「目、そらさなくなったな……」
雪之丞は酒を飲む手を止めると、山吹の目を見つめた。
山吹はなぜか少し嬉しそうに微笑むと、雪之丞を見つめ返す。
「雪之丞様が三日に一度はいらっしゃるので、ようやく少し見慣れてきました」
「見慣れた!?」
雪之丞は目を丸くした後、呆れた顔で山吹を見た。
「おまえさ……普通そういうことは面と向かって言わねぇんだよ……。遊女なんだから、もっと気を持たせるようなことを……」
雪之丞はそこまで言ってため息をついた。
「まぁ、いいや……。正直なのがおまえのいいところか……」
雪之丞の言葉を聞き、途端に山吹の顔が曇る。
「あ、ごめんなさい……。私……本当にいろいろヘタで……」
山吹はそう言うと、下を向いて背中を丸めた。
「おい、それやめろ」
雪之丞は山吹の背中を軽く叩く。
「胸を張れ、胸を。背筋が凛と伸びてるだけでも女は綺麗に見えるんだから」
雪之丞に見つめられて、山吹は慌てて姿勢を正した。
雪之丞は頷くと、酒杯の酒に口をつける。
「まぁ、俺はおまえが売れてなくて都合がいいけどな。俺がいつ来てもおまえは張見世にいるから」
雪之丞が初めて見世に来てからひと月ほどが経っていたが、いつ来ても山吹は張見世にいた。
雪之丞はフッと微笑む。
「あ、いえ、いくら私でも毎日張見世に残っているわけでは……」
山吹は何の悪気もなさそうな顔で言った。
雪之丞は再び呆れた顔で山吹を見つめる。
(だから、なんでそれを面と向かって俺に言うんだよ……)
山吹は何も言わない雪之丞を不思議そうな顔で見つめていた。
(この顔は俺に妬いてほしいとか、そういう意図じゃねぇよな……。絶対……)
雪之丞はため息をついた。
山吹が不安げな顔で雪之丞を見る。
「私……また何か……?」
「なんでもねぇよ」
雪之丞はそう言って苦笑すると、山吹を抱き寄せた。
「雪之丞様?」
山吹がおずおずと、雪之丞の背中に手を回す。
「本当に……おまえはヘタだな」
山吹の肩に顎を乗せて雪之丞がそっと呟く。
(自分以外の男も相手してるなんて聞いて、喜ぶ男がいるわけないだろう……。どうしておまえはそんなに……)
雪之丞はもう一度ため息をつくと、そっと体を離した。
「……おまえ、三味線は弾けるか?」
「え!? 突然ですね……。す、少し習いましたが……、披露する機会もないので今はもう……」
山吹は戸惑いながら首を横に振った。
「じゃあ、弾けるんだな。三味線が聴きたい気分だ。弾いてくれ」
「そ、それじゃあ、今度芸妓の方にでも……」
「なんでだよ。今聴きたい。ほら、三味線持ってこい」
雪之丞は頬杖をついて、山吹をじっと見つめる。
山吹は顔を青くしてしばらく何か言いたげに口をパクパクさせていたが、やがて観念したように立ち上がると座敷を出ていった。
少しして、山吹は三味線を手に座敷に戻ってきた。
「ほら、弾いてみろ」
雪之丞は頬杖をついたまま山吹を見つめる。
「あの……私、本当に……」
三味線を持って雪之丞の前に腰を下ろしながら、山吹は泣きそうな顔で言った。
「いいから弾け」
雪之丞の言葉に、山吹はしぶしぶ右手で持った撥で弦を弾く。
間延びした音が座敷に響いた。
山吹が弦を弾いていく。
何かの曲を弾いているようだったが、一音ずつが間延びしているため曲として聴くことは難しかった。
子どもが初めて三味線を握って指で弾いたような、そんな音だった。
雪之丞は呆気に取られ、ポカンと口を開けて山吹を見る。
「おまえ…………驚くほどヘタだな……。それともその三味線がおかしいのか……?」
雪之丞がそう言うと、山吹は顔を真っ赤にして、静かに三味線を置いた。
「ですから私は…………」
山吹は赤い顔を両手で覆ってうつむいた。
(これは想像以上に……)
雪之丞は山吹の前に置かれた三味線と撥を手に取ると、一弦ずつ弾いた。
凛とした音が座敷に響く。
(弦は新しいし、調弦も問題ねぇな。やっぱり山吹の腕の問題か……)
雪之丞は、両手で顔を覆ったままの山吹を見つめる。
「ほら、手本を見せてやるから、顔上げろ」
「え……?」
山吹が顔を上げたのを確認すると、雪之丞は撥で弦を弾いていく。
凛とした力強い音色が座敷を包み込む。
山吹は目を丸くした。
「すごく上手いですね……」
山吹の声に、雪之丞は手を止める。
「まぁ、歌舞伎の演目でも弾くことがあるからな。これぐらいはできて当然だろ」
雪之丞はそう言うと、三味線と撥を丁寧に畳の上に置いた。
山吹は目を伏せる。
「雪之丞様はなんでもできるのですね……」
山吹の言葉に雪之丞は首を傾げた。
「当たり前だろ。練習してるんだ。誰でもできる」
山吹は苦笑する。
「練習しても、私はなかなか……」
雪之丞はしばらく山吹を見つめていたが、静かに口を開いた。
「……手を見せてみろ」
「え?」
「いいから、見せろ」
雪之丞は山吹の手をとると、手のひらを見た。
「いいか? おまえは小柄だが手は小さくない。弦が押さえにくいということはないはずだ。ほら、今度は俺の手を見てみろ。何が違う?」
雪之丞はそう言うと、自分の両手を差し出した。
山吹はおずおずと雪之丞の手をとる。
手のひらは大きく、指はごつごつしているが長くて綺麗だった。
「あ……」
山吹は思わず小さく声を上げる。
左手の指先の皮が硬くなっていた。
山吹は顔を上げて、雪之丞を見る。
「わかったか? 続けていれば体も変わる」
雪之丞は真っすぐに山吹を見つめた。
「俺とおまえの違いは、続けたか諦めたかだ。おまえは諦めるのが早すぎるんだ。諦めるから自信がつかない。自信がないから背中も丸くなるんだ。何かひとつでいいから自信がつくまで続けてみろ」
雪之丞の言葉に山吹は目を泳がせた。
「俺は何においても自分が日本一だと思っている。だから、俺が選んだおまえもいい女だ。俺が言うんだから、そこは自信を持て」
雪之丞はそう言うとニヤリと笑った。
山吹は目を見開く。
何か言いたげにわずかに口を開いたが、山吹は何も言わず静かに微笑んだ。
「三味線なら俺が少し教えてやるから。ほら、三味線を持て」
雪之丞は三味線を手に取ると、山吹に渡した。
山吹はおずおずと三味線と撥を手にとる。
雪之丞は背後から抱きしめるように山吹を包み込むと、弦を押さえる手と撥を持つ手にそっと触れた。
「ところで……」
雪之丞はすぐ横にある山吹の顔をのぞき込むように言った。
「おまえの三味線を聴いた客はほかにいるのか?」
山吹は顔を赤くする。
「あのヘタな演奏を聴きましたよね……。聴かせられるようなものではないので、私がお客をとるようになってから初めて弾きました……」
山吹はそう言うと、首をそらした。
「ふ~ん、ならいい」
雪之丞は満足げに微笑むと、赤くなった山吹の首筋にそっと唇を寄せた。
「さぁ、みっちり教えてやるから覚悟しろよ」
雪之丞はニヤリと笑うと、撥を持つ山吹の手をとって弦を弾いた。
凛とした音が座敷全体に響く。
山吹の真剣な横顔を見て、雪之丞は小さく微笑んだ。
(本当にヘタだな……)
雪之丞はそっと目を閉じる。
(でも……ヘタなままでいいか……)
山吹ひとりで弦を弾くと、やはり間延びした音が響いた。
(このまま、ほかの誰にも聴かせなくていい……)
雪之丞が目を開けると、山吹が不思議そうな顔でこちらを見ていた。
「雪之丞様? あの……」
雪之丞は少しだけ微笑むと、顔を近づけて山吹の唇をそっと塞いだ。
叡正は緑に案内され、咲耶の部屋に向かっていた。
(何の用なんだ……?)
