八尾時生には愛を誓う指がなかった。中学生の時、誤って切断してしまった。
高校に進学し、部活は写真部に入部。幽霊部員の一年生が二人、二年生の部長が一人。時生を入れればたった四人の部活は何のしがらみもなく、自由に部室兼暗室を使える環境はとても魅力的だった。あっという間に生温い二年が過ぎて、高校最後の年。三年生になり、部長の肩書きを引き継いだ春。時生は構内に咲く桜並木の写真を撮影していた。
熟れた桃のような花芯からひらひらと花びらが散り、まるで温かい雪のようだと思った。カメラのフィルムにその姿を収めながら、ふと思い出したかのように掌を差し出してみた。掌に注がれる花びらは当然溶けることなく、そのまま肌の上に残る。ぎゅっと拳を作って握りつぶすと、無様にも皺が寄って開いた掌からするりと落ちていった。
自らが犯したささやかな罪に時生は、くくく、と鳩のように笑って、落ちていった花びらも桜吹雪同様に写真に残す。
それからは生きている桜の花々を写していった。風が吹き、桜の花びらが千切れる瞬間。すずめが花芯を啄む刹那。相反した蒼穹を背景に咲き誇る一振りの枝。
「…何だ、あれ。」
ふと、異質なものを見つけて時生はカメラのレンズから視線を外す。それは、一人の少女だった。
少女は全身をゴシックロリータのファッションに身を包んでいた。漆黒のレースが折り重なったジャンパースカートに、墨色のブラウス。胸元は大きな黒いサテン生地のリボンをあしらって、丁寧に足元まで黒いストラップシューズ。全身黒づくめの少女は、時生に気が付いていないらしく鼻歌をうたいながら軽快なステップを刻むように歩いていた。途中、くるりとバレリーナのように回転し、ふわりとそのスカートの裾を綺麗な円錐に広げては楽しんでいる。淡い桜の花に交わることの無い黒は、時生の目に眩しく映った。
長く黒い真珠のように輝く髪の毛を翻して、少女は一本の桜の木の前にもたれるように立つ。その木は一等大きい、樹齢の長い桜の中のシンボルツリーだった。少女は桜の木を抱きしめるように腕を回して、そして、木の肌にキスをした。
時生は自然と身体が動いていた。カメラを構えて、レンズを覗く間もなくシャッターを切っていた。そのパチリと軽快な音に、少女は小動物のように肩を震わせて時生は見た。ようやく自分以外の存在に気が付いたらしい。
「あ…。ごめん、」
「…。」
少女は水に濡れたガラス玉のような瞳を大きく見開いて、時生を見つめて、そして。
唇をきゅっと結び、小さく時生を睨むと気踵を返して校舎に向かって駆け出して行ってしまった。
「行っちゃった…。」
いきなり知らない人に写真を撮られたら、当たり前の行動だろう。時生は人差し指で頬をかく。いつもならこんな無礼な真似はしないが、あの瞬間を逃すことができなかった。
今日は、高校の体育館で入学式が行われている。生徒の中で見たことの無い少女は恐らく、今年の新入生だろう。時生が通う高校は自由服の学校で、制服がない。少女のような服装の子は目立つはずだ。また、会えるだろう。
「ん?」
そこまで考えて、少女は入学式をサボタージュしていたことを知った。
「だめじゃん。」
少女の名前が一ノ瀬海里だということを知ったのは、入学式からおよそ一か月後のことだった。海里はその私服のファッションセンスと共にサボり癖が有名になり、職員室前の掲示板によくその名を刻まれていた。
放課後、部活に赴く生徒または帰路に就く生徒で職員室の前の廊下は人の行き来が激しい。時生は掲示板に貼る部員募集のポスターの許可を得るために、職員室に訪れた。
「おう。どうした、八尾。」
生徒会顧問の小林教諭が時生に気が付いて、声を掛ける。時生はスムーズに目当ての教諭を見つけられ、人知れず息を吐いた。
「先生、このポスターにハンコを頂きたいんですけど。」
「どれ。ちょっと待ってな。」
小林教諭はポスターの内容を確認し、快く判を押してくれた。
「写真部、どうだ。人は集まりそうか?」
「どうですかねー…。」
ちょっとした雑談に苦笑を交え、対応する。それよりも時生の視線は職員室の隅の人物に注がれていた。そこには生活指導の教諭から注意を受ける海里の姿があった。時生の視線を追って、ああ、と小林教諭は頷くように声を漏らす。
「一ノ瀬さん、目立つよねー。その割には、授業中に徘徊しちゃうから困るよ。」
どうせなら目立たぬようにサボればいいのにね、と小林教諭は豪快に笑った。時生も愛想笑いを浮かべながら、海里から目が離せなかった。海里は叱責を受けているにも関わらず、何も聞いていないようだった。手を後ろで組んで、伏し目がちに顔を下げているがその瞳は何の目色も滲んでいない。やがて、これからは気を付けるように、と言葉を結び海里は解放されたようだ。
「…。」
ふっと顔を上げた海里と目が合う。吸い込まれそうな黒い瞳が時生の姿を映した。彼女は束の間、じっと時生を見るとつんと視線を逸らしてしまう。まるで気位の高い黒猫のようだと時生は思った。
「あらら。振られちゃったなー。」
その様子を見守っていた小林教諭の言葉を適当にかわしながら、時生自身は海里の足取りを見送った。
写真部の部室に戻った時生はカメラのフィルムを現像するために暗室を作る。諸々の手順を踏み、印画紙を現像液に一分ほど浸し、さらに定着液に浸した。ほっと一息をついて、電気の灯りをつけた。出来上がった写真は現代の筈なのに、数十年前に撮影されたかのような不思議な雰囲気の作品になった。光漏れを起こしているのだろう、少しだけ紅く変色してしまっている個所がある。最近ではあえて光漏れ風に撮影するスマートホンのアプリもあったりするので、個人的にも全く問題がなかった。
写真にはこの間撮影した桜に花々が写っていた。時生は一枚一枚を恋人の髪の毛を撫でるような優しい手付きで確認していく。そしてある一枚の写真でふと手が止まった。そこには、桜の樹木に口付ける海里の姿があった。柔らかい光を纏った横顔の表情は砂糖菓子のように甘く、黒い髪の毛の毛先をアンバーブラウンに染めていた。
綺麗だと思う。浮世離れした彼女の美しさはガラスの箱に閉じ込めて鑑賞したくなる、そういう類のものだった。
写真をファイルに挟んで、年代別に収めたアルバムの最新の位置に並べる。時生は帰り支度を整えて、部室を出た。グラウンドでは野球部が練習する声が響き、校舎の奥からは吹奏楽部の音楽が聞える。夜には早く、昼にしては遅い微妙な時間帯。階段を下って行く途中の踊り場の窓から覗く空はカクテルのようにとろりとした色をしていて、アクセントに一番星が彩られていた。
「ん?」
視線を下げて見える階下の景色には、中庭のベンチがあった。そこに黒く、ふわふわのレースが揺れるワンピースの海里がいた。微動だにせず、俯いている姿は泣いているように見えた。いつもなら他人事と決め込み、関わらぬように早々に立ち去るのだが何故だろうか。今日に限って、心がざわついた。時生は駆けだす。最後の三段を一気に飛び降りて、中庭に出ることができる渡り廊下まで走った。その間も海里はじっとベンチに座っていた。時生は乱れた息を整えつつ、驚かせないようにゆっくりとした足取りで海里の元へと辿る。
「あ、の。」
話しかけようとして気が付いた。海里は俯いて泣いているのではなく、首を傾げるように眠っていた。
「…なんだ。」
ほっと安心して息を吐く。時生は海里を起こさぬように、彼女の隣にそっと腰掛けた。そして膝に頬杖をついて、海里の横顔を見る。あどけない幼さを含んだ眼もとに、ぽってりとして色っぽい唇が共存する一般的に可愛らしいと言われるだろう容姿だった。このままずっと眺めていたかったが、まだ春先とはいえ夕刻は冷える。起こしたほうが良いだろうなと判断し、時生は海里の肩にゆっくりと触れた。「一ノ瀬さん?起きてー…、」
肩の細さに驚きながら、控え目に声をかけてみる。肩を揺らしたその反動で、海里の膝に乗っていた冊子がするりと落ちてしまった。慌てて拾いあげると、その冊子の表紙が目に入った。
「これは…、台本?」
物語のタイトルと共に、小さく劇団星ノ尾と印字されていた。そしてたくさんの付箋が張られていた。
「…ん…、」
小さな声が、海里の唇から洩れる。そして重たげに瞼が開いた。ぼんやりと時生を見つめて、不思議そうに首を横に傾げる。やんごとなき幼子のような仕草に、時生の心臓の鼓動が一度大きく脈打つ。それを無視して、何事もなかった風を装う。
「あ。一ノ瀬さん、起きた?」
「…?…!」
海里の揺らぐ瞳に、警戒の目色が滲んだ。すっくと勢いよくベンチから立ち上がり、海里はその場から駆け出してしまった。その素早い反応にどうすることもできず、時生は後ろ姿を見送った。
「って、あれ!?ねえ、これ―…!!」
時生が自らの手に残された台本に気が付いて、慌てて声をかけるも海里は振り向くことせず姿は見えなくなっていた。時生は、あちゃー、と呟いて手を額に当て空を仰ぐ。
「どーすんだよ、この台本…。」
仕方なく時生は台本を折らないように丁寧に鞄に仕舞う。今日は金曜日。月曜日に返すということで間に合うだろうかと危惧しつつ、持ち帰ることにした。
夜の帳が降りて、時生はアパートの自らの部屋でベッドに寝転んでいた。その手にはスマートホンが握られ、時生はSNSを眺めていた。流れていく情報の中に劇団に所属する青年の投稿があった。写真も添えられていて、たくさんの付箋やメモ書きがしてある台本が写されている。時生は海里のことを思い出し、何気なくメッセージを送って見ることにした。
『役者さんにとって、台本はどのぐらい大切なものですか?』
青年はメッセージを受ける着信をオンにしていたのだろう。返信はすぐに送られてくる。
『なければ何も始まらない。台本は役者の核です。』
「…。」
返信のメッセージを噛み締めるように見て、時生はベッドから起き上がった。学習机の上に置いた海里の台本を手に取る。その台本は読み込まれ、ページの淵はペラペラに薄くなり、書き込みがたくさんされている。きっとこれは海里にとって、とても大事な物だろう。
再び、スマートホンを取り出して今度は検索エンジンを引っ張り出した。そして「劇団星ノ尾」を入力した。
「ここ、か?」
次の日の土曜日。時生は劇団星ノ尾の練習場に訪れていた。劇団星ノ尾は時生が暮らす街にある小さな劇団で、劇場の地下でそのまま練習ができるようにスタジオが作られていた。ホームページに載っていた住所を頼りに、時生は海里の台本を持って訪れたのだ。
銀色のプレートに金色の文字で星ノ尾と書かれている劇場が住宅街の一角に見つかり、人見知りをする時生は人知れず気合を入れて地下に続く練習場へと下って行った。
スタジオの扉はガラス張りになっており、時生はそろりと室内を伺う。スタジオ内では老若男女の役者が数名、発声練習や演技に対しての討論を繰り返している。そして目当ての人物を見つけた。長い黒髪をポニーテールに結い、ダンスレッスンを受けている海里がいた。高校では見たことの無い、海里の凛々しく真剣な表情に新鮮さを味わう。
「あれ?キミ、見学者かな。」
「!」
海里を見ていて意識が持っていかれたのであろう、時生は背後に近付く女性に気が付かなかった。
「いや、僕は、」
「見学者大歓迎だよー!何志望?役者?裏方も募集中だけど!」
女性は大学生のような年齢で、時生より僅かに年上に見えた。時生の話を聞かずに、にこにこと笑ってぐいぐいと彼の背中を押す。
「皆の者ー!新しい劇団員候補だぞー。」
元気よく扉を開けて、室内にいる人々全員の注目を集めるのだった。その中にはもちろん、海里の視線もあった。
「あ。」
時生と海里の声が重なる。
「…なんで、あなたがここにいるんですか。」
「お届け物?でーす…。」
海里の不穏な声色に時生は苦笑の色を滲ませつつ、鞄から台本を取り出した。台本を見て、海里は目を丸くする。
「私の台本!!」
そして飛びつくようにして、時生から台本を引ったくるのだった。台本のページをぱらぱらめくり、欠けがないことを確認して海里は時生をじとりと睨む。
「どうしてあなたが、痛!」
時生を問い詰めようとするよりも早く、海里は年配の男性に頭を丸めた雑誌でぽこんっと叩かれた。
「海里。まずは、ありがとう、だろう。」
「お父さ―…、」
叩かれた頭を押さえながら、海里は抗議するように後ろを顧みる。
「ここでは、団長。」
海里の父親兼団長は、こほん、と咳払いをするのだった。
「ええと、はじめましてだね。何くん?名前は?」
「あ…、八尾時生といいます。あの、僕は一ノ瀬さんと同じ高校に通っていて、」
自身の娘と同じ高校という言葉を聞き、団長は嬉しそうに頬をほころばせた。
「おお!そうか、海里と同じ高校に?そうかあ、それは色々と話を聞きたいね。」
「…。」
海里は面白くなさそうにふいとそっぽを向き、台本を抱えてさっさと自らの稽古に戻って行ってしまう。
「思春期の娘は難しいね。」
「はあ…。」
大らかに笑う団長のその笑みには、寂しさが僅かばかり滲んでいた。
「話を聞きたいのはやまやまだけど、これ以上娘に嫌われたくないからやめておくよ。」
自分で家族と劇団員との線引きをしておきながら、団長はよよと哀しそうに振る舞う。その矛盾に時生は微笑ましく思い、くすりと笑ってしまった。
「はは、まあ。せっかくだから、ゆっくりしていって。」
団長の言葉に甘えて、時生はスタジオの端にある休憩スペースに案内され、一人、椅子に腰かけていた。麦茶を注いだコップを目の前に置かれて、ありがたく頂く。
目の前では、それぞれの稽古が始まっていた。海里はもくもくとダンスを練習している。ポニーテールの髪の毛がひらりと翻り、足先はステップを踏み、軽やかに舞う。小柄な海里の体躯はまるで蝶々のようだった。
「海里ちゃん、華があるよねー。」
「はい…って、え!?」
問われた言葉に無意識に頷いて、時生を驚いて隣を見た。隣に座ったのは、時生をスタジオに引き入れた張本人だった。
「そんな、驚かんでも!あ、私、斉藤海咲。よろしくぅ。」
「斉藤、さん。」
時生が反芻すると、海咲はからりと笑う。
「やだなあ、海咲でいいよ。」
「…海咲さん。」
固いなあと呟きながら、海咲は、ま、いっか、と一人納得したようだった。
「ねねね、海里ちゃんって実際のところ、高校ではどんな感じなの?」
「一ノ瀬さん、は…マイペースです。」
時生の答えに、海咲は笑う。
