「……もう消したのか……?」
新助は呆然としながら、恭一郎を見た。
「おまえ、来るのが遅いんだよ。着いたのが早かったから、火が燃え広がる前に消せたんだ」
恭一郎は火消したちとともに片付けをしながら答える。
「早く着いたっつっても……」
長屋は一部が焼け落ちていたが、そのほとんどが原形をとどめたまま残っていた。
(いくら早く着いたからって、どうやればこんなに綺麗に火が消せるってんだよ……)
恭一郎は新助が黙り込んでいる姿を見て首を傾げながら、片付けを進めるため長屋の方に去っていった。
「おお、新助! 遅かったなぁ。火ならもう消したぞ」
新助が呆然と火元の長屋を見ていると、火消しのひとりが新助に声をかけた。
「おまえにも見せてやりたかったよ。恭一郎すごかったぞ! 恭一郎の言う通りに動いたらすぐに火が消えたんだ! これなら俺たちがそろそろ引退しても、や組は安泰だな!」
火消しはそう言うと、新助の肩を叩いた。
「はは……そうですか?」
新助は笑いながら、同時に焦りも感じていた。
(なんだかんだ言ってもやっぱりあいつはすげぇなぁ。俺はこの一年何してたんだ……)
新助は自分の無力さに、こぶしを握りしめた。
「おい、お~い! おい、新助!」
新助は、恭一郎に思いきり肩を叩かれて我に返った。
「痛っ!」
思わず声をあげる。
「おまえ、何ボーっとしてるんだ」
恭一郎は呆れたように新助を見る。
「片付けも終わったし、帰るぞ。おまえみたいにデカいのが立ってたら邪魔なんだよ」
恭一郎はもう一度新助の肩を叩くと、家に向かって歩き始める。
「ああ、悪ぃな……」
新助がそう呟くと、恭一郎は思わず立ち止まって振り返る。
「おまえ……なんか悪いものでも食べたんじゃないのか?」
恭一郎は目を見開いて、新助の顔をまじまじと見つめた。
「う、うるせぇな。そういう気分のときだってあるんだよ」
新助はそう言うと、恭一郎にわざと肩をぶつけて歩き出した。
「なんだよ、そういう気分って……?」
恭一郎は眉をひそめてから、新助の横に並んで歩いた。
「いや、俺この一年何してたんだろうとかって思っちまってさ……」
「は? 鳶と火消しの仕事してただろうが」
恭一郎が何をいまさらと言わんばかりの表情で言った。
「いや……、俺おまえみたいに早く火消したりできねぇから……」
言いながら、新助は自分が惨めになっていくのを感じた。
「いや、やっぱ今のなし! カッコ悪ぃ……俺何言ってんだ……」
「は? おまえ何言ってんだよ。そんなの無理に決まってんだろ。おまえ馬鹿なんだから」
恭一郎は、またしても何をいまさらと言わんばかりの表情で言った。
「おい……おまえ性格悪すぎるぞ。傷口に塩を塗るんじゃねぇ」
新助は掴みかかる元気もなく、静かに恭一郎を睨む。
「いや、そういうことじゃなくて、そこはおまえが気にするところじゃねぇんだよ。俺がいるんだから、同じこと一緒にやる必要ねぇだろ。おまえはおまえのできることを頑張れよ」
「……俺にできることってなんだよ」
新助はため息をつきながら聞いた。
「まぁ、勢いと馬鹿力を活かしたことだろうな」
「おまえ……馬鹿にしてんだろう……」
新助は額に手をあてた。
「いや、馬鹿にはしてねぇよ。俺にはないところだ。特におまえの言葉の力っていうのかな……」
恭一郎は天を仰ぐように上を向いた。
「『大丈夫』って言葉ひとつにしても、おまえが言うと本当に大丈夫な気がするんだ……。おまえが本当にそう思い込んでるから自然と説得力が出てるのかもしれないけど、おまえの言葉で安心して冷静になってるやつも多いし、そういうところはすごいと思ってるよ」
新助は呆然と恭一郎を見つめる。
恭一郎に褒められたのはこれが初めてだった。
「なんてな。これぐらい言えば十分か? ほら、馬鹿なんだから、つまらないこと考えてねぇで、さっさと帰るぞ」
恭一郎はそう言って笑うと歩みを早めた。
「あん!? おまえ本当に性格悪ぃな! そんなんだからモテねぇんだぞ!」
新助は恭一郎を追いかける。
「うるせぇ! おまえの方がよっぽどモテねぇだろうが!」
恭一郎は振り返ってそれだけ言うと、家に向かって走りだした。
「なんだと!?」
二人はそのまま全力で走って家に帰ることになった。
新助の足取りは先ほどとは打って変わって、不思議なほど軽かった。
家に着くと、恭一郎は食事の支度を始める。
源次郎が亡くなってから基本的には二人で交代で準備していたが、新助に任せると食材がムダになることが多く、最近では食事の支度は恭一郎の仕事になりつつあった。
手持ちぶさたになった新助は掃除でもしようと立ち上がる。
すると、そのとき箪笥の引き出しから何か白い紙のようなものが出ているのが目に入った。
(なんだこれ……)
新助は白い紙を引き出すと、二つ折りになっていた紙を開いた。
それは姿絵だった。
新助はニヤリと笑う。
「恭一」
新助は食事の支度をしていた恭一郎に後ろから声をかけた。
「なんだ? 邪魔だから向こうに行ってろ」
振り返らずにそう言う恭一郎の前に、新助は姿絵を広げて見せる。
その瞬間、恭一郎が固まった。
みるみる恭一郎の全身が真っ赤になっていくのがわかる。
新助は堪え切れず噴き出した。
「おまえ、真っ赤じゃねぇか! こういうのが好みだったんだな!」
