「すみません、清さんを見ませんでしたか?」
隆宗は、廊下を歩いてきた奉公人の男を呼び止めた。
「私は朝見かけて以降、見ていませんね……。もう夜ですし、この時間でしたら部屋で休んでいるかと思いますが……いなかったのですか? お急ぎでしたら、私も一緒に探しましょうか?」
「あ、いえ……。急ぎのようではないので……。ありがとうございます」
隆宗は少しだけ目を伏せた後、視線を上げると笑顔で礼を言った。
「そうですか。もし見つからないようでしたら、またいつでも声を掛けてください」
男は笑顔でそう言うと、一礼して廊下を歩いていった。
隆宗は小さく息を吐く。
乳母の部屋には先ほど行ったが、乳母の姿はどこにもなかった。
(どうしてだろう……。胸騒ぎがする……)
隆宗は再び目を伏せる。
乳母が夜更けに部屋を空けてどこかに行くことは、今までに一度もなかった。
(何かあったのかもしれない……)
隆宗は拳を握りしめた。
(とにかく清さんを探そう……! 清さんが行くとしたら……)
隆宗は視線を上げると、廊下を歩く足を速めた。
隆宗は、今は物置になっている小屋に向かっていた。
以前そこであったことを考えれば、乳母が再び小屋に行くことは考えづらかったが、心当たりはもうそこしかなかった。
屋敷の外は薄暗かったが、月明りがあったため歩けないほどではなかった。
小屋が見えてきたところで、隆宗は誰かが小屋の戸から出てきたことに気づいた。
(清さん……? じゃないよな……)
隆宗は足を速めると、目を凝らした。
その瞬間、何かが月明りに反射して光った。
「……!?」
隆宗は息を飲む。
小屋の戸から出てきた男は刀を持っていた。
男は辺りを見回すと静かに刀を鞘に収めた。
(あれは……誰だ……? 誰かがこの屋敷に……)
隆宗は咄嗟に身を隠そうと考えたが、隠れられる場所はそこにはなかった。
「誰だ!」
気配に気づいたのか、男が声を上げた。
隆宗の体がビクリと震える。
その声には聞き覚えがあった。
「ち……父上……?」
隆宗は思わず呟いていた。
「……なんだ隆宗か……」
父親はホッとしたような声で言うと、ゆっくりと隆宗に近づいてきた。
月明りに照らされ、しだいに父親の姿がはっきりと見えてくる。
隆宗は目を見開き、息を飲んだ。
笑う父親の頬には、赤い血飛沫のようなものがついていた。
暗い色の着物もよく見れば赤く染まり、じっとりと濡れているようだった。
隆宗の顔が恐怖で歪む。
隆宗は思わず後ずさった。
「ああ、これか?」
父親は隆宗の反応を見て、自分の頬に手を当て汚れを拭った。
しかし、父親の手は真っ赤に染まっており、頬の汚れはますます広がっただけだった。
「隆宗、喜べ。伊予を殺したやつが見つかったんだ」
父親が妖しげに笑った。
隆宗は言葉を失う。
(伊予さんを……を殺した者……)
隆宗の顔から血の気が引いていく。
「安心しろ。そいつは今、私が殺したから」
父親の言葉に、隆宗は弾かれたように顔を上げた。
「殺し……た……?」
震える唇は、麻痺したようにうまく言葉を発することができなかった。
気がつくと、隆宗は小屋に向かって走り出していた。
勢いよく小屋の戸を開けると、むせ返るような血の臭いがした。
隆宗は思わず顔をしかめる。
小窓からかすかに差し込む月明りで、誰かが倒れているのがわかった。
隆宗は震える足で、一歩ずつ倒れている人影に近づいていく。
赤く染まった着物が見える。
その着物は、朝会ったとき乳母が来ていたものと同じだった。
駆け寄ろうとして足がもつれ、隆宗は人影の上に倒れ込んだ。
隆宗の目の前に、まるで眠っているような乳母の顔があった。
その表情は穏やかだったが、触れた乳母の体はひどく冷たかった。
「あ……ああ……」
隆宗はうまく息ができなかった。
言葉の変わりに、目から溢れるものがこぼれて乳母の頬を濡らしていく。
(どうして……どうして……こんなことに……)
隆宗は、乳母の顔に落ちた雫を拭おうと手を伸ばし、触れる直前で動きを止めた。
隆宗はゆっくりと自分の手のひらを見る。
隆宗の両手は真っ赤に染まっていた。
両手だけでなく、隆宗の着物もすべてが赤く染まっていた。
(俺のせいだ……俺が……)
「そいつが伊予を殺してたんだ」
隆宗の背後で、呆れたような父親の声が響く。
「まったく……とんでもないことをしてくれたものだ……」
父親は大きなため息をついた。
隆宗は視界が霞む中、ゆっくりと父親を振り返った。
「計画も遅れてしまったが……。まぁ、仕方ない……。そろそろ動けるだろう」
「……え?」
隆宗の顔が歪む。
「前におまえにも話しただろう? 私は世の中を作り変えるつもりだと。そのときが来たんだ」
父親はどこか興奮したような声だった。
「ま、待ってください……父上……。今回のことで、この屋敷は注目を集めています……! そのようなことは……」
「安心しろ。手は打ってある」
父親は隆宗の言葉を遮るように言った。
「しかし、失敗すれば屋敷の奉公人たちも皆……」
「成功させればいいんだ。いいか、隆宗。正義とは常に勝者のものだ。謀反も成功すれば、それが正義の行いとなる」
隆宗は言葉を失った。
「さぁ、その死体はこちらで処理するから、おまえはもう部屋に戻るといい。そんな死体に触れて気持ち悪いだろう?」
(気持ち……悪い……?)
