【耳かきジョニーの事件メモ】耳とブロンズベリーの夜

そして壁のない街の人々にとって壁とはあって当たり前のものだったので、彼らはそれに気付かなかった。

しかし、そこに在る筈の壁が無いとわかるとその衝撃的な事実に気付いたのだという。

黒柳が耳から得た情報をそのまま話そうとすると男が遮った。耳は壁に穴を穿つほどのエネルギーを持っているが同時に繊細でもあるので扱いに困るそうだ。

だから今はこの耳についての説明は後にしたい、と言った。男は壁に手を当てると壁の中に沈んでいった。

黒柳は慌てて壁に耳を押し当てた。そこにはいつもと違う音があった。何かが振動するような、音が響く音が聴こえるような気がした。この壁の奥には街が、壁の無い世界が広がっている。黒柳は感動を覚えた。この壁こそが壁の存在証明となるのだ。

そしてこの音が耳を伝って黒柳に届けばいい。そうすれば壁のある街の人間たちは、自分達が住む街の異常事態を知ることになる。耳を通して黒柳の声が届けられればそれで解決だ。

耳がある部屋で壁の存在を思い出す事ができた。黒柳は安堵感に包まれた。だが、耳はまだ語り続けた。

壁が振動して壁の存在を認識しているのなら、耳の存在を忘れて壁に話しかけ続ける人間は耳が振動する音を聞けていないということになる。

そうなってしまうと、耳の存在を忘れられて耳を無くしてしまうのではないか? という疑問が生まれた。

その心配はあった。現にある部屋に生えているはずの耳に呼びかけても返答は無かったのだという…… そこで、あの男が現れたのだと、耳はある部屋に潜む何者かの視線を感じて恐怖に怯えていたというのだった……。


「土浦は今日も出勤して来なかった」
彼の上司と名乗る男が訪ねてきた。黒柳は俺も消息が知りたい、と返した。

「土浦はどこへ消えた? どうもひっかかる。それにあの耳垢。あれは耳朶が出したものだ。防衛本能で耳を塞ごうとした…ということはよほどうるさかったんだろう。耳朶が聞きたくない音とは何だ? やはりピアノの騒音か。となると、あの壁にシミを残した男はまた現れる。あいつがピアノを弾いたんだ。このままだとピアノ屋の命が危ない」

「俺も同じ事を考えていた。あの男の狙いは土浦とピアノ屋を殺すことなのかもな。壁のない街の住人であるピアノ屋は壁を震わせ壁のある街に警告を発する事が出来るのだからな」黒柳が答える。

「じゃあ、やっぱりあの壁は……」
「そう、あのピアノ屋の部屋にだけ出現したのではない。この街に存在する全ての家に出現しているのだろう」

ピアノ屋は、黒柳が土浦を問い詰めた時に言おうとしていた事は、これだったんだな、と思った。そして、これは大変な事になったと、黒柳が呟いた。

数日後、土浦とピアノ屋は耳栓をして街に出た。
二人の耳にはあの時、黒柳が持参したジワムが詰まっていた。
その知らせは黒柳の地獄耳に入った。

夜も更けるころ、黒柳はピアノが置いてある店に戻っていた。

「あんたの店も街も大変なことになってる」

店主はすぐに来たが「あのピアノがあったから来たんだよ。耳朶を出したくなかったら力を貸してくれ」と言って、ピアノを弾かせてくれと言ってきたのだった。黒柳は「耳」と言う言葉で壁のことを思い出したが、すぐに耳の事を思い出した。

しかし彼は「駄目だ」と答えた。耳の事を話すと「壁」という単語が出てきそうになるからだった。

「おい、ジョニー。どういうつもりなんだ。まさかお前、耳朶の…」
店主は耳を疑いながら接客を始めた。ピアノ屋常連の朝は早い。
ピアノ生演奏に合わせて町民がエクササイズする風習のせいでやたら忙しい。

黒柳は「ああ、耳朶は無くすべきだろ」と言うが客も客で「金、幾らだ。幾ら貰ったんだ」と言い出した。
黒柳は「雇われて嫌がらせに来たんじゃねぇ! 町が襲われるんだぞ!
ああもう、わかった。ピアノじゃなくてギターで演奏しろ」と言った。
ピアノ屋のピアニストはどうやらあのピアノの事を知らないらしい。
「ああ。もう体操が始まっちまうだろうが!」
店主は慌てふためいた。ピアノ屋の近隣住民が勢ぞろいする。
その間、ピアニストは、「ダンスミュージックをギターで? 曲芸しろってかよ」と言うので黒柳は、「誰かを呼んで演奏すればよかったのに」と言った。
しばらくしてやってきた店主は、「ピアノで良い。ピアノなら誰も労力を使わない」と言う。
演奏は出来ないのかと黒柳は聞いたが「ギターも弾けないし、ピアノの音色を聴こう」と言うので耳朶をかき回した。

