた。
 その瞬間、魔法陣から眩い光が溢れ、思わずメリルは瞼を閉じて、その上から腕で目を庇う。どのくらいの間、光が溢れていたのかは分からない。長い間だったようにも、短い間だったようにも感じられた。それが収束し、今度は暗くなった気配がしたので、メリルは恐る恐る目を開ける。すると、まるで星空の中に浮かんでいるかのような錯覚に陥った。背後を振り返ると、そこには確かに壁があったはずなのに、それも消失していた。

 前方も後方も、左右も上下も、全て星空だ。なのに、立っている。いいや、浮かんでいるのかもしれない。ただ、魔法陣の線は黄金に輝いており、その中央にギルベルトがいる。

 彼の正面の剣は、刀身が銀色に輝いており、元々嵌まっていた赤い宝石が、今はサファイアのような青に変わっていて、よく見ると中には星が散らばって見える。その時、ギルベルトが強く、剣の柄を掴んだ。そして引き抜く。瞬間、また目映い光が溢れた。

 再びメリルは目をきつく閉じる。今度は一瞬で、光が消えた。
 目を開くと、部屋は白く戻っていた。
 だが、ギルベルトの手には、青く輝く宝玉が嵌まった剣がある。そしてギルベルトの横顔を窺えば、緑色だった彼の瞳が、金色に変化していた。驚いてメリルは、片手で口元を覆う。

「ギルベルト……?」

 恐る恐る、メリルは声をかけた。すると正面を見ていたギルベルトが、メリルに向き直った。そしてメリルの大好きな、優しい優しい笑みを浮かべて、小さく頷く。

「ありがとう、メリル。成功だ」

 それを聞き、メリルは安堵した。肩から力を抜き、大きく息を吐く。
 即ちこれで、己の任務は終了で、ギルベルトのために出来ることを全うできたということだ。そう考えたメリルは、笑顔を返した。つまり――ここまでに至る道中で考えたように、もう己は王宮にいる必要が無い。術師として、残ってもいいのかもしれないが……自分には手の届かない、愛するギルベルトを見ながら、いつか彼が結婚したり、子供が出来たりする姿を見ながら過ごすのは、さすがに心が痛いだろうから、帰ろうと決意する。

「よかったね」
「ああ。メリルのおかげだ」
「ううん。私はできることをしただけで、私にできることを教えてくれたのはギルベルトだよ。つまり、ギルベルトが、自分でやったんだから、貴方のおかげってことだよ、全部」
「いいや、僕には秘宝が運べない――からではない。メリルがいてくれたから、頑張る事が出来た。考えてみると、そうなんだ。本当に、ありがとう」

 笑みを深くし、ギルベルトが言った。
 ああ……自分もいつか、ギルベルトがいるから頑張れると思ったのだと、メリルは思い出す。自分達が、同じ気持ちである事が、無性に嬉しくてたまらなかった。だからメリルは、満面の笑みを浮かべた。

「……本当に、よかったね」




「僕は、国王陛下に報告してくる。本当にありがとう、メリル」

 部屋まで送ってくれたギルベルトが、そう述べた。それから彼は、部屋の前で待機していたキースを見る。

「メリルの事を頼んだ」
「任せろ」

 そう言ってニッとキースが笑ったのを見ると、ギルベルトもまた力強い笑みを返した。
 こうして部屋に入ったメリルは、深々と吐息する。
 キースが冷たい紅茶を淹れてくれたのだが、一気に飲み干してしまった。

「緊張したか?」
「そりゃあ、するよ!」

 メリルはそう返して笑ってから、何気なく窓を見た。そうだ、今日は特別な夜空なんだと思い出す。失恋だと確信した衝撃もあり、胸が痛い。正直、魔法陣の起動の成功は本当に喜ばしいと思うが、叶わぬ恋だと気づいてしまったゆえの胸の痛みの方が、メリルの中では大きな問題だった。気持ちを整理しないと、泣きそうだ。それでも必死で笑いながら、しばらくはキースとの雑談に興じていた。しかしすぐに、限界が来た。

「ねぇ? キース。私、ちょっと外の空気が吸いたいの」
「もう夜だぞ?」
「それだけ緊張していたって事! ちょっと庭園に出てもいい? そこから見えるでしょう?」
「まぁ、それは問題ないな。王宮の敷地には結界が張ってあるからな」

