雅麗姫は呆気にとられて口を開けた。「氷の下が本体って事?」
「はい、本当かどうかは知りませんけど」
「うっそぉ、信じられない!」
「人類は火星で大失敗を犯しました。資源不足を補うために、天宮計画を前倒しにしたのです。その結果、天宮計画は暴走しました。地球を脱出するはずだった船は軌道を外れて大気圏に突入しました」
「何があったの?」
「わかりません。当時の記録は抹消されましたから。それで、まあ、色々あって、天宮はバラバラになって燃え尽きました。ところが、氷の下には宇宙船の一部が残っていました」
「どこにあったの?」
「海底に沈んでいました。海の底に眠る都市の遺跡。それが天宮五号の正体」
雅麗姫はすっかり興奮していた。「ねぇ、その話をもっと聞かせて」
「いいですよ。ただし、退屈な話になりますが」
「全然OK! だって、おもしろそうだもの」
「じゃあ、お茶でも飲みながら話しましょうか?」
二人は近くの休憩室に入った。自動販売機で温かい飲み物を買って、テーブルについた。
「それで、どんな風に始まったの?」
「天宮計画が凍結されたのは知っていますね?」
「うん、確か核戦争を想定した環境整備だったよね」
「そう、その通り。核戦争で文明が崩壊しても生き残れるように、大量の物資を備蓄する。そのために大陸間弾道弾の発射プラットフォームが必要だった。しかし、それは同時に宇宙移民計画への備えでもあった」
「つまり、宇宙開発競争に勝つために?」
「そう、でも、負けちゃった」
「どうして?」
「アメリカは自国主導の宇宙ステーションを建造し始めたから」
「あっ、それって」「そう、ケネディ大統領暗殺事件をきっかけにアポロ計画が中止されて、アメリカの主導権は失われてしまった」
「それって、もしかして」
「ええ、日本は独自に有人宇宙飛行を実現する必要があった。そこで、月面基地の建造に踏み切った」
「じゃあ、この天宮も月面に?」
「いいえ、最初は金星を目指そうとしたらしいですが、断念したようです」
「どうして?」
「当時の技術力ではとても無理だったから」
「でも、今の技術なら?」
「可能でしょうね。だけど、日本の科学者たちは誰も挑戦しなかった」
「どうして?」「理由はいくつかありますが、最大の理由は資金不足でした。月ロケットの開発費だけでも天文学的な数字だった。おまけに金星まで行くとなると、予算が足りなくなる」
「じゃあ、なぜ、月へ?」
「そこが天宮計画のキモだからです。月に何かを降ろせば、必ず話題になる。マスコミの注目を集められる」
「だけど、月には何もないでしょう? それに月の裏側は何もない死の世界だって聞いたことがあるわ」
「表向きはそうです。だけど、裏側には巨大な空洞がある。月の表側よりずっと広い空間が。その奥深くには、太古の昔に忘れ去られた世界が広がっている」
「そんなの眉唾だわ」
「私も半信半疑でした。でも、今は確信を持って言えます。あの人たちも同じ意見です」
「誰のこと?」
「特調です」
雅麗姫はゴクリと生つばを飲み込んだ。「その人たちは何をするつもり?」
「それは教えられない。だけど、貴女にも協力してもらいます」
美玲は懐から一枚の写真を取り出した。
雅麗姫は絶句した。そこには雅麗姫自身の姿があった。しかも、全裸で。
「こ、これは……」
「貴女の身体を隅々まで調べさせていただきました。その結果、興味深い事実が判明しました」
「な、なによ、あたしを脅すつもり?」
「いいえ、貴女が協力的になるようにお願いします」
美玲は妖艶な笑みを浮かべた。「私たちと一緒に世界を救いましょう」
雅麗姫は言葉を失った。
天宮計画はその後、国家一級機密に指定され、ごく一部の人間しか知らない。特調は天宮計画に深く関わっている。
美玲の言うことは本当かもしれない。少なくとも嘘はついていないだろう。だが、彼女の背後にいる特調の狙いは何なのか? 雅麗姫は必死に考えた。だが、何も思いつかなかった。
その時、ふと思い出したのは、妃花の言葉だった。
――私はこれからどうなるのでしょうか。
彼女は言ったのだ。自分は医学の進歩のために利用されるのだと。
(まさか……)
雅麗姫の顔から血の気が引いた。
「ど、どういうこと?」
「おやおや、まだ気づいてなかったんですか?」
美玲が呆れた顔でため息をつくと、携帯端末を操作してある動画ファイルを開いた。
そこに映し出されたのは雅麗姫自身の姿だった。それも素っ裸のまま横になっている。
「これって、あたし?」
「そうです。貴女が氷漬けにされた時の映像です」
「なんでこんなものが?」「それは秘密です」
美玲はにっこり微笑んだ。「これでわかっていただけたと思いますが、貴女はもう逃げられない」
雅麗姫は震える声で尋ねた。「あたしに何をさせるつもり?」
「ご想像の通りです」
雅麗姫は頭を振って、弱々しく抗議した。「嫌よ。絶対に嫌!」
「貴女の意思など関係ありません。貴女は特調に協力する義務があります」
「冗談じゃない。あたしは医者であって、学者じゃないの!」
「もちろん、わかっています。貴女は単なる助手。それ以上でも以下でもない」
「なら、放っておいて!」
「残念ながらそういうわけにはいきません。特調は貴女たちを必要としている」
「あたしたちが?」
