【コミカライズ】鏡花の桜~花の詩~

(そろそろ誰かに声を掛けたいな……)
 先ほどから何人かの奉公人とはすれ違っていたが、叡正の法衣を見ると会釈をしてすばやく通り過ぎていくため、なかなか声を掛けることができずにいた。

 叡正が思い悩みながら廊下の角を曲がると、その瞬間、反対側から歩いてきていた女とぶつかった。
「あ、すまない」
 よろける女を慌てて叡正が抱きとめる。
「いえ! こちらこそ! 申し訳ございませ……」
 女は慌てて半歩下がると顔を上げた。
 叡正の顔を見た瞬間、女は目を見開く。
 頬は赤く染まり、謝罪の言葉は不自然なかたちで途切れた。

(あ、今が声を掛ける絶好の機会か……!)
 叡正は意を決して女を見た。

「少し聞きたいことがあるんだが、今話せるだろうか?」
 叡正はよそいきの綺麗な微笑みを浮かべた。
 女は叡正の笑顔を見ると、ますます顔を赤くした。
「あ、はい! もちろん大丈夫です!」
 女は目を輝かせる。
「ありがとう。人を探しているんだが、ここに『さき』という奉公人はいるか?」
 叡正の口から女の名が出てきたことに、女はあからさまに肩を落とした。
「あ、はい……。(さき)は、私と同じ飯炊きですが……お知り合いですか……?」
「知っているんだな!」
(いた! こんなに早くわかるなんて!)
 肩を落とした女とは対照的に、叡正は喜びで思わず頬が緩んだが、女のジトっとした視線を受けて慌てて首を横に振った。
「あ、いや、知り合いというわけではないんだ。そこで落とし物を拾ったんだが、『さき』という刺繍があったから届けようと思ってね……」
「ああ! そうだったのですね!」
 女の顔がパッと明るくなる。
「それでしたら、私が届けておきますので」
 女はそう言うと、にっこりと微笑んだ。

(う……、それだと困るんだよな……)
 叡正の顔が思わず引きつる。
「あ、いや。落とし物を俺の勝手な判断で人に渡すというのは気が引ける。手間をとらせて悪いんだが、『さき』という奉公人のところまで連れていってもらえないだろうか?」
「咲のところにですか……? 私の一存でお客様をお屋敷の奥までお連れするというのは……」
 女は顔を曇らせると叡正から視線をそらした。

(まずい……。いることはわかったが、なんとか顔くらいは見ておかないと……。あと一押し……なんとか……)
 叡正は意を決して女の手をとった。
「……え?」
 ふいに手を掴まれた女は、目を丸くする。
 叡正は女の手を両手で包むと、顔を近づけて懇願するように女をじっと見つめた。
「……頼む」
 女の顔がみるみるうちに真っ赤に染まっていく。
「届けてやりたいんだ。頼む」
 叡正は真っすぐに女を見つめ続けた。

「あ、そ、その……。そこまでおっしゃるなら……。は、はい……、お連れします……から……」
「ありがとう! 恩に着る!」
 叡正は力強く女の手を握りしめた。
「あ、は、はい……!」
 女は首元まで赤くしながら言った。

(なんとか探すという約束は果たせそうだな……)
 叡正はホッと胸をなでおろした。

「そ、それではご案内しますので……ついてきてください」
「ああ、頼む」
 叡正はそう言うと、女の手をそっと離した。
 女がくるりと背を向けて廊下を歩き出す。
 その首筋はまだほんのりと赤かった。

『おまえの色気でなんとか……』
 叡正は一昨日、咲耶に言われたことを思い出していた。

(俺の使い道ってやっぱりこんな感じのことしかないんだよな……)
 叡正は少しだけ情けなくなり、前を歩く女に聞こえないくらいの小さなため息をついた。
 叡正は女の後に続いて屋敷の奥へと足を進めていた。
 奥へ進めば進むほど奉公人の数は増え、忙しなく廊下を行き来していた。
 客が屋敷の奥まで来るのはやはり珍しいのか、皆戸惑いながら法衣を来た叡正に頭を下げた。

「ここの奥が台所なので、こちらでお待ちください。今、呼んでまいりますので」
 女は叡正にそう言うと、扉を開けて中に入っていった。

(さぁ、ここからどうするか……)
 廊下にひとりになった叡正は、腕組みをしてそっとため息をついた。
(とりあえず顔が確認できれば十分だよな……。どう考えてもいきなり連れ出すなんて無理だし……)

 叡正が考え込んでいると、ガラッと扉の開く音がした。
 叡正が視線を上げると、先ほどの女とともに、どこか不安げな表情の女が扉から出てきた。
「こちらが咲です」
 女は、隣にいる女をちらりと見て言った。
「あ、咲と申します。私が何か落としてしまったようで……お手数をおかけして申し訳ありません」
 咲は一度だけ叡正の顔を見ると、すぐに申し訳なさそうに目を伏せた。

(この子が、咲か……)

 叡正は咲を見る。
 咲は印象に残りにくい素朴な顔立ちをしていた。
 咲の背は決して低くなかったが、ずっと申し訳なさそうにうつむいているせいか、隣にいる女よりもずっと小さく見えた。

