私と踊っていただけませんか、|7階の死神さん《マドモアゼル》?

 自ら名乗り出るように、雅代(まさよ)の前まで移動する亮。
 突然の声に誰もが目を白黒させている中、一番早く立ち直ったのは麗夏(れいか)嬢である。笑顔が少し崩れたではあるものの、一瞬の隙を見せないように表情を保ちながら返した。

「あらやだ。同士討ちだなんてとんでもない。これは我が家特有のコミュニケーションよ。そうよね、(すみれ)お姉様?」

「うん、そうそう~」

「だから――空気の読めない外野は引っ込んでろ♪」

 少々言葉遣いが荒くなったものの、彼女は悪びれることもなく、平然とした顔で貫く。だけど、こちらも気圧されず、“いつも”のように対応する。

「なんと! この未来のビッグスターを外野扱いにするとは、嗚呼、なんて嘆かわしい! だけど、だからこそ燃えル! さあ、共に主役の座を奪い合おうじゃないカ!」

 彼のミュージカル役者を彷彿させる喋り方に、相手は困惑を隠せずにはいられなかった。『なんだこいつ頭おかしいじゃないの?』的な目で見られても、その手の攻撃は彼には無効だ。
 周囲の白い目と比べたら、これくらい、彼にとっては大したものではない。麗夏(れいか)嬢は彼に向き直り、負けじと笑みを浮かべる。

「あらぁ、もしかして聞こえなかったかしらぁ? これは華小路(はなこうじ)家に関することよ。庶民が富豪(我々)の土壇場に上がるんじゃねえぞ、と言っているのよ? それとも、それすら分からない程のおバカさんっていうことかしら、坊や?」

「いえいえ、私のことを幾ら罵っていただいても構いませんが――」

 亮は自虐的に笑い、目を伏せる。
 だけど次に頭を上げた時には、その童顔から笑顔が消えていた。

「――姫がこうして貴女方の前に立っているのは、彼女が闘病してきた尊い証。勝手に亡き者にするのは、その努力を蔑ろにするのと意味すること。取り消せ、彼女への侮辱を」

 いつもの明るい声色とは真逆の、酷く沈んだ声。
 彼の赤瞳にはとっくに笑みが消えていて、静かに怒りの炎を燃やしている。普段笑顔の彼がここまで怒りを露わにしたのは初めてで、その変化に相手の二人は勿論、雅代(まさよ)と姫までもが吃驚。

 そこで、みおが壁の後ろから身を出した。
 恐怖のあまり、目を閉じて手足が震えあがっているけど、それでも彼女は懸命に言葉を絞り出す。

「そ、そうだ! お姉ちゃんを悪く言うの、めーだ!」

 みおの声でハッとなった雅代(まさよ)は、彼女の後を続くように畳み掛ける。

「ここは華小路邸ではございません。ここは高山中央病院の中であり、そしてお嬢様はここで療養中の患者の一人に過ぎません。ですので、屋敷のピーチクパーチクをこのような公共の場に持ち込まないでいただきたい。どうか、お引き取りを」

 華小路(はなこうじ)家とは全く関係のない赤の他人(一般人)が姫を庇う。そのこと自体が非常に驚くべきことはずなのに、麗夏(れいか)嬢はただ値踏みするような目付きで、二人を眺め回すだけ。
 重い沈黙を経て、彼女が「ふーん」と鼻を鳴らした。

「お友達が増えてよかったね、一姫(かずき)。行きましょう、(すみれ)お姉様」

 二人が7階から離れたのを確認して、重荷を下ろしたようなため息が雅代(まさよ)の口から漏れた。
 それとほぼ同時に、みおは姫に抱きつく。まるで「大丈夫だよ」と慰めるように、姫が優しく小さな頭を撫でると、

「……怖がらせちゃったね。ごめんね」

 みおは「ううん」と彼女のお腹に顔を埋める。そのまま泣くかと思いきや、みおは少し手を緩めて見上げてきた。

「みおは平気だよ。だって、お姉ちゃんの方こそ、みおよりもずっと怖い思いをしてたもん。だから、これは慰めのぎゅー」

 更に腕に力が込められるのを感じながらも、みおの発言に驚く姫。これまでに幾度もみおの鋭さにドキッとさせられ、その都度感心させられてきた。
 何が思うところがあってか、姫はふと撫でる手を止めて顔を上げる。すると、清々した顔付きの亮が視界の中に入ってきた。

「いやぁー。皆さん、よくやりましたね! 初めての共闘にしては上々だ! これからも引き続き鬼退治を続きましょうぞ! フハァーハハハ!」

「失礼な人ですね。ああでも一応、お嬢様でございますよ?」

 雅代(まさよ)は「それよりも」と前置きして、姫に向き直る。

「申し訳ございません、お嬢様。ワタクシめの不注意であの者どもの侵入を許してしまいました。どうか、お赦しを」

「……いいよ。雅代(まさよ)のせいではないし。それに、勝手に転がり込んできたの、お姉様たちの方だしね」

 それを聞いて、雅代(まさよ)はホッと胸を撫で下ろした。
 先程の二人の様子から見るに、雅代(まさよ)の不在を狙って嫌がらせを仕掛けてきたと考えられる。確かに、彼女が一時傍を離れたのが遠因になったとしても、責められるいわれはない。