隆宗は唇を噛んだ。
いつの間には、父親の背後には二つの影があった。
二人の男がゆっくりと隆宗に近づいてくる。
「私たちが死体の処理をしておきます」
不気味な笑顔を浮かべながら、男たちが乳母の体に触れる。
隆宗は込み上げる怒りをなんとか抑えた。
「さぁ、坊ちゃんは部屋にお戻りください」
もうひとりの男もニヤニヤしながら、隆宗に言った。
「ほら、早く部屋に戻るんだ」
父親の言葉に、隆宗はよろめきながら立ち上がった。
その後、隆宗はどのように部屋に戻ったのか記憶がなかった。
気がつくと、隆宗は自分の部屋に座り込んでいた。
暗い部屋の中で、行灯のかすかな光が揺らめいている。
隆宗は視線を落とし、自分の姿を見た。
薄暗い中でも、全身血にまみれていることがわかる。
「清さん……」
隆宗は頭を抱えてうずくまった。
隆宗の脳裏に乳母の顔が浮かぶ。
『隆宗様……。実は私、子育ての経験がないんです。本来経験がないと、乳母にはなれないものなんですよ。でも、奥様が……死産した私に言ってくださったんです。乳母はあなたがいい、と。育てられなかった自分の子を想うように、この子を育ててほしいと……。ですから私にとって、隆宗様も弥吉も、我が子のように愛おしい存在なんですよ』
笑う乳母の姿が、鮮やかによみがえる。
「清さん……、俺のせいで……! 本当に……ごめんなさい……本当に……!」
隆宗は喉を押さえ、声を殺して泣いた。
「どうして……こんなことに……!」
そう口にした瞬間、隆宗の脳裏に父親の歪んだ顔が浮かんだ。
隆宗はゆっくりと顔を上げる。
「そうか……。止めようとしたのが間違いだったんだ……」
隆宗の顔には、もはやなんの感情も浮かんではいなかった。
隆宗は血まみれの着物を脱ぐと、部屋の隅に投げ捨てた。
体についた血を布で拭い、新しい着物に袖を通すと、隆宗は少しだけ落ち着きを取り戻した。
「すべての原因の……元を絶つべきだった……」
隆宗は頬を伝う涙を拭った。
隆宗は真っすぐに前を見据える。
「すべて……終わりにしましょう、父上……」
隆宗の仄暗い瞳から一筋の涙がこぼれ、弾けるように畳に落ちた。
信と弥吉、弥一が屋敷に着いたときには、すでに日が暮れ始めていた。
屋敷の門を開けた奉公人の男は、信に背負われた弥一の姿を見て、目を丸くした。
「や、弥一さん!?」
男は弥一と弥吉を交互に見る。
慌てて弥吉が事情を説明すると、男は驚きつつも三人を屋敷の中に通した。
「いやぁ、驚きました……。しかし、弥一さんがお元気そうで本当によかったです」
男は、三人を屋敷の部屋に案内しながら嬉しそうに弥一を振り返る。
信に背負われたままの弥一は、小さく苦笑した。
「まぁ、この通り……元気というわけではありませんが……。なんとかやっております」
「それでも、また顔が見られて嬉しいです。清さんも心配していましたよ」
男の言葉に、弥吉が何か思い出したように顔を上げた。
「そういえば、俺が屋敷を出るとき、清さんにひと声掛けようと思って探したんですが、見つからなくて……。今、清さんがどこにいるかわかりますか? 挨拶したくて」
弥吉がそう言うと、男は弥吉を見て少し困ったような顔をした。
「それが……俺も三日くらい前から見ていないんだ……。三日前に隆宗様にもどこにいるか聞かれたんだけど……。俺もそれから会えてないんだよ……」
「三日も?」
弥吉は目を丸くする。
乳母が三日も屋敷を空けたことなど、今まで一度もなかった。
「ああ……。それに隆宗様も……」
男はどこか暗い表情で目を伏せた。
「隆宗が……どうかしたんですか……?」
「あ、いや……。大したことじゃないんだけど、おまえが屋敷を出た後すぐに隆宗様も出かけて……それからずっと戻られていないんだ……。まぁ、隆宗様の場合、屋敷を出ることは珍しくないけど、誰にも行き先を伝えていないみたいで……。少し心配でな……」
「そう……なんですね……」
弥吉は静かに目を伏せた。
男は、信たちを部屋に通すと、弥吉を見た。
「弥吉も今日はこの部屋で休むといい。弥一さんと一緒がいいだろ? おまえの部屋だと少しと狭いと思うから」
「はい、ありがとうございます」
弥吉は深々と頭を下げた。
男は優しく微笑むと、弥一に視線を移した。
部屋の畳に腰を下ろした弥一は、男を見上げる。
「まもなく日が沈みますから、今日はもうこちらでお休みください。皿を作り直すにしても明るくなってからの方がいいでしょうから」
男の言葉に、弥一は微笑んだ。
「そうですね。お気遣いいただき、ありがとうございます」
男は嬉しそうに微笑むと、一礼して部屋から出ていった。
男を見送ると、信はすぐに動き出した。
「信さん、どこに行くの?」
襖を開けて出ていこうとする信を、弥吉が慌てて呼び止める。
「皿を作る小屋を見てくる」
信は少しだけ振り返ると、それだけ口にした。
「あ、それなら俺も……」
弥一が立ち上がろうとしたため、弥吉が慌てて弥一に駆け寄り肩を支える。
「いや、いい。少し見ておきたいだけだ。すぐ戻る」
信はそれだけ言うと、外に出てゆっくりと襖を閉めた。
「小屋の場所はわかるんだろうか……」
襖を見ながら、弥一が小さく呟いた。
「まぁ、信さんなら……大丈夫……かな」
弥吉は苦笑しながら、そう答えた。
部屋に残された二人は、顔を見合わせて小さく笑った。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
信は屋敷の外に出ると、すぐに小屋にたどり着いた。
日は暮れ始めていたが、それでもまだ辺りは十分に明るかった。
信は小屋の戸に手を掛ける。
戸が開くと、生温かい空気とともに独特のかび臭さが広がった。
信はゆっくりと小屋の奥へと進んでいく。
小屋の片隅に、器を作るための道具がまとめて置いてあるのがわかった。
信はしゃがみ込むと、絵付けに使う筆の束を手に取った。
信は筆を見つめる。
長い間放置されていたはずなのに、筆にはホコリひとつついていなかった。
信はかすかに眉をひそめると、辺りを見回す。
器を作る道具が置かれている周辺以外は、ところどころホコリが積もっていた。
信がホコリのない場所を見ていると、棚で隠されている壁がほかよりも黒ずんでいるのに気づいた。
信は棚を少しずらし、黒ずんだ壁に顔を近づける。
かすかに血の臭いがした。
信は目を閉じ、ゆっくりと息を吐くと筆の束をもとに戻した。
目を開けた信は、静かに小屋の中を見て回った後、小屋の外に出た。
中の空気が淀んでいたため、外の空気が信には心地良く感じられた。
信は大きく息を吸い込み、静かに吐き出した。
そのとき、夕日に照らされて一瞬だけ何かが光った。
草に隠れていてわかりにくかったが、小屋の影に何かが落ちているようだった。
信はしゃがみ込むと、光ったものを手に取る。
それは南天の皿の欠片だった。
三つほどの欠片は、赤黒い血のようなものが点々とついていた。