新助はお腹を抱えて笑い始める。
「うるせぇ! 返せ!!」
恭一郎は、新助の手から姿絵を強引に奪い取る。
「悪い悪い。確かに綺麗だもんな。天女って言われるのもわかるよ。でも、ちょっと気が強そうじゃねぇか」
新助は、恭一郎が持っている紙をのぞき込んだ。
そこには、花を生けている咲耶の姿が描かれていた。
「俺はどっちかっていうと、露草太夫の方がいいと思うけどな。やっぱり色気が違うっていうかさ」
落ち着きを取り戻した恭一郎は、呆れたような顔で新助を見る。
「おまえ、それ見た目だけだろ? おまえ姿かたちしか見てないと、そのうち変な女に捕まるぞ」
「は? 何言ってんだ。おまえだって本物の咲耶なんて見たことないんだから、中身なんてわかんねぇだろ?」
珍しく正論を言う新助に、恭一郎は言い返す言葉がなかった。
「と、とにかく、俺の勝手だろ? まったく勝手に出してくるなよ……」
恭一郎はそう呟くと、箪笥に戻すために去っていった。
「からかい過ぎたか……」
新助は恭一郎の後ろ姿を見ながら呟いた。
「まぁ、綺麗だとは思うよ……。そりゃあな……。まぁ、一生縁はないだろうけど……」
新助はひとりそう呟くと、再び恭一郎をからかいにいくことにした。
咲耶は玉屋の座敷で、頼一に酌をしていた。
(今日の頼一様は少し様子が……)
咲耶は頼一に視線を向ける。
頼一は酒杯に注がれる酒をただ静かに見つめていた。
「このあいだはすまなかったな」
頼一が口を開いた。
咲耶は銚子を膳に戻しながら、頼一を見つめる。
「火消しの件だ。気にしていただろう?」
頼一は酒を見つめたまま、少し微笑んで言った。
(気にしている素振りを見せたつもりはなかったが……頼一様にはさすがに気づかれていたか……)
咲耶は内心苦笑した。
「いえ、私は……」
咲耶は曖昧に微笑む。
頼一は咲耶を見つめると優しく微笑んだ。
「まぁ、気になって当然だ。少し私の独り言に付き合ってくれるか?」
頼一はそう言うと、酒杯の酒を飲みほした。
「ええ、もちろん……」
頼一は空になった酒杯を見つめたまま、口を開いた。
「ざっと情報だけ集めた。確証はない。だが……おそらく冤罪だろう。そもそも恭一郎が火をつけたという証拠がない。あったのは証言だけだ」
「証言ですか……?」
「恭一郎が火をつけたのを見たと言った男がいた。ただ、それだけだ」
頼一は苦笑する。
「もちろん、本来ならそれだけでも十分だ。だが、この件は違う。そう証言した男はそれだけ言って、姿を消したんだ」
頼一は空になった酒杯を咲耶に差し出す。
咲耶は少し戸惑いながら、銚子を手にとってまた酒を注いだ。
酒の注がれた酒杯を見つめながら、頼一は悲しげに微笑む。
「そんな状況だ、火付盗賊改方も馬鹿じゃない。当然悪質な嘘の可能性も考えていた。それでも拘束されたのは、恭一郎が何も言わなかったからだ」
頼一は酒杯の酒を一気に飲みほした。
「『話すことは何もない』の一点張りだったそうだ。その結果、取り調べという名の拷問を受けることになった」
頼一はまた空の酒杯を咲耶に差し出した。
「頼一様……一度に飲みすぎです……」
咲耶はそっと頼一の手から酒杯を取ると、ゆっくりと頼一のお膳に置いた。
「ああ……すまない」
頼一は苦笑する。
「……それから、どうなったのですか?」
咲耶は頼一を見つめた。
「釈放されたよ……。証言した男がもう一度やってきて言ったそうだ『勘違いだった』と」
咲耶は目を見開く。
「証言した男はそれだけ言ってまた姿を消したそうだ」
頼一はお膳に置かれた空の酒杯を見つめ続けていた。
「恭一郎が釈放されたその日、火事があったそうだ……。恭一郎はその火事で火元になった長屋に飛び込んで死んだ……」
二人のあいだに重苦しい沈黙が訪れる。
「火付盗賊改方は、公に犯人は恭一郎ではなかったというわけにはいかない。信用に関わるからな。それに、犯人でなかったという確証があるわけでもないんだ。ただ皆思っている、冤罪だったと……」
頼一はそこで息を吐いた。
「火付盗賊改方の強制力は犯罪の抑止力になっているのは間違いない。だからこそ、顔を潰すわけにはいかない。ただ……」
そこから先の言葉は続かなかった。
咲耶は目を伏せた。
(恭一郎の名誉は回復してやりたい、ということなのだろうな……)
頼一は落ち着かないのか、また酒杯を手に取った。
「すまない……。やはりもう一杯もらえないか?」
珍しく迷いが見える頼一の顔に、咲耶は微笑むと少しだけ酒を注いだ。
「私の罪は一体誰が裁いてくれるのだろうな……」
頼一は酒を見つめながら呟いた。
「人の心など私にはわからない。言葉の真偽もそうだ。罪の重さは、人がはかるものではないとさえ思っている。罪があるにせよ、ないにせよ、私の言葉ひとつで裁かれるものの定めは変わる。それでいて私が見誤っても、その罪が裁かれることはない。まぁ、地獄で裁いてもらえるのかもしれないが……」
頼一は苦笑すると、酒杯の酒を一気に飲みほした。
「すまないな……。つまらないことを聞かせて」
頼一はそう言うと、咲耶に微笑んだ。
咲耶は頼一に微笑み返すと、膳にあった酒杯をそっと手に取った。
「私にも一杯いただけますか?」
頼一はわずかに目を大きくした。
「珍しいな……。もちろんだ、飲んでくれ」
