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次の日から沙耶は、授業が終われば旧音楽室へと急ぐようになった。
沙耶が先に着くこともあれば、先輩が待っていてくれることもある。先輩が先に居る時には、旧音楽室へ向かう廊下にまで軽やかなピアノの音が聞こえてくる。この毎日に、沙耶はきらめきのような何かを見つけ始めていた。
楽譜を読めるようになること、右手と左手を同時に使うことに慣れること、リズムの感覚を覚えること……ピアノを弾くために、やるべきことはたくさんあった。基礎が全くできていない沙耶に、先輩は一つ一つ上達の方法を教えてくれた。
おかげでピアノに触れることには慣れてきたけれど、未だ「曲を弾く」段階には至らない。
練習を始めて一週間が経った頃、牧野先輩が言った。
「そろそろ、何か一曲練習する曲を決めてみようか」
「曲……ですか」
ピアノを練習する以上、最終的なゴールはやはり「曲を弾く」ことだ。そう分かってはいても、本当に一曲覚えて演奏することなんて可能なんだろうかと不安が残る。
「上達の近道は、弾きたい曲を弾くことかな。好きなアーティストとかいる?」
「えーっと……」
以前、先輩が弾いていたあの曲が良い――とは、言えなかった。きっとすごく難しいだろうし、今の沙耶が挑戦するのは無謀だろう。
答えるまでの時間を稼ぐために、逆に先輩に質問してみることにする。
「牧野先輩は、誰が好きなんですか?」
「ショパンかな」
「誰ですか?」
「……」
笑ってごまかされた。前に聞いたあの曲も、もしかしたらショパンという人の曲だったのかもしれない。
なかなか曲を決められない沙耶に気が付いたのだろう、牧野先輩は窓際の棚の方へ向かい、いくつかの教本を物色し始めた。
「ま、一旦初心者向けの曲をやってみようか。ちょっと待ってね」
……旧音楽室に通うようになって数日経ったあたりで気が付いたのだけれど、この物置めいた教室にある物のうち、四分の一ぐらいは牧野先輩の私物なのだ。特にピアノの近くにある棚の中は、まるで専用のロッカーみたいに使われている。なんなら教科書まで置いてあった。
やがて先輩は、一冊のくたびれた教本を引き抜いて持ってきた。
「とりあえず曲やらないと、やる気もでないでしょ。バッハとベートーヴェン、どっちがいい?」
「えーっと、ベートーヴェン?」
「じゃこれね」
牧野先輩はぱらぱらとページをめくり、沙耶にとっての一曲目を開いて譜面台にセットした。本の背面に在庫管理のシールが貼ってあったから、多分これは旧音楽室の備品なのだろう。どのページにも折り目が入っていて、この本でピアノを練習した沢山の生徒達の歴史を感じさせる。
「一旦俺が弾こうか」
「……! はいっ、是非!」
久しぶりに、先輩のピアノが間近で聞ける。あの日耳にした、真っ白、あるいは真っ青な音の洪水を思い出すと胸が高鳴った。席を譲るため立ち上がりかけた沙耶を、いや、と先輩が止める。
「寄ってくれるだけでいいよ。横で見てて」
「横……ですか」
言われた通り、座る位置だけを変える。連弾用のものなのだろうか、椅子は高校生二人で座っても十分な横幅があった。先輩が両手を鍵盤の上に置く。たしかに、手元がよく見える。
「じゃあいくよ」
先輩の指の動きに従って、静寂からぽろんと音が一つ零れる。そこから崩れるように譜面から音が零れて、ピアノへ落ちていく。その一つ一つを牧野先輩が拾っていく。メロディが溢れる。とてもたった十本の指で演奏されているとは思えない。
泡が昇っていくかのように、音が天上へと浮き上がっていく。あらゆる音が溢れた後に残ったのは、赤だった。アネモネの赤、焼ける夕陽の赤、全てを覆いつくす赤。
――先輩の弾くピアノには、やっぱり色が付いている。
音の波が全て引いて、演奏が終わる。沙耶は曲の余韻に浸っていた……のだけれど。
「さてさて」
牧野先輩にとっては、初心者向けの軽い一曲の演奏でしかなかったのだろう。つい先ほどまであの情熱的な演奏をしていた人だとは思えないぐらい、へらり、と毒気なく笑っている。
「で、どうだった?」
どう……と言われても。正直、圧倒されてしまった。
「私じゃ弾ける気がしません……」
「ま、最初はそうかもね」
「ほんとにこれ、弾けるようになりますか?」
