【コミカライズ】鏡花の桜~花の詩~

「それで一日その思い出話を聞いてきた、と」
 咲耶は横目で叡正を見ながら言った。
「ああ……、すまない……」
 叡正は、決まり悪そうに呟く。
 新助や火消しの男から聞いた話しを伝えるため、叡正は咲耶の部屋を訪れていた。
 すでに部屋には信がいたため、叡正は二人に聞いてきた内容を話した。

「いや、別に謝る必要はない。おかげでわかったこともある……」
 咲耶はそう言うと目を伏せた。
「わかったこと?」
 叡正が首を傾げる。
「まぁ……想像でしかないが」
 咲耶はしばらく考え込んでから、叡正に視線を向けた。
「ところで、花を供えていたのはどんな子どもだった?」
「え……どんなって言われても……普通の子どもだったよ……。少し遠くから見てたから顔とかは全然……。ただ、着てるものは割と上等なものに見えたかな……。何か関係あるのか?」
 叡正は予想外の質問に、なんとか思い出しながら答えた。

「いや、わからないが……」
 咲耶はそう呟くと、ゆっくりと目を閉じてため息をついた。
「私の方も頼一様から聞いた話がある」
 咲耶は、頼一から聞いた話をひと通り話した。

「そんな! じゃあ、やっぱり冤罪じゃないか!」
 叡正の声が大きくなる。
「ああ、おそらくな……」
 咲耶は頷くと、視線を信に移した。
 咲耶の視線を感じて、信が咲耶を見る。
「どう思う?」
 咲耶は信に向けて聞いた。
「……証言したのは、どんな男だったんだ?」
 信が静かに口を開いた。
「恰好は商人のようだったそうだ。顔立ちは、目が細くて面長。どこか狐のような雰囲気だったと見た人間は言っていたらしい」

 信は咲耶の言葉を聞くと、何か思案するように一点を見つめて黙り込んだ。
「……火事の現場が見たい……」
 信がポツリと言った。
「火付けしたって疑われた火事の現場か?」
 叡正は信を見る。
「そっちはひと月も前の火事だから、もう跡形もないんじゃないか?」
 信は叡正をじっと見つめる。
(なんだ? それでも見たいってことか……?)
 叡正はしばらく信と目を合わせていたが、いくら待っても信が何も言わないので慌てて口を開く。
「わ、わかった。だいたいの場所はわかるから、今度連れていくよ……」
「ああ、ありがとう」
 信はそれだけ言うと、叡正から視線を外した。

 三人のあいだに沈黙が訪れる。


「そ、そういえば、もうすぐ花火の時期だな!」
 考え込んでいる様子の二人を見て、叡正は話題を変えた。
 咲耶が顔を上げる。
「ああ、両国の川開きか……」

 隅田川では毎年暑くなり始める頃、飢饉や疫病での死者の慰霊と悪疫退散の意味を込めた水神祭が行われる。
 その初日に花火が上がるのが毎年の恒例だった。

「花火が好きなのか?」
 咲耶が叡正を見て不思議そうに言った。
「え……みんな好きなんじゃないのか……?」
 毎年その日は花火をひと目見ようと隅田川沿いに人が溢れる。
 叡正自身、子どもの頃は隅田川に浮かぶ舟の上から家族みんなで花火を楽しんでいた。

「いや、私は別に」
 咲耶は淡々と答えた。
「信は……花火は知っているのか?」
 咲耶は信を見る。
「ああ、爆発は見たことがある」
 信も淡々と答えた。

(爆発……)
 叡正は信じられない思いで二人を見つめた。
 咲耶は叡正を見る。
「おまえ、火消しといい花火といい、子どもが好きそうなものが好きだな」
「え? ああ……」
(俺がおかしいのか、二人がおかしいのか……)

「まぁ、花火もただの爆発だからな」
 咲耶は信を見ながら頷く。

(いや、絶対二人がおかしい!)
 叡正はひとり深く頷いた。
「本当に俺が組頭でいいのか?」
 新助は恭一郎を見た。
「俺よりおまえの方が適任なんじゃねぇか?」
 次のや組の組頭は、新助か恭一郎のどちらかという話しは以前からあったが、今回恭一郎は新助を推薦した。

 恭一郎は食事の支度をしていたため、振り返らずに答える。
「いや、組頭は現場の指揮だけじゃなく、火消しを鼓舞する役割もある。おまえの方が合ってるよ。それに……」
 恭一郎は新助の方を振り返った。
「俺が組頭になったら二番手のおまえがずっと纏持ちだろ? おまえみたいなのが纏持ちになったらすぐ焼け死ぬことになるからな。そういう意味でもおまえが組頭になるべきだ」
「そんなヘマするはずないだろ? 今だって生きてるんだから」
 新助は自慢げに笑った。
「おまえが生きてるのは、俺が死なないように神経擦り減らして指揮してるからだ」
 恭一郎は新助を睨んだ。
「まぁ、とにかく組頭はおまえでいい。纏持ちは俺がやるから」
 恭一郎はそう言うと、お椀にご飯をよそい新助の横を通り抜けて、食卓に並べた。
 新助も恭一郎の後を追って食卓に向かう。

「……じゃあ、交代でやるのはどうだ?」
「は……?」
 新助の言葉に恭一郎は怪訝な顔をした。
「名目上ひとりじゃなきゃいけねぇなら、とりあえず俺でもいいが、実際おまえが指揮した方がいい現場もあるだろ? 状況に応じて頭の役割は交代してもいいんじゃねぇか?」
 新助は恭一郎の顔を真っすぐに見て言った。

