私のような新人棋士が指導碁をしたって、人が集まるはずないだろうとは思っていたけれど、予想以上に誰も来なかった。
 イベントが始まってから30分、本当にただ座っているだけだった。
 見れば、茂美のほうも同様であった。……こんなことで、あんたと思いを共有したくはなかったわね。
 その一方で、数十メートル離れた席で指導碁をしているさきちゃんのほうは大盛況だ。
 対局コーナーで打っているお客さんたちでさえ、さきちゃんのほうをちらちらと見ている有様だ。
「ほっほう、ノゾキにつながず出の選択ですか。
 いい手ですねぇ、後藤さん。気合入ってます。それじゃあ、こちらも遠慮なく攻めさせていただいてっと。
 ……あ、サインですか? もちろんいいですよ! どうしましょう、お名前入れさせてもらったほうがいいですか?
 はいはい、それじゃあ鈴木さんへっと。……お、またまたいいところに打ちましたね、後藤さん。じゃあ、こう返したらどうします?
 あ、サイン希望の方は一列に並んでくださーい! お祭りの邪魔にならないよう、ご協力お願いしまーす!!」

 ……え、すご。あの子、指導碁打ちながらサイン会開いてるじゃない。
 なんなの、あの対応力。ふざけてるの? あいつのアイドル力には勝てる気しないわね。
 いや、私たちは棋士なんだから、別に碁盤の上で勝てればいいのだけれど――、


「あ、雨宮ッ!?」
「は、はいッ!?」
 突然、男の人に大声で名前を呼ばれた。そのうえ、見上げればすぐそこの距離でだ。
 と思ったら、その人は急にトーンダウンして呟くように続けた。
「――っ、しょ、初段……」
「あ、はい……。私は雨宮かさね初段ですが……」
 その男の人はどうやら、さきちゃんのほうの人だかりのほうから歩いてきたみたいだった。
 な、何かしら。知らない顔だけど、多分囲碁ファンの方よね。でなければ、私の名前を知ってるわけないし。
 でも、それにしてはやけに驚いたような顔をしているのが気になる。何よ、幽霊に会ったみたいな顔して。

 その声の主は、ちょっとスポーツ少年みたいな気が強そうな男の子だった。
 年齢は私と同じか、あるいは多くても3歳差くらいだろう。……って、あれ? 前にもこんなこと思ったことあるような???
 記憶の深淵を探ってみるが、どうにもすぐには思い出せそうにはなかった。

 いずれにしても、ちょっと怖い。急に大声出すし、見た目は結構いかついし……。
 でも、プロ棋士として、ちゃんと対応しないといけないわよね。……うん、笑顔笑顔。


「ええっと、指導碁希望の方、ですよね?
 どうもこんにちは。今空いてますので、どうぞ席におかけください」
「なるほど、イベントで指導碁をやってるのか……。
 あ、いや、俺はたまたま通りがかっただけですし……。
 それに受付とかも済ませてないんで、その、」
「今回のイベントでは参加費は無料なんです。受付も必要ありません。
 お急ぎでしたら無理にとは言いませんが、またとない機会だと思いますよ」
 実際、プロ棋士の指導碁が無料のイベントというのは結構珍しいと思う。
 その分、今回は町内会の人たちにお金をもらっているわけだけど、普通はそれでも有料だろう。
 だけど、私の勧めに対して、その男の人、――いや、男の子はなんでもないかのように言った。

「俺、関西棋院の元院生で、プロ棋士にも師事してたんで、プロとは数え切れないほど打ったことありますよ」
「あら、これは失礼しました。お会いしたことはないですよね?
 私は日本棋院の院生でしたし、それに――」
 プロ試験でも見たことがない。……と言いかけたけど、それは失礼になるかもしれないと思って口を噤んだ。
 『関西棋院の院生をやめたあと、日本棋院の外来予選を受けたが、本戦には進めなかった』という可能性もあったからだ。
 ただ、日本棋院と関西棋院は別組織であり、プロ試験の仕組みも全然別で、基本的には面識がなくても当然のことのはずだ。

 ……なのに、私はどうして、彼のことを見たことがあるような気がするのだろう。


「でも、いい機会ってのは確かですね。
 連れを待ってて暇なんで、一局お願いしてもいいですか?」
 彼はそう言いながら、私の目の前の席に座った。
「あ、はい……。分かりました。
 関西棋院の元院生なんですよね。それじゃ、二子置いてください」
 指導碁は基本的にはハンデありで打たれるものだ。
 とは言え、もし彼が院生のトップクラスだったのなら、正直なところ二子では厳しいかもしれない。
 でも、指導碁なのだからハンデをつけないわけにはいかない。だから、それは私としては当然の判断だったのだけど、
「互先じゃ駄目ですか?」と返された。
「す、すみません、あくまでこれは指導碁ですので……」
「じゃあ、間取って定先で。俺、置き石なしで黒が持ちたいんです」
 定先の対局とはつまり、先番の黒が盤上で有利であるにもかかわらず、後番の白に与えられるコミ6目半がないということだ。
 コミとは盤面での後番の不利を解消するためのものだ。それがないということは、現代の囲碁においては、確かにハンデ戦という扱いにはなる。

 定先か……。一瞬悩んだが、お客さんがそれを望むなら、私はそれに応えるべきなのかもしれない。
 それに彼の目はまるで真剣勝負に挑むかのように、熱がこもったものだった。
 しかし、何故だろう。その真剣な表情には、私への執着のようなものも感じる。……まさか私のファン? なんてね。


「そうですね、分かりました。
 正直なところ、私の力もプロになってまだ1年目ですし、ほとんど院生と変わらないくらいだと思います。
 院生クラスのお力があるなら、定先で行きましょうか。あ、それから、もしよろしければ、お名前を――」
「よろしくお願いします!」
「えっ、よ、よろしくお願いします!」
 その男の子は対局の挨拶をするなり、すぐさま一手目を打った。
 こちらの話をあまり聞いていないような気がするし、やっぱりちょっと怖い。
 でも、指導碁が始まったからにはそんな恐怖心なんてゴミ箱行きだ。
 個人的な感情に振り回されるようでは、一人前のプロ棋士だなんて言えない。気持ちを切り替えろ。


 彼の一手目は、右上隅小目。おそらくプロ棋士が最も好んで打つ一手だ。
 星よりも隅に近い分、地を作りやすいのがメリットだ。一方で、星よりも複雑な展開になりやすいのはデメリットとも言える。
 私はそれに対して、左下隅の星に打つ。すると、彼は左上隅の小目に打ってきた。いわゆる向かい小目というやつだ。
 プロの手合でもよく出てくるスピード重視の有力な布石だが、やはり複雑な展開になりやすい。
 対して私は右下隅の星に打つ。それから黒が右上隅に二間ジマリを打って、白が左上隅に一間高ガカリを仕掛ける。
 これに対し、ツケヒキ定石で進行し、白の私は黒の二間ジマリにケイマの手を打った。
 このツメが白にとっての絶好点だ。しかし、もちろん黒が悪いわけではなく、ここまでは五分の展開だ。

 ここで黒は左上隅白に対して、三々に入る。ダイレクト三々と呼ばれる、今ではもう珍しくないAI流の一手だ。