叡正は、咲耶からの手紙をもらい玉屋を訪れていた。
(呼び出されるなんて珍しいな……)
咲耶の部屋の前に着くと、緑が襖越しに声をかけ部屋に通される。
今回は突然来たわけではなかったため、咲耶はすでに座布団の上に座り、こちらを見ていた。
「悪かったな、突然来てもらって」
咲耶はそう言うと、微笑んだ。
昼見世の前ということもあり、咲耶は長襦袢姿だった。
「ああ。何かあったのか?」
叡正は咲耶と向かい合うように座布団に腰を下ろす。
「少し頼みたいことがあってな……」
咲耶は珍しく申し訳なさそうな顔で言った。
「頼み……」
(咲耶太夫から何か頼まれるのは初めてだな……)
叡正は咲耶を見つめた。
「おまえにお願いするのが一番早い気がして……」
「どんなことなんだ?」
叡正は首を傾げる。
「扇屋に行ってほしいんだ」
咲耶は叡正から少し視線をそらしながら言った。
「おおぎや……? え……吉原の扇屋か……? あの小見世の」
叡正は目を丸くする。
「行くって……遊郭だろ?」
「ああ、扇屋の遊女から話しを聞いてきてほしいんだ」
「遊女から話しって……。なんて名前の遊女から話しを聞いてこればいいんだ? ……人探しか何かか?」
叡正は真剣な表情で咲耶を見つめた。
「いや、人探しではない。おまえの顔を見て、一番驚いていた遊女から話しを聞いてきてほしい」
「俺の顔を見て……? なんだ、どういうことだ??」
「まぁ、行けばわかる。そこで山吹という遊女のことを聞いてきてほしい」
「やまぶき……?」
叡正には何ひとつわからなかった。
「そうだ。……金はこちらで出すから、頼めないか? そのかわりに、おまえの噂が消えるように協力する」
咲耶は申し訳なさそうに微笑んだ。
叡正は咲耶を見つめる。
(何のことかはまったくわからないが……)
叡正は今まで咲耶にしてもらったことを思い出していた。
(断る理由なんて最初からないか……)
叡正は静かに微笑んだ。
「わかった。今度扇屋に行ってくる」
叡正がそう言うと、咲耶はホッとしたような表情を浮かべた。
「助かる……。ありがとう」
「ただ、その……多少事情は聞いていいか?」
「ああ、そうだな……」
咲耶は事の経緯を簡単に説明した。
「心中じゃないかもしれないってことか……」
話しを聞き終えた叡正は小さく呟いた。
「でも……どうしてそれをおまえが調べるんだ? 今の話しだと雪之丞って男に頼まれたわけでもないんだろう?」
叡正は不思議そうな顔で咲耶を見る。
咲耶は唇に手を当てて何か考えているようだったが、突然フッと笑った。
「ハハ……、なんでだろうな」
咲耶の自然な笑顔に、叡正は思わず見惚れた。
「きちんとした理由はない。ただ、私が気になるだけだ。……亡くなったとはいえ、心中なのかそうでないのかでは残された者の受け取り方が違う。死んだらもう何も伝えられないからな……。もし真実が違うなら、何かしたいと思ったんだ。すまないな。自分勝手な理由で」
咲耶はそう言うと、叡正に向かって微笑んだ。
叡正はしばらく咲耶を見つめていたが、静かに目を伏せた。
「そうか……」
(死んだら何も伝えられない、か……。俺のときもそう思ったから協力してくれたのか……)
「あ、そういえば、雪之丞という男は本当におまえによく似ていた。おまえも歌舞伎役者になれば、その色気も使いようがあったんじゃないか?」
咲耶はニヤリと笑って叡正を見つめた。
「色気の使いようって……。どう考えても俺にそんな才能はないだろう……」
叡正は呆れ顔で咲耶を見た。
「人の才能まではわからないさ。ただ、おまえなら真面目に努力しただろうし、悪くはない仕上がりにはなったと思うが……」
咲耶は叡正をまじまじと見ながら言った。
いつものように貶されると思っていた叡正は、思いがけない咲耶の言葉に少し動揺する。
(落ち着け……悪くない仕上がりは、別に誉め言葉じゃない……)
「あ、そ、それより雪之丞はやっぱりいい男だったか……?」
叡正は話題を変えようと、慌てて口を開く。
叡正の言葉に咲耶は目をパチパチさせた後、苦笑した。
「おまえによく似ていたって言っているのに、いい男かってよく聞けるな。おまえも相変わらずの自信家だな……」
叡正は目を丸くする。
「いや、そういう意味で言ったんじゃない! 俺と違っていい男だったかと聞いたんだ」
叡正は慌てて言った。
咲耶は視線を動かして少し考えているようだったが、フッと微笑んだ。
「おまえの方がいい男だよ。まぁ、私にとってはな」
叡正は目を見開く。
「性格も含めて悪くないと思うぞ」
咲耶はそう言って笑うと、ゆっくりと立ち上がった。
「さて、私はそろそろ昼見世の準備でもするか……」
咲耶はそう言うと、叡正の肩を軽く叩いて襖に向かう。
「少し休んだらおまえも帰れよ。緑に声をかけておくから」
咲耶はそれだけ言うと、襖を開けて部屋を後にした。
ひとり部屋に残された叡正は、両手で顔を覆った。
顔が熱でも出たときのように熱かった。
「落ち着け……俺……。絶対都合のいい男って意味だから……」
叡正はゆっくりと息を吐いた。
「本当に……まいったな……」
都合のいい男という意味だとわかっていても、鼓動が早くなるほど舞い上がっている自分自身に、叡正はもう一度深いため息をついた。
「誰が売れっ妓になれって言った?」
雪之丞は、座敷に入ってきた山吹の顔を見るなりため息をついた。
雪之丞の言葉に、山吹は目を丸くする。
「売れっ妓なんて、そんな……」
山吹は、座敷に入ると慌てて雪之丞の横に腰を下ろした。
「最近、全然張見世にいねぇじゃねぇか……」
雪之丞は苦笑すると目を伏せた。
「それは……」
山吹は言葉に詰まる。
最近、山吹が張見世にいることはほとんどなかった。
何度来ても会えなかったため、雪之丞が五日連続で足を運んでようやく今日会えたのだ。
「どうして、そんなやる気になったんだ?」
雪之丞は山吹を見た。
山吹は不安げな表情はしていたが、背筋は凛と伸びていて以前のように背中を丸めることはなかった。
雪之丞の顔色を窺うその目も、どこか憂いを帯びていて色気すら感じる。
雪之丞は思わず山吹から目を背けた。
(自信は持ってほしかったが、こんなふうになってほしかったわけじゃねぇのに……)
「その私は……」
山吹はゆっくりと口を開いたが、言葉が続かないようだった。
雪之丞はため息をつく。
