【コミカライズ】鏡花の桜~花の詩~

 紫苑が江戸に旅立って数日が経ったある日、宗助は紫苑の父親に呼び出された。
 御前様である紫苑の父親に会うのは、初めてのことだった。

「お呼びでしょうか」
 部屋に入った宗助は、膝をつき頭を下げた。

「ああ、宗助だな。そうかしこまらず、顔を上げてくれ」
 紫苑の父親は貫禄の中に優しさのある声で言った。
 宗助はゆっくりと顔を上げる。

 紫苑の父親は、顔こそ紫苑には似ていなかったが、どこか紫苑を思わせる凛とした空気を持っていた。
 宗助は思わず目を伏せる。
「娘が……世話になったな……」
 少しかすれた声を聞き、宗助は紫苑の父親を見つめた。
 遠くからしか見たことはなかったが、今目の前にいる御前様はひどく顔色が悪いように見えた。
「いえ、私は何も……」
 宗助は短く答える。

「顔色が悪いな。大丈夫か?」
 紫苑の父親が宗助を見て聞いた。

(御前様の方が……とは言えないよな……)
 宗助はここ数日まともに寝ることができずにいたが、様子を見る限り紫苑の父親も同じなのだろうと、宗助は思った。
「いえ、問題ありません」
 宗助は淡々と答えた。

「そうか……」
 紫苑の父親はそっと息を吐いた。
「忙しいところ申し訳ないが、少しだけ、私の話に付き合ってもらえないか?」
「……はい、もちろんです」
 宗助は戸惑いながら、静かに一礼した。

「ありがとう」
 紫苑の父親は目元を緩める。
 その笑い方は少しだけ紫苑に似ていて、宗助の胸はずきりと痛んだ。

「あいつ……紫苑の母親は、もともと体が弱かったんだ。……子を生むことで、命が危うくなるとわかったとき、私は生むのを反対した。世継ぎなどどうでもよかった。ただ、あいつと共に生きていきたかったんだ」
 紫苑の父親は苦笑した。
「笑えるだろう? 私は大名の家に生まれたというだけで、本当に器の小さい人間なんだ。周りのことなどどうでもいい、自分だけ良ければいいというどうしようもない男なんだよ」

「いえ、そんなことは……」
 宗助は首を横に振る。
 今の宗助にはその気持ちが痛いほどわかった。

「だが、あいつは生むと言ってきかなかった……。あいつは、私の血を分けた子をどうしても生みたいと言った。私の父と母はそのときすでに他界していたから、私に家族をつくりたいと、そう言ったんだ。そして、紫苑を生んでしばらくして、あいつが死んだ」
 紫苑の父親は片手で顔を覆った。
 その手はかすかに震えていた。
「私を殴ってもいいぞ……。私はそのとき思ったんだ。……この子さえ生まれなければ、と……」

 宗助は目を伏せた。
 掛ける言葉が見つからなかった。

「そう思ったのは一瞬だけだったが、確かにあのとき私はそう思ったんだ……。それから、私は……紫苑の顔が見られなくなった。遠目にも日に日にあいつに似ていく紫苑を見ると、余計にな……」
 紫苑の父親の声がかすれる。
「私は……本当にどうしようもない人間なんだ……」

 絞り出すような声に、宗助は思わずうつむく。
 息が苦しく、胸が詰まった。

「紫苑を奥にと言われたとき……、それだけはなんとしても阻止しなければと思った。紫苑がこの地を愛しているのは知っていたし……、おまえのことを想っていることも……知っていたんだ……」

 宗助は弾かれたように顔を上げた。
 紫苑の父親は顔を覆っていた手を下ろすと、悲しげに微笑む。

「すまないな……。紫苑のことは逐一報告をもらっていた。気を悪くしないでくれ……」
「いえ、そのようなことは……」
 宗助は目を伏せた。

 紫苑の父親は少しだけ微笑むと、目を伏せた。
「結局、奥の話を拒むことはできなかった。だから……紫苑には逃げてもいいと言った……」

「……え?」
 宗助は顔を上げた。

「紫苑が逃げたいと言うなら、娘は死んだと報告し、この屋敷から逃すつもりだった……」
「そんなことをしては、御前様は……」
 宗助の声は震えていた。

「なんとかするつもりだった」
 紫苑の父親は目を伏せたまま微笑むと、苦しげに目を閉じた。
「それくらいしか、私が紫苑にしてやれることはないからな……」

 宗助は目の前が暗くなっていくのを感じた。
(逃げてもいいと言われていた……? 自分の気持ちを優先するなら、きっと逃げ出したかっただろう……。俺の言葉が、その道を閉ざしたのか……? 俺が……みんな不幸になるなんて言ったから……)

「しかし、ここを立つ日の朝、紫苑は私のところに来て言ったんだ。『奥に行く』と……。『私がこの家を守るから。何も心配しなくていい』と……笑ったんだ……」
 紫苑の父親の目から涙がこぼれ落ちる。
「私は恨まれても仕方ないようなことをし続けたのに……。守るどころか、守られて……。私は本当に情けない人間だ……」

 宗助は拳を握りしめた。
(情けないのは……俺だ……)
 宗助の震える拳の上に、目からこぼれた雫が落ちる。

「ああ、君のことも言っていた。有能だから、よろしく頼むと」
 紫苑の父親はそこで少しだけ微笑んだ。
「まるで自分のことのように、君のことを誇らしげに語っていて笑ってしまったが……。君のことを頼むと言っていた」

 宗助は何も答えることができなかった。
 こみ上げるものでうまく呼吸ができなかった。
 目に溢れたもので、宗助の視界が霞む。

「紫苑の気持ちはわかっていたが……、ここ数日、君の様子を見て、君の気持ちもよくわかった……」
 紫苑の父親はかすれた声でそう言うと頭を下げた。
「本当にすまない……! 私が不甲斐ないばかりに……こんなことに……」

「いえ……」
 宗助はうつむいたまま絞り出すように言った。
「すべては、俺が……。俺のせいで……」

「君は何も悪くない」
 紫苑の父親は、優しい声で言った。
「紫苑のそばに君がいてくれてよかったと、私は心から思っている。……ありがとう」

 宗助はうつむいたまま、首を横に振った。
(すべては俺のせいなんだ……。俺が…………)

 二人はそれ以上何も口にすることができなかった。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 部屋を後にした宗助は、茫然と廊下を歩いていた。
(俺があんなことを言わなければ……)
 宗助は唇を噛みしめた。
(守ると約束したのに……。守りきる自信がないと……紫苑にすべて背負わせた……。俺は……守ろうとさえしなかったんだ……)
 宗助は拳を握りしめた。

「……けさん、……宗助さん!」
 宗助は背後から肩を叩かれ、振り返る。
 奉公人の男が心配そうに宗助を見ていた。

「何度も呼んだんですよ……? 大丈夫ですか?」
 男の言葉に、宗助は目を伏せた。
「……大丈夫です。心配をかけてすみません……」
「あまり無理はしないでくださいね」
 男は、宗助の肩を軽く叩いた。
「まぁ、姫様がいなくなってから、灯りが消えたようにみんな元気はありませんけどね……」
 男は寂しげにそっと息を吐いた。
「屋敷の者だけでなく、ここに魚を届けてくれている者や漁師たちまで元気がないんですから……。姫様の人気は凄かったのだと実感しています……」
「漁師まで……ですか……」
「ええ、姫様のために気合いを入れて魚を獲っていましたからね。ほら、姫様、お刺身が好きだったでしょう?」

「…………え?」

 宗助は虚ろな目で男を見つめた。
「あれ、宗助さんは姫様と一緒にお食事していたから、ご存じですよね? この地で獲れる魚が一番美味しいと好んで召し上がっていたでしょう?」

 宗助は目を見開いた。

「……ああ、……そういうことか……」
 宗助は片手で顔を覆った。

「宗助さん、……大丈夫ですか?」
 男は宗助の顔をのぞき込むように聞いた。
「……大丈夫です。ただ、少し眩暈がしたので先に行ってください……」
「わ、わかりました……。無理しないでくださいね……」
 男はそう言うと、宗助を何度か振り返りながら、廊下の向こうへ去っていった。


 宗助はその場にしゃがみ込む。


『ほら、これもやる。嫌いなんだ』
 にっこりと笑いながら、刺身の皿を差し出した紫苑の顔が浮かぶ。

「そういう嘘は……やめてくれよ……」
 ようやく止まったはずの涙が溢れ出す。
「どうしてわかったんだ……。俺、刺身が好きなんて言ってなかっただろ……?」
 宗助は絞り出すように呟いた。
「おまえの嘘は……どうしてそんなに優しいんだ……」