頼一はそう言うと、銚子を手に取って咲耶の酒杯に酒を注いだ。
咲耶は礼を言うと、酒杯に口をつける。
「私にも人の心はわかりません」
咲耶は静かに口を開いた。
頼一は意外そうな顔で咲耶を見る。
「咲耶にはすべて見えていると思っていたが……」
「そんなわけないじゃありませんか」
咲耶は笑った。
「私は想像しているにすぎません。実際の人の心などわかりませんし、もちろん罪の重さなんてものもはかれません。日々、自分の言葉や行動が、本当にこれでよかったのか自問自答しているくらいです」
咲耶はそう言うと、残りの酒を一気に飲みほした。
「もちろん、答えは出ません。誰かを活かすことは別の誰かを殺すことにつながるかもしれないのですから。だから、私にできることは、ただ自分が後悔しないような選択をすることだけです。もしそうして生きる中で、それが罪になるのなら、その罪は……頼一様に裁いてほしいと思っています」
頼一は目を見開いた。
「頼一様がどれだけ真剣に向き合っているか、私は知っています。もし自分の罪の重さを誰かに決められるのなら、私は頼一様に決めていただきたいです。少なくとも私は心からそう思っています。だから、頼一様はご自分が信じる道を進んでください。もしそれが罪になるのならば……」
咲耶は頼一に向かって微笑む。
「そのときは、一緒に地獄に落ちましょう」
頼一はしばらく呆然と咲耶を見つめた後、フッと笑った。
「それは、最高の口説き文句だな」
「ふふ、とっておきの文句を今使ってしまいました」
咲耶はそう言うと、銚子を手に取った。
「それでは、誓いの盃とまいりましょう。ちなみに、今日はこれが最後の一杯ですよ」
「ああ、承知した」
咲耶と頼一はお互いの酒杯に酒を注ぎ、同時に飲みほす。
その日二人は、ただお互いが信じる道を進むと誓った。
「おい! おまえ、何考えてんだ!? そんな火元に近いところに立つな!」
恭一郎は、長屋の屋根に立って纏を持っていた新助に向かって叫ぶ。
すでに火は消し止められていたが、新助のすぐ横の長屋までは完全に焼け落ちていた。
「なんだよ……。消せたんだからいいだろう?」
新助は屋根の上でしゃがむと、不思議そうに恭一郎を見下ろした。
「消せたんじゃねぇ! おまえがそこにいるからなんとか消し止めたんだよ!! 死にてぇのか!?」
「いやぁ、だって、こっちの長屋まで燃える前に消してやった方がいいだろう?」
新助は自分が立っている長屋の屋根を叩きながら言った。
「ふざけんな! 願望で纏をかかげるんじゃねぇ! 一歩間違ってたら死んでたんだぞ!」
新助は、珍しく怒りが収まらない様子の恭一郎を見て笑った。
「悪ぃ、悪ぃ。次から気をつけるよ」
新助は悪びれる様子もなく、笑いながら言った。
恭一郎はしばらく新助を睨んでいたが、やがて、近くにいた火消しを捕まえて何かを話し始める。
(何やってんだ……?)
新助が下を見ていると、何人かの火消しが竜吐水と消火用の水鉄砲を持って恭一郎のもとに集まってきていた。
その先が、一斉に新助に向けられる。
(え!? マジか!?)
そう思った瞬間、新助の顔に大量の水がかけられた。
「お、おい……!……やめ……ろ!」
口を開くと水が入り、うまく言葉が出ない。
全身がずぶ濡れになる頃、ようやく水が止まった。
新助が下を見ると、火消したちが腹を抱えて笑っている。
「ふん、これでちょっとは頭が冷えたか? もうやるなよ」
恭一郎は満足そうに微笑んでいた。
「おまえなぁ!? ふざけんなよ!? 屋根から落ちたらどうすんだ!?」
「そんな弱い水で落ちるようなら鍛え直せ」
恭一郎はそう言うと背中を向けて去っていく。
「おい! 待て!! このやろう!!」
新助は急いで梯子で下に降りる。
纏を持ったまま、恭一郎を追いかけていたとき、遠くからこちらに向かって走ってくる人影が見えて、新助は思わず足を止めた。
「おい! 向こうの長屋が火事なんだ!! 火の勢いがすごくて……! 行けるか!?」
恭一郎と新助は顔を見合わせると軽く頷き、次の現場に向かう準備を始めた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
現場に着いた恭一郎は、炎に包まれている長屋を前に立ち尽くす。
ある程度離れた距離にいても伝わってくる熱風が、火の勢いを表していた。
すべてを焼き尽くし、長屋が潰れるのは時間の問題だった。
「ま、まだ中に人がいるんです……!」
長屋の住人と思われる男がすがるように恭一郎を見た。
恭一郎の顔が一気に青ざめる。
(この状況では……)
恭一郎はもう一度長屋を見た。
かろうじて入り口は確認できるが、見える範囲すべては炎に飲まれている。
「助けてください……! お願いします……!!」
男の煤で汚れた顔に涙が光っていた。
(どうすれば……)
「俺が行くよ」
恭一郎の思考をさえぎるように、新助が燃え盛る長屋に向かって進んでいく。
「お、おい、待て!」
恭一郎は、慌てて新助の腕を掴む。
「あの長屋はもう潰れる! やめろ!」
恭一郎の手に自然と力がこもった。
「潰れる前に出てくるさ。濡れてるし、ちょうどよかったよ」
新助はそう言うと笑った。
(何笑ってんだ、てめぇは……!!)
