【コミカライズ】鏡花の桜~花の詩~

 何かが砕けるような高い音がした。
「おやめください!! 姫様!!」
 紫苑の部屋で叫ぶような女の声が響いた。

 部屋の前を歩いていた宗助は、慌てて部屋の襖を開ける。

「これは一体……」
 宗助は目を見開き、思わず呟いていた。

 紫苑の部屋は泥棒でも入ったかのように荒れ果てていた。
 着物が破られた状態で散乱し、棚や床の間に飾ってあった花瓶や壷はすべて割れていた。
 そんな中で奉公人の女と紫苑がもみ合っている。
 女は紫苑の両手首を掴み、紫苑を必死で抑えているように見えた。
 
 紫苑の手には割れた陶器の欠片が握りしめられていて、その手は血で赤く染まっている。
「宗助さん! 宗助さんも止めてください! 姫様が!!」
 宗助が入ってきたことに気づくと、女は必死の形相で宗助を呼んだ。

「あ、はい!」
 宗助は慌てて二人のもとに駆け寄る。
 紫苑の顔に表情はなく、紫苑は宗助が来たことにもまったく気づいていないようだった。

(どうしたんだ……一体……)

 宗助は戸惑いながら、そっと紫苑の手首を掴んだ。
「姫様……、どうしたんですか……?」

 紫苑がハッとしたように、宗助の顔を見る。
「ああ……、宗助か……」
 紫苑はゆっくりと目を伏せると、腕の力を抜いた。

 宗助は紫苑の手からすばやく陶器の欠片を抜き取った。
 欠片にはべっとりと血がついている。
 宗助は血だらけの痛々しい紫苑の手を見て、思わず顔をしかめた。

「すみません……、水と清潔な布を持ってきていただけませんか?」
 宗助は女に向かって言った。
 女は紫苑を心配そうに見ていたが、宗助を見てゆっくりと頷く。
「わかりました……。姫様をお願いします」
 宗助が頷くのを確認すると、女は部屋から出ていった。

 宗助は茫然としている紫苑の肩を掴むと、支えるように破片の落ちていないところまで移動し、ゆっくりと座らせた。
「おい、大丈夫か? 何があったんだ……?」
 紫苑はゆっくりと宗助に視線を向ける。
 その瞳は暗く、まるで何も映していないようだった。
「紫苑……?」

「ちょうどよかった……」
 紫苑は引きつった笑顔を浮かべた。
「少し手伝ってくれないか……?」

 宗助は紫苑を見つめる。
 どう見ても、いつもの紫苑とは様子が違っていた。
「……何をだ?」
 宗助がかすれた声で聞く。

 紫苑は血に染まった手で、自分の頬に触れた。
「顔をズタズタにするのを……手伝ってくれないか?」
 宗助は息を飲んだ。
「おまえ……何を……」

 紫苑の頬に触れていた手が、ゆっくりと畳の上に落ちる。
「そうしたら……行かなくてもいいかもしれないから」
 紫苑の瞳は静かに濡れていた。
「着ていく着物がなく、顔もズタズタの女なら、行かなくても許されるかもしれないだろう……?」
 宗助は言葉が出なかった。

(どこに行くっていうんだ……)

「どうして奥なんかに……!」
 紫苑の唇はかすかに震えていた。
「……奥?」
 紫苑は乾いた笑いを浮かべた。
「江戸の大奥だ……」

 宗助は目を見開いた。

「どう……して……」
 宗助がそう言いかけた瞬間、紫苑が手を伸ばして落ちていた陶器の欠片を掴んだ。
「紫苑!!」
 紫苑が顔を切りつけるより早く、宗助が紫苑の手首を掴む。
「何やってるんだ!? やめろ!!」
 紫苑の濡れた瞳に、宗助が映った。
「じゃあ、どうすればいい!? 大切なものは全部ここにあるのに! どうしてそんなところに行かなければいけないんだ!?」
 紫苑の顔が今にも泣き出しそうに歪む。

「ああ……」
 紫苑は軽く笑った後、わずかに目を伏せた。
 長い睫毛が涙で濡れている。
「そういえば、前に顔は可愛いと言ってくれたか……」
 紫苑は宗助を見つめる。
 紫苑の瞳に戸惑った宗助の顔が映し出された。
「この顔は好きか? ……おまえが好きだと言ってくれるなら、もう傷つけないから……」

 宗助は目を見開いたまま、何も答えることができなかった。
(俺……は…………)

 紫苑は力なく微笑むと、静かに目を閉じた。
 目からこぼれた涙が、頬についた血と混じり畳に赤い雫が落ちる。
「悪い……。今、私はどうかしているんだ……。気にしないでくれ……」

「紫苑……」

 そのとき、襖が開く音がした。
「宗助さん! 水と清潔な布を持ってきました!」
 奉公人の女が桶に入った水と布を持って二人に駆け寄る。

「頭が冷えた」
 紫苑は宗助に向かってぎこちなく微笑んだ。
「もう大丈夫だから、行ってくれ。何か仕事の途中だったんだろ?」
「いや、しかし……」
 宗助がためらっていると、紫苑が宗助の着物の袖を掴んだ。
「頼む……。もう行ってくれ……」
 紫苑は顔を伏せていて、その表情はわからなかった。

「……わかった」
 宗助はゆっくりと立ち上がると、女に視線を向けた。
「手当てを頼みます……」

 女は力強く頷くと、水の入った桶を置いて紫苑の前にしゃがみ込んだ。


 宗助は茫然としたまま、紫苑の部屋を後にした。
(紫苑が……大奥に……?)
 理解が追いつかなかった。
(紫苑が…………いなくなるのか?)

『宗助!』
 聞き慣れた声が聞こえた気がして振り返ったが、そこに紫苑の姿はなかった。

 宗助の胸がざらりと嫌な音を立てる。
「紫苑、俺は……」
 宗助は天を仰ぐと、静かに目を閉じた。
「人質……みたいなものでしょうか……?」
 奉公人の男はそう言うと目を伏せた。
「人質……」
 宗助は足元を見る。
 絶望的な言葉に、体が鉛のように重くなっていくのを感じた。

 紫苑の部屋を出た後、宗助は江戸に同行していた奉公人の男を訪ね、紫苑のことを聞いた。
 なぜ紫苑が大奥に入ることになったのか、まずは事情が知りたかった。

「今の奥様が江戸にいらっしゃるのは知っていますよね?」
 宗助は静かに頷く。
 幕府との取り決めで、大名の正室と世継ぎは江戸で暮らさなければならないことは、農家の出の宗助でも知っていることだった。
「この屋敷にはお世継ぎがいません。ご正室だった姫様のお母様が亡くなられて、今の奥様は正室として江戸で暮らしてもらうために籍を入れたという裏事情もあったのです……。しかし、将軍家から見ると人質としては不十分だったのでしょうね……」

(そんな事情が……)
 宗助は目を伏せた。

「それに加えて、将軍家は今、なかなかお世継ぎができず困っている状況です。亡くなられた奥様に似ている姫様の美しさは江戸でも有名ですから……。大奥に入ってもらえれば世継ぎが生まれる可能性も高まり、人質にもなっていいと考えたのでしょう」
「そう……なのですね……」
 宗助は気づかないうちに拳を握りしめていた。

「うちの藩は大きくなり過ぎました……。姫様がほかの大名家の次男や三男を婿養子に迎えることがあれば、大名同士の結びつきが強くなり、幕府にとっての脅威になるとも考えたのでしょう。御前様はそんな気はないと示すために、貧しい武家の息子とのお見合いを組んでみせていたのですが、納得しなかったようですね……」
 男は悲しげに微笑んだ。
「お見合いはそういう意味もあったのですね……」
「ええ」
 男はそっと頷いた。

「拒むことは……?」
 宗助の言葉に、男は悲しげに微笑むと首を横に振った。
「できません。江戸で御前様がずっと交渉を続けても覆らなかったのです。拒めば将軍家に背いたとして、この家ごと取り潰しになってもおかしくありません」

 宗助は目を閉じた。
(どうすることもできないのか……?)

