どうやって、今まで生きていたんだろう。
呼吸をして、食事をして、あと何だっけ。
いつかは途方に暮れた迷子のように、とぼとぼと歩いていた。どこに行く当てもなく、頼れる人もいなくどうしようもなくて、でも学校にも家にも戻りたくなかった。
皆。皆、嫌いだ。消えてしまえ。でも、そう思う自分が一番嫌いだ。
これからどうしようかな、と考える。所持品は少ない。
ボロボロの画集と、胸元の生徒手帳の中にもしもの時用の紙幣。スマートホンは鞄の中に忘れてしまった。セーラー服はこれからの時間帯に目立ちすぎ、補導でもされたら面倒だった。
いっそのこと、本当に違う場所に行ってしまおうか。
全てがどうでもよく感じられ、いつかの足は駅前のバスターミナルへと向かった。電光掲示板を見つめ、所持金で行ける一番遠くまで向かう夜行バスの切符を購入した。帰り用の運賃は残していない。行くだけのバスだ。
程なくしてバスの準備が整ったのだろう、アナウンスが流れる。いつかはバスに乗り込み、窓際の座席に落ち着いた。「…。」
ようやく呼吸の仕方を思い出して、小さなため息を吐く。そしてバスがいよいよ出発した。
雨粒が窓を叩き、後方に向かってボーダーラインのように流れていく。厚い雨雲に隠れて、今夜は朧月だった。
テールランプの光が鎖のように道路を繋ぎ、スピードに乗った車体に揺られてどんどん生まれ育った街が遠ざかっていった。不安がないわけではないが、初めて空に飛び立った鳥のような高揚感を得た。
バスは高速に乗り、山を貫通したトンネルを行く。まるで巨大なクジラの胃の中に流し込まれるようだった。
やがてバスの車内は消灯を迎え、空間は暗く静かな深海のようになった。通路を挟んで隣の席に座る恋人たちが互いに寄り添い合うように眠っている。いつかは窓ガラスに額を付けて、振動を感じつつ瞼をそっと閉じた。