「楽譜を読んでみる?」
先輩の指差す場所を目で追いながら、一曲分を追いかける。たしかに、想像していたほど複雑ではない。繰り返しの部分も多いし、音の幅も広くない。でも……。
「左右の手が、結構違う動きしてません……?」
「これは初心者向けにアレンジされた曲だから、左手の方は大したことやらないよ。とりあえず右手側を覚えれば、左は勝手についてくるから」
「絶対嘘です」
「まあまあ、一回騙されたと思って」
牧野先輩は立ち上がり、いつもの練習と同じようにピアノの横に立ってしまった。……もしかして今日は何度かお手本を聞けるかも、と思ったんだけど。
「じゃあ、一フレーズずつやってみよう」
音符を一つずつ追いながら、手を動かす。子どもが巨大なピアノの上で跳ねているかのような幼稚な音だった。ぽろん、ぽろん、と一つ一つ元気は良いけれど、ただ音が零れるだけの拙い演奏。
ようやくフレーズを手に覚えさせることができた頃、バラバラだった音たちはなんとか一つの曲へと変化していった。最初は右手の動きを追いかけるだけで精一杯だったものの、演奏の速度を落としながら左手もセットでつけて慣らしていく。さっき先輩が聞かせてくれた、響きのある赤色のメロディを思い出しながら、なんとかそれを再現しようと沙耶は奮闘した――の、だけれども。
実際に沙耶が弾いたのは、とんでもなく拙いワンパートだった。
なんだか、あんなに凄い演奏を聞いた後だとがっくり来る。上手く演奏できる人がこの世界には沙耶の他にも沢山いるのに、ほんとにピアノを弾けるようになる意味ってあるんだろうか、みたいな気持ちになってくる。
「なんていうか……同じ曲でも、弾く人が違うとこんなに違うんですね」
「たしかに。でも、それが聞き分けられるようになってきてるの、凄くない?」
「……そう、かも」
先輩みたいに、色付く演奏じゃない。でも、ピアノを学ぶ前だったら、そもそも先輩の演奏と自分の演奏はどこが違うのか、全く分からなかったかもしれない。今だって分かっているとは言い難いけど……リズムが違う、強弱が違う、感情の表現が乗っていない。自分の問題点がどこにあるのか、本当にざっくりだけれど気付けるようにはなった。
「一フレーズずつ弾けるようになって、それを繋げていくんだ。大丈夫、今日だけでも、全く弾けなかったゼロからここまで来れただろ?」
「……た、しかに?」
牧野先輩の教え方は、驚くほど丁寧で根気強い。沙耶が見つけられなかった成長を代わりに拾ってくれて、なんとなく上手くなれたように騙されて、その繰り返しが続くことで、いつのまにか本当に少しずつ弾けるようになっていく。
「……ありがとう、ございます。私にピアノを教えてくれて」
「突然、だね」
「突然、言いたくなったんですっ!」
へらり、と牧野先輩が笑う。
「あはは、どういたしまして。ま、感謝の言葉は一曲しっかり弾けるようになってからでも遅くないよ」
「……はいっ、頑張ります」
「さて、じゃあ次は……」
牧野先輩が譜面をめくる――めくったところで、音楽準備室の扉が開いた。先輩と沙耶のいる旧音楽室の隣には、教師が使っている音楽準備室があって、その扉が開いたのだ。
顔を出したのは、音楽教師の田中先生だった。
「牧野くん、そろそろ帰りなさいね」
「はい、すぐに」
「そう言っていつも勝手に居残りするんだから。ま、前みたいに一人でいられるよりは安心だけど」
先生は苦笑いを一つ残して、扉を閉めた。時計を見ると、すでに下校時刻の十分前だった。
「今日はここまでかな。キリもいいしね」
「ですね……ところで先輩、昔何かしたんですか?」
「え、なんで?」
「だって、先生。私がいるほうが安心だ、って。まるで私が子守か監視みたいな言い方でしたけど」
「ああ、あれね。先生たまに、俺を五歳の子どもだと思ってる時あるんだよね」
そんなばかな。でも、田中先生のさっきの物言いからは、たしかにそんな感じがした。牧野先輩をまるで子どもみたいに思っている、というか。
……もしかして、ピアノ以外は結構抜けてる人だったりするのかも?
「あ。失礼なこと考えてるでしょ」
「考えてませんっ!」
「大体分かるんだよなあ」
牧野先輩が笑う。その笑い声がなんだか気恥ずかしくて、沙耶は顔を落としてピアノを見た。明日は水曜日じゃないから、またピアノが弾ける。