丑三つ時、寝静まっていた町に半鐘の音が鳴り響いた。
「火事だ! 風向きが悪い! こっちにも燃え広がるぞ!」
長屋の外で誰かが叫んでいる。
続々と長屋の戸が開き、人々は外に出た。
夜だというのに、炎が上がる長屋の周辺は昼間のように明るい。
「またかよ……。ほら、早く荷物まとめて逃げるぞ」
「結構距離があるから、ここは大丈夫なんじゃないの!?」
「風向きが悪いならここも危ない! 火消しはまだなんだろう?」
「待って! まだうちの子が寝てるの! 誰か手を貸して!」
続々と長屋から荷物をまとめた人々が外に出る。
「火消しが来たぞ!!」
人々の歓声が上がる。
「よ! 待ってました!!」
「今回はどこの組だ!?」
組の名が書かれた纏が火元近くの長屋の屋根にあがる。
「……あれって、や組……?」
興奮していた人々の顔が一様に曇った。
「や組って……」
「じゃあ……今回の火事も、や組が……?」
「自分たちで火をつけて、消しに来たってこと……?」
「……なんて奴らだ……」
纏を見上げながら、人々は顔をしかめた。
「馬鹿らしい。さっさと逃げよう」
「ああ」
人々は燃え盛る炎に背を向けると足早に去っていった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「あれ、や組だろう……?」
「今回もあいつらがやったんじゃないのか?」
「よく堂々と出て来られるな……」
荷物を背負って長屋を出てきた人々は、火消したちとのすれ違いざまにヒソヒソと囁きあった。
「チッ、好き勝手言いやがって」
火消しのひとりが舌打ちをした。
「おい、無駄口叩いてねぇで、さっさと行くぞ!」
「そんなこと言ったって、お頭!」
「うるせぇ!! こうしてる間に人が死ぬんだ!」
頭と呼ばれた男は、不満げな顔の男を睨みつけた。
「す、すみません……」
男は目を伏せた。
そこへ周辺を確認していた火消しの男が戻ってきた。
「このへんの長屋にいた人たちはみんな外に出たようです!」
頭の男は、その言葉に頷くと声を張り上げた。
「おまえら、準備はいいか!! いくぞ!!」
「おお!!」
や組の半纏を着た屈強な男たちは続々と声をあげる。
長屋の屋根に纏が上がったのを合図に、刺又と鳶口を持った男が隣の長屋の柱を壊し始める。
「ここで火を止めるぞ!!」
「おお!!」
刺又と鳶口によってメキメキと音を立てて柱が折れる。
「崩れるぞ!! 一旦離れろ!」
「おお!!」
長屋が崩れ、土埃が舞う。
「こっちはこれぐらいでいけるか」
男たちは崩れた長屋を見つめて頷く。
「おい!! 火元の長屋、まだ人がいるらしいぞ!」
火消しのひとりが叫ぶ。
火元の長屋は戸口こそまだ火の手が回っていなかったが、長屋全体が火に包まれいつ崩れてもおかしくない様子だった。
頭の男はしばらく長屋を見つめた後、口を開いた。
「俺が行く」
「お頭! お頭が行ったら誰が指揮するんですか! 今は……恭一郎さんもいないんですよ……」
横にいた男は目を伏せる。
頭の男はわずかに目を見開いた後、悲し気に口を開いた。
「ああ……だが、俺しか……」
「待ってください! 恭一郎さん!!」
叫ぶような声が聞こえ、頭の男はそちらに視線を移した。
その瞬間、人影が一直線に火元の家に飛び込んでいく。
「お頭!! 恭一郎さんが!!」
火消しのひとりが、火元の家を指さし叫んだ。
「あいつ……!」
頭の男は、急いで桶に入った水を頭からかぶると恭一郎の後を追った。
「お頭!!」
頭の男は、火元の長屋に入った。
辺り一面、火の海だった。
熱風で顔が焼けるように熱い。
(こりゃ、やばいな……)
頭の男は、濡れた半纏の袖口で口元を覆った。
(あいつ、どこ行きやがった……)
辺りを見回すが、充満した煙でところどころで上がっている炎以外何も見えなかった。
(くそっ……)
頭の男は足元に気をつけながら、一歩ずつ長屋の奥に足を進める。
「おい……恭一、どこだ……」
煙を吸い込まないように最小限の声で、恭一郎を探す。
しばらく進むと、煙の向こうに人影が見えた。
「おい……」
頭の男が人影に近づこうと足を踏み出したとき、頭上でバキッという大きな音が聞こえた。
(しまった……!)