「お客さん、終着ですよ。」
眠りの底にいたいつかの意識が、無粋な声に浮上するのがわかる。重い瞼を持ち上げると、そこには添乗員が立っていた。周囲を見渡すと、もう乗客は全員降りた後のようでいつかたった一人だった。
「す、すみません。」
いつかは慌てて身支度を整えて、バスを降りた。時間は早朝のようで、東の空が金色に輝いていた。
何の前知識もない土地で、いつかはどこに行けばいいかわからずにとりあえず歩き出す。いつも重く感じていたセーラー服の生地が、今は少し軽い。自分のことを知る人がいないというのは、気分が良かった。
ふと鼻腔を潮風の香りがくすぐった。近くに海があるのだろうか。
風が生まれる場所を探すように、すん、と鼻を効かせながらその在処を求めて歩を進める。
途中、猫がゆっくりと道を遮っていった。いつかの顔をちらりと見ると、興味なさそうにまた前を向いて路地裏に行ってしまう。
金色の朝日に向かってミャアミャアと海鳥が鳴き、徐々に波の音さえも拾えるようになってきた。
「…見えた。」
視線の先、建物の隙間から青く広がる海原が窺い知れた。もっと広く感じたくて、いつかは鹿のように駆けていく。
そして開けた先、堤防に上がる錆びた鉄製の階段をゆっくりと踏みしめた。
「…。」
見渡す限りの水平線が美しく、視界の縁で丸みを帯びて地球が球体だということを改めて知った。
「海だ。」
太陽の光が水面に反射して、ダイヤモンドを散らしたかのようだった。その目映さに、いつかは思わず目を細める。
遠くでフェリーのような大きな船が浮かび、低く汽笛を鳴らしている。
「っ、あはは!」
随分と遠くまで来たものだ。自然とこみ上げる笑いに、いつかは口元を手のひらで覆う。そのまま鳩のようにくくくと声を漏らして、いつかはスカートの襞を風に孕ませるようにくるりと回転して、膨らませた。足と足の間に吹く風がくすぐったくて、気持ちが良い。
鼻歌を口ずさみつつ、淡く霞む海岸線を辿っていく。温かな光が肌を温めて、頬が上気するようだった。
「…、」
海だけを見つめてた視線をふと陸地に戻すと、離れた場所に立っていつかのように海を眺める少年を見た。
少年は長い睫毛の先、真っ直ぐに海の果てを見極めている。色素の薄い髪の毛はアンバーブラウンに輝き、潮風に煽られて僅かに揺れていた。
視線を縫い合わせたかのように、目が離せない。
少年は瞳を伏せ、そして再び海を見据えてそして。何気なく、海にその身を投げた。
「え、ちょっと…!?」
水飛沫が柱のように立ち、海面には白い泡が幾重にも浮かぶ。
いつかは慌てて、少年が飛び込んだ場所まで急ぎ駆けた。ばっと音を立てるように勢いよく海を覗くも、少年は浮かび上がってこない。
「お、溺れ…、嘘、」
いつかは戸惑い、迷い、それでも何故か彼を助けねばならないと思った。画集はハードカバーだ。置いていって風に飛ばされることはない、と願う。
少年の後を追って、いつかも海に飛び込んだ。
鈍い水音が立つ。海水の温度に一瞬心臓が跳ねた。初夏とは言え、季節が二ヶ月遅れの海は冷たい。まとわりつくセーラー服が水を吸って重く、それでもいつかはその重みを利用して水中深くに潜る。小学校の六年間、通っていた水泳教室の教えが今、役に立った。
瞼を開ける。眼球が塩分に滲みることなく、水中を見渡すことが出来たのは火事場の馬鹿力だろう。青い、限りなく青い世界にアンバーブラウンの光を見つけた。
いつかは水を蹴り、少年の元へと急ぐ。やがて手が届き、少年を背後から抱えるように水面を目指した。
「っは、あ…は…、」
海水から顔を出して、肺一杯に酸素を補う。それは少年も同じようだった様子で、けほけほと咳き込んでいる。
「はー…、はあ…、」
ゆっくりと呼吸を繰り返して、いつかは少年を抱えながら水面に浮かんだ。耳の奥にまで海水が浸食して、音が鈍って聞こえる。太陽が浮かんだ空が視界いっぱいに広がった。蒼穹は高く、深い。生きている。良かった、二人とも生きていた。

二人は、駆けつけた釣り人に引き上げられてようやく陸に再び足を下ろした。
いつかは釣り人に礼を言い、頭を下げる。
「気をつけな。」
足を滑らせたのだと勘違いした釣り人はそう言って、笑いながら去って行った。
「…大丈夫?」
終始無言の少年に、いつかはそっと声をかける。少年はじっといつかを見つめていて、目が合った。体の色素が全体的に薄い体質なのだろう、その瞳も髪の毛同様に明るく輝き、瞳孔を縁取る虹彩に僅かな黄色と緑が混じりまるでひまわりのようだと思った。
「…。」
少年はいつかの視線を受けて、ふいと目をそらす。そして聞こえたのは、小さな舌打ちだった。
「誰、あんた。」
「色々突っ込みたいけれど、今、舌打ちをしたな?」
いつかは若干の怒りを覚えながら、自分を諌めるように声を低くした。
「今、私が誰かなんて関係ない。なんで、飛び込んだの?」
「意味なんてねえよ。」
まるで思春期の反抗期だと思い、いや、まさにそれかと思い直す。だとしても、言いたいことは言っておこう。
「意味なく死にかけたってわけ?随分と安い命なのね。」
いつかの言葉に、少年は再び彼女を見た。
「大げさだろ。」
鼻で笑われて、いよいよいつかの堪忍袋の緒が切れた。
「…ああ、そう。助けて損し、っくしゅ!」
水に濡れた服が風に晒されて、体温を下げた。くしゃみをするいつかを見て、少年は大きなため息を吐いた。
「タオルと服貸しやるよ。…ありがとな。」
断りかけた言葉も、最後の少年の礼の言葉で何だかどうでも良くなった。こっち、と誘うその声にいつかは素直について行くことにした。