恭一郎は怒りで眩暈がした。
「そういう問題じゃねぇ、死ぬって言ってんだよ!!」
恭一郎の手に一層力がこもる。
「恭一」
意外なほど冷静な新助の声に、恭一郎は新助の顔を見た。
「もう誰も死なせないんだろう?」
かつての自分の言葉に、恭一郎は目を見開いた。
新助はそう言って微笑むと、恭一郎の手を振りほどき真っすぐに長屋に突っ込んでいく。
「新助!!」
恭一郎の叫びは届かず、新助の姿は長屋に消えていった。
「くそっ!! あいつ!!」
恭一郎は頭を掻きむしった。
「おい! 長屋の入口あたりに集中的に水かけるぞ!! 竜吐水も水鉄砲も全部かき集めろ!!」
恭一郎は炎に飲まれた長屋を見つめる。
(……誰も死なせないの中に、おまえも入ってんだぞ……)
(熱いな……)
長屋に飛び込んだ新助は焼けるような熱に顔をしかめた。
煙が充満していて、揺らめく炎以外はすべてぼんやりとしか見えない。
(視界が悪いな……)
新助は身を屈めて、なるべく煙を吸い込まないように奥に進む。
(こう視界が悪いと……)
そのとき、足に何かが当たった。
しゃがみこんで、目を凝らす。
それは、人の手だった。
新助は慌てて倒れている人の手を取った。
「おい、大丈夫か!?」
煙を吸わないように半纏の袖を口元に当てて、可能な限りの声を出す。
わずかに手が動いたような気がした。
(よし、まだ意識はある……!)
新助は腕を取ると、身を屈めてその人を背負った。
幸いにも入口近くで倒れていたため、外への道は遠くない。
「大丈夫だ……。助かるぞ」
その瞬間、長屋の一部が音を立てて崩れた。
目の前を燃える木材が落ちていく。
吹きつける熱風に新助は慌てて後ろに下がった。
新助は思わず舌打ちする。
瓦礫で外への道が塞がり、炎が上がっていた。
(ここで死ぬのか……?)
新助は一瞬よぎった考えを慌てて振り払う。
(このまま死んだら、あいつに顔向けできねぇよ……)
そのとき、背負っていた人の腕にほんのわずかに力が入った。
「生きたい」
そう言われた気がした。
目頭が熱くなる。
(ああ、源さんはこんな気持ちだったのか……)
源次郎に助けられた日のことが鮮やかに蘇る。
(助けたいじゃない……助けるんだ)
頭の芯が熱くなっていく。
(余計なことは考えるな。一直線に全力で走るだけでいい。俺は何を難しく考えてたんだ)
新助は思わず笑った。
新助は燃えている瓦礫も構わず、一直線に走り出す。
炎が足をかすめても不思議と熱くなかった。
燃え盛る木材も蹴散らしながら、ただひたすら真っすぐ走る。
(あと少し、あと少し……!)
すると、一気に視界が開けた。
目の前には、目を見開く恭一郎の姿がある。
新助は思わず微笑んだ。
「ちゃんと戻ったぞ」
その瞬間、新助の後ろで長屋が音を立てて崩れた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
【少し前】
恭一郎は長屋の入口に放水する指示を出しながら、足元が崩れていくような感覚に襲われていた。
(俺があんなこと言ったせいで、今度は新助が……)
足元がグラグラと揺れる。
この長屋はもう崩れる。誰の目にも明らかだった。
(どうしてあのとき腕を離したんだ……!)
