「姐さん、その花は?」
 夕里の部屋に入ってきた野風は、鏡台の上にある一輪の花を見て言った。
「ああ、これ?」
 鏡台に向かって化粧をしていた夕里は、鏡越しに野風を見る。
「桜草よ」
「姐さんが摘んできたの?」
「まぁ、そんなところね」
「姐さん、こういう花が好きなの?」
「素朴で可愛いじゃない? ……どうしたの? 花に興味持つなんて」
 夕里は手を止めて野風を振り返った。
「いや、俺が前に住んでたところにたくさん生えてた花だから……」
 夕里は微笑んだ。
「そうなの……。ところで俺って何なの? もう客もついてるんだから、言葉遣い気をつけなさい」
「なんだよ……。姐さんの前くらいいいだろう?」
「ダメよ! 野風はすぐ油断するから。普段の話し方から直しておかないと」
「は~い……」
 野風は拗ねたような顔でうつむいた。
 夕里は野風の様子に微笑む。
(まだまだ子どもね)
「ところで、何か用があって部屋に来たんじゃないの?」
「あ、そうだ! 忘れるところだった! 呉服屋が来たよ。姐さんが頼んでた着物を持ってきたって」
「あら、もうできたの? 仕事が早いのね。すぐ行くわ」
 夕里は急いで残りの化粧を終えると、野風とともに部屋を出た。

 二人が一階に着くと、呉服屋と話す露草の姿があった。
「露草太夫も着物を新調されたんですか?」
 夕里の言葉に露草が振り返る。
「あら、夕里も? そろそろ夏だから。夏らしい柄に変えようと思って」
 露草は微笑んで、呉服屋から受け取った着物を見せた。
 そこには真っ青な空を飛ぶ鷹の絵が描かれていた。
「な、夏らしくていいですね」
「え、これ夏らしいの?」
 不思議そうに呟く野風の脇腹を夕里が軽くつねる。
「痛っ。なんで……」
「いいのよ、露草太夫はこういうのが似合うんだから」
 夕里は声をひそめて野風に言った。
 野風は涙目で夕里を見る。
「夕里はどんな着物にしたの?」
 露草がのんびりとした口調で聞いた。
 呉服屋が慌てて夕里の着物を風呂敷から出して、畳紙(たとうがみ)を開いて着物を取り出す。
 鮮やかな緑に染められた着物には無数の桃色の花が描かれていた。
「桜? ちょっと時期外れなんじゃ……」
 野風が着物を手に取りながら呟く。
「いいのよ」
 夕里は野風から着物を受け取ると、すばやく着物を羽織った。
「うん、ちょうど良さそうね……。呉服屋さん、ありがとう」
 夕里の言葉に呉服屋はホッとしたように微笑んだ。
 露草はじっと夕里の着物を見つめていたが、しばらくするとそっと目を閉じて微笑んだ。
「ふふふ、可愛いわね……」
 露草はそう言うと自分の着物を持って、二人に背を向ける。
「大事にしなさいね」
 露草はそれだけ言って二階の部屋へと戻っていった。
「はい……」
 夕里は野風にも聞こえないほど小さな声でそっと呟いた。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



「玉屋の太夫が身請けされるって!」
 翌朝、遅めの朝食をとりながら、遊女のひとりが口を開いた。
「え!? 本当に!? ついにかぁ。まぁ、玉屋は咲耶って子がすごい勢いだからね。太夫の後を継げる子もいるし、楼主が年も考えて許したんじゃない?」
「身請けかぁ。ちょっと夢があるわよねぇ」
「あんたじゃ無理でしょ?」
 遊女たちが笑う。
「うるさい! 夢くらい見たっていいでしょ?」
 遊女が頬を膨らませた。
「現実的なのは夕里くらいじゃない? あんたこのあいだ、身請けしたいって言われてたでしょ? 私、見てたんだから」
「え!? 本当なの!? 羨ましい……」
 遊女たちからの視線を受けて、夕里がたじろぐ。
「え、ああ……うん……」
「いいなぁ、私も言われてみたい!」
「でも、言ってるだけだから」
 夕里は苦笑する。
「え~、誰なの? 言ってたのは!」
「あれよ、あれ、直次様だっけ」
「ああ、お武家様の?」
「いいじゃない!」
 夕里は遊女たちの言葉を聞きながら、ただ苦笑していた。
「私は身請けじゃなくていいのよ」
 遊女たちの言葉をひと通り聞き終えた夕里が言った。
「どういうこと?」
「私は年季明けに商売がしたいの。今は武家より商家の時代よ! 商売がうまくいったらお婿さんをもらうの!」
 夕里はそう口にすると、身請け話から浮かない顔をしていた野風に向かって微笑んだ。
「あんたも年季が明けたら、私のところに来ればいいのよ」
「え?」
 野風は目を丸くする。
「あんたはこのままだと身請けなんて無理だからね! 私が面倒見てあげる」
 夕里は意地悪く微笑んだ。
「な!? だ、誰が行くか!」
 野風は怒りながらも、どこかホッとした表情を浮かべていた。
 野風の様子を見て、夕里は微笑む。
「本当にまだまだ子どもなんだから」
 夕里はそう小さく呟くと、嬉しそうに野風の頭をなでた。