「はい、貴女が目覚めてから、すでに二百年が経過しました。その間、貴女はただ眠っていたわけではない。人類の進歩を加速させるために働いていたのです」
「あたしが?」
「ええ、その証拠がこれ」
美玲はポケットから小さな装置を取り出すと、雅麗姫に手渡した。
雅麗姫はしげしげと眺めたが、何の変哲もない腕時計にしか見えない。
「何これ?」
「通信機です。時計のベルト部分にマイクを内蔵しています」
「それで?」
「手首に巻いた状態で話しかけると、相手側のスピーカーから声が流れます」
「それで?」
「それだけです」
雅麗姫は首を傾げた。「えっと、それで?」
「だから、それで終わりです」
「それだけ?」
「ええ、それだけ」
「何に使うの?」
「それを話すと面白くないので黙秘権を行使します」
雅麗姫はがっくりと肩を落とした。「わかったわよ。付き合えばいいんでしょ、付き合えば」
「話が早くて助かります」
雅麗姫は深いため息をついた。「で、具体的に何をすればいいの?」
「まずは情報収集です」
「情報って言われても、何を?」
「何でも構いません。噂話でも都市伝説でも。とにかく、ありとあらゆる情報を収集する必要があります」
「具体的には?」
「とりあえずはSNSで呟いてください。『#天宮』というタグをつけて」
「天宮? 天宮って何?」
「天宮というのは天宮五号の略です。液体窒素タンク、冷却塔、宇宙船本体で構成された構造物の総称です」
「つまり、月の裏にある巨大構造物を探せって事ね?」
「ええ、天宮に関する情報を集めれば集めるほど有利になります」
「でも、どうやって? 月の裏側なんて肉眼で見えるものじゃないでしょう?」
「そうですね。普通に考えれば無理でしょうね」
「じゃあ、どうやって?」
「ええ、ちょっと気になる事があって。でも、どうしてそんな事を聞いたの?」雅麗姫は何食わぬ顔で尋ねた。
「いえ、単なる好奇心です」
「興味を持ったのは何故? もしかして私の身体に魅力を感じたのかしら?」
「いえ、まったく」きっぱりと断言されて雅麗姫はむくれた。
「まぁ、でも」と、ここで美玲が会話に加わってきた。「貴女に色仕掛けは通用しないようですし、残念です」
美玲の言葉に趙が振り返った。「色……、ああ、貴女が」
雅麗姫の眉が吊り上がった。「え? もしかして知り合い?」
美玲は何も言わずにただ微笑んでいる。その笑みを見て雅麗姫は確信した。「美玲!」「はい」と美玲が嬉しそうな声で答える。
「これは、どういうこと? 何を隠してる?」「隠していませんよ」
美玲がクスクス笑うと雅麗姫はカッとなった。「あたしが何をしたというのよ?」
「いえ、何も。強いて言うなら、これからしようとしてる事でしょうか?」「何? 何をするつもり?」
美玲は笑っている。そして言った。「大丈夫ですよ。痛いのは最初だけですから」
「何よそれ!? まさか」
美玲は笑っていた。だが、瞳の奥に怒りが見えたような気がした。
趙の顔が強張った。「では、やはり貴女方が噂になっていた……」
雅麗姫は反射的に身構えたがすぐに脱力してしまった。「あたしが、なんなのかしら?」「……その件については我々にご説明させて下さい」「お願いするわ」
趙の態度は先ほどとはまるで違っていた。背筋を伸ばし表情を引き締めている。
その変わりように美玲が苦笑する。「仕方ないじゃないですか。あの女とまともにやり合える人間は限られているんですよ」「……ええと、誰のこと?」「私と同じで、あの女の事を嫌がってる人」「……」
趙が語った内容は次の通りだ。
二〇一八年、東京医科大学医学部において医学科に所属する大学院生・高階英章氏が提出した博士論文に問題が生じた。論文審査を担当する教授のデスクに置かれていたパソコン内にウイルスの痕跡が見つかったためだ。
本来、この手の問題は大学側のセキュリティの問題として扱われる事が多いのだが、高階氏は大学側を相手にせず、独自に調査を始めた。その結果判明したことは驚くべきものだった。
問題の博士論文をインターネットを通じてダウンロードした人物がいた。それが当時、東城大学医学部講師だった黒崎博氏である。彼はこの論文について、インターネット上で公開することに同意したらしい。
その後の展開は驚くほど早かった。黒崎氏は二ヶ月後、「論文データの入ったUSBメモリをなくしてしまった」と言い出した。それを受けて大学のサーバーを調査したところ、当該のファイルが発見されたのだった。ただしそれはすでに削除された後だった。そしてデータはコピーされ、ネット上で公開される事となった。
「誰がこんなことを? どうやってパスワードを突破したんですか?」
「それはわかっていません。我々は捜査機関に照会しましたが情報開示を拒否したのです」と趙昌弘主任は憤然とした様子で答えた。「ところが事態はさらに悪化する一方だった」
問題のデータをネット上に流したのは誰かわからないままだったが、別の問題が浮上した。データの内容があまりにも衝撃的なものだったために世間が騒ぎ出し、さらに警察上層部まで関与してきたのだ。そのため、一旦アップロードしたデータを消して再度公開したという経緯があった。
「結局、犯人を逮捕することはできずじまいでした。そのせいで今でも一部のマスコミからは非難の声が上がっている有様です」と趙主任は吐き捨てるように話を結んだ。