「て、そっちの方がよっぽど失礼ではないカ! それに、雅代(まさよ)さんの『ピーチクパーチク』、中々冴えてますよ。よっ、未来のお笑い芸人!」

「失敬な。ワタシは、いつだって真面目でございます。あれは、単に本心が漏れただけでございます」

「おっとと、本心でしたか。それなら……尚更、コンビを組もうぜ! 私たち『リョウ&マサヨ』なら、お笑い業界で天下一を取るのも夢ではないゾ!」

 雅代(まさよ)は戯言に呆れたと言わんばかりの吐息を落とし、たちまち反論する。いつもの光景だ。

「どうやら下郎の耳は耳クソ――失礼、耳垢で詰まっているのようですね。今度、妹さんに会ったらそのように提案させていただきます」

「そこは『どうかワタシに亮様のお耳掃除させてください!』って流れじゃあありませんか」
 
「あら、触りたい人に触ってもらえればいいだけの話ではございませんこと?」

「おふ、厳しィイイイ!」

 なんだかんだ言って、二人の言い合い(コント)も定番になりつつある。おかげで、どんよりとした空気がいつの間にか晴天のように一点の曇りがなくなった。
 二人を眺めているうちに姫が、自分はいつの間にかこの空気に助けられていたのだ、と気付かされた。

 死はいつ自分の元に訪れるのかは分からない。7階の死神だって例外ではない。
――だったら、生きている()のうちにちゃんと伝えなきゃ。
 その思いに突き動かされたかのように、細い唇が震えながらも開けられた。

「……みんな」

 姫の呼びかけに、三人は同時に彼女の方を振り向く。
 しかし、いざ伝えようとした途端、思いのほか恥ずかしさが彼女の胸中に押し寄せてきて、暫く「えっと、その、あの」と口ごもってしまった。

「……あ、ありがとね」

 三人は予想外のお礼に驚いた表情を浮かべつつも、すぐに満面の笑みで返した。
 二人の来訪者を撃退して暫く経った、そんなある日。姫とみおに会いに行く前に、亮はある人の元へと訪れた。
 赤瞳が捉えたのは、痩身長躯の五十代半ばの女性。化粧の跡はなく、白髪混じりの黒のショートがより一層清々しく見える。しなやかな深褐色の双眸が一瞬亮を認識したものの、すぐに視界から外れた。亮はすかさず、彼女の前に回り込む。

「ちょっとお時間をいただいてもよろしいでしょうか、マドモアゼル」

「よくもまあ、恥ずかしげもなくそんな言葉を口にできますね。お嬢さんの年齢をとうに超えたこのババアに」

「だって、私にとって、全女性はマドモアゼルですからネ! キラーン☆」

 自虐も通じない相手の前に彼女は重い息を落とし、話を催促すると、

「それで? 用事はなんですか?」

「ああ、そう警戒しないでください。もし貴女がこの話に乗ったら、いいものが見れますよ」

「ふむ。それは、アタシにとっての“いいもの”になりますか?」

「うーん。それを判断するのが貴女次第ですよ、マドモアゼル」

 思いのほか彼の話に興味津々な自分がいることに気付いた。
 彼女は暫く言葉をためらい、信用できる男かどうか値踏みすると、どうぞとばかりに笑顔を維持する亮。

 彼女がこの病院に働いてから早二十年が経ったが、辺境が故に娯楽も少ない。無論、彼が起こした数々の問題は、彼女の耳にも入っていた。
 しかし、こうして件の問題児と対話を重ねてみたところ、噂ほどの頭おかしな患者ではないことが判った。むしろ、敢えてピエロを演じているような、そんな気もした。
――実に面白い男だ。
 彼女自身でも知らないうちに、口角が少し上がっていた。

「いいでしょう。聞くだけ聞きます」
 亮が中年女性と掛け合ってから二日後、談話室にゲーム機が実装された。
 最新機種の据え置きのゲーム機の前で亮とみおが大はしゃぎしている隣に、7階唯一の患者である姫は何が起きたのか全く分からず、キョトンとした。実際、彼女はゲームおろか、ゲーム機を見るすら今回が初めてで。嬉しさより戸惑いの方が勝ったのだろう。

 三人の手にコントローラーが行き渡って、みおのチョイスでレーシングゲームを遊ぶことに。
 そして、試合開始てから約二分が経った頃、談話室内は様々な声が飛び交っていた。

 「うおおおお。うおおおお」とエンジン音の真似をしながら、ゲーム内の車が曲がる方向に身体を傾くみお。その隣で姫は操作に不慣れながらも順調に進んでいる、が。姫の右隣、亮だけが目をかっぴらいていて画面を凝視。

「うおおおお、行け! 進め、進むんだ、カミカゼ号! お前はここで怖気づくような車ではないはずだ!」

 いくら彼がゲーム内の車にエールを送り続けても、スタート地点から一歩も動いていないようでは最早試合にすらならない。「……お先」と共に、彼の車体を追い越す姫のを見て、亮はビックリして大袈裟にのけ反った。

「っな?! そんなバカな! 一体、どうなってるんだ……! ッ、そうか! 分かったぞ! 二人は私のコントローラーに何かを仕掛けたということか! なんて卑怯なッ! 
 しかぁーしッ! この試練を乗り越えてこそ、一流のエンターテーナーになるしょ――」