 恭一郎はしばらく思案した後、口を開く。
「まぁ、みんながそれでいいっていうなら俺はいいが……。ただ、基本的には俺が纏持ちだからな。おまえは組頭としての自覚を持って行動しろよ」
「なんだよ、自覚って。組頭として品行方正にって?」
 新助は笑いながら恭一郎を見た。
「違う」
 恭一郎は真っ直ぐに新助を見る。
「自分は絶対に死んじゃいけないって心に刻め」

 恭一郎の言葉に新助は目を見開く。
「そ、そんなの当たり前だろ……」
「その当たり前ができてないから言ってるんだ。組頭がいなくなった組がどうなるか、おまえも源さんのときでよくわかってるだろ? だから、おまえは絶対に死ぬな。それは今ここで誓え」
「何なんだよ……突然……」
「いいから、さっさと誓え」
 新助はしばらく呆気にとられていたが、諦めたようにため息をついた。

「わかったよ。誓う、誓う。何なんだよ、本当に……。そのかわりおまえも約束しろよ、死なないって。少なくとも、火事で誰も死なないって世の中が実現できるまで」
「俺はおまえとは違うんだ。自分の身は自分で守れる」
「じゃあ、約束するんだな?」
「ああ。もちろん」
 顔を近づけて言い合っていた二人は、そこで同時にため息をついた。

「さっさと食おう。冷めちまう。おまえがくだらないこと言うから……」
「くだらない?」
 恭一郎の刺すような視線が新助に向けられる。
「いや、嘘、嘘! メシが冷めるってマジになるなよ……」
「ふん……」
 恭一郎は鼻を鳴らすと、箸を手に取った。
「まったく面倒臭いやつだな……」
 新助は恭一郎に聞こえないように小声で呟くと、急いでご飯をかき込んだ。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 二人で頭の役割を果たすようになってひと月ほど経った頃、二人が描かれた姿絵が売られるようになった。
 そこに書かれていた言葉に新助は絶句する。
 二人の姿が描かれた横に『双頭の龍』という文字があった。

「な、なんで……。最近お揃いなんていじられてなかったのに……」
 源次郎の代の火消しは、この仕事からすでに引退したものが多く、新助と恭一郎の背中の刺青が同じであることを指摘するものは最近は誰もいなかった。

「お揃い? お頭何言ってるんですか?」
 姿絵を持ってきた若い火消しは不思議そうに首を傾げた。
「二人の頭だから、双頭なんでしょ? 龍は火消しの象徴ですし」

 新助は若い火消しを見た。
(そうか、知らないのか……。まぁ、もともとの言葉の出どころは引退したおっさんたちな気もするが……)
 お揃いといういじりでなければ、新助も『双頭の龍』という名は嫌ではなかった。

 その後、『双頭の龍』は印象に残る呼び名ということもあり、江戸一の火消しと言われるようになっていく。
 咲耶の部屋に集まった翌日、叡正と信はひと月前の火事の現場に向かっていた。
「確かこのあたりだと思うんだが……」
 叡正は周りを見渡した。
(通りに面した長屋じゃなかったかな……)
 通り沿いの長屋をひと通り見て歩いたが、それらしいところはなかった。
「こっちじゃないのか?」
 信が細い路地を指して言った。
「ああ、そうだな。もう一本奥の通りかもしれない……」
 叡正は信に続いて細い路地に足を進める。

 少し進んだところで、不自然にぽっかりと開けた場所があった。
 地面は何かを燃やした後のように黒くなっており、ちょうど長屋一軒分ほどの広さだった。

「ここっぽいな……」
 叡正は黒く焦げた跡が残る地面に目を向けた。
(やっぱり何も残ってないよな……)

 信はしゃがみ込むと地面にそっと手を触れた。
「この火事で誰か死んだのか?」
 信は叡正を見上げて聞いた。
「ああ、ひとり亡くなったらしい。ただこの長屋、もともと誰も住んでなかったらしいんだ……」
 叡正は何もない地面を見つめた。
「火はすぐに消し止められたらしいんだが、火の勢いがすごかったみたいで……死体は原形を留めていなかったらしい……。最後まで死んだのは誰かわからなかったってさ……」
 叡正は目を伏せた。
「……そうか」
 信はそれだけ言うと、叡正から視線を外した。



「あ……」

 背後で声が聞こえ、二人は同時に振り返る。
 そこには白い菊の花を持った子どもが立っていた。

「あ、もしてかして、このあいだの……」
 叡正は思わず呟く。
 恭一郎が亡くなった場所に花を供えていた子どもに背恰好がよく似ていた。

 子どもはみるみるうちに青ざめていき、少しずつ後ずさりしていた。
 信が立ち上がると、子どもの肩がビクッと震える。
「えっと……」
 叡正が声をかけようとした瞬間、子どもは背を向けて一目散に走りだした。
「え!? なんで……」
 叡正がそう呟いたときには、信も子どもの後を追って走り出していた。
「え、おい……!」
 叡正の言葉は信には届いていないようだった。
「おいおい……」
 ひとり残された叡正はため息をつくと、しぶしぶ二人の後を追った。

 叡正が大きな通りに出ると、信はちょうど子どもに追いつき、腕を掴んだところだった。
 抵抗する気はないのか、子どもは腕を取られたままその場に崩れ落ちた。
「お、おい! 大丈夫か!?」
 叡正は急いで子どもに駆け寄る。

「どうして逃げた?」
 信は子どもを見下ろしながら淡々と聞いた。
「おい、この子が怖がるだろ」
 叡正の言葉に、信は子どもの腕をそっと離した。
 子どもはうつむいたまま、ただじっとしている。
「花を供えたかったのか……?」
 叡正は子どもの手に握られた白い菊の花を見ながら聞いた。

