あの日(、、、)からちょうど一年たった今日、弘前公園の桜は満開になった。
 私は、一ヶ月半ぶりに高校の制服に袖を通す。ちょっと前まで毎日これを着て高校に行っていたのに、もう、コスプレになっちゃうんだね。苦笑いしながらも、着慣れたブレザーの感触にホッとした。
 そしてーー高校の卒業式でもらった筒を手に、弘前公園に向かう。走ったり、慌てたりせず、ゆっくり歩く。
 そして、桜のハートの下に来た。
 もし、ちゃんと成仏できているならそれでいい。でも、未練を残したあなたは、きっとまだここにいる。
 大学進学という目標を叶えた今なら、きっと会って、お別れができる気がするんだ。
 桜のハートをしばらく見つめ、少し目線を落とした瞬間、視界に学ラン姿の少年が入った。ちゃんと、全身透けてる。
 彼は、嬉しそうに私を見つめ、口を開いた。
「やよい」
 名前を呼ばれた心に、暖かな風が吹く。私は、桜太の目を見て言った。
「出会った日から、今日で一年だよ。覚えてる?」
 出会った日、って言い方も少し変だけどね。正確には、「再会した日」だ。
「忘れるわけねぇって」
 桜太はにっこりして言った。
「やよい、無事に大学受かったんだな」
「知ってるの?」
「ううん。大学に無事受かった、顔してるから」
「なにそれ。どんな顔?」
 私が笑うと、桜太も笑った。そして、私が手に持っている卒業証書入れの筒に気づき、首を傾げる。
「んで、なんだ、それ」
「ああ、これ。作ってきたの」
 私は、筒を開け、中から大きな紙を取り出す。広げて見せると、桜太は目を丸くした。
「やよい……それ」
 瞬きを繰り返す桜太。
「逆転の発想ってやつだよ。卒業式の日に桜が咲かないなら、桜が咲いてるときに卒業式をやればいいじゃん、って」
「それ、自分で作ったのか?」
「そうだよ。桜太の、この世界からの卒業証書」
 桜のつぼみが開き始めた頃から、私は一人で一生懸命これを作った。桜太用の、卒業証書。何度も私の背中を押してくれた桜太がこの世を卒業して、次の人生の入学式に向かえるように、心を込めて作ったんだ。
 桜太は、卒業証書を見ながらほうほう、とうなずく。
「なるほどなぁ。でも、俺、受け取れねえや。透けてるから」
「いいの。受け取ってる、ポーズだけしてよ。やるよ、卒業証書授与式」
 私が言うと、桜太は柔らかく笑いながら私と距離を縮めた。
 私は、書いた文字を読み上げる。
「卒業証書、船水桜太殿」
 桜太は、穏やかな笑みを浮かべたまま、まっすぐに私を見つめている。
「あなたの、この世界からの卒業を証する」
 私は卒業証書から目線を上げて、桜太を見た。
「あなたは、いつも優しかった。いつも私を助けてくれた。私も、あなたのことが好きだった」
 桜太の顔が、切なげに歪む。
「私も、初恋だった」
 ぶわっと強い風が吹いてハートが揺れ、門出を祝うように、桜の花びらが舞い落ちる。
 霊感のない私にもあなたの姿が見えたのは、それだけ、あなたのことが好きだったからだ。
「次の人生でも、その優しい笑顔で、たくさんの人に愛されてください」
 おめでとう、と言って証書を渡そうとしたそのとき、急に桜太が私とグッと距離を縮めた。その温もりを全身に感じて、思った。
 多分今、私、抱きしめられてるんだろうな。
「……本当は、気づいてた」
 桜太の声は、掠れていた。
「去年、桜が散った頃から、本当は思い出してた。自分の本当の名前も、俺の初恋の人はやよいだったってことも」
「そうだったの?」
「うん。でも、黙ってた。俺の初恋の人はやよいだった、なんて言ったら、やよいを混乱させて、もう会いに来てくれなくなると思ったから」
 私を包む桜太の熱が、もっと強くなった。
「そんなの、嫌だった。ずっと、会いに来てほしかった。成仏なんかできなくても、やよいと一緒にいられるならそれでいいと思った」
 どうしようもないくらい、切なさが込み上げる。私も、同じ気持ちだったよ。
「だけど、それじゃあダメだって気づいた。やよいには、未来があるから。大事な時間を、俺と一緒にいるよりも、自分の未来のために使ってほしかったから」
「ありがとう。心から、大事に思ってくれてたんだよね」
 私がそう言った瞬間、桜太の輪郭がぼやけた。桜のハートの場所から離れて透明になるときと、どこか違う。
「ああ――そろそろ、ほんとに、卒業だ」
 桜太は、自分の体を見て寂しそうに言う。分かっていたはずなのに、慌ててしまう。
 もう、成仏しちゃうの?
「ちょ、ちょっと待って。一つ、聞きたいことがある」
「ん?」
「あのさ……今まで、どこにいたの?」
 桜太は、優しい声で言った。
「今までもずっとここにいたよ。でも、やよいの前に現れたら、受験勉強頑張ってるやよいの気が散るんでねえか、って思って。だから、やよいが大学に入るまでは姿を透明にしておこうって思った」
「じゃあ、いることはいたんだ」
「うん。だからさ、秋頃に会いに来てくれたときも、やよいの言葉、全部聞こえてたよ。本当に、嬉しかった」
「……届いてたんだ」
 嬉しい。嬉しくて、涙が止まらない。
 泣きながら見上げる桜太の顔はどんどん透明になり、もう少しで本当に消えてしまうのがわかった。
「生まれ変わったら、また、やよいに会いに来るから」
「いいんだよ、そんな。もっと素敵な人、見つけなよ」
「なしてよ。俺は、やよいがいい」
「……ありがとう」
 溢れる涙を止めることはできないけど、それでも、精いっぱい口角を上げた。
 卒業式くらい、笑顔でいたいから。
「じゃあ、またな」
「うん。じゃあね」
 桜太の姿が春に溶ける最後の瞬間まで、目に焼きつけた。
 桜のハートの奥に見える空は、出会った日と同じように、水色に澄み渡っていた。