「……コントローラーを傾くばかりでボタンを押していないからなのでは」

「あ、ほんとだああぁぁ! お前は神か! 否、姫ダッ! 行くぞッ、我が相棒、カミカゼ号ぉぉ! 
 前方ヨーシ! 後方ヨーシ! 右も左もヨォーシ! 発車ッ!!」

 姫はふふふ、と小さく笑い出し、ゲームに戻った。
 そんな三人の様子をドア付近から眺める中年女性が一人。雅代(まさよ)が彼女に近付いて「お久しぶりです、看護師長さん」と挨拶する。

「滅多にこちらに来ない貴女が姿を現しただなんて、一体、どういう風の吹き回しですか?」

「やれやれ、その減らず口は相変わらずですね、華小路(はなこうじ)家のメイド長さん。これでもあの子の担当ですからね。時々様子を見に来ないと」

「時々、ね……」

 看護師長の顔を見ながら、嫌味たっぷりの挑発口調で呟いた。
 実際、当初の頃、彼女は『姫の担当看護師』という役柄を利用して、今の地位につこうとした。だけど、その目論見は当の姫に見破られてから、罪悪感で病室に訪れる頻度も少なくなったが。そのことに雅代(まさよ)は今でも根に持っていることを、無論彼女は知っていた。
 知っていた上で、ここに戻ってきたのだ。少年との約束を果たすために。
 看護師長はもう一度三人に目を向けて、安堵の笑みが深まった。

「『実にいいものを見せてもらいました』、とそう彼に伝えてくれませんか?」

「かしこまりました」

 雅代(まさよ)に見送られる中、彼女は音を立てずにドアを開け、去り際にもう一度振り返る。
 深褐色の瞳孔に映る姫の顔には、かつての面影はほとんど見られなかった。
 三人がプレイした途中でみおの担当看護師が迎えに来た。ご両親がお見舞いに来たとのことゲームは一旦中止。姫はちょっと休憩したいと席から立ち上がったそばから、亮は別のゲームを起動した。

「お、何これ。めちゃくちゃ面白そうじゃないカ! 姫、次はこれをやりましょう!」

 彼が提案したのは、いわゆるサバイバルホラーゲームというやつだ。
 ゾンビが蔓延る屋敷の中に閉じ込められた主人公は、生き残るためにゾンビから逃げ回りつつ、世界の秘密を追求するといったミステリー要素を含んだ典型的なホラーゲーム。
 しかし、姫は物心ついた頃からこのような娯楽品に触れる機会がほとんどなかったため、彼が面白いと言った理由に共感できず、首を傾げるのみ。

 難易度を選択する画面でこれがソロー用のゲームだと知り、亮に操作を任せて、自分は隣で見ることとなった。姫はチラッと雅代(まさよ)の方を見ると、

「…………」

 特にこれといった仕草を見せなかったので、視線を画面へ。彼女は何か新しいことをやり始める際には必ず雅代(まさよ)から許可を取っていた。だから、そんな彼女がオーケーを出した以上、姫は大丈夫だろうと判断した。
 それが裏目に出たと分かったのは、ゲームが開始してから約三分が経った頃。

「いやあああああああああああ!! こっち来んなあああああ!!!」

「……」

「……ヨシ、今のうち…! やった、取れた! うぉおんぎゃあああああああ!! 待ち伏せえええええ!!! 聞いてないぞおおおおお!!!!」

「……」

「うわっ、あれをどうやって……。ええい、食らえ! 必殺、至近距離狙撃(スーパー・チカイ・スナイプ・ショット)!(※初期武器の拳銃なので必殺技がありません。そもそも設計上に必殺技なんて存在しません)
 ぅぎゃああああ、バレたああああああああ!!!」

「……」
 
 まだ序盤でしかないのに、すっかりクライマックスを迎えたかのような、室内には手汗が握るようなドキドキと緊張感が漂っている。いや、最高潮に達していると言っても過言ではないだろう。

 絶叫しまくる亮と、その隣で終始無言の姫。
 彼女は時折ビクッとしたりはしたけど、表情は依然として『無』のままだ。傍から見れば、彼女が珍プレーのオンパレードに内心で呆れているだろうと容易く推測できる。それ程までに、碧瞳は完全に死んでいるのだ。


 その一例を挙げるとすれば、以下のようになる。
 パニックの余りにうっかり初期武器を捨てしまったり、ゾンビ―を撃ったりせずマジマジと観察した結果、逆に襲われて食べられてしまったり。安全地帯であるセーフルームから雑魚敵を散々煽ったのに、いざボスの敵地に乗り込むとヒイヒイ喚いたり。
 切り抜き動画にしたら、大人気の配信者にも劣らないほど、どれも笑いを取れるシーンばかりだ。それなのに、隣の姫から笑い声が一切聞こえない。しかし彼は気を留めず、次々と披露していく。
 そう、彼自身もまた自分がプロデュースした茶番劇(ショー)に酔い痴れているのだ。

――それにしても、この組み合わせも段々見慣れてきましたね。
 雅代(まさよ)はそう思いつつも、二人の様子を見守る。密かに姫の新鮮な反応を見たくて亮のゲームチョイスに黙認したとは言え、目当ての光景を見ることができず、心中ではかなりガッカリしている様子。

 それから二時間後、木村さんはいつものように彼を迎えに来た。二人は彼らを見送り、談話室に戻る。姫がゲームを終了させた後、雅代(まさよ)は背中越しに質問を投げかけた。