「…………だ……」
 子どもが何か呟く。
「え?」
 叡正はしゃがみ込むと、子どもに耳を近づけた。
「全部……僕のせいなんだ……」
 叡正を弾かれたように、子どもの顔を見る。
「全部……僕が……」
 顔を上げた子どもの顔は涙で濡れていた。
「どういう……」


「おい! うちの子に何してる!!」
 叡正の言葉は、男の怒鳴り声によってかき消された。

 叡正が顔を上げると、怒りで顔を赤くした男が足早にこちらに近づいてきていた。
 着ているものから裕福な商人のようだった。
 男は、信と叡正を交互に睨みつける。
「ち、違う……。父さん……」
 子どもは涙で濡れた目で男を見上げた。
「おまえは何も言わなくていい」
 男は静かな声で言った。
「もう二度と息子に近づくな」
 男は二人を睨みながらそう言うと、子どもの腕をとって強引に立たせた。

 男は子どもの腕を引くと、呆気にとられている叡正を横目に足早に路地に消えていく。
「何だったんだ……」
 叡正はそう呟いた後、信を見る。
 信はただ静かに二人が消えていった路地を見つめていた。

(僕のせいっていうのは一体……)
 叡正は足元に落ちているものに気づきしゃがみ込む。
 こどもが落とした白い菊の花がそこにひっそりと咲いていた。
 夕暮れ時、笠を被った男が通りに立っていた。
「おじさん、花火ちょうだい!」
 男は手持ち花火の入った箱を首から下げていた。
 三人の子どもたちが、笠を被った男を取り囲む。
 男を見上げる目は、嬉しそうに輝いていた。
 男は微笑むとその場にしゃがみ、手持ち花火の入った箱を差し出す。
「はいよ。どれがいい?」
 三人の子どもは、競い合うように花火に手を伸ばした。
「ダメだよ。一本しか買えないんだから俺が選ぶんだ!」
「私がもらったお小遣いなのに、なんでお兄ちゃんが選ぶのよ! 私が選ぶ」
「僕も選びたい!」

 三人が言い合いを始めると、男は笑った。
「まぁまぁ、今日は特別だ。一本分のお金で三本あげるから。みんなで仲良く花火しな」
 男の言葉に、子どもたちは目を丸くする。
「ホ、ホントに!?」
「いいの!? じゃあ、私これがいい!」
「え、じゃあ、僕はこれで」
 三人はそれぞれ気に入った花火を手にすると、一本分のお金を男に渡した。

「おじさん、ありがとう!」
「よかったね!」
「うん! おじさん、またね!」
 三人はそう言うと、また競い合うように駆け出していった。

「はいはい、毎度あり」
 男はお金を懐にしまうと、ゆっくりと立ち上がった。
「さぁ~てと……」
 男は辺りを見回す。
 少し離れたところで、男の方をチラチラと見ている少年が目に入った。

「見ぃ~つけた」
 男は微笑むと、少年に近づいていく。
「君も花火がほしいのかな?」
 男は手を笠に添え、深く被り直した。
「え、いや……僕は……」

「あ、そうか。お家の人にダメって言われてるのかな? でも、大丈夫だよ。みんなこっそりやってるもんだ」
「いや……でも僕、お金も……」
 男はにやりと笑った。
「いいんだよ。今回は特別にタダであげよう。次会ったときに、お金を払って買ってくれればいいからさ」
「そんな……! でも……いいんですか……?」
「もちろんいいさ! まずは花火の魅力を知ってもらうのが大事だからね」
 男はそう言うと、箱から一本の花火を少年に渡した。
「本当に……?」
 少年はためらいがちに男を見た。
「気にしなくていい。ほら、火打石とろうそくも貸してあげよう」
 男は箱の中から火打石とろうそくを出すと、少年に渡した。
「……ありがとうございます」
 男は少年の頭をなでた。
 そして、何かに気づいたように大げさに声を上げる。
「ああ! そうか! どこでやったらいいかわからないか!」
 男はそう言うと少年に顔を近づけた。
「おじさんがとっておきの場所を教えてあげよう。でも、くれぐれも……気をつけて遊ぶんだよ」
 男の目元は笠の影になって見えなかったが、口元には薄っすらと笑みが浮かんでいた。

「あ、ありがとうございます……」
 少年は戸惑いながら礼を言った。
 男は少年を案内するため、背を向けると低く呟く。
「ああ、いいんだ。むしろこっちがお礼を言いたいくらいだよ」



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 鳶の仕事を終えた恭一郎は大工の親方に呼ばれ、ひとり親方の住む長屋を訪ねていた。
 行ってみれば突然娘を紹介され、訳のわからないまま縁組がまとまりそうになったため、恭一郎は慌てて理由をつけて飛び出してきたのだ。

(本当に勘弁してほしいな……)
 長く引き留められていたため、すでに日は暮れ始めていた。
 姿絵が出て顔が売れてから、こういった話は異常なほど増えている。
(こんなことを望んでたわけじゃないんだが……)
 そんなことを考えながら歩いていた恭一郎は、ふと何かが焦げる臭いを感じて足を止めた。

(花火……か……?)