「将軍家への輿入れ自体は名誉なことではありますが……」
 男は目を伏せた。
「姫様は決して望まないでしょうね……」

 宗助は何も言えず、ただうつむいた。
 大奥に入れば、もう二度と屋敷に戻ることもこの地に帰ることもできない。
(俺が言った、嫁に行くまでっていうのは、こういうことじゃないんだよ……)
 宗助はきつく目を閉じた。
(誰かに愛され守られて、ただ幸せになってほしかっただけなのに……)

 人質という言葉が、宗助の胸に重くのしかかった。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 食事の時間となり、宗助は再び紫苑の部屋を訪れた。
 破れた着物や割れた花瓶は片付けられ、部屋はいつもの状態に戻っていた。
 部屋の片隅で、紫苑が生気のない顔で座り込んでいる。

 紫苑の前に食事の膳を運んだ宗助は、思わず目を伏せた。
 部屋に入る前に声は掛けていたが、紫苑は宗助が部屋に入ったことにも気づいていないようだった。

「紫苑……」
 宗助がかすれた声でそっと呼びかける。
 紫苑の瞳がゆっくりと動き、宗助に向けられた。
「ああ、宗助か……」

「食事だ……」
 宗助はなんとかそれだけ口にした。
 紫苑の口元に薄っすらとした笑みが浮かぶ。
「もうそんな時間か……。悪いが食欲がない、下げてくれ」

「紫苑、少しだけでも食べないと……」
 宗助は茶碗を持つと箸でご飯を少しだけすくい、紫苑の口元に運んだ。

「……病人にでもなった気分だな……」
 紫苑は宗助を見てかすかに笑うと、小さく口を開けてご飯を口に含んだ。
 ゆっくりと紫苑の口が動き、異物を飲み込むようにゴクリと喉が鳴る。
「もう大丈夫だ……。ありがとう……」
 紫苑は宗助に向かって微笑んだ。

「宗助は甲斐甲斐しいな……。私の女中になってほしいくらいだ……。女装して一緒に来るか……?」
 紫苑は乾いた笑いを浮かべる。
「ふふ、冗談だ……」

「紫苑……」
 宗助は茶碗を膳に戻すと、紫苑をそっと抱き寄せた。

 紫苑の体がビクリと震える。

「どうした……? 弟を嫁に出すような気持ちになったのか……?」
 紫苑の声は震えていた。
 宗助は何も言えず、ただ腕に力を込める。
(俺は……)

「ふふ、温かいな……。弟だと思ってもう少しだけ、このままでいてくれないか……?」
 紫苑は絞り出すような声で言った。
「……ああ」
 宗助はかすれた声で呟き、目を閉じた。

(紫苑、俺は……)
 宗助の想いは言葉になることはなく、ただ宗助の胸を締めつけ続けていた。
 翌日になると、紫苑はまるで前日のことが嘘のように落ち着きを取り戻していた。
 不自然なほどに普段通りの紫苑に、奉公人たちは戸惑いながらも何事もなかったように接した。
 宗助もほかの奉公人と同じように、ただ紫苑を見守ることしかできなかった。

 いつも通りの日々が続き、誰も何も触れないまま、紫苑が旅立つ前日となった。
 裏では紫苑が江戸に向かう準備が着々と進んでいたが、表立っては何の変化もない、いつもと変わらない日だった。

 紫苑に掛ける言葉が見つからないまま、日が暮れて夜になり、すべての仕事を終えた宗助は重い足取りで自分の部屋に戻った。
(明日には紫苑が……)
 宗助はその場にしゃがみ込んだ。
(俺は……一体何がしたいんだ……。)
 薄暗い部屋の中で灯りも点けず、宗助はただ畳を見つめていた。
(俺は…………)

 そのとき、襖を叩く音がした。
 宗助は顔を上げて襖を見る。
(誰だ……? こんな時間に……)
「……はい」
 宗助の返事とともに、襖がゆっくりと開く。

「な!?」
 襖の向こうに立っていたのは紫苑だった。
 薄暗く顔はよく見えなかったが、長い髪を後ろでひとつに束ねた髪型も、薄っすらと見える着物の柄も紫苑のもので間違いなかった。

「おまえ……どうしてこんなところに……」
 宗助は目を見開く。
 紫苑が宗助の部屋を訪ねてきたことは、今までに一度もなかった。
 そもそも屋敷の姫様が奉公人の部屋まで出向くことなど、どんなに急ぎの用だとしてもありえないことだった。

 宗助の問いに答えることなく、紫苑は部屋に入ると宗助の前まで足を進める。
「……紫苑?」
 宗助は呟くように言った。
 紫苑は何も言わず、宗助の前に膝をつく。

 手の届く距離まで来たことで、宗助はようやく紫苑の顔を見ることができた。
 紫苑はどこか不安げな表情を浮かべ、ためらいがちに宗助を見つめた。

「どう……したんだ……?」
 宗助はかすれた声で聞いた。
「何か……あったのか……?」

 紫苑は何も答えなかった。

「……紫苑?」
 宗助がそう口にした瞬間、ふわりと甘い香りが宗助を包んだ。

(…………え?)

 視界が暗くなり、柔らかいものが唇に触れる。
 宗助は目を見開いた。
 触れたものが紫苑の唇だと気づいたのは、紫苑の唇が離れ、顔にかすかな吐息がかかった瞬間だった。

 紫苑の涙に濡れた瞳が、真っすぐ宗助に向けられる。
 紫苑の唇はかすかに震えていた。
「私と一緒に…………逃げてくれないか……? 私とともに……」
 紫苑はそこまで言うと目を伏せた。
 長い睫毛が顔により暗い影を落とす。

「一緒に……逃げる……?」
 宗助はかすれた声で呟いた。

 紫苑の伏せられた睫毛がわずかに揺れる。

(一緒に……逃げる……)
 宗助の見開いた瞳が揺れ動く。
(ああ、そうだ……。逃がすことができるのなら、逃がしてやりたい……そう思っていた……)

 宗助は紫苑の細い肩を抱きしめようと手を伸ばした。
(大丈夫だと言ってやりたかった……。俺が守ってやると言いたかった……)

 その瞬間、宗助の脳裏に悲惨な光景が浮かぶ。

 投獄され裁きを受ける紫苑の父親、罪の問われ故郷を追われる奉公人たち、打ち首になる宗助の家族……。そして、捕らえられ殺される紫苑の姿。

 宗助は息が苦しくなり、思わず伸ばしかけた手で胸を押さえた。

(逃げきることなんてできるのか……? 俺は……本当に紫苑を守りきることができるのか? 周りをすべて犠牲にして……紫苑さえも不幸にすることにならないか……?)