「それでよく国安局が出てくることになったのですね?」「ええ、実はその事で話がしたいと特調の方から連絡がありまして」
美玲は肩をすくめた。「何しろ私は医師の資格しか持っていませんから。それにこの仕事、割がいいんで辞めたくありませんし」
美玲が特調からの報酬目当てで自分に近づいた事に趙は落胆したが、その一方でほっとした。少なくともこの少女が自分と同じような目的で仕事をしているわけではなかったからだ。
(そうよ、よく考えてみればそんな事をするような人間ならあんな真似はしない)「国安局からの呼び出しに応じなかった理由はそれでわかりました。では次にお伺いします。今度の事、どこまで関わっておいでですか?」「正直な所、さっぱり見当がつきません」
趙主任が目を細めると美玲は小さく息を漏らした。
「そもそも私とあなた方との接点は一体何なのですか?」
趙主任の目が泳いだ。それを見て雅麗姫は呆れ返った。どう見ても怪しい。「その点に関しての質問は一切お受けできないと思いますが?」「そうでしょうね」と雅麗姫が鼻で笑った。「で、本当の目的を聞かせてもらえないかしら?」「ですからさっき申し上げた通りで……」
「もう、結構です」と雅麗姫は両手を挙げた。「つまりは国家権力を後ろ盾にして、うちの病院に嫌がらせをしようとしているのよね?」「違います! 我々はあくまで……」
「あらぁ~?私はただ質問してるだけなんだけど」と雅麗姫はわざとらしく口元に手を当ててみせる。「で、さぁ? どうして欲しいの? 私を殺して遺体を処理しようっていうわけ?」
「と、とんでもない!」と趙主任は慌てて否定した。その慌てぶりに今度は美玲が小さく舌打ちをした。「でもさぁ、そう思われても仕方がないんじゃなくて?」
「ですから、我々の話をちゃんと聞いてください! お願いですから! どうか! どうか! どうか! どうか! どうか! 」
(こいつ、泣いている?)美玲の視線を感じて雅麗姫が趙主任を見下ろし、蔑んだ目で見た瞬間、彼の頬には一筋の涙が流れ落ちた。「わぁ!」
あまりの形相に驚いて、つい一歩退いてしまう。「どうか、落ち着いて話を」雅麗姫の足もとには白目を剥いた看護師の死体が横たわっている。
「あーあ」美玲は大仰に溜息をつくと、「これじゃぁダメですよ。もう少し時間をかけてゆっくり落としていかなければ」「すみません」
趙が頭を下げたが美玲が睨む。「まず、こちらの誤解を解くことから始めて頂かないと」「誤解? 私が? どうして? そもそもあなた方はいったいどこから来たのかしら?」
雅麗姫は腕組みをして考え込んだ。
(なぜ、ここまで疑われる? 何が問題なんだ?)
その時、趙はようやく気づいた。
(そうか、そういう事か! 我々がやろうとしていることの根底にあるものが、目の前にいる彼女にとって不愉快極まりないからなのだ。だから警戒される! これは思ったよりも難問になりそうだぞ! しかも、この娘を納得させねばならならんのか? どうすればいい?)
「まぁ、よろしいでしょう。どうやらそちらさん、相当困ってらっしゃるようですし。ここは一つ私に任せていただけないでしょうか?」「貴女に?」
趙は首を傾げた。「ええ、こう見えて私は交渉事には自信があるんです」
***
雅麗姫は美玲の運転する車に揺られながらぼんやりしていた。
(何者なのかしらこの子……?)
一見すると無邪気で可愛らしい少女にしか見えない。だが、それだけではない気がした。どこか底知れぬ闇のようなものを感じさせる時が時々ある。
「それで何をしようというの?」
「まぁ、簡単なことです。この世界を変えてしまえばいいんじゃないですか?」
雅麗姫は怪しみの眼差しを向ける。何を馬鹿なことを言い出すのだろうか? ただでさえ国疫軍は厄介なのに。美玲の言葉を聞いて、雅麗姫は「はっ」と短く笑うと、助手席に座り直し前を向く。「無理に決まってるじゃない。あたし達が何年かけてもこの有様だというのに」「いえ、意外にうまくいくかもしれませんよ?」
美玲はまっすぐ前方を向いたままハンドルを握り、口の端を上げて笑っている。彼女の言葉を聞き流しながら雅麗姫は自分の思考の中に沈み込むようにゆっくりと瞳を閉じた。
二〇一九年八月三十一日金曜日 午前十一時四分 首相官邸地下会議室にて緊急閣議が開かれる事になった。総理である柳月太の召集により官房長官を除く全閣僚が集結した。
円卓を囲むようにして椅子が配置されており空席はない。だが全員が着席したわけではない。内閣総理大臣である李麗華の姿がなかった。だが彼女は来なかったわけではない。彼女がいなかったのは会議が始まるほんの少し前だった。そのわずかな間に、彼女は姿を消し、また戻っていた。
「どういうつもりかしら?」麗華の秘書官である徐詠芳は小声で独り言ちると携帯端末を取り出し電話をかけようとした。「お呼び立てしたのは、ほかでもありません」議長である総理の脇を固めている初老の男性は静かに語り始めた。「昨日、東城大学医学部付属病院の高階病院長が殺害されました。ご承知のようにこの事件では国安局が介入しておりまして我々としても大変遺憾な状況と受け止めております」
「ええ」と総理は生返事をした。
彼は眉間を押さえてしばらく考えると「その件についてだが、君はどう思っている?」
男性は肩をすくめて苦笑いした。