 胸の痛みで、叫び出してしまいたかった。

『守ります、必ず』
 かつて紫苑に言った自分の言葉が、胸をえぐる。

「それにひきかえ……、俺の嘘は……。何が守れる力だ……、何が武士だ……。守ろうとさえしなかった俺は…………ただのクズだ……」
 宗助は胸の痛みに耐え切れず、うずくまった。
「俺は……ここにいていい人間じゃない……」
 とめどなくこぼれる涙が、小さな音を立てて廊下に落ちた。
「花魁、信様がいらっしゃいました」
 襖の向こうから緑の声が聞こえた。
 咲耶が返事をすると、襖がゆっくりと開き、緑とその後ろにいる信の姿が見えた。

 咲耶は信を見つめる。
 信の手や足は、指の先まで白い布が巻き付けられていて、火傷の酷さを物語っているようだった。
 咲耶は思わず目を伏せる。

 信はいつも通り何も言わず、部屋に入ると咲耶の前に腰を下ろした。
「……体は大丈夫か?」
 珍しく信が先に口を開く。
 咲耶は思わず微笑んだ。
「私は問題ない。おまえのおかげだ。信は……大丈夫ではなさそうだが……」
 咲耶は信の手を見つめる。
 指が曲げられるように白い布が巻かれていない関節部分は、赤黒く爛れた皮膚が見えていた。
 咲耶の視線に気づいた信は、さりげなく着物の袖で指先を隠す。
「たいしたことはない」
 信は淡々と言った。

 咲耶は真っすぐに信を見つめる。
 聞きたいことはたくさんあったが、咲耶はうまく言葉にすることができなかった。

「助けてくれて……ありがとう」
 咲耶はなんとかそれだけ口にした。

 信は目を伏せる。
「礼を言われることじゃない。俺のせいだから」
 信は淡々とした声で言った。

「……おまえのせいじゃない」
 咲耶は真っすぐに信を見たが、信は目を伏せたまま何も答えなかった。

 咲耶は少しだけ信に近づくと、袖で隠れた信の手を取った。
 信の瞳がわずかに揺れる。
「おまえのせいじゃない!」
 咲耶はもう一度信の目を真っすぐに見て言った。
 信はわずかに目を見張ったが、すぐに咲耶から視線をそらす。

「俺は……、もうここには来ない」
 信はそっと手を引くと、静かに口を開いた。
「これ以上、迷惑はかけられない」

 咲耶は目を見開く。

 信の口からそんな言葉が出るとは、咲耶はまったく想像していなかった。
(もう来ない……? 私とはもう会わないということか……?)
 咲耶は急速に喉元が苦しくなっていくのを感じた。
(これが……最後……?)
 体が一気に重くなった。


「…………嫌だ……」


 咲耶は自分の口からこぼれた言葉に驚き、慌てて口元に手を当てた。
 信に視線を向けると、信が珍しく戸惑っているのがわかった。
 咲耶の顔が一気に赤くなる。

「違う……! その……月に一度ここに顔を出すのは、最初からの約束だっただろう……? それに、私もおまえに頼みたいことがあるし……。だから、その……」
(私は何を言っているんだ……!)
 咲耶は早口で言いながら、自分の鼓動が速くなっていくのを感じた。

 信は戸惑ったように咲耶を見ていたが、やがてゆっくりと目を伏せた。
「いや、しかし……」

 続く言葉を聞きたくなかった咲耶は、思わず立ち上がった。
「だ、だから……『しかし』じゃない! 嫌だと言っているだろう!!」
 自分でも驚くほど大きな声が出ていた。
(あ、しまった……)
 咲耶はハッと我に返り、こわごわ信を見下ろす。
 
 初めて見る咲耶の様子に、信は明らかに呆気にとられていた。

 咲耶の顔から血の気が引いていく。
(私は一体何を…………)
 咲耶は泣き出したい気持ちになった。

 信はうつむくと、静かに口を開く。
「わかった……。これからもここに来る……」
 信の声は淡々としていたが、ひどく戸惑っているように感じられた。

「あ、ち、違う……。私は怒っているわけではなくて……」
 咲耶は慌てて座り直すと、信の顔をのぞき込んだ。
「その……、弥吉も戻ってきていないと聞いたし、心配なんだ……。頼むから、月に一度は来てくれ……」

 薄茶色の瞳が、一瞬だけ咲耶に向けられる。
「……わかった」
 信は静かに目を伏せた。
 二人のあいだに、重苦しい沈黙が訪れる。


「……今日はもう帰る。まだ顔色が悪いから、ゆっくり休んだ方がいい」
 信は咲耶を見てそれだけ言うと、静かに立ち上がった。

「あ、いや……、体調はもういいんだが……。わ、わかった……。またな……」
 咲耶は目を泳がせながら言った。
「ああ、……また」
 信はそう言うと足早に咲耶の部屋を後にした。


(ああああああ!)
 ひとりになった部屋で咲耶は頭を抱えた。
(私は何をやっているんだ……!)
 咲耶は顔から火が出そうだった。
 落ち着こうと、咲耶はゆっくりと深呼吸をする。
(私はなんであんなことを……!)

 しばらくして、咲耶は落ち着きを取り戻したが、なぜあんなことを言ってしまったのかは最後までわからないままだった。
 



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇




 信が玉屋の階段を降りようとすると、一階で手すりに寄りかかるように立っている楼主が見えた。
 信は階段を降りると楼主に会釈だけして、楼主の横を通りすぎる。

「……ありがとう」
 信の背中に、楼主は言った。
「咲耶を助けてくれて」

 信は足を止める。
「いや、あれは俺の……」

「それでも」
 楼主は信の言葉を遮った。
「感謝している」

 信はわずかに振り返ったが、そのまま何も言わず玉屋を後にした。


 楼主はゆっくりと息を吐いた。
(いいやつ……ではあるんだろうな……)

 楼主は腕組みをしながら、目を閉じる。

 信を助けたときから、楼主にはわかっていた。

 体中にある傷跡、毒に耐性はあるが薬も効きにくい体、異国の血を感じる薄茶色の髪と瞳。

 この男には関わらない方がいい、と。

 楼主は深いため息をついた。
「まぁ、忠告したところで、どうせ関わるんだろうしな……」


『私の幸せを、おまえが語るなよ……』
 楼主の頭の中で、懐かしい声が響く。


「わかってるよ、紫苑」
 楼主はゆっくりと目を開けた。
「咲耶にまで同じことは言われたくないからな……。俺はせいぜい見守ることに徹するさ……」
 楼主はそれだけ呟くと、身を翻し自分の部屋に戻っていった。
(とうとう江戸まで来たか……)
 宗助は、賑わう町を見ながら目を伏せた。
(この仕事が終わったら、江戸は離れよう……)
 宗助にとって活気に溢れたこの町は、どこか居心地が悪かった。

 紫苑が江戸へと旅立ってすぐ、宗助は奉公人の仕事を辞めた。
 紫苑の父親をはじめ一緒に働いてきた奉公人たちは皆、宗助を必死で止めたが、宗助の気持ちは変わらなかった。

 屋敷を出てすぐ出会った行商人から商売について学び、宗助は行商人として都市を渡り歩いた。
 生きることは、宗助が思うよりずっと簡単だった。
 漫然と生きる中で、宗助は何を見ても何をしても心が動かなくなっていった。
 生家に仕送りだけは続けていたが、もう二度と帰るつもりはなかった。
 大名屋敷も、生家のそばに咲く紫苑の花も、宗助はまともに見られる自信がなかった。

(さっさと終わらせて、大坂あたりにまた戻るか……)
 宗助は木の箱を背負い直し、歩き出した。

 しばらく歩いていると、見知らぬ年配の男が宗助の横を並んで歩き始めたことに気がついた。
 宗助はそっと男を見つめる。
 男は宗助の視線に気づくと、人の好さそうな笑顔を浮かべた。
「よう! あんた、どこから来たんだい? 見たところ行商人だろ?」