「ねーえー、陽が高くなっちゃうじゃない~」
タイツ姿の女性陣が額に汗をにじませる。
店長が舌打ちしてつり銭箱に手を突っこんだ。
そしてピアニストの手に幾らか握らせた。
「おい、やめろ。死にたいのか?」
黒柳の制止もきかず、演奏を始める。
するとブーイングが巻き起こる。
「なんだ、あのピアノ。金払いも良いと言ったばかりだろうに」
ピアニストはお払い箱になった。
店主はあらためて「ピアノの弾き手を探しているんだが」と群衆に言ったが黒柳はそれとは別に
「ピアノ以外が弾けて、金を払うに値するピアニストは?」と聞いた。

するとさっきのピアニストは「もっと価値のあるものを弾かせてくれれば、金を支払う価値が出るね」と言う。
「この野郎。わざと下手弾いたのか。金欲しさに」
黒柳が殴りかかると店長が仲裁した。
「ピアノの演奏を聞かせてくれ、耳朶は消えてしまうように」と売り言葉に乗って叫んでいると「なんて事言うんだ。どいつもこいつも」と言ってピアノ職人が店を飛び出した。
「そうか! そういうことか! ゲスどもが揃いも揃って!芸術より金かよ」
黒柳は怒り心頭だった。ピアノ屋は土浦の天井に耳朶を養殖していたのだ。
もちろん内緒で。薄々感づいてはいたが確証が乏しかった。
「だから黒柳先生を巻き込んだんですね」
壁の中から女の声がした。
「ああ、そうさ。このやっかいな政治《まつりごと》にな!」
黒柳は店に舞い戻った、ピアノ屋はまだエクササイズを催そうと粘っていた。
そりゃそうだ。野次馬が集まっている。またとない宣伝の機会だ。
黒柳は店主をじっと見た。
ピアノ屋はピアノの前に座って耳朶の除去をやっていたのだ。
黒柳は「どういう事だ?」と声をかけると男は黙って「ピアノの弾き手を探しているんだ。金は払わないといけないかな?」と言った。
黒柳はピアノを弾きながら聞いた。
「テロを起こしたいんならな。シミの男を煽れとセンセイに言われただろう」
するとピアノ男は「お前は山田さんの何なんだ?」という。
「それはこっちの台詞だ。あんたが公設秘書だって壁の街で聞いちまった」
「なん…だと?」
「対立候補の鳩尾《はとしも》議員を嵌めるためだ。壁の外で虐殺が起きれば外患になる。軍靴が鳴り響いて反戦派の山田が潤う。ピアニストのギャラは文書通信費から出る。シミの男が黙っちゃいないだろ」
「そんなことをしたらセンセイの政治生命が終わってしまう。あほか!」
「鳩尾のせいにすればいい。リベラル多数決党の黒いうわさが本当になる」
「……」
黒柳はポロンとピアノをつま弾いた。
「ピアニストは金をもらっていい。そのピアノの弾き手はピアノ職人だ。
金を払ってもいい」
そうすることで政治資金の流れは断ち切られ陰謀が未遂に終わる。
黒柳はまた「ピアノの弾き手はピアノ職人だ。
金を払ってもいいと言うのはピアニストで金を払っていないピアノ職人だ。
金は払わないといけない」と言った。

ピアノ店主は黙り、黒柳はピアノから離れた。
男はまたピアノを弾き始めた。
黒柳はただピアノ店主を眺めていた。

話が終わり店主が帰りながらピアノ職人に近づいた。

「あいつはろくにピアノが弾けない。調律は出来てもピアニストじゃない」
店長は聴衆が「ピアノ職人の演奏」を聞いてしまうと言う。
「だがピアノ愛は誰より謡えるよな?」
黒柳が詰め寄った。
ピアノの弾き手を誰に頼むのか聞くと店長はピアノ職人に金を払うと言う。