「その国安局と東城大学の関係が非常に悪いらしいのです」男は声をひそめ周囲の高官たちに聞こえないように配慮したが、それでも全員の耳に届いたようだ。何人かの大臣たちからは不満げな表情が浮かんでいる。「つまり彼らは国益を損ねるような行動をしているということでしょう。私は彼らの行動に懸念を抱いている次第でございます」
「うーん」総理は低くうめきながら、こめかみを押さえてさらにじっくりと熟考した。「この件について君の意見を聞かずに進めていいのかどうか。ちょっと待ってくれないか?」
そう言い残すと彼はおもむろに立ち上がった。そして「どうだね?」
と問いかけるが反応はなかった。
(あのバカ)
と徐秘書官は毒づいた。だがここで席を立って出て行くことはできない。そんな事をすればかえって失笑を買うだけだ。仕方なく、再び自分の携帯電話を手に取った。
「私は反対ですね」真っ先に手を挙げたのは法務大臣だ。禿頭に汗を滲ませつつ身を乗り出した。
「何故かね?」総理は目をつぶり軽くため息をつくと「そもそも、国のために働いてくれと頼むのが筋ではないか」
「それはそうかもしれないけど」と言いかけた女性財務大臣は、すぐに発言を撤回した。どうも、居心地が悪かったのだ。総理が自分に向かって何かを期待しているのは明らかだったが、自分が期待に応えられない事は目に見えていた。
「私もあまりお勧めできませんね」今度は経済産業大臣が挙手をして、発言の許可を求めた。「もし彼らが国のためというより自己の利益の為に働いているのであれば、それを正すことに意味があるとは思えない」
「なるほど」と総理大臣が重々しくつぶやくと、今度は農林水産大臣が挙手をした。「国安局の人間に頼らずとも我々の力でこの国の食糧自給率を高められるはずではありませんかな?」
彼の顔つきからは微塵もその意思がないことがありありと伝わってくるが、この場の雰囲気を変えようとあえて空気を読むことなく口火を切ったのだ。だがこの男も、他のどの大臣たちと同様に、総理が自分の考えに賛同してくれるとは露程にも考えていない。
「それも一案ではあるが」と総理は言って一旦言葉を止めたが「いや」と続けた。「しかし私はその提案には賛成しかねる」
その答えは、大臣たちもある程度予測はしていたが、残念そうな態度はおくびにも出さない。
その後もいくつか反対意見が出されたが、結局、総理の考えが変わることはなく「では本案件は見送りとする」と言う言葉で、その議題は終了となった。
***
午後三時三十三分 内閣法制局は庁舎内のとある部屋で、先程の閣議で出された文書をまとめていた。その書類の表題には『特殊戦略調査班報告書』とあり、その下に連なる文字が連なっている。その内容は多岐にわたるが「高度に政治性の極めて高い案件につき」詳細は割愛させていただいたと注釈が記されていた。そこに現れたのは内閣官房に所属する若手の女性官僚。「ご苦労様です」
彼女の労いに「いや、これも仕事のうちだから」と言って彼女は缶コーヒーを差し出す。「そういえば、最近柳月さん見ませんねぇ」
そう言われて女性は苦い顔をした。彼女は今、柳月総理の補佐官を務める立場にあった。つまり彼女こそが件の「高階病院長が殺された事件の調査をしていた政府組織の人間なのだ。
「まったく、どこをほっついているんだか」と、女性が鼻から大きな息を吐き出して愚痴を漏らすと、ドアが開いた。噂の主である柳月総理の登場だ。彼は挨拶をする間もなく質問攻めに遭うことになった。
彼女の報告を聞くにつれて、柳月総理の顔から血の気が引いていくのがわかった。そして一通りの話が終わると、彼は椅子の背もたれに深く背中を埋めて大きく息を吐いた後、「まさか、そんな事が本当に?」と言ったきり言葉を失ってしまった。
(さては、知らなかったんだな)
内心で呟いたものの彼女はそれを口にしなかった。柳月総理はこの国の最高権力者であるが、同時に政治家でもあるのだ。彼も政治家なら国民が求めている事を考えなければならない。だが、彼はこの事態を想定していなかったのだろうか?
(あり得ない事じゃないだろうに……いや違う、おそらく、こうなって欲しいと思いつつもどこかで現実を受け入れられなかったのか……いずれにしても私と同じか……そうでなければ……)彼女は胸の奥がずっしりと重くなるような気分に襲われた。「どう思う?」「どう思いますか?」
二人はほとんど同時に声をかけ合った。「どうやら私たちは同じことを思ってるようね」「同感だ。このタイミングでのこの事出て来ていいのかね? この国は」
彼女は唇を真横に結んで黙って首肯した。「だがこのまま放っては置けない。なんとかしなきゃならん」「私も同じ考えです。まずは東城大学に乗り込んでみます。なに、向こうには高階病院長を殺した共犯者の可能性もある」「私の部下も連れて行かせる。くれぐれもこの事は他言無用だ」「わかっています」
***
二〇一九年八月三十一日金曜日 午前十時五十八分 総理官邸地下駐車場には黒塗りのセダンが停まっていた。その運転席で彼女は腕組みをして思案を巡らせていた。
(いったい、どうやって調べたものかしら?)「何者なんですかあの女?」
助手席に座っている部下の唐木は不思議そうに後部座席にいる麗華の後ろ姿を見ていた。「知らないわよ」麗華は不機嫌に言い放った。(この役立たず!)