 キースが頷いたのを見て、メリルは立ち上がる。

「一人になりたいから、一人で行ってもいい?」
「ん。じゃあ、玄関まで送る」
「ありがとう」

 こうしてキースと二人で、メリルは部屋を出た。この客間で過ごすのもあと少しだと考える。その少しが、明日なのか、明後日なのかは、まだ分からないが、漠然とそう思った。

 宣言通りキースが玄関で立ち止まり、笑顔で見送ってくれたので、メリルはそこからも見える王宮の庭園へと向かう。暫く歩いて行き、薔薇のアーチをくぐると、周囲には夜でも淡く光って見える、光青百合が咲き誇っていた。青く淡い光が、白い百合から漏れている。幻想的な花々に向かって微笑してから、メリルは星空を見上げた。

「ほんとだ。六芒星に見える。綺麗……」

 大きな星が六芒星を描き、その近くに星の川が見える。
 眺めていると、胸がじくじくと痛み始めた。身分が分かったとは言え、すぐに恋心が消えてしまうはずはなかった。ギルベルトの事が大好きでたまらない。ギルベルトが好きだ。せめて、この気持ちを――……

「……伝えるだけ、伝えようかな? うん。そうしよう。ダメでも、告白だけでも。うん、うん! それがいいよね。だって、大好きなんだもの」

 気を取り直して、メリルが両頬を持ち上げた――その時だった。
 ざわりと暗い茂みが揺れ、重々しい空気がいきなりメリルに吹き付けた。その衝撃に、腕で顔を庇いながら、メリルは正面を見る。すると暗がりから、揺れる黒い人影のようなものが現れた。だが、よく見ればそれは人ではなく、影そのものだった。真っ黒い影が、人の形をして、そこに在った。禍々しく、邪悪な気配がすると、一目で分かる。全身が総毛立った。

「精……霊……?」

 ぽつりとメリルは呟き、目を見開きながら後ずさる。結界があるから王宮に出るはずがないと、聞かされていたし、先程キースも口にしていた。

「っ」

 影が巨大化し、メリルの方へと伸びてきた。
 襲われかかった時、メリルは精霊を睨めつけて、必死でローベル師に教わった、回避のための呪文を唱える。すると精霊が一瞬だけ、怯んで動きを止めた。

 その隙に、メリルは踵を返して、走り出す。
 だがすぐに精霊は影を地に這わせ、メリルの足首に絡みついた。強く引かれて、メリルは後ろに倒れそうになる。そこには大きな影が迫っていた。口が出現しており、巨大な犬歯を持つ上下の歯列と、その間に引いた唾液の線、真っ赤な舌が目に入る。

「いや……っ」

 精霊の巨大な唇が笑うように弧を描いている。舌が口から出てきて、メリルに迫る。
 ギュッとメリルは目を閉じる。
 ――もうダメだ。喰べられる。
 精霊の中でも邪悪なものは、人間を喰べるという話は、ローベル師から聞いていた。
 メリルは、震えながらその衝撃を覚悟した。
 そして、最後にギルベルトに会いたかったと思った。会いたいと願った。脳裏にギルベルトの笑顔が浮かんできた。

「ギルベルト……」

 思わず名前を呟く。目を伏せたまま、睫毛を震わせて。

 ――ダンっと、音がしたのはその瞬間だった。ハッとして目を開けたメリルは、後ろから誰かに抱き寄せられた事に気づいた。同時に、正面にいた邪悪な精霊が、真っ二つに裂けているのを見た。黒い影が二つになり、メリルが見ている前で霞みのように、闇夜に溶けていく。驚いて横を見上げると、険しい眼差しで正面を見たまま、右手で剣を振って、精霊の残滓を振り落としているギルベルトの横顔があった。左手では、強くメリルを抱き寄せている。

「ギルベルト!」
「メリル、大丈夫か!?」
「う、うん」

 思わず両腕で、メリルはギルベルトに抱きついた。まだ恐怖で体が震えている。

「もう大丈夫だ。僕がついている」
「うん、うん……っ」

 ギルベルトは優しくメリルを抱きしめ返すと、その背中をポンポンと叩く。
 あやすように触れられる内、メリルは次第に落ち着きを取り戻した。なので、ギルベルトの胸板に押しつけていた額を離し、顔を上げる。