「もうお部屋に戻られます?」

 しかし、その問いに答えが返ってくることはなかった。ふと姫を見やると、いつの間にか前に立たれていて内心でドキッとした。

「……ちょっと胸を借りてもいい?」

「Cのパイパイでもよろしければ、いくらでも差し上げます」

 だけど、変態じみた発言に姫は返事をせず、そのまま華奢な腰に腕を回して、雅代(まさよ)の胸に顔を埋める。

「どど、どうかなさいましたか、お嬢様」

 そう尋ねる雅代(まさよ)の声は冷静そのものではあるが、内心ではカオス状態。

――これは一体どういうことでございましょう。お嬢様からのハグ。いや、お嬢様がそうしてくるはずが。でも嗚呼、お嬢様からのハグ。ハグはハグしていて実にハグハグしているでございますね。お美事(みごと)

 久しぶりに最愛の主人に甘えられて、雅代は内心で大興奮したが、すぐにブレーキを掛けた。
 彼女の中で『メイドとしてのやるべきこと』と『長年涸渇していた萌えタンクの補充』を天秤に掛けたが、今更そんなことをしても何の意味を持つはずもなかった。
 何故なら姫に抱き締められた時点で既に昔のオタク感覚が呼び覚まされて、圧倒的に私欲の方に傾いたからだ。

 この至福の一時を一秒でも長く堪能しよう。雅代がそう思った矢先に、その後にやってくる啜り泣きにハッとなり、少しばかりの冷静を取り戻した。

「……こここここ、怖かったよぉ雅代(まさよ)ぉぉ」

 けれど、僅かな冷静も姫の甘えた泣き声の前では霞んでしまう。

「……雅代(まさよ)、あれは本当に創作ものなの。どうして人間はこんな怖いものを作れたの。奴らが一斉に襲い掛かってくるだなんて聞いてないよぉ。まさか、本当に実在したりとかないよね。グロいし気味が悪いし、もう見るだけでゾクゾクするし……。ううぅ、ゾンビ怖いよぉ……」

 その声は、雅代(まさよ)の心にクリティカルヒット。姫の泣く姿に萌えている中で、彼女は先程の姫の様子を思い返して、ようやく理解した。

 どうやら姫は取り乱している人が身近にいると冷静になるタイプで。おまけに、グロ描写が多く、ホラーに耐性が皆無の彼女にとっては致命的だ。
 先程の彼女は恐怖のあまりに硬直しただけで、感じないわけではなかった。それが分かっただけで更に愛着が湧いたのはいいものの、この状況をどう受け止めたらいいのか、依然として不明瞭のまま。
 抱き返すのがメイドとして最適解なんだろうけど、雅代は内心で「ありがとうございます、神様」と連発するだけで、他に何かをする余力はもう残っていなかったらしい。

「……ぐずっ、本当に怖かったよぉ」

「グハッ」

 姫の涕泣は本物になってきたと同時に、雅代の心のHPが0になりそうだった。萌えすぎたあまりに、大好きな姫(最推しの子)尊死(とうとし)される寸前になった。
 自分自身を暴走させまいとして、雅代は一切姫の身体に触れず、夢のようなシチュエーションを満喫しつつ、主人が落ち着くのを待つだけだった。


 翌日、雅代(まさよ)からはホラゲー禁止令を下され、亮は不平不満を垂れながらも渋々と従った。しかし、ストーリーの続きが気になる姫にとって、それはある意味致命的である。
 ホラーゲーム禁止令から暫く経ったある日、三人はいつものように他愛ない話をしながら図書室に向かっている。
 ふと、姫は窓の方を見て、呟くように言う。

「……今日はなんだか肌寒いね」

「ええー、まだまだ暖かい方だよぉ~。だよね、お兄ちゃん」

「いやっ、姫が肌寒いと言ったら、寒いに違いナァーイ! 例え暖かろうが寒むかろうが関係ない! 私がそう判断したッ!」

「でも、暖かいと言えばぁ~?」

「ハイ、アタタカイデス」

 しょんぼりする亮にみおは「あはは、お兄ちゃん変なのぉ~」と軽く受け流した。談笑を続ける二人とは知らずに、会話の内容にビックリしたのは一人。

「――――ッ」

 長いことに発作が起きなかったから、油断した。この冷気は奇病の前兆であることを、すっかり姫の頭から抜け落ちたようだ。
 いつしか、彼女は身体を強張らせて細い息を繰り返していた。
 まるで、訪れる痛みに備えるように。

「……ご、ごめん。ちょっと急用を思い出したので、これで」

 二人には自分の苦しむ姿を見せまいと彼らから顔ごと背き、慌てて去って行った。これまで姫が唐突に彼らの元から離れたことはあったが、こんな必死なのは初めてだ。
 おかしいと思った二人は、同時に顔を見合わせた。

「お姉ちゃん、どうしちゃったんだろう……」

「気になるなら……後を追ってみようカ!」

「うん!」

 大きく頷くみおに亮は満足気に笑うと、こっそりと姫の後を追った。彼女が消えた角に曲がって、すぐに壁の陰に隠れる。
 視界の中に姫と雅代(まさよ)の姿を捉えると、ウキウキしながら身を乗り出したが、想像とはかけ離れた光景が目前で展開されていることに愕然。

「――――え」

 雅代(まさよ)に抱きかかえられた姫の棒のような白い腕。無力にぶら下がっていたそれからは枝の模様が広がっていく。しかし、それだけに留まらず、まるで彼女の痩身に寄生した植物かのように、まだ成長を遂げて葉っぱや棘まで生やしている。
 まるでファンタジー小説の世界から飛び出したかのような、神秘的で不気味な、そんなワンシーン。
 その様子はよりにもよって、姫が一番見せたくない相手に目撃されてしまった。

