▫️ ▫️ ▫️


「おーい。よもぎの翁ー。」
「ふん。またお前か。」

こっちだって忙しいんだぞ寂しがり屋の坊主め、などとぼやく老人は、騒がしいと文句を垂れながらも結局トグの話に付き合ってくれる。
トグは縁側に上がり込んだまま行儀悪い格好で足をぶらぶらさせていた。
出されたよもぎ茶には手をつけず、飲むふりに止める。翁が淹れるお茶は奇妙に酸っぱく、濃すぎるために香りが逆によくわからない……なんといういうか、マズイのである。彼の目を盗んで、こっそり草むした地面のシミに変えるのが吉というものだった。幸いバレたことはない。

ジロリ、とこちらを睨んだよもぎの翁へ、トグは道中摘んだ草をシャンシャン振ってみせた。

「……なんだ。」
「知ってる?これ、ぺんぺん草だよ。」
「そんぐらい知ってるに決まっとるがな。」

トグはくすりと笑った。
これは前座の、なんでもない会話だ。ごく自然な何気ない雑草の話を導線に、するりとトグは本題は紛れ込ませようと画策する。

「……ねえ、よもぎの翁。僕の恋路の進展について知りたくない?」

果たして。
この目的は成功した。よもぎの翁はいとも簡単に乗せられた。

「金さえ積まれりゃ、いくらでも占ってやる。だが、その行く末に興味はないな。したがってお前に報告義務はない。皆無だ。」
「そっか。相変わらずだね。」

トグは、手の中のぺんぺん草を丁寧な仕草で地面へ寝かせる。細い指が美しく草を一撫でし、白く粟粒のような花が寂しげに揺れた。
トグの目がすっと細められた。

「彼女の名前は『シャー』と言ったよ。」

よもぎの翁の目が揺らいだのを、トグは見逃さなかった。

「鳥バンバンに憑かれている。もしかして……いや、これは『絶対』だな。彼女、よもぎの翁の患者だろう。」
「………。」
「図星だね。」

うっと詰まったよもぎの翁を見て、トグは吹き出しかけた。ギリギリ踏みとどまったが、誰かがツン、とほっぺたをつつくちょっかいでもかけていたら危なかった。
わかりやすい。翁の顔色が、まるで火を近づければ燃え、水をかければ暗闇を取り戻す蝋燭の如くにわかりやすい。
このやり取りにより、よもぎの翁がいかに隠し事が苦手なのかということが明らかになったと、トグは内心で頷いた。まあ、初めから秘密にするつもりが皆無だったという可能性もあるが。

「じゃあ、単刀直入に聞くけどさ。彼女の命、あとどのくらいなのかな。」
「……保って十二日。薬師として不甲斐ないことだが、これ以上は伸ばせない。わかりやすく言えば『手遅れ』だな。」
「恋の相手の余命が、二週間弱か。初恋でコレは……うん。辛いな。」
「すまん。」
「いいよ。しょうがない。貴方一人が頑張ってどうにかなる問題じゃないでしょ。」

黙り込んだよもぎの翁と対照的に、トグの顔は存外晴れやかだった。
指折り数えて、トグは静かに笑った。

「……ふふふ。すごいや。両手の数より命の日数が多いよ。」

不可解にも聞こえるトグの呟きを、よもぎの翁は逃さなかった。訝しげな目をして、問い返す。

「……それは、どういう。」
「彼女の人生、けっこう残ってるじゃんか。って、ことだよ。」
「………。」
「どうにでもなる。なるようになる。第一、貴方の占いを信じるならば、これから僕たちの前には豊かで純真で透き通るように美しい恋が待っている。僕はそう解釈したし、そういう信念を持って行動する。とてもラッキーだった。完璧、パーフェクトな采配だ。神様は優しいね。ああ、慈悲深い。そうだとも。」