黒柳は名曲「誰ぞ弾く」を歌い始めた。

♪ピアノ男がピアノの弾き手を探しているのです。
金は払わないといけないね♪

黒柳はピアノ男を思い返した。

♪ピアノの奏でる音が、鍵盤の上に舞い、ピアノの奏でる音色が、響き、ピアノの音が、演奏したい気分を盛り立てている。
ピアノの音。ピアノの伴奏の音色。
ピアノの音色に合わせて、ピアノの演奏者は奏でたい気分を歌う。
ピアノの演奏者はピアノで演奏者を指揮する♪

鍵盤の物静かな響きがだんだんと高まり情熱を呼び出す。

店主がひざまづいて泣き出した

♪楽器で演奏者の音を演奏したい気分を歌う。
ピアノの演奏者はピアノで演奏したい気持ちを歌う。
ピアノの演奏者はピアノで演奏者に歌を歌う。
ピアノの演奏者はピアノで演奏者の気持ちを歌う。
ピアノの演奏者はピアノで演奏者に歌を歌う♪

弾き手はそのピアノの演奏者に、演奏者にはピアノの演奏者の気持ちを歌う

ピアノの演奏者が演奏する音を、ピアノの演奏者はただ聴いている。
ピアノの響きがピアノの演奏者を包んでいた。ピアノの演奏者の気持ちがピアノの演奏者にそのまま引き継がれたように。
ピアノの音色が演奏者の心を揺らし、ピアノの演奏者の気持ちを演奏者が包んでいた。ただの空気が揺れたような振動ではない、確かな温もりを持っていて、 それはまるで、人の手が作り出す音のように、 ピアノの音色が、奏者の心の鼓動に合わせるかのように、その手を包み込むように優しく 。それは人の鼓動にも似ていた 。その音の波に揺られ その音に耳を傾ける、ピアノの弾き手にピアノの音は届かない、それは、音として伝わる、その、鼓動を、鼓動の熱さを感じる事は出来ない、それは音でしかないからだ。その、振動を肌で感じる事は出来る、だから耳朶は怯えていたのだ。だから耳を穿った。壁を穿ったのだ。
それは、鼓動、そのものだからだ。
その振動を感じれば鼓膜に響く振動を感じ取れる。
その、鼓動は生きている 音ではなく、音でもない、そこにある、鼓動が、その音が、その鼓動を響かせる、そこにある音そのものが。音のない世界に存在する唯一の音は音楽だけ。
音楽はその音によって世界を包む。その音に包まれるのであれば音のない世界にも存在する音が生まれるかもしれない、そして、それは、耳のある世界にも生まれるかもしれない。それが音なのだから。

「土浦。君は何を恐れているんだ?何故そんなに怖がる必要がある?壁のある世界の人間は壁に穴を明けるのを嫌がるが、穴を開けずに耳を抜く方法があるのかい?俺は知らない。君は壁をぶち壊せ、壁のない世界へ行こう」
耳の穴に息を吹きかけられたかのような、ゾッとする感覚が襲う。

黒柳が男と女の耳を引っ張り出していたのを目にして慌てて逃げ出したが、男は耳栓をしていたのだ。男も黒柳の行為を耳で確認していたようだ。黒柳が「壁に穴を穿ったら」というと男は黙り込んでしまった。
そして男が「あのピアノを買わないと、あのピアノを聴かないと俺が死ぬ」と呟いた。
黒柳はそれを耳にしてピアノを買い与えた。
「ところで、君が持っているそのジャム醤油の瓶についてだが…」

男は意味深なことを言った。「ん? 何だ。俺の商売道具がどうした?」

黒柳は気になってかばんを開け絶句した。「あっ…」

「そのジャム醤油の原材料はブロンズベリーだね?」男が追及した。

「あ…ああ。だが、これがどうした?まさか、お前、耳無しだったのか」

黒柳は恐る恐る訊ねると男は耳を覆っていた耳栓を外して答えた。

「ああ、そうだよ。だがね、俺はあのピアノに耳を奪われ、耳を失いつつあるんだよ」

「なんだって?」

「あの耳の無い街の住人達は耳を抜かれると、自分の意志に反して演奏しなくてはならなくなる。

そして、あの街にピアノを運び入れた。あの耳はもうじき消える」

黒柳が「耳を失った耳無しの街でピアノを鳴らすなんて、耳は大丈夫なのか?」と心配すると、

「ピアノを鳴らさないと死んでしまう」と泣き出し、そのあと、「でもピアノの音色は聴こえなくなった。ピアノを売らない限り耳は治らないだろう。だから早く耳抜きの店を探さなければ」と涙目になりながら訴えてきた。「耳を抜かないでくれ、あの音が聞こえないのは死んでいるのと同じ事だ」と懇願してきたのだ。