信は三つの欠片を拾うと、ゆっくりと立ち上がる。
信は目を閉じ、もう一度息を吐くと二人が待つ部屋に戻っていった。
翌朝、信は小屋の近くで拾った皿の欠片を弥一に渡した。
隆宗から受け取った皿の欠片と合わせて並べると、皿は綺麗な円い形になった。
「欠片が揃ったな……。これなら、新しく皿を作らなくても焼き継ぎでなんとかなりそうだ」
弥一は嬉しそうに笑った。
「新しく作る必要はないのか?」
信は皿を見つめながら聞いた。
「ああ。直せるなら、むやみに新しいものを作るより直した方がいい。この皿自体に詰まった思い出があるからね……」
弥一はそれだけ言うと、申し訳なさそうに信を見た。
「すまない……。あんなにたくさん南天の絵を描いてくれたのに……」
信は少しだけ弥一を見ると、また皿に視線を戻した。
「それは別にいい」
信は淡々と言った後、弥吉に目を向ける。
弥吉は青ざめた顔で、皿を見ていた。
「弥吉、どうかしたのか?」
弥吉の顔色の悪さに気づいた弥一が慌てて聞いた。
「なんでもないよ……。欠片が見つかってよかったね……」
弥吉はぎこちなく微笑んだ。
「あ、そうだ……。この皿の汚れ……先に落とした方がいいだろ……? 俺、屋敷の人にお湯をもらってくるよ。皿……綺麗にしないと……」
弥吉はそう言うと立ち上がった。
「俺も行く」
信はそれだけ言うと立ち上がり、弥吉より先に襖に向かって歩き出した。
「え、信さんも? ちょ、ちょっと待ってよ……」
弥吉は慌てて信の後を追って部屋を出た。
信はすでに廊下の先の方を歩いていた。
「ちょっと、信さん!」
弥吉は信に駆け寄ると、着物の袖を掴んで信を引き留めた。
「そっちじゃないよ! 台所の場所も知らないんだから、ひとりで行かないでよ……」
弥吉は呆れたように言った。
信は弥吉に促され、二人は並んで歩き始めた。
信は歩きながら、弥吉を見つめる。
「何か気になることがあるのか?」
弥吉は弾かれたように顔を上げた。
「それは……」
弥吉は目を泳がせた後、そっと目を伏せた。
「言いたくなければ別にいい」
信は淡々と言った。
「そ、そんなことは……!」
弥吉は再び信を見ると、躊躇いながら口を開いた。
「俺……見たんだ……。信さんと叡正様がこの屋敷に来た日の翌朝……隆宗の部屋で……血まみれの着物を……。ちょっとした怪我でつくような血の量じゃなかった……。それに、血のついたあの皿も……。直してほしいっていうのは嘘で……本当は屋敷の外に出して隠したかったんじゃないかって思って……」
弥吉は苦しげな顔で信を見つめる。
「なぁ、信さんはどう思う……? あいつ……一体何したんだろう……」
信は静かに目を伏せた。
「……わからない」
弥吉は苦笑する。
「そりゃあ、そうだよな……。ごめん、信さん……」
それから二人は、言葉を交わすことなく、奉公人からお湯を受け取ると部屋に戻っていった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「じゃあ、信さんは門のそばで叡正様を待つってことでいい?」
弥吉は信を見て、そう言うと弥一を支えながら立ち上がった。
「ああ」
信は短く答えると立ち上がる。
結局、焼き継ぎだけなら弥吉でもできるということがわかり、小屋には弥吉と弥一で向かうことになった。
そろそろ叡正も屋敷に着く頃だということもあり、信は門のそばで叡正を待つことにした。
二人と分かれた信が門の外で待っていると、すぐに叡正が姿を現した。
「あれ、わざわざ外で待っててくれたのか?」
叡正は目を丸くした後、申し訳なさそうに頭を掻いた。
「悪かったな……。良庵先生のところに寄って事情を説明してから来たから遅くなった」
「いや、それほど待ってない」
信はそれだけ言うと、門を開けて中に入った。
「そうか、それならいいんだが……。これから、おまえが皿を作るのか?」
叡正は信の後に続いて中に入る。
「いや、状況が変わった。皿の欠片が揃ったから焼き継ぎで直すそうだ。今、弥吉が手伝ってる」
「え!? そうなのか……。じゃあ、俺たちは必要なかったな……。まぁ、俺は最初から必要ないと思うが……」
叡正は最後呟くように付け加えた。
「いや、調べることがある」
信は前を向いたまま、淡々と言った。
「調べること……?」
叡正は首を傾げる。
そのとき、屋敷に入ろうとした二人と入れ違いで、奉公人の男が屋敷から出てきた。
「悪い」
信が唐突に男に声を掛ける。
「この家の乳母の部屋はどこだ?」
「……え?」
奉公人の男は、見知らぬ男からの突然の問いかけに目を丸くした。
叡正も信の後ろでただ目を丸くしていた。
「乳母だという女に部屋にあるものを取ってきてほしいと頼まれたが部屋がわからない。乳母の部屋はどこだ?」
信は淡々と嘘をついた。
「あ、ああ……、そういうことでしたか」
男はホッとしたような顔で言った。
「では、清さんは屋敷に帰ってきたのですね。心配していたので、よかったです。あ、清さんの部屋でしたね。この廊下を真っすぐ進んで突き当りを右に曲がってください。その先にある一番奥の部屋です」
「すまない。ありがとう」
信は軽く頭を下げ、言われた通り廊下を進み始めた。
信の後をついていく叡正は、不安げな顔で信を見る。
「なぁ、さっきの話し……ホントか?」
「いや、嘘だ」
信は前を向いたまま言った。
「……だと思ったよ……」
叡正は片手で顔を覆った。
「乳母の部屋なんて聞いてどうする気だよ……」
「調べる」
信は短く答える。
「調べるって……何を……? それにバレたらどうする気なんだよ。そもそもどうして乳母の部屋を……」
「三、四日前から乳母の行方がわからないそうだ」
「……え? じゃあ、井戸で見つかった死体は……ってそんなわけないか……。死体が見つかったのはもっと前だな……。死体の女って可能性はないし、ただ出かけてるだけじゃないのか?」
信は目を伏せた。
「……そうだな」
信がそう言うのとほぼ同時に、二人は一番奥の部屋の前に着いた。
信は躊躇うことなく、部屋の襖を開けて中に入る。
「お、おい……」
叡正は躊躇いがちに部屋に入った。
部屋は綺麗に片付いていた。
それ以前に乳母の部屋には、物自体があまりなかった。
着物が入っているであろう箪笥に、小さな棚と机があるだけだった。
信は真っすぐに棚に向かって歩いていくと、引き出しを開けて中のものを一つひとつ確認していく。
「おい! 待て待て!」
叡正が慌てて、信の肩を掴んだ。
信は叡正に構わず、ひとつずつ引き出しを調べていく。
「いくらなんでもダメだろ……! 盗みに入ったと思われるぞ!」
叡正は慌てて振り返り、廊下に誰もいないことを確認した。
「盗むつもりはないから大丈夫だ」
信は引き出しの中身を確認しながら言った。
「いやいや、大丈夫じゃない! 絶対大丈夫じゃないから!」
叡正の言葉を無視して、棚を調べ終えた信は机に向かった。