よもぎの翁は、奥歯を噛んで顔を歪ませないよう堪えているようだった。
そんな彼に、トグは野良猫のように自由で奔放な笑顔を見せた。

「今日は占いしてもらわなくっていいや。」

さっと立ち上がって、トグはニコニコとそんなことを言った。

「大事な用ができちゃったからね。」
「……大事な…?」
「いやだなあ。わかってて言ってるんでしょ、よもぎの翁。恋だよ、恋。」
「ああ………そうだな。もちろんだとも。わかっている。」
「そう来なくっちゃ!」

常人には理解できない宇宙的思考へ飛ぶ。その結末を人々は————『狂気』と呼ぶ。

さて。
『恋愛』をする人間達は時に、常とは異なる奇行をとることがある。
彼らは時に獣と呼ばれ、時に花と呼ばれ、牙と涎を剥き出したり甘ったるい芳香な蜜の香りを振りまいたりする。
クリスマスツリーの星に相手の真意を発見し、オムライスのケチャップに縁を深める糸口を探り当てる様は、『狂っている』と言えまいか。いや、きっと言えると思うのだ。

それが善いことか、悪しきことか。
それは誰にも理解できるはずはないのだけれど。

————せめて当事者たちに、幸と救いのあらんことを。

よもぎの翁は、深々とため息をつく。
幾年も浮世を生きたこの老人は、軽やかに庭を飛び出していったトグの背へ何かを言いかけた。しかし半ばでその口は閉じられる。

よもぎの翁が選んだのは結局、沈黙だった。
緑の風そのものの如き若き青年へかけるべき言葉が、ただの一つとして見つからなかったのだから。


▫️ ▫️ ▫️


前回はブランコの高漕ぎ。
今宵は————猿もびっくりな木登り。

随分と活発なお姫様がいたものだ。
トグはシャーを巨木の葉の影に発見し、呆れと感嘆の入り混じった息を吐いた。

「……夜になると木登りをする習慣でもあるのかな。」

呟くと、くるり、とお姫様の目がこちらを向いた。アメジスト色の瞳が、星に反射し煌々と光を発している。
彼女が座っていた枝がとん、と揺れる。と思った直後、彼女の姿が掻き消えた。闇に乗じて落下した彼女はまるで猫の如く、しなやかに着地した。

「すごい。枝から無事に落下するっていう習慣もあるみたいだなぁ。」

思わず漏れたトグの呟きを、シャーはきっちり聞き咎めた。

「違う。木登りと落下は、習慣じゃなくて……趣味だから。」
「えーと、趣味?」
「そう。」
「ふうん。」

よくわからないな、とトグは首を傾げる。シャーは涼しい顔でドレスに付着した汚れをはたいていた。

トグは何気なく、シャーの登っていた木に寄りかかってみた。
改めて考えてみると、あれは恐ろしい程鮮やかだった。
木肌には手や足をかけるべき窪みはほぼ見当たらず、トグは己がこのスベスベな木を登る様すら想像できない。ましてやドレス姿の姫である。これを脚立もなしに登るとは、シャーは猿か曲芸師などといった職業が転職なのではないだろうか。

トグがスベスベと木を撫でていると、今度はシャーの方が興味を持ったように話しかけてきた。

「木を撫でている……きみ、植物に優しくするのが趣味なのかな?」
「いや。これは何となくだよ。趣味は別にあるし、習慣もまた別にあるからね。」
「ふうん。」
「………。僕の趣味、これから見に行ってみる気はある?」
「だいふくみたいな精霊を体に付着させてる人の趣味は、ホラーになりそうだから嫌だ。」
「え。」
「冗談。とても興味あるから連れてって。」
「う、うん……こっからちょっと歩くけど大丈夫?」
「愚問だね。私の体力を舐めていると、ろくなことにならないよ。」
「そうか。……ふふ、山登りの最中に僕だけ熊から逃げ遅れるようなことにならないよう、精々気をつけるとするよ。」
「へんな例え。」