「ギルベルト、どうしてここに?」
「――大切な話をしようと思って、探していたんだ」

 するとギルベルトの両腕に力がこもった。今度は後頭部に触れられて、ギルベルトの胸板に彼の意思で頭を押しつけられる。左腕では、相変わらずメリルは背中を抱きしめられている。抱きしめられている事を、漸く意識したメリルの心臓は、ドクンドクンと煩くなった。ギルベルトの胸に額を押しつけているせいで、聞こえてしまったらどうしようかと怖くなる。

「心配した。本当に無事で良かった」
「どんなお話? その……私も話したいことがあって」

 メリルは、今こそ告白する最後のチャンスだと思った。結果が失恋確定だとしても、やはりこの想いを大切にしたいから。

「実はな、僕は――もうずっとメリルを前にすると、余裕が無くなっていたんだ。だから、酷い態度をとってしまったりした。まずはそれを謝りたい」

 それを聞いて、メリルは苦笑した。己には、最初からギルベルトに対する余裕なんて、欠片も無かったからだ。一目惚れしてからずっと、大好きなギルベルトを前にすると、余裕は常に消失していた。ギルベルトが自分に対して余裕が消失したのは、星叡の日が迫っていて、焦っていたから、秘宝の持ち主の自分を見ると余裕が消えたのだろうかと考える。

「悪い、遅くなった! それに本当に悪かった! 結界が破られていることも、邪悪な妖精が入り込んでいることも、俺は聞いていなかったんだ。護衛として、合わせる顔も無い。ギル様、いいや、なによりメリル、本当にすまな――」

 走ってきたキースが、そこまで言いかけて立ち止まった。
 抱き合ったままで二人が顔を向けると、キースが顔を背ける。

「悪い、悪いの連続で、本当に悪い。邪魔をしたな。庭園の入り口で待ってる」
「そうしてくれ」

 ギルベルトの声に何度も頷き、キースが踵を返した。メリルが目を丸くしていると、ギルベルトが苦笑した。そして己の額を、メリルの額にこつんと当てる。

「話を戻したい。聞いて欲しいことがある」
「うん。私もなの」
「――そうか。ああ、先に聞かせてくれ」
「あのね、私……」

 メリルはそう言うと、一度言葉を区切って、唾液を嚥下する。
 そしてじっと、金色に変わったギルベルトの目を見た。
 告白する時は、笑顔と決めていた。少しでも、ギルベルトにとって、明るい思い出になって欲しいからだ。

「ギルベルトの事が好きなの。知ってると思うけど、大好きなんだよ!」

 メリルが大きな声で述べると、ギルベルトが息を呑んだ。
 そしてすぐに破顔すると、強く強くメリルを抱きしめる。

「そうか。メリルの気持ちが変わっていなくて良かった」
「え?」
「僕の話も、同じ内容だ。僕は、メリルが好きだ。愛してる」
「えっ……?」

 まさかの返答に、メリルは唖然とした。

「だ、だって! そんな様子、全くなかったよ? え!?」
「気づいたのが最近なんだ。でも、今は断言できる。メリルが好きなんだ。僕と結婚して欲しい」

 ギュッとギルベルトの腕に力がこもる。メリルは、ギルベルトが思いを返してくれたのだから、即ち両思いになったのだから、余計な事を考えるのは止めにした。身分だとか、村に帰るだとか、なにもかも取り置くことに決める。ただ今は、幸せを噛みしめたい。

「本当!? 絶対!? 私のこと、好き?」
「ああ。大好きだ」
「どのくらい!?」
「……どのくらいとは?」

 ギルベルトが、少し困ったように、腕はそのままに体を離してメリルを覗きこむ。

「私は、世界で一番、ギルベルトが好きだよ!」
「ああ、なるほどな。僕は、他の誰とも比較できないほど、順番などつけられないほどメリルが好きだ。僕の方が、メリルを好きだと言うことだな」
「え? え……? それはないよ。私ほどギルベルトを好きな人はいないもの!」

 メリルの言葉に、ギルベルトの口元が綻ぶ。それから声を出して笑ったギルベルトは、満面の笑みを浮かべて頷いた。

「ずっと、そばにいて欲しい。だから、これからも、王宮にいてくれ」
「うん! 私もギルベルトのそばにいたい」

 見つめ合って、二人は頷き合った。
 こうして気持ちを確認し合った二人は、手を繋いで夜の庭園を出る。
 すると薔薇のアーチの外に、キースが立っていた。そして恋人繋ぎをしている二人の手を見てから、冗談めかした空気で溜め息をつく。