机の前にしゃがみ込み、机の引き出しを開ける。
「頼む……もうやめてくれ……」
叡正が頭を抱えたところで、信はふいに動きを止めた。
信は引き出しの奥から折りたたまれた紙を取り出した。
「なんだ? 手紙か?」
信が手を止めたのを見て、叡正が後ろから信の手元を覗き込んだ。
信はゆっくりと手紙を広げる。
「お、おい……勝手に読むのは……」
叡正は信を止めようとしたが、手紙の文面が目に入り、その先の言葉を続けることができなくなった。
叡正は目を見開く。
「おい……これって……」
叡正は思わず口元を手で押さえた。
「この家の側室が……弥吉を殺そうとしてた……? それで乳母が……。それに、この怪談騒動……隆宗様が謀反を止めるために……?」
信は無表情のまま手紙を見つめていた。
「でも、おかしいな……」
叡正は手紙を見つめながら眉をひそめた。
「三、四日前に町奉行所に行ったなら、さすがにもうこの屋敷に知らせが来ているはずだ……。でも、そんな様子はないし……。一体どういうことなんだ……?」
信は何も答えず、ただ手紙を見つめていた。
『隆宗様のことを、どうかどうかお守りください』
手紙に残された言葉を見つめ、信は静かに目を閉じた。
「隆宗様!」
門を開けて屋敷に入ってきた隆宗の姿を見て、奉公人の男は慌てて隆宗に駆け寄った。
「おかえりなさいませ、隆宗様! お帰り早々に申し訳ないのですが、ご報告が……! 一昨日からこの屋敷に……」
「すみません」
隆宗は男をチラリと見ると、言葉を遮るように言った。
「今は疲れているので、報告は後日伺います。それから……父上に大切な話があるのですが、父上は屋敷にいますか?」
「え、あ……はい。お部屋にいらっしゃいます」
男は戸惑いながら頷いた。
「そうですか……」
隆宗は目を伏せる。
「では、父上と内密に話すことがありますので、今日は誰も私と父上の部屋に近づかないようにしていただけますか?」
隆宗の言葉に、男は目を丸くする。
隆宗がそんなことを口にしたのは初めてだった。
「あ……はい。承知しました」
隆宗はそれだけ言うと、そのままひとりで屋敷の中に入っていった。
隆宗は自分の部屋に戻ると、早くなる鼓動を落ち着かせようと大きく息を吐いた。
(奉公人の受け入れ先はこれで問題ない……)
隆宗は目を閉じて、ゆっくりと息を吸う。
まだ鼓動はうるさいほど耳に響いていたが、手の震えは少しだけ治まったように感じられた。
隆宗は数日かけて江戸にある親戚の屋敷を回り、奉公人の受け入れ先を決めてきていた。
奉公人を受け入れてほしいと伝えると、初めは皆困惑していたが、怪談騒動で奉公人が怖がっていると説明すると納得した様子を見せた。
すでに屋敷に残っている奉公人の数は少なくなっていたため、いくつかの親戚の元を訪ねるだけですべての奉公人の受け入れ先を手配することができた。
(あとは……)
隆宗は懐から植物の根のようなものを取り出した。
(この手で終わらせるだけだ……)
隆宗は手の震えを止めるように強く瞼を閉じ、植物を握る手に力を込めた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
日が落ち、辺りは闇に包まれていた。
奉公人に、部屋に近づかないよう言っておいたため、父親の部屋へと通じる廊下はひっそりと静まり返っている。
(静かだな……)
隆宗の体はもう震えてはいなかった。
怒りも悲しみもなく、ただ成すべきことを成すという想いだけが、隆宗の足を前に動かしていた。
(これで終われる……)
隆宗は部屋の前に着くと、ゆっくりと襖を開ける。
部屋の中は暗かったが、暗闇の中で蠢く影があるのがわかった。
かすかなうめき声が部屋に響いている。
「ああ、やはり……。あれだけでは死ねなかったのですね……」
隆宗は小さく息を吐くと、ゆっくりと影に向かって近づいた。
影のそばにはひっくり返った食事の膳があった。
器は散らばって落ちていたが、畳は汚れていなかった。
(全部食べたのか……)
隆宗は、仰向けで苦しそうに悶えている父親の元に近づいた。
父親の見開かれた目に、隆宗の姿が映る。
「あ……あぅ……あ……」
父親が何か訴えかけるように口を開いたが、口からは苦しそうなうめき声が漏れるだけだった。
「いろいろ……聞きたいことがありそうですね」
父親を見下ろしながら、隆宗は淡々とした声で言った。
「これが最後でしょうから、お答えします」
隆宗の言葉に、父親の目が一層見開かれる。
「食事の中に毒性のある植物の根を混ぜました。なるべく苦しまずに死んでいただければと思ったのですが、やはりそんなにうまくいきませんね」
父親の口が何か言いたげに動いていたが、やはりそれは言葉にならなかった。
泳いでいた父親の瞳が部屋の外に向けられる。
「あ、気にしているのは護衛ですか? あの二人は買ってきてほしいものがあると言って多めの金を渡したら喜んで出ていきましたよ」
隆宗は冷ややかに笑った。
「本当に大した護衛ですね」
「ど……し……」
父親が絞り出すように呟く。
「ああ、どうしてと聞きたいんですね。皆を守るためです。あ、皆の中に父上のことは含まれておりません。母上から……支えてくれる皆を守るようにと……言われていましたから」
隆宗は目を伏せた。
「結局私は……何も守れませんでした……。もう失ったものは戻りませんが……すべての元を絶つために、今日ここに来たのです」
「な……!? そ……! あ……う……!」
血走った目で父親が何か訴えていた。
「何か不満がありそうですね。しかし、事実です。父上があの女をそばに置かなければ母上は死ななかった。あの女が弥吉を殺そうと考えなければ、清さんもあんなことはしなかった。それに……あなたに殺されることもなかったのです。弥一さんだって、働きに見合った金を払っていれば、病気になどならなかったかもしれない……。すべての元凶は間違いなくあなたです」
そのとき、カチャリという金属の音がした。
父親の視線が隆宗の腰元に向けられる。
「終わりにしましょう、父上」
隆宗はそう言うと腰元の刀を手に取り、ゆっくりと鞘から抜いた。
部屋は暗かったが、それでも研ぎ澄まされた刃先は鈍く光って見えた。
「うぅ……! や……え……!」
父親は目を見開き、体を動かそうともがいていた。
「ムダですよ……。麻痺しているでしょう? そういう毒です。苦しくないように一突きで終わらせますから」
隆宗は両手で柄を握りしめると、刃先を父親の心臓に向けた。
「うぅ! や……!」
父親がわずかに動く手足を動かしバタバタともがく。
「ずれてしまうと、心臓を一突きにできないので動かない方がいいですよ」
隆宗が淡々と言った。
「私も……すぐに後を追いますから。先に行っていてください」
隆宗はそう言うと、渾身の力を込めて父親の心臓に向けて刀を下ろす。
目は閉じていたが、途中で不自然に刀が止まり、隆宗は思わず目を開けた。
(え……?)