浮世離れしていることは、誇らしいことである。
トグはそう信じているので、『へん』とシャーが言うたびにささやかな幸せの風が心を揺らした。

これまでに出会った誰とも異なるリズムで奏でられる会話は、どこか奇妙で、心地よい。

「秘密基地に連れていってあげるよ。僕以外の誰にも教えたことのない場所。少々寒さに震える準備が整っていれば、いとも安易に辿り着けるとっておきを訪ねてみようか。」
「寒さって……まさか。」
「そう。地下の洞窟だよ。僕は迷宮を脳内地図で把握しているから、絶対に迷わない。さあ、手をお取り下さい。最短ルートで貴女を導くことをお約束致しますよ。お姫様。」

シャーの顔色が驚きに固まっている。
しかしこの状況をもう『予想外』とは言わない点が、彼女とトグの微妙な関係性を表していた。

「……仕方ない。」

とても興味があると言ったのは私だし、とシャーが目を細める。トグは少し真面目な顔になって、頷いた。

「後悔はさせない。大丈夫だよ。」
「……その言葉、信じてる。」
「大いに信じてくれたまえ、お姫様。」

真面目な表情を崩さぬまま、芝居がかった仰々しい仕草でトグはお辞儀をした。

「やっぱりへんな人。」
「それはそれは。光栄だなぁ。ふふふ。」

————人生の終わりの時間。そこで僕と語る一分一秒を、貴女は浪費と思っていない。なぜか伝わってくる真っ直ぐな思いが涙のように沁みて、愛しくて。

ああ、本当に、光栄だ。

灰色のジャージを纏った青年は、すっと目を細めるだけの謙虚な微笑みを浮かべた。

————よもぎの翁。貴方はよい仕事をしてくれた。しかし翁、僕がこれからすることは野蛮だよ。貴方の怠慢をぶった斬り、己の橋を渡ってゆく。ふふふ、若者の奇跡ってやつを、目にもの見せてやろうじゃないか。


トグは、ゆっくりと丘を降り始める。
先導する彼に続いて、シャーもふわりと足を踏み出す。

「それでは行こうか。」
「了解。」

地に足ついていない二人組の、短夜の始まりが告げられた瞬間であった。

▫️ ▫️ ▫️

「……これは、凍る……冷凍庫のシャーベット並みに霜塗れになるぞ、手っ取り早く凍れる……っくしょん!」

洞窟の温度は、シャーを震撼させた。
暗闇に包まれた地下へ石段を降りていくに従い、青く透き通った冷気が這い上がってくる。

かつて石切場、切削場などとも呼ばれた廃墟であるが、夏はとても人気が高い避暑地だ。ひんやり黒石の壁に囲まれ、沈黙と闇が心地よい。もっとも、まだまだ肌寒さの残る春には、少々辛い場所かもしれないが。
いや、それにしても。
トグは背後を振り返った。

「シャーはびっくりするくらい寒がりなんだね。」
「ダメだ……ダメなんだ……わ、わわ……私は鳥だけど、鳥じゃない…から、あるべきはずの羽毛がないんだ……うぅっ。」
「あと三分であったかい場所へ到着するよ。それまで少々ご辛抱を、お姫様。」
「りょ、了解……さ、さぶぅ……っ。」

トグは、自らの上着を脱いで肩へ掛けてやるべきか真剣に悩んだ。
それが善意というものなら、そうしたい。しかし彼女に無用な不安の芽を抱かせないように心掛けたいものでもある。トグは迷い、そして足を早めることだけを実行した。

「もう少し。この角を曲がって、ほら。闇だからよく見えないけど、向こうに布の暖簾がかかってる。足元段差に気をつけて……うん。ここをくぐるよ。」

————ほら、ついた。

トグの言葉はあまりにも呆気なかったのだろうか。シャーは目を三回瞬いて、えっ?と言った。

「あったかいでしょ。どこかこの辺りの地下か壁の向こう側かが燃えているらしいね。ここだけは暖かい。外でどんなに霜柱が子供の靴に踏まれ、氷柱が天狗の鼻のように伸び、湖がスケートリンクとなって花模様に凍てついても……そう。ここにいる僕たちだけは、ぬくぬく炬燵の中の猫になれる。幸福だよ。」