 宗助は商売用の笑顔を浮かべた。
「ええ、大坂の方から来たんです。ちょっと江戸で売らないといけないものがあって」
「へ~、大坂かぁ。最近、物は船で運ぶのが主流になってるから、あんたみたいに遠くから売りに来る背負商人は久々に見たよ」
「はは、時代遅れですかね。あなたも商人なんですか?」
 宗助は微笑んだ。
「ああ、俺の場合は店を構えて商売してるんだけどな。江戸では、行商っていうと桶に商品を吊り下げて近場で売る振売(ふりうり)が主流だから」
「そうなんですね。私も商売の仕方を考えないといけませんね」
 宗助は苦笑した。

 男は宗助の顔をじっと見つめる。
「? 私の顔に何かついてますか?」
 宗助は男を見て、首を傾げた。
「いや、なんでもねぇよ。いい男だから見惚れてたのさ」
 男はそう言うとニカッと笑った。
「それは、お世辞でも嬉しいですね」
 宗助は男に合わせて明るく笑った。

「これから仕事だろ? よかったら仕事終わりに、一緒に酒でも飲まねぇか?」
 男は人の好さそうな笑顔で言った。
「江戸での商売の仕方ってやつを教えてやるよ」

 宗助はそっと男を見つめた。
(悪い人間ではなさそうだな……)
 宗助は笑顔で頷いた。
「それはぜひお願いします。ついでに、美味しいお店を教えていただけると嬉しいですね。江戸に来たのは初めてで右も左もわからない状態なので」

「ああ、それなら、あそこの蕎麦屋にするか」
 男は少し先にある店を指さした。
「あそこは蕎麦も酒も絶品だからな」
「蕎麦ですか、いいですね。では、夕方ぐらいにあの店で待ち合わせでいいですか?」
「ああ。じゃあ、また夕方にな」
 男はそう言うと、軽く片手を上げて去っていった。
「ええ、また後で」
 宗助は軽く頭を下げると、目的地に向かって足を速めた。

(さっさと売って、さっさと江戸は離れよう……)
 宗助は目を閉じた。
 江戸に誰がいるのか、宗助はなるべく考えないようにした。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 男の言ったとおり、店の蕎麦は確かに絶品だった。
 宗助は蕎麦の美味しさに目を丸くした。
 隣にいる男がドヤ顔で宗助を見る。

「すごく美味しいですね」
「だろ?」
 男は満足げに頷く。

「あ、ところで今日の商売はどうだった?」
 男は宗助を見て聞いた。
「ああ、おかげ様で、予定より早く売り切ることができました」
 宗助は箸を止めて微笑んだ。
「そうか! そりゃあ、よかったな! やっぱり顔がいいってのは得だな」
「顔ですか? 顔は関係なく物が良かったんですよ」
 宗助は笑う。

「まぁ、そういうことにしておいてやるよ」
 男はそう言って笑うと、ふいに真剣な顔で宗助を見た。
「ところで、おまえ……。これから先はどうするつもりなんだ?」
 蕎麦をすすっていた宗助は男を見る。

「これから先……ですか? そうですね、とりあえず大坂の方まで行って、商売しようとは思っていますが……」
「大坂かぁ……。どうして大坂なんだ?」
 男は首を傾げる。
 宗助は思わず目を伏せた。
 大坂がいいわけではなかった。江戸でなければどこでもいいというのが宗助の正直な想いだった。

「おまえ、大坂の生まれってわけじゃないんだろ?」
 男は宗助の顔をのぞき込むように言った。
 宗助は少し強張った顔で男を見返す。

「あ、勘違いするなよ?」
 男は慌てた様子で首を横に振った。
「詮索するつもりはないんだ。ただ、少し……昔の自分を見てるような気持ちになってさ……」

「昔の自分ですか……?」
 宗助は眉をひそめた。

「言っておくが、昔の俺は結構いい男だったんだぞ! そんな嫌そうな顔するんじゃねぇよ! 失礼だろうが」
 男はムッとした顔で言った。
 宗助は思わず吹き出す。
「嫌そうな顔なんてしてませんよ」

 男は宗助の顔を見てフッと微笑んだ。
「そうやってちゃんと笑った方がいいぞ。嘘くさい笑顔でもいい男だが、今の顔の方がずっといい」
 宗助は男を見つめる。
(この人は何の目的で俺に近づいてきたんだ……?)

 男は宗助の心を読んだように、フッと笑った。
「ただ、心配だっただけだ。嘘くさい笑顔貼り付けて、根無し草みたいにふわふわしててさ。目的地も帰る場所もないって感じだったから」
 男の言葉に、宗助は目を伏せた。

「当たらずとも遠からずって感じだろ? 俺も昔そうだったからな」
 男は頭を掻いた。
「で、ここからが本題だ。おまえ遊郭に興味ないか?」

「……は?」
 宗助はポカンとした顔で男を見つめた。
(真面目な話かと思えば、何の話だ……?)

「あ、勘違いするなよ。遊郭の楼主になる気はないかって話だ」

「遊郭の楼主??」
 宗助は眉をひそめた。

「実はさ、玉屋って遊郭をやってる爺さんが今死にかけてるんだよ。楼主がいなくなったら、そこにいる遊女たちが路頭に迷うだろう? だから、爺さんは今楼主をやってくれる人間を探してるんだ」
 男の言葉に宗助は首を傾げる。
「なんで俺にそんなことを話すんですか?」

 男は笑った。
「まぁ、まずは地に足をつけて、どこかに根付いてみたらどうかって提案だ。帰る場所っていうのはやっぱりあった方がいいと思うからな」
「遊郭に根付くんですか……?」
 宗助は首を捻る。
「そうそう」
 男は明るい声で言った。
「遊郭なんてのは裏も表も腹の探り合いだからさ、おまえみたいに嘘くさい笑顔で、テキトーに受け流す能力があるやつには打ってつけなんだよ」

 宗助は呆気にとられた顔で男を見る。

「楼主はさぁ、別名忘八(ぼうはち)って言われてるんだ。仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の八つの徳目、すべてを失った者って。まぁ、失ってないとできない仕事ってことだ。おまえ、大半は失ってそうだったからな。それで声をかけたんだ」
 男が二カッと笑った。

 宗助は唖然とした顔で男を見つめていたが、しばらくしてフッと笑った。
「こんな失礼な口説き文句は初めてです。いろんな意味でグッときました。さすが商売人ですね」
「だろ?」
 男は楽しそうに微笑んだ。
「確かに、今の俺には打ってつけの仕事かもしれません……」
 宗助は目を伏せた。
「考えてみます……」

「おう、考えてみてくれ」
 男は嬉しそうに笑った後、ふと寂しそうな顔で言った。
「忘八だって、人と関わるうちにいつか何か取り戻せるかもしれないからさ」

 宗助はすっかり冷めて伸びてしまった蕎麦を見つめた。
「どうでしょうね。失ったものは……もう二度と戻りませんから……」
 宗助はそっと息を吐いた。
 蕎麦の汁に、泣き出しそうな宗助の顔が浮かび、静かに揺れた。
 楼主の仕事を勧められた数日後、宗助は玉屋の楼主になることを引き受けた。
 楼主から引き継いだ仕事は大変ではあったが、宗助がこなせないほどのものではなかった。

 虚ろな目をした遊女、値踏みするように遊女を見る客、狡猾な遊郭の楼主たちに対応しながら、宗助はただ淡々と仕事をこなしていた。
 華やかな吉原の裏側は仄暗くひどく澱んでいたが、痛める心を宗助は持ち合わせていなかった。

 宗助は静かに目を伏せる。
(この一年で楼主が忘八と言われる理由はよくわかった……。確かに俺には向いているのかもしれないな……)
 宗助はそんなことを考えながら、片手で顔を覆った。
(まともな感覚がある人間にこの仕事はできない……)

 ふいに虚ろな目で客をとる遊女の顔が頭に浮かび、宗助はきつく目を閉じた。
 なぜかその姿が紫苑に重なって見えた。
 一度入ったら年季明けまで出られない吉原と、一度入ったら二度と出ることはできない大奥。
 生活の質は違えど、どちらも籠の鳥になるという意味では同じだった。

 宗助はそっと息を吐いた。
 仕事の手を止め、玉屋の外に出るため立ち上がる。

 吉原の大門が締まってから随分経ち、客も遊女も寝静まっている時間だった。
 大門が開くのもまだ先なため、玉屋は今誰もいないかのようにひっそりと静まり返っていた。
 宗助は玉屋の正面の入口から外に出る。
 提灯も消えた見世の前は暗く、夜明け前の空気は肌に冷たかった。