「もういい……。別におまえは何も悪くないし……」
(これがこいつの仕事なんだから……)
雪之丞は目を伏せた。
「あ、あの、雪之丞様……」
山吹がおずおずと言った。
「その、よかったら三味線を聴いてもらえませんか……? 私、あれから練習したので……」
雪之丞は山吹を見る。
山吹が自分から何かをお願いするのは初めてのことだった。
雪之丞は少しだけ微笑んだ。
「ああ……。じゃあ、聴かせてくれ」
山吹は目を輝かせる
「じゃ、じゃあ、三味線を取ってきますね!」
山吹はそう言って立ち上がると、座敷を出ていった。
(なんだ? 妙に嬉しそうだな……)
雪之丞は首を傾げた。
しばらくすると、山吹が三味線を手に戻ってきた。
「弾いても……よろしいですか?」
山吹がまたおずおずと聞いた。
雪之丞は苦笑する。
「聴かせてくれって言っただろう? ダメだって言ったら三味線抱えてずっとおどおどしながら立ってる気か?」
「そ、そうですよね」
山吹はそう言うと、雪之丞の横に座り三味線を構えると右手で撥を掴んだ。
凛とした三味線の音が座敷に響く。
雪之丞は目を丸くする。
(上手くなったな……)
山吹はゆっくりと曲を奏でていく。
雪之丞は山吹を見つめた。
構え方や指使いまで様になっている。
芸妓には遠く及ばないにしても、決してヘタではなかった。
一曲弾き終えると、山吹はためらいがちに雪之丞を見た。
「あの……、どうでしたか……?」
「あ、ああ……。悪くなかった」
雪之丞は思わず視線をそらす。
上手くなったことをなぜか素直に誉めることができなかった。
「ほ、本当ですか!?」
山吹は目を輝かせた。
「雪之丞様にそう言っていただけて嬉しいです!」
雪之丞は山吹を見る。
山吹は、雪之丞が今まで見た中で一番嬉しそうに微笑んでいた。
「上手くなったとは言われていたんですが、まだ自信がなくて……」
雪之丞の胸が嫌な音を立てた。
(上手くなったと言われた……?)
胸を殴られたような鈍い痛みが広がっていく。
「どういう……」
雪之丞が絞り出すように呟いた。
「え……?」
(ほかの誰にも……聴かせたくなんてなかった……)
「…………誰だ?」
「え……?」
雪之丞は勢いよく山吹の左手首を掴んだ。
「上手くなったと言ったのは誰だ!?」
三味線が音を立てて畳に落ちる。
手首を掴まれた山吹はこぼれ落ちそうなほど目を見開いて雪之丞を見た。
雪之丞は手首をつかんで山吹を引き寄せる。
「誰なんだ……?」
「え……あ、あの……」
山吹の唇は震えていた。
「……ね、姐さん……ですけど……」
「姐さん……?」
山吹の言葉に、雪之丞は呆然と畳に視線を落とした。
(男じゃないのか……?)
雪之丞は、掴んでいた山吹の手首を離した。
山吹の手が力なく畳に落ちる。
手首には薄っすらと雪之丞の手の跡が残っていた。
(俺は一体、何を…………)
雪之丞は、山吹の顔を見ることができなかった。
「雪之丞様……?」
山吹が震える声で言った。
雪之丞はその声に耐え切れず、思わず立ち上がると山吹に背を向けた。
「……悪かった。今日はもう帰る……。本当に……悪かった……」
雪之丞はそれだけ言うと、足早に襖に向かった。
「雪之丞様……!」
山吹の言葉に、雪之丞は思わず足を止める。
「…………また来る」
雪之丞はなんとかそれだけ口にすると、逃げるように座敷を出ていった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
張見世にいた浮月は、暗い顔で張見世に戻ってきた山吹を見て、目を丸くした。
「あれ、あんたさっき……」
浮月の言葉に、山吹は悲しげに目を伏せた。
(あの歌舞伎役者に呼ばれて嬉しそうに出ていったばかりなのに……)
浮月は山吹の様子に首をひねる。
「まぁ……、とりあえず座りな」
浮月は自分の隣をポンと叩いて、山吹を見た。
山吹は静かに浮月の隣に腰を下ろす。
「どうした? 何かあった?」
浮月は横目で山吹を見ながら聞いた。
「姐さん……、私……」
山吹は着物の袖口をギュッと握りしめてうつむいた。
「こら、張見世でメソメソするんじゃない。何があった? ほら、話してみな」
「私……嫌われました……。もうきっと見世に来てもらえません……」
山吹のうつむいた顔から、無数の雫が落ちて着物を濡らす。
「それでわかるわけないだろ。順を追って話して」
浮月はうつむいたままの山吹を呆れ顔で見た。
「すみません……」
山吹は雪之丞とした会話を、断片的に浮月に話した。
「ああ……、なるほどね……」
浮月はため息をつく。
「あんた、本当にヘタだよね……。言うべきことは言わないと、何も伝わらないよ?」
浮月は横目で山吹を見る。
「言ってやればよかったのに……。客が増えたのは、あんたのせいだって」
「そんなこと……」
山吹は悲しげな顔で浮月を見た。
ここ最近、山吹の客が急激に増えたのは、色気が出てきたというのもひとつの要因だったが、それ以上に「花巻雪之丞が入れあげている遊女」だからというのが大きかった。
江戸一の色男といわれる雪之丞が、小見世の遊女のもとに足しげく通っているというのは今では有名な話だった。
大見世ならば高嶺の花と諦める男たちも、小見世の遊女ならば簡単に手が届いてしまう。
興味本位で山吹を選ぶ客が増えたのは当然のことだった。
「で、三味線をほかの誰かに褒められたことを話して、怒らせたと……」
浮月は額に手を当てる。
「何やってんだ……、本当に……」
山吹は肩を震わせた。
「どうして雪之丞様が怒ったのか、私……わからなくて……」
浮月はため息をついた。
(そりゃあ……、三味線は自分とだけのものにしてほしかったんだろうよ……)
「なんでちゃんと言わないかな……。ほかの客の前では弾いてないって。あの歌舞伎役者に褒めてほしくて私とあんなに練習したんだから」
山吹は顔を上げ、涙で濡れた目で浮月を見た。
「そんな……。聞かれてもいないのに……」
「聞かれてなくても言うんだよ!」
浮月は呆れ顔で言った。
山吹は目を泳がせる。
「でも……、そんなこと言ったらきっと重いと思われてしまいます……」
浮月はもはや開いた口が塞がらなかった。
(いやいや、重いも何も……。想いのひとかけらだって伝わってないだろう。聞いた感じだと……)
「私はただ……少しでも雪之丞様に吊り合うようになれればと……。もちろん吊り合う遊女なんて無理なんですけど……それでも少しは……」