黒柳は、「だが俺にだって生活はある。聴診器や耳朶を退治しなければ秘密を守れない人達がいる。俺は彼らを助けて、日銭を稼いでいる。それにピアノの調律師に頼まれた仕事もこなさなくてはならないんだ」と言うと男は黒柳の襟元を掴み「助けてくれ。頼む」と頼み込み「この瓶は預からせて貰おう」と言う。「ああ」と返事をするが「これは君の商売の大切な商品だろう」と言う。「だが、今はそれよりも、この耳を、この音を取り戻さなければならないんだ。わかるだろ」と泣きつくが、耳を戻す手段など持ち合わせてはいないので諦めるよう告げた。

耳抜きをすれば、その瞬間耳は戻るらしいが「耳抜き」の方法は、黒柳の店で聞いた「壁に穴を開ける方法」のみだ。それをすれば、あの、音がない世界に行ってしまう、それだけは、それでは黒柳の秘密を守ることはできなくなる、黒柳の店に来る客を救えなくなってしまう、と、男が嘆いていた時「おーい」とピアノ屋が声をかけた。

「今さら何の用だ?」

黒柳がむっとする。

「そうむくれるな。いいものをあげよう」

ピアノ屋はジャムがたっぷり詰まった瓶を差し出した。

「これはソウルベリーじゃないか?! こんなパチモンがブロンズベリーの代替えになるものか!」

黒柳が瓶を叩き落とそうとした。すると男が泣きついた。「待ってくれ。ソウルベリーは熟せば立派に役立つんだ」

「そんなバカな話があるか」

黒柳は一蹴した。「お前が無知なだけだ。ソウルベリーは雷に打たれるとブロンズベリーになる」

土浦が反論した。

「な…んだと?」

黒柳が愕然とする。
「雷を呼ぶためにはピアノソロが必要だ。共鳴させるんだ。その音色を壁の向こうに送る。さぁ、ピアノを弾いてくれないか」

土浦に促されて黒柳はピアノの前に座った。黒柳の頭の中には耳のない世界での演奏の事が思い浮かぶ。壁のない街の人間たちはみな黒柳が弾く曲を演奏していたのだ。

黒柳は自分の意思で弾いているつもりはなかった。しかし弾き終わるたびに「素晴らしかった」と言われ拍手されたのだ。その音色で、そのリズムで、感動を分かち合うことが出来たのだ。

黒柳は震える手で弾き始めた。その指先はいつもの黒柳ではない、黒柳が、弾けば弾くほどその音色に、黒柳の心は満たされていった。そして黒柳は演奏を終えると我に帰った。「おい、俺は一体何を弾いたんだ?」と訊ねた。

「君が弾いたのは、ピアノソロだよ。君が弾いている間、壁のない世界は君の演奏を聴いている。

君の演奏が、壁のない世界にいる人々の心を掴んで離さなかった。だからみんな涙を流していた。

君はピアノを弾きながら、自分がどんな表情をしているのか解らなかったはずだ。

その顔は、とても美しいものだったよ。

そして、君は壁のない世界の人々から、壁の内側に居る人々への伝言を託されていた。

壁の外側に、君たちと同じように、耳を持たない人間が居て、その人たちも壁の内側の音に救われている、とね。

だから、壁の内側に、壁の外の人の声を届けることが出来る。

壁の外に居る人々が、壁の中の人々に、感謝の言葉を伝える事が出来る。

ありがとう、と。
名曲は続いていた。

ピアノの演奏者はピアノ奏者の歌を聴くことにより、ピアノの演奏者の気持ちを奏で、ピアノ奏者をピアノの音色にのせた。


聴衆とピアノの間に月光の帯がいくつも降り注ぐ。それが弦をかき鳴らすように震えている。
いや、光条はゆらがない。揺さぶられているのは心の方だ。
「涙…?」
土浦厳は目尻を拭った。しっとりとした感覚。それを月に照らしてみると煌めいた。
「弾いてるのは俺じゃないか!」
彼はピアノ職人を人ごみの中から探し当てた。
「どうした? 新しいピアノが欲しくなったか?」
「ああ、俺はもう耳朶から逃げない」
そういうと傍らの鍵盤をポロンと押し下げた。
(了)

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