(熱いな……)
 長屋に飛び込んだ新助は焼けるような熱に顔をしかめた。
 煙が充満していて、揺らめく炎以外はすべてぼんやりとしか見えない。
(視界が悪いな……)
 新助は身を屈めて、なるべく煙を吸い込まないように奥に進む。
(こう視界が悪いと……)

 そのとき、足に何かが当たった。
 しゃがみこんで、目を凝らす。
 それは、人の手だった。
 新助は慌てて倒れている人の手を取った。
「おい、大丈夫か!?」
 煙を吸わないように半纏の袖を口元に当てて、可能な限りの声を出す。
 わずかに手が動いたような気がした。
(よし、まだ意識はある……!)
 新助は腕を取ると、身を屈めてその人を背負った。
 幸いにも入口近くで倒れていたため、外への道は遠くない。
「大丈夫だ……。助かるぞ」

 その瞬間、長屋の一部が音を立てて崩れた。
 目の前を燃える木材が落ちていく。
 吹きつける熱風に新助は慌てて後ろに下がった。
 新助は思わず舌打ちする。
 瓦礫で外への道が塞がり、炎が上がっていた。

(ここで死ぬのか……?)
 新助は一瞬よぎった考えを慌てて振り払う。
(このまま死んだら、あいつに顔向けできねぇよ……)


 そのとき、背負っていた人の腕にほんのわずかに力が入った。
「生きたい」
 そう言われた気がした。


 目頭が熱くなる。
(ああ、源さんはこんな気持ちだったのか……)
 源次郎に助けられた日のことが鮮やかに蘇る。
(助けたいじゃない……助けるんだ)
 頭の芯が熱くなっていく。
(余計なことは考えるな。一直線に全力で走るだけでいい。俺は何を難しく考えてたんだ)
 新助は思わず笑った。

 新助は燃えている瓦礫も構わず、一直線に走り出す。
 炎が足をかすめても不思議と熱くなかった。
 燃え盛る木材も蹴散らしながら、ただひたすら真っすぐ走る。
(あと少し、あと少し……!)
 すると、一気に視界が開けた。

 目の前には、目を見開く恭一郎の姿がある。
 新助は思わず微笑んだ。
「ちゃんと戻ったぞ」
 その瞬間、新助の後ろで長屋が音を立てて崩れた。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


【少し前】
 恭一郎は長屋の入口に放水する指示を出しながら、足元が崩れていくような感覚に襲われていた。
(俺があんなこと言ったせいで、今度は新助が……)
 足元がグラグラと揺れる。
 この長屋はもう崩れる。誰の目にも明らかだった。
(どうしてあのとき腕を離したんだ……!)
 恭一郎は唇を噛みしめた。

 そのとき、長屋の一部が崩れる音が響く。

 恭一郎は、顔から血の気が引いていくのを感じた。
(もう……ダメだ……)
 恭一郎がそう思いうなだれたとき、長屋の中からバキバキと木が割れる音がした。

 恭一郎が音に反応して顔を上げたその瞬間、炎の中から人影が飛び出してきた。
 顔も体も傷だらけで、服の一部は燃えていたが、それは間違いなく新助だった。
 背中には煤だらけの女性を背負った新助は、恭一郎と目が合うとなんでもないように笑った。
「ちゃんと戻ったぞ」

 恭一郎は、一瞬何が起こったのかわからなかった。
(生きてる……)
 ゆっくりとじんわり温かいものが胸に広がっていく。
 それと同時にようやく恭一郎は動けるようになった。
 新助の服の火を消すように指示を出し、背負っていた女性をゆっくりと地面に下ろすと医者を呼んだ。


 女性の処置がひと段落すると、恭一郎は新助のもとに向かった。

 新助は座って火傷を診てもらっていた。
「おお、恭一! 悪かったな、心配かけて……」
 新助はさすがに少し申し訳なさそうな顔をしていた。
 恭一郎は無言で新助に近づくと、しゃがみ込んだ。

「恭一……?」
 新助が恭一郎の顔をのぞき込もうとした瞬間、恭一郎は新助の顔を思い切り殴った。
「……!??」
 新助は痛みで言葉が出なかった。
 ただただ目を丸くして恭一郎を見つめる。

「おまえ……もうガキの頃と違うんだから、本気で殴るなよ……。マジで骨折れるだろ……」
「おまえは……『誰も死なせない』を呪いの言葉にする気か……?」
 恭一郎はうつむいたまま呟く。
「は……?」
 
 恭一郎は新助の胸ぐらを掴む。
「いいか! もう二度とこんなことするな! 二度とだ!!」
 恭一郎の勢いに押されて、新助はただ頷くことしかできなかった。
「ああ、わかった……」

 恭一郎はそれだけ言うと、新助の半纏から手を離し新助の前から去っていった。

「何なんだ……あいつ……」
 新助は不思議そうに頭を掻きながら、恭一郎の背中を見送った。