そこには柄を持つ隆宗の手とは別に、刃を握る手があった。
刀の鍔が刃を掴んでいる拳にぶつかって止まり、刃先は父親に届くことなく寸前で止まっている。
隆宗は茫然とその手から腕をたどり、いつの間にか隣に立っていた人物を見上げた。
「どうして……あなたが……?」
隆宗はか細い声で呟いた。
薄茶色の瞳がどこか悲しげに、ゆっくりと隆宗に向けられた。
日が暮れ始めていた。
窯の前でつなぎ合わせた皿を見ていた弥一と弥吉は、近づいてきた奉公人の男に気づき顔を上げた。
男は軽く頭を下げると、弥一が持っていた皿に目を留めた。
「これがあの割れた皿……。すごいですね! こんなに綺麗に直るとは思いませんでした!」
男は感心したように声を上げる。
皿は、遠目ではつなぎ目がわからないほどに綺麗に直っていた。
「絵が入っている部分は、どうしても継ぎ目が目立ちますが、なんとか……。弥吉がうまく直してくれました」
弥一はそう言うと、弥吉に優しく微笑んだ。
笑いかけられた弥吉は照れたように目をそらす。
「これくらいは……俺でも……」
弥吉の様子に男は微笑む。
「謙遜するな。さすが、弥一さんの息子だな」
男がそう言うと、弥吉の顔は耳まで赤く染まった。
「そ、そんなことより、何かあったんですか? わざわざここに来るなんて……」
弥吉は話しをそらすように、男に聞いた。
「あ、ああ……」
男は弥吉の言葉に、少し困ったような顔で微笑んだ。
「隆宗様がお帰りになったと伝えに来たんだ……」
「ああ、そうなのですね」
弥一はその言葉に嬉しそうな顔をした。
「では、すぐにご挨拶に伺って……」
「あの……それが……」
男は申し訳なさそうに弥一の言葉を遮る。
「今日は疲れているからとおっしゃって……。弥一さんがこの屋敷に来ていることもまだお伝えできていないんです……」
「ああ、そうでしたか……」
弥一は残念そうに目を伏せた。
「それから、旦那様に大事なお話があるとおっしゃっていて、今日は隆宗様と旦那様の部屋には近づかないでほしいとのことでした」
男はそこで視線を弥吉に移した。
「だから、おまえも今日は隆宗様のお部屋に行くなよ。何か……深刻なご様子だったから……」
「深刻……?」
男の言葉に、弥吉の表情が曇る。
「まぁ、あんなことがあったばかりだしな……。いろいろお話しすることがあるんだろう……」
男は悲しげに目を伏せた。
「あの……、あんなこと……とは?」
話しを聞いていた弥一がおずおずと男に聞いた。
「え……?」
男は驚いて弥吉を見る。
弥吉は静かに首を横に振った。
弥吉は、この屋敷で起こったことを弥一に何も伝えていなかった。
「あの……あんなこととは一体……」
そのとき、信と叡正が小屋の方から窯に向かってやってくるのが見えた。
三人のどこかぎこちない様子に気づき、叡正が戸惑いがちに口を開く。
「あの……どうしたんですか?」
「あ、いえ……。隆宗様がお帰りになったというお話を……」
男の言葉を聞くと、信は向きを変え、屋敷に向かって歩き出した。
「ちょっと、信さん! どこに行くの?」
弥吉が慌てて信を呼び止める。
「……聞きたいことがある」
信はチラリと弥吉を見ると、静かにそれだけ言った。
「聞きたいことって……隆宗に? 何かわからないけどダメだよ、信さん。今日は旦那様と大事な話があるから、部屋には近づくなって隆宗が言ってたらしいから……」
弥吉の言葉に、信はわずかに目を見張った。
「……そうか」
信は目を閉じてそれだけ言うと、背中を向け屋敷に向かって足を速めた。
「ちょっ……信さん! だからダメだって……!」
弥吉が慌てて信の後を追う。
残された三人は顔を見合わせると、少しだけ笑った。
「で、では、私はこれで……」
男が一礼してそそくさと去った後、弥一はおずおずと叡正を見た。
「あの……、もしご存じだったらですが……。この屋敷で何があったのか教えてもらえませんか……?」
「え……」
叡正はそう口にした後、弥一からわずかに目をそらした。
乳母の部屋で読んだ手紙には、この屋敷で起こったことがすべて書かれていた。
しかし、それを果たして弥一に話してよいのかどうか、叡正には判断がつかなかった。
「その……、俺は何も……」
「お願いします! この屋敷の人たちは皆、私にとって家族のような存在なんです……! ですから……どうか……!」
弥一は縋るように叡正を見つめた。
「家族……」
叡正の脳裏に、子どもの頃ともに過ごしてきた家族の姿が浮かんだ。
叡正は目を閉じる。
「そう……ですよね……」
叡正はゆっくりと目を開けると、叡正が知っていることを話し始めた。
日はすでに落ち、辺りは暗くなり始めていた。
「手を……離してください」
茫然と薄茶色の目を見ていた隆宗は、ようやく我に返り刀を持つ手に力を込めた。
再び体重をかけて刀を下ろそうとしたが、刀はピクリとも動かなかった。
(なんで……! あと少しなのに……!)
刃先は父親の胸にわずかに届いていなかった。
隆宗は思わず信を睨む。
「どうして邪魔するんですか!? あなたには関係ないことでしょう……!」
信は刃を掴んだまま、じっと隆宗を見ていた。
「……乳母の手紙に、おまえを頼むと書いてあった。それに……」
信は静かに口を開いた。
「弥吉が……望まない」
「手紙……? 一体何のことを……」
隆宗は目を見張った後、静かに目をそらした。
「それに、弥吉のことは……」
隆宗がそう言いかけたとき、開けられたままの襖の向こうで人が動く気配がした。
(まさか……)
隆宗は恐る恐る視線を廊下に向ける。
「おまえ……何してるんだよ……」
今、隆宗が最も聞きたくなかった声が響いた。
隆宗は咄嗟に刀を引くと、後ろに後ずさる。
「来るな……」
隆宗ははっきりとそう口にしたつもりだったが、その声はかすれ自分でも震えているように感じられた。
「どういうことだよ……」
隆宗に近づいてきた弥吉は、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「なんでこんなことになってんだよ! おまえ、どうしてこんなこと……」
(最悪だ……)
隆宗は弥吉の顔を見ながら、これ以上弥吉が近づかないように刀を構えた。
(どうすればいい……。今、父上に斬りかかっても、きっとあの男に止められる……。どうすれば……)
手にかいた嫌な汗で刀が滑り、隆宗は刀を持つ手に力を込めた。
「なぁ! どうして俺に何も言ってくれなかったんだよ……! 俺たち兄弟みたいなものだっただろ!?」
弥吉の声は震えていた。
思わず隆宗の顔が歪む。
(そんなの……言えるわけないだろ……? おまえが殺されると聞いて、清さんがあの女を殺したなんて……)
隆宗は唇を噛みしめた。
(そんなこと言ったら、おまえは自分を責めるだろ……? 弥吉が責任を感じる必要なんてないのに……。そもそも、すべてはあの女と父上のせいなんだから……! これ以上、屋敷の問題には絶対に巻き込めない……)
「おまえには……関係ないことだ」
隆宗はなんとかそれだけ口にした。
(そう……おまえには関係ない……!)
隆宗は真っすぐに弥吉を見つめた。
「邪魔するなら、おまえも殺す……。この家の問題だ。……もう出ていけよ! 関係ないだろ!?」
弥吉が息を飲んだのがわかった。
隆宗はきつく目を閉じる。
(ごめんな……弥吉。もう誰も巻き込みたくないんだよ……)
隆宗はゆっくりと目を開けると、信の足元にいる父親を見た。
父親は静かだったが、胸が上下に動いているところを見るとただ気を失っているだけのようだった。
(父上はなんとしても殺さなければ……! 同じことの繰り返しになる……!)