などと語りながら、トグは灯りのスイッチを入れた。

————パッ。

「………ぁ。」

シャーの口が半開きになる。静かに微笑みを浮かべるトグの前で、彼女の目は限界まで見開かれた。

「どうだろう。ここに来る前、僕は貴女に“後悔はさせない”と大口を叩いたけれど。そんな僕は嘘つきだったろうか。」

蝋燭の炎を吹き消さないように心遣いするが如く、穏やかにシャーへ囁くトグ。その丁寧な語り口に応え、シャーはゆっくりと頭を振った。

「……いいや。きみは最高だよ。」
「それはよかった。」

『いちご色の廃墟』と。トグが名付けた秘密の地下室。
そこはまさにいちごの色の権化とも言うべき空間。赤色系の甘酸っぱい暖色で溢れている光景は、まさに赤の楽園。

「それにしても、魔術的だ……。」
「実際に魔術が働いているのかもしれないね。いや、きっとそうだよ。貴女は鋭い。」
「それはまあ、感性の鋭さは一般以上だから。」
「ふふ。まぁ、こんなに奇妙奇天烈な場所を目の前にして、魔法を疑わない者もいないと思うけどね……。」

トグは満足そうにため息を吐きながら、弾力のある赤い水玉模様の座布団へとシャーを誘導した。しかしこの座布団にはどうやらビーズ刺繍で描かれた唇があり、そこから呼吸をしてほんのわずかに膨らんだり萎んだりしている。シャーは臆せず座ったが、物珍しそうな視線はキッチリ寄越した。

「大丈夫。これ、息はするけど物は食べられないから、座布団が太っちょになって暴れ出したりすることはないよ。ご安心くださいな、お姫様。」
「………。」

シャーは微妙な顔をして、無言のままに頷いた。
ここはなんというか、とても、奇妙な場所だった。
具体例を出せば、赤いセーターが植物のように育っていたり、桃色のドールハウス(クリスマスの飾り付けがしてある)があったりする。そっちに転がっているのは、マッチをすると、爆発して本物のお花が咲き乱れる花火玉。あっちにニョキッと直立しているのは、勝手に歌い出す黒紫色のピアノ。

子供部屋でもマシな整合性があるだろう。
だからだろうか。シャーの口数が、僅かに少なくなったようだった。きっと口を動かすより、観察に使用する目の動きの方に労力を費やしているのだろう。
トグは、そんな彼女をじっと見つめた。

「でも、シャー。貴女は思ったよりびっくりしないんだね。」
「……超常の現象は、この世に確かに存在してる。それがちょっと今までの経験上物珍しいモノだったとして、それに一々大袈裟に驚く必要はないと思う……それだけ。」
「言えてるね。」

トグは懐から、小型の銀ナイフを取り出して、片手で弄び始めた。
途端にシャーの咎めるような視線を浴びて、トグは少しバツの悪い顔をした。

「……いや。別に危ないことをしようとしてるわけじゃないよ。」
「危ない。」
「うん、まあ、そうなんだけど。でもそうじゃなくて。」
「危ないことはよくない。」
「そうだね……。でも、これは僕の……そう、貴女と語り合った時に使った言葉で言うところの、『習慣』だから。あぁいや、『訓練』とでも言ったほうがわかりやすいのかな?」

『習慣』という言葉にぴくりと反応して、シャーの肩が揺らいだ。
その隙を逃さず、トグは「それで。」と半ば強引に話を進める。

「僕は奇術師になりたいんだ。」
「えっと……奇術?」
「そうそう。そのための練習で、ナイフ遊びなんかは僕の『習慣』または『訓練』ってところ。で、この洞窟に潜って遊ぶのが、『趣味』ってわけ。なかなかイカしてるでしょ?」
「かもね。」

花のよい香りが醸し出されるブランケットを巻きつけ、首まで潜りながらシャーは頷いた。
トグはそんな彼女にさりげなく、特に強く熱を発する小石を拾い上げてカイロ代わりに贈った。