「あの……、お、落としたものを……」
 咲がおずおずと叡正を見上げた。

「あ……、えっと……」
 叡正は、咲の隣に立っている女をちらりと見る。
「その……ほかの者が見ている前では出しにくいものだから、少し外してもらえるだろうか?」

 女と咲は二人同時に目を丸くした。
「え……?」
 咲は一瞬ポカンとした顔をした後、みるみる顔を赤くした。

(しまった……。何か恥ずかしいものを落としたような感じになってしまった……)

 女は気の毒そうに咲を見た後、叡正の方を向いた。
「そういうことでしたら……」
 女はそれだけ言うと、そそくさと扉を開けて台所の方に去っていった。

 女がいなくなったのを確認すると、叡正は慌てて咲の方を向く。
「す、すまない! そんなことを言うつもりでは……申し訳ない!」
「あ……いえ……」
 咲は真っ赤な顔のままうつむいた。

「それに……落とし物を拾ったというのは嘘なんだ……」
「え……?」
 咲は目を丸くして顔を上げる。

「実はその……君のお兄さんと知り合いで……」
 叡正の言葉に、咲は目を見開いた。
「兄と、ですか!?」
 咲はそう言うと、先ほどまでとは別人のように叡正に詰め寄る。
「あの! 兄は今どこにいるんですか!? ずっと心配で……!」
 咲の勢いに、叡正は思わず後ずさった。
「あ、えっと……、ここ最近は会ってないんだ……。最後に会ったときに、君をすごく心配してたから……。法要のついでに顔を見ていこうかと……」
 叡正はあらかじめ考えておいた言い訳を口にした。
 叡正の言葉に、咲は明らかに肩を落としていた。
「そう……でしたか……」

「その……お兄さん、行方がわからないのか……?」
 咲は一度叡正を見てから、静かに目を伏せた。
「はい……。兄は基本的に旦那様に直接仕えているのですが、行方がわからなくなったらしいのです……。旦那様の大切なものを持って逃げたという噂も広がっていて……。最初からそのつもりでこの屋敷に来たのではないかと疑われていて……」

(一体、どこまでが事実なんだ……?)
 叡正は咲の兄が死んだということだけは知っていたが、それは今話すべきではないと判断した。

「そう……なのか……。それは君も居心地が悪いだろうね」
 叡正の言葉に、咲は苦しげな表情を見せた。
「居心地……というよりは、最近変なことが多くて……」
「変なこと?」
 叡正は眉をひそめる。
「かまどに薪を入れているときに後ろから誰かに押されたり……、食事の味が今までとどこか違ったり……大したことではないのですが、火傷や怪我、体調を崩すことが多くなってきていて……」

 叡正は目を見開いた。
(これは、思っていたよりもすでに危ないんじゃないか……?)

「そんなことがあるのに……君は逃げようとは思わないのか?」
 叡正は咲を見つめた。
「ここまでよくしていただいた恩があります……。それに、私が逃げたら兄がやはり悪いことをしていたと思われてしまいそうで……。本当に兄が悪いことをして逃げたのなら、それこそ私が罪を償わないといけませんし……」

(……恩……、罪を償う……?)

 叡正は茫然と咲を見つめる。
 咲が、今はもういない叡正の妹と重なって見えた。

(ああ……あいつもそんなことを考えていたんだろうな……)
 叡正はきつく目を閉じた。
(その後、辿った道は……)

 叡正はゆっくりと目を開けた。
「俺が……言うことではないのかもしれないが……、もっと自分を大事にしてほしい。恩があったとしても命の危険があるなら逃げるべきだ。それに……もし君のお兄さんが罪を犯していたとしても、それを君が償う必要はない。何よりお兄さんが絶対にそれを望んでいない。君のことを心配していたんだから」

 叡正の言葉に、咲は目を見開いた。

「逃げるんだ。自分のために……。もし逃げる気があるなら手伝うから。もし……その気があるなら、今日の夜、屋敷の門の前に来てくれ」
 叡正は真っすぐに咲を見つめた。

「わ、私は……」
 咲は目を泳がせる。
「私は……どうすればいいか……。……すみません!」
 咲はそう言うと、叡正を押しのけて廊下を駆け出した。

 叡正は咲の後ろ姿を呆然と見つめながら、よろよろとその場にしゃがみ込む。
(ああ……失敗した……! あんなこと急に言ったら混乱するに決まってるだろう……)
 叡正は頭を抱える。
(……とりあえず、まずは来ることに賭けるしかないか……)
 叡正は頭を抱えたまま、祈るように目を閉じた。
(俺は……どうして生きようとしてるんだっけ……)
 小屋の片隅で、信はぼんやりとそんなことを考えていた。
(なんだろう……。頭がはっきりしないな……)
 思考だけなく、信の視界は霞がかかったようにぼんやりとしていた。
(ああ……、さっきの食事……そういう毒だったのかな……)