「何も感じない俺は……やはり忘八なんだな……」
 見世の壁に寄りかかりながら、宗助はひとり呟いた。
 冷たい風が、宗助の頬をそっと撫でる。

「忘八……ですか」
 ふいに暗闇の中から声が聞こえた。

 宗助は息を飲み、慌てて声のした方を見る。
 暗闇の中にぼんやりと男の姿が浮かび上がる。

(人が……いる気配はなかったんだが……)
 宗助は呼吸を落ち着けると、男に笑顔を向けた。

「すみません……。人がいるとは思わなくて。独り言です。うちに何か御用ですか?」
 宗助はそう言いながら、男を注意深く観察した。

 どこにでもありそうな安物の着物は着ていたが、身なりは整っており、落ち着いた雰囲気から物乞いや物取りの(たぐい)ではないと、宗助は判断した。

「ええ、あなたに用が」
 男は静かに答えた。
 宗助は首を傾げる。
 男は商人なのか、背中に何か背負っていた。

「あの……あいにく贔屓にしている店があるもので、新しく何か仕入れることは……」
 宗助は申し訳なさそうな顔で男を見る。
 男の表情はまったく変わらなかった。

千代(ちよ)(かた)様からの言づてです」

「……え?」
 宗助は眉をひそめる。
「えっと……、それはどなたですか?」

 男は何も言わず、着物の袖口に手を入れた。
 袖口から取り出したのは、一輪の花だった。
 紫の小さな花びらを広げたその花は、宗助が見ることを恐れていた花だった。

 宗助は目を見開いた。
「…………紫苑……の花ですか……?」


『紫苑の花を見たときは……ほんの少しでいいから……私のこと、思い出してくれ』
 紫苑の言葉が、頭の中に響く。


 宗助は目を泳がせた。
「えっと……、これは……どういう……」
 宗助の声はかすれていた。

 男は静かに袖口に花を戻す。
「千代の方様からの言づてです。……『守ってほしい』と」
「……守る……?」
 宗助は男を見つめた。
 男は小さく頷くと、背負っていたものを注意深く下ろし慎重に両腕で抱えた。

「な!?」
 宗助が息を飲む。
 男が両腕で抱えていたのは、まだ一つにもなっていないであろう赤子だった。
 赤子は身じろぎひとつせず、男の腕の中で静かに眠っていた。

「こ、この子は……?」
 宗助は赤子を起こさないように、声をひそめて男を見た。

「この方は毒を盛られて命が危うくなったため、千代の方様がこの方は亡くなったと偽って奥の外に出しました。千代の方様があなたに『この子を守ってほしい』と」
 男は淡々と語った。
 宗助は驚きで言葉が出なかった。

(毒……? 命が危うく……? 俺に守ってほしい……?)
「何を……言って……」
 宗助は頭を抱えた。
 理解が追いつかなかった。

「毒はもう大丈夫ですが、すでにこの方は亡くなったことになっています。帰る場所はありません」
 男は淡々と言った。
「な!?」
 宗助は男を見つめる。
「……わかっているのか? ここは吉原だぞ……?」

 男は静かに頷いた。
「ええ、吉原ほど見つかりにくい場所はないでしょう。それに、吉原であればたとえ見つかっても連れ戻される可能性は低いでしょう」

 宗助は思わず口を開きかけたが、静かに唇を噛む。
 男が言いたいことはわかった。

 宗助は戸惑いながら、男の腕の中の赤子を見る。
 そこには確かに紫苑の面影があった。
 宗助は頭を抱え、その場にしゃがみ込んだ。
「どうしろって言うんだ……」
 宗助は絞り出すように呟いた。

「千代の方様からの残りの言づてです。『この子に自由を。自由に生きさせてやってほしい』と」

 宗助は顔を上げ、男を見上げる。
「自由……?」
「ええ、自由に生きられるようにしてほしいと」

 宗助は目を伏せる。
 それは、紫苑自身の願いのようにも感じられた。
 宗助は拳を握りしめる。


(そうか……。それが……おまえの願いなら……)

 宗助はゆっくりと立ち上がった。
「わかりました……。それが……願いなら……」
 宗助は男を見つめた。

 男は少しだけ頷くと、腕の中の赤子を宗助に差し出す。
 宗助は慎重に赤子を抱きしめた。
 赤子は見た目よりも少しだけ重く、そしてどこまでも温かかった。
 宗助の目に何かがこみ上げる。

「この子……名前は……?」
 宗助はこみ上げるものを抑えるように、少しだけ上を向いて言った。

「桜様です」
「さくら……?」


『おまえの一番好きな花だもんな』
 桜の花びらが舞う中、微笑んだ紫苑の顔が鮮やかに頭の中に蘇る。

「そう……ですか……」
 宗助はなんとかそれだけ口にした。

「ええ。千代の方様にとって、大切な思い出の詰まった花だそうです」
 男は淡々と言った。

 上を向いたままの宗助の目尻から静かに涙がこぼれ頬を伝う。
「そう……なんですね……」


「ええ」
 男はそれだけ言うと、静かに後ろに下がった。
「では、私はこれで失礼します」
 男は音もなく暗闇の中に姿を消した。


 残された宗助は、腕の中の赤子を見つめる。
 宗助は壊れ物を扱うように、そっと赤子を抱きしめた。

「桜……。おまえは必ず自由に……! 必ず守るから……!」

 腕の中の赤子は身じろぎひとつせず眠り続け、宗助にただ温もりだけを伝えていた。
 宗助は、桜を抱きかかえて玉屋の中に戻った。
(……よく考えたら、赤子ってどうやって育てるんだ……?)
 宗助は急速に現実に引き戻されていくのを感じた。
 弟の世話はしていたが、さすがに赤子の頃から世話はしていなかった。
(どうしたら……)
 宗助は入口に立ったまま、桜を見つめて途方に暮れた。

 そのとき、階段が軋む音がした。
 誰かが二階から下りてきたようだった。

「楼主様……?」

 階段を下りた遊女は、入口で立ち尽くしている宗助を見て眉をひそめた。
「こんな時間にどうされたのですか?」
 遊女は眠そうに目をこすりながら、宗助に近づいた。
「その抱えていらっしゃる荷物は一体…………」
 遊女はそう言いながら、宗助の抱えていたものをのぞき込み、息を飲んだ。

「あ、赤子!?」
 遊女は目を丸くすると、赤子と宗助の顔を交互に何度も見た。

(あ、俺の子どもだと思われているのか……!)
 宗助は慌てて首を横に振る。
「あ、この子は……その……見世の前に……捨てられていて……」
「え!?」
 遊女は驚愕の表情で宗助を見た。
「こ、こんな赤子をですか!? し、信じられない……! こんな、まだ自分で何もできない子を置いていくなんて……!」
 遊女の声は明らかに怒りを含んでいる。

 宗助は少し意外に思った。
 いつも虚ろな目で笑顔を貼り付けていた遊女が、こんなにも感情を露わにするところを、宗助は初めて見た気がした。

 そのとき、宗助の腕の中で眠っていた桜が目を覚ました。
 ぼんやりとしていた桜はゆっくりと宗助に目を向ける。
 見知らぬ男の顔を見たせいか、桜の顔はみるみるうちに歪んでいく。
(あ、マズい! 泣く!)
 次の瞬間、桜の泣き声が見世に響いた。
(ど、どうしたらいいんだ……!)
 宗助がたどたどしく桜の背中をポンポンと叩いたが、桜は一向に泣き止む気配がなかった。

「楼主様、何をしているんですか。ほら、赤子をこちらに」
 遊女は宗助にそう言うと、少し強引に宗助の腕から桜を奪い、そっと腕に抱いた。
 遊女は慣れた手つきで体を揺らしながら、桜の背中を優しくポンポンと叩く。
 包み込まれるような抱き方に安心したのか、桜は泣くのを止めて、再びウトウトとした表情を見せた。

「す、すごいな……」
 宗助は思わず、遊女を見つめた。
「ここに来る前は、小さな妹や弟の子守りをずっとしていましたからね」
 遊女は宗助を見るとふふっと笑った。
「それにしても……。楼主様の慌てっぷりたら……。おろおろしているところなんて初めて見ました。楼主様も人間だったんですね」
 遊女は楽しそうに笑った。