反射的に目を閉じた瞬間、頭の男は強い力で突き飛ばされた。
男は尻餅をつくと同時に、お腹の上にずっしりとしたものが乗ったのを感じた。
男が目を開くと、目の前には水を含んだ半纏に包まれた小さな子どもがいた。
頭の男は目を見開く。
煙を吸ったためか、意識はないようだった。
「おい、大丈夫か……!?」
「気を失っているだけだ……」
聞きなれた声に、頭の男は弾かれたように顔を上げる。
崩れた瓦礫の向こう側に恭一郎の顔が見えた。
「恭一……、おまえ何やってんだ!!」
声を荒げたときに煙を吸い込み、頭の男は咳き込んだ。
「落ち着け。その子の母親はもうダメだった……。その子を頼む」
恭一郎は穏やかに微笑んだ。
「新助が飛び込んで来てくれて助かったよ……」
「ふざけんな!! おまえも来い!!」
恭一郎はフッと笑う。
「瓦礫でもうそっちには行けない。わかるだろう?」
新助は子どもを抱きかかえると、急いで立ち上がった。
「すぐみんなに知らせる! 助けに来るからそこを動くな!!」
「やめろ」
恭一郎は静かに、だが強い声で言った。
「みんな巻き添えになるぞ。冷静になれ」
恭一郎は新助を真っすぐに見つめた。
新助は言葉を失う。
恭一郎は微笑んだ。
「最期くらい、カッコよく死なせてくれ」
「な!?」
「俺が生きていたら、や組にとってもよくない。わかるだろう?」
新助は歯を食いしばり、絞り出すように言った。
「……約束……しただろう?」
「ああ……」
恭一郎は寂し気に微笑んだ。
「だが、俺はもういろんな意味でダメだ……」
恭一郎はそう言うと新助を見つめて微笑んだ。
「おまえが俺たちの夢を叶えてくれ」
新助は目を見開く。
「……とにかく待ってろ……」
新助はなんとかそれだけ口にした。
「諦めが悪いな……」
恭一郎は苦笑すると、後ろを向いて奥へ進み出した。
半纏を脱いだことで恭一郎の上半身は裸だった。
背中一面に入れた龍と桜の刺青が遠ざかっていく。
「おい……!」
背中の龍には生々しい傷が無数についていた。
「早く行け!!」
背を向けたまま、恭一郎が叫ぶ。
新助は唇を噛みしめると子どもを抱え、戸口に向かって走りだした。
「お頭!!」
外に出ると、火消したちが新助に駆け寄る。
「この子を頼む」
新助は子どもを火消しのひとりに託すと、再び長屋の中に向かおうとした。
「お頭! どこ行くんですか!? もうあそこはダメです! 見たらわかるでしょう!?」
火消しのひとりが新助の腕を掴む。
「離せ!! まだ中に恭一がいるんだ!!」
「恭一郎さんは……自業自得でしょ……。今回の火事だって、あの人が火をつけたかもしれないのに……」
新助は目を見開いた。
「なんだと!? てめぇ、もう一回言ってみろ!!」
新助は火消しの男の胸ぐらを掴んだ。
その背後で音を立てて長屋が崩れる。
先ほどまで新助がいた場所はすべて炎に飲み込まれていた。
「恭一……」
新助は茫然と長屋を見ていた。
丑三つ時に発生した火事は、発見が早かったため火元の長屋以外で大きな被害は出なかった。
焼け跡からは長屋に住んでいた女と、龍の刺青が入った火消しとみられる男の遺体だけが発見された。
長屋の子どもを命がけで救った火消しの死。
その死を悼む者は、町には誰もいなかった。
「火事だ! 風向きが悪い! こっちにも燃え広がるぞ!」
長屋の外で誰かが叫んでいる。
続々と長屋の戸が開き、人々は外に出た。
夜だというのに、炎が上がる長屋の周辺は昼間のように明るい。
「またかよ……。ほら、早く荷物まとめて逃げるぞ」
「結構距離があるから、ここは大丈夫なんじゃないの!?」
「風向きが悪いならここも危ない! 火消しはまだなんだろう?」