「やれやれ、俺は失恋かぁ」
「悪いな、キース。メリルは渡せない」
「はいはい。見ていれば分かりますって。脈も全然無かったから、俺も途中から諦めてましたし――しっかし、余裕の無いギル様なんて、俺は初めて見ましたよ。嫉妬したり、今も誰よりも早く駆けつけたり」

 キースの言葉に、フッと笑ってから、ギルベルトは頷いた。

「それだけメリルへの愛が深いということだ」





 このようにして、メリルは王都に残り、王宮で暮らす事となった。
 ――ギルベルトの妃として。
 平民出自だから反対されるのではとメリルは不安だったのだが、国王夫妻は、非常に歓迎した。術師の才能があることと、なにより愛する息子が選んだ相手なのだからという理由だった。

 式はすぐに行われることになり、メリルがおろおろしている内に周囲が全て整えてくれたため、純白のドレスを身に纏ったのは……もう三ヶ月ほど前の事である。平民初の次期王妃として、国民にも歓迎されている。

 現在、メリルとギルベルトは、新婚だ。
 ギルベルトは、始祖王の創造神としての力を身に宿し、聖なる力を帯びた剣を揮って、日々精霊を屠っている。だが、封印が強固にかけ直されたおかげで、新しく出現する精霊は激減し、今は残党を討伐している状態だ。どちらかといえば、王太子としての公務の方が忙しい。

 二人は私室が同じ部屋となったので、朝はともに起きる。そして部屋で運ばれてきた朝食を取る。終始二人とも笑顔だ。

 そしてギルベルトが部屋を出る時、必ずメリルを抱き寄せる。
 メリルは背伸びを押して、チュッとギルベルトに触れるだけのキスをする。それは――ギルベルトからの要求だった。いってらっしゃいのキスと、おかえりのキスと、おやすみのキスと、おはようのキスは、必ずしなければならないのだと、ギルベルトは言う。

「そういうものなのね」

 知らなかったメリルは、ギルベルトは色々知っているのだなと尊敬している。
 また、近衛騎士に配置換えになったキースは、今も部屋の外に立っている。
 だが、ギルベルトは言う。

『僕以外の男と、二人きりになっては行けないからな?』

 メリルは律儀に、その言葉を守っている。そのため、街に出る場合は、キースの他に侍女についてきてもらうと決まった。他にも、寝る時は、ギルベルトに抱きしめられて眠らなければならないと、メリルは教えられた。必ず、腕の中で寝なければならない。それが夫婦というものだと知った。

「私って、知らないことだらけだったのね」

 うんうんと、メリルは一人頷く。
 ――ギルベルトに執着され、溺愛され、吹き込まれているだけなのだが、メリルは気づかない。仮に気づいたならば……きっと大喜びすることだろう。今はただ、キスの柔らかさや温度、距離の近さ、ギルベルトの腕の力強さに、ドキドキしているだけの日々だ。

 そのようにして夕方になり、この日もギルベルトが帰ってきた。
 出迎えたメリルを、ギルベルトが抱きしめ、顔を傾けて、その唇を奪う。触れるだけの柔らかなキスに、メリルは浸る。

 なんて、幸せなんだろう。
 それに恋人になり、結婚してから、ずっとギルベルトは、メリルの大好きな優しい笑顔を浮かべていて、時には満面の笑みまで浮かべるようになった。二人で歩く時は、いつも手を繋いでいる。メリルは当初、いちいちドキドキしていたが、最近漸く慣れてきた。

 ――冷静沈着を絵に描いたような人柄だったギルベルトの豹変ぶりに、王宮の人々が驚愕していたのも、もう懐かしい話になりつつある。今は、微笑ましく……を、通り越して、生温かく、見守っている。特に侍従や騎士は、メリルと話さないように気を遣っている。ギルベルトが、怖い顔をするからだ。

 腕からメリルを解放し、ギルベルトが彼女の耳に唇を近づける。そうして、非常に小さな声で囁いた。

「愛してる」

 嬉しくなり、メリルは両頬を持ち上げて、今度は自分から抱きついた。

「私も!」

 こうして二人は、相思相愛になった。

 なお、一度村へと帰還し、家の整理をしたのだが、不思議なことに扉は跡形もなく消えていた。理由は今も、分かっていない。扉の行方は、誰も知らない。




 ―― 終 ――



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