「ああ、カマをかけたのよ。自分もルセック伯爵に浮気されてて困ってるんだって言ったら、『そうなんです! 私も彼の都合いい女にされてて! 他に女が何人もいて』ってね」
それを聞いてルセック伯爵の顔色はどんどんと青くなっていって、唇が震えているのを隠すように歯で噛んで止める。
「そこで言ったのよ、私がルセック伯爵の妻ですが何か?って」
「──っ!!!」
「ええ、それはもう彼女、どんどん青ざめて、そう今のあなたみたいにどんどん顔色が悪くなって、その場にへたり込んだわね。ふふ、面白かったわ~」
もはや夫人は笑っているが笑っていない。
目が笑わず、そしてルセック伯爵への怒りを通り越した復讐心で溢れていた。
目の前の男をどうしてやろうか、という考えで真っ赤な唇だけが弧を描いている。
「許してくれっ!!」
「あら、あっさり認めるのね。昔はもっと男気があったのに、そのみっともない身体に反比例して消えていったのかしら」
ルセック伯爵はもう生気を失ったように床に座り込んでぼうっと天井を見上げる。
そんな彼にずっと持っていてぬくもりを持ったルビーのイヤリングを夫人は投げつけた。
「このことは実家に報告されていただきます」
「待ってくれ、それだけはっ!!!」
「いえ、報告させていただきま・す!」
夫人は容赦なくそれだけ告げると、その足で部屋を後にした。
部屋に残されたルセック伯爵は人生が終わった、といった様子で絶望し、その場に倒れてしばらく動かなかった──
◇◆◇
ルセック伯爵が昼間の妻に暴かれた不倫による衝撃が癒えないで眠れない夜のこと。
伯爵家の隠し金庫の前にある人影が忍び寄っていた。
「ふっ、この家もザルね。こんなに簡単に見つかるなんて」
そう言う彼女はルセック伯爵家に雇われていたメイドの一人であり、ついでにいうとメイド歴三年の中堅メイドだ。
そんなメイドの本来の目的はこの家の莫大な財産を盗むことであり、そうして今までも年齢や経歴を詐称しては貴族の家に忍び込んで金をくすねとっていた。
彼女が狙うのは汚い金、つまり表には公に出せない金や不正に得られた金であり、彼女に狙われた家は等しくその金の出処を理由に王国に被害届を出せずに泣き寝入りしている。
細工が施された棚の中に隠された隠し財産を得ると、メイドはにやりと笑ってそのまま部屋を後にした。
このことにルセック伯爵が気づくのは、もう少し後のこと──
街に出かけた数日後、レオンハルトは約束通りコルネリアにマナーの講師を紹介した。
「彼女がマナーの講師だよ」
そう言われて紹介されたのは、いつも自分のお世話役として傍にいるテレーゼであった。
「テレーゼさん……?」
「ぜひテレーゼとお呼びくださいっ!!」
テレーゼはそれはそれは深々とお辞儀をすると、顔を上げた後にコルネリアに対してにこやかに微笑みかけた。
コルネリアはてっきり外部の人間──それも怖い形相をした笑顔のない厳しい人間を想像してしまっていたが、見知った顔であったために驚き目をパチクリさせた。
レオンハルトはコルネリアの肩にポンと手を置くと、安心させるようにそっと微笑みかけてそのまま部屋を後にした。
部屋の中にはコルネリアとテレーゼのみが残されて、二人の間に一瞬の沈黙が流れる。
──先に口を開いたのはテレーゼだった。
「さ、奥様。いつもの私とは一味違いますよ~!!! ビシバシいきますから、そのつもりでいてくださいね!!!!」
「え、ええ……」
コルネリアは目を光らせるテレーゼに少し怖気づく様に一歩引きさがるが、馬車の中で誓ったことを思い出す。
『もうそれに甘えていられる時期は過ぎたのではないかと思うのです。私はレオンハルト様と共に生きるために、ヴァイス公爵夫人としての責務を全うするためにもっとたくさんの勉強が必要だと思っています』
(そう、このお屋敷の皆さんのために、レオンハルト様のために頑張ることを決めた。頑張りたい)
コルネリアは自分自身、そしてまわりの人間、特にお世話になった者たちへの恩に報いるためにマナーを学びたかった。
その思いをレオンハルトもテレーゼもわかっているからこそ、今回全力で彼女に協力することに決めた。
コルネリアは覚悟を決めた強い目でテレーゼを見つめ、そしてその意思を受け取ったテレーゼも深く頷く。
ただ、コルネリアにはどうしても疑問があった。