恭一郎は唇を噛みしめた。
そのとき、長屋の一部が崩れる音が響く。
恭一郎は、顔から血の気が引いていくのを感じた。
(もう……ダメだ……)
恭一郎がそう思いうなだれたとき、長屋の中からバキバキと木が割れる音がした。
恭一郎が音に反応して顔を上げたその瞬間、炎の中から人影が飛び出してきた。
顔も体も傷だらけで、服の一部は燃えていたが、それは間違いなく新助だった。
背中には煤だらけの女性を背負った新助は、恭一郎と目が合うとなんでもないように笑った。
「ちゃんと戻ったぞ」
恭一郎は、一瞬何が起こったのかわからなかった。
(生きてる……)
ゆっくりとじんわり温かいものが胸に広がっていく。
それと同時にようやく恭一郎は動けるようになった。
新助の服の火を消すように指示を出し、背負っていた女性をゆっくりと地面に下ろすと医者を呼んだ。
女性の処置がひと段落すると、恭一郎は新助のもとに向かった。
新助は座って火傷を診てもらっていた。
「おお、恭一! 悪かったな、心配かけて……」
新助はさすがに少し申し訳なさそうな顔をしていた。
恭一郎は無言で新助に近づくと、しゃがみ込んだ。
「恭一……?」
新助が恭一郎の顔をのぞき込もうとした瞬間、恭一郎は新助の顔を思い切り殴った。
「……!??」
新助は痛みで言葉が出なかった。
ただただ目を丸くして恭一郎を見つめる。
「おまえ……もうガキの頃と違うんだから、本気で殴るなよ……。マジで骨折れるだろ……」
「おまえは……『誰も死なせない』を呪いの言葉にする気か……?」
恭一郎はうつむいたまま呟く。
「は……?」
恭一郎は新助の胸ぐらを掴む。
「いいか! もう二度とこんなことするな! 二度とだ!!」
恭一郎の勢いに押されて、新助はただ頷くことしかできなかった。
「ああ、わかった……」
恭一郎はそれだけ言うと、新助の半纏から手を離し新助の前から去っていった。
「何なんだ……あいつ……」
新助は不思議そうに頭を掻きながら、恭一郎の背中を見送った。
「それで一日その思い出話を聞いてきた、と」
咲耶は横目で叡正を見ながら言った。
「ああ……、すまない……」
叡正は、決まり悪そうに呟く。
新助や火消しの男から聞いた話しを伝えるため、叡正は咲耶の部屋を訪れていた。
すでに部屋には信がいたため、叡正は二人に聞いてきた内容を話した。
「いや、別に謝る必要はない。おかげでわかったこともある……」
咲耶はそう言うと目を伏せた。
「わかったこと?」
叡正が首を傾げる。
「まぁ……想像でしかないが」
咲耶はしばらく考え込んでから、叡正に視線を向けた。
「ところで、花を供えていたのはどんな子どもだった?」
「え……どんなって言われても……普通の子どもだったよ……。少し遠くから見てたから顔とかは全然……。ただ、着てるものは割と上等なものに見えたかな……。何か関係あるのか?」
叡正は予想外の質問に、なんとか思い出しながら答えた。
「いや、わからないが……」
咲耶はそう呟くと、ゆっくりと目を閉じてため息をついた。
「私の方も頼一様から聞いた話がある」
咲耶は、頼一から聞いた話をひと通り話した。
「そんな! じゃあ、やっぱり冤罪じゃないか!」
叡正の声が大きくなる。
「ああ、おそらくな……」
咲耶は頷くと、視線を信に移した。
咲耶の視線を感じて、信が咲耶を見る。
「どう思う?」
咲耶は信に向けて聞いた。
「……証言したのは、どんな男だったんだ?」
信が静かに口を開いた。
「恰好は商人のようだったそうだ。顔立ちは、目が細くて面長。どこか狐のような雰囲気だったと見た人間は言っていたらしい」
信は咲耶の言葉を聞くと、何か思案するように一点を見つめて黙り込んだ。
「……火事の現場が見たい……」
信がポツリと言った。
「火付けしたって疑われた火事の現場か?」
叡正は信を見る。
「そっちはひと月も前の火事だから、もう跡形もないんじゃないか?」
信は叡正をじっと見つめる。
(なんだ? それでも見たいってことか……?)
叡正はしばらく信と目を合わせていたが、いくら待っても信が何も言わないので慌てて口を開く。
「わ、わかった。だいたいの場所はわかるから、今度連れていくよ……」
「ああ、ありがとう」
信はそれだけ言うと、叡正から視線を外した。
三人のあいだに沈黙が訪れる。
「そ、そういえば、もうすぐ花火の時期だな!」
考え込んでいる様子の二人を見て、叡正は話題を変えた。
咲耶が顔を上げる。
「ああ、両国の川開きか……」
隅田川では毎年暑くなり始める頃、飢饉や疫病での死者の慰霊と悪疫退散の意味を込めた水神祭が行われる。
その初日に花火が上がるのが毎年の恒例だった。
「花火が好きなのか?」
咲耶が叡正を見て不思議そうに言った。
「え……みんな好きなんじゃないのか……?」
毎年その日は花火をひと目見ようと隅田川沿いに人が溢れる。
叡正自身、子どもの頃は隅田川に浮かぶ舟の上から家族みんなで花火を楽しんでいた。
「いや、私は別に」
咲耶は淡々と答えた。
「信は……花火は知っているのか?」
咲耶は信を見る。
「ああ、爆発は見たことがある」
信も淡々と答えた。
(爆発……)
叡正は信じられない思いで二人を見つめた。
咲耶は叡正を見る。
「おまえ、火消しといい花火といい、子どもが好きそうなものが好きだな」
「え? ああ……」
(俺がおかしいのか、二人がおかしいのか……)
「まぁ、花火もただの爆発だからな」
咲耶は信を見ながら頷く。
(いや、絶対二人がおかしい!)