うつむいた山吹が小さく呟いた。
浮月は苦笑して目を伏せる。
(吊り合う遊女になってほしいなんて……向こうは思ってないんだよ、山吹……)
浮月はゆっくりと息を吐いた。
「まぁ、とりあえず、あんたは頑張る方向を間違えてるんだよ。次、あの歌舞伎役者が来たら、客のことも三味線のことも全部話しな。ついでに吊り合う遊女がなんたらって話しも!」
「で、でも……」
顔を上げた山吹に、浮月が顔を近づける。
「でも、じゃない! ああ、ホントどっちも面倒くさい! 私、面倒くさいことは嫌いなんだよ! わかったね! 全部話しな! それで全部解決! はい、おしまい!」
山吹は浮月の勢いに押され少しのけぞる。
「ほら、返事は!?」
浮月は畳みかけた。
「は、はい……!」
山吹は目に涙を溜めたまま、コクコクと頷いた。
(まったく面倒くさい……)
浮月は正面を向くように座り直すと格子の向こうを見た。
(ホント感謝しろよ、歌舞伎役者……)
浮月はまだうつむいている山吹を横目で見ながら、もう何度目かわからないため息をついた。
(ここでいいのかな……)
叡正は扇屋と書かれた提灯を確認すると、遊女たちのいる張見世に足を進めた。
昼見世ということもあり、格子の前にはほとんど客がいなかった。
(まぁ、昼はそうだよな……)
叡正が格子に近づくと、暇そうにしていた遊女たちが顔を上げた。
「…………!」
顔を上げた遊女たちの目が一斉に見開かれていく。
(こ、これは……みんな同じくらい驚いているんじゃないのか……?)
咲耶からは一番驚いた遊女から話しを聞いてほしいと言われていたが、叡正の目にはその違いがわからなかった。
叡正がしばらく遊女たちを見つめていると、しだいに遊女たちの顔が青ざめていく。
(ど、どうしたらいいんだ……?)
叡正が立ち尽くしていると、ふいに張見世の奥から声が響いた。
「あんた……あの歌舞伎役者の弟か何かかい?」
叡正は声の方に視線を移す。
そこには二十半ばくらいの気の強そうな遊女が座っていた。
「あ、いや……、そういうわけでは……」
叡正がそう言って目を泳がすと、遊女はため息をついた。
「そう、違うならいい……」
遊女はそれだけ言うと、興味を失ったように再び下を向いた。
叡正は遊女を見つめる。
(驚いている感じじゃなかったが……、あの遊女からなら何か聞けそうだな……。ほかの遊女は俺だと違いがわからないし……)
叡正は少し考えてから小さく頷くと、男衆に声をかけた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
叡正は案内された座敷で、落ち着かない気持ちで遊女を待った。
(そういえば、俺……ちゃんと遊郭の座敷に入るの初めてだな……)
叡正は居心地の悪さに変な汗をかいた。
(聞くことを聞いて、早く出よう……)
叡正がそう決意した瞬間、勢いよく襖が開いた。
叡正が驚いて顔を上げると、先ほどの遊女がドカドカと入ってくる。
遊女は叡正の前まで来ると、しゃがみ込んで叡正に顔を近づけた。
「あんた、明らかに私に興味なさそうだったのに、なんで呼んだの?」
眉をひそめて詰め寄る遊女に、叡正はたじろぐ。
「私に何の用?」
遊女は真っすぐに叡正を見た。
叡正は勢いに押されながら、なんとか口を開く。
「その……山吹という子について話しが聞きたくて……」
叡正の言葉に、遊女は目を見開く。
「あんた……やっぱりあの歌舞伎役者の弟なの……?」
遊女は叡正をまじまじと見た。
(否定……しない方がいいか……)
「あ、ああ、まぁ……」
叡正は遊女から視線をそらしながら、曖昧に頷く。
「そう……」
遊女はそう言うと、その場に腰を下ろした。
「それなら、お兄さんに伝えて……。あの子は……山吹は絶対に心中なんかしてないって」
「心中じゃない……?」
「そう。山吹が好きだったのはあんたのお兄さん。ほかの男となんか死ぬわけないのよ。殺されたうえにほかの男を想ってたことにされて、さすがにあの子が浮かばれない……」
遊女は目を伏せると、苦しげに言った。
「殺された……?」
目を丸くする叡正を見て、遊女は苦笑する。
「心中じゃなけりゃ、殺されてるでしょ。あの子に死ぬ理由なんてなかったし……」
叡正は目を伏せる。
「そう……なのか……」
遊女は叡正を見つめた。
「必ずお兄さんに伝えて。あ、私の名前、浮月っていうの。山吹から名前は聞いてるはずだから。浮月って遊女がそう言ってたって伝えて」
「あ、ああ、わかった……」
叡正はゆっくりと頷いた。
「あ、そうだ。ちょっと待ってて」
浮月は何か思い出したように立ち上がると、座敷を出ていった。
しばらくして戻ってきた浮月の腕には、着物のようなものが抱えられていた。
「それは……?」
叡正は浮月の持ってきたものを見て聞いた。
「山吹から……あんたのお兄さんへの贈り物。まぁ、結局渡せなかったけどね……」
浮月は抱えたものを叡正に差し出しながら、悲しげに微笑んだ。
それは黒い羽織だった。
羽織の裾には花の刺繍が施されている。
「この花は……桔梗か?」
叡正は紫の糸で描かれた花をそっとなでた。
「ああ。これは、あの子の願いなんだ……」
「願い?」
浮月は静かに頷く。
叡正は続く言葉を待ったが、浮月は目を伏せて、もうそれ以上何も言わなかった。
扇屋の座敷で、雪之丞は山吹を待っていた。
山吹の手首を掴んで詰め寄った日から、ひと月ほどが経っていた。
雪之丞は座敷の中を落ち着きなく歩き回る。
山吹に会ったときにどうすればいいかわからず、雪之丞はずっと扇屋を訪れることができずにいた。
(山吹は来てくれるだろうか……)
ひと月ぶりに扇屋に来て座敷には上がったが、遊郭では遊女にフラれることは珍しくない。
最初の頃の山吹であればフラれる心配はなかったが、今の山吹は張見世にいることがほとんどないほどの売れっ妓になっていた。
今なら山吹の意思で客を拒むこともできるだろうと、雪之丞は考えていた。
雪之丞はゆっくりと息を吐く。
(来てくれることを祈るしかないか……)
雪之丞は暗い気持ちで足元の畳を見つめた。
「失礼いたします」
襖の向こうから声が聞こえた。
ゆっくりと襖が開き、座敷に入ってきた山吹が頭を下げる。
「……山吹……」
雪之丞は目頭が熱くなるのを感じた。
(来てくれた……!)
