私はおばあさんに置いてもらったお茶菓子に手もつけず立ち上がり、さきちゃんのもとへと向かった。
「うーむ……」
「てっちゃんの番だよ」
「分かっとるわい。今考え中だ」
さきちゃんの背中に隠れておじいさんたちの表情を窺うと、とても真剣な顔つきをしていた。
特に「てっちゃん」と呼ばれたほうの恰幅のいいおじいさんは、眉間に皺を寄せて深く考え込んでいるようだった。
石を持つ手とは反対の、左手に掴まれたタバコは今にも灰が落ちそうだった。その手元の灰皿には吸い殻が溢れていた。
てっちゃん、てっちゃん……、私は先程の呼び名を頭の中で咀嚼してみる。
……哲っちゃん? 先程見た掛け軸の「梶原哲」とは、このおじいさんのことなんだろうか。
盤面を覗き見る。石の並びを見ると五目並べではなさそうだった。
五目並べなら中央に石が固まることが多いけど、私の目には黒石と白石が盤全体を彩る光景が飛び込んできた。
これがきっと私のおじいちゃんが言っていた囲碁というゲームなのだろう。
「このあたりの白石が不安定な感じがする。多分守りの一手が必要」
――その一言は突然だった。さきちゃんが盤面を指差しながら、そう言ったのだ。
真剣な顔つきをしていたおじいさんたちの表情は驚きに変わっていた。
私はその表情の変化をさきちゃんが対局の邪魔をしてしまったせいだと思い、慌てて代わりに謝ろうとした。
「す、すみませ――」
「お嬢ちゃん、囲碁が分かるのかい?」
私が謝罪の言葉を口にするよりも早く、哲さん(?)はさきちゃんに問いかけた。
その声色は穏やかで別に怒っているわけではなさそうだった。
むしろ私のおじいちゃんがお小遣いをくれるときみたいな、弾んだ調子すら感じた。
「ううん。ただ、なんとなくそんな気がしただけ」
さきちゃんはなんてことないように答えた。
私の知る限りでも、彼女はこの手の知的遊戯よりも身体を動かす競技のほうが得意なはずだ。
私の家で遊んだテレビゲームの落ち物パズルだって、私のほうが上手く連鎖できたから途中からハンデをあげていたくらいだ。
その代わりかけっこでは一度も勝てたことはないのだけど、とにかく彼女はそういう子だ。
だから、きっと本当に思ったことをそのまま口にしただけのことなのだ。だけど、おじいさんたちはそれが甚く気に入ったらしい。
「はっはっは! なんとなくか、そりゃあいい!
するってぇと何かい? お嬢ちゃんは天性の勘でこの局面の急所を言い当てたと?」
「おいおい、哲っちゃん。これじゃ岡目八目だよ」
「何を言うか。俺ぁ、言われなくてもこのあたりに打つつもりだったんだよ。
だがな、次の一手を打つには先の先まで読まねえと――」
おじいさんたちが何をそんなに騒いでいるのか、私にはよく分からなかった。
「岡目八目」というのも初めて聞いた言葉だ。さきちゃんの言葉が助言になっているということだろうか。
ひとつ分かるのは、どうやらさきちゃんが褒められているということだけだった。
……生憎当の本人もきょとんとした顔をしているだけなのだけど。
今にも「私、何かやっちゃいましたか?」とでも言い出しそうだ。
「ほれほれ、あんた。なぁにを子供の前ではしゃいどるんね。ふたりとも困っとるがね」
「千鶴子、そうは言うがな、もしかしたらこいつはダイヤの原石を掘り当てちまったかもしれねえぜ?」
「はいはい。ふたりとも、この人の言うことは話半分に聞いとけばいいからね。
それより雨はもう上がったよ。また降り出さんうちに帰りなさいな」
おばあさん、――千鶴子さんはそう言って私たちの帰宅を促した。
お茶菓子、まだ食べてないんだけど。袋物くらいは貰ってランドセルにしまっておこうか。
言われるがままに帰り支度をする私とさきちゃんに哲さんは石を打つような仕草をして誘いかけた。
「おい、お嬢さん方。家はすぐ近くなんだろう?