 貼り付けたような笑顔とは全く違う、本当に笑った遊女の顔を、宗助は初めて見た。

「それは……。そんなに笑うな」
 宗助は少し顔を赤くしながら言った。

 反論しようと宗助が口を開きかけたとき、宗助は二階がざわざわしていることに気がついた。
 客をとっていなかった遊女たちが泣き声を聞き、一斉に一階に下りてきていた。

「今の泣き声はなんですか……?」
「あれ、楼主様……。そんなところで何を……?」
「え、あんたが抱いてるの、赤子かい!?」
「え!? なんで赤子がここに!? 誰の子!?」
「え、可愛い……。なんでこんなところに……」

 桜は一気に遊女たちに取り囲まれた。
 宗助に代わって遊女が事情を説明すると、みんな驚愕の表情を浮かべた。

「こんな小さい子を捨てるなんて、鬼畜すぎる……」
「これからここで育てるってことかい?」
「ここで育てられる……?」
「だいたいこの子いくつなんだろ……」
「一つになる前じゃないか?」
「それくらいの時期だと歯もないんじゃない? 何か食べられる?」
「さっき見たら、この子歯は四本あったんだ。だから、柔らかいご飯とか細かくした野菜とかは食べられるよ、きっと」
「へ~、そうなのか。あんた詳しいね」
「まぁ、小さい子の面倒は慣れてるから」
「じゃあ、この子が起きたときのために、早めに飯炊きに伝えてくるよ!」
「ああ、頼むよ」

 宗助は遊女たちのやりとりを遠巻きに見ながら、ただただ呆気に取られていた。

「布でおむつを作ってやらないとね」
「ああ、そうね。どうせもう眠れそうにないし、今から作るか」
「そうだね。すぐ必要になるし、たくさんいるだろうから」
「それなら私も手伝うよ。作り方教えてくれるかい?」
「私もお願い」

 遊女たちの声で目を覚ましたのか、二階からまた誰かが下りてくる気配がした。

「あ、太夫! すみません、起こしてしまいましたか?」
 遊女のひとりが声を上げた。

「大丈夫。気になって下りてきただけだから」
 太夫はにっこりと微笑むと、遊女たちの中心にいる桜の元に歩いていった。

「可愛い子ね……」
 太夫はそっと、桜の頬を撫でる。
「抱かれたままでは落ち着かないだろうから、とりあえず布団に寝かせてあげましょうか。今、私は座敷にいるし、私の部屋の方は使っていないから、よければそこに寝かせてあげて。あそこが一番広いでしょう?」

「そうですね! 寝かせにいきましょう」
「私も一緒に行っていい?」
「私も!」
「いいけど、起こさないように静かにね」

 遊女たちは笑い合いながら、二階へと上がっていった。

 宗助は呆気に取られたまま、桜と遊女たちを見送る。
 一階には太夫と宗助だけが残された。

「楼主様」
 太夫は宗助に微笑んだ。
「あの子……何か訳ありですか?」

「……え?」
 宗助はぎこちなく視線をそらした。

 太夫はフッと笑う。
「あの子が包まれていた布はすごく安物でしたけど、あの子の肌に直接触れる着物は、質素で少し汚してありましたが最高級のものでした。何か事情がある子のようですね……」

 宗助の顔がサッと青ざめる。
 太夫は目を伏せた。
「特に詮索する気はありません。それより……こんなに活き活きしたみんなの顔……初めて見ました」
 太夫は目を細めた。
「あ、ああ。それは俺も……初めて見た」

 太夫はにっこりと微笑んだ。
「楼主様も含めてですけどね」
 太夫は小さく呟いた。

「ねぇ、楼主様。……たとえ光が見えなくても、守るべきものがあれば人は強く生きられるものなんですよ。見えなくても自分自身のここに光が宿るのです……」
 太夫は自分の胸に手を当てた。
「みんなのこの光が消えないように、あの子を大切に育てていきましょう。……ここの、みんなで」
 太夫はそう言うと、にっこりと微笑んだ。

 宗助は少しだけ目を見張った後、静かに目を伏せた。
「ああ、そうだな……。ありがとう……」

 太夫と宗助は少しだけ視線を交わすと二階を見つめる。
 玉屋に明るい光が差し込み始めていた。
 宗助が気がつき振り返ったときには、もうすでに夜はすっかり明けていた。
 桜が玉屋に来てから五年が経った。
 遊女たちに愛され、桜はすっかり玉屋に溶け込んでいた。
 十にも満たない子どもが売られてくる吉原で、年の近い者も少しずつ増え、桜もあと二、三年すれば禿になるのだろうと多くの遊女は思っていた。

「桜は本当に可愛いから、絶対太夫になるわね」
 遊女は長机で朝ご飯を食べながら、横に座る桜を見た。
「たゆう……?」
 桜は首を傾げる。
「見世の売れっ妓……一番の人気者ってことよ!」
「人気者……」
 桜は遊女を見つめる。
「人気者に……なった方がいいの?」
「え……」
 遊女は言葉を詰まらせた。
「えっと……人気者になった方が幸せになれると思うから……そうね……」
 桜は目を丸くする。
「人気者になったら幸せになれるの?」
 桜の目は輝いていた。

「え? え……っと……」
 遊女は助けを求めるように、向かい側でご飯を食べていた遊女を見つめた。
「ねぇ……、その方が幸せ……よね?」

「え!?」
 向かい側に座りぼんやりと二人の会話を聞いていた遊女は、突然話しを振られ困惑した表情を浮かべた。
 桜のキラキラした目が、向かい側の遊女に向けられる。
「う…………。えっと……そうね。嫌な客は断れるようになるし、自由がきくっていう意味では……幸せ……かな」

「そうだったんだ……」
 桜は納得したように何度も頷いた。
「じゃあ、私がみんなを人気者にしてあげる!」
 桜は眩しいほどの笑顔で言った。

「うん??」
 遊女たちは顔を見合わせた。
「どういうこと?」

「私がみんなを人気者にしたら、みんな幸せになれるんでしょう? だから、私が人気者にしてあげる!」
 桜は真っすぐな目で遊女を見つめると、嬉しそうに笑った。

 遊女たちは目を見開く。
「桜……」
 遊女の目に涙が浮かんだ。
「私たちはね……あんたがいてくれるだけで十分幸せなんだよ。だから、あんたが人気者になって、幸せになってくれたら、それでいいんだ」
 遊女が微笑むと溢れた涙が頬を伝う。

 桜はよくわからないという表情で、首を傾げた。


「何の話?」
 後ろから聞こえた声に、桜は振り返った。
「あ、(かすみ)姐さん」
 桜の声に、隣の遊女も涙を拭って振り返る。
「ああ、霞姐さん! いいところに! 桜が嬉しいこと言ってくれてさ……って、姐さんなんか顔色……悪くない?」
 後ろに立っていた霞は、土気色の顔をしていた。
「大丈夫なの……?」

 霞は困ったように微笑んだ。
「まぁ、よくはないけど……休むほどではないし……。まだ働けるわよ……」

 遊女たちは顔を見合わせる。
「無理しないでね」
 桜も心配そうな顔で、霞を見つめていた。

「ありがとう……。それより……」
 霞はそう言いかけたが、こみ上げるものを堪えるように口元に手を当ててうずくまった。
「霞姐さん!?」
 隣にいた遊女が思わず立ち上がる。
 霞は背中を丸めて、激しく咳き込んだ。
 呼吸さえうまくできていないその様子に、遊女は慌てて背中をさする。

「霞姐さん!? 大丈夫!?」

 遊女の声が聞こえているのかどうかもわからないほど、霞は咳き込み続けていた。

 ようやく咳が落ち着き、霞はゆっくりと口元から手を離した。
 その瞬間、霞は目を見開く。
 手のひらは血で真っ赤に染まっていた。

「!? 姐さん……!」
 背中をさすっていた遊女は目を見開き、弾かれたように顔を上げた。

「霞姐さん、大丈夫なの……?」
 霞の手元までは見えていなかった桜は、立ち上がり霞の背中をさすろうと手を伸ばす。
 桜の動きに気づいた霞は、慌てて口元を手で覆うと、振り返らずに口を開いた。

「ダ、ダメ……!」
 桜は伸ばしていた手を止めた。

「どうして……?」
 桜は悲しげな顔で言った。

 霞は桜から距離を取るため這うように移動し、少し離れたところでよろけながら立ち上がった。
 悲しそうな桜を見て、霞は手で口元を覆ったまま小さく微笑んだ。
「今……私……ちょっと汚れてるからさ……。ごめんね……、桜」
 霞はそれだけ言うと、三人に背中を向けた。

「私……このまま行燈部屋に入る……。絶対誰にも移したくないから……。楼主様にこのこと伝えてくれる? それで、誰も部屋に近づけないで……」
 霞は少しだけ遊女の方を振り返って言った。