雪之丞はしばらく山吹を見ていたが、山吹は一向に頭を上げなかった。
「山吹……?」
山吹の肩は小刻みに震えていた。
雪之丞は目を見開く。
(俺を……怖がっているのか……?)
全身が押しつぶされたような苦しさを覚えた。
(あんなことをしたんだ……、当然か……)
雪之丞は重い足をひきずるように山吹に近づくとしゃがみ込んだ。
「山吹……、本当に……悪かった……」
雪之丞が絞り出すようにそう言うと、山吹はゆっくりと顔を上げた。
雪之丞は言葉を失う。
山吹は顔をくしゃくしゃにして泣いていた。
「もう……来てくださらないかと思っていました……」
山吹は着物の袖で涙を拭いながら口を開いた。
思いがけない言葉に、雪之丞は目を見開く。
「俺を……待っていてくれたのか……?」
「私は……待つことしかできませんから……」
山吹は話しながら、また目に涙を溜めていく。
「本当に申し訳ございませんでした! 雪之丞様!」
山吹は勢いよく頭を下げた。
「お、おい……」
「私は売れっ妓などではありません! 雪之丞様がときどき来てくださるので、どんな遊女かとほかのお客に呼ばれるだけです! 調子に乗っていたつもりはないのですが……、雪之丞様にヘタな三味線を聴いてくださいなどと言って……やはりどこか調子に乗っていたのかもしれません……。雪之丞様が怒って当然です!」
雪之丞は口を開けたまま呆然と山吹を見ていた。
言葉が出なかった。
(山吹は……俺が怒ったと思っているのか……。しかも、三味線を聴かされたから……? 俺は一体……どれだけろくでもない人間だと思われているんだ……)
「調子に乗って……雪之丞様に褒めてもらいたいなどとおこがましいことを考えて……」
雪之丞は山吹を見つめた。
「私ごときがどれだけ練習してもヘタに決まっているのに……。雪之丞様に教えていただいたことが嬉しくて、調子に乗って……」
「山吹……」
「少しくらい何かできるようになって……雪之丞様に吊り合う遊女になりたくて……」
(吊り合う……遊女……?)
雪之丞は苦笑する。
(笑えるほど……何も伝わっていないんだな……。でも……)
「俺に……会いたいと思ってくれていたのか……?」
雪之丞の言葉に、山吹が弾かれたように顔を上げる。
山吹は化粧が崩れて、ひどい顔になっていた。
「も、申し訳ございません! 会いたいなどとおこがましいことを思ってしまって……」
山吹の言葉が終わるより早く、雪之丞は山吹を抱きしめた。
山吹の体が小さく震える。
雪之丞は、山吹の背中に回した腕の力を強めた。
「いや……、嬉しいよ、山吹」
(こいつは……俺と同じ気持ちではないかもしれないが……。それでも、会いたいと思ってもらえたことが……)
「俺も……会いたかった」
雪之丞は、山吹の耳元で絞り出すように呟いた。
山吹の体がビクッと震える。
雪之丞の腕の中で、体の震えはしだいに大きくなっていく。
「山吹?」
雪之丞が体を離すと、山吹は両目から涙をこぼしていた。
「雪之丞様……」
山吹はそれだけ口にすると、嗚咽をもらして泣き始めた。
雪之丞は目を丸くする。
「お、おい……」
「す、すみ……ま……せん。……う、嬉し……くて」
山吹は顔をぐちゃぐちゃにして泣いていた。
化粧はもうすでにほとんど残っていない。
雪之丞は思わず微笑んだ。
(ひどい顔だな……)
雪之丞は山吹をそっと抱き寄せると、優しく頭をなでた。
(この顔を見て、可愛いと思うなんて……。俺は本当にどうかしちまったんだな……)
雪之丞は苦笑する。
子どものように泣く山吹を、雪之丞はどうしようもないほど愛おしいと思った。
「……というわけなんだけど……。これ、どうしたらいい?」
咲耶の部屋を訪れていた叡正は、扇屋で預かった羽織を見つめながら聞いた。
静かに叡正の話に耳を傾けていた咲耶は、目の前に置かれた羽織を手に取る。
「願い……か」
咲耶は羽織を両手で丁寧に広げた。
「願いがどういうことなのか俺にはわからなかったが、羽織の裾に入っている刺繍は桔梗の花だよな? それ以外の刺繍は何かわからなかったが……」
叡正は羽織の裾を見つめる。
刺繍は羽織の裾全体と、左右の胸元に小さいものがひとつずつ入っていた。
胸元の刺繍は何かの家紋のようだった。
咲耶は羽織を見つめたまま口を開く。
「ああ……そうだな。確かに願いだ……」
「え?」
叡正は咲耶を見つめる。
咲耶は羽織を見つめたままため息をつくと、丁寧に畳んでその場に置いた。
「まぁ、それは置いておいて……。どうするか、だな……」
「俺が届けてこようか? 芝居小屋に行けば、贈り物ってことで届けることはできるだろう?」
叡正は咲耶を見た。
咲耶は何か思案しているようだった。
「手紙で、山吹は心中なんかしていないとでも伝えるつもりか?」
咲耶はゆっくりと叡正に視線を向ける。
「ダメ……なのか……?」
叡正は咲耶の顔色を窺いながら聞いた。
咲耶は静かに首を横に振る。
「やめておけ……。扇屋で山吹は殺されたと言われたんだろう? この羽織を見れば、あえて手紙に書かなくても心中どころか自殺じゃないことはすぐにわかる。その後、どんな行動をとるかは……わかるだろう?」
叡正は目を丸くする。
「羽織を見ただけでそんなことまではわからないんじゃないか……?」
「いや、わかる……。それにこれだけ時間をかけた贈り物を渡す前に死なないだろう? 普通……」
「まぁ、確かに……」
叡正は畳まれた羽織を見つめた。
「じゃあ、どうするんだ?」
咲耶は顎に手を当てて何か考えているように視線を落とした。
「そうだな……。とりあえず、もう少し何かわかってからこの羽織は届けようと思う。それまでこれは私が預かっておくことにするよ」
咲耶は視線を上げると叡正を見た。
「……もう少しわかってから?」
叡正は咲耶を見つめ返した。
(まだ何か調べる気なのか……?)