隆宗が心を決め、刀を持つ手に力を込めた瞬間、廊下に二つの人影が見えた。
「……隆宗様」
その声に、隆宗は弾かれたように廊下を見る。
(……そんな……まさか……)
二つの影はゆっくりと部屋に入ってきた。
髪の長い男に支えられて入ってきたのは、ずっと会いたいと願ってきた人物だった。
隆宗は目を見開く。
「弥一さん……、どうして……。体は……」
弥一は泣いていた。
二人は弥吉や信の横を通り過ぎ、隆宗にゆっくりと近づいてくる。
隆宗は思わず刀を下ろした。
「弥一さん……、危ないですから……これ以上近づかないでください……」
隆宗は震える声で絞り出すように言った。
弥一は止まるどころか、前のめりになって隆宗の元へ進む。
「弥一さん……本当に……危ないですから……!」
そのとき、弥一が何かに足をとられた。
「弥一さん!」
隆宗は慌てて刀を捨てると、膝をついて弥一を抱きとめた。
「隆宗様……!」
弥一の両手が隆宗の背中に回る。
その手にはほとんど力が入っていなかったが、隆宗は弥一の温かさを感じ、動くことができなくなった。
「隆宗様……! 本当に……申し訳ありません!」
弥一の体は震えていた。
「私は……自分のことしか考えずに……! すべてをあなたに背負わせてしまいました……。こんなに小さな背中に……。私はなんということを……!」
弥一は顔を上げる。
涙で濡れた弥一の瞳は、ただ隆宗だけを映していた。
「守ろうとしてくれたのでしょう……? あのとき約束を果たそうと弥吉を……。それに清さんや……この屋敷の奉公人たちのことを……。それなのに私は……」
弥一の言葉に、隆宗は目の奥が熱くなるのを感じた。
(ダメだ……。俺は……)
「私が愚かでした……。私は隆宗様にこんな重荷を背負わせたかったわけではありません! 清さんも……奥様も……皆、ただあなたの幸せを願っていただけなのです! 皆が守りたかったのは家ではなく隆宗様です……!」
堪え切れず、隆宗の目に涙が溢れた。
「そんなあなたが、傷つくことを誰も望んではいません……! もうお止めください……」
弥一の言葉に、隆宗の頬を涙が伝う。
「私は……何も守れなかったのです……」
隆宗は震える声で呟く。
込み上げるものを抑えることができなかった。
「清さんは……私のせいで父上に殺されてしまいました……」
隆宗の言葉に、信以外の全員が息を飲んだ。
「もっと早くこうすべきだったのです……。私がもっと気を配り、いろんなことに気づいていれば……清さんも、母上も……弥吉や弥一さんも……こんなことにはならなかったはずです……!」
隆宗は涙を止めることができなかった。
「……旦那様が……」
弥一は目を伏せた後、再び隆宗を見た。
「それでも……隆宗様には何の責任もありません。清さんが……自分が死んだからと、隆宗様が不幸になることを望むと思いますか?」
「それは……!」
「清さんがそんなことを望むような人ではないと、隆宗様が一番よくご存じでしょう?」
弥一は隆宗の目を真っすぐに見た。
「奥様も清さんも、今はもういません。私も、もうすぐいなくなるでしょう……。でも、忘れないでください。共に過ごした日々も、この想いも、決して消えることはありません。目の前からいなくなっても、ずっと隆宗様の幸せを望んでいます。いつまでも、ずっとです。……ですから、もうお止めください……」
弥一は隆宗の手を自分の手で包んだ。
「ひとりで背負わず、これからどうすべきか、一緒に考えさせてください。私たちは……家族なのでしょう?」
弥一は穏やかに微笑んだ。
隆宗は自分の中で冷たく固まっていたものが一気に溶けて、喉元に込み上げてくるのを感じた。
隆宗の口から言葉にならない何かが溢れ出す。
隆宗は弥一にしがみつき、声を上げて泣いた。
弥一が震える手で、隆宗の背中をさする。
背中に触れる手が温かく、その心地良さに隆宗は涙を止めることができなかった。
隆宗が落ち着きを取り戻した頃には、明るい日の光が部屋に差し込み始めていた。
状況は何も変わっていなかった。
母親と乳母は死に、すべての元凶である父親は生きていた。
けれど、隆宗の心は不思議なほど穏やかだった。
隆宗はゆっくりと顔を上げる。
弥一の優しげな眼差しを受けて、隆宗の心は決まった。
(最初から……こうすればよかったな……)
隆宗は温かな光が差す中で、静かに目を閉じた。
「それで……あの屋敷は今どうなっているんだ?」
咲耶は、久しぶりに部屋を訪ねてきた叡正を見つめた。
「今か……俺はあれからあの屋敷には行ってないからな……」
叡正が少し申し訳なさそうに口を開く。
「隆宗様が新しい当主になるらしいっていうのは、噂で聞いたけど……。屋敷を離れていた奉公人たちもほとんどが帰ってきたってさ」
叡正はそう言うと少しだけ微笑んだ。
隆宗が父親を刺し殺そうとしたあの日から、ひと月が過ぎていた。
あの後、隆宗は奉行所に行き、屋敷で起こったことを包み隠さずすべて話した。
奉行所の人間が屋敷を探ると、謀反を企てた証拠がいくつも見つかり父親は捕らえられ、計画に関わっていたほかの者も捕まった。
隆宗は、死体を井戸に捨てたうえ、噂を流して奉行所を惑わしたことで罪には問われたが、父親の謀反を止めるためだったということもあり、大きな罰は受けなかった。
乳母が残した手紙は、隆宗の話した内容を裏付ける証拠となったのと同時に、奉公人たちが隆宗を支えていこうと決意するきっかけにもなった。
親戚の屋敷を回って奉公人たちの受け入れ先を探していたことも、奉公人たちの想いを強くした。
咲耶は目を伏せた。
「……そうか。よかった、とは言えないかもしれないが……、弥吉の友人が罰せられなかったこと、支えてくれる人たちがたくさんいることは、せめてもの救いだな……」
「ああ……そうだな」
叡正は呟くようにそう言うと小さく頷いた。
咲耶は自分から伸びる影を見つめ、ようやく日が傾いてきていることに気がついた。
「あ、そういえば、そろそろ時間か……」
咲耶は思わず呟く。
叡正はハッとした顔で咲耶を見た。
「あ、悪い。長居した……。これから何かあるのか?」
叡正は慌てた様子で立ち上がろうとした。
「あ、いや、このまま居てくれて大丈夫だ。これから……」
咲耶は叡正を見て微笑んだ。
「弥吉が来るんだ」
叡正は目を丸くする。
「弥吉……ってことは文使いとして復帰するのか?」
叡正はどこか嬉しそうな顔で聞いた。
「ああ、まだ弥吉から直接返事はもらっていないが、また働いてくれるそうだ」
咲耶は微笑んだ後、静かに目を閉じた。
「無事に、父親の最期は看取れたようだからな……」
「……そうか」
咲耶の言葉に、叡正は静かに目を伏せた。
そのとき、襖の向こうで緑の声が響く。
「花魁、弥吉さんと信様がいらっしゃいました」