 宗助の手がゆっくりと畳に落ちる。
 息が苦しかった。

(大奥に行けば、少なくとも追われて死ぬことはないはずだ……)

 宗助は震える唇を動かす。

「紫苑……、ダメだ……。……みんな……不幸になる……」
 口にした瞬間、宗助は自分の発した言葉の意味に愕然とした。
「あ、ち、違……!」

「みんな……?」
 紫苑のかすれた声が、宗助の耳に響く。
 硝子のような二つの瞳が宗助に向けられ、大きく揺れた。
 紫苑を支えていた何かが壊れたように、紫苑の顔がゆっくりと歪む。

「違う! ……そういう意味じゃ……!」

 紫苑は表情を隠すように顔をそむけると、立ち上がり背を向けた。

「紫苑……! 違う……」
「いいんだ。最初からわかっていた……」
 紫苑は背を向けたまま言った。
 その声は不自然なほど明るかった。
「おまえが不幸になることはしない」

「紫苑! 違うんだ! そういう意味じゃ……」

「ただ、さ……」
 紫苑はそう言うと、少しだけ宗助を振り返った。
「私の幸せを……おまえが語るなよ……」
 紫苑は笑った。その顔は宗助が今まで見たどの顔よりも寂しげで、笑顔のはずなのに、泣いているようでもあった。

 紫苑はそれだけ言うと、そのまま廊下に向かった。
「違う……! 紫苑…………」
 宗助が紫苑に向かって伸ばした手は、わずかに紫苑には届かなかった。

 紫苑はそのまま宗助の部屋を後にした。

 宗助は頭を抱えてうずくまる。
「違うんだ……。紫苑、俺は…………」
 叫び出したいほどに胸が痛かった。
 この胸の痛みの意味を宗助自身もう十分に理解していたが、想いが言葉になることはついになかった。 
 紫苑が去ってからも、宗助はその場を動くことができずにいた。
 宗助にはどれだけ時間が経ったのかわからなかった。
 ただ、襖の隙間から差し込む明るい日差しがすでに夜が明けたことを物語っていた。
(もう今日……、紫苑は……)

 宗助はきつく目を閉じ、拳を握りしめた。
(俺は一体…………)

 そのとき、襖が開く音がした。
 目を閉じていても部屋が一気に明るくなったのがわかった。

「おまえ……、ずっとそうしていたのか……?」
 驚いたような紫苑の声が響く。

 宗助は弾かれたように顔を上げた。
 眩しさで目を細めながら、宗助は紫苑を見上げる。
 日差しを背にした紫苑の表情まではわからなかったが、紫苑はすでに髪を結い上げ、身なりを整えていた。
「紫苑……」

 紫苑は部屋に入ると、ゆっくりと宗助の前まで足を進める。
 昨夜と同じように紫苑は宗助の前で膝をついた。

「悪かったな……。こんなふうに、傷つけるつもりではなかったんだ……」
 紫苑は静かに目を伏せた。
「何……言ってるんだ……。傷つけたのは俺の方だろ……?」
 宗助はかすれた声で言った。

 紫苑は宗助を見つめると、ゆっくりと横に首を振った。
「おまえの返事は最初からわかっていたんだ……。言葉の意味もちゃんと理解している。だから、おまえは何も悪くない」
 紫苑は微笑んだ。前日までとは違う晴れやかな笑顔だった。

「紫苑……」

「わかっていた。……わかっていたのに、昨日ここに来たのは……後悔しないためだったんだ。おまえに想いを伝えたら違う未来があったかもしれないと……いつかそんな後悔をしないように……。だから、これでいいんだ」
 紫苑は宗助の手を取った。

「それに言っただろ? 私がおまえを幸せにしてやるって」
 紫苑はそう言うと晴れやかに笑った。

 宗助は目を見開く。

「この家は私が守るから。幸せになれ、宗助」
 紫苑のその笑顔には一点の曇りもなかった。

「紫苑……、俺は……」
「宗助」
 紫苑は宗助の言葉を遮ると、静かに目を伏せた。
「…………ありがとう」

 紫苑はそれだけ言うと、宗助の手を離した。
「じゃあな……」
 紫苑はゆっくりと背を向けると、廊下に向かって歩いていく。

「紫苑……!」
 宗助の声に、紫苑は足を止めた。

「もし……、ひとつわがままを聞いてくれるなら……」
 紫苑はわずかに振り返った。
「紫苑の花を見たときは……ほんの少しでいいから……私のこと、思い出してくれ」

 笑った紫苑の瞳から光るものがひと筋だけ流れ、頬をつたって落ちた。
 紫苑はそれだけ言うと、宗助の部屋を後にした。


 その日、予定より早い時刻に、紫苑は江戸へと旅立っていった。
 時刻を早めたことはほとんどの者には知らされず、見送りができたのは紫苑の父親と一部の奉公人だけだった。
 紫苑が江戸に旅立って数日が経ったある日、宗助は紫苑の父親に呼び出された。
 御前様である紫苑の父親に会うのは、初めてのことだった。

「お呼びでしょうか」
 部屋に入った宗助は、膝をつき頭を下げた。

「ああ、宗助だな。そうかしこまらず、顔を上げてくれ」
 紫苑の父親は貫禄の中に優しさのある声で言った。
 宗助はゆっくりと顔を上げる。

 紫苑の父親は、顔こそ紫苑には似ていなかったが、どこか紫苑を思わせる凛とした空気を持っていた。
 宗助は思わず目を伏せる。
「娘が……世話になったな……」
 少しかすれた声を聞き、宗助は紫苑の父親を見つめた。
 遠くからしか見たことはなかったが、今目の前にいる御前様はひどく顔色が悪いように見えた。
「いえ、私は何も……」
 宗助は短く答える。

「顔色が悪いな。大丈夫か?」
 紫苑の父親が宗助を見て聞いた。

(御前様の方が……とは言えないよな……)
 宗助はここ数日まともに寝ることができずにいたが、様子を見る限り紫苑の父親も同じなのだろうと、宗助は思った。
「いえ、問題ありません」
 宗助は淡々と答えた。

「そうか……」
 紫苑の父親はそっと息を吐いた。
「忙しいところ申し訳ないが、少しだけ、私の話に付き合ってもらえないか?」
「……はい、もちろんです」
 宗助は戸惑いながら、静かに一礼した。

「ありがとう」
 紫苑の父親は目元を緩める。
 その笑い方は少しだけ紫苑に似ていて、宗助の胸はずきりと痛んだ。

「あいつ……紫苑の母親は、もともと体が弱かったんだ。……子を生むことで、命が危うくなるとわかったとき、私は生むのを反対した。世継ぎなどどうでもよかった。ただ、あいつと共に生きていきたかったんだ」
 紫苑の父親は苦笑した。
「笑えるだろう? 私は大名の家に生まれたというだけで、本当に器の小さい人間なんだ。周りのことなどどうでもいい、自分だけ良ければいいというどうしようもない男なんだよ」