「お、姉ちゃん……?」

「ッ! 貴方たち……」

 一瞬、黒の双眸が見開かれたがすぐに冷静を取り戻した。
 「申し訳ございませんが、お嬢様が最優先でございますのでこれにて失礼します」との一言で現場を去る雅代(まさよ)
 残された二人は、ただぼんやりと見送ることしかできなかった。







 時刻は午後3時。
 亮とみおは静まり返った廊下をとぼとぼ進み、談話室のドアに辿り着いた。
 普段ならみおの方が率先して扉を開けるが、今はどこか気後れしている様子だ。その代わりに、亮がゆっくりと開けた。
 事情が事情なだけに、いつも浮かれて入室する亮でさえ、今回は『心配』という二文字が顔に刻み込まれていたのは明白だ。

 ドアが開けられて、窓側の二人もこちらに目礼する。気まずさもあってか、亮とみおはどこかソワソワしながら二人に接近。

「お姉ちゃん……」

「……なんか、ごめんね。二人にみっともないところを見せちゃって」

「ううん、お姉ちゃんが無事ならいいよ」

「……そうか」

 そう姫が返すと、みおは彼女にひしっと抱きつく。その仕草は、慰めるためのものというより、「みおたちから離れないよね?」と問い掛けているのようにも見えた。まるで「大丈夫だよ」と返すように、ポンポンと小さな背中を擦る姫。
 その一連を、亮はただ黙って見るだけ。

 憔悴した様子ではあるが、悲壮感が消えている。
 かと言って明るくなったわけでも、憑き物が落ちたわけでもない。ただ単にこれ以上隠すのは疲れたといった感じだ。
 この様子なら、もしかしたら教えてくれるかもしれない。そう思って、亮は意を決して姫の名を呼んだ。

「私は姫のことをもっと知りたい。だから、姫の病気のことを教えてくれないか?」

 雅代(まさよ)は一切の躊躇いを見せず、「申し訳ございませんが下郎、こればかりは」と拒絶しようとするも、当の本人に「いい」と遮られた。

「お嬢様……」

「……いいの。隠すつもりはなかったし。何より、これ以上心配させたくないしね」

 姫は微苦笑と共に、椅子の背もたれに寄りかかる。発作で暴れた後だからなのか、その声はやや掠れた感じになっていた。

「……でも、まだ疲れてるから。雅代(まさよ)、代わりに説明をお願いできる?」

 雅代は唇をぎゅっと結び、「かしこまりました」と姫に一礼をし、真剣な眼差しを亮とみおの方に向ける。

「では、お話しましょう。お嬢様しかかかっていない奇病――薔薇紋病(ばらもんびょう)のことを」

 けれど、その話題を切り出した彼女の顔は、どこか苦しげだった。
 『お嬢様しかかかっていない奇病』。
 そのセリフは誇張でも何でもなく、事実である。世界中を探し回っても、この謎の病気に侵されていたのはただ姫一人のみ。

「原因は未だに不明で、現在の技術でも治療するのが極めて困難とされています」

「うーん? ええと、つまり……?」

「お嬢様が回復するのは、とてもとても難しいでございますよ」

「え、そんな……」

 みおは思わず姫の方を見たが、当の本人がその事実を肯定するように苦笑い。
 いくら姫の家はお金持ちであっても、治療法が確立していないようでは、治すようがない。こればかりはお金の力で解決できるほど、単純な話ではないのだ。

「まさか、研究する人は一人もいないと言うのでは……」

「残念ながら、その可能性も捨て切れないのが現状でございます。そもそも、お嬢様は最初からここに入院していませんでした」

「あ、そうなんですね」

「最初は某有名な大学病院に一年間入院しましたが、当時の研究者の頭がバカになったのか、それとも単純に責務放棄したのか。
 いずれにしても、『何の成果を得られませんでした』が帰ってきましたので。それで経過観察のためにこの病院に」

 当時の状況を思い出すだけで嫌な気持ちになったかのように、眉をしかめる雅代。話を聞いて納得した亮の隣でみおは小首を捻った。
 子供にとっては難しい話ではあるが、それでも真面目に話を聞いている辺り、彼女は本心から姫のことを心配していると見受けられる。

――しかし経過観察のためとは言え、幾らなんでも7年間はあまりにも酷すぎる。他人の8年間を無駄にしたという罪悪感がないのか。
 そう思って、亮は眉間に皺を寄せた。

――全く無関心になったのか、それとも姫を放置していたのには他に理由があるのか……。
 一つの疑惑が彼の脳裏に浮かび上がると、どうしてもそれを振り払うことはできず、直接本人に確かめることにした。

「だったら、どうしてその研究チームに折り返しの電話をしないの? ほら、例えば『おいコラ、研究はまだ進んでねえのか! あん?!』と催促すればいいだけですので。もしやりたくないようでしたら、代わりに私がやりましょうか?」

「お兄ちゃん、らんぼぉ~」

「失敬な。勿論、ちゃんとしましたよ。だけど、その研究チームは分家とつなが――あ」

 雅代(まさよ)はうっかり情報を漏らしたが、姫はそれを咎めることはなく、ただ静かに聞いていた。だけど、例えそれがわざとではなかったにせよ、その行動自体が亮への信頼の証とも言えよう。
 彼女の妙な発言にみおは不思議がっているが、亮は心底で納得した。