咲耶はチラリと叡正を見る。
「噂をすれば、だな。……通してくれ」
咲耶がそう言うと、ゆっくりと襖が開き、信と弥吉が姿を見せた。
信はそのまま部屋に入ったが、弥吉はその場で咲耶に向かって膝をついた。
「弥吉?」
咲耶は目を丸くする。
弥吉は両手を畳につけて、頭を下げた。
「咲耶太夫……、俺は……とんでもないことを……」
弥吉は頭を下げたまま、絞り出すように言った。
咲耶は苦笑する。
「おいおい、そんなことが聞きたくて呼んだわけじゃない。頼むから顔を上げてくれ……」
咲耶の言葉に、弥吉がおずおずと顔を上げる。
「だいたいの話は信から聞いている。おまえは何も悪くないんだから、気にするな。そんなことより文使いが足りていなくて困っているんだ」
咲耶はわざとらしく困った表情を作る。
「前にいた文使いが、それはそれは良い仕事をしてくれていてな……。あの子じゃないとダメだと言ってくる客が多くて困っている。なぁ、弥吉……文使いの仕事、頼まれてはくれないか?」
咲耶は弥吉を見て優しく微笑んだ。
弥吉は目を見開く。
その目にみるみるうちに涙が溜まった。
弥吉はこみ上げるものを抑えるように、わずかに唇を噛んだ。
「……はい、もちろん……」
弥吉はそう言うと、着物の袖で目を擦る。
「前いた文使いなんて霞むくらい、良い仕事をしてやります……!」
弥吉はまだ涙の浮かぶ目で、真っすぐに咲耶を見た。
「ふふ、それは心強いな」
弥吉の言葉に、咲耶は微笑むと弥吉に向かって手招きした。
「ほら、そんなところにいないでもっと近くに来てくれ。話しづらいだろ?」
「あ……はい!」
弥吉は慌てて部屋に入ると、信と叡正の隣に腰を下ろした。
「それで、ちゃんと最期を見届けることはできたのか?」
咲耶は弥吉を見て聞いた。
「はい、信さんの家で最期まで看病することができました」
弥吉はそこで少し笑った。
「まぁ、看病って感じでもなかったですけどね。信さんが変なことばっかりするから、父ちゃんも気になっておちおち寝てられなったみたいで……。看病させて申し訳ないみたいな雰囲気にならなかったので、逆によかったかもしれないですけどね。なんだかんだで毎日笑ってたし、良庵先生の薬のおかげか、最期まで穏やかな顔をしてました」
弥吉は浮かんだ涙を隠すように、静かに目を伏せた。
「……そうか」
咲耶も目を伏せる。
(よかった……とは言えないが、悔いの残る別れにはならずに済んだか……)
咲耶は息を吐くと、話しを変えることにした。
「ところで、これからなんだが、またあの屋敷に戻るのか? あの屋敷からここまではかなり遠いだろう?」
咲耶は視線を上げると弥吉を見た。
「あ、はい。ここで働くためにも、また信さんの家で暮らすことにしました。隆宗のところにはちょこちょこ顔は出そうと思ってますが、そもそも俺、あの屋敷であまりできることがないので……。それに、隆宗にはたくさん奉公人がついてますからね」
弥吉は苦笑した。
「むしろ信さんの方が俺がいないと心配です」
弥吉の言葉に、咲耶は思わず吹き出した。
「ふふ……確かにそうだな」
咲耶は笑いながら、チラリと信を見た。
その瞬間、咲耶は目を見開く。
信の口元が動き、かすかに笑ったように見えた。
(え……?)
咲耶が瞬きをして、もう一度信を見る。
信はまたいつもの表情に戻っていた。
(今……笑った……?)
咲耶の胸に温かいものがこみ上げる。
(笑ったのか? 信が……)
「咲耶太夫?」
咲耶の動きが止まったため、弥吉は不安げに咲耶の名を呼んだ。
「あ、いや……なんでもない」
咲耶は慌てて首を振った。
三人は横に並んでいたため、咲耶以外誰も信が笑ったことに気づいていないようだった。
(信も……変わり始めている……)
咲耶は思わず胸に手を当てた。
(よかった……本当に……!)
咲耶は目を閉じた後、弥吉を見つめた。
「おまえがいてくれて……本当に良かった。大変かもしれないが、これからも信のそばについていてやってくれ」
弥吉は少しだけ目を見張った後、照れくさそうに笑った。
「はい、もちろんです!」
弥吉の言葉に、咲耶は微笑んだ。
「そうだ、まだ言っていなかったな」
咲耶は弥吉を見つめ、満面の笑みを浮かべた。
「おかえり、弥吉」
弥吉はわずかに口を開けた後、嬉しそうに微笑んだ。
「はい、ただいま戻りました!」
窓から入ってくる風が心地よかった。
夏は過ぎ、季節はまもなく秋を迎えようとしていた。
赤い彼岸花が風に揺れていた。
まだ青々としている山間の木々の中で、その赤はあまりにも鮮やかだった。
(ああ……、ちゃんと咲いたんだな……)
男は小さく微笑んだ。
(随分と見つけやすくなったな……)
辺り一帯に咲いた彼岸花を踏まないように気をつけながら、男は進んでいく。
男は咲き乱れる彼岸花の真ん中に、ひっそりと置かれた白く丸い石を見つけた。
石の前まで進んでいくと、男は静かにその場に腰を下ろす。
「来るのが遅くなって悪かったな……」
男はそう言うと、静かに両手を合わせて目を閉じた。
しばらくそうしていた男はゆっくりと目を開ける。
「……あいつを見つけたんだ……」
風が吹き、彼岸花が一斉に揺れた。
「生きていた……。それに……人に恵まれたらしい……いい顔してたよ。安心したか?」
男は微笑んだ後、静かに目を伏せた。
「ただ……俺が余計なこと言っちまったせいで……まだいろいろと……過去に捕らわれてるみたいだ……」
男は苦しげに目を閉じる。
「せっかく、おまえが……」
男は拳を握りしめた。
男はしばらくそうしていたが、やがて静かに顔を上げた。
彼岸花を揺らしながら、風が通り抜ける音が響く。
男は静かに立ち上がった。
「今度こそ……ちゃんとおまえのことを伝えるから……」
男は丸い石を優しく撫でた。
「伝えたらまた報告に来る……」
男はそう言うと微笑んで、石に背を向けた。
「またな……」
男を後押しをするように、心地よい風が男の背中を押した。
彼岸花が揺れる中、男は真っすぐに前だけを見つめ、山を下りていった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「風が冷たくなってきたな」
久しぶりに咲耶の部屋を訪れた叡正は、咲耶の前に腰を下ろすと小さく呟いた。
叡正の言葉に、お茶を出していた緑がどこか嬉しそうに顔を上げる。
「もうすっかり秋ですね。彼岸花ももう咲く頃でしょうか」
「ああ、もうそんな頃なのか……」
お茶を受け取った咲耶は緑に礼を言うと、振り返って窓を見た。
窓から見える空は青く、吹く風はひんやりとして肌に心地よかった。
「彼岸花ならもう咲いてるぞ」
叡正は、湯飲みを受け取りながら答えた。
「うちの寺の墓は今、彼岸花だらけだ……」