 恭一郎が辺りを見回していると、突然路地から誰かが飛び出してきた。
 避ける間もなく、勢いよく恭一郎に誰かがぶつかる。
 恭一郎にたいした衝撃はなかったが、ぶつかった誰かはその場に尻もちをついた。

 まだ十くらいの子どもだった。
「おい、大丈夫か?」
 子どもの顔は真っ青だった。
 子どもは何かを伝えたいのか、わずかに口を開けたがいくら待っても言葉は出てこなかった。
「おい、どうした……?」
 恭一郎が手を差し出す。
 その瞬間、子どもはギュッと目を閉じて突然立ち上がると、恭一郎を見ることなく走り去っていった。

「何だったんだ……?」
 恭一郎は子どもの姿が見えなくなると、路地に目を向ける。
 そちらからゆっくりと灰色の煙が漂ってきていた。
(火事か!?)
 恭一郎が慌てて路地を進んでいくと、そこにはパチパチと音を立てて燃える長屋があった。
(おいおい、いつから燃えてたんだ……)
 燃え始めたばかりのように見えたが、その割には火の勢いは激しすぎる気がした。
(かすかに油の臭いがするな……火付けなのか……。とにかく急いでみんなに知らせて……)
 恭一郎が声を上げようとしたとき、長屋のそばで花火のようなものが燃え残っているのが目に入った。

 恭一郎は目を見開く。
(あの子……なのか……。いや、でもこの油は……)
 恭一郎は頭を横に振った。
(何にしても、まずはみんなの避難が先だ!)
「火事だ! おい! みんな火事だぞ! 今すぐ避難しろ!!」
 恭一郎は叫びながら、走り出した。


 遠くから一部始終を見ていた男はため息をついた。
「あらあら、これはちょっと想定外だなぁ……」
 男は額に手を当てて苦笑する。
「まぁ、いっか。これはこれで面白くできそうだし……」
 男は広がっていく炎を見つめて薄く微笑むと、身を翻して細い路地に消えていった。
 引手茶屋の座敷で、喜一郎は三味線の音色に合わせて鼻歌交じりに体を揺らしていた。
「何かいいことでもございましたか?」
 咲耶は銚子を手に取り、喜一郎に微笑みかけた。
「そりゃあね」
 喜一郎は酒杯を手に取ると、咲耶の顔を嬉しそうに見つめる。
「もうすぐ両国の川開きだから!」
 咲耶は酒杯に酒を注ぎながら微笑んだ。
「ああ、そうでしたね」
(そういえば、あいつもそんなこと言ってたなぁ……)
 咲耶はぼんやりと叡正のことを思い出した。

「今年も喜一郎様の花火は上がるのですか?」
「もちろんだよぉ! 毎年、うちの花火を楽しみにしてくれてる人たちがいるからね!」
 喜一郎はそう言うと、酒杯に口をつける。

 両国の川開きで上がる花火には、江戸の大商人たちがこぞってお金を出していた。
 一瞬で散る花に大金を出せるほどの財力があることを示すと同時に、粋で気風の良いところを見せつけられるとあって、商人たちにとっての一大行事だった。

「今年もうちのが一番大きくて綺麗だから! ……本当は咲耶ちゃんと一緒に観たいけど、今年も来てくれないんだろう?」
 喜一郎は少し寂しげな表情で咲耶を見た。
「吉原の外に出るのは、喜一郎様と一緒であってもあまりいい顔はされませんからね……」
 咲耶は曖昧に微笑む。
(まぁ、本当は行けないことはないのだろうが……)
 咲耶が誰かと花火を観ようものなら、一夜にして噂になるのは目に見えていた。
 ほかのお客の気分を害するのは避けたいというのが咲耶の本音であり、咲耶自身花火に興味がないというのが正直なところだった。

「残念だなぁ……」
 喜一郎は酒杯を膳に置いた。
「今年はなんかちょっと張り合いもないし……」
「張り合い、ですか?」
 咲耶が聞き返す。
「う~ん、毎年うちが一番っていうのは変わらないんだけど、いつもうちに花火の大きさで張り合ってくる大文字屋がなんかいまひとつ……」
「今年はお店の売上があまり良くないのでは? 花火にあまりお金が出せなくなったのかもしれませんよ」
「いやぁ、店は好調のはずなんだけどなぁ。つい三月(みつき)前に会ったときには、今年は去年よりもっと金を出すから特大の花火を見せてやるとかなんとかいきがってたのに……。最近はやたらと暗いし、花火の話しをするのも嫌そうな感じで……」
 喜一郎は顎をさすりながら、何か考えているようだった。
「まぁ、お店の状況はひと月でも変わりますし……。どちらにしろ喜一郎様の花火が今年も一番と決まっていますから」
 咲耶は喜一郎の顔をのぞき込むようにして微笑んだ。
「ふふ、嬉しいこと言ってくれるね!」
 喜一郎は咲耶の言葉を聞いて満足げに笑った。
「やっぱり咲耶ちゃんと飲む酒は美味いなぁ! よし、今日はパーッといこう!」


 少し酔いが回ってきている様子の喜一郎を見て微笑みながら、咲耶は信と叡正のことを考えていた。
(火付けの現場で、何かわかっただろうか……)
 咲耶は、恭一郎が火付けするのを見たと証言した男のことが気になっていた。
(なぜ証言を取り消したのか……。それに、釈放させてどうするつもりだったんだ……)

 咲耶はそっと胸に手を当てる。
 胸騒ぎがした。
 咲耶はゆっくりと息を吐く。
(こういった嫌な予感は外れてくれたことがないからな……)
 咲耶は良くない考えを頭から消し去るように、そっと静かに目を閉じた。
(同心……?)
 鳶の現場で作業をしていた恭一郎は、同心のような装いの男たちが現場に入ってきたのを見て、思わず眉をひそめる。
 男たちはしばらく現場を見回していたが、やがて恭一郎に目を留めた。
(なんだ……?)
 男たちがゆっくりと恭一郎に近づいてきた。
「恭一郎だな。おまえに火付けの容疑がかかっている。……一緒に来てもらいたい」

「は……?」

 恭一郎は目を見開く。
 一瞬、何を言われているのかわからなかった。
(火付け? 俺が……?)
「何の話しですか……?」
 恭一郎は戸惑いながら、なんとかそれだけ口にした。
「三日前にあった火事だ。おまえも現場にいただろう? その火事でおまえが火をつけたところを見たという証言があった」