叡正はひとり深く頷いた。
「本当に俺が組頭でいいのか?」
新助は恭一郎を見た。
「俺よりおまえの方が適任なんじゃねぇか?」
次のや組の組頭は、新助か恭一郎のどちらかという話しは以前からあったが、今回恭一郎は新助を推薦した。
恭一郎は食事の支度をしていたため、振り返らずに答える。
「いや、組頭は現場の指揮だけじゃなく、火消しを鼓舞する役割もある。おまえの方が合ってるよ。それに……」
恭一郎は新助の方を振り返った。
「俺が組頭になったら二番手のおまえがずっと纏持ちだろ? おまえみたいなのが纏持ちになったらすぐ焼け死ぬことになるからな。そういう意味でもおまえが組頭になるべきだ」
「そんなヘマするはずないだろ? 今だって生きてるんだから」
新助は自慢げに笑った。
「おまえが生きてるのは、俺が死なないように神経擦り減らして指揮してるからだ」
恭一郎は新助を睨んだ。
「まぁ、とにかく組頭はおまえでいい。纏持ちは俺がやるから」
恭一郎はそう言うと、お椀にご飯をよそい新助の横を通り抜けて、食卓に並べた。
新助も恭一郎の後を追って食卓に向かう。
「……じゃあ、交代でやるのはどうだ?」
「は……?」
新助の言葉に恭一郎は怪訝な顔をした。
「名目上ひとりじゃなきゃいけねぇなら、とりあえず俺でもいいが、実際おまえが指揮した方がいい現場もあるだろ? 状況に応じて頭の役割は交代してもいいんじゃねぇか?」
新助は恭一郎の顔を真っすぐに見て言った。
恭一郎はしばらく思案した後、口を開く。
「まぁ、みんながそれでいいっていうなら俺はいいが……。ただ、基本的には俺が纏持ちだからな。おまえは組頭としての自覚を持って行動しろよ」
「なんだよ、自覚って。組頭として品行方正にって?」
新助は笑いながら恭一郎を見た。
「違う」
恭一郎は真っ直ぐに新助を見る。
「自分は絶対に死んじゃいけないって心に刻め」
恭一郎の言葉に新助は目を見開く。
「そ、そんなの当たり前だろ……」
「その当たり前ができてないから言ってるんだ。組頭がいなくなった組がどうなるか、おまえも源さんのときでよくわかってるだろ? だから、おまえは絶対に死ぬな。それは今ここで誓え」
「何なんだよ……突然……」
「いいから、さっさと誓え」
新助はしばらく呆気にとられていたが、諦めたようにため息をついた。
「わかったよ。誓う、誓う。何なんだよ、本当に……。そのかわりおまえも約束しろよ、死なないって。少なくとも、火事で誰も死なないって世の中が実現できるまで」
「俺はおまえとは違うんだ。自分の身は自分で守れる」
「じゃあ、約束するんだな?」
「ああ。もちろん」
顔を近づけて言い合っていた二人は、そこで同時にため息をついた。
「さっさと食おう。冷めちまう。おまえがくだらないこと言うから……」
「くだらない?」
恭一郎の刺すような視線が新助に向けられる。
「いや、嘘、嘘! メシが冷めるってマジになるなよ……」
「ふん……」
恭一郎は鼻を鳴らすと、箸を手に取った。
「まったく面倒臭いやつだな……」
新助は恭一郎に聞こえないように小声で呟くと、急いでご飯をかき込んだ。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
二人で頭の役割を果たすようになってひと月ほど経った頃、二人が描かれた姿絵が売られるようになった。
そこに書かれていた言葉に新助は絶句する。
二人の姿が描かれた横に『双頭の龍』という文字があった。
「な、なんで……。最近お揃いなんていじられてなかったのに……」
源次郎の代の火消しは、この仕事からすでに引退したものが多く、新助と恭一郎の背中の刺青が同じであることを指摘するものは最近は誰もいなかった。
「お揃い? お頭何言ってるんですか?」
姿絵を持ってきた若い火消しは不思議そうに首を傾げた。
「二人の頭だから、双頭なんでしょ? 龍は火消しの象徴ですし」
新助は若い火消しを見た。
(そうか、知らないのか……。まぁ、もともとの言葉の出どころは引退したおっさんたちな気もするが……)
お揃いといういじりでなければ、新助も『双頭の龍』という名は嫌ではなかった。
その後、『双頭の龍』は印象に残る呼び名ということもあり、江戸一の火消しと言われるようになっていく。
咲耶の部屋に集まった翌日、叡正と信はひと月前の火事の現場に向かっていた。
「確かこのあたりだと思うんだが……」
叡正は周りを見渡した。
(通りに面した長屋じゃなかったかな……)
通り沿いの長屋をひと通り見て歩いたが、それらしいところはなかった。
「こっちじゃないのか?」
信が細い路地を指して言った。
「ああ、そうだな。もう一本奥の通りかもしれない……」
叡正は信に続いて細い路地に足を進める。
少し進んだところで、不自然にぽっかりと開けた場所があった。
地面は何かを燃やした後のように黒くなっており、ちょうど長屋一軒分ほどの広さだった。
「ここっぽいな……」
叡正は黒く焦げた跡が残る地面に目を向けた。
(やっぱり何も残ってないよな……)
信はしゃがみ込むと地面にそっと手を触れた。
「この火事で誰か死んだのか?」
信は叡正を見上げて聞いた。
「ああ、ひとり亡くなったらしい。ただこの長屋、もともと誰も住んでなかったらしいんだ……」
叡正は何もない地面を見つめた。
「火はすぐに消し止められたらしいんだが、火の勢いがすごかったみたいで……死体は原形を留めていなかったらしい……。最後まで死んだのは誰かわからなかったってさ……」
叡正は目を伏せた。
「……そうか」
信はそれだけ言うと、叡正から視線を外した。
「あ……」
背後で声が聞こえ、二人は同時に振り返る。
そこには白い菊の花を持った子どもが立っていた。
「あ、もしてかして、このあいだの……」
叡正は思わず呟く。
恭一郎が亡くなった場所に花を供えていた子どもに背恰好がよく似ていた。
子どもはみるみるうちに青ざめていき、少しずつ後ずさりしていた。