 信は少し離れたところにいる百合に視線を向ける。
 百合は布団から体を起こし、窓から差し込む光に向かって祈りを捧げていた。

(足までなくして……どうしてまだ神なんて信じられるんだ……)
 信は静かに目を閉じた。

 あれから男の言葉通り、百合の食事には常に毒が入っていた。
 信がそばにいるあいだは、信の食事と入れ替えることで百合が毒を口にすることを防いでいたが、信が外に出ているあいだはそれも難しかった。
 とにかく早く仕事を終えて百合の元に戻ること。必然的にそれが信にとっての最優先になった。
 
 どうすればより早く殺すことができるのか、信はただそれだけを考えていた。
 今ではどんな相手でも半日かからずに殺すことができるようになったが、早急に事を進めているため、傷を負うことも増えてきていた。

(俺は一体……何をしているんだろう……)
 信はぼんやりと自分の両手を見つめた。
 最近では手が赤く染まっている時間の方が圧倒的に長い。
(殺したくもない人を殺して、殺したくてたまらないほど憎い男に頭を下げて……。どうして俺は生きようとしてるんだっけ……)

 信は窓から差し込む光に目を向けた。
 光が差す先にいる百合は、まだ静かに祈っていた。

(そうだ……、姉さん……)

 信が死ねば、百合も死ぬ。
 今までの男の行動から、信が役に立たなくなれば百合が殺されるのは明らかだった。

(この世でたったひとりの血を分けた姉さん……)
 信は百合を見た。百合の髪が光を受けて淡く輝いている。
(俺が守らないと……)
 信はこぶしを握りしめる。


 信と百合の母親は、綺麗な人だった。
 ただ良い母親だったかと聞かれると、信にはよくわからなかった。
 信とって母親は、生み育ててくれた人だったが親というにはどこか距離があった。
 どちらかといえば道徳的な教えを説く人という印象が強い。
 母親は愛を持って二人に接していたが、二人を本当の意味で愛していたのかは、信にはわからなかった。
 生みたくて生んだのか、生まなければならなかっただけなのか、信は幼い頃よく考えていた。

 『人を殺してはいけない』
 この教えは、信の母親にとって絶対に破ってはいけないものだった。
 たとえ、まだお腹に宿っただけの命だったとしても殺すことはできない。

 母親の客がよく「どうして生んだのか?」と母親に聞いていたが、信は知っていた。
 生むという選択肢以外、母親の中にはなかったのだ。

 望まれて生まれたかどうかもわからない二人。
 さらに百合は生まれたときから目が見えなかった。

(俺が守らないと……。俺のせいで足までなくしたんだ……)

 百合は足をなくして以来、少しずつ外に出ることが減ってきていた。
 目が見えないため、もともと頻繁に外に出てはいなかったが、動くのに杖が必要になると少し歩くだけでも体力の消耗が激しいようで一層その回数は減った。

(俺が守らないと……。そのためにはどんなことでも……)
 信は強くこぶしを握りしめると、固く目を閉じた。
(すっかり遅くなったな……)
 叡正は提灯で足元を照らしながら、朝訪れたばかりの橘家に向かっていた。
 法要を終えた叡正は一度寺に戻り、寺のことをすべて済ませた後、すぐに吉原に向かった。
 探すだけの予定が逃げる手助けをすると言ってしまったことを、叡正は咲耶に伝えておきたかった。
 ただ、吉原に着いた頃には夜見世が始まる時間になっていたため、叡正は見世にいた弥吉に伝言を頼み、そのまま橘家へと向かった。

(来ない可能性が高いとはいえ、言った本人がその場にいないのはさすがにまずいだろう……)

 叡正が橘家の前に着いたとき、予想通りそこには誰もいなかった。
(やっぱり来ないか……)
 叡正は目立たないように、提灯の灯りを消す。
(もう少し待って、来なければこのまま帰るか……)

 叡正は暗闇の中で、そっと目を閉じた。
 辺りは何の音も聞こえないほど静かだった。

(あの子の兄が何をしたのかはわからないが……。あの子を……助けられるなら助けたい)
 叡正は静かに目を開けた後、少しだけ苦笑した。
「まぁ……、後のことはまだ何も考えてないけど……」

「あ、そうなんですね……」
「!?」
 突然耳元で声が聞こえ、叡正はビクリと体を震わせる。

 声のした方を見ると、そこには咲がポツンと立っていた。
「ご、ごめんなさい……。突然話し出したので、気づいているのかと思って……」
「あ、いや……すまない。あれは独り言で……」
 叡正は落ち着きを取り戻すと、目を凝らして咲を見た。

 咲は、荷物らしきものを何も持っていなかった。

「あの……、私やっぱり……行けません……。それを言いにきました……。もし兄が罪を犯したのだとしたら……私が罰を受けるのは当然だと思いますし……」
 咲は目を伏せた。
「それに……外で生きていく自信がないんです……。私、何もできないですし……。どう生きていけばいいか……わからないんです……」

 そのとき、叡正の後ろから声が響いた。
「……どう生きるか……」

 叡正はこの声に聞き覚えがあったが、叡正の知っている声とは少し声色が違っていた。
(え……? 信の声……だよな……?)
 叡正は後ろを振り返る。
 そこにあるのは暗闇だけで、人の姿は見えなかった。