(三日前……。あの帰り道の火事か……! あのときの子どもがそう言ったのか……? いや、油のことも考えると……誰か別の人間に嵌められた可能性の方が高いか……)
 恭一郎は少しずつ冷静さを取り戻していった。

「一緒に来てもらえるか?」
 男は恭一郎に聞いた。
(聞くってことは証言以外の証拠がないのか……。まぁ、何もしてないんだから当然か……)
「わかりました」
 恭一郎は大人しく従うことにした。
 証言があった段階で拒否することはできないと恭一郎もわかっていた。
(最悪の場合、このまま火あぶりだな……)
 恭一郎は苦笑する。
(火付けの末路も火消しの末路も、案外似たようなものかもしれないな……)

「もし……」
 男が少し声を落として言った。
「もし、何か知っていることがあれば教えてくれ」
 恭一郎は男の言葉に少し驚く。
火盗(かとう)は問答無用で捕まえる連中だと思っていたが……。容疑がかかった人間の話しもきちんと聞いてくれるのか? それとも、目撃の証言にも怪しいところがあったのか……)

 ふと恭一郎の頭に、火事の現場で見かけた子どもの顔が浮かぶ。
 その顔は記憶の中でもひどく青ざめていた。

(言えるわけがない……。あの火事は人も死んでいる。ましてや、嵌められただけかもしれない子どものことなど言いたくもない)
 恭一郎は目を伏せた。
「話すことは……何もありません」
 男はなぜか少し悲しげな表情を浮かべた。
「そうか……」

 恭一郎が男たちの後に続いて歩き始めると、周りにいた鳶や大工たちもざわつき始めた。
(俺のせいで、組には迷惑かけちまうな……)
 恭一郎は目を閉じた。


「恭一!」
 今、恭一郎が一番聞きたくなかった声が響いた。
 駆け寄ってきた新助が恭一郎の肩を掴む。
「おまえ、何ついていこうとしてんだよ! 冗談でもやめろ!」
 新助の表情はいつになく険しかった。
「新助……」

 新助は男たちを睨みつける。
「おい、こいつが火付けなんてするわけねぇだろ! そんなだから火盗は冤罪ばっかりつくるんだろうが!」
 新助の言葉に男たちの顔が一瞬にして強張った。
「な、なんだと!?」
「火消し風情が偉そうに……!」
 男たちの顔が怒りで赤く染まっていく。

「おい、やめろ! 新助」
 今度は恭一郎が新助の肩を掴む。
「火盗があるおかげで火付けも減ってるんだ。変に揉め事起こすな」
 新助は恭一郎を見ると、顔を歪めた。
「おまえが疑われてんだぞ!!」
「そういう証言があったなら行くしかねぇんだ」
「やってねぇのに行く必要ないだろ!!」
 新助の肩は、怒りでかすかに震えていた。
 恭一郎は目を伏せる。
「何もなければ……すぐ帰ってこれるさ。それまでや組を頼む」
 恭一郎はそう言うと新助の肩を叩き、男たちに視線を向けた。
「すみません。行きましょう」
 恭一郎は男たちを促した。
 男たちは新助を一瞥した後、鼻を鳴らすと再び歩き始める。

 しばらく進んでから、恭一郎は新助を振り返った。
 新助はこちらに背を向けたまま、その場に立ち尽くしていた。
「すまないな、新助……」
 恭一郎は新助の背中に向かってそっと呟くと、再び前を向いて歩き出した。
「おまえ……また来たのか?」
 長屋の戸を開けた新助は、そこに立っていた叡正を見て呆れた顔で言った。
「ああ……、ちょっと聞きたいことがあって……」
 叡正は引きつった笑顔で応える。
 信と叡正は子どもが連れていかれた後、その足で新助の長屋にやってきていた。
 叡正としてはついこのあいだ来たばかりのため、行くことに抵抗があったが、信が子どもについて聞きたいと譲らなかった。
 正確に言うと、聞きたいと言った後の信の無言の圧に耐えられず、叡正がしぶしぶ案内することになっていた。

「いや、別にいいが……隣にいるのは誰なんだ?」
 新助は叡正の隣にいる信を見た。
「えっと、こいつは……」
 叡正は信を見て言葉に詰まった。
(誰って聞かれると……。俺もよくわからないんだよな……)
「えっと、信っていうやつで……。……咲耶太夫の知り合いだ……」
「はぁ?」
 新助が訳がわからないという表情で信を見る。
「なんで咲耶太夫の知り合いがうちに来るんだよ……。一体何の用なんだ?」
「えっと……」
 叡正が言葉に詰まっていると、信が一歩前に出た。
「十くらいの子どもに心当たりはないか?」
 信は新助を真っすぐに見つめる。
「はぁ?? なんだ?? 何の話しなんだ?」
 新助は困惑した顔で頭を掻きながら、叡正を見た。

「あ、いや、このあいだ火事の現場で花を供えていた子どもがいただろう? その子どもにまたさっき会ったんだ……その……恭一郎さんが火付けを疑われた火事の現場で……。その子が『僕のせいだ』って言ったんだ。あのときの子どもに心当たりはないか?」
 叡正が慌てて説明する。
「僕のせい……? あの子が火付けに関係あるってことか……?」
 新助は目を見開く。
「いや、まだ何もわからないんだが……。何か知ってはいるんだと思う」
 叡正の言葉に、新助は腕組みをして考えているようだったが、しばらくして諦めたようにため息をついた。
「悪ぃな……。思い当たる子どもはいない。そもそも、そんなに子どもと関わることなんてねぇからなぁ……」
「そうか」
 信はそう言うと、礼だけ言って去っていこうとした。
「お、おい! ちょっと待てよ! ああ、突然訪ねてすまなかった! また何かわかったら知らせる!」
 叡正も早口で新助に言って信を追いかけようとした瞬間、こちらに向かってきた男と目が合った。