席料は要らねぇから、また今度学校帰りにでもここに来な。
この俺がみっちりと囲碁を一から教えてやるよ」
その誘いを冗談だと思ったのは私だけだったらしい。さきちゃんはその言葉に目を輝かせていた。
翌日、私たちは再びその雑居ビルへ向かうことになった。さきちゃんは駆け足気味に歩道を進んでいく。
……というか、行く約束なんてしてなかったのに、学校の帰りの時間になった瞬間、「それじゃあ行こうか」だもんなあ。
正直なところびっくりしちゃったけれど、引っ込み思案な私にはさきちゃんくらいの強引さが必要なのかもしれない。
だけど、油断していると置いていかれそうだ。私は必死にさきちゃんのあとを追いかけていた。
ときどき息が切れそうになってしまったけれど、そのたびにさきちゃんは振り向いて立ち止まってくれた。
そうして雑居ビルに到着し、コンクリートの階段を上って扉の前まで歩いていったあたりで、私はあることに気が付いた。
扉のガラスにも掛け軸と同じ「竜神」という文字が書かれていたのだ。おそらくこれが店名なのだろう。
さきちゃんは物怖じもせず、近くにいた私が風を感じるほど勢いよくその扉を開け放った。
「こんにちはー!」
「こ、こんにちは……」
「お、来たかい。お嬢さん方。
とりあえずこっちに来て座りな」
哲さんは昨日私たちが座った換気扇の近くの席で待ち構えていた。
「どうも、いらっしゃい」
私たちはランドセルをカウンターにいた千鶴子さんに預けると、言われるがままにパイプ椅子に腰かけた。
さきちゃんは哲さんと向き合うように、私はそのさきちゃんの隣に座る形になった。
「今日は晴れてよかったねえ」
千鶴子さんはそう言いながらカウンターのほうから出てきて、空の灰皿をどかして代わりにお茶とお茶菓子を置いてくれた。
「ありがとうございます!」
「ありがとうございます……」
よかった。今日はちゃんと「ありがとう」って言えた。あとはもう少し元気よく、かな。
「さてと、まずは自己紹介しねえとな。
俺はこの碁会所の席亭で梶原哲ってんだ。よろしくな、お嬢さん方」
「よろしくお願いします。……碁会所? 席亭?」
「つまりこの囲碁を打つお店の店長さんってことじゃないかな、さきちゃん」
「店長さんはよして欲しいがな。哲さんでいいぜ。
みんな俺のこたぁ下の名前で呼ぶしな」
私は言われるまでもなく、心の中で哲さんと呼んでいたのだけど、どうやらそれで間違いなかったらしい。
続けて私たちも哲さんに自己紹介をした。
「私の名前は早川さきです。小学2年生です。
趣味はゲームとドッジボールです。勉強は、……ちょっと苦手です。
あとは、ええっと……」
「それくらいでいいんじゃない? 私は雨宮かさねです。
さきちゃんと同じクラスに通う小学2年生です。
趣味は読書で、特に宮部みゆきさんや東野圭吾さんの作品が好きです。よろしくお願いします」
「ほう、そんな難しい本が読めるのかい」
「児童書用にも何冊か出てるので、それならなんとか……」
「そういう本ばっか読んでるから細かいことにも気付いちゃうんだよ。
「うーむ……」
「てっちゃんの番だよ」
「分かっとるわい。今考え中だ」
さきちゃんの背中に隠れておじいさんたちの表情を窺うと、とても真剣な顔つきをしていた。
特に「てっちゃん」と呼ばれたほうの恰幅のいいおじいさんは、眉間に皺を寄せて深く考え込んでいるようだった。
石を持つ手とは反対の、左手に掴まれたタバコは今にも灰が落ちそうだった。その手元の灰皿には吸い殻が溢れていた。
てっちゃん、てっちゃん……、私は先程の呼び名を頭の中で咀嚼してみる。
……哲っちゃん? 先程見た掛け軸の「梶原哲」とは、このおじいさんのことなんだろうか。
盤面を覗き見る。石の並びを見ると五目並べではなさそうだった。
五目並べなら中央に石が固まることが多いけど、私の目には黒石と白石が盤全体を彩る光景が飛び込んできた。
これがきっと私のおじいちゃんが言っていた囲碁というゲームなのだろう。
「このあたりの白石が不安定な感じがする。多分守りの一手が必要」
――その一言は突然だった。さきちゃんが盤面を指差しながら、そう言ったのだ。
真剣な顔つきをしていたおじいさんたちの表情は驚きに変わっていた。
私はその表情の変化をさきちゃんが対局の邪魔をしてしまったせいだと思い、慌てて代わりに謝ろうとした。
「す、すみませ――」
「お嬢ちゃん、囲碁が分かるのかい?」
私が謝罪の言葉を口にするよりも早く、哲さん(?)はさきちゃんに問いかけた。
その声色は穏やかで別に怒っているわけではなさそうだった。
むしろ私のおじいちゃんがお小遣いをくれるときみたいな、弾んだ調子すら感じた。
「ううん。ただ、なんとなくそんな気がしただけ」
さきちゃんはなんてことないように答えた。
私の知る限りでも、彼女はこの手の知的遊戯よりも身体を動かす競技のほうが得意なはずだ。
私の家で遊んだテレビゲームの落ち物パズルだって、私のほうが上手く連鎖できたから途中からハンデをあげていたくらいだ。
その代わりかけっこでは一度も勝てたことはないのだけど、とにかく彼女はそういう子だ。
だから、きっと本当に思ったことをそのまま口にしただけのことなのだ。だけど、おじいさんたちはそれが甚く気に入ったらしい。
「はっはっは! なんとなくか、そりゃあいい!