それは、「なぜ一介のメイドであるテレーゼがマナーを教えるほどになったのか」だ。
この国では貴族たちはおおよそ国に存在する国家資格を持つマナー講師に幼少期に教わって育つ。
親が子に教えるわけでも、家人が教えるわけでもない。
選ばれた数人の精鋭たちが教えるのだ。
「もしかして、なぜ私が教えているのか、気になりますか?」
「──っ!」
コルネリアの考えや疑問を見抜いたように、テレーゼはふっと微笑み、そして真っすぐにコルネリアを見つめて語り始めた──
「もともと私は子爵家の娘でした」
「え……?」
テレーゼの口から放たれた真実はコルネリアに予想だにしない内容であり、思わず瞬きを一つしてその後の動きを忘れるほど驚いた。
「没落したんです。両親がある貴族に騙されて事情に失敗し、そして両親は多額の借金を背負いました」
「……」
「家業である貿易業はすぐに立ち行かなくなりました。船の組員に払う賃金はなく、そして船を売り払い、そして何もなくなりました」
コルネリアは淡々と語る彼女の話にじっと耳を傾けて、そして目を閉じた。
そして、彼女は口を開いた。
「それで、ご両親は……?」
少し聞くのが怖かった言葉をコルネリアは勇気を振り絞って聞いた。
しかし、その次に聞こえてきた言葉は彼女の中で何パターンか考えた彼女の答えで最も悲惨なものだった。
「死にました」
「……っ!」
テレーゼは特に涙を流すでもなく、表情を変えるでもなくただ淡々と両親の死を伝えた。
「もう爵位を返上して田舎暮らしをしようというときでした。私が今までお世話になった学友たちに挨拶を兼ねて最後のお茶会に参加した日に、両親は自宅で自殺していたそうです」
「テレーゼ……」
「当時のメイドたちが気を遣ってその現場は見せないようにと、計らってくれました。最後に見た両親の顔はなんとも忘れられません」
コルネリアはその話を聞き、ゆっくりとテレーゼに歩み寄ると、そのまま彼女の背中に両腕を回した。
「コルネリア様?」
「テレーゼ、ごめんなさい。ひどいことを思い出させてしまった。ごめんなさい……」
目をぎゅっとつぶりながら彼女の胸元に顔をうずめて謝るコルネリアに、テレーゼは優しい顔で微笑んで、そしてコルネリアの背中に自らの手を当てた。
「大丈夫です、私はそれからこの家に拾われて、救われました。レオンハルト様たち、この屋敷の皆様に救われました。だから、コルネリア様がレオンハルト様のために、というお気持ちも痛いほどわかります」
「テレーゼ、一緒に、私と一緒にこの家のために、レオンハルト様のためにお願いできないかしら?」
「もちろんです。私にできることであれば、精いっぱい努めさせていただきます! 私は、ドジでのろまなメイドですが、あなた様のことを尊敬して、支えたいですっ!」
そんな風に言われたことがなかったコルネリアは大きく感情が揺さぶられ、そして唇がわずかに震える。
つらい過去があってもくじけずに誰かのために、自分を守ってくれた人たちのために心を尽くす。
当たり前のように見えてそうではなく、それはテレーゼだからこそできるのではないか、とコルネリアは思った。
日が差し込む窓の近くで彼女らはこの屋敷、そしてレオンハルトへの恩に報いる決意を新たにして、微笑み合った。
コルネリアとテレーゼの二人三脚のマナー習得への道が始まる──
ああ、どうしてこんなことになってしまったのだろう──
テレーゼ・フィードルはお茶会用におめかしをしたドレスを床につけながら、そして膝から崩れ落ちる。
自邸に着いたすぐ後、そのまま何か騒がしい様子に気づいてメイドに声をかけるが、慌てた様子で彼女はテレーゼの背中を押して近くの応接室へと向かわせる。
「どうしたの? ミア」
「テレーゼ様、落ち着いて聞いてください」
「ええ、なに?」
「旦那様と奥様が……亡くなりました」
「…………え?」
彼女が両親の死を伝えられたのは18歳の時。
もうメイドや執事たち使用人にもわずかに残った給金だけを渡して雇用契約を解除し、皆それぞれの場所へと散っていった。
古参の執事や一部の使用人だけがテレーゼの両親とテレーゼの世話をするために屋敷に残っていたが、もう皆次の日に解散というところであった。
そんな前日にテレーゼの両親は自殺し、そしてテレーゼはショックのあまり自室で一晩うずくまって過ごした。
(いけないわ、私が皆を守らなければ)