「あれ? 叡正さん? また来たんですか?」
 男は叡正を見て、目を丸くした。
 先日長屋で話した火消しの男だった。
 信も男を見て足を止める。

 声を聞いた新助が慌てて長屋の外に出た。
「どうした? 何かあったのか?」
「あ、いや、火事とかじゃないです」
 男は慌てて首を振ってから、新助の元に駆け寄った。

「あの、お頭と話しがしたいって子が……」
 男はそう言うと、遠くで佇んでいる子どもを指さした。

「あ!」
 叡正は思わず声を出した。
「どうした?」
 新助は叡正を見る。
「あの子だ。さっき会ったのは……」
 叡正の言葉を聞き、新助は子どもを見つめた。
「確かにこのあいだ見た子どもに似ているような……」

 子どもはゆっくりと新助たちに近づいてきた。
 先ほどと同じで子どもの顔は相変わらず真っ青だった。
 子どもは信に気づくと少しだけ頭を下げ、その横を通り過ぎて新助の前に立つ。

「……すべてお話しします」
 子どもは新助を見上げた。
 顔色は悪く唇も少し震えていたが、新助を見つめるその眼差しには強い決意の色があった。
 火消しの男の提案で、一旦全員長屋の中に入ることになった。
 長屋の奥では、新助の家の子どもが眠っていたため、それほど広いわけではない座敷に信や叡正を含めた五人が腰を下ろした。
「突然申し訳ありません……」
 子どもは姿勢良く正座した状態で頭を下げる。
 顔は青ざめたままだったが、唇の震えはもう止まっていた。

「私は利一(りいち)と申します。ひと月前の火事のことでお話しが……」
 利一はそう言うと、正面に座っていた新助の顔を真っすぐに見つめた。
「あの火事……恭一郎さんは関係ありません。あれは……私が……僕のせいなんです」
 利一の言葉に新助と火消しの男は息を飲んだ。
「本当に申し訳ありませんでした!」
 利一は畳に額をこすりつけるように頭を下げる。

「『僕のせい』っていうのは一体……」
 新助がなんとかそれだけ口にした。
「花火をしていたんです……」
 利一はかすれた声で、絞り出すように答える。
「その火が長屋に燃え移って……あっという間に……。本当に申し訳ありません……」
 頭を下げたままの利一の肩は、かすかに震えていた。
「花火……」
 新助は呆然としたまま小さく呟いた。
「僕……動転して……その場から逃げてしまって……。そのとき恭一郎さんにぶつかったんです……」
 恭一郎の名に、新助の肩がピクリと動く。
「だから……恭一郎さんは僕が火事の原因だって……わかってたはずなのに……。何も言わなかったって聞いて……。恭一郎さんには何の罪もないのに……! そのまま亡くなったって……。もう僕は……」
 利一は震える手で頭を抱えてうずくまった。
 利一の丸くなった背中は苦しげに上下している。

「そうか……」
 新助はうずくまった利一を見ながら、そっと呟いた。
(だからあいつ、何も言わなかったのか……)

「本当に申し訳ありません! すぐ名乗り出るつもりだったんですが……父に止められて……。僕が火付けの犯人だってわかったら、店も何もかも終わりだからって……。でも、もう苦しくて……」
「店……?」
 新助の呟きに、火消しの男が口を開く。
「お頭、この子油問屋の子ですよ。ほらあの豪商の大文字屋の……」
「ああ、あそこの……」
 新助でも油問屋である大文字屋の名は聞いたことがあった。

 火消しの男は利一のそばに近寄ると、そっと震える背中をさすった。
「でも、どうしてあんなところで花火を? 大文字屋からはかなり距離があるだろう……?」
 利一はそっと顔を上げて、火消しの男を見る。
 その目は涙を堪えているためか真っ赤に充血していた。
「うちの店に出入りしている業者の人が、あの辺りに今日花火売りが来るって教えてくれたんです……。僕……手持ちの花火を見たことがなくて……。一度でいいから花火をやってみたくて……。父には絶対にダメだって言われていたのに……。本当に申し訳ありません……」
 利一はそれだけ言うと、再び頭を抱えてうずくまった。
「ああ、油を扱う家だからか……」
 火消しの男は悲しげな眼差しで利一を見る。

 重苦しい沈黙が長屋を包んだ。


「どうしてだ?」
 唐突に、信が口を開く。
「どうして、あの長屋の前で花火をしたんだ?」
 淡々とした信の言葉が長屋に響く。
 利一はゆっくりと顔を上げて、信を見た。
「花火売りの人が……。ここは奥まっていて人に見られる心配がないからって……。それに……この長屋は空き家だから……誰にも迷惑がかからないって教えてくれて……。……で、でも、実際には人がいたみたいで……僕のせいで……誰か亡くなって……。本当に……僕は取り返しのつかないことを……」
 利一はそこまで言うと顔を歪めた。
 言葉が続かず、涙が溢れ出す。

「おい、大丈夫か……?」
 新助は慌てて利一に駆け寄ると、火消しの男とともに背中をさすった。

「花火売りはどんな男だったか覚えているか?」
 利一の様子に構うことなく、信は質問を続ける。
「おい、そんなことどうだっていいだろう?」
 新助が信を見て、眉をひそめる。
「どうでもよくない。どんな男だった?」
 信は表情を変えることなく利一を見た。
 新助は思わず舌打ちする。
(何なんだこいつは……!)