信が立ち上がると、子どもの肩がビクッと震える。
「えっと……」
叡正が声をかけようとした瞬間、子どもは背を向けて一目散に走りだした。
「え!? なんで……」
叡正がそう呟いたときには、信も子どもの後を追って走り出していた。
「え、おい……!」
叡正の言葉は信には届いていないようだった。
「おいおい……」
ひとり残された叡正はため息をつくと、しぶしぶ二人の後を追った。
叡正が大きな通りに出ると、信はちょうど子どもに追いつき、腕を掴んだところだった。
抵抗する気はないのか、子どもは腕を取られたままその場に崩れ落ちた。
「お、おい! 大丈夫か!?」
叡正は急いで子どもに駆け寄る。
「どうして逃げた?」
信は子どもを見下ろしながら淡々と聞いた。
「おい、この子が怖がるだろ」
叡正の言葉に、信は子どもの腕をそっと離した。
子どもはうつむいたまま、ただじっとしている。
「花を供えたかったのか……?」
叡正は子どもの手に握られた白い菊の花を見ながら聞いた。
「…………だ……」
子どもが何か呟く。
「え?」
叡正はしゃがみ込むと、子どもに耳を近づけた。
「全部……僕のせいなんだ……」
叡正を弾かれたように、子どもの顔を見る。
「全部……僕が……」
顔を上げた子どもの顔は涙で濡れていた。
「どういう……」
「おい! うちの子に何してる!!」
叡正の言葉は、男の怒鳴り声によってかき消された。
叡正が顔を上げると、怒りで顔を赤くした男が足早にこちらに近づいてきていた。
着ているものから裕福な商人のようだった。
男は、信と叡正を交互に睨みつける。
「ち、違う……。父さん……」
子どもは涙で濡れた目で男を見上げた。
「おまえは何も言わなくていい」
男は静かな声で言った。
「もう二度と息子に近づくな」
男は二人を睨みながらそう言うと、子どもの腕をとって強引に立たせた。
男は子どもの腕を引くと、呆気にとられている叡正を横目に足早に路地に消えていく。
「何だったんだ……」
叡正はそう呟いた後、信を見る。
信はただ静かに二人が消えていった路地を見つめていた。
(僕のせいっていうのは一体……)
叡正は足元に落ちているものに気づきしゃがみ込む。
こどもが落とした白い菊の花がそこにひっそりと咲いていた。
夕暮れ時、笠を被った男が通りに立っていた。
「おじさん、花火ちょうだい!」
男は手持ち花火の入った箱を首から下げていた。
三人の子どもたちが、笠を被った男を取り囲む。
男を見上げる目は、嬉しそうに輝いていた。
男は微笑むとその場にしゃがみ、手持ち花火の入った箱を差し出す。
「はいよ。どれがいい?」
三人の子どもは、競い合うように花火に手を伸ばした。
「ダメだよ。一本しか買えないんだから俺が選ぶんだ!」
「私がもらったお小遣いなのに、なんでお兄ちゃんが選ぶのよ! 私が選ぶ」
「僕も選びたい!」
三人が言い合いを始めると、男は笑った。
「まぁまぁ、今日は特別だ。一本分のお金で三本あげるから。みんなで仲良く花火しな」
男の言葉に、子どもたちは目を丸くする。
「ホ、ホントに!?」
「いいの!? じゃあ、私これがいい!」
「え、じゃあ、僕はこれで」
三人はそれぞれ気に入った花火を手にすると、一本分のお金を男に渡した。
「おじさん、ありがとう!」
「よかったね!」
「うん! おじさん、またね!」
三人はそう言うと、また競い合うように駆け出していった。
「はいはい、毎度あり」
男はお金を懐にしまうと、ゆっくりと立ち上がった。
「さぁ~てと……」
男は辺りを見回す。
少し離れたところで、男の方をチラチラと見ている少年が目に入った。
「見ぃ~つけた」
男は微笑むと、少年に近づいていく。
「君も花火がほしいのかな?」
男は手を笠に添え、深く被り直した。
「え、いや……僕は……」
「あ、そうか。お家の人にダメって言われてるのかな? でも、大丈夫だよ。みんなこっそりやってるもんだ」
「いや……でも僕、お金も……」
男はにやりと笑った。
「いいんだよ。今回は特別にタダであげよう。次会ったときに、お金を払って買ってくれればいいからさ」
「そんな……! でも……いいんですか……?」
「もちろんいいさ! まずは花火の魅力を知ってもらうのが大事だからね」
男はそう言うと、箱から一本の花火を少年に渡した。
「本当に……?」
少年はためらいがちに男を見た。
「気にしなくていい。ほら、火打石とろうそくも貸してあげよう」
男は箱の中から火打石とろうそくを出すと、少年に渡した。
「……ありがとうございます」
男は少年の頭をなでた。
そして、何かに気づいたように大げさに声を上げる。
「ああ! そうか! どこでやったらいいかわからないか!」
男はそう言うと少年に顔を近づけた。
「おじさんがとっておきの場所を教えてあげよう。でも、くれぐれも……気をつけて遊ぶんだよ」
男の目元は笠の影になって見えなかったが、口元には薄っすらと笑みが浮かんでいた。
「あ、ありがとうございます……」
少年は戸惑いながら礼を言った。
男は少年を案内するため、背を向けると低く呟く。
「ああ、いいんだ。むしろこっちがお礼を言いたいくらいだよ」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
鳶の仕事を終えた恭一郎は大工の親方に呼ばれ、ひとり親方の住む長屋を訪ねていた。
行ってみれば突然娘を紹介され、訳のわからないまま縁組がまとまりそうになったため、恭一郎は慌てて理由をつけて飛び出してきたのだ。
(本当に勘弁してほしいな……)
長く引き留められていたため、すでに日は暮れ始めていた。
姿絵が出て顔が売れてから、こういった話は異常なほど増えている。
(こんなことを望んでたわけじゃないんだが……)
そんなことを考えながら歩いていた恭一郎は、ふと何かが焦げる臭いを感じて足を止めた。
(花火……か……?)