「きっと、そうだろうとは思ってた。友達はちゃんといる?姉貴分として、心配なの。」
「友達ですか。」
時生は高校での海里について、思い出してみる。何度か見かけてはいるが、海里が人と一緒にいるところは見たことはなかった。だが、それを正直に美咲に申告してもいいものかと迷う。
「…いないんだね。もう、相変わらずだなあ。」
沈黙で悟られてしまい、時生は申し訳なく思う。すみませんと呟くと、何で謝るの、と海咲が朗らかに話を続けた。海咲は笑顔が似合う女性だと思った。
「でもよかった。時生くんみたいな子がいてくれて。えっとー…、先輩だっけ。」
時生は頷いて見せる。
「これからも、海里ちゃんを見守ってあげてね。」
一時間ばかり見学をし、時生は頭を下げてスタジオを出た。地上へ続く階段を上る途中、その手を何者かに掴まれる。
「!」
ひやりと冷たい、低い体温をした小さな手。
「あの。ちょっとよろしいですか。」
階下から見上げていたのは、海里だった。
地上に出て、しばらく無言で海里の後をついていく。どこからか桜の花びらが舞ってきて、足元をくすぐるように風にさらわれていった。途中、海里がはたと止まり、急に足の向きを変えた。不思議に思い、進んでいた先を見るとそこには子どもと散歩する犬が歩いていた。
「…犬が苦手なんだ?」
「別に。そういうわけじゃないです。」
彼女の強がりを微笑ましく思いながら、時生と海里は回り道をして小さな公園に辿り着いた。心地良い日和に咲く桜の木が一本あり、先ほどの花びらの親はこの木だということを知る。海里は木の下に置かれたベンチに腰かけた。時生はどうすればいいかわからずに、立ちつくす。
「…なに、ぼうっとしてるんですか。落ち着かないので座ってください。」
「隣に座っても?」
嫌ですけど、と前置きをしながらも海里は頷いてくれたので、時生はゆっくりとベンチの端に座る。
「…。」
沈黙の時間が、ゆっくりと流れていく。その間、時生はじっと蟻が蝶々の死骸をせっせと運ぶ様子を見ていた。
「…蝶々。」
海里も同じものを見ていたのだろう、ぽとんと呟く。
「綺麗なのに、蟻に食べられちゃうんだ。」
「可哀そうだと思う?」
再び、海里は無言を貫き通す。時生はベンチから立ち、膝をつく。そして、蟻から蝶々の死骸を取り上げた。
「…どうするの。」
海里は、不審そうに時生の挙動を見守っている。
「うん、家に持ち帰って標本にしようかなって。」
「標本?ピンを刺して?」
いいや、と時生は首を横に振った。
「樹脂封入標本にする。この翅の美しい色合いは消えるけど、形はきれいに残るよ。」
時生にはカメラの他にも趣味があり、それが樹脂封入標本だった。寿命が訪れたり、傷を負ったり。病気で死んだりした生物の死骸を始めは解剖をして、命の源を知ろうとした。その経過の内に、この美しい身体をそのまま残しておきたくなったのだ。
蝶々の死骸が崩れないように、優しくそっとハンカチに包む時生を海里は不思議そうに見つめていた。その視線に気が付いて、時生はしまったと思う。
「あ、あー…。気持ち悪い?」
年下の女子高生から見れば、虫の死骸を大切そうに持ち帰り標本にするなどと言う奇行は幾分と心を冷やすだろう。そう思い、バツが悪そうに引きつった笑みを浮かべていると海里は思いがけず首を横に振った。
「いえ。盗撮よりかは、引いていません。」
「その説はすみませんでした。」
時生は勢いよく腰を90度に曲げて、頭を下げる。海里はやれやれとばかりに溜息を吐いた。
「本当、ドン引きしました。人が気持ちよく散歩していたら、いきなりシャッターを切るんですもん。」
「黒色と桜色の鮮烈で対比が綺麗だったから。」
時生の言葉に、海里は若干目を細める。
「こういう時は、色じゃなくて私自身を対象にして下さい。賛美の言葉を惜しんだら、はっ倒しますよ。」
「一ノ瀬さんと桜の対比が綺麗でした!」
言い直すとようやく海里は、よろしい、と頷いてくれた。
「それで?何故、盗撮をしたんですか。」
「これは標本の延長なんだけど…僕は、失ったら戻ることの無い儚さに恋をしているようなんだ。」
時生は口をつぐむと無意識に自身の左手、薬指を見た。第二関節の位置より下にずれ、そこにあるはずの薬指が欠損していた。中学の木工の授業中に、電動工具に巻き込まれたのだ。花が散るような鮮血と一瞬後に起きた悲鳴をよく覚えている。指を切断した当の本人である時生より先に、その現場に居合わせた同級生がショックにより貧血を起こして倒れた。
それから時生はすぐに病院にかかったが、指の断面図はひどく傷ついていて手術でつなぐこともできず結果、欠けたままだ。ちなみに貧血で倒れた同級生は頭を強く打っていて、精密検査や入院を経験した。
「…手をよく見せてくれませんか。」
海里の申し出に時生は「いいよ」と快諾し、左手を彼女の目の間に晒す。
「…。」
その左手を取って、海里はまじまじと時生の存在しない薬指を見つめた。両の掌で包み込むように触れて、時折そっと指の付け根を揉んだ。そのささやかな感触がくすぐったくて、時生はふっと吐息を漏らす。
「痛いですか?その、幻肢痛、とか。」
「幻肢痛?珍しいところに目を付けたね。」
切断した当初は、確かに海里が言うように幻の指が痛むように感じて悩んだこともあった。だが数日もすれば、脳も指を欠損したことを認め始めて徐々に治まった。
「今は平気。」
将来、愛する人と永遠の愛を誓う指が無くなったのは残念。だけど、その代償に神は僕に恋を教えてくれた。生物の儚さを知り、多くの者に永遠は無いことを悟った。一方でプラナリアやイソギンチャクなどの生殖方法が分裂だという者には、嫌悪感を抱くようにもなったのだけれど。彼らには情緒というものがない。
「それで…、失ったら戻ることの無い儚さでしたっけ。私と桜にどう繋がるんです?」
「えーと、ね。何て言えばいいかな。」
時生は自らの中に芽生えた感情に名前を付けようと、言葉を探す。
「一ノ瀬さんと桜が儚く感じた一番のきっかけは、色。こんなことを言えば、また叱られるかもしれないのだけど。」
ゴシックロリータのファッションは、主に退廃的な印象を受ける黒に統一されている。すべての色を自らの色に染め上げる黒が、桜の淡い色彩にぽとんと落とされた瞬間。均等を誇っていた調和が崩された気がしたのだ。調和は海里がいる限り再起をかけることもできず、その場に異質なものとして残ってしまう。彼女と彼女がいる風景に、戻らない調和に儚さを感じた。
「ゴスロリを着てなかったら、僕は一ノ瀬さんを無断に撮影しなかったよ。…多分ね。」
「ふうん。割と興味深かったです。理由を話してくれて、ありがとうございました。」
律義に海里は頭を下げる。そして顔を上げたかと思うと、真っ直ぐに時生を見つめた。黒く大きい、猫のような瞳の中の自分と時生は目が合う。
「あなたの名前を教えてくれませんか。聞いていませんでした。」
「あ、あー。名乗ったのは一ノ瀬さんのお父さんに向けてだったね。そう言えば。」
じゃあ改めて、と前置きをして、時生は海里を見た。
「八尾時生です。一応、一ノ瀬さんの先輩です。」
「八尾先輩。」
ふむ、と頷く海里に時生は言葉を続ける。
「僕は一方的に一ノ瀬さんの名前を知っていたけど、自己紹介がまだだよね?」
「そういえば、なんで私の名前を知っているんですか?」
海里は心底不思議そうに首を傾げるので、時生は思わず笑ってしまう。
「学校で有名だよ。一ノ瀬さん。」
その私服のセンスと、サボり癖。職員室掲示板の常連。
「美少女で有名、ぐらいお世辞を言えばいいのに。」
海里はつまらなそうに唇を尖らせた。
「自分で言う?」
「八尾先輩が言ってくれないからでしょ。」
つん、とそっぽを向く海里を見て、案外感情豊かなんだなと時生は人知れず思った。
「…何か、失礼なことを考えたでしょ。」
「何故、わかった。」
うっかり正直に応えると、海里は「女の勘です」といって今度はやれやれと肩をすくめた。
「一ノ瀬海里。私の名前。」
「うん。よろしくね。」
右手を差し出して握手を求めようとすると、海里はゆるゆると首を横に振った。
「?」
「ここで差し出すなら、左手でしょう。」
彼女は、指が欠けた手が良いと言っている。時生はややあと頷くと、握手を求める手を左に変える。そこでやっと海里は手を握ってくれた。
「あまりよろしくしたくないですけど、よろしくお願いします。」
劇団のスタジオに戻ると言う海里を見送って、時生は一人公園に残った。無言で桜を見上げて、海里との会話を反芻していた。まるで人慣れしていない野良猫を手なずけたような気分だった。
一ノ瀬海里は学校が嫌いだ。もっと嫌いなのは、自分の年齢プラスマイナス3歳の女子だ。彼女らはすぐにカーストを作りあげ、相手を下位に所属させたらあとはもう見下すだけ。それだけなら無視すれば済むが、積極的な女子は勝手に決めた下位グループを排除しようとするから厄介だった。
小学校まで仲の良かった友人が、海里に辛く接するようになった。他の友人に海里の悪口を囁き、海里の周囲の人間を減らした。そして自分は海里に纏わりついて、嫌われ者にも優しく接する自分を作り上げた。
面倒だなあ、と、よくやるなと思い、海里は聞いてしまった。「楽しい?」と。純粋な海里の疑問に相手は激昂し、わかりやすく無視が始まった。
呆気なく孤立した海里だったが、一人の方が楽、と自らを丸め込み、異論を唱えずにそのまま生活を続けてしまった。ゆえに海里は周囲の空気と化し、まるでその場にいない透明な人物となる。
中学の教員から「お嬢さんは協調性がないですね」との評価を受けた劇団星ノ尾の団長を務める父親が、海里を演劇の世界に誘った。海里は演技の楽しさ、表現をする快感を味わい、演劇にのめり込んだ。高校に行かずに役者になりたいと申し出るほどの熱の入れようだった。当然、海里の両親は反対した。父親による「高校生役が演じられなくなる」という独特な説得により、嫌々ながら海里は高校に進学することになる。
「海里ちゃん、おかえりー。時生くんはちゃんと見送ってあげたの?」
海咲がスタジオに帰ってきた海里に声を掛ける。さっぱりとした性格の海咲とは珍しく気が合い、普通に話すことができた。
「いや、そんなんじゃないんで。」
「またまたー!照れなくていいのよん。」
長身の海咲は、先を歩いて行こうとする海里に背後から抱きしめるようにじゃれる。いつもの彼女らしいスキンシップに海里は苦笑した。
「おーい、二人とも。通し稽古を始めるぞ!」
「あ、はあい!行こ、海里ちゃん。」
団長の声掛けに元気よく返事した海咲は、海里を引きずるようにして舞台へと連れて行くのだった。
土曜日の今日は、夜まで続いた稽古を終えて海里は父親と共に帰路に就く。動きやすい練習着を脱げば、海里はすぐにゴスロリのファッションに身を包んだ。父親も娘の服装にはもう慣れたのか、何も言うことはない。
「海里。高校、楽しいか?」
「ううん。」
即答する娘に苦笑を交えながらも、父親は時生の存在に随分と助けられたことを知る。少なくとも、彼女は今、独りではない。
「その内に楽しくなるから。心配するな。」
「別に…。どうでもいい。」
そっけない言葉に笑いながら、我が子の頭を撫でると「ヘッドドレスが乱れるからやめて」との抗議を受けた。
「ごめんごめん。」
夜の海に浮かぶクラゲのような月が二人の家路を白く照らしていた。
月曜日の朝は低血圧に加えて気が重い。海里は早朝に目が覚めてしまった。ベッドから抜け出して、そっとベランダに続く窓ガラスのサッシをカラカラカラと開けてみる。キャミソールにドロワーズという身軽な姿に、春とは言えまだ冷たい朝の空気が海里の丸く白い二の腕の肌を柔らかく刺激した。高台に位置する一軒家の二階から覗く街は東山魁夷が描く森林のように蒼く佇み、乳白色の靄に包まれている。しゃがみ込み、窓サッシから足を放りだした。ふと思い出したことがあり、海里はだらしなく寝転ぶようにして身体と更に腕を伸ばしてローテーブルの上にあった台本を手に取る。パラパラとページをめくっていくと、自らのセリフの横に指導された演技内容の書き込みが目に飛び込んでくる。
感情を抑え気味にすること。振り向きざまの視線の行方について。差し伸べる手先の表情。そして、弾けるような笑顔、と書いた項目には海里自身の困惑の表れである「?」が付着していた。そこまでは自らが書いたものだから見覚えのあるもので当たり前だが?マークの横には知らない筆記体で「ガンバレ」とたった一言だけ、野原に咲く花のようにぽつんと添えられていた。
海里は自分の台本を誰かに見せたことも、貸したことも無かったから最初に戸惑い、そしてすぐに時生の仕業だと気が付いた。ページに欠けがない代わりに、言葉が増えていた。
「…。」
溜息を吐く。時生には、早々に自分が笑顔を浮かべる事が苦手なことに気付かれたようだ。一ノ瀬家のフォトアルバムを見れば一目瞭然だが、海里は中学に入学した直後には笑顔が消えていた。カメラのレンズを向けられてもにこりともせず、しんと凪ぎ、只々レンズの奥の撮影者を何者かと疑うように見つめている。
海里はきゅっと頬に手を当て、口角を上げてみるがひくひくと肌が痙攣して嫌がるようだった。
「バカみたい。」
一言、言い捨てて海里は服を着替えるために立ち上がる。
今日はゴシックロリータでも、教会の修道女風のシンプルでいてクラシカルなワンピースにしよう。
そう決めて、早速クローゼットに向かうのだった。
高校までは徒歩と電車で通学していた。毎朝毎朝、人を目的地まで工場勤務のように運ぶ電車の込み具合には嫌になる。海里はかさばる服装でもあるために、迷惑がられることも多かった。ようやく吐き出されるように下車する頃にはすでにくたくたに疲れていた。ICカードの定期券を改札にかざして駅構内を出ると、不意に声をかけられた。
「おはよう。」
驚きにひゅっと息を呑んで振り返ると、そこには時生は立っていた。
「八尾先輩。…おはよう、ございます。」
小さな声で挨拶を返すと、時生は、うん、と頷いて海里の隣を歩き出す。
「温かい日和だね。」
時生の言葉に、海里も釣られるように空を仰ぎ見た。蒼穹の端に月が居残っていたが、雲が見当たらない見事な晴天だった。
「開口一番が天気の話って、つまらないですね。」
「あまり突っ込んだことをいきなり聞いても、一ノ瀬さん、嫌でしょ。」