 利一は呼吸を整えると、信を見た。
「笠を……被っていて……。あまりよくわからなかったんですけど……。少し面長で……目が細くて……ずっと微笑んでいるような人……でした。どこか……狐のお面みたいな……感じのする顔で……」

 利一の言葉に、信の目元がピクリと動いた。
 隣にいた叡正も目を見開く。
「それって……!」

 叡正の言葉に新助が首を傾げる。
「なんだ? それが何なんだよ?」
 新助の言葉に、叡正がためらいがちに口を開く。
「その……、恭一郎さんが火付けするのを見たって証言した男が……ちょうどそんな感じの男だったんだ……」
「は!?」
 新助と火消しの男は目を見開いた。
「どういうことだ!? じゃあ、花火売りの男が恭一を嵌めたってことか!?」
 新助は思わず立ち上がり、信と叡正を見下ろした。
「ま、まだわからないが……そうなのかもしれないと……」
 叡正はしどろもどろになりながら答える。

 信は目を伏せて何かを考えているようだったが、やがてスッと立ち上がり、長屋の戸に向かって歩き出した。
「お、おい! 待てよ」
 叡正が慌てて引き留めると、信は少しだけ振り返った。
「聞きたいことは聞けた。邪魔したな……」
 信はそれだけ言うと、戸を開けて去っていった。
「お、おい……! ホントに勝手だな……」
 叡正はため息をついた。

 新助と火消しの男は、呆気にとられたように戸口を見つめている。
「そ、そういえば、さっき一緒にいた父親はどうしたんだ?」
 叡正は利一に向かって聞いた。
「ここに来ることは承知しているのか?」
 利一は涙に濡れた目を叡正に向けて、悲しげに首を振った。
「家に連れていかれそうになったところを……振り切ってここに来たので……。父は自分がなんとかするから、おまえは何も言わなくていい、と……。でも……僕がもう黙っているのは限界だったんです……」
「そうか……」
 叡正は目を伏せた。

 新助と火消しの男は顔を見合わせる。
「……今日のところは、一旦家に帰った方がいい。ここまで来て、教えてくれてありがとう。家のこともあるだろうし、これからどうするかゆっくり考えるといい」
 火消しの男は利一の背中をさすりながら優しい口調で言った。
 利一が弾かれたように、火消しの男を見る。
「そんな! すぐに名乗り出ます! ……このままでは恭一郎さんが……!」

 新助はそんな利一の様子を見て目を伏せると、しゃがみこんで利一の頭をそっと撫でた。
「ありがとな……。あいつが何も言わなかったってことは、きっとおまえが罪に問われることは望んでいなかったはずだ……。確かに汚名は晴らしてやりたいが……。おまえが罪に問われることを考えるとな……。その気持ちだけで十分だ……」
 新助は優しく微笑んだ。
(どうすることが正しいのかはわからねぇが……。きっとおまえはこの子が罰を受けることは望んでないんだろうな……)
 新助は目を伏せた。
「なんで俺にも言わなかったんだよ、恭一……」
 新助は小さな声で呟いた。
 かすかに耳に届いた新助の言葉に、火消しの男も叡正も何も応えることはできなかった。
 鞭の音が響くたび、恭一郎は苦悶の表情を浮かべた。
 意識が遠のくと水をかけられ、また鞭で打たれる。
 上半身の着物を脱がされ、後ろ手で縛られた恭一郎の背中はすでに血だらけだった。
「恭一郎さん……」
 ふいに鞭の音が止み、男がしゃがみ込んで恭一郎の顔を覗く。
「もうやってないって言ってくださいよ……。それだけでいいんですから……」
 男の表情は、自分が鞭で打たれているように苦しげだった。
「……なんだ……? 手が痛く……なったのか……?」
 恭一郎は玉のような汗をかきながら薄く笑った。
 男は頭を抱える。
「冗談言ってる場合ですか? っていうか、よくそんな余裕ありますね……」
「余裕……はないな……」
 恭一郎は弱々しく笑った。
「俺だって、好きでこんなことやってるんじゃないんですよ……。あんたが何にも言わないから……」
 男はため息をついた。
「……誰も恭一郎さんがやったなんて思ってないんです。あんたは江戸の英雄だ……。誰かがあんたを妬んで嵌めたんじゃないんですか? みんなそう思ってます……。ひと言、やってないって言ってくれたら帰せるんですよ」
「はは……英雄……。俺はそんな器じゃねぇよ……」
「恭一郎さん……! お願いですから!」
 恭一郎は苦笑した。
(随分優しいんだな……)
「……言うことは何もない」
 恭一郎はもう何度言ったかわからない言葉を繰り返した。
 男は苦しげな表情でため息をつくと、ゆっくりと立ち上がる。
「ちょっと頭冷やして、よく考えてください」
 男はそう言うと、恭一郎に勢いよく水をかけた。
 水の勢いもあり、恭一郎はそのまま倒れ込む。
 恭一郎の様子を見た男は、もう一度ため息をつくと部屋から出ていった。

「火盗って……意外と優しかったんだな……」
 ひとりになった部屋で恭一郎はフッと笑った。
 番所に連れてこられてから、すでにひと月ほどが経っている。
 すぐに拷問されると覚悟していた恭一郎だったが、ごく普通の取り調べが先日までずっと続いていた。
 鞭で打たれたのは今日が初めてだった。