 その研究チームは姫の失脚を画策していた分家と繋がっていたのなら、目的のために彼女を治療しない方が賢明だ。むしろ、その近道にはなるだろう。
 これは、亮が先日の彼女と麗夏(れいか)嬢の会話から分析して得た結論だ。

「失礼しました。では、貴方たちが見た模様について説明しますね」

「うーん。確か……つた?のような模様がお姉ちゃんの腕に広がっていったよね、お兄ちゃん」

「そうだね。でも今思い返せば、あれは蔦というより、枝というか……」

「……主幹よ」

 亮とみおは姫の言葉をオウム返しに言うと、雅代(まさよ)が説明を入れてくれた。

「お嬢様の言葉を理解するには、まず、薔薇紋(ばらもん)病についてもっと詳しく知る必要がございます。薔薇紋(ばらもん)病は文字通り、薔薇が開花するまでの様子が模様として浮かび上がる病気でございます」

 主幹、花枝、花柄、棘、小葉、がく、蕾といった順番で、まるでアザのように赤黒く皮膚の上に現れる。そして、蕾の先端に薔薇の花びらが完全に揃った瞬間に、その者に痛みが浴びせられるのが、発作の一連の流れ。
 この発作の前兆として、まるで「これから発作が起きるよ」と知らせるかのように、冷気がその者の身に忍び寄る。
 しかし、この発作は気まぐれな性質で不定期に起こるため、その予測は難しい。一日おきに発作が起きることもあれば、丸々一ヶ月間が経っても起きないこともある。

 今回の発作は前回から三週間も経過してから起きたもの。
 長い間隔もあって、姫が発作のことを完全に忘れてしまうほど、三人との時間がとても楽しかったと言えるだろう。
 だけど、この病気にはもう一つ厄介な特徴があった。

「お嬢様の身に痛みが浴びせられますが……その程度は日によっては違っていたりします。例えるなら、そうですね……」

「……軽い麻痺みたいな日もあれば、全身が焼け鉄杭に貫かれるような激痛の日もあるわね。まあ、意識が持っていかれそうな時の方が多いけど」

 雅代(まさよ)が言葉に詰まっているところで姫が助け舟を出した。だけど、その他人事のような言葉が二人を悲しませるのには十二分だ。

「そんな。どうしてモルヒネを……! まさか……」

「……察しがいいわね。だけど、亮が思ってることじゃないよ。単純に、私がそうしたいと思ったからそうしてもらっただけ。別に他意はないわ」

 姫がそう答えたが、それが嘘だってことくらい、亮は知っている。しかし、それをみおの前で暴くのはまた別だ。
 自分が拳を握り締めていたことに気付いた彼は、ゆっくりと手を緩め、笑顔を作り直した。

「うーん? お兄ちゃん、モルヒネはなぁ~に?」

「痛み止めでございますよ、みお様」

「あっ、分かった! 痛み止めって、痛みがぷしゅーとなくなるやつだ!」

「ええ、その通りでございます」

 雅代(まさよ)がそう頷いてみせると、みおの顔に笑顔の花が咲かせた。その満面の笑みが見れて、雅代(まさよ)もニッコリ。
 みおの飾り気のない天真爛漫な性格が亮の中にある不安を幾分和らげた。しかし、軽くなった空気を無視するように、姫は更に語り続ける。

「……時々、自分の身体を爪でえぐりたくなるけど、今でもそれが抑えられているのは、間違いなく雅代(まさよ)のおかげよ。だから、いつもありがとうね、雅代(まさよ)

「いいえ、滅相もございません。お嬢様のお世話、偏にお下のお世話をするのがワタクシめの務めでございますので」

「……うん、とりあえず黙ろうね」

 いきなり下ネタをねじ込む雅代(まさよ)を制止すると、「至極残念でございます」が返ってきて、思わず呆れて笑う。
 姫自身も気付いていないけれど、ここ最近、彼女は色んな表情ができるようになってきている。無論、他の三人はとっくに気付いていたが、その変化に心の底から喜んでいるだろう。

 ふと、みおは自分の手を姫のに重ねてきた。なんだろう、と彼女がみおに振り向くと、

「お姉ちゃん、一緒に頑張ろうね!」

「ええ」

 その言に小さく頷き、重なったみおの手にもう片方の手を重ねる。小さく笑い合う二人の様子に、他の二人もほっこりとした顔をした。
 説明している際に終始辛そうな顔をする雅代のことも気掛かりではあるが、今はこのほっこりとした空気に浸っていたい。
 眼前の光景に目を細めながら、亮は二つの疑問を喉奥に押し戻した。
 それから五日後。
 姫が「偶に本を読んでもいいじゃない?」という提案の元で、一同は図書室にやってきた。普段は数独をやるために図書室に訪れていたため、『図書室は本を読むためにある場所』という常識を亮はすっかり忘れていたようだ。
 彼が本選びに悩んでいる際に、みおは一冊を抱えてとことこと姫の元へ。

「お姉ちゃん、これを読んで読んでぇ~」

 姫が渡された本に目を落とすと、碧眼に微笑を浮かばせた。どんな本なのか気になって、亮は姫の肩越しに覗いては「お、いいね」と漏らす。
 二人の表情から、青い海と広がる夏の空が描かれた表紙が、二人の心にほんのりと懐かしさを呼び起こしたと見受けられる。