「いえ、そんなことは……」
 宗助は首を横に振る。
 今の宗助にはその気持ちが痛いほどわかった。

「だが、あいつは生むと言ってきかなかった……。あいつは、私の血を分けた子をどうしても生みたいと言った。私の父と母はそのときすでに他界していたから、私に家族をつくりたいと、そう言ったんだ。そして、紫苑を生んでしばらくして、あいつが死んだ」
 紫苑の父親は片手で顔を覆った。
 その手はかすかに震えていた。
「私を殴ってもいいぞ……。私はそのとき思ったんだ。……この子さえ生まれなければ、と……」

 宗助は目を伏せた。
 掛ける言葉が見つからなかった。

「そう思ったのは一瞬だけだったが、確かにあのとき私はそう思ったんだ……。それから、私は……紫苑の顔が見られなくなった。遠目にも日に日にあいつに似ていく紫苑を見ると、余計にな……」
 紫苑の父親の声がかすれる。
「私は……本当にどうしようもない人間なんだ……」

 絞り出すような声に、宗助は思わずうつむく。
 息が苦しく、胸が詰まった。

「紫苑を奥にと言われたとき……、それだけはなんとしても阻止しなければと思った。紫苑がこの地を愛しているのは知っていたし……、おまえのことを想っていることも……知っていたんだ……」

 宗助は弾かれたように顔を上げた。
 紫苑の父親は顔を覆っていた手を下ろすと、悲しげに微笑む。

「すまないな……。紫苑のことは逐一報告をもらっていた。気を悪くしないでくれ……」
「いえ、そのようなことは……」
 宗助は目を伏せた。

 紫苑の父親は少しだけ微笑むと、目を伏せた。
「結局、奥の話を拒むことはできなかった。だから……紫苑には逃げてもいいと言った……」

「……え?」
 宗助は顔を上げた。

「紫苑が逃げたいと言うなら、娘は死んだと報告し、この屋敷から逃すつもりだった……」
「そんなことをしては、御前様は……」
 宗助の声は震えていた。

「なんとかするつもりだった」
 紫苑の父親は目を伏せたまま微笑むと、苦しげに目を閉じた。
「それくらいしか、私が紫苑にしてやれることはないからな……」

 宗助は目の前が暗くなっていくのを感じた。
(逃げてもいいと言われていた……? 自分の気持ちを優先するなら、きっと逃げ出したかっただろう……。俺の言葉が、その道を閉ざしたのか……? 俺が……みんな不幸になるなんて言ったから……)

「しかし、ここを立つ日の朝、紫苑は私のところに来て言ったんだ。『奥に行く』と……。『私がこの家を守るから。何も心配しなくていい』と……笑ったんだ……」
 紫苑の父親の目から涙がこぼれ落ちる。
「私は恨まれても仕方ないようなことをし続けたのに……。守るどころか、守られて……。私は本当に情けない人間だ……」

 宗助は拳を握りしめた。
(情けないのは……俺だ……)
 宗助の震える拳の上に、目からこぼれた雫が落ちる。

「ああ、君のことも言っていた。有能だから、よろしく頼むと」
 紫苑の父親はそこで少しだけ微笑んだ。
「まるで自分のことのように、君のことを誇らしげに語っていて笑ってしまったが……。君のことを頼むと言っていた」

 宗助は何も答えることができなかった。
 こみ上げるものでうまく呼吸ができなかった。
 目に溢れたもので、宗助の視界が霞む。

「紫苑の気持ちはわかっていたが……、ここ数日、君の様子を見て、君の気持ちもよくわかった……」
 紫苑の父親はかすれた声でそう言うと頭を下げた。
「本当にすまない……! 私が不甲斐ないばかりに……こんなことに……」

「いえ……」
 宗助はうつむいたまま絞り出すように言った。
「すべては、俺が……。俺のせいで……」

「君は何も悪くない」
 紫苑の父親は、優しい声で言った。
「紫苑のそばに君がいてくれてよかったと、私は心から思っている。……ありがとう」

 宗助はうつむいたまま、首を横に振った。
(すべては俺のせいなんだ……。俺が…………)

 二人はそれ以上何も口にすることができなかった。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 部屋を後にした宗助は、茫然と廊下を歩いていた。
(俺があんなことを言わなければ……)
 宗助は唇を噛みしめた。
(守ると約束したのに……。守りきる自信がないと……紫苑にすべて背負わせた……。俺は……守ろうとさえしなかったんだ……)
 宗助は拳を握りしめた。

「……けさん、……宗助さん!」
 宗助は背後から肩を叩かれ、振り返る。
 奉公人の男が心配そうに宗助を見ていた。

「何度も呼んだんですよ……? 大丈夫ですか?」
 男の言葉に、宗助は目を伏せた。
「……大丈夫です。心配をかけてすみません……」
「あまり無理はしないでくださいね」
 男は、宗助の肩を軽く叩いた。
「まぁ、姫様がいなくなってから、灯りが消えたようにみんな元気はありませんけどね……」
 男は寂しげにそっと息を吐いた。
「屋敷の者だけでなく、ここに魚を届けてくれている者や漁師たちまで元気がないんですから……。姫様の人気は凄かったのだと実感しています……」
「漁師まで……ですか……」
「ええ、姫様のために気合いを入れて魚を獲っていましたからね。ほら、姫様、お刺身が好きだったでしょう?」

「…………え?」

 宗助は虚ろな目で男を見つめた。
「あれ、宗助さんは姫様と一緒にお食事していたから、ご存じですよね? この地で獲れる魚が一番美味しいと好んで召し上がっていたでしょう?」

 宗助は目を見開いた。

「……ああ、……そういうことか……」
 宗助は片手で顔を覆った。

「宗助さん、……大丈夫ですか?」
 男は宗助の顔をのぞき込むように聞いた。
「……大丈夫です。ただ、少し眩暈がしたので先に行ってください……」
「わ、わかりました……。無理しないでくださいね……」
 男はそう言うと、宗助を何度か振り返りながら、廊下の向こうへ去っていった。


 宗助はその場にしゃがみ込む。


『ほら、これもやる。嫌いなんだ』
 にっこりと笑いながら、刺身の皿を差し出した紫苑の顔が浮かぶ。

「そういう嘘は……やめてくれよ……」
 ようやく止まったはずの涙が溢れ出す。
「どうしてわかったんだ……。俺、刺身が好きなんて言ってなかっただろ……?」
 宗助は絞り出すように呟いた。
「おまえの嘘は……どうしてそんなに優しいんだ……」

 胸の痛みで、叫び出してしまいたかった。

『守ります、必ず』
 かつて紫苑に言った自分の言葉が、胸をえぐる。

「それにひきかえ……、俺の嘘は……。何が守れる力だ……、何が武士だ……。守ろうとさえしなかった俺は…………ただのクズだ……」
 宗助は胸の痛みに耐え切れず、うずくまった。
「俺は……ここにいていい人間じゃない……」
 とめどなくこぼれる涙が、小さな音を立てて廊下に落ちた。
「花魁、信様がいらっしゃいました」
 襖の向こうから緑の声が聞こえた。
 咲耶が返事をすると、襖がゆっくりと開き、緑とその後ろにいる信の姿が見えた。

