紫苑が去ってからも、宗助はその場を動くことができずにいた。
 宗助にはどれだけ時間が経ったのかわからなかった。
 ただ、襖の隙間から差し込む明るい日差しがすでに夜が明けたことを物語っていた。
(もう今日……、紫苑は……)

 宗助はきつく目を閉じ、拳を握りしめた。
(俺は一体…………)

 そのとき、襖が開く音がした。
 目を閉じていても部屋が一気に明るくなったのがわかった。

「おまえ……、ずっとそうしていたのか……?」
 驚いたような紫苑の声が響く。

 宗助は弾かれたように顔を上げた。
 眩しさで目を細めながら、宗助は紫苑を見上げる。
 日差しを背にした紫苑の表情まではわからなかったが、紫苑はすでに髪を結い上げ、身なりを整えていた。
「紫苑……」

 紫苑は部屋に入ると、ゆっくりと宗助の前まで足を進める。
 昨夜と同じように紫苑は宗助の前で膝をついた。

「悪かったな……。こんなふうに、傷つけるつもりではなかったんだ……」
 紫苑は静かに目を伏せた。
「何……言ってるんだ……。傷つけたのは俺の方だろ……?」
 宗助はかすれた声で言った。

 紫苑は宗助を見つめると、ゆっくりと横に首を振った。
「おまえの返事は最初からわかっていたんだ……。言葉の意味もちゃんと理解している。だから、おまえは何も悪くない」
 紫苑は微笑んだ。前日までとは違う晴れやかな笑顔だった。

「紫苑……」

「わかっていた。……わかっていたのに、昨日ここに来たのは……後悔しないためだったんだ。おまえに想いを伝えたら違う未来があったかもしれないと……いつかそんな後悔をしないように……。だから、これでいいんだ」
 紫苑は宗助の手を取った。

「それに言っただろ? 私がおまえを幸せにしてやるって」
 紫苑はそう言うと晴れやかに笑った。

 宗助は目を見開く。

「この家は私が守るから。幸せになれ、宗助」
 紫苑のその笑顔には一点の曇りもなかった。

「紫苑……、俺は……」
「宗助」
 紫苑は宗助の言葉を遮ると、静かに目を伏せた。
「…………ありがとう」

 紫苑はそれだけ言うと、宗助の手を離した。
「じゃあな……」
 紫苑はゆっくりと背を向けると、廊下に向かって歩いていく。

「紫苑……!」
 宗助の声に、紫苑は足を止めた。

「もし……、ひとつわがままを聞いてくれるなら……」
 紫苑はわずかに振り返った。
「紫苑の花を見たときは……ほんの少しでいいから……私のこと、思い出してくれ」

 笑った紫苑の瞳から光るものがひと筋だけ流れ、頬をつたって落ちた。
 紫苑はそれだけ言うと、宗助の部屋を後にした。


 その日、予定より早い時刻に、紫苑は江戸へと旅立っていった。
 時刻を早めたことはほとんどの者には知らされず、見送りができたのは紫苑の父親と一部の奉公人だけだった。