「是非とも、姫の美声で読んでいただきたい!」

「……はいはい」

 姫が苦笑交じりに言う。さり気なく亮も聞くことになったが、彼女は無粋なツッコミをせず、絵本の読み聞かせを始めた。
 一通り読み終えた頃、みおは頭を上げてこう尋ねる。

「ねえねえ、海ってどんな感じなのぉ~?」

 どうやって説明しようと悩んでいる姫の代わりに、亮はパッと両腕を広げた。

「水がいっっっぱいあるところで、一言では表せないような素敵な場所デスヨ!」

「……それだと、ほぼ説明になってないのでは」

「ええ~! じゃあ、海はすっごく大きいところなのぉ~?」

「イエス☆」

「すごぉぉぉい!」

 目を輝かせるみおとは対照的に、まさかあんな抽象的な説明だけで伝わったと露程思わず、姫は苦笑い。けれど、次にその口から零れ出たのは、小さなため息だった。

「みおも海、行きたいなぁ~」

 ポツリと落とされたささやかな願いを叶えてあげたい。姫はちらっと亮の方を見ると、丁度目が合った。
 きっと彼も同じことを考えている。
 そう確信した彼女はみおにバレないように、彼と小さく頷き合った。
 その日、二人はみおと別れてから行動に移した。
 運転とその他諸々は雅代(まさよ)に任せることになったとしても、肝心の外出許可が下りなければ何の意味も成さない。そのために、姫は看護師長室に足を運んだ。

「……失礼します。あの、外出届が欲しい……ですけど」

 予想外の来訪に、看護師長はビックリ。
 この7年間、姫からこちらに出向いたことは一切なかった。その上に、自分の人生を投げ出したと思っていた患者がいきなり外出届が欲しいと言ってきたもんだ。
 驚かないわけがない。彼女の成長を見ることができて嬉しい一方、自分が彼女の成長過程に傍にいられなかったことに悲しみすら覚えた。

 一般の患者なら医師の許可が必要だが、残念ながら現在の彼女には医師が付いていない。そのため、その許可は担当看護師である看護師長に一任されることになった。
 だから彼女は、本人さえ申請すれば許可を出すつもりでいた。あっさりと外出届をもらえて少し拍子抜けた姫の様子を見て、安堵の笑みが零れた。
 だけど悟られないように、すぐにいつもの仏頂面に戻る。記入された外出届をざっと目を通して、看護師長はこくり。

「はい、これで終わりです。もう戻っても結構ですよ」

 彼女の素っ気ない態度に姫は微妙な緊張感を抱きつつも礼を言い、部屋を後にする。謎の安堵感に包まれる中、ドアノブに手を伸ばし扉を閉める。
 それが完全に閉まろうとした時、

「気を付けて行ってらっしゃい」

「……え」
 
 聞いたこともないような優しい声音に反応するもドアの存在が返事の妨げになってしまい。完全にタイミングを逃した姫はそのまま談話室に戻っていった。

 






 同時にその頃、スタッフステーションで外出届を記入している亮の傍らに、木村(きむら)さんが事情を聞き出すことになった。

「そっか。みおちゃんのため、か……」

 一通り事情を聞いた後、彼女はどこか感慨深げに呟き、目を細める。
 当初の頃、亮がスタッフステーションを通る度に必ず冗談を交えて挨拶するため、多くの看護師に嫌われていた。
 しかし、最近になってそれが緩和されたのは、実は彼が案外いい人だということに気付いた看護師が多数いるからだ。その中には木村(きむら)さんが含まれているのは、言わずもがなのこと。

 最初は亮のことをただの頭おかしな患者だと思っていたが、彼と共に過ごして、徐々に彼の人となりをある程度知ることができた。
 そして今回、彼が実際に他人のために行動している姿を目の当たりにすると、彼に対する印象がより一層好転したことにも納得がいく。
 そう。亮の人柄を知っていたからこそ、今こうして目前でウキウキしながら記入する彼の姿を見ると、言いづらいこともある。

「だけど、みおちゃん担当の先生が、許可しないかもしれないよ?」

「ええー。そんなの、聞いてみないと分からないものじゃあありませんカ!」

「そりゃまあ、そうだけど……」

 木村(きむら)さんが歯切れ悪く答えてから、二人の間には短い沈黙が訪れた。

「……もし、外出できるのは鶴喜クンと姫さんだけだとしたら?」

「その時はその時さ」

 はい、と共に外出届が手渡され、目を落とす。
 彼女自身も気付かぬうちに表情が沈んでいた。しかし、マイナス思考の螺旋に陥るよりも前に彼の「でも」が聞こえて、すぐに頭の片隅に追いやった。

「ハッ、そうか! ひ、姫と二人きりでででで、デートゥができるのカ! ぐっふっふっふ、やはり綾乃(あやの)さんはやらしいぅ~発想の天才ですなぁ~」

「うん。とりあえず鶴喜クンの中で、アタシがどんな印象なのかがよぉーく分かったよっ」

「はいたたた、はいたたたたたっ。いひなりだなんで、わはっでまふねぇ」

 木村(きむら)さんが亮の頬をつねると、笑いが起こって慌てて手を引っ込めた。だけど、その笑いは冷やかすものではなく、和やかなものだと知るには数分間かかる。
 そして、彼女自身もまた、この小さくて温かな輪に助けられていたのだと気付くには、更なる時間が必要だった。
 