何か間違いでも?と時生は首を傾げるように、海里を見つめた。自分を見透かされているようで何だか悔しくて、時生の顎の先をくっと掴んで前に向けた。その反応に時生は声を出して笑う。
「何が可笑しいんですか…って、なんで私たちは一緒に登校してるんです?」
「同じ学校だからじゃない?」
朗らかに笑うこの先輩が、私は苦手だ。
高校に近付くにつれ、生徒が増えてきた。友人同士で歩く生徒からは、華やかな笑い声が聞こえてくる。積極的に朝の挨拶を交わすのは校門に立つ教員だ。
「お。おはよう、八尾。珍しい組み合わせだな。」
今日の当番は小林教諭で、時生と海里が連れ立って歩く姿をいち早く見つけた。
「駅で偶然一緒になったんですよ。」
「そうか、そうか。一ノ瀬もおはよう。」
小林教諭の挨拶に無言で返す海里をフォローしようと時生は試みる。
「一ノ瀬さん、シャイなんですよ。」
「決めつけないでください。挨拶ぐらいできます。」
「じゃあ、どうぞ」と時生に促されて、海里は渋々ながら小林教諭に「おはようございます」と小さな声で挨拶を返すのだった。一連の流れを見守っていた小林教諭は感心したように頷く。
「一ノ瀬の声、初めて聞いた気がするな。八尾は人の扱い方がうまいなあ。」
ははは、と大声で笑い、小林教諭はようやっと二人を解放するのだった。海里は一気に疲れたようで、肺を空っぽにするかのように深く溜息を吐いた。昇降口で上ばきに履き替えるために別れようとすると、海里は「それじゃ」と小さく頭を下げて踵を返してしまう。
「ちょ、ちょい待って。どこ行くの。」
時生が慌てて、海里を呼び止める。腕時計を見れば、あと数分もすれホームルームが始まる時刻だった。周りにいた生徒たち校舎の中に納まっていき、もう数えるほどしか見当たらない。
「どこって…、いいところですよ?」
海里は挑発的に目を細めてニヤリと笑う。
「八尾先輩は教室に向かわれてはいかがですか。遅刻になりますよ。」
「それは一ノ瀬さんも同じ条件でしょ。」
時生の困った声色を聞き、海里は満足気にそのささやかな胸を張った。
「私はいいんですー。」
「何、その謎の理屈…。でも、それなら俺も行く。」
海里が言う、自分はいい、の間に「どうでも」が付く気がして時生は放っておけなかった。
「先生に見つかったら怒られますけど、それでもですか?」
「そんなの承知の上だよ。」
海里は悩むように腕を組み、しばらく考え込むようだった。いいところに時生を連れて行くべきか否か、天秤にかけているのだろう。
「八尾先輩だとどうしてもついてきそうなので、譲歩します。」
どうやら連れて行く方向に傾いたらしい。
「段々、僕に慣れてきたね。」
「笑えない冗談は嫌いです。」
そう言って小鹿のような足取りで先を駆けていく海里を見失わないために、時生も後を追うのだった。
桜の花びらが浮かぶ高校のプールの脇道を抜けて、更衣室のある棟の裏に辿り着く。フェンスと木々のトンネルを通り、開けた場所に行きついた。そこには野良猫の集会場が存在した。
「ここがいいところ?」
「いいでしょ。ねえー?」
時生の問いに、海里は猫を抱き上げながら答える。猫たちも海里の来訪に慣れているのか、彼女の周りを纏わりついて離れない。華美なゴスロリのワンピースの裾が土ぼこりに汚れるのも構わずに、彼女は膝を抱えて座り猫たちを木の枝であやした。
「にゃーにゃー。」
海里は自然な笑みを浮かべながらキジトラ猫、黒猫、三毛猫などの様々な毛色の猫と戯れる。時生は、ふうん、と感心したように呟きながら丸く広がったスカートを踏まないように注意しながら海里の隣に座った。柔らかい雰囲気の海里の横顔を盗み見ているつもりが、バレバレだったらしく時生は脇腹を小突かれた。
「恥ずかしいので、止めてください。」
舞台に立てば注目を集めるだろうにと思い、時生は不思議そうに首を傾げて見せる。
「恥ずかしいの?」
「そんなに熱心に見られると、普通は嫌だと思われるんじゃないですか。」
よく見ると海里の耳の先が朱に染まっていた。
「一ノ瀬さんの貴重なデレだと思って。」
「…何を言いだすんです?」
海里は呆れたと言い目を細めて、時生を睨む。
「いや、真面目な話。ツンデレかと思っていたら、デレが少なすぎるなって。」
「そもそも八尾先輩相手に、デレた記憶はありませんが。」
時生は目を丸くする。
「今、笑ってたじゃん。」
「それは、猫に対してですー。八尾先輩に、ではありませんー。」
ね?と海里は猫と目を合わせて、鼻と鼻の先をちょんと触れ合わせた。猫は甲高く鳴き、小さな前足の肉球で海里の頬をむにと揉んだ。
「僕は猫に負けたのか…。」
「勝てるとでも?」
ふふん、と笑い、海里は再び抱っこした猫を時生の胸に押し付けた。猫は時生に抱かれて所在無さげに動いていたが、腕の中でベストポジションを見つけて大人しくなった。
「悔しかったら、にゃあって言ってくださいよ。」
「にゃあ。」
別に恥ずかしくも、屈辱でも何でもないので時生は即答して見せる。
「…。」
「今、舌打ちしたな!?言えって言ったの、そっちなのに!」
時生がすかさず抗議を入れると、海里は大袈裟に耳を庇う真似をした。
「あー、もー。大声を出さないでください。猫が驚くでしょ。」
実際、時生に抱かれた猫は胸を蹴り地面に着地して、とことこと離れて行ってしまう。それからは反省して二人、無言で猫に接した。遠くで、本鈴のチャイムが鳴る音が響く。穏やかな春の光は柔らかく肌を温めて、若干ながら汗を覚えるほどだった。
「…そういえば。」
ぽとんとインクを落としたかのように口を開いたのは、珍しく海里だった。
「台本の書き込み。ガンバレってあれ、八尾先輩ですよね。」
「…ああ!うん、僕だね。」
一瞬、何のことかわからずに首を傾げかけて、思い出す。笑顔の演技指導の果てに?マークが浮かんでいたこと。その記号が震えて濡れる、戸惑う海里の心のように思えたこと。だからだろうか、励ましたくなった。
「一応、消せるようにシャーペンにしたんだけど。」
「そういう問題じゃないんです。気が散るので、今後は一切やめてください。」
その時、海里がどんな表情をしているのか気になってしまった。ちらりと時生が隣を盗み見ると、海里はぎゅうっと目を瞑って何かに耐えるように唇を結んでいた。その意味が知れずに、時生はそっと目を逸らした。
その内、押し寄せる感情の波から復活した海里はふと顔を上げる。そして徐に立ち上がった。
「どうしたの。」
「猫の鳴き声が…?」
海里は小首を傾げながら、ごそごそと四つ足で這っていく。
「汚れるよ。」
「黙って。」
いつになく真剣な海里は耳を澄まして、その鳴き声とやらが聞こえる場所を探る。そして茂みの中に潜って行って、動きを止めた。
「一ノ瀬さん?」
不審に思い、時生も腰を浮かして海里のもとへと行く。そして彼女が見つめる先を追った。
「…ああ…。」
時生が思わず、声が漏らす。そこには一匹の子猫が長く伸びた草の上をクッションにするかのように横たわっていた。だが、目元口元の粘膜付近に小さな蟻がたかっていた。子猫は絶命している。幼いころ特有の高い声で鳴いて兄弟と思しき子猫が、死骸から離れようとしない。
「…。」
海里は手を伸ばして亡くなっている子猫の身体を抱き上げる。優しく、死んでいても尚痛くないように群がった蟻を掌で払いのけた。時生は言う。
「…子猫の頃は、突然死も珍しくないから。」
だから仕方がないよ、とは続けられなかった。慰めにもならないとも気付いていた。泣いているのかなと思ったが、海里は意外にも笑っていた。優しく聖母マリアの像が浮かべるような笑みだった。
「…お疲れさま。」
海里は死後硬直が始まりかけて強張った手足を、母猫が毛づくろいをしてやるように丁寧に毛並みを撫でる。時生は何を言えばいいのかわからない代わりに、海里が抱く死骸に手を伸ばして彼女がしたように撫でた。しっとりとして、柔らかな毛の感触が指の腹に残る。生き残った猫たちが不思議そうに、二人を見上げていた。
きょろきょろと海里は何かを探すように、周囲を見渡す。そして一等温かい太陽の光が差す場所を見つけると死骸をそっと草のクッションの上に一旦寝かせて、自分は素手のまま地面を掘りだした。土葬するための場所を探していたのかと知り、時生も海里の手と重ねるように一緒に地面の土を掘り起こす。
「汚れますよ。」
海里が言う。手伝わなくても、構わないと。
「いいんだ。一緒にやらせて。」
爪と指の間に土が挟まるのもいとわずに、時生と海里は子猫のための小さな墓穴を作った。身体の小さな仔猫だったので数分とかからずに、墓はできた。草を敷き詰めて摘んだ野の花を添えて、子猫を寝かせる。最後に一度だけ海里は撫で、時生が柔らかい毛布で包むように土をかけた。
ささやかな葬式が終わる。
「…一ノ瀬さんは生き物の死体が怖くないんだね。」
先ほどの海里は死に対して敬意すら感じるほどに、自然に抱き上げていた。それは泣いている赤子をあやすために抱くのと同じ感情にすら似ていた。
「死体、って怖い、ですか?」
時生の言葉に海里は驚きを交えて、問いで返す。
「普通は、恐怖とか嫌悪感を感じるんじゃないかな。」
苦笑しながら時生が意見を述べると、海里はどこか呆けたように「そうですか」と呟いた。しばらくの沈黙の帳が降り、風と一緒にどこからか蝶々が飛んできた。思わず瞳の先が奪われて、二人の視線が交わった。
「標本ってもうできたんですか?」
「ん?ああ、蝶々の?まだだよ。死骸の乾燥に、2~3週間かかるから。」
樹脂封入標本について海里が記憶にとどめていたことに驚きを覚えつつ、簡単に時生は標本完成までの工程を説明した。
「…それで、完成まで一か月ぐらいかな。」
「結構、時間が必要なんですね。」
海里の幾分かがっかりした様子にも聞こえた声色に、時生は首を傾げてみた。
「もしかして、楽しみにしてた?」
「はい。」
まさかと思いつつも、海里に即答されて時生の胸に嬉しさの色が滲む。今までこの趣味を理解されたこともなければ、興味を持たれたこともなかった。
「八尾先輩こそ、死体怖くないんですか?」
「怖く、ないね。」
時生の肯定を得て、海里は満足そうに頷いた。
「私は…死体を愛おしく思うんです。死体には生きてきたすべてが刻まれていて、とても…愛おしい。」
生を駆け抜けてきた体がまるで、語りかけてくるようなのだと海里は言う。
「私が中学二年生のときに祖母が亡くなったのですが、私、泣けなかったんです。」
亡骸となった祖母の肌は不思議な冷たさだったと、海里はまるで恋人を思い出すようにうっとりとした目つきを見せた。
海里自身をとてもかわいがってくれたらしい。高齢だった海里の祖母は誤嚥性肺炎を患って亡くなった。入院していた病院で祖母の亡骸と面会をして、そっと彼女の細く深いしわが刻まれた頬に触れた。無機質な冷たさではなく、かといって命の温かさがあるわけでもない。透明なリボンをするりと解いたような海辺の砂のような感触と、宝石の中で唯一体温を感じさせる真珠のような冷たさだった。
「故人の思い出はもちろん頭によぎりました。でも…、私。その時、その場にいた祖母がとても可愛らしい子どものように思えて、微笑ましかった。」
海里は瞳を伏せて、ふ、と吐息を漏らす。そして瞼を重そうに持ち上げて、ゆらりと時生を見た。
「八尾先輩は何故、死体が怖くないんですか。」
「僕は、そうだな…。」
自らの原点を辿る旅に出る。考え、脳裏に浮かぶ幼い時生は水分の多い空気に包まれているようによく見えなかった。「一ノ瀬さんみたいな明確な記憶があるわけではないんだけど。僕の両親は亡くなっていて、その、ちょっと重い話になるんだけどいいかな。」
どうぞ、と海里が頷いたのを見て時生は言葉を紡ぎ出した。
「両親は生まれたばかりの僕を一人残して心中したらしいんだ。アパートの一室で二人が死んでいるところに、一人泣いていたのが僕。」
「…一緒に逝きたかった?」
海里に好奇心の色はなく、ただ純粋な疑問だろう。おかげで随分と話しやすい。時生は少し考えて首を横に振った。
「そうでもないな。今、死にたいほど恋しいわけでもないし。だけど、思い出すことがあるんだよね。」
黒い繭のような空間にゆらゆらと蜃気楼のように揺れる二つの人影。それは首をつって亡くなっていたという両親の最期の姿だと思う。
「それは、曖昧な僕の両親の記憶。きっと死体なんだけど、一番古い家族団らんの思い出だ。」
死体。すなわち、両親。両親は幼い時生から、死体への恐怖心を奪っていった。
「今は後見人の叔父に支えられて、生活してるよ。高校に進学してからは気楽な一人暮らしまで許してくれている。」
はは、と時生が笑って見せても、海里はつられて笑うことはなかった。
「そうでしたか。私はてっきり、薬指を切断したから、などと陳腐な物語の延長線上を披露してくれるのかと思いました。」
「陳腐だと思っていたのか。」
毒づいて気分を良くしたのか、海里がようやく笑う。
「八尾先輩の思い出話、興味深かったです。ありがとうございました。」
「お粗末さまでした。」
互いに頭を下げ合うという何だかおかしな展開に陥った。その会話の最中に過ぎ去った時間を授業の終了を告げるチャイムで知る。
「どうする?」
「何がですか。」
次の授業、と時生が告げると海里は首を横に振って見せた。「これからがサボり本番ですよ。」
ふふふ、と何かにケンカを売っているかのように海里は不敵に笑う。
「いや、本領発揮されてもな…。」
時生は立ち上がり、衣服についた土ぼこりをぱたぱたと掌で払った。頭の中では時間割が浮かんでいる。
「僕はそろそろ行くよ。一ノ瀬さんもたまには授業に出なね。」
「やーいやーい。真面目ー。」
バカにしているんだか、褒めているんだかよくわからない煽りを受けながらその場を後にする。時生の背中が見えなくなる刹那、海里の声が僅かに聞こえた。
「この場所を他の人にばらしたら、怒りますからね。」
了解、と左手を上げて見せ、今度こそ本当に時生は校舎に向かって歩いて行った。
一日の授業を終えた時生は、電車通学に使っている駅近くに位置して自らが住むアパートへの帰路についていた。途中、スーパーで夕食の買い出しをして店を出るころには空は夕焼けに染まり、一番星がぽつんと始まったばかりの夜空に取り残されたように瞬いていた。
