だけど、さきちゃんは全然納得いかないらしく、頭を掻きながら大声で叫んでいた。

「あーもう悔しいー!! どうして三子も置かせてもらってるのに勝てないの!?
 悪い手なんか全然打ってないつもりなのに、毎回いつの間にか形勢が悪くなってる! なんで!?」
「がっはっは、そりゃあ俺がさきちゃんよりもずっと強いからよ。そう簡単に負けてたまるかい」
 そんな様子に別のおじいさんが反応して、さきちゃんをフォローした。
「いやいや、さきちゃんのほうが勝つことだってあるだろう?
 てっちゃん相手に三子で勝ち負けの碁を打ってるってだけでも大したもんさ。
 俺たちじゃ、ほとんど誰も三子でてっちゃんには勝てないよ」
「それでも悔しいもんは悔しいの! 哲さん、もう一局お願いします!!」
 さきちゃんと哲さんは盤上の石をささっと片付けると、また初めから三子の碁を打ち始めた。
 打ち終えた碁を最初から並べ直して検討したほうが強くなる人もいるけど、さきちゃんの場合、そうやって対局を積み重ねたほうが強くなれるようだった。
 きっと彼女は頭の中で先程の碁の悪かった点を考えながら、次はああしよう、こうしようと工夫を凝らして打っているのだろう。
 哲さんもそれが分かっているので、さきちゃんが満足するまで付き合っているのだ。


 30分後。結局、今日は三局とも哲さんの勝ちだったらしい。……私も勝てなかった。一局しか打ってないけど。
 時刻はもう17時半前だった。碁会所は20時までやっているけれど、小学生の私たちにとってはもうタイムリミットだ。
 私はさきちゃんの腕を引っ張って「そろそろ帰ろうか」と誘った。
「あともう一局だけ! 一手10秒の早碁なら――」
 そんなことを言いながら、さきちゃんは奥の壁側の棚から対局時計を持ってきて弄り始めた。
 これはデジタル式の時計だから、持ち時間制だけじゃなくて一手10秒といった設定もできる。
 さきちゃんは元々早碁だから、あまり対局時計を使うこともないのだけど、こうやって駄々をこねるときだけ持ち出してくるのだ。
「こら、門限18時でしょ? いくら早碁でも打ってる暇ないって」
「そんなことないよ! 20分くらいで打ってダッシュで帰れば間に合うって!」
「おいおい、もし慌てて転んで怪我でもされちゃ親御さんに申し訳が立たねえよ。
 それにこの前も時間ギリギリで心配した親御さんが迎えに来ただろ?
 うちは基本的に年末年始以外は毎日やってるんだ。また明日リベンジしに来ればいいじゃねえか」
「むぅうううぅうう……」
 さきちゃんは唸っているけど、どうやら一応諦めてくれたらしい。
「まあ、そうは言っても、俺は県代表になったこともあるんだぜ。まだまだふたりには負けねえよ」
 その光景を見て千鶴子さんはカウンターから私たちのランドセルを持ってきてくれた。


「あらやだ。そんなの数十年も前の話でしょ。
 それに県代表って言っても田舎の茨城県よ。東京とは参加者の層の厚さが違うんだから」
「県代表は県代表だろうがい。俺ぁ嘘も誤魔化しもしてねぇぞ」
 ……ちなみに私の知る限りで補足すると、哲さんは前職では茨城県で個人タクシーの運転手さんをしていたらしい。
 哲さんはずっと仕事一筋の独身で、千鶴子さんは旦那さんを若くして亡くした未亡人だったそうだ。
 そんなふたりはお互いまだ30代だった頃に出会った。ある日、千鶴子さんはその亡くなった旦那さんの何回忌だかの法要のために哲さんのタクシーに乗り込んだのだ。
 そして、その用件を聞いた哲さんは運転しながら、千鶴子さんを不憫に思って話をしているうちに情が湧いてきて、その日以降も相談相手として連絡を取り合うようになったらしい。

 ……というのは正直なところ半分嘘だと思う。照れ臭そうに昔を懐かしむ哲さんの様子を見るに、おそらくは一目惚れしてナンパしたと言うほうが正確なのだろう。
 それから千鶴子さんとの交際を始めた哲さんはいいところを見せたかったのか、今まであまり参加したことのない囲碁大会に参加して見事県代表の座を勝ち取った、……という話はこれまでも何度か聞かされてきた。
 なんとも若々しい青春物語みたいなエピソードだ。
 そして哲さんは数十年経ってタクシーの運転手さんを引退したあと、東京都に引っ越してこの碁会所『竜神』を開いたのだという。


 閑話休題。
 私たちはランドセルを背負って、ガラス張りの扉の前まで進んで哲さんと千鶴子さんに向かってお辞儀をした。
「それじゃ、失礼します!」
「失礼しまーす! 哲さん、明日は勝つからねー!」
 さきちゃんはお辞儀のあとに、ぶんぶんと手を振って元気いっぱいだった。
 それに対して哲さんも大きな手を振って見送ってくれた。
「おう、またな!」
 通り抜けた扉の向こうから、そんな朗らかな声が聞こえた。
 新鮮な空気の味を感じながら振り返ったとき、哲さんがポロシャツの胸ポケットからタバコとライターを取り出していたのが、何故か印象的だった。



 ――それからさらに2年後。小学6年生の春、ついにさきちゃんは哲さんに互先で勝利した。
 その碁はさきちゃん好みの乱戦でお互いの大石が生きるか死ぬかの争いになっていた。
 そのとき私はたまたま他に対局相手がいなくて、初めから観戦していたけれど、どちらが優勢なのかは最後の数手になるまで分からなかった。
 ぱちり。さきちゃんの打つ石音が張り詰めた空気を震わせた。どうやらその手が決め手だったらしい。
 さきちゃんが哲さんの大石を殺し、同時にさきちゃんの大石は生きが確定したのだ。
 死ぬとか殺すとか、物騒な囲碁用語もその激しい戦いを見れば、決して誇張表現ではないと思った。
 碁笥の上に置かれた哲さんの大きな手がぷるぷると震え出した。やがて哲さんはぽつりと呟くように言った。

「まいった。俺の負けだ」
「………………え?」
 何が起きたか分からないといった様子で、さきちゃんはぽかんと口を開けていた。
 哲さんもそれから俯いて何も言わなくなってしまったから、代わりに私がさきちゃんに勝敗を告げた。
「さきちゃん、勝ったんだよ。あなたが、哲さんに、互先で!」
「ほ、本当に……? 夢じゃないよね……? 信じられない……!
 やったぁああああああぁぁああああ!!」
「うひゃあ!?」
 さきちゃんは大喜びで立ち上がり、その勢いのまま私に抱きついてきた。
 ……こういうときって抱きつくのは私のほうじゃないのかな。でも、ぎゅっと抱き締められて悪い気はしなかった。


「がーはっはっは!! まいった、まいった!!」
 哲さんは豪快に笑いながら、膨らみのあるお腹を叩いていた。
 さきちゃんの棋力が哲さんに追い付いたのが余程嬉しかったんだろう。
 そのまま立ち上がると私ごとさきちゃんを抱き抱えて、ぐるぐると振り回し始めた。
「うわあっ! なになに!? 目が回る~!!」
「ひぃやぁああああぁああ!!」
 私たちはふらふらになるまで振り回され、哲さんの気が済む頃にはすっかり目を回してしまっていた。
 それでも床に降ろすときはゆっくりと優しくしてくれた。
「ほれほれ、そのくらいで勘弁してやりなさいな」