(すっかり遅くなったな……)
 叡正は提灯で足元を照らしながら、朝訪れたばかりの橘家に向かっていた。
 法要を終えた叡正は一度寺に戻り、寺のことをすべて済ませた後、すぐに吉原に向かった。
 探すだけの予定が逃げる手助けをすると言ってしまったことを、叡正は咲耶に伝えておきたかった。
 ただ、吉原に着いた頃には夜見世が始まる時間になっていたため、叡正は見世にいた弥吉に伝言を頼み、そのまま橘家へと向かった。

(来ない可能性が高いとはいえ、言った本人がその場にいないのはさすがにまずいだろう……)

 叡正が橘家の前に着いたとき、予想通りそこには誰もいなかった。
(やっぱり来ないか……)
 叡正は目立たないように、提灯の灯りを消す。
(もう少し待って、来なければこのまま帰るか……)

 叡正は暗闇の中で、そっと目を閉じた。
 辺りは何の音も聞こえないほど静かだった。

(あの子の兄が何をしたのかはわからないが……。あの子を……助けられるなら助けたい)
 叡正は静かに目を開けた後、少しだけ苦笑した。
「まぁ……、後のことはまだ何も考えてないけど……」

「あ、そうなんですね……」
「!?」
 突然耳元で声が聞こえ、叡正はビクリと体を震わせる。

 声のした方を見ると、そこには咲がポツンと立っていた。
「ご、ごめんなさい……。突然話し出したので、気づいているのかと思って……」
「あ、いや……すまない。あれは独り言で……」
 叡正は落ち着きを取り戻すと、目を凝らして咲を見た。

 咲は、荷物らしきものを何も持っていなかった。

「あの……、私やっぱり……行けません……。それを言いにきました……。もし兄が罪を犯したのだとしたら……私が罰を受けるのは当然だと思いますし……」
 咲は目を伏せた。
「それに……外で生きていく自信がないんです……。私、何もできないですし……。どう生きていけばいいか……わからないんです……」

 そのとき、叡正の後ろから声が響いた。
「……どう生きるか……」

 叡正はこの声に聞き覚えがあったが、叡正の知っている声とは少し声色が違っていた。
(え……? 信の声……だよな……?)
 叡正は後ろを振り返る。
 そこにあるのは暗闇だけで、人の姿は見えなかった。

「どう生きるかなんていうのは、当たり前みたいに生きられる人間が考えることだ」

 咲は少し怯えた様子で声のした方を見ていた。
 声はゆっくりと二人に近づいてきている。

「おまえが当たり前のように生きてこられたのは、兄がいたからだ。兄がいない今、ただ生きるために必死に足掻かなければいけないとなぜわからない?」
 叡正の目には薄っすらと人影が見え始めていた。

(やっぱり……信だよな……)
 いつもの淡々とした口調は変わらなかったが、その声からはかすかに怒りが滲んでいた。

「その顔についている目は飾りか? 手や足はついているだけで足掻くこともできないのか? 罪? 罰? そんなもの誰が決める? しかも、ただ血のつながりがあるというだけの他人が罰を受けるのか? そんなものに縛られて命を捨てるつもりか?」

 叡正の目に、はっきりと信の姿が映った。
 信の表情はいつもと変わらなったが、その瞳だけが鋭い刃物のように咲を見つめていた。
 叡正の背筋に冷たいものが走る。

「死にたければ、死ねばいい。おまえの兄が必死で守ってきた命を、おまえ自身が捨てたいと思うならそうしろ。だが生きると決めたなら、自分の手と足でちゃんと足掻け」

 叡正は茫然と信を見つめていた。
(信は一体どうしたんだ……?)

 刃物を突きつけられたように、咲と叡正はしばらく動くことができなかった。


「お、おい……。おまえ一体どうしたんだ……?」
 叡正はなんとかそれだけ口にした。

 信は叡正を無視したまま、真っすぐに咲を見ていた。
「おまえはどうしたいんだ? 生きたいのか、死にたいのか」

「わ、私は……ここで生きて……」
「ここにいれば、おまえは死ぬ。外で生きるか、ここで死ぬかだ」
「そ、そんな……」
 咲は怯えるように後ずさった。

「俺はおまえの兄に、妹を助けてほしいと言われたからここに来た」
 信の言葉に、咲は目を見開く。
「兄にですか!? 兄は今……」
「おまえの兄がどこにいるかは知らない。俺はただ頼まれただけだ」
 信は咲の言葉を遮る。

 咲はゆっくりと目を伏せた。
「そう……ですか……」
「俺は助けてほしいと頼まれた。だが、おまえが望まないのなら無理に連れていくつもりはない。おまえは、どうしたいんだ?」
 信は咲を見つめ続けた。

「私は……」
 咲の声は震えていた。
「私は…………生きたい……です」
 咲の声はまだ震えていたが、その目は真っすぐに信を見ていた。

「……そうか。それなら、生きられるところに連れていく」
 信はそれだけ言うと、二人に背を向けて歩き始めた。

 茫然と二人を見ていた叡正は、ようやく我に返った。
「お、おい、ちょっと待てよ」

 叡正は慌てて信の後を追った。