「姐さん……」
 遊女たちの目に涙が浮かぶ。

 霞は遊女たちを見て少しだけ微笑むと、そのまま振り返ることなく去っていった。

「ねぇ……、霞姐さんどうしたの……?」
 桜は遊女を見上げた。
 二人の遊女は思わず目を伏せる。
 二人は最後まで何も答えることができなかった。




◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇




 霞が行燈部屋に入ってから七日が過ぎた。
 桜は、ほかの遊女たちが寝静まるのを待って、部屋を抜け出し行燈部屋の前にやってきた。
 遊女たちも宗助も、桜が行燈部屋に近づくことを許さなかったため、桜は気づかれないように来るしかなかった。

 桜は行燈部屋の戸を軽く叩く。
「霞姐さん……、起きてる? ……大丈夫?」
 桜は声を掛けると、静かに返事を待った。

 行燈部屋からは物音ひとつしなかった。

「霞姐さん……、起きてる? ねぇ、入っていい?」
 桜はそう言うと戸に手を掛けた。

「ダ、ダメ……!!」
 行燈部屋の中からかすれた声とともに、バタバタと走る音が聞こえた。

 戸が開かないように、霞が行燈部屋の中から戸を押さえたのがわかった。

「どうして……?」
 桜は戸に額をつけてうなだれた。
「私……病気なの……。聞いたでしょ? 移る病だからあんたは近づいちゃダメなのよ」
「どうして……? 病気は移ったってお医者様が治してくれるんでしょ? ちょっと苦しいくらい大丈夫。霞姐さんのそばにいる」

 扉の向こうで、霞が息を飲む。
「そうね……。治るかもしれないわね……。でもね……、私が嫌なのよ……。桜には少しも苦しんでほしくないの……」
 霞の声は涙でかすれていた。

「霞姐さん……、泣いてるの? ひとりで寂しいの?」

 桜の言葉に、霞は少しだけ笑った。
「私はね……、あんたが見世に来てから、一度だって……寂しかったことはないのよ。あんたはね……私の光なんだ……」

「光……?」

「あんたが初めて笑った日……、初めて立った日、ひとりで歩いた日……初めて名前を呼んでくれた日……。全部覚えてる……。全部が……キラキラ輝いてるの……。嫌な客が来た日も、この仕事で桜に美味しいものを食べさせてあげられると思えば……何もツラくなかった……。あんたが来た日から、私はずっと幸せよ……!」
 霞は言葉を切ると、激しく咳き込んだ。

「霞姐さん……!」

「だ、大丈夫よ……。誰からも愛されなくても、みんなから忘れられても……、愛せたから……! あんたの成長する姿が……見られないことは少し……心残りだけど……。それは、欲張り過ぎだからね……」

「……どうして見られないの? ねぇ……、霞姐さん……」
 桜はそう言うと戸に手を掛けた。

「桜!?」
 そのとき、桜の後ろで宗助の声が響く。
「おまえ……ここで何してるんだ……!」
 宗助は桜の手を掴んだ。

「ここには来ちゃダメだと言っただろう? 部屋に戻りなさい……」
 桜は宗助を見上げた。
「でも! 霞姐さんが! ……ねぇ、姐さんはお医者様が治してくれるんでしょ? 早く治してもらって! 霞姐さん苦しそうなの!」

 宗助は目を見張った後、苦しげに目を伏せた。
「そう……だな……」

「ねぇ、早くして! 霞姐さん、泣いてるの!」
 桜は宗助の着物を引っ張った。
「桜……」
 宗助は言葉を詰まらせた。

「……桜」
 扉の向こうから、霞の声が響く。
「私はね、悲しくて泣いたんじゃないのよ……。桜が来てくれて……嬉しくて泣いたの……。早く元気になれるように頑張るから……。もう部屋に戻りな」
 霞の声は優しく包み込むように温かだった。

「霞姐さん……」
 桜はそっと戸に触れる。

「楼主様……、後のこと……頼みます」
 霞は震える声でそれだけ口にした。

 宗助は唇を噛んだ後、ゆっくりと口を動かした。
「ああ……、わかった」


 桜は宗助に連れられて部屋に戻った。
 その七日後、霞は行燈部屋で静かに息を引き取った。
 行燈部屋の戸が開け放たれていた。
 遊女たちが行燈部屋の前ですすり泣く中、桜はその横でただ立ち尽くしていた。

「桜、大丈夫か?」
 宗助は桜の横にしゃがみ込むと、そっと桜の肩を抱いた。
 桜は宗助を見ることもなく、ただ誰もいなくなった行燈部屋を見つめ続けていた。

 やがて遊女たちが昼見世の準備のためその場から離れると、桜はそっと口を開いた。
「……どうして?」
「え?」
 宗助は桜の顔をのぞき込む。
 桜はただ行燈部屋を見つめ続けていた。

「どうしてお医者様は治してくれなかったの?」
 桜の言葉に宗助はわずかに目を見張ると、静かに目を伏せた。
「お医者様でも治せる病気と、治せない病気があるんだよ……」

 桜は宗助の言葉を聞いてもまったく表情を変えなかった。
 子どもらしくない桜の表情に、宗助は言いようのない不安に襲われた。
「さく……」
「どうして霞姐さんは病気になったの?」
 宗助の言葉を遮るように、桜が聞いた。
 桜の視線はずっと行燈部屋に向けられたままだった。
「……客から移ったんだと思う……」

「客……」
 桜は少しだけ目を伏せた。
「どうしてお客様は病気なのにここに来たの?」
「それは……」
 宗助は言い淀む。
「自分が病気だと気づいていない客も多いし……、病気だという証拠もないのに来るなとも言えないから……」
「どうして来るなと言えないの?」
 桜の声は淡々としていて、桜に宗助を責める意図がないのはわかっていたが、桜の言葉は宗助の胸をえぐった。

「それは…………力がないからだ」
 宗助は目を伏せた。
「見世にも……俺にも、遊女たちにも……」

「力って何?」
 桜の言葉に、宗助が視線を上げると、桜は真っすぐに宗助を見ていた。

「力は……」
 宗助は続く言葉を見つけることができなかった。
 以前の宗助は、守る力とは剣術や武術といった物理的な力だと思っていた。
 しかし、物理的な力ではどうにもならないことがあると知り、宗助にはその答えがわからなくなっていた。
 宗助はきつく目を閉じる。
「すまない……。わからない……」

 沈黙が二人を包んだ。
「そうか……。力があればいいのか……」
 桜がポツリと呟いた。
「え?」
 宗助は目を開けて桜を見る。

 桜は真っすぐに宗助を見つめ続けていた。
「楼主様、霞姐さんの体……桜の木の下に埋められる?」
「え?」
 宗助は目を丸くする。
「あ、ああ……。移る病だから燃やして供養してもらうが、骨なら……。でも、どうして……」

 桜は宗助に向かって少しだけ微笑むと、再び行燈部屋に目を向けた。
「霞姐さん、桜が好きだったから。それに、桜のそばなら人がたくさん集まるから、姐さんも寂しくないでしょう? 私もほかの姐さんたちも春には会いにいけるし……」

 宗助は目を見開いた。
「そうか……。そうだな……」

 桜は行燈部屋を見つめ続けた。
「霞姐さんには明るい陽の差す場所で眠ってほしいの……。必ず会いに行くから……。私の成長する姿、ちゃんと見ていてね……」

 日は高くなり、見世には光が差し込んだ。
 開け放たれていても行燈部屋の奥はやはり薄暗かったが、戸からは確かな光が差し込んでいた。
 宗助の隣で、桜は見世の入口を見つめていた。
 宗助はそっと桜の横顔を見る。
 八つになった桜は背丈や髪が伸び、可憐な少女へと成長していた。
(ますます紫苑に似てきたな……)
 宗助がそんなことを考えていると、桜が静かに宗助を見上げた。

「どうした? 桜」
 宗助は桜の横にしゃがみ込むと桜の口元に耳を寄せた。

 桜はひとりの客に視線を向ける。
「あの人……たぶん病気。顔色が悪いし、さっき変な咳もしてた」
 桜の言葉に、宗助は目を丸くした。
「……え?」
「見世に上げるの? 初めての人でしょ? 上げるにしても今日だけで切った方がいいと思う。それからあっちの人は……」
 客を見ながら淡々と話す桜を、宗助は呆然と見つめた。