緑とは対照的に、叡正はどこか嫌そうな顔で言った。
「それは素敵ですね!」
緑が目を輝かせる。
「素敵……か……?」
叡正は引きつった顔で緑を見る。
「素敵じゃないですか! あの艶やかな花が一面に咲いているんですよね! さぞ綺麗でしょうね……」
緑はうっとりとした表情を浮かべた。
「綺麗って……墓だぞ……」
叡正は信じられないというように緑を見る。
二人のやりとりを聞いていた咲耶はフッと微笑んだ。
「まぁ、彼岸花といえば墓という印象もあるし、綺麗より不気味と感じる者もいるだろうな」
「花魁までそんな……」
緑は同意を得られずどこか悲しそうだった。
「あんな綺麗な花なのに、どうしてお墓の印象があるんでしょうね……」
咲耶は優しく緑に微笑む。
「実際に、墓のそばに植えられているからだろうな。彼岸花の根には毒があるから……。彼岸花を植えておくと、墓の遺体がネズミに荒らされるのを防ぐことができるんだ」
「ああ、そういう意味があるんですね……」
緑は目を丸くする。
「それにしても……」
咲耶は叡正を見た。
「おまえは墓で毎年見るだろう? 何がそんなに嫌なんだ?」
「え、まぁ……嫌ってわけじゃないけど、なんか怖いだろ? あの花……。真っ赤でただでさえ目立つのに、毎年すごい勢いで増えるんだぞ……? なんか、こう……死者の怨念が咲かせてるみたいで……とにかく不気味というか……」
恐々話す叡正に、咲耶は呆れたようにため息をつく。
「おまえ……本当に僧侶か? 怨念で花が咲いてると思うなら、墓に向かって経でも唱えてやれ。前から思っていたが、おまえは本当に呪いとか怨念とか好きだな……」
「好きなわけないだろ! 本当に苦手なんだよ……」
叡正はそう言うと、気まずそうに視線をそらした。
「まったく僧侶のくせに……」
咲耶は呆れてもう一度息を吐いた。
「死者の怨念より、もっと怖いものがほかにいくらでもあるだろう……」
咲耶はそう言うと、静かに窓の外を見た。
相変わらず空は青く、風は心地よかったが、咲耶はなぜか妙な胸騒ぎを覚えていた。
「……気のせい……ならいいが……」
咲耶は小さく呟いた。
「え? 何か言ったか?」
叡正が首を傾げる。
叡正の声に、咲耶は叡正に視線を戻した。
「いや、なんでもない……」
咲耶は小さく微笑むと、静かに目を閉じた。
少年が、少女を支えながら歩いていた。
少女は胸の十字架を握りしめ、しきりに何か呟いている。
二人は同じような薄茶色の髪をしていた。
少年は少女を見つめる。
「もう大丈夫……。俺がしっかり働けば、二人でちゃんと生きていける……!」
少女は少しだけ顔を上げると、ゆっくりと目を開いた。
少女の瞳は何も映してはいなかったが少年の言葉を聞き、呟くのを止めて少年の方を向いた。
「……私のことは、置いていっていいのよ……? いくら母さんに言われたからって、信が……すべて背負う必要はないわ……」
少女はそう言うと静かに目を伏せた。
「何言ってるんだよ。姉さんを置いていくわけないだろ? あの人についていけばきっと大丈夫だから……!」
少年は少しだけ声を大きくした。
「そう……かしら……?」
少女はどこか不安げな表情を浮かべる。
「あの人……あまり……」
少女がそう言いかけたとき、後ろから誰かが少年の肩を叩いた。
少年が慌てて振り返ろうとした瞬間、耳元で男の声が響く。
「そのまま、振り返らずに聞け」
男は声を潜めていたが、よく通るその低い声は少年の耳にしっかりと届いた。
「この先、おまえは……俺たちについてきたことをきっと後悔することになる……。でも、もしいつか……おまえが運よく逃げ出せたときには……腕に鬼の刺青がある人間には絶対に近づくな……」
「鬼の……刺青……?」
少年は戸惑いながらも、言われた通り前を向いたまま目だけを動かして男の方を見た。
「後悔する……? それに逃げ出すって一体どういう……」
「今はわからなくていい……。あいつらはみんなつながっている……。あいつらは、この世の…………」
男の声が遠のき、チラリと見えた男の顔が歪む。
驚いて目を凝らすと、見ていたはずのものは消え、やがて見慣れた天井が見えてきた。
信はそこで、目を覚ました。
「夢……か……」
信は布団からゆっくりと体を起こす。
「いや……夢……ではないか」
それは夢ではなく、記憶だった。
「あ、信さん起きたんだ!」
長屋の戸が開き、眩しい光を背にした弥吉が姿を現した。
信は思わず目を細める。
「珍しくよく寝てたね!」
信は開いた戸から長屋の外を見た。
差し込んだ光から、すでに朝と呼ぶには遅い時間だということがわかった。
「まぁ、信さんの場合、いつ寝てるのかいつもわからないからあれだけど……」
弥吉は戸を閉めると、信の方に向かって歩いてきた。
「俺、もう出るね。文使いの仕事に復帰して早々に遅刻はできないからさ」
弥吉は少しだけ照れくさそうに笑った。
「あ、握り飯用意しておいたからちゃんと食べてよ! 放っておくと本当に何も食べないんだから、信さんは……」
弥吉はそう言うと、身支度を整え始めた。
「わかった……。後で食べる……」
信の言葉に、弥吉がジトっとした視線を向ける。
「ホントに食べてよ……? 帰ってきたときそのまま残ってたら許さないからね」
「ああ、わかった」
弥吉はまだ疑いの眼差しを向けていたが、やがて諦めたように息を吐いた。
「あ、そうそう!」
弥吉が何かを思い出したように信を見る。
「さっき、竜さんの娘だっていう人とうちの前で会ったんだけどさ……」
「竜さん?」
信は眉をひそめる。
「竜さんだよ、竜さん! 信さんに漆を塗る仕事をきゅうり三本とかで依頼してくる竜さん! 何回も会ってるのに名前も覚えてないの!?」
弥吉は目を丸くする。
「ああ、きゅうりの……」
「きゅうりの人って覚えてるの!? 失礼すぎるでしょ! 竜さんだからちゃんと覚えてよ! ……ってそうじゃなくて、その娘さんが信さんを訪ねてきてたんだ。ほら、このあいだのことで皿に絵付けができるってこの一帯の長屋で広まったからさ。何か信さんに手伝ってほしいことがあるんだって」
「手伝う?」
「うん、娘さんはお屋敷に奉公に出てるみたいだから、お屋敷で何かあったんじゃないかな? 竜さんと違って金もちゃんとくれるみたいだよ! また日を改めて来るって言ってたから、そのときにくわしく聞いて」
「ああ、わかった」
信が頷くのを見て、弥吉は微笑んだ。
「じゃあ、行ってくるね」
「ああ」
弥吉は再び戸を開けると、足早に長屋を出ていった。
弥吉を見送った信は、片手で顔を覆うと小さく息を吐く。
信は夢で見たことを思い返していた。
「どうして今さら、あんな夢……」
静かな長屋に信の声だけが響く。
信の呟きに答えられる者は誰もいなかった。