かぜよみ荘と言う名の古い木造二階建てのアパート、一階の角部屋が時生の城だ。鞄から鍵を取り出して、扉の錠を落とす。
「ただいまー…。」
誰もいない、暗い部屋に向かって自身の帰宅を告げた。すぐに壁にある電灯スイッチを手探りで探り当て、光を灯す。パラパラと音を立て電気が付くと、部屋の全容が曝け出された。鉄パイプのベッドと学習机、大きな棚が一つずつ置かれたシンプルな部屋だ。異様なのは棚に収められた樹脂封入標本の数だ。カブトムシ、蝶々。トカゲや小魚。大きなものでヘビなど、合わせて50個以上はあるだろうか。透明な樹脂に閉じ込められて、美しい死骸のまま保存されている。
時生は学習机にリュックを置いて、ベッドに腰掛けた。ふう、と小さな溜息を吐いて上半身を自らの匂いがする布団の上に倒す。しばらく目を閉じて、深呼吸を繰り返す。頭上、上の階でごとごとと重いものを動かすような音が響いていた。アパートの前に止まっていた引っ越し業者のトラックが走り出す場面を思い出す。どうやら新しい住人が引っ越してきたようだ。
前に住んでいた人は水商売の女性らしく、夜中にハイヒールの音を響かせながらアパートの廊下を歩いていた。その靴音に目覚めることも少なくなく、今度の住人は静かな人だといいと思った。
ふっと気合を入れて起き上がり、学習机の上のリュックに手を伸ばす。リュックの奥底を探り、手に触れたのは冷たく小さな樹脂の塊だ。とん、と指先で小突き、水から掬い上げるように取り出した。丁寧に研磨して仕上げた樹脂の中には切断してしまった左手の薬指が標本として収まっている。
卓上においてある鏡に今の自分の顔が映った。その顔には微笑が刻まれている。自分はこの標本を手にするときはこんな表情をするのかと、新鮮に驚いた。ぎゅっと標本を拳に握り込み、再びベッドに座った。そして電気の灯りに透かすように頭上にかざしてみた。
乾燥させて、干からびたミイラ状態になり幾分か縮こまっているが、光に透かすと僅かに肌の淵が赤黒く染まる。血肉は固まっても尚、赤い。
裏に表にひっくり返して指紋のしわを見たり、白い爪先を眺めた。愛しく思い、ちゅ、と樹脂のつるりとした表面に口付けたところで、玄関のチャイムがビーと鳴った。
「!」
驚き、指の標本を取り落としそうになりつつ、時生は立ち上がった。ボトムスのポケットに標本を突っ込んで、対応すべく玄関に向かう。
「はーい…?」
錠を落として、扉を開けるとそこには一組のカップルが立っていた。
「あ。」
カップルの女性と時生の声が重なる。その人物は、劇団星ノ尾で出会った役者の海咲だった。
「海咲さん…どうして、ここに。」
「時生くん?ここに住んでいたんだ。」
置いてけぼりの彼氏が、海咲に「知ってる人?」と尋ねる。海咲は笑って、手を蝶々のようにひらひらと振った。
「ああ、えっとね。時生くんって言って、前に私が所属している劇団で出会ったの。時生くん、こっちは私の彼氏のきーくん。」
「どうも、二階の部屋に越してきた上田です。これからよろしくお願いします。」
海咲の紹介にぺこりと頭を下げた上田の名前は、喜一だと後に聞いた。海咲はおじいちゃんみたいな名前だね、と笑ってそれから「きーくん」と呼ぶようになったという。この名前のおかげで彼女と仲良くなったと自慢する喜一はくまのような大らかさを持つ、優しげな雰囲気の青年だった。「あ、ああー。どうも、わざわざありがとうございます。八尾時生です。よろしくお願いします。」
「住むのはきーくんだけだけど、私もちょくちょく来るからよろしくね!」
海咲は手を振って、そしてその手を喜一に腕に絡めて去って行った。
「ねえ、きーくん。ご近所さんが知ってる人で良かったね。」
「知ってるのは海咲の方だろ。」
二階の部屋に戻った二人は玄関の扉を閉めつつ、笑い合う。「さて、と。荷解きは後にして、ごはん食べに行く?」
喜一は玄関の靴棚の上に置いていた財布を取って、海咲に提案する。
「だめだよー、引っ越しで随分とお金が掛かったでしょ。節約、節約ー。」
「じゃ、どうすんの。」
海咲は取りやすいように一番上に置いたのであろう段ボールから、調理用品を取り出した。
「私が作ってしんぜよう!」
「海咲が?」
驚いた喜一はそのまま表情に出る。そしていち早く察し、海咲のこめかみに怒りマークが浮かぶ。
「何かご不満が?」
「不満と言うか、不安が。」
喜一は苦笑しながら、過去の海咲の作品を思い出した。ジャガイモがほくほくしていないカレー、ケーキを作ろうとしてできたクッキーの生地。極めつけは卵の殻が含まれたたまごかけごはん。簡単と思える料理でも、その失敗率は高かった。海咲は頬を紅く染めながら、喜一の胸を叩いた。「もう!意地悪なんだから!!」
海咲の抗議に喜一はさらに笑みを濃くして、ついには声を出して笑う。
「ごめん、ごめん。じゃあ一緒に作ろうか。」
そう言って、二人、小さなキッチンに向かった。
喜一と海咲のカップルが二階で調理を始めたころ、時生は浴槽にお湯を溜めて入浴をしていた。小さいながらバス・トイレ別がかぜよみ荘の数少ない良いところだ。
「―…。」
肺に溜まった二酸化炭素を吐き出しながら、膝を折りたたんでゆっくりと浴槽に浸かる。湯気で浴室内は白く染まり、天井からは時折結露した水の雫が滴った。両手の掌でお湯を掬って顔を洗う。ポタポタと顎の先からお湯が落ちる感触は、海里の指が顎に触れた感触によく似ていた。思い出すのは、その指よりももっと深い場所。左手の手首に刻まれた一筋の傷痕だった。いわゆるリストカット痕に、時生は海里の儚さを感じ取った。
生々しく桃色にふっくらと盛り上がった線状の傷痕は何よりも美しく海里を着飾る、アクセサリーのようだと思った。標本にすることが叶わない代わりに、写真に収めたかった。「いけない、いけない。」
時生はお湯の雫を飛ばしながら、ふるふると首を横に振った。海里の柔いところに土足で踏み入れ、荒らしてしまう所だった。大丈夫、まだ分別はついている。
忘れたくとも、会えば自然と目が行ってしまう。気を付けなければと思う。
「一ノ瀬さんは、演劇部とかには興味がないの?」
新緑に雨が降る五月のある日。今日は図書室で二人、校舎裏の非常階段の踊り場で過ごしていた。海里は愛読書のようにいつも台本を読んでいた。
「ないですね。」
その台本から目を離すことなく、海里は時生の問いに即答する。その視線は台詞や感情の動きについてのアドバイスに向けられていた。時折、赤いサインペンを取って何かメモ書きをしている。真剣な眼差しは凛々しく、彼女の本気度が伝わってきた。
「そっか。」
時生は頷いて、手にしていた紅茶飲料のペットボトルを傾けて飲む。甘く香ばしい芳香とちょっとした渋み、ミルクの甘さを感じた。飲み物のチョイスは海里だった。互いに使えるお金の少ない高校生と言うこともあり、金額を折半して購入した。海里が「飲み物のシェアぐらいで狼狽える年でもないでしょう」と言い放ち、それならと時生は了承したのだった。時生としてはコーヒーの方が好みだが、海里がコーヒーのカフェインを受け付けず大体いつも紅茶になった。
「あ、私の分も残しておいてくださいね。」
やっと顔を上げたかと思えば飲み物の心配かと、少し残念に思う時生がいた。時生からペットボトルを受け取って、海里は口をつける。露わになる白い喉元が嚥下して動く姿が妙に生々しく感じた。そしてそのペットボトルを傾ける左手の手首につい目が行ってしまう。
「…何です?」
海里が怪訝そうに時生の視線を遮るように声を出した。
「何でもないよ、ごめん。」
「嘘。八尾先輩って遠慮なく人を見ますよね。理由は?」
こういう時、海里は逃げることを許してくれない。時生は、困ったな、と呟いて口元に手を当てて考える。彼女を怒らせない言葉は何だろう。
「…一ノ瀬さんがきれいだから。」
「気分は良いです。それで具体的に?」
第一声は成功したようだ。
「きれいと思う気持ちを具体的に表すって相当難しいんだけど…。強いて言うなら、花を見て愛でる気持ちと似てるかな。」
理由なく花の色彩や花びらの形、その香りを好ましく思う気持ちによく似ていると思った。美しく思う感情に明確な理由はない。
「つまり、海里さんは花のように麗しいと。」
そこまでは言っていない、との言葉を時生が飲み込んで頷くと海里は上機嫌になって頷いた。
「よろしい。では、従順な下僕にご褒美をあげましょう。」
「決して下僕ではない。」
時生の抗議を無視して、海里は鞄の中を探って一枚の紙きれを取り出した。
「これは?」
それは劇団星ノ尾の公演チケットだった。
「今度、初日を迎える劇『青い靴』のものです。普段ならお金を取りたいところですが、今回は特別です。」
ふふん、と得意げに海里は胸を張る。
「青い靴?赤じゃないんだ。」
「はい。脚本家の先生曰く、童話『赤い靴』のオマージュらしいです。」
ふうん、と呟きながら時生はチケットを眺めた。そして裏面の文字に、海里の名前を見つける。
「主役じゃん。」
主演の役者の名前、一番先に刻まれていた。海里は珍しく感情豊かにはにかむ。
「初めての主役なんです。中には親の七光りだとか、えこひいきだという言葉もありましたが、私、これでも頑張ったんです。」
よく見ると、先ほどまで手にしていた台本のタイトルが『青い靴』だった。この台本に「ガンバレ」と書き込んで怒られたのは記憶に新しい。読み込まれ、擦り切れた台本に彼女の頑張ったという真意を知る。海里は己の力で主役の座を勝ち取ったのだろう。
「そうか。楽しみにしてる。」
時生は微笑んで、チケットを大事にスマートホンのカバーにはさんだ。そしてそのままの流れで、自らのリュックからある物を探る。
「じゃあ、はい。お祝いになるかわからないけど。」
取り出したのは、あの春の日に採取した蝶々の樹脂封入標本だった。昨日、やっと完成した。
「蝶々。」
海里がうわ言のように呟いた。時生はそっと小さな海里の掌に置いてやる。海里はまるでガラス細工を扱うように両の掌で包んだ。
「…。」
「残念ながら樹脂の封入で鮮やかな色彩は消えたけど…、翅の模様はそのまま残ったと思う。」
どうかな、と時生は海里の顔を覗き込む。そこで初めて、海里の満面の笑顔を見せた。
「ありがとうございます。嬉しいです。」
「そ、そう。よかった。」
いきなりの笑顔という爆弾投下に、時生はドギマギと戸惑う。そして照れ隠しのつもりで、海里の演技にアドバイスをした。
「今の笑顔、がいいんじゃないかな。前に?マークを付けてた演技指導。」
「え?」
海里は幼い子供がするようにきょとんと眼を丸くする。そして一瞬にして頬と言わず、耳まで朱に染めた。唇をきゅっと結び、視線を標本に戻す。そして小さな声で呟く。
「ほ…、本当ですか。」
「うん。僕は演技ができないけど、これだけは保証する。」
時生が断言してみせると、海里はぎゅうっと標本を握った。
「じゃあ…。その、これ、お守りにします。」
「それは光栄だな。」
海里のツンデレで言う所のデレ部分を貴重に思いながら、微笑ましく感じる。劇の公演日は来週の日曜日。いつまでこのデレ期は続くのかなと、人知れず思う時生だった。結果として、公演日が近づくにつれて海里は神経質になっていき、そう長くはデレ期は続かなかったわけだけれど。
劇団星ノ尾、『青い靴』初日公演日。
時生は再び、劇場に訪れていた。差し入れにと思い、その手には飲み物のペットボトルが数本入った袋が下げられている。劇場の開場までまだ一時間ほどある。足音を立てぬように時生は練習スタジオに続く階段を下って行った。思い出せば、前もこうして緊張していたような気がする。苦笑しながらそっとガラスの扉から室内を伺うとメイクを施したり、衣装に着替えたりと役者とスタッフが忙しそうに動きまわっている。目を凝らせば、海里が最後にダンスの確認を振付師と行っているようだった。海里はすでに衣装に身を包んでいた。
長く美しい黒髪は僅かにウェーブが掛かり、ステップを踏むたびに波のように揺れる。青いシフォン生地の布が幾重にも連なったドレスはターンをする度にふわりと花の蕾が開くように広がった。その姿は初めて見た時に桜吹雪の中で舞っていた海里に重なった。
五分ほど感慨深く見守って、時生は差し入れをさっと渡して地上に戻ろうと決心する。ドアノブに手をかけて、思い切って開いた。
「こんにちは。」
「あ、時生くんじゃん。ちょっと待ってね、海里―…、」
一番に気付いたのは海咲だった。海咲は当然のように海里を呼ぼうとして、慌てて時生は止めた。
「呼ばなくていいです。集中しているみたいだから。」
「そ?」
首を傾げる海咲は英国のメイドの衣装を着ていた。白のレースのキャップ、白いエプロン。黒いワンピースが清楚な印象を受ける。
「これ、差し入れです。良かったら。」
「うわー、ありがとう!このメイドが確かに受け取りましたわ。」
ワンピースの裾をちょこっと摘まんで恭しく海咲はお辞儀をした。
「海咲さん、本当のメイドさんみたいですね。本物を見たことはないけれど。」
「ふっふっふ。たくさんメイド喫茶に行って研究したのだー。」
その行動は参考になるのかわからなかったが、このメイドらしい所作から成功しているのだろう。
「八尾先輩?」
海咲と話している間にダンスの確認を終えたらしき海里に、結局気付かれてしまった。時生は申し訳なさそうに笑いながら、海里と向き合う。
「こんにちは、一ノ瀬さん。緊張してる?」
「してます。」
てっきり気が強い海里のことだから、「平気です」という言葉が返ってくるものだと思っていたから時生は拍子抜けしてしまう。
「あ…、そっか。そうだよね。これ、差し入れ。」
時生は袋の中から海里がいつも好んで飲む紅茶飲料を取り出した。受け取って、海里はじっとそのペットボトルを見た。
「…何か、八尾先輩の顔を見たら気が抜けました。」
そういうと海里は、ふー、と大きく深呼吸を一つした。閉じた目蓋をゆっくりと開けて、時生を見る。海里の瞳に映る自分自身と目を合わせながら、時生は次の言葉を待った。「今日、私をしっかり見ていてくださいね。」
主役の私を、と言うよりも、失敗しないように見守っていて、と時生は感じ取る。
「うん。わかった。」
時生が力強く頷いたのを見て、海里は満足したようだった。「じゃあ、開場するまで外で時間を潰してるね。」
時生が踵を返そうとして、つん、と服の裾を引っ張られる。「!」