「……そうね。早く彼女を連れてってあげないとね」

 そう言った時の木村(きむら)さんの表情は、紛れもなく笑顔だ。だけど、その微笑にはほんのりと切なさそうな影がさしているように見えなくもなかった。
 その後、亮は彼女にみおの担当者に関する情報を教えてもらい、みおの代わりに掛け合った。だけど木村(きむら)さんの予想とは裏腹に、翌日になってみおの許可が意外にもあっさりと下りた。
 そして、いよいよ待ちに待った日がやってきた。普段の淡白な病人服から脱却し、三人は私服姿で海に到着。
 無論、普通の車椅子だと砂浜の上で漕げないから、彼が暴れ出すよりも先に雅代(まさよ)が彼を確保し、現場で砂浜用車椅子を借りて乗り換える。
 しかし一人の力だけでは彼を抑えるには到底叶わず、姫とみおも彼女を手伝った。乗り換えることに成功して、一緒に閑散とした浜辺を歩く。

「すごぉーい。海なのに静かだね、お姉ちゃん」

「……もう秋だからね」

「冬になったらどうなるの?」

「……更に人が来ないんじゃない? それこそ、夏でもない限りは」

「へえー、そうなんだぁ~」

 みおは姫と繋いだ手を軽く振り回しつつ、感心する。
 実際に海に来たことがあるのなら、このような質問をしないはず。だとすれば、今回はみおにとって初めての海になるだろう。けれど、こんな人気のない海がみおの初めてになるのは少し不憫だと、姫は感じた。

――もし季節が夏で、服も私服ではなく水着だったら、もうちょっと雰囲気あるのに。
 姫は静かに揺れる波間に目を向けて、小さく息をついた。
 『万が一があったらすぐに病院に戻る』という条件で外出した以上、できればこれ以上のリスクを冒したくない。だから、このような形に落ち着いたけれど、やはりどこか物足りなさを感じてしまう。
 しんみりとなった姫の背中に気付いたや否や、亮は一際明るい声で静けさを破る。

「ヨシ! 追いかけっこをしようか、みおちゃん!」

「下郎貴様、ただワタシにリベンジしたいだけなのでは」

「ピンポンピンポ~ン! だーいせいかぁーい! さすが雅代(まさよ)さん、今日も冴えてますなぁ~。いてッ」

 雅代(まさよ)にぺちっと頭を叩かれ、反動で前のめりになった亮。少し大袈裟っぽく演出するように、彼は後頭部を押さえつつ座り直す。
 亮が言った『リベンジ』というのは、彼を確保した際に『姫とみお』という彼にとって効き目があり過ぎる防衛ラインを雅代(まさよ)が張ったとのこと。
 当時、彼を逃すまいと二人は両腕を伸ばした。そして、見事に術中に嵌った亮は「参りましタ!」と降参したおかげで、あっさりと彼を捕獲ならぬ、確保できたというわけだ。その腹いせに雅代(まさよ)に復讐したくなるのにも頷ける。

「全く、このワタシを辱めたいという魂胆が丸見えでございますね。全力で断っていただきます」

「ええ~、マイターお姉ちゃんも一緒に遊ぼうよぉ~」

「僭越ながら、全力でお相手させていただきます、みお様」

 雅代(まさよ)から手のひら返しをされて気持ちを切り替えるように、亮はコホンと咳払い一つ。

「では、これより第一回――『姫の尻を頂く選手権』、スタートゥ!」

「……ちょ、ちょっと! どうしていきなり――」

 何故か謎の選手権が開催され、しかも自分の身体の部位が賭けられたことに焦り出す姫。しかし、その言葉は某メイドには効果抜群で、聞いた瞬間に彼女の両目がいつになく鋭くなった。

「なにッ?! お嬢様のお美御尻は誰にも渡さん! とぅ!」

「って、雅代(まさよ)さああぁぁーん! お忘れ物しましたよぉぉぉ! 私を忘れましたよおおぉぉぉぉー!」

 見事なスタートを切って自分を置いてけぼりにした雅代(まさよ)の背中に手を伸ばしても、空虚を掴むだけ。姫は雅代(まさよ)の姿を見て笑いながらも走り出すみおの小さな背を見送り、立ち尽くす。
 例え場所が違っても、この四人と居れば落ち込む暇なんてない。間近(特等席)で散々見てきたのに、ついつい昔の癖に戻ってしまう。
 思い悩むのもバカバカしくなって、姫は唇だけで失笑して彼の隣を追い越す。

「……自分のものは自分で守らないといけないから、お先ね」

「そんなッ!? 姫にまで見捨てられ?! ハッ、もしやこれはいわゆるあの有名な放置プレー的なアレか?! 即ち、これはごほぉぉービッ! うひょぉー、ありがとうございます、神様ぁ~!」

 その場で変なことを連発する亮を尻目に、姫は今度こそ声に出して笑った。いつの間にか彼女の心を占めている暗いものが晴れ、自分が“生きている”ことにより強く実感できる。
 潮の匂いで胸がいっぱいになり、心地良い風に頬を撫でられる中で、彼女は内心で「ありがとう」と言う。

 勝負は結局雅代(まさよ)の勝ちで終わったが、姫が嫌がるから話自体が無効になった。けれど、一方的に無効させられても勝者本人があまりに気にしていないのは、今まで散々美味しい思いをしてきたからだろう。