するってぇと何かい? お嬢ちゃんは天性の勘でこの局面の急所を言い当てたと?」
「おいおい、哲っちゃん。これじゃ岡目八目だよ」
「何を言うか。俺ぁ、言われなくてもこのあたりに打つつもりだったんだよ。
だがな、次の一手を打つには先の先まで読まねえと――」
おじいさんたちが何をそんなに騒いでいるのか、私にはよく分からなかった。
「岡目八目」というのも初めて聞いた言葉だ。さきちゃんの言葉が助言になっているということだろうか。
ひとつ分かるのは、どうやらさきちゃんが褒められているということだけだった。
……生憎当の本人もきょとんとした顔をしているだけなのだけど。
今にも「私、何かやっちゃいましたか?」とでも言い出しそうだ。
「ほれほれ、あんた。なぁにを子供の前ではしゃいどるんね。ふたりとも困っとるがね」
「千鶴子、そうは言うがな、もしかしたらこいつはダイヤの原石を掘り当てちまったかもしれねえぜ?」
「はいはい。ふたりとも、この人の言うことは話半分に聞いとけばいいからね。
それより雨はもう上がったよ。また降り出さんうちに帰りなさいな」
おばあさん、――千鶴子さんはそう言って私たちの帰宅を促した。
お茶菓子、まだ食べてないんだけど。袋物くらいは貰ってランドセルにしまっておこうか。
言われるがままに帰り支度をする私とさきちゃんに哲さんは石を打つような仕草をして誘いかけた。
「おい、お嬢さん方。家はすぐ近くなんだろう?
席料は要らねぇから、また今度学校帰りにでもここに来な。
この俺がみっちりと囲碁を一から教えてやるよ」
その誘いを冗談だと思ったのは私だけだったらしい。さきちゃんはその言葉に目を輝かせていた。
翌日、私たちは再びその雑居ビルへ向かうことになった。さきちゃんは駆け足気味に歩道を進んでいく。
……というか、行く約束なんてしてなかったのに、学校の帰りの時間になった瞬間、「それじゃあ行こうか」だもんなあ。
正直なところびっくりしちゃったけれど、引っ込み思案な私にはさきちゃんくらいの強引さが必要なのかもしれない。
だけど、油断していると置いていかれそうだ。私は必死にさきちゃんのあとを追いかけていた。
ときどき息が切れそうになってしまったけれど、そのたびにさきちゃんは振り向いて立ち止まってくれた。
そうして雑居ビルに到着し、コンクリートの階段を上って扉の前まで歩いていったあたりで、私はあることに気が付いた。
扉のガラスにも掛け軸と同じ「竜神」という文字が書かれていたのだ。おそらくこれが店名なのだろう。
さきちゃんは物怖じもせず、近くにいた私が風を感じるほど勢いよくその扉を開け放った。
「こんにちはー!」
「こ、こんにちは……」
「お、来たかい。お嬢さん方。
とりあえずこっちに来て座りな」
哲さんは昨日私たちが座った換気扇の近くの席で待ち構えていた。
「どうも、いらっしゃい」
私たちはランドセルをカウンターにいた千鶴子さんに預けると、言われるがままにパイプ椅子に腰かけた。
さきちゃんは哲さんと向き合うように、私はそのさきちゃんの隣に座る形になった。
「今日は晴れてよかったねえ」
千鶴子さんはそう言いながらカウンターのほうから出てきて、空の灰皿をどかして代わりにお茶とお茶菓子を置いてくれた。
「ありがとうございます!」
「ありがとうございます……」
よかった。今日はちゃんと「ありがとう」って言えた。あとはもう少し元気よく、かな。
「さてと、まずは自己紹介しねえとな。
俺はこの碁会所の席亭で梶原哲ってんだ。よろしくな、お嬢さん方」
「よろしくお願いします。……碁会所? 席亭?」
「つまりこの囲碁を打つお店の店長さんってことじゃないかな、さきちゃん」
「店長さんはよして欲しいがな。哲さんでいいぜ。
みんな俺のこたぁ下の名前で呼ぶしな」
私は言われるまでもなく、心の中で哲さんと呼んでいたのだけど、どうやらそれで間違いなかったらしい。
続けて私たちも哲さんに自己紹介をした。
「私の名前は早川さきです。小学2年生です。
趣味はゲームとドッジボールです。勉強は、……ちょっと苦手です。
あとは、ええっと……」
「それくらいでいいんじゃない? 私は雨宮かさねです。
さきちゃんと同じクラスに通う小学2年生です。
趣味は読書で、特に宮部みゆきさんや東野圭吾さんの作品が好きです。よろしくお願いします」
「ほう、そんな難しい本が読めるのかい」
「児童書用にも何冊か出てるので、それならなんとか……」
「そういう本ばっか読んでるから細かいことにも気付いちゃうんだよ。