「ここにいればいいじゃないですか。」
思いがけない海里の言葉に、時生は目を丸くした。何を言えばいいかわからずに戸惑っていると、海咲が海里の肩からぴょこんと顔を出して援護射撃をしてくる。
「そうだよー。海里ちゃんの話し相手になってあげてよ。」
「邪魔では、」
時生が遠慮する間もなく、海里がメイクスタッフに呼ばれてしまう。海里は時生の手首を掴んで、化粧台の方へと誘った。そして時生に化粧台の斜め後方にいるように命ずる。
「意外と強引だな…。」
「何か言いました?」
鏡越しに海里に小さく睨まれる。でも今はそれが海里の照れ隠しだと言うことを知っていた。時生は、苦笑しながら用意されたパイプ椅子に座った。その間にも海里は前髪をまとめられて、肌を化粧水で整えていく。化粧下地、ファンデショーンを肌に乗せていくとより一層、無機質な人形味が増した。
「チーク入れる?」
「踊ってると血色がよくなるから、控え目にしてください。」
メイクスタッフと相談しつつ、化粧がどんどん完成されて行った。アイメイクで目元は潤み、肌は滑らかな大理石のように輝き、唇の中心にオーバー気味にコーラル系のリップを乗せた海里は少女らしさと大人っぽさを兼ね備えた不思議な魅力を放っていた。
「海里さんは化粧映えする顔立ちをしてるから、メイクしていて楽しいよ。」
出来上がり、とメイクスタッフが海里の胸元からケープを外した。海里は立ち上がり、くるりとターンをするように時生を直に見る。
「どうです?」
「いや…、驚いてる。印象変わるもんだなあ。」
時生はパチパチと拍手をする。本当に、一つのショーを見ているような気分だった。
「あれ?海里さん、忘れ物だよ。」
メイクスタッフが化粧道具を片付けながら、海里に声を掛けた。
「あ。」
海里は慌てて振り返って忘れ物を手に収める。
「大事な物なんでしょう?ずっと握りしめていたから、温かかったよ。」
メイクスタッフがくすくすと笑って指摘した。時生は何だろうと思い、ふと海里の手の中を覗き込んだ。そこには時生が贈った蝶々の樹脂封入標本があった。
「…何を笑ってるんですか。」
時生が声もなく笑っていることに気が付いた海里が、恥ずかしそうにその手を背後に隠した。
「いや?光栄だな、と思って。」
以後もクククと鳩のように時生は笑っていた。
やがて開場の時間が近づき、時生はいよいよスタジオを退室することにした。
「じゃあ。一ノ瀬さん、楽しんで。」
時生の言葉に海里は神妙な面持ちで頷く。どうやら緊張も高まってきているようだ。
「一ノ瀬さんが見えたら、掌で蝶を作るね。」
両の掌を重ねて影絵を作るようにして、時生は蝶々を作って見せる。その即席に作られた蝶々を見て海里は、ふと口元に手を当て微かに笑ってくれた。
「他の観客の迷惑にならないようにしてくださいよ?」
「了解。」
別れる間際、二人は左手で握手を交わすのだった。
やがて劇場が開かれて、時生はチケットに記載されていた席を探し当てる。劇場内は半円形になっており階段状に席が配置されている。その中心にあるのが舞台だ。比較的に前より、斜め右から舞台を眺められる席だった。席に座り、パンフレットを眺めていると隣に人が座る気配がした。
「こんにちは。」
「! 上田さん。」
驚いて顔を上げると、そこには喜一がいた。彼もまた、劇団員の海咲に誘われて訪れたのだろう。
「星ノ尾の劇は初めて?」
穏やかに微笑みながら、喜一は話しかけてくる。時生はパンフレットを閉じて膝の上に乗せた。
「と言うか、演劇をちゃんと見るのが初です。」
「そっか。実は俺も海咲経由で演劇をしっかり見るようになったんだ。」
照れくさそうに頬をかき、喜一は笑窪を刻んで更に笑う。
喜一と海咲は大学の同期で、彼女のセリフ合わせの練習に付き合ったことがきっかけらしい。その頃の演目でカップルを演じることになった海咲が、セリフで喜一に愛を囁くうちに本当に好きになったという。
しばらく談笑を交わしていると、劇場内の明かりが消えて薄暗くなる。そして開演に先駆けての諸々の注意がアナウンスされ、ブザーが鳴り響いた。時生と喜一は口を噤み、それぞれ舞台に視線を注いだ。
薄いカーテンを引いたような闇の中スポットライトを浴びたのは、メイド役の海咲だった。
メイド視点、お屋敷で語り継がれるお話の劇の始まりだった。
海咲は恭しく礼をして、静かな凪いだ口調で語りだす。口上は滑らかで、しんとした舞台で彼女の声は深く沁み渡るように響く。それはまるで耳元で直接、囁かれているようだった。
お屋敷には一組の夫婦が住んでいた。幼な妻だった夫人はその年齢にふさわしい小悪魔な要素を含んだ性格をしていた。夫がいる身ながら、夜な夜な仮面舞踏会に赴いて一夜の相手を探すと言う。真冬、しんしんと雪が降る寒い夜のことだった。彼女の夫が流行り病で床に臥せり、命が風前の灯にさらされた頃。夫人は舞踏会にて好い人と踊りを交わしていた。そして、夫の命が欠き消えた瞬間から彼女の踊りは止むことの無い呪いにかけられたのだ。夫人は踊り狂う瞬間、青い靴を履いていた。
「―…青は、生まれてきた意味を問う色。彼女は思い出すことができたのでしょうか。」
メイドがゆっくりとした足取りで舞台を去る。代わりに訪れたのは、海里だった。緊張している。
「…。」
時生は舞台上の海里に向かって、蝶々を作った。ひらひらとした動きはイレギュラーに観客の中から目立ち、海里と目が合う。その瞬間から、海里の演技が生き始めた。
「それは?」
小さな声で、隣の喜一に問われる。
「すみません…。ちょっとしたおまじないです。」
手を下げて席に座り直す時生を不思議に思って首を傾げながらも、喜一もまた視線を舞台に向けた。
「君の肌には、清らかな青がよく似合うね。」
場面は舞踏会の片隅。夫役の男性が、夫人役を演じる海里の白い手を取ってその指先に口づける。
「ありがとう。私もこの青が大好きなの。」
青く美しいドレスに身を包んだ海里は甘く微笑み、自ら男性を踊りに誘う。二人はゆったりとした足つきで、ステップを踏み舞踏会の華となった。
白い月光ののようなスポットライトを浴びて男性は結婚を申し込み、海里は満面の笑みを浮かべる。それは、時生が「ガンバレ」と書き込んだシーンだった。どうやら言霊は生きたようだ。
暗転、舞台はお屋敷の部屋に変わる。二人はカウチに座り、会話を交わす。BGMに小鳥の鳴き声が囀っている。
「私たちに子どもが生まれたら、あなた譲りの優しい目色が良いわ。」
海里は男性の頬を両の手のひらで柔らかく包み、瞳を覗き込んだ。男性は海里の手に自らの手を重ねて、囁く。
「君譲りの、その漆黒の髪の毛が引き継がれたらどんなにいいだろう。きっととても可愛らしい子に育つよ。」
仲睦まじい年の差が離れた夫婦は互いに見つめ合い、慈しみ、微笑んだ。
夫の仕事は貿易商。船に乗れば、月をまたいで帰ってこないこともしばしば。夫のいない間、夫人は寂しさを紛らわすように夜な夜な美しい銀製の仮面を身に付けて、舞踏会を踊り歩いた。
「ねえ。私、人のものだけれど、それでも愛してくださる?」
毒気を含むほどに美しさが増していく声色。代わる代わる愛人を変えながら、海里は更に中毒性を帯びた仮初めの愛に溺れていく。
真冬の夜をチラチラと舞うような光で降る雪を表現していた。流れるように行き交う人々の影に、海里は小さく舞台の中央を駆け回る。彼女の回想のように、夫である男性の声が響き渡る。こん、こん、と咳き込み、夫人の名前を呼んでいた。海里はその声をかき消すように首を横に振った。タクシー代わりの馬車を呼び止めて、仮面舞踏会に向かって乗り込む。
劇は進み、夫人が呪いにかかる瞬間。彼女が華麗にステップを踏み始めた。コマドリのようにとことこと駆けたかと思うと、足の裏にばねが付いているかのように跳んだ。手の指先の表情からは星屑の光が生まれるような錯覚を得る。時生が覗き見た台本からは、この踊りは劇が終わるまでのあと四十分続くのだ。
「見てごらん。あれが、呪われた女だ。」
「旦那を裏切った女の末路でしょう。自業自得だわ。」
町の人々が、踊りを止めることのできない海里を罵った。その声は徐々に増えていき、やがて雑音となる。
海里の踊りは狂気を以て激しさが増していく。彼女の額からは真珠のような汗が散って、青い靴が磨り減る音が響き渡る。音楽も徐々にリズムが崩れていった。
その迫力に観客の緊張感は増していき、皆が息を呑んだ。
「…頑張れ。」
時生は海里の迫真の演技と踊りに、神に祈るように合わせた掌で口元を覆い隠す。隣の喜一も何か考え込むように目を細めて、夫人の最期を見守っている。やがて高い最後の一音がはじけ飛ぶように途切れた。
「…神、さま。」
ステップを刻む足音がいつの間にか止んでいた。海里が息も切れ切れに、天を仰ぐ。
「あの人の、もとへ…連れて行って…くださ、い。」
その時の表情は、弾けるような笑顔だった。それは結婚を申し込まれた時の笑みに酷似していた。笑顔の中に涙に濡れた瞳が燦然と輝いていた。そして糸が切れたように、彼女は崩れ落ちる。しんと静寂が舞台を、劇場を包んだ。ゆっくりとゆっくりと緞帳が降りて来て、舞台の幕は閉じる。その刹那、緊張から解き放たれた観客から弾かれたように拍手が起きた。いつまでも止むことの無い、長々とした喝采だった。
「主役の子、すごかったね。」
「迫力に吞まれたわ。」
帰り支度をした観客たちが感想を言い合いながら、席を立っていく。時生は呆然と気が抜けたようにそこに座ったままだった。喜一が中々立ち上がることのない時生を心配して、声をかける。
「八尾くん?大丈夫、」
「…あれは、」
時生は熱に浮かされたようにぽつりと呟いた。
「本当に、一ノ瀬さんだったのかな。」
普段の海里を知る時生には、信じられないようなものを見た心地だった。踊り狂い、こと切れたのは誰だったのか、わからなくなる。誰よりも台本を読み込み、演技を高めるために努力を惜しまなかった海里。役者に対する彼女の本気度が痛いほど伝わってきた。
「どうする?俺はこの後、海咲と合流するけど。」
一緒に行く?との喜一の提案を、時生はゆるゆると首を横に振って断った。
「今日は…、このまま帰ります。」
それだけ言うと、時生はゆっくりと立ち上がった。今、海里に会っても何を話せばいいかわからなかった。
「幕を閉じた後、大変だったんだよー。海里ちゃん、過呼吸になっちゃっててね。」
ぐつぐつとすき焼きの肉が野菜と共に煮込まれる音が食卓に響いていた。空腹を刺激するいい香りが漂うこの場所はかぜよみ荘一階、時生の部屋だった。
「…。」
「それなのに、時生くんは帰っちゃうんだから!もう、お姉さんは驚きました。」
どんどんと肉を入れては、海咲が「おいしー!」と平らげてしまう。
「海咲、野菜もちゃんと食べなさい。」
父親のように海咲を諫めながら、喜一は煮え過ぎたシイタケを苦笑しながら口に運んだ。
「…何故。」
時生が首を傾げる。
「ん?」
釣られて、海咲も首を傾げた。
「何故、僕の部屋ですき焼きパーティーが開かれているのだろう。」
『青い靴』の初演が終わった日の夕方。アパートに帰宅していた時生の部屋に海咲と喜一が鍋とカセットコンロ。すき焼きの材料を持ち寄って、押しかけてきた。樹脂封入標本の棚には布をかけて目隠しをするだけの時間をもらって、入室を許可してしまった。
「お祝い事の日はすき焼きに決まってるでしょうが。」
海咲は何を当たり前のことを言っているんだとばかりに胸を張る。
「俺の家はからあげだったけどなー。」
喜一も懐かしそうに思い出しながら参戦する。この二人、お似合いカップルか。
「色々と突っ込みどころが多いのですが、白いご飯の上に肉を乗せて食うな。」
「うお。八尾くんが怒った。」
時生の命令口調に割と本気で喜一はビビり、そんな男二人のやり取りを見て海咲は鈴を転がしたように笑った。
「やだー。時生くんたら、通だね。」
「海咲さんもです。つやっつやの白いご飯を汚すな。」
年下に本気で怒られて、反省しつつも喜一と海咲の箸は進む。やがて根負けした時生もまたすき焼きを食し始めた。
「…僕、お祝い事に何か決まったものを食べる習慣がなかったんですよね。」
舌の上で肉の繊維が解けて、甘辛いたれのうまみが唾液に溶けていく。今までも食べたことのある味だったが、何だか今日は特別な味がする気がした。
「へー。じゃあ、その都度に好きなものを作ってもらった感じ?」
海咲はペットボトルのお茶を飲みながら何気なく訊ねてくる。
「そんな感じです。」
本当は作ってもらったのではなく自分で作っていたが、自らの境遇をわざわざ話すことでもないだろうと思い、時生はお茶を濁すことにした。
「初演が無事に終わったのは喜ばしいことなんですが、その…一ノ瀬さんは大丈夫だったんですか。」
「何よう!気になってたんじゃない!!」
海咲は、海里の心配をする時生の肩を掌で勢いよく叩く。
「踊りなんて、マラソンみたいに酸素を多く必要とする激しい運動だからね。それを四十分も続ければねー。」
行儀悪く箸を咥えながら、海咲は腕を組む。喜一に怒られて、海咲は箸を放してごめんと舌を出した。
「まあ、スポーツ医学に詳しい子がいてね。事なきを得たわけなんだけど。もう舞台裏は騒然よ。」
「そう、でしたか。」
時生が話を聞いて無意識に皿の上の肉を突いていると、こら、と海咲に手刀をくらわされる。
「お行儀悪いぞ。心配なら心配って言いなさい。」
「…すみません。」
素直に頭を下げると海咲は笑って、掌をひらひらと振った。そしてにやりと猫のように笑う。
「海里ちゃんの連絡先を教えてやろーか?」
ひひひ、と引き気味の高い声で時生をからかう海咲に喜一が手刀をくらわせる。
「痛い!」
「純情な少年を笑いのタネにするんじゃありません。」
まったくもう、と溜息を吐いて海咲を回収する様に普段の二人の関係性を知った気がした。時生は微笑ましく思い、くす、と笑ってしまう。
「とても魅力的なお誘いですが、僕は自分で本人に聞くことにします。」
「おお。男らしい。ちなみに海里ちゃんはガラケーだから、メッセージアプリを使えないからね。メールアドレスのガードは固いぞう。」
海咲の入れ知恵に、時生は「頑張ります」とだけ答えたのだった。
月曜日を迎えて、時生は最寄駅から高校に向かって電車に乗り込む。ぎゅうぎゅうに他人に押されながら、ふと時生の視線が漆黒の色を捉えた。それは同じく窮屈そうに乗車する海里だった。相変わらずのゴスロリファッションは彼女の存在を否応なく目立たせた。