「ねぇ、聞いてるの?」
 桜は眉を寄せて、宗助を見た。

「え、あ……そうだな……。あの客、今日は顔合わせだけだから、様子を見て病気だとはっきりすれば切ることにするよ……」

「ありがとう。それで、あっちの人は良い着物は着てるけど、お金がなさそう。草履はボロボロだし、肌に艶がないからあまり十分な食事がとれていないのかも……。悪い人ではなさそうだけど、無理はさせない方がいいと思う。それから……」
「ちょ、ちょっと待て、桜」
 宗助は思わず桜の言葉を遮った。
「何?」
 桜は不思議そうに首を傾げた。

「何……じゃない。おまえ……急にどうした?」
 宗助は桜の両肩に手を置くと、桜を正面から見つめた。

「急にじゃないよ。ずっと見てきたんだから……」
 桜は不満げな顔で言った。
「確かに見てはいたが……」
 宗助は桜を見つめる。

 霞が亡くなってから、桜は見世が始まるとずっと入口の近くに立ち、入ってくる客を出迎えるようになった。
 一人ひとりの客に笑顔で挨拶をしていたため、遊女の真似事をするのが楽しいのかと宗助は微笑ましく見ていたが、桜の考えは宗助が思っていたものとまったく違うようだった。

(何のために出迎えをしているのか聞いたことはなかったが、ずっと客を一人ずつ観察していたのか……)
 宗助は信じられない想いで桜を見つめた。
(まだ八つだっていうのに……)

 宗助がずっと見つめていると、桜は少しだけ目を伏せた。
「できる限りのことはしたいんだ……」
「え?」
「病気になった人は、私には助けられないけど……、病気にならないように手を打つことはできると思うから……」

 桜の言葉に、宗助は目を見開いた。
(こんな幼い子が、自分のできることを必死でやろうとしているのに……、俺は……)
 宗助は思わず顔を伏せた。


「それに、私ももうすぐ禿になるから、いろいろ勉強しないと……」
 桜の言葉に、宗助は弾かれたように顔を上げる。
「え!?」
 宗助の驚いた顔に、今度は桜が目を丸くする。
「え? なんでそんなに驚くの……? そろそろ禿として見世で働き始める頃でしょ?」
 宗助は慌てて首を横に振る。
「いやいやいや、おまえは売られてきたわけじゃないんだから、見世で働く必要はないんだ。おまえはここで暮らしているが、自由に生きていいんだよ」

「え!?」
 桜は目を丸くする。
「いや、いくら拾われたといっても見世で働くのが普通なんでしょ? 姐さんたちもみんな私が遊女になると思っているし……」

「楼主に拾われた人間なんてほとんどいないんだから、決まりはないさ。それに、おまえが自由に生きられると知れば、むしろ遊女たちは喜ぶはずだから……」

 宗助の言葉に、桜はしばらく戸惑っていたが、やがて何を思ったのか少しだけ笑った。
「それでも、私は遊女になるよ」
「なんでだ!? おまえはここしか知らないから、遊女になるしかないと思っているだけだ。もっと外の世界を知って、もっと自由に生きていいんだ」
 宗助は桜の両肩を揺する勢いで、両手に力を込めた。

 宗助の必死な顔に、桜は眉をひそめる。
「どうして、そんなに自由にこだわるの……? 自由って言葉で縛ろうとしているのは楼主様でしょ? 私がなんて言えば満足なの?」
 桜はじっと宗助を見つめた。
「そ、それは……」
 宗助は言葉を詰まらせた。

「外のことはみんなから教えてもらって知っているから大丈夫。私は自由に選んだ上で遊女になりたいの!」

「…………どうして遊女なんだ?」
 宗助はなんとかそれだけ口にした。
 遊女が決してラクな仕事ではないことは、そばで見ている桜が一番わかっているはずだった。

 宗助の言葉に桜は微笑む。
「ここを守りたいから。みんなが笑っていられるように、私は力を手に入れるの」
 宗助は目を見開いた。
「力……?」
「そう、私は人気者になるの。売れっ妓だっけ? 私は吉原一の遊女になるの。ここでの力ってそういうことでしょ? 姐さんたちが嫌な客や病気の客を切っても問題にならないくらい、私が吉原一稼げばいい。この見世は私が守るから、みんなは安心して幸せになればいい」
 桜はそう言うと胸を張った。


『この家は私が守るから。幸せになれ、宗助』
 宗助の頭の中で懐かしい声が響く。
 目の前の桜とあの日の紫苑がゆっくりと重なっていく。

 宗助の見開いた目に涙が溢れた。
「え!? 何!? ど、どうしたの……?」
 宗助の涙を見て、桜が慌てて聞いた。

 宗助は桜の肩から手を離し、片手で顔を覆った。
 宗助はうなだれると、そっと息を吐く。
「血って怖いな……」
 宗助の呟きは小さく、桜の耳には届かなかった。

「え? ……何? なんて言ったの?」
 桜が宗助の口元に耳を寄せる。

 宗助は急いで涙を拭うと、顔を上げて桜を見た。
「いや……、なんでもない……。ありがとう、桜。……俺ももっとしっかりしないとな」
「ああ、それは確かにね!」
 桜はうんうんと何度も頷いた。
 宗助は苦笑する。
(俺は……八つの子どもに頼りないと思われているのか……)


「あ、そうだ……。禿になるなら、桜も源氏名がいるな……」
 宗助は桜を見つめた。
 出生が出生だけに、桜の名でそのまま見世に出ることはできれば避けたかった。

「『咲耶』にでもするか」
「『咲耶』?」
 桜はなぜか少し嫌そうな顔をした。
「ああ、桜の語源になった美しい女神の名前だよ。『木花咲耶姫(このはなさくやひめ)』の『咲耶』」
「あ……うん。知ってはいるけど……」
「嫌か? 元の名前に近いから呼ばれても違和感がないだろうし、見世を守る女神って感じでいいと思ったんだが……」
 宗助は少し残念そうな顔をした。

「ああ……」
 桜は何か考えているようだったが、やがて諦めたように息を吐いた。
「……わかった」
「じゃあ、これからは咲耶と呼ぶようにするよ。みんなにもそう伝えておいてくれ」
「あ、……うん」
 桜はどこか暗い表情で頷いた。

 桜は名前が『桜』ということもあり、遊女たちに教えられてその神話を知っていた。
 それに対して、宗助は『咲耶』について桜の語源の女神ということしか知らなかった。

「はぁ、なんでそんな縁起の悪い名前に……」
 咲耶は宗助に気づかれないように、こっそりと小さなため息をついた。
「正直、こんなに早く手紙を書き切って、六日目に復帰するとは思わなかったよ」
 楼主は、髪を結う咲耶の後ろ姿を見ながら呆れた顔で言った。
 咲耶は鏡越しに楼主を見るとフッと笑ったが、その目はまったく笑っていなかった。
「ああ、私も想像していなかったさ。三日で書き切った結果、腕と肩が痛くて二日も寝込むとは……。おかげさまで、楼主様の思惑通り、五日もかかってしまいましたよ」
 咲耶の言葉に、宗助は肩をすくめる。
「勘違いするな。俺の予想は普通に書いて七日だった。寝込むのは予想外だ」

 咲耶は鏡越しに楼主を軽く睨む。
「このタヌキが……」
 咲耶は小さく呟いた。
「おい、聞こえてるぞ」
 楼主は腕を組み、呆れた声で咲耶に言った。
「その口の悪さはここだけにしておけよ。今日の客、あのお奉行様だろう? おまえにはもったいないくらいの出来たお客なんだから、丁重にな」

 咲耶はフンと鼻を鳴らす。
「当たり前だ。そもそも頼一様と話していて、嫌味を言うような事態になるわけがないだろう」
「まぁ、それもそうか……」
 楼主は苦笑した。
「ほら、もう邪魔になるだけだから一階に下りていてくれ。もう時間もないんだ」
 咲耶は鏡を見たまま、虫を追い払うようにシッシッと手を振った。

(なんてやつだ……)
 楼主は小さくため息をついた。
「わかったよ。一階にいるから、準備ができたら下りてこいよ」
「ああ、わかった」
 咲耶は鏡を見たまま、軽く返事をした。

 楼主は咲耶の部屋を出ると、階段に向かう。
(ああ、小さい時はもっと可愛かったのに……。いつからあんなに生意気になったのか……)
 楼主がため息をつきながら階段を下りていると、男衆が慌てて見世の中に入ってくるのが見えた。