恭一郎が辺りを見回していると、突然路地から誰かが飛び出してきた。
避ける間もなく、勢いよく恭一郎に誰かがぶつかる。
恭一郎にたいした衝撃はなかったが、ぶつかった誰かはその場に尻もちをついた。
まだ十くらいの子どもだった。
「おい、大丈夫か?」
子どもの顔は真っ青だった。
子どもは何かを伝えたいのか、わずかに口を開けたがいくら待っても言葉は出てこなかった。
「おい、どうした……?」
恭一郎が手を差し出す。
その瞬間、子どもはギュッと目を閉じて突然立ち上がると、恭一郎を見ることなく走り去っていった。
「何だったんだ……?」
恭一郎は子どもの姿が見えなくなると、路地に目を向ける。
そちらからゆっくりと灰色の煙が漂ってきていた。
(火事か!?)
恭一郎が慌てて路地を進んでいくと、そこにはパチパチと音を立てて燃える長屋があった。
(おいおい、いつから燃えてたんだ……)
燃え始めたばかりのように見えたが、その割には火の勢いは激しすぎる気がした。
(かすかに油の臭いがするな……火付けなのか……。とにかく急いでみんなに知らせて……)
恭一郎が声を上げようとしたとき、長屋のそばで花火のようなものが燃え残っているのが目に入った。
恭一郎は目を見開く。
(あの子……なのか……。いや、でもこの油は……)
恭一郎は頭を横に振った。
(何にしても、まずはみんなの避難が先だ!)
「火事だ! おい! みんな火事だぞ! 今すぐ避難しろ!!」
恭一郎は叫びながら、走り出した。
遠くから一部始終を見ていた男はため息をついた。
「あらあら、これはちょっと想定外だなぁ……」
男は額に手を当てて苦笑する。
「まぁ、いっか。これはこれで面白くできそうだし……」
男は広がっていく炎を見つめて薄く微笑むと、身を翻して細い路地に消えていった。
引手茶屋の座敷で、喜一郎は三味線の音色に合わせて鼻歌交じりに体を揺らしていた。
「何かいいことでもございましたか?」
咲耶は銚子を手に取り、喜一郎に微笑みかけた。
「そりゃあね」
喜一郎は酒杯を手に取ると、咲耶の顔を嬉しそうに見つめる。
「もうすぐ両国の川開きだから!」
咲耶は酒杯に酒を注ぎながら微笑んだ。
「ああ、そうでしたね」
(そういえば、あいつもそんなこと言ってたなぁ……)
咲耶はぼんやりと叡正のことを思い出した。
「今年も喜一郎様の花火は上がるのですか?」
「もちろんだよぉ! 毎年、うちの花火を楽しみにしてくれてる人たちがいるからね!」
喜一郎はそう言うと、酒杯に口をつける。
両国の川開きで上がる花火には、江戸の大商人たちがこぞってお金を出していた。
一瞬で散る花に大金を出せるほどの財力があることを示すと同時に、粋で気風の良いところを見せつけられるとあって、商人たちにとっての一大行事だった。
「今年もうちのが一番大きくて綺麗だから! ……本当は咲耶ちゃんと一緒に観たいけど、今年も来てくれないんだろう?」
喜一郎は少し寂しげな表情で咲耶を見た。
「吉原の外に出るのは、喜一郎様と一緒であってもあまりいい顔はされませんからね……」
咲耶は曖昧に微笑む。
(まぁ、本当は行けないことはないのだろうが……)
咲耶が誰かと花火を観ようものなら、一夜にして噂になるのは目に見えていた。
ほかのお客の気分を害するのは避けたいというのが咲耶の本音であり、咲耶自身花火に興味がないというのが正直なところだった。
「残念だなぁ……」
喜一郎は酒杯を膳に置いた。
「今年はなんかちょっと張り合いもないし……」
「張り合い、ですか?」
咲耶が聞き返す。
「う~ん、毎年うちが一番っていうのは変わらないんだけど、いつもうちに花火の大きさで張り合ってくる大文字屋がなんかいまひとつ……」
「今年はお店の売上があまり良くないのでは? 花火にあまりお金が出せなくなったのかもしれませんよ」
「いやぁ、店は好調のはずなんだけどなぁ。つい三月前に会ったときには、今年は去年よりもっと金を出すから特大の花火を見せてやるとかなんとかいきがってたのに……。最近はやたらと暗いし、花火の話しをするのも嫌そうな感じで……」
喜一郎は顎をさすりながら、何か考えているようだった。
「まぁ、お店の状況はひと月でも変わりますし……。どちらにしろ喜一郎様の花火が今年も一番と決まっていますから」
咲耶は喜一郎の顔をのぞき込むようにして微笑んだ。
「ふふ、嬉しいこと言ってくれるね!」
喜一郎は咲耶の言葉を聞いて満足げに笑った。
「やっぱり咲耶ちゃんと飲む酒は美味いなぁ! よし、今日はパーッといこう!」
少し酔いが回ってきている様子の喜一郎を見て微笑みながら、咲耶は信と叡正のことを考えていた。
(火付けの現場で、何かわかっただろうか……)
咲耶は、恭一郎が火付けするのを見たと証言した男のことが気になっていた。
(なぜ証言を取り消したのか……。それに、釈放させてどうするつもりだったんだ……)
咲耶はそっと胸に手を当てる。
胸騒ぎがした。
咲耶はゆっくりと息を吐く。
(こういった嫌な予感は外れてくれたことがないからな……)
咲耶は良くない考えを頭から消し去るように、そっと静かに目を閉じた。