「どう生きるかなんていうのは、当たり前みたいに生きられる人間が考えることだ」

 咲は少し怯えた様子で声のした方を見ていた。
 声はゆっくりと二人に近づいてきている。

「おまえが当たり前のように生きてこられたのは、兄がいたからだ。兄がいない今、ただ生きるために必死に足掻かなければいけないとなぜわからない?」
 叡正の目には薄っすらと人影が見え始めていた。

(やっぱり……信だよな……)
 いつもの淡々とした口調は変わらなかったが、その声からはかすかに怒りが滲んでいた。

「その顔についている目は飾りか? 手や足はついているだけで足掻くこともできないのか? 罪? 罰? そんなもの誰が決める? しかも、ただ血のつながりがあるというだけの他人が罰を受けるのか? そんなものに縛られて命を捨てるつもりか?」

 叡正の目に、はっきりと信の姿が映った。
 信の表情はいつもと変わらなったが、その瞳だけが鋭い刃物のように咲を見つめていた。
 叡正の背筋に冷たいものが走る。

「死にたければ、死ねばいい。おまえの兄が必死で守ってきた命を、おまえ自身が捨てたいと思うならそうしろ。だが生きると決めたなら、自分の手と足でちゃんと足掻け」

 叡正は茫然と信を見つめていた。
(信は一体どうしたんだ……?)

 刃物を突きつけられたように、咲と叡正はしばらく動くことができなかった。


「お、おい……。おまえ一体どうしたんだ……?」
 叡正はなんとかそれだけ口にした。

 信は叡正を無視したまま、真っすぐに咲を見ていた。
「おまえはどうしたいんだ? 生きたいのか、死にたいのか」

「わ、私は……ここで生きて……」
「ここにいれば、おまえは死ぬ。外で生きるか、ここで死ぬかだ」
「そ、そんな……」
 咲は怯えるように後ずさった。

「俺はおまえの兄に、妹を助けてほしいと言われたからここに来た」
 信の言葉に、咲は目を見開く。
「兄にですか!? 兄は今……」
「おまえの兄がどこにいるかは知らない。俺はただ頼まれただけだ」
 信は咲の言葉を遮る。

 咲はゆっくりと目を伏せた。
「そう……ですか……」
「俺は助けてほしいと頼まれた。だが、おまえが望まないのなら無理に連れていくつもりはない。おまえは、どうしたいんだ?」
 信は咲を見つめ続けた。

「私は……」
 咲の声は震えていた。
「私は…………生きたい……です」
 咲の声はまだ震えていたが、その目は真っすぐに信を見ていた。

「……そうか。それなら、生きられるところに連れていく」
 信はそれだけ言うと、二人に背を向けて歩き始めた。

 茫然と二人を見ていた叡正は、ようやく我に返った。
「お、おい、ちょっと待てよ」

 叡正は慌てて信の後を追った。
「おい、本当に……どこに向かってるんだ……?」
 叡正は黙々と歩き続けている信の横に並ぶと、小さな声で聞いた。
 信と叡正の少し後を、咲が小走りでついてきている。
 信が何も言わずに歩き始めてから、すでにかなりの距離を歩いていた。

 信は横目でチラリと叡正を見た。
「おまえも知っているところだ」
「俺も知っているところ……?」
 叡正は首を傾げた。
「そこに連れていくように咲耶に頼まれた」
 信の口調はいつもの淡々とした感情のないものに戻っていた。
「ああ、咲耶太夫に……」
 信のいつも通りの口調に、叡正は少しホッとしていた。

(さっき……なんであんなに怒ってたんだ……?)
 叡正は信を見つめる。
 信の横顔からは何の感情も読み取れなかった。
 叡正は目を伏せる。
(前に目の見えない姉さんがいたって言ってたし……。信もいろいろ思うところがあるってことか……)
 叡正は目を閉じて、小さく息を吐いた。

 叡正が目を開けて、信に声を掛けようとしたとき、ふいに信が立ち止まった。
「……どうしたんだ?」
 叡正も立ち止まると、信に聞いた。
「着いた」

 叡正は辺りを見回す。
 暗くてはっきりとは見えなかったが、ここは叡正にも見覚えがあった。
「ここは……」
 叡正が小さく呟くと、少し遅れて咲が二人に追いついた。
「こ、ここですか……?」
 ずっと小走りでついてきていたため、咲は息が上がっていた。
「ああ」
 信はそう呟くと、一軒の長屋の戸を強く叩いた。

 中からは何の音も聞こえなかったが、信は繰り返し何度も戸を叩く。

「お、おい……! 留守かもしれないから、そう何度も……」
 叡正が慌てて止めようとしたとき、中からドタッという大きな音が聞こえ、バタバタと戸に足音が近づいてくるのがわかった。

 勢いよく戸が開き、慌てたように男が出てくる。
「な、なんだ!? 急患か!?」

 出てきた男は目の前にいる信を見ると、あからさまに顔をしかめた。
「信……、おまえなんでこんな夜更けに……」
 そう言いながら男は、信の後ろにいる叡正と咲の方に視線を向けた。