「ありがとう。」
「いいよ。」

何気ない親切。
当然の如くそれを行なったトグを、シャーは眩しそうに目を細めて見やる。向けられたのは確かな微笑みだった。

「………。」

シャーはその言動から不思議な印象をもたらすが、しかし纏う雰囲気は本物である。幽玄の美人。月花の花。白羽根の朧夢。どのように言葉を尽くして表現すれば適切なのかはきっと誰にもわからない。
ドレスと冠を完璧に着こなす様は、まさに本物の姫である。

そんな彼女に、『ありがとう』と共に笑顔をもたらされれば、たいていの青年は脳味噌をハートで埋め尽くし、胃の中に発生した蝶々の大群に腹を破られてポーッとなったと同時、真っ赤っかの湯沸かし器となって意識をふわふわの白い世界へ飛ばしてしまうであろう。

しかし、トグは類い稀な例外のうちの一人だった。
トグは、シャーの視線を素直に受け取ることができなかった。

彼女の心には、一体何が巣食っていたのか。それはきっと、単純な感謝だけではないことを彼は知ってしまっていたのだから。

沈黙がその場を支配する。
ほんのり熱を発する岩を撫でながら、トグは静かに息を吐いた。

「『鳥バンバン』に憑かれたんだろう。」
「………っ。」
「誤魔化しても無駄だよ。だって、万一的外れだったらって思ってよもぎの翁に確かめたから。僕の知識の信頼度はともかく、彼の診断には間違いはありえない。僕はきみの寿命だって知っているんだ。」
「……トグがそこまで博識かつ、薬師に個人情報を開示させるほどの交友を結んでいたとは……予想外。」
「まあね。」

奇術師になりたい、と。そうトグが語った瞬間、シャーの瞳に過ぎった影は暗かった。

……私は長く生きられないのに。将来の夢を語る人が、目の前にいる。

きっと辛かったことだろう。
怨念と呼ぶには弱く、憧れや羨ましさと呼ぶには穢れを孕んだ情念。

見せつけて悪かったよ、とトグは思った。
でも、そうしなければと思ったんだ。
一度は絶対にすべきだと確信し、トグはわざと彼女の前であのようなことを言った。その上でさりげない親切を働き、夢を抱く者、余裕がある者、という種族の者たちが持つ特有の思いやりの眩しさを見せつけた。

「知ってるかな。」

トグは、指を一本立てた。

「僕の寿命はあと一カ月だ。」
「……は?」
「いい反応だね。うん、僕としてもドッキリのしがいがあるというものだよ。」
「いや待って。」
「待つよ。」
「……。……ちょっと待って。」
「だから待つってば。」

トグは、言葉の通りじっと待った。地蔵の如く身動きのないまま、互いの沈黙のみが、いちご色の廃墟に満ちる。
シャーは事実を咀嚼し、蛇の丸呑みの如くそれを呑み込んだ。

「……わかった。」
「おや。わかってくれたんだ。」
「証拠を見せてくれる?」
「うん、いいよ。」

灰色のジャージ。その前面を閉じ合わせる金属ジッパーへ、トグは手をかけた。
じゃりじゃり、と心地よい響きと共に下ろされたジッパーの、中身とは。

魔除けのお札、お札、お札。奇妙な曲がりくねった純白の墨文字がのたくり回る、異様極まりない黒服だった。

シャーがうっと息を止める。眉をひそめ、見えるかどうかギリギリの薄目でもって、それを怖々透かし見る。

「……気持ち悪。」
「え、そんなに?」
「怨念の塊。よくそんなものを封じ込められる、と感心できるほど。いや、何故そんな能天気でいられるのか?理解不能だし、不思議で堪らないよ。」
「あぁなるほど、憑き物自体のほうの感想か。安心した……じゃないや。えっと、うん。僕は鈍いからね。精霊やら魂やら、そういうものを感じる才能がよっぽど枯渇しているようだ。」
「……そんなものを己の体に宿しておきながら、私の鳥バンバンを“なんとなく感じただけ”……などと表現していたとは。ある意味凄いと思う。」
「おや、手厳しいことをおっしゃいますね。」
「事実だから。」