「おい、どうしたんだ?」
 楼主が男衆に声を掛けると、男衆はホッとしたように楼主に駆け寄った。

「楼主様、見世の前にいずみ屋さんがいらっしゃっています。それと……なぜか露草太夫もご一緒で……」
 男衆はほかの見世の太夫が玉屋に来たことに戸惑っているようだった。
「ああ……露草太夫が……」
 楼主は少しだけ笑った。
(露草太夫がいずみ屋さんと結婚して内儀になるって噂は本当なのかもしれないな……。相手が露草太夫では、いずみ屋さんは完全に尻に敷かれそうだが……)
 楼主はそんなことを考えながら、階段を下りると入口まで行き見世の戸を開けた。

 戸を開けると、青い顔をしたいずみ屋の楼主と微笑みを湛えた露草太夫が立っていた。
「これはこれは、いずみ屋さん。それに露草太夫も。どうされましたか?」
 楼主は笑みを浮かべて二人を出迎えると、見世の中に通した。

「玉屋さん、お忙しい時にすみません……」
 いずみ屋の楼主は、青い顔に貼り付けたような笑顔で言った。
「今は咲耶太夫の道中の準備で忙しいと私は止めたんですが……、うちの露草がどうしても咲耶太夫に会いた……じゃない、咲耶太夫が心配だと言ってきかなくて……。あの……こちらお見舞いの品です……」
 いずみ屋の楼主は深々と頭を下げると、手土産を差し出した。

(なるほど……、すでに尻に敷かれていたか……)
 楼主はひとり納得する。
「ああ、お気遣いありがとうございます」
 楼主は手土産を受け取ると、露草の方に視線を向ける。
 露草は今日は見世に出ないのか髪を下ろし地味な着物を着ていたが、それでも隠せないほどの華やかな色気が溢れていた。
「露草太夫も、咲耶を心配してくださったようでありがとうございます。まもなく下りてくると思いますので、ご挨拶させますね」

「いえいえ、そんなお気遣いなく。どうしても心配で来てしまっただけですからぁ。ひと目元気そうな姿が見られれば満足ですわ」
 露草はそう言うとにっこりと笑った。

(露草太夫はさすがの貫禄だな……。こういうしなやかで柔らかい対応は、咲耶も身につけてほしいものだが……)
 楼主は心の中でため息をついた。
(露草太夫が内儀になったら、いずみ屋は一段と大きくなりそうだ……。うちも負けないようにしないとな……)

 そのとき、露草太夫の視線が二階に向けられたのがわかった。
「咲耶ちゃん!」
 露草が頬を赤らめて、階段上に姿を見せた咲耶を呼んだ。

「露草太夫……。それに、いずみ屋さん……。どうされたのですか?」
 咲耶は二人に気づくと、営業用の上品な笑顔を浮かべた。
 久しぶりに華やかに着飾った咲耶は、皆が思わず息を飲むほど美しかった。

 優雅な動きで階段を下りた咲耶は、ゆっくりと露草のもとに歩み寄る。
「咲耶ちゃんが心配で来たの。もう大丈夫なの? 本当に火傷はなかった??」
 露草は咲耶の両肩に手を置くと、不安げな顔で聞いた。

「ご心配をおかけして申し訳ありません。火傷はしておりませんし、体調もすっかり良くなりました。楼主様がじっっくり休ませてくださったおかげです」
 咲耶は美しい微笑みを浮かべていたが、楼主は咲耶の言葉にある棘を、しっかりと感じていた。

「そう……。それならいいのだけど……。あまり無理をしてはダメよ」
 露草は咲耶の肩から手を離すと、気遣うような眼差しで咲耶を見た。
「ええ、ありがとうございます」
 咲耶は微笑むと、深々と頭を下げた。

「きっとこれは私の宿命だったのです」
 顔を上げた咲耶は、にっこりと笑いながら言った。
「宿命?」
 露草が眉をひそめる。
「ええ、私の名は木花咲耶姫からいただいたものなのですが……。あ、ご存じですか? あの花のように儚く()()()()()()()()()女神です」
 桜は口元に手を当てて、品よく微笑む。

 楼主は咲耶の言葉に、片手で顔を覆ってうつむいた。
(あいつ……、まだ根に持っていたのか……。謝ったのに……)

 木花咲耶姫の神話について楼主が知ったのは、咲耶の名を決めて数日経ってからだった。
 遊女たちが『本当にそんな名にするのか』と楼主のもとにやってきて神話について教えてくれたのだ。
 楼主は咲耶に名を変えようと提案もしたが、咲耶がこのままでいいと言ったため、その名のまま咲耶は禿になった。

「木花咲耶姫といえば、子を身籠った際に結婚相手に不貞を疑われ、潔白を証明するために火のついた小屋の中で出産したのが有名ですよね。私がいた茶屋が燃えたとき、楼主様は私が将来炎に包まれることを予見されていたのかと少し震えてしまいました」
 咲耶は楽しそうに笑っていたが、内容が内容だけに、露草といずみ屋の楼主は複雑な表情を浮かべていた。

 楼主はより深くうつむく。
(そんなこと予見しているわけがないだろう……! あいつ、相当根に持ってるな……)

「神話のように炎には包まれましたが、私はこうして無傷でした。これで宿命は乗り越えたと思っております」
 咲耶はそう言うと、ゆっくりと楼主の前に足を進める。
 楼主は咲耶の気配を感じて、そっと顔を上げた。
 目の前で咲耶はニヤリと笑う。
「あとは……見世を守る女神としての役割を果たすだけです。ね、楼主様?」

 咲耶のその表情は、以前よく目にしていた紫苑の表情によく似ていた。
(本当に……そういう顔はあいつにそっくりだな……)

 楼主は思わず苦笑した。
「ああ。今日からまたよろしく頼むよ、咲耶」
「ええ」
 咲耶は満足げに微笑んだ。

 咲耶は、露草といずみ屋の楼主に深々と頭を下げると、高下駄を履くために男衆とともに戸の方へと歩いていった。

 残された三人は顔を見合わせる。
「いやぁ、あの通り元気ですのでご安心ください……」
 楼主は苦笑しながら二人に言った。

「ははは……、元気そうでなによりです。玉屋さんもこれでひと安心ですね」
 いずみ屋の楼主はそう言って少しだけ笑うと、楼主の顔をチラリと見た。
「いやぁ、それにしても……、咲耶太夫は本当によく似ていらっしゃいますね……」


「……え?」
 楼主の顔から笑顔が消え、思わず声が漏れる。
 いずみ屋の楼主が、紫苑の顔を知っているはずがなかった。
 咲耶の出生は誰にも知られてはいけない。
 一瞬にして楼主の顔が青ざめた。
(いずみ屋さんは何か知っているのか……?)
「誰に……ですか……?」
 楼主は絞り出すように聞いた。

 いずみ屋の楼主は、不思議そうに首を傾げる。
「え? それはもちろん……玉屋さんにですよ」

 楼主は目を見開いた。

「…………え?」
(俺に…………?)

「前から思っておりましたが、あの嫌味な……じゃない……! ほ、ほら、話し方とか物の言い方なんか! 玉屋さんにそっくりですよ。やはり幼いときから長く一緒に過ごしていると似てくるものなんですかね……」
 いずみ屋の楼主は、高下駄を履こうとしている咲耶を見ながら、しみじみと言った。

 楼主は呆然と咲耶を見る。
(咲耶が…………俺に似ている……?)

 楼主が何も応えられずにいると、隣にいた露草がクスリと笑った。
「楼主様」
 露草に呼ばれ、楼主は露草に視線を向ける。
「当たり前ですが、人は血だけですべてが決まるわけではありません。生きていく中で、触れたものに染まりながらゆっくりと育っていくものです」
 露草はそう言うと、楼主に向かってにっこりと微笑んだ。
「咲耶太夫は、素晴らしい染まり方をしていると、私は思いますわ」

 楼主はわずかに目を見張った後、そっと目を閉じた。
「そうですか……。そう言っていただけると私も少し……救われます」
 楼主の言葉に、露草は微笑んだ。

 三人は咲耶を見つめる。
 咲耶の道中の準備が整いつつあった。

 しばらくして玉屋の見世の戸が開け放たれた。
「咲耶太夫、おね~り~」
 見世の外で歓声が上がった。

 咲耶は背筋を伸ばし、視線を上げる。
 多くの人々が見守る中、咲耶は高下駄で確かな一歩を踏み出した。