 咲耶は信を見つめる。
 信の手や足は、指の先まで白い布が巻き付けられていて、火傷の酷さを物語っているようだった。
 咲耶は思わず目を伏せる。

 信はいつも通り何も言わず、部屋に入ると咲耶の前に腰を下ろした。
「……体は大丈夫か?」
 珍しく信が先に口を開く。
 咲耶は思わず微笑んだ。
「私は問題ない。おまえのおかげだ。信は……大丈夫ではなさそうだが……」
 咲耶は信の手を見つめる。
 指が曲げられるように白い布が巻かれていない関節部分は、赤黒く爛れた皮膚が見えていた。
 咲耶の視線に気づいた信は、さりげなく着物の袖で指先を隠す。
「たいしたことはない」
 信は淡々と言った。

 咲耶は真っすぐに信を見つめる。
 聞きたいことはたくさんあったが、咲耶はうまく言葉にすることができなかった。

「助けてくれて……ありがとう」
 咲耶はなんとかそれだけ口にした。

 信は目を伏せる。
「礼を言われることじゃない。俺のせいだから」
 信は淡々とした声で言った。

「……おまえのせいじゃない」
 咲耶は真っすぐに信を見たが、信は目を伏せたまま何も答えなかった。

 咲耶は少しだけ信に近づくと、袖で隠れた信の手を取った。
 信の瞳がわずかに揺れる。
「おまえのせいじゃない!」
 咲耶はもう一度信の目を真っすぐに見て言った。
 信はわずかに目を見張ったが、すぐに咲耶から視線をそらす。

「俺は……、もうここには来ない」
 信はそっと手を引くと、静かに口を開いた。
「これ以上、迷惑はかけられない」

 咲耶は目を見開く。

 信の口からそんな言葉が出るとは、咲耶はまったく想像していなかった。
(もう来ない……? 私とはもう会わないということか……?)
 咲耶は急速に喉元が苦しくなっていくのを感じた。
(これが……最後……?)
 体が一気に重くなった。


「…………嫌だ……」


 咲耶は自分の口からこぼれた言葉に驚き、慌てて口元に手を当てた。
 信に視線を向けると、信が珍しく戸惑っているのがわかった。
 咲耶の顔が一気に赤くなる。

「違う……! その……月に一度ここに顔を出すのは、最初からの約束だっただろう……? それに、私もおまえに頼みたいことがあるし……。だから、その……」
(私は何を言っているんだ……!)
 咲耶は早口で言いながら、自分の鼓動が速くなっていくのを感じた。

 信は戸惑ったように咲耶を見ていたが、やがてゆっくりと目を伏せた。
「いや、しかし……」

 続く言葉を聞きたくなかった咲耶は、思わず立ち上がった。
「だ、だから……『しかし』じゃない! 嫌だと言っているだろう!!」
 自分でも驚くほど大きな声が出ていた。
(あ、しまった……)
 咲耶はハッと我に返り、こわごわ信を見下ろす。
 
 初めて見る咲耶の様子に、信は明らかに呆気にとられていた。

 咲耶の顔から血の気が引いていく。
(私は一体何を…………)
 咲耶は泣き出したい気持ちになった。

 信はうつむくと、静かに口を開く。
「わかった……。これからもここに来る……」
 信の声は淡々としていたが、ひどく戸惑っているように感じられた。

「あ、ち、違う……。私は怒っているわけではなくて……」
 咲耶は慌てて座り直すと、信の顔をのぞき込んだ。
「その……、弥吉も戻ってきていないと聞いたし、心配なんだ……。頼むから、月に一度は来てくれ……」

 薄茶色の瞳が、一瞬だけ咲耶に向けられる。
「……わかった」
 信は静かに目を伏せた。
 二人のあいだに、重苦しい沈黙が訪れる。


「……今日はもう帰る。まだ顔色が悪いから、ゆっくり休んだ方がいい」
 信は咲耶を見てそれだけ言うと、静かに立ち上がった。

「あ、いや……、体調はもういいんだが……。わ、わかった……。またな……」
 咲耶は目を泳がせながら言った。
「ああ、……また」
 信はそう言うと足早に咲耶の部屋を後にした。


(ああああああ!)
 ひとりになった部屋で咲耶は頭を抱えた。
(私は何をやっているんだ……!)
 咲耶は顔から火が出そうだった。
 落ち着こうと、咲耶はゆっくりと深呼吸をする。
(私はなんであんなことを……!)

 しばらくして、咲耶は落ち着きを取り戻したが、なぜあんなことを言ってしまったのかは最後までわからないままだった。
 



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇




 信が玉屋の階段を降りようとすると、一階で手すりに寄りかかるように立っている楼主が見えた。
 信は階段を降りると楼主に会釈だけして、楼主の横を通りすぎる。

「……ありがとう」
 信の背中に、楼主は言った。
「咲耶を助けてくれて」

 信は足を止める。
「いや、あれは俺の……」

「それでも」
 楼主は信の言葉を遮った。
「感謝している」

 信はわずかに振り返ったが、そのまま何も言わず玉屋を後にした。


 楼主はゆっくりと息を吐いた。
(いいやつ……ではあるんだろうな……)

 楼主は腕組みをしながら、目を閉じる。

 信を助けたときから、楼主にはわかっていた。

 体中にある傷跡、毒に耐性はあるが薬も効きにくい体、異国の血を感じる薄茶色の髪と瞳。

 この男には関わらない方がいい、と。

 楼主は深いため息をついた。
「まぁ、忠告したところで、どうせ関わるんだろうしな……」


『私の幸せを、おまえが語るなよ……』
 楼主の頭の中で、懐かしい声が響く。


「わかってるよ、紫苑」
 楼主はゆっくりと目を開けた。
「咲耶にまで同じことは言われたくないからな……。俺はせいぜい見守ることに徹するさ……」
 楼主はそれだけ呟くと、身を翻し自分の部屋に戻っていった。
(とうとう江戸まで来たか……)
 宗助は、賑わう町を見ながら目を伏せた。
(この仕事が終わったら、江戸は離れよう……)
 宗助にとって活気に溢れたこの町は、どこか居心地が悪かった。

 紫苑が江戸へと旅立ってすぐ、宗助は奉公人の仕事を辞めた。
 紫苑の父親をはじめ一緒に働いてきた奉公人たちは皆、宗助を必死で止めたが、宗助の気持ちは変わらなかった。

 屋敷を出てすぐ出会った行商人から商売について学び、宗助は行商人として都市を渡り歩いた。
 生きることは、宗助が思うよりずっと簡単だった。
 漫然と生きる中で、宗助は何を見ても何をしても心が動かなくなっていった。
 生家に仕送りだけは続けていたが、もう二度と帰るつもりはなかった。
 大名屋敷も、生家のそばに咲く紫苑の花も、宗助はまともに見られる自信がなかった。