咲耶は目を伏せた。
「わかるかどうかは別として、もう少しだけ調べてみるつもりだ」
「次は何をするんだ?」
咲耶は叡正を見た。
「心中相手だといわれている男の家を信に調べてもらう」
咲耶の答えは叡正の予想していた通りのものだった。
(やはり信か……)
叡正は少し考えた後、静かに口を開いた。
「俺も……一緒に行っていいか?」
咲耶の目がわずかに見開かれる。
「別にいいが……。おまえも気になるのか?」
咲耶が不思議そうに叡正に聞いた。
「ああ」
叡正は羽織に視線を落とした。
「願いが込められているなら、ちゃんと届けてやりたいと思って……。浮月って遊女が、雪之丞は相当傷ついてるみたいだったって言ってたし……」
咲耶はしばらく叡正を見つめた後、ゆっくりと目を伏せた。
「そうだな……。では、信にもそう話しておく。また手紙で知らせるから待っていてくれ」
咲耶はそう言うと叡正に微笑んだ。
「ああ、わかった」
叡正は頷くと、そっと羽織に触れる。
(願い……か)
「生きてるあいだに……伝えたかっただろうな……」
叡正は小さく呟いた。
紫の糸で描き出された桔梗の花は、黒い布地の上でただ美しく凛と咲いていた。
「そういえば、檀十郎様というのは雪之丞様のお父様なんですか?」
雪之丞の酒杯に酒を注ぎながら、山吹が口を開いた。
酒杯を見ていた雪之丞は、顔を上げると呆れ顔で山吹を見つめた。
(少しは俺に興味が出てきたと喜ぶべき……なのか……?)
檀十郎と雪之丞が親子でないことは、江戸のほとんどの人間が知っていることだった。
(まぁ、吉原から出る機会もないだろうし、歌舞伎に興味もなさそうだから知らなくて当然か……)
「雪之丞様?」
何も答えない雪之丞を見て、山吹が不安げな表情を浮かべた。
雪之丞は小さくため息をつく。
「いや、俺は弟子入りして雪之丞を襲名してるから、親子じゃねぇよ」
山吹は目を丸くする。
「そうでしたか……。てっきり雪之丞様は歌舞伎役者の家系なのかと……」
雪之丞は山吹の反応に微笑むと、酒杯を置いて山吹の頭をなでた。
「まぁ、ずっと世話になってるから、親なんかよりよっぽど旦那には感謝してるけどな」
「そうなんですね……」
山吹は銚子を膳に戻すと、雪之丞を見つめた。
「雪之丞様はどうして歌舞伎役者になろうと思われたのですか?」
山吹は首をかしげる。
「ああ、それは……」
雪之丞は酒杯を手にとる。
「成りあがるためだ」
雪之丞は酒杯を見つめながら言った。
「成りあがる……?」
「ああ」
雪之丞は酒杯の酒を飲みほした。
「もともとの身分とか関係なく、芸でのしあがれるのがこの世界だからな。まぁ、顔は昔から良かったし」
雪之丞はそう言うと山吹を見てニヤリと笑った。
「あ、ああ……。そうなんですね……。ご両親は反対しなかったのですか?」
苦笑いする山吹を、雪之丞は少し不満げな表情で見た。
「母親は俺が物心つく前に死んでるし、父親は仕事もせずに酒飲んでるだけのろくでなしだったからな。反対するも何もねぇよ」
「そう……なんですね……」
山吹は申し訳なさそうに目を伏せた。
「そんな顔すんな。別に俺は気にしてねぇんだから」
雪之丞は酒杯を膳に置くと、山吹を見つめた。
「まぁ、俺のことよりおまえの話を聞かせろよ」
山吹は顔を上げた。
「私の話……ですか?」
「ああ。俺ばかり話してるだろ? おまえはここに来る前どうだったんだよ」
「ああ……」
山吹は少しだけ微笑んだ。
「お話しできるようなことは特にないのですが……、私は縫物師の娘でした」
「縫物師?」
雪之丞は首をかしげる。
「江戸刺繍はご存じですか? 私の父は江戸刺繍の職人だったんです」
雪之丞は目を丸くする。
(ああ……、そういえば初めて張見世で見たとき、こいつも縫物をしていたような……)
「父は、刺繍の腕は良いのですがこだわりが強くて……。高い糸ばかり仕入れて……。そのうえ、膨大な時間をかけて仕上げたものもお客に言われるままの値段で売ってしまうような人で……。借金ばかりが膨らんで、私がここに……」
山吹は苦笑した。
「母親は何も言わなかったのか……?」
山吹は首を横に振った。
「あんな父ですから、母は私を生んですぐに愛想をつかして出ていったと聞いています」
「そうか……」
雪之丞は目を伏せる。
山吹は微笑んだ。
「そんな顔しないでください。私も気にしていませんから」
雪之丞は先ほどの自分の言葉をそのまま返られたことに苦笑した。
「借金のためにここに売られることにはなりましたが、父のことは嫌いでもなければ、恨んでもいません。父が縫物師だったおかげで、刺繍は私の唯一のとりえになっていますし」
山吹は目を伏せて微笑んだ。
「今でも刺繍をしているのか?」
雪之丞は山吹を見つめた。
「刺繍用の鮮やかな糸は高いので、ここに来てからは縫物をするぐらいですが、破れた布を縫い合わせるときに、簡単な刺繍を施すことはあります」
「へ~、すごいんだな」
雪之丞は目を丸くする。
山吹の頬が少しだけ赤く染まった。
「すごいというほどでは……。でも、好きなんです。願いを込めてひと針ずつ縫っていくのが……」
「願い?」
「はい、刺繍は願いを込めるものですから」
山吹は楽しそうに言った。
「着物の柄に意味があるのは、雪之丞様ならご存じだと思いますが、刺繍の柄にも同じように意味があります。一番簡単な刺繍は背守りだと思いますが、それにも柄によって意味があるんですよ」
「背守りっていうのはアレか……? 子どもの着物の背中に縫い付けてあるやつか?」
山吹は嬉しそうに笑う。
「そうです、そうです! 子どもが健やかに育つように、母親がする刺繍です。あれにも意味があって長寿の象徴の亀や、身を守ってくれる破魔の矢の柄を縫うことが多いですね」
雪之丞は山吹を見つめた。
山吹がこんなに活き活きと話しているのを見るのは初めてだった。
雪之丞はそっと微笑む。
「願いね……。ただの柄じゃねぇんだな」
「はい! ひと針ずつ願いが込められています!」
山吹は雪之丞に顔を近づけて言った。
山吹が自分から雪之丞に近づくのも初めてのことだった。
雪之丞は苦笑すると、山吹の頭をそっとなでる。
「刺繍が好きなのはよくわかったよ。それなら、今度からここに来るときは刺繍の糸と布を持ってきてやる」
雪之丞がそう言うと、山吹は目を丸くした。
「そ、そんな! 私はそんなつもりで話したわけでは……!」
山吹は慌てて首を横に振る。
「いいんだよ。俺が好きで持ってくるだけだから。ただ、そのかわり……」
雪之丞は山吹を見つめた。
「いつか俺に、おまえが刺繍を入れたものを何か贈ってくれ」
「雪之丞様に……ですか?」
「ああ。……嫌か?」
山吹は目を丸くすると、慌てて首を横に振った。
「嫌なはずありません! ただ、私よりもっと上手い方は大勢おりますので、私なんかの刺繍で大丈夫かと……」
山吹は目を伏せる。
雪之丞は、山吹の頭をくしゃくしゃと勢いよくなでた。
ぐしゃぐしゃになった髪を押さえて、山吹がポカンとした顔で雪之丞を見る。
「願いを込めてくれるんだろう? おまえが願いを込めた刺繍がいいんだ」
雪之丞はそう言うと優しく微笑んだ。
山吹は目を見開く。
「……はい!」
山吹はそれだけ言うと、嬉しそうに顔をほころばせた。
山吹の笑顔を見ながら、雪之丞は胸がじんわりと温かくなるのを感じた。
「じゃあ、次から持ってくる」
「ありがとうございます! いつか雪之丞様に贈れるように、今まで以上に練習します!」
「ああ、期待してる」
雪之丞は目を伏せて微笑んだ。
山吹に酒を注いでもらいながら、雪之丞は次来るときにどんな糸を持ってくるべきか考え始めていた。
「そういえば、檀十郎様というのは雪之丞様のお父様なんですか?」
雪之丞の酒杯に酒を注ぎながら、山吹が口を開いた。
酒杯を見ていた雪之丞は、顔を上げると呆れ顔で山吹を見つめた。
(少しは俺に興味が出てきたと喜ぶべき……なのか……?)