「あ、おまえはあのときの……」
 男は叡正を見て目を丸くする。
 叡正は慌てて頭を下げた。
「あ……、あのときはお世話になりました……」

(向かってるところってここだったのか……)
 叡正はゆっくり頭を上げると、目を丸くしたままの良庵を見つめた。
 良庵は、叡正の妹を最後まで診てくれた医者だった。

 良庵は困惑したように頭を掻いた。
「えっと……なんでここに……? それにそちらの人は……? 患者……じゃねぇよな……。息は上がってるみたいだけど元気そうだし……」
 良庵は叡正の隣にいる咲を見て、首を傾げる。

「先生に助手を紹介に来た」
 信は淡々と言った。
「…………は? 助手……?? 俺に??」
 良庵は唖然とした顔で信を見る。
「え? ちょっと待て……。俺、助手が欲しいなんて言ったことあったか?」

「いや、ない」
「…………じゃあ、なんで紹介しに来たんだ……?」
 良庵はポカンとした表情で咲を見た。
「助手にして欲しいと思ったからだ」

 良庵は信を呆然と見つめた後、頭を抱えた。
「……ここはいつから駆け込み寺になったんだ……」
 良庵はうんざりしたような表情で信を見る。
「どうせあれだろ……。咲耶だろ……?」
 良庵の言葉に、信は静かに頷いた。
「腰が悪そうだからちょうどいいだろうと言っていた。今も調子が悪そうだから座った方がいいんじゃないか?」
 信は淡々と言った。
「ああ……。おまえが何回も戸を叩いてくれたおかげで、慌てて起きて転んだからな……。腰は絶不調だ……。気遣いありがとう」
 良庵は引きつった笑顔で応えた。
「しかし、助手って……。俺は……」

「あ、あの……!」
 良庵の言葉を遮るように、咲が声を上げた。
 咲は足早に良庵の前まで行くと、突然地面に膝をついた。

「お、おい……!」
 慌てて良庵がしゃがみ込む。

 咲は地面に両手をついて、縋るように良庵を見た。
「お願いです! 私をここに置いてください!! 私……今は何もできませんが……なんでもやります! なんでもすぐ覚えて……必ずお役に立ちます!! だから、どうかここに……。お願いします!!」
 咲は地面に額をつけるように、頭を下げた。

「おい……。とりあえず顔を上げてくれ……」
 良庵は慌てて咲に言うと、信と叡正を恨めしそうに見た。
 良庵は口にこそしかなかったが、『どうしてくれるんだこの状況』と訴えているのが叡正にもわかった。
 叡正は静かに視線をそらす。

 良庵は大きくため息をついた。
「とりあえず、中に入れ……。少しは事情を説明してくれ……。誰かさんの言うように、こっちは腰も痛いんだよ……」
 良庵の言葉に、咲はようやく顔を上げた。

 呆れ顔の良庵に促され、三人は長屋の中に入っていった。
「だいたい話しはわかったが……」
 ひと通り話しを聞き終えた良庵はため息をついた。
「それなら、別にここじゃなくたっていいだろう……。商家で人手がほしいところなんていくらでもあるんだから……」
 良庵は、向かい側に座っている信を見た。
 信は良庵の視線に気づき、顔を上げる。
「咲耶はどうして俺の助手にしようなんて思ったんだ?」
 良庵は首をひねった。

 二人の話を聞いていた叡正も、信に視線を向ける。
(確かに……。どうして咲耶太夫はここに連れていくように言ったんだ……?)

 視線を受けて、信がゆっくりと口を開く。
「ひとりで生きられるようになってほしいそうだ」
「ひとりで?」
 良庵の言葉に信は静かに頷いた。

(そうか……。確かに医者の助手なら、医者にならないにしてもいろんな道が選べるか……)
 叡正は咲耶の考えがなんとなくわかった気がした。

 医者の助手をしていれば薬の知識を得て、いずれ薬屋になることができるかもしれない。
 咲自身が子どもを生めば、医学の心得のある産婆になることもできるだろう。
 女がひとりで生きていくことが難しい江戸で、医学の知識は武器になる。

「ん~、その考えはわからなくもないが……」
 良庵は腕組みをしながら、咲を見た。
「あんたはそれでいいのか? 医者なんて、そんなにいい仕事じゃないぞ」

 急に視線を向けられ、咲は慌てて背筋を伸ばした。
「そ、そんな! お医者様はすごく立派なお仕事です!」
「立派ねぇ……」
 良庵は苦笑する。
「医者が人を救えるなんてのは幻想だよ。できるのは痛みを和らげたり、症状を抑えたりすることくらいだ。病気も怪我も、結局は自力で治してもらうしかない。どんなに医者が頑張ろうと、死ぬやつは死ぬんだ。目の前で死なれて、残された家族から責められることだって少なくない。あんた、それに耐えられるのか?」
 良庵の言葉に、咲は目を伏せた。