(さっさと終わらせて、大坂あたりにまた戻るか……)
 宗助は木の箱を背負い直し、歩き出した。

 しばらく歩いていると、見知らぬ年配の男が宗助の横を並んで歩き始めたことに気がついた。
 宗助はそっと男を見つめる。
 男は宗助の視線に気づくと、人の好さそうな笑顔を浮かべた。
「よう! あんた、どこから来たんだい? 見たところ行商人だろ?」

 宗助は商売用の笑顔を浮かべた。
「ええ、大坂の方から来たんです。ちょっと江戸で売らないといけないものがあって」
「へ~、大坂かぁ。最近、物は船で運ぶのが主流になってるから、あんたみたいに遠くから売りに来る背負商人は久々に見たよ」
「はは、時代遅れですかね。あなたも商人なんですか?」
 宗助は微笑んだ。
「ああ、俺の場合は店を構えて商売してるんだけどな。江戸では、行商っていうと桶に商品を吊り下げて近場で売る振売(ふりうり)が主流だから」
「そうなんですね。私も商売の仕方を考えないといけませんね」
 宗助は苦笑した。

 男は宗助の顔をじっと見つめる。
「? 私の顔に何かついてますか?」
 宗助は男を見て、首を傾げた。
「いや、なんでもねぇよ。いい男だから見惚れてたのさ」
 男はそう言うとニカッと笑った。
「それは、お世辞でも嬉しいですね」
 宗助は男に合わせて明るく笑った。

「これから仕事だろ? よかったら仕事終わりに、一緒に酒でも飲まねぇか?」
 男は人の好さそうな笑顔で言った。
「江戸での商売の仕方ってやつを教えてやるよ」

 宗助はそっと男を見つめた。
(悪い人間ではなさそうだな……)
 宗助は笑顔で頷いた。
「それはぜひお願いします。ついでに、美味しいお店を教えていただけると嬉しいですね。江戸に来たのは初めてで右も左もわからない状態なので」

「ああ、それなら、あそこの蕎麦屋にするか」
 男は少し先にある店を指さした。
「あそこは蕎麦も酒も絶品だからな」
「蕎麦ですか、いいですね。では、夕方ぐらいにあの店で待ち合わせでいいですか?」
「ああ。じゃあ、また夕方にな」
 男はそう言うと、軽く片手を上げて去っていった。
「ええ、また後で」
 宗助は軽く頭を下げると、目的地に向かって足を速めた。

(さっさと売って、さっさと江戸は離れよう……)
 宗助は目を閉じた。
 江戸に誰がいるのか、宗助はなるべく考えないようにした。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 男の言ったとおり、店の蕎麦は確かに絶品だった。
 宗助は蕎麦の美味しさに目を丸くした。
 隣にいる男がドヤ顔で宗助を見る。

「すごく美味しいですね」
「だろ?」
 男は満足げに頷く。

「あ、ところで今日の商売はどうだった?」
 男は宗助を見て聞いた。
「ああ、おかげ様で、予定より早く売り切ることができました」
 宗助は箸を止めて微笑んだ。
「そうか! そりゃあ、よかったな! やっぱり顔がいいってのは得だな」
「顔ですか? 顔は関係なく物が良かったんですよ」
 宗助は笑う。

「まぁ、そういうことにしておいてやるよ」
 男はそう言って笑うと、ふいに真剣な顔で宗助を見た。
「ところで、おまえ……。これから先はどうするつもりなんだ?」
 蕎麦をすすっていた宗助は男を見る。

「これから先……ですか? そうですね、とりあえず大坂の方まで行って、商売しようとは思っていますが……」
「大坂かぁ……。どうして大坂なんだ?」
 男は首を傾げる。
 宗助は思わず目を伏せた。
 大坂がいいわけではなかった。江戸でなければどこでもいいというのが宗助の正直な想いだった。

「おまえ、大坂の生まれってわけじゃないんだろ?」
 男は宗助の顔をのぞき込むように言った。
 宗助は少し強張った顔で男を見返す。

「あ、勘違いするなよ?」
 男は慌てた様子で首を横に振った。
「詮索するつもりはないんだ。ただ、少し……昔の自分を見てるような気持ちになってさ……」

「昔の自分ですか……?」
 宗助は眉をひそめた。

「言っておくが、昔の俺は結構いい男だったんだぞ! そんな嫌そうな顔するんじゃねぇよ! 失礼だろうが」
 男はムッとした顔で言った。
 宗助は思わず吹き出す。
「嫌そうな顔なんてしてませんよ」

 男は宗助の顔を見てフッと微笑んだ。
「そうやってちゃんと笑った方がいいぞ。嘘くさい笑顔でもいい男だが、今の顔の方がずっといい」
 宗助は男を見つめる。
(この人は何の目的で俺に近づいてきたんだ……?)

 男は宗助の心を読んだように、フッと笑った。
「ただ、心配だっただけだ。嘘くさい笑顔貼り付けて、根無し草みたいにふわふわしててさ。目的地も帰る場所もないって感じだったから」
 男の言葉に、宗助は目を伏せた。

「当たらずとも遠からずって感じだろ? 俺も昔そうだったからな」
 男は頭を掻いた。
「で、ここからが本題だ。おまえ遊郭に興味ないか?」

「……は?」
 宗助はポカンとした顔で男を見つめた。
(真面目な話かと思えば、何の話だ……?)

「あ、勘違いするなよ。遊郭の楼主になる気はないかって話だ」

「遊郭の楼主??」
 宗助は眉をひそめた。

「実はさ、玉屋って遊郭をやってる爺さんが今死にかけてるんだよ。楼主がいなくなったら、そこにいる遊女たちが路頭に迷うだろう? だから、爺さんは今楼主をやってくれる人間を探してるんだ」
 男の言葉に宗助は首を傾げる。
「なんで俺にそんなことを話すんですか?」

 男は笑った。
「まぁ、まずは地に足をつけて、どこかに根付いてみたらどうかって提案だ。帰る場所っていうのはやっぱりあった方がいいと思うからな」
「遊郭に根付くんですか……?」
 宗助は首を捻る。
「そうそう」
 男は明るい声で言った。
「遊郭なんてのは裏も表も腹の探り合いだからさ、おまえみたいに嘘くさい笑顔で、テキトーに受け流す能力があるやつには打ってつけなんだよ」

 宗助は呆気にとられた顔で男を見る。

「楼主はさぁ、別名忘八(ぼうはち)って言われてるんだ。仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の八つの徳目、すべてを失った者って。まぁ、失ってないとできない仕事ってことだ。おまえ、大半は失ってそうだったからな。それで声をかけたんだ」
 男が二カッと笑った。

 宗助は唖然とした顔で男を見つめていたが、しばらくしてフッと笑った。
「こんな失礼な口説き文句は初めてです。いろんな意味でグッときました。さすが商売人ですね」
「だろ?」
 男は楽しそうに微笑んだ。
「確かに、今の俺には打ってつけの仕事かもしれません……」
 宗助は目を伏せた。
「考えてみます……」