「待って! まだうちの子が寝てるの! 誰か手を貸して!」
続々と長屋から荷物をまとめた人々が外に出る。
「火消しが来たぞ!!」
人々の歓声が上がる。
「よ! 待ってました!!」
「今回はどこの組だ!?」
組の名が書かれた纏が火元近くの長屋の屋根にあがる。
「……あれって、や組……?」
興奮していた人々の顔が一様に曇った。
「や組って……」
「じゃあ……今回の火事も、や組が……?」
「自分たちで火をつけて、消しに来たってこと……?」
「……なんて奴らだ……」
纏を見上げながら、人々は顔をしかめた。
「馬鹿らしい。さっさと逃げよう」
「ああ」
人々は燃え盛る炎に背を向けると足早に去っていった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「あれ、や組だろう……?」
「今回もあいつらがやったんじゃないのか?」
「よく堂々と出て来られるな……」
荷物を背負って長屋を出てきた人々は、火消したちとのすれ違いざまにヒソヒソと囁きあった。
「チッ、好き勝手言いやがって」
火消しのひとりが舌打ちをした。
「おい、無駄口叩いてねぇで、さっさと行くぞ!」
「そんなこと言ったって、お頭!」
「うるせぇ!! こうしてる間に人が死ぬんだ!」
頭と呼ばれた男は、不満げな顔の男を睨みつけた。
「す、すみません……」
男は目を伏せた。
そこへ周辺を確認していた火消しの男が戻ってきた。
「このへんの長屋にいた人たちはみんな外に出たようです!」
頭の男は、その言葉に頷くと声を張り上げた。
「おまえら、準備はいいか!! いくぞ!!」
「おお!!」
や組の半纏を着た屈強な男たちは続々と声をあげる。
長屋の屋根に纏が上がったのを合図に、刺又と鳶口を持った男が隣の長屋の柱を壊し始める。
「ここで火を止めるぞ!!」
「おお!!」
刺又と鳶口によってメキメキと音を立てて柱が折れる。
「崩れるぞ!! 一旦離れろ!」
「おお!!」
長屋が崩れ、土埃が舞う。
「こっちはこれぐらいでいけるか」
男たちは崩れた長屋を見つめて頷く。
「おい!! 火元の長屋、まだ人がいるらしいぞ!」
火消しのひとりが叫ぶ。
火元の長屋は戸口こそまだ火の手が回っていなかったが、長屋全体が火に包まれいつ崩れてもおかしくない様子だった。
頭の男はしばらく長屋を見つめた後、口を開いた。
「俺が行く」
「お頭! お頭が行ったら誰が指揮するんですか! 今は……恭一郎さんもいないんですよ……」
横にいた男は目を伏せる。
頭の男はわずかに目を見開いた後、悲し気に口を開いた。
「ああ……だが、俺しか……」
「待ってください! 恭一郎さん!!」
叫ぶような声が聞こえ、頭の男はそちらに視線を移した。
その瞬間、人影が一直線に火元の家に飛び込んでいく。
「お頭!! 恭一郎さんが!!」
火消しのひとりが、火元の家を指さし叫んだ。
「あいつ……!」
頭の男は、急いで桶に入った水を頭からかぶると恭一郎の後を追った。
「お頭!!」
頭の男は、火元の長屋に入った。
辺り一面、火の海だった。
熱風で顔が焼けるように熱い。
(こりゃ、やばいな……)
頭の男は、濡れた半纏の袖口で口元を覆った。
(あいつ、どこ行きやがった……)
辺りを見回すが、充満した煙でところどころで上がっている炎以外何も見えなかった。
(くそっ……)
頭の男は足元に気をつけながら、一歩ずつ長屋の奥に足を進める。
「おい……恭一、どこだ……」
煙を吸い込まないように最小限の声で、恭一郎を探す。
しばらく進むと、煙の向こうに人影が見えた。
「おい……」
頭の男が人影に近づこうと足を踏み出したとき、頭上でバキッという大きな音が聞こえた。
(しまった……!)