本当はすぐにでも傍に駆け寄りたかったが、身動きが取れず断念する。早く駅に着かないかとそればかりを考えていた。
車掌のアナウンスと共に、ゆっくりと電車が減速していく。ようやく駅に着き、下車をする。時生は慌てて先に降りた海里の後を追った。海里は意外と歩くのが早い。するすると柳のように人の影を避けて、前へと進む。一方でいつもはマイペースにゆっくりと歩く時生は人との距離感をうまくつかめずに流されてしまうことが多い。結局、追いついたのは改札口を出てからだった。
「一ノ瀬さん。」
呼吸を整えながら、海里の名を読んだ。彼女は子供が驚いたように大きく目を見開いて、時生がいる背後を振り向いた。そして自らの名を呼んだのが時生だということを知ると、固くなった表情を和らげて言う。
「おはようございます。」
「うん、おはよう。」
挨拶を交わして二人、連れ立って通学路を歩き始める。会話もない静かな道すがら、時生は会ったら伝えたかったことを中々口に出せずにいた。
『青い靴』の演技、素晴らしかった。
今までの努力が実ったね。おめでとう。
最後に顔を見せなくてごめん。
どんな言葉を探したとて、酷く陳腐な言葉の羅列のように思えてしまい口にするのをためらってしまった。
「…昨日。」
海里が聞こえるか聞こえないかのギリギリの声量で、呟くのを時生は聞き逃さなかった。
「うん。」
「公演に来てくれて、ありがとうございました。」
ちら、と横目で海里を伺うと、彼女は時生を見ることなく真直ぐに前を見据えていた。だが、その耳元が僅かに桜色に染まっているのに気づいてしまう。時生が思わず立ち止まると海里が一歩先を行き、そして足を止める。振り返る刹那の風に流れる髪の毛のしっとりとした光沢が、目を通して脳裏に焼き付いた。頬に触れる髪の毛を耳にかけながら、最初は顔だけ。ゆっくり踊るように身体がついてきて時生と向き合う。そしてやんごとなき少女が如く小首を傾げるのだ。
「八尾先輩?どうかしたんですか。」
時生はまるで初めて海里を見た時のような熱を覚えていた。
「あー…、えーと。過呼吸。大丈夫、だった?」
それほど的を外していない言葉だと思ったが、海里はそれを聞いて笑っていた。
「情報源は海咲さんですね?言うなって釘を刺しておいたのに。」
ぺろっと簡単に報告していたぞ、あの人。時生は海咲の口の軽さに驚きつつ、閉口することにした。あとで恩に着せようと思う。
「体力をもっとつけておくべきでした。恥ずかしいです。」
再び、歩き出した海里の後を追う。
海里が舞う姿には鬼気迫るものがあった。足を止めることなく、体の軸をぶらさず、一定のレベルを保ったままのあの気概は目を張るものがあった。
「観客の前で倒れなかったのがせめてもの救いですね。」
心底、ほっとしているようだった。自らの体力の限界を理由で劇を中断させない海里のそのプロ意識は素直にすごいと思う。
海里に追い付いて、肩を並べる。
「恥ずかしくないよ。あの踊りをぶっ通しで長時間は誰だってきつい、と思う。」
「確かに、きつかったです。過呼吸を起こした時は死ぬかと思いましたし。」
舞台袖での苦痛を思い出したのか、海里は表情を曇らせた。
「目の奥がチカチカと瞬いて、喉の奥で血の味がしました。」
「壮絶だな。」
それはもう、と海里は苦々しく頷く。
「何故か、八尾先輩の顔が浮かびましたよ。走馬灯です、あれは絶対。」
「…光栄です。」
時生の返事に、海里は些か疑惑を持ったようだ。
「本当かなあ?走馬灯には出てくるのに、実物はさっさと帰っちゃいましたけど?」
「すみませんでした!」
海里の不機嫌の色を感じ取って、時生はすかさず謝罪をする。
「じゃあ、罰ゲームです。携帯を出してください。」
「うん?あ、スマホ?」
鞄のポケットから自らの携帯を探る海里に釣られて、時生も衣服のポケットからスマートホンを出した。折り畳み式の携帯電話をパチ、と音を立て開き、操作してある画面をずいと時生に押し付けた。
「?」
首を傾げながら胸に押し付けられた携帯を受け取って、時生は画面を見た。そこには携帯自身のメールアドレスが記載されていた。
「私のメルアドを登録したら、八尾先輩のスマートホンからメールをください。それで罰ゲームは完了です。」
「別に罰ゲームでも何でもないけど。」
時生は海里の指示通りにスマートホンを操作して、メールを送る。海里の携帯から着信音が聞こえてきたあたり、メールの受信は成功したのだろう。海里は嬉しそうに携帯の小さな画面を確認した。そして満足そうに頷きつつ、言う。
「今はお世辞はいらないです。」
時生は彼女の言葉に、首を傾げた。何故、そんなことを言うのだろうと思う。
「いや、本当に。」
「…じゃあ、なんで今まで聞いてこなかったんです?」
海里の声色には子どもが拗ねたようなニュアンスを含められていた。
「忘れてた。」
素直に白状すると、海里はがくりと肩を落とす。
「あー…。そんな感じですよね、八尾先輩って。」
悩んでいたのがバカみたいだ、と言う海里の呟きは時生には届かなかった。
「今日。本当に今日、訊こうと思ってたんだ。ありがとう。」
時生は海里から得たメールアドレスの文字を愛しそうに目で撫でる。自分の名前に恐らく誕生日を組み合わせただけのシンプルなメールアドレスは、まるで彼女の人柄をそのまま表しているかのようだった。
「いつでもメールして。遅れたとしても、必ず返信するから。」
時生がそう言うと、海里は子どものようにこくんと頷いた。
「ありがとう、ございます。」
微笑みながら、海里は大事そうに携帯電話をしまった。
気候が夏を迎える準備を始める六月。凪いでいた水面に一石が投じられる。
劇団星ノ尾に、演劇雑誌の取材の依頼が舞い込んだ。公演中の『青い靴』が好評を得て、口コミや個人のSNSに多数取り上げられたのがライターの目に留まったという。2ページの記事とはいえ、発行部数は業界でもトップの雑誌『マチソワ』の依頼だ。集客や知名度のアップには申し分がない。だが、団長は大きく頭を悩ませていた。それは主役を務める、自らの娘でもある海里の存在。私情を挟みたくはなかったが、海里を多人数の好奇の視線に晒したくはなかった。
役者として海里は生きていきたいと言ってはくれたが、元来の性格は人見知りで大人しい性格だ。中学の頃は他人を避けるように過ごしてきて、海里に演劇で役を与えて、ようやく人前に立つ楽しさを知ってくれたところだと思う。今、注目を浴びることが彼女にとっていいことなのかどうか。それが、わからない。
「何を言ってるの、お父さん。」
父親としての想いを海里に伝えたところ、一蹴されてしまった。
「いや、今はあえて団長って呼ぶね。団長は星ノ尾にとってのチャンスを父親としての私情で潰すつもり?」
「だが…。心配なんだよ。」
いつになく不安気な色を滲ませる父親の声に海里は叱咤する。どうやら今日は立場が逆のようだった。
「私は平気。というか、私が星ノ尾の足枷になりたくないんだけど。そこのところの配慮はしてくれているの?」
腕を組み考え込み、そしてゆっくりと瞼を開けて海里を見た。
「…本当に、大丈夫なんだな?」
「うん。」
海里の毅然とした態度に団長は腹をくくったようだ。
「わかった。何かあったら、必ず相談しなさい。」
そう締めくくり、劇団星ノ尾は雑誌のライターにOKの連絡を入れることにしたのだった。
その日のうちに劇団員に雑誌『マチソワ』の取材が入ることが周知された。劇団内部は浮足立ち、歓声が沸く。
「海里ちゃん、インタビューとかされちゃうんじゃない?やだー、有名人じゃん!」
海咲がはしゃぎながら、海里の肩を叩いた。海里は「どうでしょうね」と苦笑する。そして父親兼、団長が手を叩いて劇団員たちの視線を集めた。
「次回の公演で雑誌のカメラマンさんが来る予定です。緊張せず、いつも通りを心がけて取り組みましょう。」
はい、という声が重なって今日は解散となった。
父親と共に自宅に帰り、海里は自らの部屋に行く。部屋着に着替え、携帯電話を手に取った。そしてカチカチとメールを打つ。送信先は時生のスマートホンだ。
『雑誌の取材が劇団に入ることになりました。』
送信すればわりとすぐに返信をくれる時生だったが、今日はいつになく海里の携帯電話が鳴るのが速かった。
『すごいじゃん。』
時生のメールの文章は短い。メッセージアプリならそこから話が広がっていくのだろうが、メールだとそっけなく感じてしまう。時生は面倒に思わずにマメにメールをくれるのが、救いだった。すかさず、二通目のメールが時生から送られてくる。
『おめでとう。雑誌、絶対買うわ。楽しみ。』
雑誌の発売を楽しみにしてくれる時生を待たせたのは、およそ一か月後のことだった。雑誌『マチソワ』の7月号には劇団星ノ尾が見開きで二ページほどの記事になって発売された。
発売日当日に雑誌を購入した時生は、海里と共に放課後の図書室で記事を読むことにした。
「すごい、綺麗に撮ってもらえたね。」
そこには舞い踊る瞬間の海里が記事のメインとして掲載されていた。
「素材が良いので。」
ささやかな胸を張る海里に「はいはい」と時生が笑いながら返すと「はい、は一回」と注意をされてしまう。
「いいなあ。僕も一ノ瀬さんを撮りたかったな。」
「私も写されるなら八尾先輩が良かったですけどね。」
当然ながら劇場内はカメラ、携帯電話等の撮影が禁止だ。特別な許可がない限り許されない。
「お。いいんだ?」
「もう私を一枚撮ってるじゃないですか。今更です。」
なるほど、と頷きつつ、海里にその写真を見せていなかったことに時生は気が付く。今度、見せてあげようと思った。今は雑誌の記事に集中しよう。
「インタビューもされたんだね。主役なら当たり前なのかな。」
時生は自分のことのように嬉しそうに目を細めて笑う。海里はその笑顔を横目で眺めながら、インタビューを受けた時間を思い出していた。
「初めまして、一ノ瀬海里さんですね。『マチソワ』ライターの清水です。今日はよろしくお願いします。」
ライターの清水は落ち着いた雰囲気の女性だった。そのおかげか海里は随分と落ち着いて、対応ができた。
「えーと、一ノ瀬さんは今回が初めての主役だとか。やっぱり緊張しました?」
「はい。でも…緊張を解してくれる人がいたので。」
海里の答えに清水は何かに気が付いたように、ややあと頷いた。
「それは―…、もしかして恋人とか?あ、嫌だったらここはオフレコにするから安心して。」
「ぜひ、オフレコでお願いします。」
素直に頭を下げる海里を清水は微笑ましく見つめながら、まるで友人のように楽しそうに話を促した。
「それでそれで?その緊張を解してくれた方って言うのはどんな人なの?」
「恋人ではないのですが、高校の先輩で。いつも妙に私を構ってくるというか…。」
思い出すのは時生と出会ってからの日々。海里の目色は優しく和らいで、春の陽だまりのような温度を保った。柔らかくなる雰囲気に清水は、ふふふ、と朗らかに微笑んだ。
「その人は、劇『青い靴』には影響した?」
「しましたね。私にとっての夫役は彼でしたから。」
「―…主役を務める一ノ瀬の瞳には劇に対する愛の色が滲む。今、注目を浴びる期待の若手女優だ。だって。すごいね。」
時生は声に出して海里のインタビュー記事を読んだ。海里は恥ずかしさに思わず、図書室の周囲を伺った。二人以外の人影はなく、ほっとする。
図書室は、埃がシェルパウダーを散らしたかのように空中を散らして窓の光に透けた。無数の書物がしんとして呼吸をし、自らを開き物語を紡いでくれる手を待っている。きらりと光るスポットライトを浴び、この静かな観客に囲まれて、まるで時生と海里の二人舞台のようだ。
「知人が雑誌の取材を受けるって初めてだよ。」
時生は自らのことのように嬉しそうに、雑誌の記事を眺め、指の腹でページを撫でる。
「あの…ありがとう、ございました。」
「ん?」
突然の海里の礼に、時生は何が?と首を傾げた。
「…『青い靴』の劇の成功には、八尾先輩も関わっているので。」
「そうかな。何かした記憶はないんだけど。」
海里は掌を使って、蝶々を作る。そのひらひらとした優雅な動きに時生は、ああ、と頷いた。
「蝶々。あれでリラックスしました。」
「それはよかった。」
今も持っている、と呟いて、海里は鞄から標本を取りだした。愛しそうに指でなぞり、掌で包む。
「もっと丁寧に作ればよかったな。ここ、傷がついている。」
時生も椅子を動かして向き合う。海里の掌を覗き込み、ふと息を吐いた。見れば、制作にあたってついてしまった小さな擦り傷が、バースマークのように刻まれていた。
「これがいいじゃないですか。この傷、掌によく馴染みます。」
その時の海里の表情には母性が溢れ、まるで聖母マリアのようだった。
「…なら、いいんだけど。」
垣間見た彼女の女性性に、時生は心臓が妙に高く脈打って困惑する。それからドギマギとしてしまって、うまく会話を続けられなくなってしまった。だが、海里は気にせずマイペースに雑誌を眺めていた。まるでアルバムを眺めているような気安い雰囲気だった。
最終の下校チャイムが鳴るまで図書室で過ごし、司書の先生に促されて昇降口に向かって廊下を歩いた。かつんかつん、と二人分の靴音が響く。七月のコンクリートの校舎は熱が籠って、外の方が若干涼しく感じられた。
「風が気持ちいいですねえ。」
海里は黒いサマードレス風のワンピースの裾を翻しながら、先を歩いた。
「うん。そうだね。」
とん、と飛び跳ねるような動きで、海里は歩いている。「どうしたの」と時生が問うと、「影しか歩いちゃいけないルールです」との答えが返ってきた。しばらく木の影や、ベンチの影。高校設立者の銅像など点々と影が続いたものの、校門をくぐれば視界は開けて影が少なくなって難易度が上がる。
「…。」
海里は難しい顔をして、どう攻略するかを悩んでいるようだった。時生は、くくく、と笑って自らの影の内側に手招きをする。
「一ノ瀬さん、こっちこっち。」
「…何ですか。甘やかすつもりですか。影以外はマグマですよ。」
えらく壮大な設定のようだ。
「いや、甘やかすって言うか…。ほら、ラッキーゾーン的な。」
「!」
しばらく海里は考え込み、地を蹴って時生の影を踏んだ。