檀十郎と雪之丞が親子でないことは、江戸のほとんどの人間が知っていることだった。
(まぁ、吉原から出る機会もないだろうし、歌舞伎に興味もなさそうだから知らなくて当然か……)
「雪之丞様?」
何も答えない雪之丞を見て、山吹が不安げな表情を浮かべた。
雪之丞は小さくため息をつく。
「いや、俺は弟子入りして雪之丞を襲名してるから、親子じゃねぇよ」
山吹は目を丸くする。
「そうでしたか……。てっきり雪之丞様は歌舞伎役者の家系なのかと……」
雪之丞は山吹の反応に微笑むと、酒杯を置いて山吹の頭をなでた。
「まぁ、ずっと世話になってるから、親なんかよりよっぽど旦那には感謝してるけどな」
「そうなんですね……」
山吹は銚子を膳に戻すと、雪之丞を見つめた。
「雪之丞様はどうして歌舞伎役者になろうと思われたのですか?」
山吹は首をかしげる。
「ああ、それは……」
雪之丞は酒杯を手にとる。
「成りあがるためだ」
雪之丞は酒杯を見つめながら言った。
「成りあがる……?」
「ああ」
雪之丞は酒杯の酒を飲みほした。
「もともとの身分とか関係なく、芸でのしあがれるのがこの世界だからな。まぁ、顔は昔から良かったし」
雪之丞はそう言うと山吹を見てニヤリと笑った。
「あ、ああ……。そうなんですね……。ご両親は反対しなかったのですか?」
苦笑いする山吹を、雪之丞は少し不満げな表情で見た。
「母親は俺が物心つく前に死んでるし、父親は仕事もせずに酒飲んでるだけのろくでなしだったからな。反対するも何もねぇよ」
「そう……なんですね……」
山吹は申し訳なさそうに目を伏せた。
「そんな顔すんな。別に俺は気にしてねぇんだから」
雪之丞は酒杯を膳に置くと、山吹を見つめた。
「まぁ、俺のことよりおまえの話を聞かせろよ」
山吹は顔を上げた。
「私の話……ですか?」
「ああ。俺ばかり話してるだろ? おまえはここに来る前どうだったんだよ」
「ああ……」
山吹は少しだけ微笑んだ。
「お話しできるようなことは特にないのですが……、私は縫物師の娘でした」
「縫物師?」
雪之丞は首をかしげる。
「江戸刺繍はご存じですか? 私の父は江戸刺繍の職人だったんです」
雪之丞は目を丸くする。
(ああ……、そういえば初めて張見世で見たとき、こいつも縫物をしていたような……)
「父は、刺繍の腕は良いのですがこだわりが強くて……。高い糸ばかり仕入れて……。そのうえ、膨大な時間をかけて仕上げたものもお客に言われるままの値段で売ってしまうような人で……。借金ばかりが膨らんで、私がここに……」
山吹は苦笑した。
「母親は何も言わなかったのか……?」
山吹は首を横に振った。
「あんな父ですから、母は私を生んですぐに愛想をつかして出ていったと聞いています」
「そうか……」
雪之丞は目を伏せる。
山吹は微笑んだ。
「そんな顔しないでください。私も気にしていませんから」
雪之丞は先ほどの自分の言葉をそのまま返られたことに苦笑した。
「借金のためにここに売られることにはなりましたが、父のことは嫌いでもなければ、恨んでもいません。父が縫物師だったおかげで、刺繍は私の唯一のとりえになっていますし」
山吹は目を伏せて微笑んだ。
「今でも刺繍をしているのか?」
雪之丞は山吹を見つめた。
「刺繍用の鮮やかな糸は高いので、ここに来てからは縫物をするぐらいですが、破れた布を縫い合わせるときに、簡単な刺繍を施すことはあります」
「へ~、すごいんだな」
雪之丞は目を丸くする。
山吹の頬が少しだけ赤く染まった。
「すごいというほどでは……。でも、好きなんです。願いを込めてひと針ずつ縫っていくのが……」
「願い?」
「はい、刺繍は願いを込めるものですから」
山吹は楽しそうに言った。
「着物の柄に意味があるのは、雪之丞様ならご存じだと思いますが、刺繍の柄にも同じように意味があります。一番簡単な刺繍は背守りだと思いますが、それにも柄によって意味があるんですよ」
「背守りっていうのはアレか……? 子どもの着物の背中に縫い付けてあるやつか?」
山吹は嬉しそうに笑う。
「そうです、そうです! 子どもが健やかに育つように、母親がする刺繍です。あれにも意味があって長寿の象徴の亀や、身を守ってくれる破魔の矢の柄を縫うことが多いですね」
雪之丞は山吹を見つめた。
山吹がこんなに活き活きと話しているのを見るのは初めてだった。
雪之丞はそっと微笑む。
「願いね……。ただの柄じゃねぇんだな」
「はい! ひと針ずつ願いが込められています!」
山吹は雪之丞に顔を近づけて言った。
山吹が自分から雪之丞に近づくのも初めてのことだった。
雪之丞は苦笑すると、山吹の頭をそっとなでる。
「刺繍が好きなのはよくわかったよ。それなら、今度からここに来るときは刺繍の糸と布を持ってきてやる」
雪之丞がそう言うと、山吹は目を丸くした。
「そ、そんな! 私はそんなつもりで話したわけでは……!」
山吹は慌てて首を横に振る。
「いいんだよ。俺が好きで持ってくるだけだから。ただ、そのかわり……」
雪之丞は山吹を見つめた。
「いつか俺に、おまえが刺繍を入れたものを何か贈ってくれ」
「雪之丞様に……ですか?」
「ああ。……嫌か?」
山吹は目を丸くすると、慌てて首を横に振った。
「嫌なはずありません! ただ、私よりもっと上手い方は大勢おりますので、私なんかの刺繍で大丈夫かと……」