「おう、考えてみてくれ」
 男は嬉しそうに笑った後、ふと寂しそうな顔で言った。
「忘八だって、人と関わるうちにいつか何か取り戻せるかもしれないからさ」

 宗助はすっかり冷めて伸びてしまった蕎麦を見つめた。
「どうでしょうね。失ったものは……もう二度と戻りませんから……」
 宗助はそっと息を吐いた。
 蕎麦の汁に、泣き出しそうな宗助の顔が浮かび、静かに揺れた。
 楼主の仕事を勧められた数日後、宗助は玉屋の楼主になることを引き受けた。
 楼主から引き継いだ仕事は大変ではあったが、宗助がこなせないほどのものではなかった。

 虚ろな目をした遊女、値踏みするように遊女を見る客、狡猾な遊郭の楼主たちに対応しながら、宗助はただ淡々と仕事をこなしていた。
 華やかな吉原の裏側は仄暗くひどく澱んでいたが、痛める心を宗助は持ち合わせていなかった。

 宗助は静かに目を伏せる。
(この一年で楼主が忘八と言われる理由はよくわかった……。確かに俺には向いているのかもしれないな……)
 宗助はそんなことを考えながら、片手で顔を覆った。
(まともな感覚がある人間にこの仕事はできない……)

 ふいに虚ろな目で客をとる遊女の顔が頭に浮かび、宗助はきつく目を閉じた。
 なぜかその姿が紫苑に重なって見えた。
 一度入ったら年季明けまで出られない吉原と、一度入ったら二度と出ることはできない大奥。
 生活の質は違えど、どちらも籠の鳥になるという意味では同じだった。

 宗助はそっと息を吐いた。
 仕事の手を止め、玉屋の外に出るため立ち上がる。

 吉原の大門が締まってから随分経ち、客も遊女も寝静まっている時間だった。
 大門が開くのもまだ先なため、玉屋は今誰もいないかのようにひっそりと静まり返っていた。
 宗助は玉屋の正面の入口から外に出る。
 提灯も消えた見世の前は暗く、夜明け前の空気は肌に冷たかった。

「何も感じない俺は……やはり忘八なんだな……」
 見世の壁に寄りかかりながら、宗助はひとり呟いた。
 冷たい風が、宗助の頬をそっと撫でる。

「忘八……ですか」
 ふいに暗闇の中から声が聞こえた。

 宗助は息を飲み、慌てて声のした方を見る。
 暗闇の中にぼんやりと男の姿が浮かび上がる。

(人が……いる気配はなかったんだが……)
 宗助は呼吸を落ち着けると、男に笑顔を向けた。

「すみません……。人がいるとは思わなくて。独り言です。うちに何か御用ですか?」
 宗助はそう言いながら、男を注意深く観察した。

 どこにでもありそうな安物の着物は着ていたが、身なりは整っており、落ち着いた雰囲気から物乞いや物取りの(たぐい)ではないと、宗助は判断した。

「ええ、あなたに用が」
 男は静かに答えた。
 宗助は首を傾げる。
 男は商人なのか、背中に何か背負っていた。

「あの……あいにく贔屓にしている店があるもので、新しく何か仕入れることは……」
 宗助は申し訳なさそうな顔で男を見る。
 男の表情はまったく変わらなかった。

千代(ちよ)(かた)様からの言づてです」

「……え?」
 宗助は眉をひそめる。
「えっと……、それはどなたですか?」

 男は何も言わず、着物の袖口に手を入れた。
 袖口から取り出したのは、一輪の花だった。
 紫の小さな花びらを広げたその花は、宗助が見ることを恐れていた花だった。

 宗助は目を見開いた。
「…………紫苑……の花ですか……?」


『紫苑の花を見たときは……ほんの少しでいいから……私のこと、思い出してくれ』
 紫苑の言葉が、頭の中に響く。


 宗助は目を泳がせた。
「えっと……、これは……どういう……」
 宗助の声はかすれていた。

 男は静かに袖口に花を戻す。
「千代の方様からの言づてです。……『守ってほしい』と」
「……守る……?」
 宗助は男を見つめた。
 男は小さく頷くと、背負っていたものを注意深く下ろし慎重に両腕で抱えた。

「な!?」
 宗助が息を飲む。
 男が両腕で抱えていたのは、まだ一つにもなっていないであろう赤子だった。
 赤子は身じろぎひとつせず、男の腕の中で静かに眠っていた。

「こ、この子は……?」
 宗助は赤子を起こさないように、声をひそめて男を見た。

「この方は毒を盛られて命が危うくなったため、千代の方様がこの方は亡くなったと偽って奥の外に出しました。千代の方様があなたに『この子を守ってほしい』と」
 男は淡々と語った。
 宗助は驚きで言葉が出なかった。

(毒……? 命が危うく……? 俺に守ってほしい……?)
「何を……言って……」
 宗助は頭を抱えた。
 理解が追いつかなかった。

「毒はもう大丈夫ですが、すでにこの方は亡くなったことになっています。帰る場所はありません」
 男は淡々と言った。
「な!?」
 宗助は男を見つめる。
「……わかっているのか? ここは吉原だぞ……?」

 男は静かに頷いた。
「ええ、吉原ほど見つかりにくい場所はないでしょう。それに、吉原であればたとえ見つかっても連れ戻される可能性は低いでしょう」

 宗助は思わず口を開きかけたが、静かに唇を噛む。
 男が言いたいことはわかった。

 宗助は戸惑いながら、男の腕の中の赤子を見る。
 そこには確かに紫苑の面影があった。
 宗助は頭を抱え、その場にしゃがみ込んだ。
「どうしろって言うんだ……」
 宗助は絞り出すように呟いた。

「千代の方様からの残りの言づてです。『この子に自由を。自由に生きさせてやってほしい』と」

 宗助は顔を上げ、男を見上げる。
「自由……?」
「ええ、自由に生きられるようにしてほしいと」

 宗助は目を伏せる。
 それは、紫苑自身の願いのようにも感じられた。
 宗助は拳を握りしめる。


(そうか……。それが……おまえの願いなら……)

 宗助はゆっくりと立ち上がった。
「わかりました……。それが……願いなら……」
 宗助は男を見つめた。

 男は少しだけ頷くと、腕の中の赤子を宗助に差し出す。
 宗助は慎重に赤子を抱きしめた。
 赤子は見た目よりも少しだけ重く、そしてどこまでも温かかった。
 宗助の目に何かがこみ上げる。

「この子……名前は……?」
 宗助はこみ上げるものを抑えるように、少しだけ上を向いて言った。

「桜様です」
「さくら……?」


『おまえの一番好きな花だもんな』
 桜の花びらが舞う中、微笑んだ紫苑の顔が鮮やかに頭の中に蘇る。

「そう……ですか……」
 宗助はなんとかそれだけ口にした。

「ええ。千代の方様にとって、大切な思い出の詰まった花だそうです」
 男は淡々と言った。

 上を向いたままの宗助の目尻から静かに涙がこぼれ頬を伝う。
「そう……なんですね……」


「ええ」
 男はそれだけ言うと、静かに後ろに下がった。
「では、私はこれで失礼します」
 男は音もなく暗闇の中に姿を消した。


 残された宗助は、腕の中の赤子を見つめる。
 宗助は壊れ物を扱うように、そっと赤子を抱きしめた。

「桜……。おまえは必ず自由に……! 必ず守るから……!」

 腕の中の赤子は身じろぎひとつせず眠り続け、宗助にただ温もりだけを伝えていた。
 宗助は、桜を抱きかかえて玉屋の中に戻った。
(……よく考えたら、赤子ってどうやって育てるんだ……?)
 宗助は急速に現実に引き戻されていくのを感じた。
 弟の世話はしていたが、さすがに赤子の頃から世話はしていなかった。
(どうしたら……)
 宗助は入口に立ったまま、桜を見つめて途方に暮れた。