灰色のジャージのジッパーを、元通りに締め上げる。途端に邪悪なオーラは綺麗さっぱり消え失せた。

「これで元通り。もう安堵していいんだよ。」
「………。」

シャーは黙って瞬きをした。
彼女は何事か、奇妙な違和感に首を傾げているようだった。

トグの黒服に描かれた魔除けのお札は、しかし、漏れ出る異質な気配を完全には隠し切れていなかった。
しかしまったくもって普通の見た目をしているジャージが、完璧な防護の役割を果たしている。
……どういうことだろう?
不思議そうなシャーへ、トグは「あぁ、このジャージ?別に大したものじゃないんだよ。」と語りかけた。

「よもぎの翁がお祈り込めてくれただけ。一応僕も患者だから、治療の一環としてチャチャッとやってくれたよ。具体的に説明するなら……そうだね。本当に力をおさえているのがお札のほうで、このジャージが他人の目を誤魔化すためのイタズラ道具ってところかな?……ほら、勘のいい人を相手にしても、普段はただのお化けがくっついてるだけに見える。シャーも『お豆腐みたい』とか『だいふくみたい』とかしか言わなかったでしょ?それ、よもぎの翁の術の結果だから。」
「……なるほど。」

彼女のそばで。ニョッキリ地面から生えた赤いセーターを、さりげなく撫でながらシャーは頷いた。

「よくわかった。」

シャーの頬が暖かい部屋の風に晒され、ほんのり血の色を取り戻している。いちご色の部屋によく似合う顔色を、彼女は静かに、花のように綻ばせた。
そしてシャーはトグと出会って初めて————満面の笑みでこちらを向いた。

「私は、きみと出会えてよかった。」

黒紫の冠に手を添え、そっと、惜しげもなくシャーはそれを外す。
トン、と。二度とここから持ち帰らない覚悟で赤い地面の上に置かれた繊細な装飾物は、あっという間に景色に馴染んだ。
まるで何百年も古代から、ずっとそこに安置されていた女王の遺物の如くである。

この特別な洞窟へ足を踏み入れた証を、シャーはこの冠に託したのだ。

「今宵から、十日余り後。……きっと私は、きみに先んじて旅立ってしまうだろう。」

シャーは囁くように言った。トグはただ、彼女の言葉に耳を澄ませる。

「それでも……トグ。今この瞬間から、己の命果てるまで。私がきみの恋人であり続けることを、許してくれるだろうか。」
「もちろんだよ。」

こちらの声も囁きだった。
トグの凪の如き静かな目が、遂に轟と燃え上がる炎の輝きを宿した彼女の瞳を見つめ返した。

「僕らは恋人だ。」

ぶるり。
唇を持つ座布団が、彼らの膝下で静かに身震いをした。
赤い水玉の愉快な布の生き物へ、トグとシャーの目が誘導される。

二人は目を合わせ、同時にぷっと吹き出した。

「そろそろ帰ろうか。シャー。」
「確かに。あまり夜遅くなると、家の者にこってり絞られる。」
「おや。お姫様は至極大変にございますね。」
「……果たして、本当にそうかな?」
「意味深なセリフだね。」

手を取り合って、立ち上がる。
別れ際に、トグはその辺りに転がっていたお手玉のうちの一つを拾い上げた。

パンパンと汚れを払う。
そして、はいどうぞ、とシャーに手渡した。

「記念品。僕からのプレゼントだから、できればずっと取っておいて欲しいかな。」
「……ありがとう。」

名残惜しげなシャーの手をそっと取り、出口へと導く。

屈んで潜った暖簾の奥は、鳥肌を起こさせる青ざめた冷気が満ち満ちている。彼らはそこへ、まっすぐに突貫した。



帰り道だろうが、極寒の洞窟の道の気温は、変わらない。
……しかし。
(あたたかい……。)
シャーは右手にお手玉、左手にトグの手の温もりを感じながら、ふっと呼吸をした。
(不思議なものだ……。……そうだよね、私の王子様。)


彼は、彼女を姫と呼ぶ。
彼女は、彼を王子と呼ぶ。


それが正しい。最も相手に相応しい呼び名だと、互いが互いを信じているのであるのだから。



二人は揃って、いちご色の廃墟を後にする。