そう心の中で罵りながらも、この状況では致し方ないと思った。なにしろ彼女は国家機密安全保障委員会の委員にして、特別捜査官なのだ。
(だけど)「あーもう、どうすりゃ良いんだよっ!」
麗華が髪をかきむしると「大丈夫ですか? 麗華お嬢様? どうぞこれを」「ふん、誰に物を言っているの?」「すみません」
(こんなことになるなんて……でもやるしかないわね)「とにかく、この事は絶対他に漏らすんじゃありませんよ。それとこの件に関する記憶の消去は可能なのでしょうね? できないという事は認めませんからね」「は、はい、お任せください」「頼りにしているんですからね」
麗華が「さっさと行きますよ」と言うが早いか車が急発進する。
***
午前十一時七分 麻生母娘を乗せたタクシーは国立感染症研究所の前で停止した。雅美は緊張していた。その様子に気づいた妃花は雅麗姫に何かを耳打ちすると二人で目を見合わせうなずいている。
運転手は行き先が目的地である事に安堵して笑顔を浮かべていた。
(いよいよか)「あのぅ」
突然の声に驚いて振り返ると、いつの間に来たのか雅麗姫と美玲がいた。二人は並んで立っている。
「どうしたんです?」と声をかけると「どうやら、ここは私が預かる事になったらしい。申し訳ないが先に失礼させてもらう。料金のことは心配はいらない」
とだけ言い残し、返事を待たず、二人の美女は去っていった。
「あの……」呆気に取られていると「どうぞ」と声がした。
そこには先ほどの美人二人が揃って微笑んでいた。
妃花たちはエレベーターホールに向かって歩きながら小声で会話をした。「上手くいくかしら?」「どうかしら?」
二人は不安そうだったが、妃花の頭には別の考えがあった。
それは雅麗姫たちが「お守り代わりに」渡してくれたカードの事だ。
実はこれは、彼女たちが所属する秘密情報機関【桜の会】のメンバー証でもあった。これを持っているという事は彼女たちの組織に所属しているということを表しているのだが、このカードは桜の会の正規メンバーが持つものではなく予備メンバーのものだった。なぜ、予備メンバーとはいえそんなものを渡すのか、その答えは簡単だった。自分たちは表立って動くことができないからである。だからいざという時の事を考えて自分たちの代理をしてくれと言っているのである。「まぁダメもとだ。駄目で元々。やって損はないはずだ」
三人の乗ったエレベータが動き出したところで「どちらへ?」と訊ねた。
(どこに行くのだろうか)と、ぼんやりと考えていたところ、目的の階に到着を告げるベルが鳴り響いた。扉が開くと廊下が続いている。そして突き当りのガラスドアには【特別室専用フロア入口】と書かれた表示が見て取れた。そして、その前には屈強な男が一人立ちふさがっていた。男は近づいて来ると恭しく「どうぞ」と言いながらドアを開ける。そしてその脇に立って「ご案内させていただきます」と深々と一礼した。
ドアの先の空間は広く天井も高い豪華な造りになっており壁一面に大きな窓ガラスが嵌め込まれていた。部屋の中央にはテーブルが据えられておりその上には小さなカードのようなものが置かれていた。その周囲には複数のモニターが設置されており監視カメラの映像らしきものが映されている。
その部屋に通された麻生親子はしばらく部屋の様子を観察していた。
「こちらにおかけになって少々お待ち下さい」と言って案内人は退出しかけたが、妃花はその男を呼び止めた。
「ねぇあなた、ちょっといい?」
***
同じ頃 国立感染症研究所付属病院 特別個室病棟 高階病院長が殺害されてから、約六時間後の午後十二時三十三分。一人の看護師が昼食の食器を片付けている最中の事だった。ドアをノックする音が聞こえ、入出の許可を求める声がした。看護師が応じてドアを開くとスーツ姿の中肉中背の男が入ってきた。その後ろには若い男性と白衣の女性が従っていてその顔には見覚えがあった。
「高階先生、面会の方が見えられました」と言って医師を招き入れると、「えぇ?」と目を丸くしている間に高階は連れ去られてしまった。その瞬間を逃さず看護主任は病室のロックをかけ、内側からしか開けられないように設定して「さっきの二人、警察みたいですね。いったいどういうことでしょう」と、困惑の色を浮かべていた。
***
その頃 首相官邸地下にある統合幕僚監部 柳月は部下からの電話を受け「何だと!? もう一度言ってくれないか?」と言った後、受話器を握りしめて、唇を強く噛みしめている。
彼の表情は、徐々に青ざめていった。その様子を秘書官が見守っている。
そして数分の沈黙の後「わかった。すぐに向かう」と言って静かに受話器を置いた。
その頃、状況を重く見た政府は国家安全保障会議を臨時招集し緊急事態条項の発動を視野に動いていた。参加者は内閣総理大臣柳月秀平 、柳月内閣法制局長官、鮫島内閣官房総合外交政策局長、葛井内閣調査室長(国家安全保障担当)、そして内閣参与の真嶋満喜子(しまぬきよしこ)だ。彼らは憲法解釈の大幅変更を含めたドラスティックなプランも検討している。例えば同盟国の同意を得て核兵器を使用するなど。
時を同じくして 東京都三鷹市 自宅に戻った麻生雅美は自分の部屋に入ると、真っ先にパソコンに向かった。
起動まで時間がかかるため手持ちぶさたになった彼女の目は自然と時計に向いていた。
(そろそろ、かな)
そこにモーダルウィンドウが開いた。『コンピューターウイルスを検知しました。全てのデータを消去して検疫しますか?必要なバックアップを…』
●
「私は医者としての立場で高階先生の死の原因について知りたかっただけなのです。決してやましいことは一切ない」「本当に?」と美玲に詰め寄られたが彼は何も答える事ができなかった。
そこへ「あのぉ~」「はい、どなたですか?」「警視庁公安部の東城です」「は、はい」
(しまった。すっかり忘れていた)彼は慌てて立ち上がった。
(そういえばそんな事もあったな)
だが、美玲と向き合っているうちに、自分が何のためにこんな事をしているのか疑問がわいてきた。「どうして? 私が犯人だとしても証拠があるわけじゃないでしょう? それとも何かい? こうなる事を期待していたというのか? 私が自首するように仕向けるように誰かが裏で手を引いているって? バカを言うな。いったい誰がそんなことを?」「麻生ジュンを知っているだろう?」
彼女は肩を落とし「ただ、このままでは高階病院長が浮かばれないと思って。せめて原因くらいわかればと思って。だって、このままなんて」「だからってこんな事をしたって何にもならないでしょう? それに私が病院に行ったのがそんな理由だっていうなら今ここで証明しても構わない。どうせ私には帰る所なんか無いんだから」「戻る場所がないからこそよ。今の貴方が頼れるのはここしかないはずよ? このまま一生刑務所で過ごせると思っているの? 私なら助けられるわ。お願い一緒に来て」「無理だよ、私の事を知ってるんでしょ?」「もちろんよ、それでも連れていくわ。もし断ったら、わかってますよね?」
彼女は腰にぶら下げた拳銃を抜いた。その様子に麻生は震え上がり「わかりました。行きましょう」と言うしかなかった。
彼女はニッコリ笑うと「よろしい」と言い、部下に目配せをした。すると二人の警察官が拘束具を使って彼を連行していく。その時だった。携帯電話の着メロが鳴り始めたのだった。どこかでガシャン!という物音がした。「何の音?」「さぁ?」
やがて通話が終わると、今度はメールが届いたようだ。その文面を見て美玲の顔色が変わった「大変! すぐに戻らなくちゃ!」「えっ? どうしたんですか?」
しかし彼女から返事はなく「さっさと来なさい」と言うと走り去ってしまった。
***
(あれは)
総理官邸から外に出た所で、二人の女性は視線の先に人影を認めた。一人は先ほど別れたばかりの女医だ。もう一人、こちらは見慣れぬ人物だ。
(誰だ?)