「医者にできるのは生きる手助けだけだ」

「生きる……手助け……」
 咲は良庵の言葉を繰り返した。

 咲はしばらくうつむいていたが、やがて意を決したように顔を上げた。
「それなら、やはり私は……ここで働きたいです」

 咲の言葉に、良庵は意外そうな顔をした。
「本当にいいのか? 助手とはいえ、ラクじゃないぞ?」

「はい」
 咲は良庵を真っすぐに見て頷いた後、わずかに目を伏せた。
「……私、今までずっと兄に助けてもらって生きてきたんです。何も考えずに……それが当たり前みたいに……。もしかしたら兄にも……誰かに助けてもらいたいときがあったかもしれないのに……」
 咲はそう言うと悲しげに微笑んだ。
「だから今度は、私が助けられる人間にならなきゃいけないんです。たとえ助けられなくても、助けようとする人間になりたいんです。もし……また兄に会えたら、今度は私が兄を支えられるように……」

 咲の言葉に、叡正は顔を曇らせるとそっと目を伏せた。

 叡正の様子を見て、良庵は何かを悟ったように小さく息を吐く。
「そうか……。わかった。それならここに置いてやるよ……」
 良庵はそう言うと頭を掻いて、信を見つめる。
「咲耶に言っとけよ。この借りは高くつくぞってな」

「ああ、わかった」
 信は淡々と言った。

「あ、ありがとうございます!」
 咲は嬉しそうに目を輝かせると、深々と頭を下げた。

「まぁ、そうと決まれば、俺が管理してる長屋でちょうど空いてるところがあるから、あんたはそこで今日から寝泊まりしな。後で案内してやるから」
 良庵は咲にそう言うと、信と叡正に視線を移した。
「で、おまえら二人にもう用はないから、さっさと帰れ」
 良庵はにこやかにそう言うと、信と叡正の腕を掴み引きずるように長屋の外に連れ出した。

 二人とともに外に出て長屋の戸を閉めると、良庵は深いため息をついた。
「とりあえず、あの子は俺が面倒みるからいいとして……」
 良庵は信を見つめた。
「あんまり危ないことに首突っ込むなよ? 詮索する気はないが……おまえだって死ぬときは死ぬんだ。あのとき助かったのは奇跡に近い。今度あんな状態になったら、おまえ死ぬぞ。それに……」
「ああ、わかってる」
 信は淡々と言うと目を伏せた。

 叡正は静かに二人を見つめていた。
(あのときって何のことだ……?)

 良庵はこめかみを指で押さえると、目を閉じて長い息を吐いた。
「わかってはなさそうだけど……。まぁ、いい……。とにかく気をつけろよ」

「ああ」
 信は短く答えると、良庵に背を向けて歩き始めた。
「あ、おい、待てよ!」
 叡正は慌てて良庵に頭を下げると、信の後を追う。

「まったく……危ないのはおまえだけじゃないんだぞ……」
 背後でため息交じりにそう呟く声が、叡正の耳にかすかに響いた。
(失敗したな……)
 信は痛む左脇腹を庇うように、小屋の壁に寄りかかりながら腰を下ろした。
「……ッ」

「信……、どうかしたの……?」
 百合が何かに気づいたように口を開いた。
「……いや、なんでもない」
 信は痛みで呼吸が荒くなっているのを悟られないように、淡々と答えた。
 百合はわずかに口を開いたが苦しげな表情で少しだけ唇を噛むと、きつく目を閉じた。
「…………そう」
 百合の声はわずかに震えていた。
 
 信は痛みで吹き出す汗を手で拭いながら、百合に心配をかけないように息をひそめる。
(骨……折れてるかもな……)
 信は左脇腹に目を向ける。
 昨夜目的の相手を殺して逃げる途中、追手のひとりに棒で殴られたところだった。
(あんなのが避けられないなんて……)
 信はこみ上げる吐き気を抑えながら苦笑した。

 信は目の前の景色が歪んでいくのを見て、静かに目を閉じる。
(もう……怪我で調子が悪いのか、毒でおかしいのかもわからないな……)

 信は、毒をあまり口にしないように草や虫を食べて飢えをしのいでいたが、飢餓感から食事を見ると毒とわかっていても口にしてしまう日が増えていた。
 すべて吐いてしまう日もあれば、体がしばらく麻痺する日もあり、毒が引き起こす症状はさまざまだった。
(俺は……本当に……何をやっているんだろう……)
 信はかすかに目を開けた。
(人を殺したら地獄に落ちるって言われてきたけど……地獄も……きっとここよりはマシだろう……)
 信は目に入った汗を、そっと手で拭った。

(もう……死んでもいいかな……?)

 薄く開けた目にぼんやりとした光が見える。
(いや……ダメか……。神様は自殺も許してくれないんだっけ……? あれ、どうしてだ……? ああ、地獄に落ちるからか……。じゃあ、人殺しの俺は……もう関係ないんじゃないのか……? それなら……どうして……?)

 ぼんやりとした光の中に人影が見えた。

(ああ、そうか……。姉さんか……。姉さんがいるから……俺は死ねないんだ……)
 信の視界の中で、薄茶色の髪が揺れる。


(そう……()()()()()()()()()……)


 その言葉が浮かんだ瞬間、信は頭から水を掛けられたように血の気が引いていくのを感じた。

(……え?)

