楼主の仕事を勧められた数日後、宗助は玉屋の楼主になることを引き受けた。
 楼主から引き継いだ仕事は大変ではあったが、宗助がこなせないほどのものではなかった。

 虚ろな目をした遊女、値踏みするように遊女を見る客、狡猾な遊郭の楼主たちに対応しながら、宗助はただ淡々と仕事をこなしていた。
 華やかな吉原の裏側は仄暗くひどく澱んでいたが、痛める心を宗助は持ち合わせていなかった。

 宗助は静かに目を伏せる。
(この一年で楼主が忘八と言われる理由はよくわかった……。確かに俺には向いているのかもしれないな……)
 宗助はそんなことを考えながら、片手で顔を覆った。
(まともな感覚がある人間にこの仕事はできない……)

 ふいに虚ろな目で客をとる遊女の顔が頭に浮かび、宗助はきつく目を閉じた。
 なぜかその姿が紫苑に重なって見えた。
 一度入ったら年季明けまで出られない吉原と、一度入ったら二度と出ることはできない大奥。
 生活の質は違えど、どちらも籠の鳥になるという意味では同じだった。

 宗助はそっと息を吐いた。
 仕事の手を止め、玉屋の外に出るため立ち上がる。

 吉原の大門が締まってから随分経ち、客も遊女も寝静まっている時間だった。
 大門が開くのもまだ先なため、玉屋は今誰もいないかのようにひっそりと静まり返っていた。
 宗助は玉屋の正面の入口から外に出る。
 提灯も消えた見世の前は暗く、夜明け前の空気は肌に冷たかった。

「何も感じない俺は……やはり忘八なんだな……」
 見世の壁に寄りかかりながら、宗助はひとり呟いた。
 冷たい風が、宗助の頬をそっと撫でる。

「忘八……ですか」
 ふいに暗闇の中から声が聞こえた。

 宗助は息を飲み、慌てて声のした方を見る。
 暗闇の中にぼんやりと男の姿が浮かび上がる。

(人が……いる気配はなかったんだが……)
 宗助は呼吸を落ち着けると、男に笑顔を向けた。

「すみません……。人がいるとは思わなくて。独り言です。うちに何か御用ですか?」
 宗助はそう言いながら、男を注意深く観察した。

 どこにでもありそうな安物の着物は着ていたが、身なりは整っており、落ち着いた雰囲気から物乞いや物取りの(たぐい)ではないと、宗助は判断した。

「ええ、あなたに用が」
 男は静かに答えた。
 宗助は首を傾げる。
 男は商人なのか、背中に何か背負っていた。

「あの……あいにく贔屓にしている店があるもので、新しく何か仕入れることは……」
 宗助は申し訳なさそうな顔で男を見る。
 男の表情はまったく変わらなかった。

千代(ちよ)(かた)様からの言づてです」

「……え?」
 宗助は眉をひそめる。
「えっと……、それはどなたですか?」

 男は何も言わず、着物の袖口に手を入れた。
 袖口から取り出したのは、一輪の花だった。
 紫の小さな花びらを広げたその花は、宗助が見ることを恐れていた花だった。

 宗助は目を見開いた。
「…………紫苑……の花ですか……?」


『紫苑の花を見たときは……ほんの少しでいいから……私のこと、思い出してくれ』
 紫苑の言葉が、頭の中に響く。


 宗助は目を泳がせた。
「えっと……、これは……どういう……」
 宗助の声はかすれていた。

 男は静かに袖口に花を戻す。
「千代の方様からの言づてです。……『守ってほしい』と」
「……守る……?」
 宗助は男を見つめた。
 男は小さく頷くと、背負っていたものを注意深く下ろし慎重に両腕で抱えた。

「な!?」
 宗助が息を飲む。
 男が両腕で抱えていたのは、まだ一つにもなっていないであろう赤子だった。
 赤子は身じろぎひとつせず、男の腕の中で静かに眠っていた。

「こ、この子は……?」
 宗助は赤子を起こさないように、声をひそめて男を見た。

「この方は毒を盛られて命が危うくなったため、千代の方様がこの方は亡くなったと偽って奥の外に出しました。千代の方様があなたに『この子を守ってほしい』と」
 男は淡々と語った。
 宗助は驚きで言葉が出なかった。

(毒……? 命が危うく……? 俺に守ってほしい……?)
「何を……言って……」
 宗助は頭を抱えた。
 理解が追いつかなかった。

「毒はもう大丈夫ですが、すでにこの方は亡くなったことになっています。帰る場所はありません」
 男は淡々と言った。
「な!?」
 宗助は男を見つめる。
「……わかっているのか? ここは吉原だぞ……?」

 男は静かに頷いた。
「ええ、吉原ほど見つかりにくい場所はないでしょう。それに、吉原であればたとえ見つかっても連れ戻される可能性は低いでしょう」

 宗助は思わず口を開きかけたが、静かに唇を噛む。
 男が言いたいことはわかった。

 宗助は戸惑いながら、男の腕の中の赤子を見る。
 そこには確かに紫苑の面影があった。
 宗助は頭を抱え、その場にしゃがみ込んだ。
「どうしろって言うんだ……」
 宗助は絞り出すように呟いた。

「千代の方様からの残りの言づてです。『この子に自由を。自由に生きさせてやってほしい』と」

 宗助は顔を上げ、男を見上げる。
「自由……?」
「ええ、自由に生きられるようにしてほしいと」

 宗助は目を伏せる。
 それは、紫苑自身の願いのようにも感じられた。
 宗助は拳を握りしめる。


(そうか……。それが……おまえの願いなら……)

 宗助はゆっくりと立ち上がった。
「わかりました……。それが……願いなら……」
 宗助は男を見つめた。

 男は少しだけ頷くと、腕の中の赤子を宗助に差し出す。
 宗助は慎重に赤子を抱きしめた。
 赤子は見た目よりも少しだけ重く、そしてどこまでも温かかった。
 宗助の目に何かがこみ上げる。

「この子……名前は……?」
 宗助はこみ上げるものを抑えるように、少しだけ上を向いて言った。

「桜様です」
「さくら……?」


『おまえの一番好きな花だもんな』
 桜の花びらが舞う中、微笑んだ紫苑の顔が鮮やかに頭の中に蘇る。

「そう……ですか……」
 宗助はなんとかそれだけ口にした。

「ええ。千代の方様にとって、大切な思い出の詰まった花だそうです」
 男は淡々と言った。

 上を向いたままの宗助の目尻から静かに涙がこぼれ頬を伝う。
「そう……なんですね……」


「ええ」
 男はそれだけ言うと、静かに後ろに下がった。
「では、私はこれで失礼します」
 男は音もなく暗闇の中に姿を消した。


 残された宗助は、腕の中の赤子を見つめる。
 宗助は壊れ物を扱うように、そっと赤子を抱きしめた。

「桜……。おまえは必ず自由に……! 必ず守るから……!」

 腕の中の赤子は身じろぎひとつせず眠り続け、宗助にただ温もりだけを伝えていた。