「みんなちゃんとやってるかなぁ……」
 恭一郎は倒れた姿勢のまま、火消しの仲間の顔を思い浮かべた。
「俺のせいで、や組は相当やりづらいだろうし……」
 恭一郎はため息をついた。
「新助にだけでも話すべきだったか……」
 恭一郎はそう呟いて、思わず笑った。
「いや、ダメだろ……。あいつ馬鹿だし、絶対黙っていられねぇよ……」
 恭一郎は目を閉じた。
(まぁ、俺が何も言わなくても……大丈夫だろう……)
 恭一郎は急速に意識が遠のいていくのを感じた。
(今って寝ていい時間なのかな……)
 恭一郎はそんなことを考えながら、静かに眠りに落ちていった。


「恭一郎さん! 起きてください!」
 体を揺すられて、恭一郎は目を覚ました。
(なんだ……もう鞭打ちの時間か……?)
 恭一郎がぼんやりと考えていると、男が恭一郎の体を起こし手を縛っていた縄を切った。
「恭一郎さん、釈放です」
 恭一郎は呆然と男を見た。
「……え? どうして……」
 自由になった両腕を動かすと、背中の傷が広がり鋭い痛みが走った。
 けれど、痛み以上に恭一郎は今の状況に困惑していた。
 
 男は申し訳なさそうに視線をそらす。
「証言が取り消されたんです……。恭一郎さんが火をつけたのを見たというのは勘違いだった、と」
「勘違い……?」
 恭一郎は眉をひそめた。
(どういうことだ……。俺に罪を着せたかったんじゃないのか……?)
 恭一郎が考え込んでいると、ふいに男が腕をとって恭一郎を立たせた。
 ずっと同じ姿勢だったためか足に力が入らず、恭一郎はふらつく。
 その様子を見た男は、恭一郎の腕を自分の肩に回し、支えるように扉に向かって進んでいった。

「恭一郎さん……、俺たちは謝れません……。でも……」
 男は前を向いたまま苦しげに口を開く。
 恭一郎はすぐ横にある男の顔を見た。
(優しいと火盗をやるのもラクじゃないんだな……)
 恭一郎は少し微笑む。
「気にするな。おまえたちは仕事をしただけだ……」
 男の口が何か言いたげに動いたが、男はきつく目を閉じただけで何も言わなかった。

(帰れるのか……。まさか帰れるとは思ってなかったな……)
 恭一郎はぼんやりとそんなことを考えていた。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 半纏を羽織ると、恭一郎は番所を後にした。
 外は暗かったが、月が出ているため歩けないほどではなかった。
 恭一郎は空を見上げる。
(真夜中だったか……)

 背中の痛みは酷かったが、番所で少し休んだため恭一郎は普通に歩けるようになっていた。
(こんな時間なら朝までいればよかったか……)
 恭一郎はため息をつく。
 もう帰ることはないと考えていたため、恭一郎は番所までどのような道を通ってきたのかまったく覚えていなかった。
(とりあえず勘を頼りに帰るしかないな……)
 恭一郎はなるべく月明かりの届く大きな通りを選んで進んだ。

「あれ、恭一郎さん?」
 細い路地からふいに現れた男が、恭一郎の顔を見て声を上げる。
 恭一郎は男を見た。
(誰だ……?)
 男は人の好さそうな笑みを浮かべていたが、月明かりでできた陰影のせいかその顔はひどく胡散臭く見えた。
「釈放されたんですね! やっぱり恭一郎さんが火付けなんてするはずないと思ってたんですよ~」
 男は大げさなくらい嬉しそうな声で言った。
 恭一郎は眉をひそめる。
(なんだ、こいつ……。とりあえず、あんまり関わらない方がよさそうだな……)
 恭一郎は一礼すると、そのまま去っていこうとした。

「そういえば、知ってます? 今、や組大変なことになってますよ?」
 男の言葉に、恭一郎は足を止めた。
「……どういうことだ?」
 恭一郎が振り返ると、男は不気味なほどにんまりと笑った。
「や組は自分たちが活躍するために、火をつけて回ってたんじゃないかって噂になってるんですよ~。あ、いや僕はもちろん、そんなわけないってわかってますよ! でも、や組は相当大変みたいですね」
 男はそう言うと恭一郎に近寄った。
「恭一郎さんもとんだ汚名を着せられましたよね……。お気の毒です。釈放されても噂は消えませんからねぇ。困ったものです」

 恭一郎は無言で男を見つめ続けた。

「あ、そうだ! もしよかったら僕が汚名を晴らすお手伝いをしましょうか! ちょっとしたツテがありましてね」
 男は恭一郎に顔を近づけ、声をひそめた。
「そのかわり、ちょっとしたお願い、聞いてもらえませんか?」
 男の瞳は妖しく輝いている。

「フッ……」
 恭一郎は思わず噴き出した。
「そうか……、おまえか……」
「…………はい?」
 男が浮かべる笑顔が引きつって歪む。
「俺やあの子を嵌めたのも、あの火事も……。おまえの仕業だな……」
 恭一郎は男を睨んだ。
「……はい? ちょっと何をおっしゃってるかわからないですが……」
 男は引きつった笑顔を浮かべながら、後ずさりした。

「汚名なんて晴らしてもらわなくて結構だ。お願い? 何が狙いか知らないが聞くわけないだろう。……何の証拠もないからな、今は何も言わない。だが、おまえのようなやつは、いつか必ず罰を受けることになる。それだけは覚えておけ」
 恭一郎はそれだけ言うと、男に背を向けて歩き出した。

 その瞬間、半鐘の音が鳴り響いた。
 恭一郎は弾かれたように顔を上げる。
(火事か……この鳴り方だとここから近いな……)
 恭一郎は男のことを一瞬にして忘れ、半鐘の音が聞こえる方に向かって走り出した。

 だから、恭一郎は気づいていなかった。
 そのとき背後で、笑顔の消えた男が殺意に満ちた眼差しで恭一郎を見ていたことに。