 信のぼんやりとしていた思考が、一気にはっきりとしていく。

(俺は今……何を考えた……?)
 信の瞳が驚愕で見開かれた。

 歪んでいた視界が少しずつ元に戻り、百合が信の方を向いていたことがわかった。

(俺は……一体何を考えているんだ……! 俺がここにいるのは……姉さんを守るためだったはずなのに……!)
 信の呼吸は、気づかないうちにひどく荒いものになっていた。



「ねぇ、信……」
 ふいに、静かな声が響いた。

 信は慌てて呼吸を整える。
「な、何……? 姉さん」

「私のことはいいから」
 百合の声はとても穏やかだった。
「あなただけでも逃げて」

 信は一瞬、百合が何を言っているのかわからなかった。
(どうしてそんなことを……?)
「な、何言ってるの……? 姉さん……。逃げるって……どうし……」
「あなただけなら逃げられるでしょう?」
 信の言葉を遮るように、百合は口を開いた。
「私のために危ないことはもうしないで」
 百合はそう言うとゆっくりと目を開いた。焦点の合わない瞳が、信に向けられる。

 言葉が出なかった。
 信はただ見開いた瞳で百合を見つめていた。

「私のことは……本当に……もういいのよ……」
 百合の顔がゆっくりと歪んでいく。
 何も映していない瞳に、涙が溢れていくのが見えた。

 百合の白い腕が信を探すように動く。
「ねぇ……、信……」

 信は思わず立ち上がると、後ずさって壁にぶつかった。
 鼓動が耳のすぐ横で鳴っているようにうるさく響く。
(やめろ……やめてくれ……)
 信は両手で耳を塞いだ。
(気づかれた……? ど、どこまで……? 毒のこと? 人を殺していること?)

 信はうまく息ができなかった。

(俺が……姉さんの死を願ったことも……?)

「信……?」
 百合の声が聞こえた。

(ダメだ……! こんなの気づかれちゃいけない……!)
「な、なんのこと? ……何を言ってるか……よくわからない……」
 信はそれだけ口にすると、壁にぶつかりながら小屋の戸に向かって走った。

「……信!」

 百合の言葉を背中に受けながら、信は小屋の外に飛び出した。
 脇腹がズキリと痛み、信はその場にうずくまる。
 信はこみ上げるものを抑えきれず、うずくまったまま溜まっていたものをすべて吐いた。

 空っぽになっても気持ち悪さは消えなかった。
「俺は……、俺は……一体……」
 信は頭を掻きむしった。
(本当に死ぬべきなのは…………)
 遠のいていく意識の中で、信は自分がこの世から消えてなくなることを切に願った。
「誰だ……?」
 月明かりに照らされて、障子に薄っすらとした影が揺れていた。
 橘忠幸はそっと床の間にある刀に手を伸ばす。
 

「……俺ですよ」
 障子の向こうから、両手を上げた男が薄い笑いを浮かべて現れる。
 忠幸は小さく息を吐くと、刀から手を離した。
「なんだ、おまえか……」

「なんだとはなんですか。心配して来てあげたんですよ?」
 額に傷のある男はフッと笑うと、部屋の中に入った。
「心配? ……どうせ笑いにでも来たんだろう?」
 忠幸は忌々しげに言うと、男に背を向けた。

 男は忠幸の背中を見つめると、静かに息を吐いた。
「さっさと逃げた方がいいんじゃないですか? このままじゃ、殺されますよ?」

「どうして俺が逃げる必要がある? 俺は犬なんかに殺される気はない」
 忠幸は男を少しだけ見ると、不快そうに眉をひそめた。

(おいおい、どこから来るんだよ、その自信は……)
 男は悪態をつきたい気持ちをなんとか抑えた。
「殺される気はないって言っても、真正面から行って勝てる相手じゃないですよ?」

「そんなこと言われなくてもわかってる!」
 忠幸は苛立ちを隠す様子もなかった。

 男はため息をつく。
(そんな調子だから、自分の飼い犬に手を噛まれるんだろうが……)
 飼い犬に売られた可哀そうな主人だということはわかっていたが、男は忠幸に手を差し伸べる気にはなれなかった。
(こっちはあの方に言われたから、仕方なく警告してやってるっていうのに……)

「じゃあ、どうするつもりなんですか?」
 男はため息交じりに聞いた。
「要は、正面から行かなければいいんだろう……?」
「……は?」
「俺は殺されない……。俺が……先に殺してやる……」
 忠幸は男に背を向けて呟くように言った。

 男は眉をひそめて、忠幸の背中を見つめる。
(なんか……厄介なことになりそうだな……)
 男は額の傷を掻いた。
「俺は、逃げるのが一番いいと思いますけどね……」

 男の言葉に、忠幸が勢いよく振り返った。
「だから、どうして俺が屋敷を捨てて逃げなきゃいけないんだ! これまで築いてきたものを捨てる気はない!」
 忠幸の顔は怒りで赤くなっていた。

(たいしたもの築いてねぇだろうが……)
 男はゆっくりと息を吐いた。
「まぁ、そういうことなら……好きにしてください。俺はあの方に様子を見てきてやれと言われて来ただけなので」