雅美が足を止めている間も車は急加速を続けている。美鈴は舌打ちをした。
車が停車した時にはすでにその二人は車のすぐそばにまで迫ってきていた。
その人物は黒い革のジャケットを着ていたが下には白っぽいブラウスとタイトミニスカートの女性だった。その女性の背後でドアが開くと中から黒服に身を包んだ男たちが現れた。
(まさか、あの二人が)美玲の額に冷たい汗が流れた。
***
その頃、国立感染症研究所附属病院の警備室で、異変に気付いた警備員の一人が警報ボタンを押そうとしたが遅かった。ドアの脇に設置されたセンサーライトの明かりがつくと同時に、二人の男女の姿が浮き上がったのだった。「動くんじゃねぇ」男の銃口は警備員のこめかみにぴたりと突き付けられていたのだ。もう一人の男は懐に手を突っ込んでゆっくりと歩いてくる。警備員は何が何やらわからないまま床に押し倒され身動きが取れなくなった。男は懐から小さなケースを取り出すと蓋を開け中に入っている注射器を手に取りながら近づいてきた。男は針の先端が自分に向いている事を確認した上で「これを打ってやる」と言った。警備員はその言葉の意味するところに恐怖を覚え必死でもがこうとしたが身体は思うように動いてくれなかった。そうしているうちに、腕にチクリとした痛みを感じたかと思う間もなく視界は暗く閉ざされ、意識は急速に闇の中に落ちていき深い眠りへと誘われていった。
***
男は車の扉を開けると中に踏み込んだ。後部座席にいた女が振り返った。
「もうすぐ着く?」「えぇ、もう少しの辛抱です」
女の手に持っていた携帯のディスプレイには地図が表示されており赤い点が移動している。「この先の角を曲がった所に駐車場があります」
男はそれを聞くと「よし。行くぞ」と言って歩き出した。二人はその後をついて歩いた。
その先には地下に続くスロープが延々と続いている。「この下に停まっています」
男はうなずくと、ポケットから鍵を取り出した。
そしてハンドルの脇にあるスイッチを押すとヘッドライトの光の中に白い車体が浮かび上がって来た。
「おい、後ろに乗せろ」男は助手席にいる男に声をかけると、後部座席に乗り込んできた。そしてシートベルトを締めて身を乗り出すと「出せ」と命じた。
***
「あぁ、お帰り」と、美玲が声をかけた。
美玲は一人だけで戻ってきたことに安堵したが、同時に不安がこみ上げてくる。「大丈夫?」「えぇ、何とかね」美玲はため息をつくと「よかった」と言った。
「ところで、あの人たちは?」「さぁ?」
「それより、早くここから逃げないと」
「逃げる?」「そう、ここは危険すぎる」
「どこに?」「どこって、とにかく安全なところへ」「そんな所あるの?」「麻生ジュンの遺産がここに眠っているらしいの」
「は?」「だから、麻生ジュンの隠し財産がここにあるのよ。それがあれば、貴方は自由になれる。きっと高階先生の仇を討つことができる」「本当なの?」
「えぇ、間違いないわ」
美玲はしばらく考え込んでいたが「わかった」と言った。
「だけど、どうやって探すの?」「例のパソコンにウイルスが届いてるでしょ。スタッグネット改。米NSAが開発した超ド級ワーム『スタッグネット』の強化カスタマイズ版。本来は核兵器密造施設を自律的に探りあてて破壊するサイバー兵器。ファイアウォールを楽々突破し、スタンドアロン端末にすら、事前に収集した監視カメラ映像、業務用メール、電話盗聴などあらゆる情報から職員のふるまいを分析し、USBメモリを使って職員がファイルを移すなど隙があれば即座に便乗して感染する。そんなワームだからスパイアクション映画ばりの活躍をこなす。このスタッグネット改は冷凍睡眠者の資産運用などに平和利用されてて貴方の冷眠カプセルにもインストールされているものだけど裏ではヤバい情報収集に使われてたりする。詳しくは言えないけど有志が貴方を最初から見守ってた。だから麻生ジュンの資産もスタッグネット改がずっと前から内偵してた。それで私に教えてくれたの。彼は生前に複数の遺言状を作っていて、その中には自分が死んだ後、自分の全財産を譲るという旨のものがあった。それを解凍すればいいだけ」
美玲は話の半分以上理解できなかったが、彼女が自分を騙していないことだけは確信できた。
彼女はカバンの中からノートパソコンを取り出すと起動させた。しばらくしてパスワード入力画面が現れた。
彼女は少し考えてからキーボードに指を走らせた。すると画面にメッセージボックスが開き、そこには短い文章が書かれていた。
【ようこそ】
そのメッセージを見た途端、彼女はその場に崩れ落ちた。
そして彼女の頬を涙が伝っていった。美玲は彼女の背中をさすってやった。
その手にはハンカチが握られていた。
美玲が彼女の隣に座ると、彼女は美玲に寄りかかり嗚咽を漏らし始めた。
その様子を見ながら、美玲は複雑な思いを抱いていた。
そして思った。
(私は、高階先生の敵討ちがしたいだけなのか? それだけなのだろうか?)