山吹は目を伏せる。
雪之丞は、山吹の頭をくしゃくしゃと勢いよくなでた。
ぐしゃぐしゃになった髪を押さえて、山吹がポカンとした顔で雪之丞を見る。
「願いを込めてくれるんだろう? おまえが願いを込めた刺繍がいいんだ」
雪之丞はそう言うと優しく微笑んだ。
山吹は目を見開く。
「……はい!」
山吹はそれだけ言うと、嬉しそうに顔をほころばせた。
山吹の笑顔を見ながら、雪之丞は胸がじんわりと温かくなるのを感じた。
「じゃあ、次から持ってくる」
「ありがとうございます! いつか雪之丞様に贈れるように、今まで以上に練習します!」
「ああ、期待してる」
雪之丞は目を伏せて微笑んだ。
山吹に酒を注いでもらいながら、雪之丞は次来るときにどんな糸を持ってくるべきか考え始めていた。
「雪之丞様……またこんなに高い糸を……」
雪之丞から糸の束を受け取った山吹は目を丸くした。
「布もこんな上等な……」
山吹は布と糸を手に取りながら、戸惑いの表情を浮かべていた。
(素直に喜べばいいのに……)
雪之丞は、山吹の様子を見ながら座敷に腰を下ろす。
ここ最近は座敷に入ると同時に、山吹に糸と布を渡すのが習慣になっていた。
「これは金糸ですか!? こんな高い糸は……」
山吹の顔が青ざめていく。
山吹の様子を見て、雪之丞は不満げな表情を浮かべた。
「なんだよ……。嬉しくねぇのか?」
山吹は弾かれたように、顔を上げる。
「そんな! も、もちろん嬉しいです……けど……」
山吹はそう言って雪之丞の顔を見た後、再び糸と布に視線を落とした。
「あまりに高級過ぎて……手が震えて……上手く刺繍ができません……」
雪之丞は糸と布を持つ山吹の手を見つめる。
確かに山吹の手は震えていた。
雪之丞は軽くため息をつくと、山吹の手を両手で包み込む。
「そんな気にするほど高くねぇよ。それに俺にも何か贈ってくれって言って渡してるんだから、これは自分のための糸と布だ。おまえが気にする必要はないんだよ」
「で、ですが……」
山吹が上目遣いで雪之丞を見つめる。
「ですがじゃねぇ。それとも、俺への贈り物を安い糸と布で作る気なのか?」
「そ、そういうわけでは……!」
「じゃあ、これで好きな刺繍でもしてろ。何度も言うが、俺にとっては高くねぇんだから」
雪之丞は山吹の頭をポンポンと叩いた。
山吹はまだ何か思い悩んでいるようだったが、雪之丞を見て少しだけ微笑んだ。
「わかりました……。雪之丞様……、ありがとうございます」
「ああ」
雪之丞も目を伏せて微笑む。
「あの……では、雪之丞様に贈る刺繍はどんなものがいいですか?」
山吹は雪之丞をじっと見つめる。
「好きな柄や……好きなものは何かありますか?」
山吹の目はキラキラと輝いていた。
「好きなもの……?」
雪之丞は頬杖をつきながら、目を閉じた。
(好きなもの……って何かあったか? 別にこれといって何も……)
雪之丞が目を開くと、山吹は変わらずキラキラした目でこちらを見ていた。
(ない……とは言いにくいな……)
「えっと……天ぷらとか……割と好きかな……」
そういう話ではないとは思いつつ、雪之丞はとりあえず思いついたものを口にした。
雪之丞は山吹を横目で見る。
「天ぷら……」
山吹のポカンとした表情を見た瞬間、雪之丞は答えを間違えたと悟った。
「て、天ぷら……ですか……!?」
山吹は目を泳がせる。
「えっと、あの……。わ、私の腕ではなかなか……。その、て、天ぷらを素敵な刺繍に仕上げるのは……その、う、上手くできないかもしれませんが……。あ! でも、け、決して天ぷらがダメだとかそういう! そ、そういうことではなく……! 私の腕の問題でして……。あ、でも……き、金糸を使えば、なんとか……」
天ぷらを必死で肯定しようとする山吹の顔を見て、雪之丞は恥ずかしさで顔が熱くなるのを感じた。
(天ぷらの刺繍をしてほしいって意味じゃねぇよ……)
雪之丞は片手で顔を覆う。
「待て。そういう意味じゃないから……。好きなものを聞かれたから答えただけで……。天ぷらの刺繍なんてダサいもん、天ぷら屋台の店主だって持ってねぇから……」
「あ、ああ……! そ、そうですよね!」
山吹は心底ホッとした表情を浮かべた。
「ああ……。天ぷらは忘れてくれ……」
雪之丞は顔を覆ったまま、うつむいた。
「は、はい」
山吹は、うつむいた雪之丞の顔をのぞき込んだ。
「あ、あの……大丈夫ですか……?」
雪之丞はまだ少し赤い顔を押さえながら苦笑した。
「ああ、なんでもねぇよ……」
雪之丞は息を吐いて顔を上げると、山吹の顔を見つめた。
「……じゃあ、もうアレだ。刺繍は桔梗にしてくれ」
「桔梗ですか?」
山吹が不思議そうな顔で雪之丞を見る。
「うちの……。あ、花巻雪之丞とか花巻檀十郎っていうのは三ツ井屋っていう一門なんだ。で、その一門の家紋が桔梗なんだよ。なんでも一番の贔屓筋が、檀十郎に桔梗の花を贈ったのが由来で桔梗紋になったらしいんだけど、それ以来うちの一門を象徴する花なんだ」
山吹は目を輝かせた。
「そうなんですね! それなら桔梗にしましょう! すごく素敵なお話ですね!」
山吹は嬉しそうに微笑んだ。
(最初から桔梗って言っときゃよかった……)
山吹の顔を見て、雪之丞は心の底からそう思った。
(今度紫の糸でも持ってこよう……)
山吹の笑顔を見ながら、雪之丞はまた次に持ってくる糸について考え始めていた。