「…お世話になります。」
「はい。どうぞ。」
影を踏む駅までの途中、コンビニに寄ってそれぞれ好みのアイスクリームを買い求める。
「チョコミントってめっちゃ歯磨き粉の味じゃないですか?」
時生が選んだチョコミントのアイスクリームを彩る青を眺めながら、海里は問う。
「よく言われるけど、それって単にミント感が強いものを食べただけだと思うよ。」
「全部、同じじゃないんですか。」
ふうん、と海里は感心する。
「じゃあ、今度、八尾先輩がおすすめのチョコミントを教えてください。」
「了解。」
柔らかく温い空気が二人を包む、夏の七月の放課後のことだった。
海里が雑誌『マチソワ』に載ったことは、どこからか周知の内となり高校でも話題に上がることが多くなった。生徒たちは海里とのすれ違いざまに好奇の視線を注いだ。
『―…あのゴスロリの子でしょ。結局、目立ちたがり屋なんだね。』
『対して可愛いわけでもないのに、女優気取りとか。笑える。』
クスクスと笑われることもあれば、今まで喋ったこともない演劇部の同級生に入部を勧められたりと人の反応それぞれだった。海里はその都度、冷静に対応していた。心無い言葉は基本、無視。演劇部の勧誘は丁寧に断ったつもりだった。だが、ちょっとした諍いが起こってしまった。
ある日の放課後。二年生と三年生の上級生に呼び止められた。彼女らは演劇部の上級生だと名乗った。「ちょっとついてきて」と言われ、嫌だったが従わないとより面倒なことになることを理解して、海里は後をついていった。そして連れてこられたのは、誰もいない視聴覚室だった。
「一ノ瀬海里さんだっけ。多分、うちの一年が入部について話に行ったと思うんだけど。」
海里は同級生の顔を思い出そうとして、思い出せなかった。所詮、それぐらいの関係だ。
「その件はお断りしたはずですが。」
冷淡ともいえるほどの口調と答えに、上級生はわざとらしく大きなため息を吐く。
「一ノ瀬さんさあ。ちょっと調子に乗ってない?正直、一ノ瀬さんみたいな人がいると演劇部の士気が下がるんだよね。」
「部員でもない人間が『マチソワ』で取材受けるとか…演劇部としては結構、やる気が削がれるのよ。」
仲間に引き込むことで、海里が得たさささやかな名声すら自分たちのものだと勘違いしようという浅はかな考えが手に取るようにわかってしまった。面倒だな、と思う。視線を逸らすという、海里の現実逃避をするときの悪い癖が出てしまう。それに気が付いた上級生は火に油を注がれたかのように怒りをあらわにした。
「ちょっと、ちゃんと聞いてるの!?」
「話を聞けば、あんたが所属してる劇団の団長って父親らしいじゃん?七光り?えこひいき?それなのに、自分には才能があるとか思っちゃったんじゃない。」
キャンキャンと鳴く小型犬みたいだな、と思った。まだ犬の方がその容姿で可愛げがあると言うものだ。どちらにしろ、そろそろしつけが必要な頃合いだろう。
「親の七光り、えこひいき、上等です。演劇をしているのなら、運のめぐり合わせがいくらか必要なのは先輩方も承知の上ではないのでしょうか。」
舞台の上でスポットライトを当たるためには、いくつもの偶然が必要だ。役柄と役者の一致。その者の演技力。俳優としての華の有無。そして名もなき新人に以外にも力を発揮するのが、自らの出自。芸能界では二世タレントなどというジャンルすらある。生まれたその瞬間からある程度の知名度がある状態は武器だ。
「演劇部員ではない私が役者として雑誌に取材を受けたぐらいで下がるモチベーションなんて、必要ですか?」
海里は小首を傾げて微笑んで見せる。
「随分とくだらない矜持をお持ちのようですね。」
その笑みは自分の国を守る女王であり、最前線を行く騎士のようでもあった。
「何、こいつ…っ!」
激昂した一人の上級生が平手を振り上げた。ひゅっと空気を切る音が統べって、海里は来る衝撃に構えた。パンッと小気味よい乾いた音が響く。が、一向に痛覚が現れない。反射的に閉じた瞼をゆっくりと持ち上げると、そこには時生が盾になって毅然としていた。
「…手を上げるのはどうかと思うけど。」
時生の頬は叩かれた衝撃で紅く腫れている。それでも静かに相手の怒気を下げるように、時生は言葉を発する。それでも上級生、時生から見れば同級生と後輩の彼女らは声を荒げた。
「いきなり首突っ込んでこないで!」
「いきなりでもないんだけどね。最初から会話を聞いていたし。」
気付かなかったのはそっちでしょ、と時生は呟く。
「とにかく、言い争いならまだしも暴力沙汰はまずいよ。」
「そっちが悪いんじゃない。私たちをバカにして。」
尚、海里を睨む彼女たちの視線を遮るように時生は前に出た。
「バカにされたと思わせたなら、ごめん。恋人の不祥事は僕が謝るからここは許してくれないかな。」
時生の海里との恋人宣言に、双方から声が上がった。
「え。」
「はあ!?」
困惑の声を聞きながら、時生は頭を下げる。
「海里のことは放っておいてくれ。その方がお互いの精神衛生上に良いと思う。」
「意味わかんないし!気持ち悪…。」
演劇部の三年生と二年生は、「もう行こう」と言い捨て、ばたばたと視聴覚室から駆けて出ていった。扉が勢いよく閉まって、静寂が訪れる。
「ええと…、」
海里が額に手を当て、天を仰ぐ。そして時生を見やった。
「どこから突っ込めばいいのかわからないのですか。まず…いつからここにいたんですか。」
「いや、だから、最初からかな。一ノ瀬さんがあのおっかない人たちに連れてこられる途中に見かけて。後を追ってきた。」
扉の影で止めるタイミングを見計らっていた、と時生は言う。
「所在の件は承知しました。じゃあ、次。何故、私を庇ったんですか。」
「え、人が殴られそうになったら止めるでしょ。」
時生は、当然のことだとばかりに目を丸くする。人がいいとは思っていたがこれほどとは、と海里は小さく溜息を吐いた。
「質問はこれで最後にします。『恋人』ってなんです?」
「愛し、愛される人?」
そうじゃなくて、と海里は首を横に振った。
「いつから私たちは恋人同士になったのか、って意味です。」
「ああ。話に臨場感があった方が、あの人たちは言うことを聞いてくれるかと思って。」
あなたには関係ない、という常套句対策に思わず口を吐いた。
「俺の彼女に手を出すなって言ってもよかったけど、それだと話が長くなりそうだったから謝ってみた。」
「…そんなことを言ったら私とセットで嫌われると思いますけど。」
海里が顎に手を当て、考えて指摘をする。
「一ノ瀬さんと一緒なら、別にいいよ。」
一緒に落ちてもいいだなんて。とんでもない殺し文句だと、海里は思った。今更ながら、時生の頬の紅い腫れが愛おしく見えてきた。
「…。」
「一ノ瀬さん?」
海里は気付くと、無意識に時生の頬に手を伸ばしていた。そっと触れた頬は熱を持ったようにじわりと温かい。時生の肌は少し乾燥していて、さらりとしていた。
「…ごめんなさい。痛い、ですよね。」
何故、狙いを定めて相手を痛めつけようとしないのか。時生の頬を張った上級生が憎かった。
「いいや?驚きの方が勝ってたのか、そんなに痛みは感じなかった。」
「これ、後々に腫れますよ?」
そう?と時生は首を傾げるように、海里の掌にすりと頬をこすりつける。そして自らの手を、海里の手に重ねた。
「一ノ瀬さんの手、冷たくて気持ちがいいね。」
猫が匂いをマーキングするような仕草に、海里の母性がくすぐられる。
「…なんで、名字…。」
「ん?」
時生が閉じていた瞼を開けて、海里を見る。その瞳に映る海里は恥ずかしそうにしていた。
「さっきは海里って呼んでくれたのに、何故、今は名字呼びなんですか…。」
「…嫌、かなあって。さっきは思わず、だったけど。」
どうでもいい人間には、何だって言えるのに。時生にわがままを言う勇気が出なくて海里は唇を噛んで、視線を逸らす。頬に触れていた手を引っ込めようとすると、時生に握られて制止された。
「海里。」
「!」
名を呼ばれてはっとして顔を上げると、いつになく柔らかく目を細めた時生が乖離を見ていた。
「海里って呼んでも良い?」
家族や劇団員の他に久しぶりに呼ばれた自分の名前は、ひどく甘く、中毒性を孕んだ響きに聞こえた。掴まれたように胸が痛く、きゅっと下腹部に力が籠もる。
「良、いです…。」
声が擦れて、震えてしまった。自分の痴態を晒してしまったかのような羞恥心に晒されて、海里は再び顔を伏せる。その様子を見て時生はふと笑って、そして提案する。
「じゃあ、僕も名前で呼んでくれる?」
「え!?」
思えば当然のような時生の提案にすら、海里は困惑で声を上ずらせる。
「時生。言って?」
「…。」
言い淀み、海里は酸欠の金魚のように口を開閉する。
「時生。」
時生は海里の反応を見て楽しそうに笑って、繰り返した。
「…時、生…?」
思わず、疑問形になってしまった。
「うん。何?」
それでもぽとんと海里の口から発せられた自らの名前に、時生は破顔した。
「も、もういいでしょ!?手を離してください!」
「はい。どうぞ。」
時生がぱっと掌を開いて解放すると、海里は天敵のヘビを見た猫のように飛び上がって後ずさった。その様子が可愛らしくて、時生はいよいよ腹に手を当てくの字になって笑った。
「わ、笑い過ぎです!」
「ごめん。ごめんね、海里。」。
全くもう、と海里は頬を膨らませた。
「八尾せんぱ…、時生、は意地が悪いです。」
「さっきの人たちよりはましでしょ?」
当たり前のことを言って、時生と海里は共に視聴覚室を出たのだった。
その日を境に演劇部から噂は流されて、二人は告白すらしていないものの先走って学校中公認の関係となった。
夏休みを迎える前に海里は職員室に呼ばれた。
「…このままだと、進級が難しいぞ。」
海里のサボり癖を常々苦く思っている担任は、溜息交じりに海里に告げる。呼び出された理由の内容は、長期休暇中の補習授業についてだった。
「とにかく。この補習は救済措置だと思って、きちんと出なさい。いいね?」
取りあえず頷いて、海里は職員室を退出した。頭を下げて職員室の扉を引くと、廊下で待っていた時生が海里に気が付いた。
「先生、何だって?」
「補習のお話でした。」
簡潔に内容を話しながら、二人は連れ立って歩き出す。中庭に隣する渡り廊下は日陰ながら、夏の温度を孕んだ風が通り抜けていた。
「私としては、進級するのも面倒なのでどうでもいいんですけど。」
「いや、留年の方がはるかに面倒でしょ。」
いかにも海里らしい意見に、時生は苦笑しながら言う。
「正論はいらないですー。」
つん、と海里は顎を斜め上に向けてしまった。
「じゃあ、楽しみを鼻の先にぶら下げてみない?」
時生は海里が補習を受けるモチベーションが上がるようにある提案をした。
「補習の最終日って半日でしょ。その日、午後から海水浴に行こうよ。上田さんと海咲さんにいつでもいいから海に行こうって誘われているんだ。」
「日焼けしたくないので行かないです、と言いたいところですが。今回は時生の顔を立ててあげます。行きましょう。」
思いがけず快諾を得られ、時生は驚く。
「当日になって、やっぱり行かないは無しだからね?」
「どんだけ信用がないんですか、私…。」
海里はわかりやすく大きく溜息を吐いて、立ち止まって時生を見上げた。そして右手の小指を出す。
「はい。」
「何?」
首を傾げる時生を海里はにっと口角を上げて笑って見せる。「約束しましょう。指切りです。」
「え?あ、ああ。指切りね。」
海里は時々、子どものようになる。普段の人形のような怜悧な印象とのギャップに困惑してしまうことも多々あった。ちなみに今がその時である。
時生がおずおずと彼女の小指に自らの小指を絡めると、海里はお馴染みの歌をうたう。
「…指、きーった!」
「…きった。」
気恥ずかしさが勝りつつ、無事に指切りを終えた。
「じゃあ、海里も補習頑張って。」
時生は照れ隠しに海里に釘をさす。海里は苦々しい表情をしながらも、頷くのだった。
海里と別れ、かぜよみ荘への帰路につくと喜一が丁度打ち水をしていた。高校帰りの時生に気が付くと喜一は、ひしゃくを持った手を振って迎え入れてくれる。
「おー、八尾くん。おかえり。」
「ただいまです。上田さん、涼しそうなことをしてますね。」
まあね、と言いながら再度、かぜよみ荘前の道路に水を撒く。
「案外、古典的の手法が一番かしこいんだよねー。」
たしかに、水で冷やされた地面を通る風は涼しく感じた。時生は喜一の少し後ろに立って、涼を感じることにした。
「そういえば前に話した海の件なんですけど。」
「ああ、日にち決めた?」
足元で水の雫が跳ねる。
「はい。それでお願いなんですけど、一人増えてもいいですか?」
「いいよー。誰?」
時生が海里の名前を告げると、喜一は驚いたように手を止めた。
「彼女、海に行くキャラだとは思わなかった。八尾くんやるねえ。」
「僕もそう思いました。」
しみじみと時生が頷くと、喜一は吹き出す。
「いや、海咲も喜ぶよ。当日はレンタカー借りていくからね、にぎやかでいいじゃないか。」
「ガソリン代、払いますね。」
時生が気を聞かせて言うと、喜一は笑って制する。
「いいよ、いいよ。今、俺自身が運転したい気分なの。」
喜一は最近、自動車免許を取得したらしいことを聞いた。きっと積極的に運転を楽しみたい時期なのだろう。
「高校生からお金を取るのもね。」
はは、と喜一は笑う。
「上田さんだって、大学生じゃないですか。」
「この年の差を甘く見るなよー。アルバイトは自由にできんのか?高校生。」
時生と海里が通う高校はたしかに特別な事情がない限りアルバイト禁止だった。
「まあ、おにーさんに甘えときなさい。」
「…すみません。ありがとうございます。」
時生が素直に頭を下げると、そのまま喜一にくしゃくしゃに髪の毛を乱された。その撫でられる感覚はとても久しぶりに感じられた。
終業式を終えた次の日から、海里の補習授業が始まった。
海里は教室の一番後ろ、窓際の席で片腕を太陽に焼かれながら授業を受ける。教室にクーラーが導入されているとはいえ、設定温度は低くなく生徒たちは下敷きをうちわ代わりにパタパタと扇いでいた。退屈な授業を寝て過ごそうかとも思ったが、ちゃんと補習を受けると時生と約束した手前、海里はきちんと起きていた。毎度の授業最後の小テストを終えて、くたくたになりながらも淡々と補習をこなしていく。そして、最終日。無事に補習を合格して晴れて、高校から解放されて夏休みを迎えるのだった。