「俺は死なない」
 忠幸は独り言のように呟く。

「はいはい、そう伝えておきます」
 男はそう言うと、忠幸に背を向けた。

「クソッ……あの方のお気に入りだからって……犬のくせに偉そうに……」
 忠幸の呟くような声が、かすかに男の耳に届いた。

 部屋を後にした男は、思わず苦笑した。
「お気に入りねぇ……」
 男は静かに目を伏せた。
「あの方にとってはただの玩具(おもちゃ)だよ。……俺も、おまえもな」
 男は小さく呟くと、夜の闇に消えていった。
「じゃあ、行ってくる」
 信の言葉に、百合は信の方に顔を向けると穏やかに微笑んだ。
「いってらっしゃい。気をつけて」
 信は百合をしばらく見つめると、静かに戸を開けて小屋を後にした。

 百合が、信に逃げるように言った日から一年近くが経っていた。
 あの日、信が小屋に戻ると、百合はすべてが夢だったかのようにいつも通り信を出迎えた。
 あれ以来変わらない百合の笑顔に、信はあの日の出来事は毒のせいで見た幻覚だったのではないかと思い始めていた。

(とにかく……今日も早く片付けて戻らないと……)
 信はいつもの山道を下りながら、空を見た。
 日が暮れ始める時間だったが、空は厚い雲で覆われていてすでに辺りは薄暗かった。

(雨が降りそうだな……)
 信は灰色の雲を見ながらぼんやりと思った。
 雨の日は雨音で気配を消しやすく、痕跡が残っても消えやすいため、仕事をするには悪くない天気だった。
(この天気なら多少強引に進めても大丈夫か……)
 信は目を伏せると、足早に山を下りていった。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 山を下りた頃に降り出した雨は、しだいに地面を叩くように強くなった。
 目的の屋敷に着いた頃には、雨音で周りの音はほとんど聞こえなくなっていた。
 雨で視界が遮られる中で、屋敷に侵入するのはいつも以上に簡単だった。

 信は雨に濡れた着物を軽く絞ると、目的の人物がいる部屋に向かう。
 屋敷の構造は、すべて信の頭に入っていた。
 屋敷の人間に見つからないように、信は慎重に足を進める。

 目的の場所は屋敷の一番奥にあった。

 雨音が大きいためか、屋敷はひっそりと息をひそめているように静かだった。
 目的の部屋に辿り着くと、信は耳を澄ませる。
 雨音で部屋の様子は、はっきりとはわからなかったが、障子から漏れる部屋の灯りで人がいることはわかった。
(今日は早く終わりそうだな……)
 そっと障子を開けて中を見ると、目的の男は机に向かい書き物をしていた。
 信は意図的に少しだけ音を立てたが、男が気づく様子はない。

(都合がいいな……)
 信は男の死角に回り込むと、そっと障子を開けて中に入る。
 男はただ紙に筆を走らせていた。
 信は、男の後ろまで足を進めると、懐から小刀を取り出す。

(恨んでくれていい……)
 信は祈るように一度目を閉じると、男の口元を押さえ顎を上げると、一気に喉元を切った。
 男の目が見開かれ信を見るのとほぼ同時に、血しぶきで一面が赤く染まる。
 手にかかる血が生温かく、信は思わず顔をしかめた。

 男が死んだのを確認すると、信は抜け殻となった男の体をそっと横たえた。
 信は血振りすると小刀を懐におさめる。
 何度経験してもまとわりつくような血の臭いと生温かさには慣れなかった。
 信は、目を見開いたままの男から静かに目をそらす。
(早く戻ろう……)

 信が背を向け部屋を出ようとしたとき、パタパタと廊下を走る小さな足音が聞こえた。
(気づかれたか……?)

「お父様! 志乃が雷が怖いって言っててさ……」
 勢いよく襖が開き、まだ十にも満たないような子どもが笑顔で顔を出した。

「え……?」

 部屋一面に飛び散った血と部屋で立ち尽くす信を見て、子どもは凍りついたように動かなくなった。
 子どもの目がゆっくりと見開かれていく。
 子どもの視線がゆっくりと倒れている男に向けられた。

「ちょっと、お兄様! 怖いって言ってたのはお兄様でしょう!?」
 パタパタという足音とともに、別の子どもの声が近づいてくる。
「? どうしたの? お兄様……」

 ハッとしたように、子どもは慌てて後ろを向く。
「く、来るな!!」
 子どもは大声で言った。

「な、何!? ……どうしたの?」

 子どもはその声を無視して、ゆっくりと信を振り返る。
 その顔は憎悪で歪んでいた。

「よくもお父様を……!」
 信は子どもから目を離すことができなかった。
 子どもの顔がなぜか昔の自分と重なる。
 いくらでも逃げる隙はあったが、信は動くことができずにいた。

(俺は…………)
 信が、こちらに向かってくる子どもを茫然と見ていると、ふいに背後に気配を感じた。

 信が振り返る間もなく、背中に焼けつくような痛みが走る。
「ッ……」
(……切られた……のか……)
 次の瞬間、首に強い衝撃が走り、信は何もわからないまま意識を失った。