反射的に目を閉じた瞬間、頭の男は強い力で突き飛ばされた。
男は尻餅をつくと同時に、お腹の上にずっしりとしたものが乗ったのを感じた。
男が目を開くと、目の前には水を含んだ半纏に包まれた小さな子どもがいた。
頭の男は目を見開く。
煙を吸ったためか、意識はないようだった。
「おい、大丈夫か……!?」
「気を失っているだけだ……」
聞きなれた声に、頭の男は弾かれたように顔を上げる。
崩れた瓦礫の向こう側に恭一郎の顔が見えた。
「恭一……、おまえ何やってんだ!!」
声を荒げたときに煙を吸い込み、頭の男は咳き込んだ。
「落ち着け。その子の母親はもうダメだった……。その子を頼む」
恭一郎は穏やかに微笑んだ。
「新助が飛び込んで来てくれて助かったよ……」
「ふざけんな!! おまえも来い!!」
恭一郎はフッと笑う。
「瓦礫でもうそっちには行けない。わかるだろう?」
新助は子どもを抱きかかえると、急いで立ち上がった。
「すぐみんなに知らせる! 助けに来るからそこを動くな!!」
「やめろ」
恭一郎は静かに、だが強い声で言った。
「みんな巻き添えになるぞ。冷静になれ」
恭一郎は新助を真っすぐに見つめた。
新助は言葉を失う。
恭一郎は微笑んだ。
「最期くらい、カッコよく死なせてくれ」
「な!?」
「俺が生きていたら、や組にとってもよくない。わかるだろう?」
新助は歯を食いしばり、絞り出すように言った。
「……約束……しただろう?」
「ああ……」
恭一郎は寂し気に微笑んだ。
「だが、俺はもういろんな意味でダメだ……」
恭一郎はそう言うと新助を見つめて微笑んだ。
「おまえが俺たちの夢を叶えてくれ」
新助は目を見開く。
「……とにかく待ってろ……」
新助はなんとかそれだけ口にした。
「諦めが悪いな……」
恭一郎は苦笑すると、後ろを向いて奥へ進み出した。
半纏を脱いだことで恭一郎の上半身は裸だった。
背中一面に入れた龍と桜の刺青が遠ざかっていく。
「おい……!」
背中の龍には生々しい傷が無数についていた。
「早く行け!!」
背を向けたまま、恭一郎が叫ぶ。
新助は唇を噛みしめると子どもを抱え、戸口に向かって走りだした。
「お頭!!」
外に出ると、火消したちが新助に駆け寄る。
「この子を頼む」
新助は子どもを火消しのひとりに託すと、再び長屋の中に向かおうとした。
「お頭! どこ行くんですか!? もうあそこはダメです! 見たらわかるでしょう!?」
火消しのひとりが新助の腕を掴む。
「離せ!! まだ中に恭一がいるんだ!!」
「恭一郎さんは……自業自得でしょ……。今回の火事だって、あの人が火をつけたかもしれないのに……」
新助は目を見開いた。
「なんだと!? てめぇ、もう一回言ってみろ!!」
新助は火消しの男の胸ぐらを掴んだ。
その背後で音を立てて長屋が崩れる。
先ほどまで新助がいた場所はすべて炎に飲み込まれていた。
「恭一……」
新助は茫然と長屋を見ていた。
丑三つ時に発生した火事は、発見が早かったため火元の長屋以外で大きな被害は出なかった。
焼け跡からは長屋に住んでいた女と、龍の刺青が入った火消しとみられる男の遺体だけが発見された。
長屋の子どもを命がけで救った火消しの死。
その死を悼む者は、町には誰もいなかった。