「海里!」
その日の正午、高校の校門前で待っていた時生は海里を見つけて名前を呼ぶ。手を振って海里を迎え入れて、隣に立ったところで歩き出した。
「駅前のレンタカー屋で集合なんだ。」
時生がスマートホンを確認しつつ言う。真夏の昼、道路はゆらゆらと逃げ水が波打っている。じりじりと肌を焼く感覚が不快だった。太陽光を真っ向に受ける髪の毛はあっという間に熱を持っていく。背の低い女の子には照り返しなどつらい暑さだろうと思い、時生は気を利かせる。
「海里、日傘持ってなかった?僕に遠慮しないで差していいよ。」
「…そうですか?すみません。」
やはり遠慮をしていたのであろう海里は鞄から折り畳みの日傘を出して、開いた。
「時生も入りますか。」
「日傘で相合傘って、あまり聞いたことなくない?」
それもそうですね、と海里は頷き、大人しく一人使いをすることに決めたようだ。海里の横顔を覗くことができないのは惜しいが、仕方がない。
やがて到着した駅前では、海咲と喜一がレンタカーに既に乗り込んで待っていてくれた。
「海里ちゃーん。時生くん!こっちだよー。」
車の助手席の窓を開けて、海咲が元気よく手を振った。隣で喜一も片手をあげる。
「すみません、待たせましたか。」
後ろの座席の扉を開けて、乗り込みながら時生は訊く。
「大丈夫だよ、八尾くん。海咲がコンビニで買い出しとかしていたから。」
「お菓子と飲み物はばっちりだよー。海里ちゃん、何か飲む?」
ゆっくりと車は発車して、賑やかな道中が始まったのだった。
「熱を逃すためにちょっと窓を開けるよ。」
喜一が操作をして、車の窓を開けた。瞬間、熱されていた空気が動き、新鮮な風が車内を満たす。女性陣の長い髪の毛が煽られて、ふわりと舞った。その可憐な動きについ視線が奪われて隣を見ると、海里は気持ちよさそうに目を細めるところだった。僅かにシャンプーの香りが鼻腔をくすぐって、嗅覚と視覚を以て脳に甘い思い出として刻まれる。「ねえ、きーくん。音楽かけてもいい?」
海咲はスマートホンを取り出して、車と連動させながら問う。
「それは、後部座席の二人に訊きな。」
喜一の答えに、はーい、と良い返事を返して海咲は上半身を捻って、時生と海里を見た。そして二人の同意を得ると、喜々として音楽を流し始める。選曲は懐かしいアニメソングだった。
「この頃のアニソンが、神だと思うの!」
「ごめんねー。八尾くん、一ノ瀬ちゃん。海咲はアニメオタクなんだよ。」
海咲の意外な一面を知って驚き、時生は知ってた?と海里に目で問う。海里は首を横に振った。どうやら付き合いの長い海里でも初見だったらしい。
「ほら、小さい頃ってごっこ遊びでヒロインになりきったりするじゃない?役者はその延長線上なんだ。」
そう言って海咲は、女児向け変身ヒロインアニメの決め台詞と手だけでポーズをする。それを見た海里は懐かしそうに同意した。
「そのアニメ、覚えてます。私は主人公よりもサブキャラの方が好きだったなあ。」
「お!誰押し?」
それから海咲と海里はアニメ談議に花を咲かせていた。やがてにぎやかな車内でも、海の潮の香りが感じられ始めた。
「このトンネルを抜けたら、もう海だよ。」
喜一がナビゲーションを見ながら言う。薄暗いトンネルの長い道をしばらく走り、前方に出口の灯りが見えてくる。徐々にその光は強くなり、抜ける瞬間に白い閃光が放たれたそこには。蒼く、ダイヤモンドを散らしたかのような光を反射させる海が現れた。海咲は歓声を上げて喜ぶ。一方で静かだなと思っていた海里を見ると、彼女は彼女で瞳を輝かせて無言ながら頬をほころばせていた。
到着した海の家隣接の駐車場に車を停めて、四人は水着に着替えるために更衣室へと向かった。
「八尾くん。日焼け止め、ちゃんと塗った方がいいよ。」
服を脱ぎ、水着を着ながら喜一は時生に言う。時生は早々に更衣室を出ようとしていた。
「僕、色白いので少し焼きたいんですけど。」
時生は自らの腕を見ながら、告白する。真っ黒とまでは行かなくとも、健康的に日焼けはしたい。
「だったら尚更だ。ムラが出たら嫌だろ。」
「あー…。それはかなり嫌ですね。」
喜一に甘えて、日焼け止めのクリームを借りて肌に塗る。手の届かない背中は互いに塗り合った。
更衣室を出た二人は海の家に荷物を預けて、女性陣を待つ。
「二人とも遅いなあ。」
時生は海を目の前にまてを食らった犬のように、じれったそうに言う。喜一はそんな時生を見て笑った。
「まあ、女の子だしね。男は待つもんだよ。」
「…上田さんって、大人ですよね。」
達観した風にも思える喜一に対して、時生は子供っぽい自分を恥じた。
「そうでもないよ。ただ、海咲に調教されただけさ。」
「調教って。」
ふっと時生が噴き出すと、喜一は大袈裟に肩をすくめた。
「いや、マジ。料理中、入浴中。外出の支度中とか海咲、すっごい時間かけるからさ。待つのが当たり前みたいな感じになるんだよ。」
「…なるほど。」
おしゃれや身だしなみに気を遣う海咲を、早くしてよ、と催促しながら優しく待つ喜一の姿が目に浮かぶ。
「一ノ瀬ちゃんはどうなの?」
「僕たちは付き合っていないので。」
時生の答えに喜一は目を丸く張った。
「そうなんだ?仲がいいように見えたから、てっきり。」
「二人とも、何の話ー?」
会話の最中に声がかかる。声の主は海咲だった。ようやく更衣室から出てきたようだ。
スタイルのいい海咲の水着姿は内側から健康美が輝く様だった。テラコッタカラーのビキニで首元と腰がひも状のリボンで飾られている。そのリボンが動く度に揺れて、解けないか心配になってしまう。
「いいね、その水着。」
喜一が褒めると海咲は嬉しそうに笑う。
「今日のために新調したんだぞ。もっと褒めて!」
「はいはい。あれ?一ノ瀬ちゃんは?」
喜一の海里を探す声に、自身も海里を探していた時生はどきりとする。まるで心の声が筒抜けになったように錯覚した。
「あれ?海里ちゃーん、何を恥ずかしがってるんだー?」
海咲が背後を振り返り、海里を見つけると手を引いてくる。
「べ、別に恥ずかしがってなんか、ないです!」
「じゃあ、ほれ。お披露目だ!」
海里の背中を押して、海咲自身より前にぐいと出す。
「…。」
時生は海里の水着姿を前に言葉を失う。ワンピースタイプに水着で、色は深い青色。胸元はシャーリング使用になってワンポイントで白いリボンが施されている。肌の露出が少ないのに大人っぽく感じるのは、サイドの編み上げの効果だろう。
「あの、何か言ってくれないんですか…っ?」
時生の視線を受けて、無言の時間に耐えられなくなった海里が音を上げる。
「…かわいい…。」
今度こそ本当に心の声が漏れた。
「でしょでしょ!時生くん、見る目あるぅ。一緒に水着を買いに行ったんだよねー。」
海咲が海里の肩を叩きながら、豪快に笑う。それに反比例するように、海里は顔を朱に染めて俯いてしまった。
「きーくん、泳ぎに行こ。」
「ああ。」
恋人同士の海咲と喜一は先に海へと行ってしまう。残された恋人未満の海里と時生は隣で微妙な距離を保っていた。
「えーと、何か、ごめん。」
気まずさの原因を自分にあると思い、時生は謝罪をする。
「なんで謝るんですか。可愛いんなら、良いです。」
横目で見ると、同じく時生の様子を伺っていた海里と目が合った。海里も海里で、時生の様子を気にしていたことに嬉しくなった。
「僕たちも行こうか。」
「…私、泳げないんです。」
すみません、と謝る海里の告白を意外に思いながら、時生は海の家で浮き輪を借りることを提案して海に赴くことにしたのだった。
海里が使う浮き輪につかまりながら、時生も波に揺られる。
「運動神経いいのに、泳げないんだ。」
「陸上方面に特化してるんです。水中はからっきし。」
確かに思い出せば、海里は歩くのも走るのも早い。
「それでも、海、付き合ってくれたんだね。」
「楽しみに、してましたから。」
思いがけず率直な気持ちを告げられて、時生は驚く。
「だから!謝らないでください、ね?」
「了解。」
はは、と笑い合い、二人はしばらく海水浴を楽しむことにした。海水は陽に温められて丁度良い水温を保ち、寄せては返す波のリズムが心地よく身体に響く。
「母親の胎内を思い出しますね。」
海里は浮き輪で水面を漂いながら、ぽとんと呟いた。それを拾ったのは時生だ。
「覚えてるの?」
のんびりと何でもない風に時生は訊く。
「…人に言ったら笑われると思うんですけど。」
「そんなことないよ。言って?」
海里は両の掌で器を作って、海水を掬う。さらさらと手から零れていくのはきっと思い出の羊水だろう。
「視界は時折、泡が生まれるのがわかるぐらいの光量なんです。温かくて、気持ちが良くて、私はよくうたた寝をしていました。」
「うん。それで?」
時生が母親の胎内で安心して眠る様子を想像して、時生は微笑ましくなる。きっと可愛らしい赤ちゃんだっただろう。
「私の隣には弟かお兄ちゃんがいました。時々、喧嘩して、でも仲良く母の胎内で過ごしていました。」
「え…。双子、だったの?」
新しく知った海里の兄妹関係について、時生は驚く。そのような存在の欠片には気が付かなかった。
「はい。だった、んです。」
海里は瞼を閉じて、自らの片割れのことを思い出しているようだった。
「…生まれた時に、死に別れました。」
門限があると言う海里のために、海水浴は夕方には終えることになった。
「うわー、砂でじゃりじゃりだなあ。」
喜一が海の家で借りたシャワールームで、温水で身体を流しながら呟く。
「本当ですね。きちんと落とさないと、レンタカーの人に嫌がられそう。」
時生も頷いて、いつもより丁寧にシャワーを浴びた。水が肌を伝う感覚にぞわと粟立つ。
「…八尾くん。何かあった?」
「え?」
ふっと顔を上げると、喜一がシャワールームの曇りガラスの扉に影を作っていた。
「なんでもないですよ、そんな。」
「そう?」
喜一の優しく深い声色が時生の冷えていた心を温かく包む。
「うーん、と。ですね…、」
だけど、心に残る海里のことをどこまで話していいものかがわからない。
「双子の人って、片割れがいなくなったらどんな気分になるのかなってふと思うことがあって。」
海里の名前を伏せて告白すると、喜一はシャワールームの外で首を傾げているようだった。
「そうだなあ…。まあ喪失感は多大だよね。」
彼らは魂の半身が最初から一緒に生まれてきたものだから、と喜一は言葉を紡ぐ。
「聖書の話ですね。上田さんは詳しいんですか?」
「その話だけ印象的で覚えてただけさ。」
コックを捻って水を止め、時生はシャワールームを出た。喜一から差し出されたタオルを、礼を言って受けとる。
「自分の半分が切り取られる苦痛は、どれほどのものなんだろう。」
時生の問いにも似た呟きを拾った喜一も、考え込んだ。
「一生乾くことの無い傷にはなり得るだろうね。」
海咲と海里の身支度を待って、四人は車に乗り込む。行きのにぎやか雰囲気とは一転して、帰りは疲れが出たのだろう。とても静かな車内だった。運転手の喜一が寝ないようにと付けたラジオが流れていた。海里はこくりと舟を漕いで、夢現の狭間を漂っている。夜の帳が下りる頃に、四人が乗った車が街に辿り着いた。住宅街を行き、海里の自宅へと近づく。
「海里、海里ー?もうすぐ着くよー。」
時生は海里の肩を小さく揺らして、覚醒を促した。海里は幼い子どものように目をぱちぱちと瞬かせて、ぼんやりと時生を見た。
「おはよ。夜だけど。」
「おはよぅー…。」
舌足らずな声ではあるものの、海里は目覚めたようだった。海咲が小さく笑って、助手席から振り返った。
「海里ちゃん。団長には、私が挨拶に行くから安心してね。」
「助かります。」
海咲の言葉に、男二人は頭を下げるのだった。友人とはいえ男に大事な娘が送り届けられるのは、父親としていい気持ちはしないだろう。
やがて滑らかに車は海里の自宅前に止まる。海里と海咲が自動車を出ようとシートベルトを外し始めた。そして扉を開けようとする刹那、時生は海里の手に触れた。
「海里。」
海里は驚いたように、振り返る。
「今日は、ありがとう。色々と話せてよかった。」
「え?いえ、こちらこそ。ありがとうございました。楽しかったです。あの、上田さんも。」
運転席のミラー越しに喜一も微笑んで応えた。
「じゃあ…、おやすみなさい。」
そう言って頭を下げると、先に自宅前で団長と談笑している海咲の元へと海里は駆けて行った。海里の姿を見た団長は嬉しそうに彼女を迎え入れて、車内に残る時生と喜一に頭を下げたのだった。
送るのは駅までで良いと言う海咲を、駅前で降ろして時生たちはかぜよみ荘に戻る。古く、狭い階段前で喜一と別れてようやく時生は一人になった。
荷物を下ろして、冷蔵庫からお茶のペットボトルを取り出して一気に煽る。冷たいお茶が喉の内側を伝って胃に落ちていく感覚が気持ちよかった。
「…。」
ふう、と溜息を吐く。思い出すのは、海里の表情。海に浸かりながら、海里は涙を零しながら笑っていた。そして言うのだ、ごめんなさい、と。
『生まれてきたのが、私で、ごめんなさい。』
中学時代にいじめられ、無視をされ、孤立した過去は海里の口から次の言葉で聞いた。
『私なんかいてもいなくても変わらないのに。なのに、私が生まれてきてしまった。…私の片割れは首にへその緒が絡まっていて、窒息していたらしいです。』
辛い記憶そのものが、海里の存在意義を奪っていった。彼女はこれから先、絶望することが起こる度に自らの生に疑問を抱くのだろうと思うと時生の胸は張り裂けそうだった。
苦しかっただろうな、と苦しそうに海里は言う。
『前に、死体は愛しく感じると話しましたよね。あれには補足があるんです。私の最初の記憶は…、片割れの死体を抱いていたことです。』
海里にとって、死体と言う存在は片割れの兄か弟そのものなのだ。愛しく、慈しみ、微笑ましい存在。きっと祖母の遺体も洩れなくそのイメージと重なったのだと思う。だから、泣けなかった。
補足があると言ったが、補足なら僕にだってある。誰だって本当のことを全て話すだなんてことは、酷く難しい。
彼女の生きづらさを理解して、時生自身の生について話していいものかと迷う。迷いつつ、時が過ぎ八月中旬。季節はお盆を迎えるのだった。