「雷を呼ぶためにはピアノソロが必要だ。共鳴させるんだ。その音色を壁の向こうに送る。さぁ、ピアノを弾いてくれないか」

土浦に促されて黒柳はピアノの前に座った。黒柳の頭の中には耳のない世界での演奏の事が思い浮かぶ。壁のない街の人間たちはみな黒柳が弾く曲を演奏していたのだ。

黒柳は自分の意思で弾いているつもりはなかった。しかし弾き終わるたびに「素晴らしかった」と言われ拍手されたのだ。その音色で、そのリズムで、感動を分かち合うことが出来たのだ。

黒柳は震える手で弾き始めた。その指先はいつもの黒柳ではない、黒柳が、弾けば弾くほどその音色に、黒柳の心は満たされていった。そして黒柳は演奏を終えると我に帰った。「おい、俺は一体何を弾いたんだ?」と訊ねた。

「君が弾いたのは、ピアノソロだよ。君が弾いている間、壁のない世界は君の演奏を聴いている。

君の演奏が、壁のない世界にいる人々の心を掴んで離さなかった。だからみんな涙を流していた。

君はピアノを弾きながら、自分がどんな表情をしているのか解らなかったはずだ。

その顔は、とても美しいものだったよ。

そして、君は壁のない世界の人々から、壁の内側に居る人々への伝言を託されていた。

壁の外側に、君たちと同じように、耳を持たない人間が居て、その人たちも壁の内側の音に救われている、とね。

だから、壁の内側に、壁の外の人の声を届けることが出来る。

壁の外に居る人々が、壁の中の人々に、感謝の言葉を伝える事が出来る。

ありがとう、と。