そう心の中で罵りながらも、この状況では致し方ないと思った。なにしろ彼女は国家機密安全保障委員会の委員にして、特別捜査官なのだ。
(だけど)「あーもう、どうすりゃ良いんだよっ!」
麗華が髪をかきむしると「大丈夫ですか? 麗華お嬢様? どうぞこれを」「ふん、誰に物を言っているの?」「すみません」
(こんなことになるなんて……でもやるしかないわね)「とにかく、この事は絶対他に漏らすんじゃありませんよ。それとこの件に関する記憶の消去は可能なのでしょうね? できないという事は認めませんからね」「は、はい、お任せください」「頼りにしているんですからね」
麗華が「さっさと行きますよ」と言うが早いか車が急発進する。

***
午前十一時七分 麻生母娘を乗せたタクシーは国立感染症研究所の前で停止した。雅美は緊張していた。その様子に気づいた妃花は雅麗姫に何かを耳打ちすると二人で目を見合わせうなずいている。
運転手は行き先が目的地である事に安堵して笑顔を浮かべていた。
(いよいよか)「あのぅ」
突然の声に驚いて振り返ると、いつの間に来たのか雅麗姫と美玲がいた。二人は並んで立っている。
「どうしたんです?」と声をかけると「どうやら、ここは私が預かる事になったらしい。申し訳ないが先に失礼させてもらう。料金のことは心配はいらない」
とだけ言い残し、返事を待たず、二人の美女は去っていった。
「あの……」呆気に取られていると「どうぞ」と声がした。
そこには先ほどの美人二人が揃って微笑んでいた。
妃花たちはエレベーターホールに向かって歩きながら小声で会話をした。「上手くいくかしら?」「どうかしら?」
二人は不安そうだったが、妃花の頭には別の考えがあった。
それは雅麗姫たちが「お守り代わりに」渡してくれたカードの事だ。
実はこれは、彼女たちが所属する秘密情報機関【桜の会】のメンバー証でもあった。これを持っているという事は彼女たちの組織に所属しているということを表しているのだが、このカードは桜の会の正規メンバーが持つものではなく予備メンバーのものだった。なぜ、予備メンバーとはいえそんなものを渡すのか、その答えは簡単だった。自分たちは表立って動くことができないからである。だからいざという時の事を考えて自分たちの代理をしてくれと言っているのである。「まぁダメもとだ。駄目で元々。やって損はないはずだ」
三人の乗ったエレベータが動き出したところで「どちらへ?」と訊ねた。
(どこに行くのだろうか)と、ぼんやりと考えていたところ、目的の階に到着を告げるベルが鳴り響いた。扉が開くと廊下が続いている。そして突き当りのガラスドアには【特別室専用フロア入口】と書かれた表示が見て取れた。そして、その前には屈強な男が一人立ちふさがっていた。男は近づいて来ると恭しく「どうぞ」と言いながらドアを開ける。そしてその脇に立って「ご案内させていただきます」と深々と一礼した。
ドアの先の空間は広く天井も高い豪華な造りになっており壁一面に大きな窓ガラスが嵌め込まれていた。部屋の中央にはテーブルが据えられておりその上には小さなカードのようなものが置かれていた。その周囲には複数のモニターが設置されており監視カメラの映像らしきものが映されている。
その部屋に通された麻生親子はしばらく部屋の様子を観察していた。
「こちらにおかけになって少々お待ち下さい」と言って案内人は退出しかけたが、妃花はその男を呼び止めた。
「ねぇあなた、ちょっといい?」

***
同じ頃 国立感染症研究所付属病院 特別個室病棟 高階病院長が殺害されてから、約六時間後の午後十二時三十三分。一人の看護師が昼食の食器を片付けている最中の事だった。ドアをノックする音が聞こえ、入出の許可を求める声がした。看護師が応じてドアを開くとスーツ姿の中肉中背の男が入ってきた。その後ろには若い男性と白衣の女性が従っていてその顔には見覚えがあった。
「高階先生、面会の方が見えられました」と言って医師を招き入れると、「えぇ?」と目を丸くしている間に高階は連れ去られてしまった。その瞬間を逃さず看護主任は病室のロックをかけ、内側からしか開けられないように設定して「さっきの二人、警察みたいですね。いったいどういうことでしょう」と、困惑の色を浮かべていた。

***
その頃 首相官邸地下にある統合幕僚監部 柳月は部下からの電話を受け「何だと!? もう一度言ってくれないか?」と言った後、受話器を握りしめて、唇を強く噛みしめている。
彼の表情は、徐々に青ざめていった。その様子を秘書官が見守っている。
そして数分の沈黙の後「わかった。すぐに向かう」と言って静かに受話器を置いた。

その頃、状況を重く見た政府は国家安全保障会議を臨時招集し緊急事態条項の発動を視野に動いていた。参加者は内閣総理大臣柳月秀平 、柳月内閣法制局長官、鮫島内閣官房総合外交政策局長、葛井内閣調査室長(国家安全保障担当)、そして内閣参与の真嶋満喜子(しまぬきよしこ)だ。彼らは憲法解釈の大幅変更を含めたドラスティックなプランも検討している。例えば同盟国の同意を得て核兵器を使用するなど。

時を同じくして 東京都三鷹市 自宅に戻った麻生雅美は自分の部屋に入ると、真っ先にパソコンに向かった。
起動まで時間がかかるため手持ちぶさたになった彼女の目は自然と時計に向いていた。
(そろそろ、かな)
そこにモーダルウィンドウが開いた。『コンピューターウイルスを検知しました。全てのデータを消去して検疫しますか?必要なバックアップを…』

「私は医者としての立場で高階先生の死の原因について知りたかっただけなのです。決してやましいことは一切ない」「本当に?」と美玲に詰め寄られたが彼は何も答える事ができなかった。
そこへ「あのぉ~」「はい、どなたですか?」「警視庁公安部の東城です」「は、はい」
(しまった。すっかり忘れていた)彼は慌てて立ち上がった。
(そういえばそんな事もあったな)
だが、美玲と向き合っているうちに、自分が何のためにこんな事をしているのか疑問がわいてきた。「どうして? 私が犯人だとしても証拠があるわけじゃないでしょう? それとも何かい? こうなる事を期待していたというのか? 私が自首するように仕向けるように誰かが裏で手を引いているって? バカを言うな。いったい誰がそんなことを?」「麻生ジュンを知っているだろう?」
彼女は肩を落とし「ただ、このままでは高階病院長が浮かばれないと思って。せめて原因くらいわかればと思って。だって、このままなんて」「だからってこんな事をしたって何にもならないでしょう? それに私が病院に行ったのがそんな理由だっていうなら今ここで証明しても構わない。どうせ私には帰る所なんか無いんだから」「戻る場所がないからこそよ。今の貴方が頼れるのはここしかないはずよ? このまま一生刑務所で過ごせると思っているの? 私なら助けられるわ。お願い一緒に来て」「無理だよ、私の事を知ってるんでしょ?」「もちろんよ、それでも連れていくわ。もし断ったら、わかってますよね?」