だが、今の彼女に答えは出せなかった。
彼女は静かに泣き続けた。
その肩を美玲は優しく抱きとめていた。「貴女の幸せを探すのよ。それが貴女の使命であり任務。生きていきたいのでしょ?この世界で」彼女はコクンとうなずいた。
美玲は彼女をそっと抱きしめた。
その時だった。
何かが激しく爆発するような音がした。
美玲はハッとして顔を上げた。
(なんだ?)
それは断続的に続いていた。
何かが崩れ落ちるような音。
何かがぶつかる衝撃。
何かが燃え上がる炎の音。
何かが壊れるような騒音。
何かが焼け落ちていく臭い。
何かが倒れ込むような振動。
美玲は立ち上がろうとしたが、彼女は離さなかった。
だが次の瞬間、激しい揺れが二人を襲った。
「きゃあっ!」
美玲は悲鳴を上げて床に転げ回った。
その直後、部屋が傾き始めた。
美玲は壁に叩きつけられ気を失った。
彼女もまた、美玲の身体の上に折り重なるように倒れた。
そしてそのまま意識を失っていった。
***
その少し前。
国立感染症研究所附属病院の地下駐車場での出来事。
一台の車がエンジンを吹かし始めていた。
その車内で男が言った。「お前さんもしつこいね」
「なんの事かな?」「惚けるなって。ここまでついてきたんだ。もうネタは割れてる」
「君には何もできない」
「どうかな? あんた、本当は何者だ? どうしてこんな事をやってるんだ? 金目当てじゃないだろう? そもそも、なぜ今になって出てきた? もう十年以上前になるぜ?」「…………」
「あの時、俺の目の前で消えちまった。あれから俺は何度となく考えた。何が悪かったのかと」
「君は、何も悪くはないさ」
「そうかい?」男は車を発進させるとスロープを下っていく。「あの時の事を思い出した。あの時に、俺は決めたのさ。あの女は必ず殺す。何があってもだ。どんな犠牲を払っても」
車は地下から地上へと出た。
車は高速を降り一般道を走り出した。
男は運転しながら、つぶやいた。「俺の復讐のために、死んでくれや」
車は速度を上げ、やがて加速していった。
***
雅麗姫が目を覚ますと、そこは薄暗い部屋の中だった。
窓には鉄格子がはめられていて外の様子はわからない。雅麗姫はベッドから起き上がった。
壁の時計を見ると時刻は午前二時過ぎだった。
雅美が言うには、自分は三日ほど意識を失っていたらしい。雅美は隣の部屋にいるようだ。
雅美は雅麗姫が目覚めた事を知るとすぐに駆けつけてきて、彼女の身体をペタペタと触りまくった。
「もう大丈夫なの?」「えぇ、心配かけてごめんなさい」
「でも、本当に良かった」
「ここはどこ?」「分からない」
「そう」
「ねぇ、これからどうしよう?」「そうね」
「とりあえず、ここを出てみましょうか?」「えぇ、でもどうやって?」
「私が囮になるわ」「そんな、無茶だよ」
「大丈夫。こう見えても腕に覚えはあるの」
「でも」「大丈夫、任せて」
「分かった。じゃあ、お願い」
「えぇ」
二人は準備を整え、部屋を出た。
廊下は静まり返っていて人の気配はなかった。
「誰もいないみたいね」
「うん」「でも油断しないでね」
「わかってる」
「行くよ」
「えぇ」
雅麗姫はうなずくと、雅美の後について歩き始めた。
階段に差し掛かったとき、突然、二人の前に人影が立ち塞がった。
「動くな」銃口が向けられた。
「誰?」「大人しくしろ。抵抗するなら撃つぞ」
「私は人質なんかにならないわ」
「黙れ」
「この子は関係ない」
「黙ってろ」
「待って! その子は関係ありません。私だけです。だから撃たないでください」
男はしばらく考えていたが、銃口を下ろした。「よし、ついて来い。妙な真似をするんじゃないぞ」そう言って男は再び歩き出した。
男に連れられ、雅麗姫と雅美はエレベーターに乗り込んだ。
エレベーターが動き始めると、男が再び声をかけてきた。「おい、どこに行くかは分かってるな?」「もちろんよ」「ふん、まぁいい」
エレベーターが止まると、男はそのまま歩いていく。
男に続いて歩いていると、ドアの前に立った。
男が鍵を差し込みドアを開けると、そこには長い通路が続いていた。
男は懐中電灯をつけると、先に進んで行った。
しばらく歩くと、男の声が聞こえた。「止まれ」
「え?」「声を出すな」
「ここは?」「見取り図によれば、貨物室らしいが、さてね」「開けられるの?」「あぁ、やってみよう」
雅麗姫は雅美を後ろに下がらせると、ゆっくりと進み出て、壁に手を触れた。
そして、耳を押し当てた。
すると、かすかに金属がこすれ合うような音が聞こえてきた。
「どこかに操作盤があるはず」
「これじゃないか?」
「ありがとうございます。どれ?」
「ここだ」
「ここを押せば開くかも。ちょっと離れててください」
「わかった」
雅美が後ろに飛びのくと同時に、雅麗姫はボタンを押した。
すると、扉の向こう側で何かがはじけ飛ぶような音がして、続いて扉が開いた。
その向こう側には真っ暗な空間が広がっていた。