 そのとき、階段が軋む音がした。
 誰かが二階から下りてきたようだった。

「楼主様……?」

 階段を下りた遊女は、入口で立ち尽くしている宗助を見て眉をひそめた。
「こんな時間にどうされたのですか?」
 遊女は眠そうに目をこすりながら、宗助に近づいた。
「その抱えていらっしゃる荷物は一体…………」
 遊女はそう言いながら、宗助の抱えていたものをのぞき込み、息を飲んだ。

「あ、赤子!?」
 遊女は目を丸くすると、赤子と宗助の顔を交互に何度も見た。

(あ、俺の子どもだと思われているのか……!)
 宗助は慌てて首を横に振る。
「あ、この子は……その……見世の前に……捨てられていて……」
「え!?」
 遊女は驚愕の表情で宗助を見た。
「こ、こんな赤子をですか!? し、信じられない……! こんな、まだ自分で何もできない子を置いていくなんて……!」
 遊女の声は明らかに怒りを含んでいる。

 宗助は少し意外に思った。
 いつも虚ろな目で笑顔を貼り付けていた遊女が、こんなにも感情を露わにするところを、宗助は初めて見た気がした。

 そのとき、宗助の腕の中で眠っていた桜が目を覚ました。
 ぼんやりとしていた桜はゆっくりと宗助に目を向ける。
 見知らぬ男の顔を見たせいか、桜の顔はみるみるうちに歪んでいく。
(あ、マズい! 泣く!)
 次の瞬間、桜の泣き声が見世に響いた。
(ど、どうしたらいいんだ……!)
 宗助がたどたどしく桜の背中をポンポンと叩いたが、桜は一向に泣き止む気配がなかった。

「楼主様、何をしているんですか。ほら、赤子をこちらに」
 遊女は宗助にそう言うと、少し強引に宗助の腕から桜を奪い、そっと腕に抱いた。
 遊女は慣れた手つきで体を揺らしながら、桜の背中を優しくポンポンと叩く。
 包み込まれるような抱き方に安心したのか、桜は泣くのを止めて、再びウトウトとした表情を見せた。

「す、すごいな……」
 宗助は思わず、遊女を見つめた。
「ここに来る前は、小さな妹や弟の子守りをずっとしていましたからね」
 遊女は宗助を見るとふふっと笑った。
「それにしても……。楼主様の慌てっぷりたら……。おろおろしているところなんて初めて見ました。楼主様も人間だったんですね」
 遊女は楽しそうに笑った。

 貼り付けたような笑顔とは全く違う、本当に笑った遊女の顔を、宗助は初めて見た。

「それは……。そんなに笑うな」
 宗助は少し顔を赤くしながら言った。

 反論しようと宗助が口を開きかけたとき、宗助は二階がざわざわしていることに気がついた。
 客をとっていなかった遊女たちが泣き声を聞き、一斉に一階に下りてきていた。

「今の泣き声はなんですか……?」
「あれ、楼主様……。そんなところで何を……?」
「え、あんたが抱いてるの、赤子かい!?」
「え!? なんで赤子がここに!? 誰の子!?」
「え、可愛い……。なんでこんなところに……」

 桜は一気に遊女たちに取り囲まれた。
 宗助に代わって遊女が事情を説明すると、みんな驚愕の表情を浮かべた。

「こんな小さい子を捨てるなんて、鬼畜すぎる……」
「これからここで育てるってことかい?」
「ここで育てられる……?」
「だいたいこの子いくつなんだろ……」
「一つになる前じゃないか?」
「それくらいの時期だと歯もないんじゃない? 何か食べられる?」
「さっき見たら、この子歯は四本あったんだ。だから、柔らかいご飯とか細かくした野菜とかは食べられるよ、きっと」
「へ~、そうなのか。あんた詳しいね」
「まぁ、小さい子の面倒は慣れてるから」
「じゃあ、この子が起きたときのために、早めに飯炊きに伝えてくるよ!」
「ああ、頼むよ」

 宗助は遊女たちのやりとりを遠巻きに見ながら、ただただ呆気に取られていた。

「布でおむつを作ってやらないとね」
「ああ、そうね。どうせもう眠れそうにないし、今から作るか」
「そうだね。すぐ必要になるし、たくさんいるだろうから」
「それなら私も手伝うよ。作り方教えてくれるかい?」
「私もお願い」

 遊女たちの声で目を覚ましたのか、二階からまた誰かが下りてくる気配がした。

「あ、太夫! すみません、起こしてしまいましたか?」
 遊女のひとりが声を上げた。

「大丈夫。気になって下りてきただけだから」
 太夫はにっこりと微笑むと、遊女たちの中心にいる桜の元に歩いていった。

「可愛い子ね……」
 太夫はそっと、桜の頬を撫でる。
「抱かれたままでは落ち着かないだろうから、とりあえず布団に寝かせてあげましょうか。今、私は座敷にいるし、私の部屋の方は使っていないから、よければそこに寝かせてあげて。あそこが一番広いでしょう?」

「そうですね! 寝かせにいきましょう」
「私も一緒に行っていい?」
「私も!」
「いいけど、起こさないように静かにね」

 遊女たちは笑い合いながら、二階へと上がっていった。

 宗助は呆気に取られたまま、桜と遊女たちを見送る。
 一階には太夫と宗助だけが残された。

「楼主様」
 太夫は宗助に微笑んだ。
「あの子……何か訳ありですか?」

「……え?」
 宗助はぎこちなく視線をそらした。

 太夫はフッと笑う。
「あの子が包まれていた布はすごく安物でしたけど、あの子の肌に直接触れる着物は、質素で少し汚してありましたが最高級のものでした。何か事情がある子のようですね……」

 宗助の顔がサッと青ざめる。
 太夫は目を伏せた。
「特に詮索する気はありません。それより……こんなに活き活きしたみんなの顔……初めて見ました」
 太夫は目を細めた。
「あ、ああ。それは俺も……初めて見た」

 太夫はにっこりと微笑んだ。
「楼主様も含めてですけどね」
 太夫は小さく呟いた。

「ねぇ、楼主様。……たとえ光が見えなくても、守るべきものがあれば人は強く生きられるものなんですよ。見えなくても自分自身のここに光が宿るのです……」
 太夫は自分の胸に手を当てた。
「みんなのこの光が消えないように、あの子を大切に育てていきましょう。……ここの、みんなで」
 太夫はそう言うと、にっこりと微笑んだ。

 宗助は少しだけ目を見張った後、静かに目を伏せた。
「ああ、そうだな……。ありがとう……」

 太夫と宗助は少しだけ視線を交わすと二階を見つめる。
 玉屋に明るい光が差し込み始めていた。
 宗助が気がつき振り返ったときには、もうすでに夜はすっかり明けていた。