港町の集落を抜けて、森近くまで来た。いつかはいつでも逃げられるように、距離を取りつつ少年の後を追う。何となく、こん、と白い小石を蹴ると、いつかの代わりに少年との距離を詰めた。さわさわと木の葉が揺れて、新緑の色が目に優しい。
「着いた。ここ。」
少年に連れられてきたのは大きなお屋敷とも言える、住宅だった。広い庭に、青い屋根の家はまるで絵本に出てきそうな洋館だった。少年は濡れたボトムスのポケットから取りづらそうに古い鍵を出して、玄関の鍵穴に差し込んだ。ガチリ、と重い音が立ち、錠が落とされる。木製の扉が開くと、軋む音が立った。随分と築が深そうだった。
広い玄関ホールには無駄な家具が置かれておらず、随分と生活感を感じさせない。それどころか、この家に少年と自分以外の人間の気配を感じなかった。
それぞれ、学校やもしくは仕事に行ってるのだろうか。
どちらせよ、大人に今、いつかの存在を問われるのは面倒だったので都合が良い。随分とずるい考え方だと、いつかは自分自身に呆れた。
「一人暮らしだから、気を使わなくていーよ。」
いつかの考えを察したのかどうかは不明だが、少年は絶妙なタイミングでこの家の住人がたった一人だということを告げる。
「…そうなの?え、でも…この大きな家で?」
「まあね。金持ちだから。」
さらりと少年は言い、虚を突かれたようにいつかは目を瞬かせて、笑ってしまった。
「自分で言うんだね。」
事実だよ、と少年も口角を上げる。しばらくクスクスと二人で笑い合った。
「風呂場、使うだろ。タオルと、着替えの服は出して置いてやるよ。」
「ありがとう。」
いつかは背中を押されて、浴室に押し込まれる。少年自身もびしょ濡れだったが、一番風呂は譲ってくれるらしい。
最初の印象から比べると、もしかしたら案外良い奴なのかもしれないと思う。
お湯を貯めた猫足のバスタブに、いつかはその身を浸す。その温かさにいつの間にか強張っていた体の力が抜けるようだった。じんと手足の指先が痺れるようだった。
昼風呂で曇りガラスから差し込む白い光に、湯気が粒子のように見える。見上げた天井からぴちょんと一粒、雫が落ちた。
「何だか変なことになったな…。」
昨日まで別の街にいて、逃げてきた先で風呂に浸かっている。
それでも、少年の厚意に触れていつかの心が解れたのは確かだ。思わず、声をついて笑ってしまう。
「何、笑ってんの?」
「!」
不意に扉越しに少年から声をかけられて、いつかは肩までお湯に浸かった。
「…何でもない、よ。」
「そう?ここにタオルとか、置くから。」
「ありがとう…、」
名前を呼ぼうとして、いつかは少年の名前すら知らないことに気が付いた。
「あのさ、名前…?」
「えー?ああ、そういえばお互いに名乗ってなかったな。」
脱衣所から出て行こうとしていた声が、再び扉の前まで戻ってくる気配がした。
「雪野叶。俺の名前。」
「雪野?名字、微妙に被ってるね。私は、柚木いつか。」
ふーんと呟く少年、もとい叶の声がする。
「じゃ、名前で呼ぶか。紛らわしいし。」
「ええ…?叶くんってこと?」
いつかは些か、照れながら叶の名前を口にする。同年代の男の子の名前を呼ぶのは、若干の抵抗があった。
「くすぐったいから、くんはいらない。」
「…叶?」
「何、いつか。」
一方で、叶には何の抵抗感もないらしい。さらりといつかの名前を呼ぶ。そして、何かに気が付いたのか、はは、と笑った。
「どうしたの?」
「いや…、いつかと俺の名前って、随分とめでたい響きだと思って。」

いつかと、叶。
いつか、叶う。

まるで、対の言葉のようだと思ったことをよく覚えている。

いつかは自分の名前が嫌いだった。
いつか、いつかっていつだよ、といつも心の名前で叫んでいた。いつかじゃなくて、今、自分は必要とされたいのに。
それが叶と出会ったことによって、希望の名前になった。