「なんだ? 明かりをつけろ!」男が叫んだ。
雅麗姫は手探りでスイッチを探した。
「あった!」それを押すと、暗闇の中に光が差し込んできた。
雅麗姫は振り返ると、「行きましょう」と言った。
***
それからしばらくの間、二人は歩いた。
時折、分かれ道があったが、ほとんど一本道だった。
そして、ようやく前方に光が見えてきた。
「出口だ」男が言った。
「やったね」雅美も喜んだ。
だが、その喜びはすぐにかき消された。
その先にあったのは大きな鉄の隔壁だったのだ。
「どういうことだ?」男が言った。
「まさか、閉じ込められた?」雅美が言った。
「そんな馬鹿なことがあってたまるか」
男は懐から拳銃を取り出し、その引き金を引いた。
だが、弾は出てこなかった。
「チッ、ジャムった」
「落ち着いて、もう一度試しましょう」
「そうだな」
男は慎重に狙いを定め、再び撃った。
だが、結果は同じだった。
男は舌打ちすると、今度は足で蹴飛ばした。
しかし、それでも隔壁はびくともしなかった。
「ちくしょう!」男は拳で何度も叩いた。
だが、隔壁は微動だにせず、ただ鈍い音を立てるだけだった。
「駄目だ。開かない」
「どうして?」雅美が聞いた。
「知らん。とにかくここから出る方法を考えないと」
「だけど、どうやって?」
「それは……」
その時、男は何かを思いつくと、おもむろに上着を脱ぎ捨てた。
「何をするつもり?」「見てれば分かる」
男は上着とシャツを床に置くと、ネクタイを緩め、Yシャツのボタンを外し始めた。
雅美は慌てて顔を背けた。
しばらくして、男が言った。「これでどうだ?」
「何も起こらないよ?」「そりゃそうだろうな」
「どういうこと?」「簡単な話さ。要は外に出たいんだろ? だったら、外から引っ張ってもらえばいいのさ」
「どうやって?」「簡単さ。まずは俺がこの上に乗る」
男は靴を脱ぐと、その上に乗ろうとした。
「ちょっと待って、危ないよ!」「平気さ」「そうじゃなくて、落ちたりしたらどうするの!」「俺は頑丈だからな。心配はいらないさ」
「でも」
「それより、時間がないんだ。早くしないと、あいつらがここに来るかもしれない」
「……」
雅美はしばらく考え込んでいたが、やがて意を決したようにうなずいた。「分かったわ」
雅美も同じように上着やシャツを脱いで、その上に乗った。
「じゃあ、行くぜ」男が言うと、雅美はうなずいた。
男はベルトを外すと、それを使って自分の身体を固定した。そして、そのまま勢いをつけて飛び降りた。
「きゃああああっ」雅美の悲鳴が響き渡った。
男は着地すると、すぐに立ち上がった。
「どうだ?」「ダメみたい」
「そうか」
「どうしよう?」「仕方ない、一旦戻ろう」「でも、来た道は塞がれてるよ」
「別の道を探すしかない」
「そうね」
***
二人はエレベーターに戻ると、階数表示を見上げた。
エレベーターの表示は二階を示していて、まだしばらくは時間がかかりそうだった。
雅麗姫は雅美の隣に座ってため息をついた。
雅美は心配そうな顔で雅麗姫を見た。「大丈夫?」「えぇ、何とかね」
「でも、本当にどうしよう?」「そうね」
その時、雅麗姫が突然立ち上がった。
「どうしたの?」雅美が驚いた様子で聞くと、雅麗姫は黙って首を振った。
雅麗姫は目を閉じて耳を澄ませた。やがて、彼女は目を開けた。「聞こえる」
雅美は何のことかわからずにキョトンとしていた。
雅麗姫は雅美の手を取ると、「静かに」と言って耳を済ませさせた。
雅美は雅麗姫に言われるまま目を閉じた。そして、神経を集中させてみた。
すると、確かにかすかな音が聞こえてきた。
それは雅麗姫にしか聞こえないようだったが、どうやら一定のリズムを刻んでいるようだ。
雅美は目を開けて雅麗姫の顔を見ると、うなずいてみせた。「何の音かしら?」「わからないわ」
やがてエレベーターが一階に止まった。二人が降りると、ちょうど正面にあるエレベーターホールに人影が現れた。
雅麗姫はハッとして身構えたが、すぐに力を抜いた。
「あの子たちだ」雅麗姫がつぶやくと、雅美もうなずいた。
二人は駆け寄って声をかけた。「どうしたの?」「大変よ」
二人は雅麗姫たちの姿を見て驚いていたが、雅美が事情を説明すると、二人そろって頭を下げた。「ごめんなさい」「迷惑をかけて悪かったと思ってるわ」「本当に申し訳ない」
「いいのよ。気にしないで」雅麗姫は笑顔で言った。
「それで、これからどうする?」「この人たちは?」
「私たちは行くわ」「どこへ?」
「分からないけど」「なら私たちと一緒に行きませんか?」
「一緒に?」「えぇ、お詫びに安全なところまで送ります」
「そうだな。俺たちもそっちに行くつもりだったんだ。だから、一緒のほうが都合がいい」
「そうですね」雅美が同意した。「決まりね」
三人は歩き始めた。その背後では、エレベーターホールに待機していた男たちが集まってきていたのだが、そのことには全く気が付いていなかった―――
(完)