週が明けた月曜日、朝から校舎の玄関先に生徒たちが人だかりを作っていた。みんなが一様に見つめる先には、学校行事などを知らせる掲示板があり、普段誰もが素通りするけど、今朝はみんなが興味を示しているようだった。

 野次馬根性は嫌いではない。興味本位で俺も流れに乗ることにした。

 けど、異変はすぐに表れた。何気なく交わす挨拶に冷たさを感じ、みんなの俺を見る目が明らかに先週までとは違っていた。普段から明るいつき合いは少ないとはいえ、それでも、非難めいた視線を浴びることは今までなかった。

 掲示板の前にいた女子たちが逃げるように去っていき、視界が一気に開けていく。と同時に、俺の目に飛び込んできたのは、信じがたい衝撃的なニュースだった。

『あの噂は本当か!? 生徒会長立候補者と監査委員長の謎の密会!! 目的は口封じか!?』

 見出しを飾る記事に、俺は声を失った。続く本文には、昨日、俺が鈴原とデパートで会っていたことが書かれていた。記事の下には、俺が鈴原から白い封筒を受け取るところの写真が添付されており、ご丁寧に、万引きについての口封じの瞬間だと説明書されていた。

 全身の血が一気に下がっていくのがわかった。寒気と目眩、そして耳鳴りがし始めたところで、急に肩を叩かれた。

「借りは返したからな」

 腹の底から嫌気が沸き上がる声にふりかえると、ニキビ面を醜くく歪めた高橋がいた。

「高橋」

 辛うじて声が出たけど、うまく言葉が続かなかったのは、勝ち誇った高橋の笑みから高橋の企みが読めたからだった。

「あいにくと俺には、婆さんはいないんだ」

 不快感しかない声が、俺の予想を裏付けていく。あの日、デパートSで出会ったのは偶然ではなかったということだった。

 ――俺を張り込んでいたのか

 高橋の様子からして、その結論に間違いなかった。あの日、高橋は俺を張り込みつつ、接触を図ってきた。そして、感じとったか、あるいは確信したのかもしれない。俺が監査とは別になにかを調査していることを。

「あの貼り紙は、お前の仕業か?」

 感情に任せ、高橋の胸ぐらを掴んだ。

「ご名答。ちょっとした好奇心からやったんだけど、まさかお前の所のちびがかかるとは思わなかったぜ。嬉しいことに、お前が突然監査に入るからよ、これは絶対になにかあると思って張り込むことにしたんだ」

「お前、活動停止中だろ」

「新聞部は関係ない。海老で鯛が釣れたんだ。個人的な活動ってことで、匿名で晒しただけだ。お前にとやかく言われる筋合いはない」

 高橋が俺の手を払い、歪んだ襟元を乱暴に直していく。

「だからといって、こんなでたらめが許されるわけが――」

「でたらめ? 誰がでたらめだと決めるんだ?」

 俺の言葉を遮り、高橋が顔を近づけて声を低くして呟いた。

 どす黒い淀んだ二つの瞳が俺を睨んでいた。その瞳は、嫌でも高橋の信念を物語っていた。

 ――嘘は多少の真実を織り混ぜて突き通す

 堪えきれない怒りで、握り拳が震えた。確かに俺が鈴原から白い封筒を受け取ったことは間違いない。中身はただの映画のチケットだ。けど、そんなことは記事にされていない。記事にされていないからこそ、スキャンダルとして話は尾びれをつけて広がってしまう。

「火消しは大変だろうが、頑張れよ」

 そう言い残して立ち去ろとした高橋の肩を、俺は無理矢理掴んで引き戻した。

「いつから気づいていた?」

「あ?」

「いつから鈴原が――」

 万引きしていることを知っていたのかと問い詰めようとしたけど、一瞬にして高橋の顔色が変わるのがわかった。泳ぐ瞳につられてふりかえると、無表情の鈴原がこちらに近いてきていた。

 なにか声をかけようとしたけど、鈴原の表情に圧倒されて声を出せなくなった。

 鈴原は無表情を装いながらも、大きく口元を歪ませていた。その口元からは、歯ぎしりが聞こえてきそうだった。全てを凍らせるような瞳は、冷たく高橋だけを見つめていた。

「ゲスが。思い知らせてやるから」

 感情のない冷たい声が高橋に突き刺さる。予想外の鈴原の態度に、俺はかける言葉を失ってしまった。

 さすがの高橋も鈴原の豹変には驚いたようで、口を開けたまま固まっていた。

 鈴原はすれ違いざまにそう呟いただけで、俺とは目を合わすことなく去っていった。その瞳には、これまで一度も見たことのない鈴原の怒りが見てとれた。

 重い空気だけが残った中、ようやく高橋が押し殺したような声を漏らした。

「俺は利用しただけだ」

「なにを言って――」

「最初に誰かが貼り紙したのを、そっくり真似て利用しただけなんだ」

 気落ちした声を残し、高橋は頭をかきながら離れていった。

 意味を上手く理解できなかった俺は、去っていく高橋の背中を見つめることしかできなかった。
 鈴原に対する万引きの疑惑と俺との密会に関する疑惑は、火にガソリンを投じたように噂となって爆発的に学校内を駆け巡った。

 おかげで、鈴原の後援に入っている原口の火消しも虚しく、昼休みにはほとんどの話題が鈴原のスキャンダルで染まっていた。時折、俺に対して遠回しに質問してくる奴もいたけど、それらは全て無言で返していた。

 居心地の悪さと聞こえてくる鈴原へのバッシングに耐えかねて、俺は授業をサボって監査委員会室に閉じ籠ることにした。

 穴だらけのソファに横になり、俺は自分の甘さを呪った。高橋とデパートで会った時に、もっと警戒しておくべきだった。活動停止に追い込んだとはいえ、高橋は人の弱みを弄ぶような奴だから、これまでのことを考えても単独で動く可能性は十分にあった。

 にもかかわらず、俺は高橋のことを甘く見ていた。そのことが、一呼吸する度に怒りとなってわき上がってくる。不甲斐なさを呪うことは簡単だけど、打開策を探るのは簡単にはいかなかった。

 大きくため息をつきながら、それでも打開策を思案する。鈴原を追い込んだしまったのは間違いなく俺のミスだ。迂闊に監査など入ったせいで招いた事態だからこそ、なんとかしなければならなかった。

 けど、その反面、この状況はまさに俺が望んでいたことでもあった。鈴原のことを考えれば、一刻も早く事実を指摘して立ち直る道を歩んでもらうべきだ。ということは、遅かれ早かれ鈴原を追い込むことになり、結果として今のような状況になっていたとしてもおかしくはなかった。

 頭を抱えながら、ぐるぐると頭の中を回る矛盾を追いかけた。鈴原を思えばこそ、事実をどう扱うべきかという答えにたどり着けなかった。

 それに、貼り紙の件がどうしても引っ掛かる。二回目の貼り紙は高橋の仕業だとして、一回目の貼り紙が誰によるのかは、まだはっきりとはわかっていなかった。

 考えれば考えるほど頭が重くなり、一時中断するために目を閉じた。一連の監査の中で、なにかを見落としているのは間違いなかった。その結果、答えにたどり着けてないでいることも自分ではわかっていた。

 微睡みがゆっくりと思考を鈍らせてくる。午後の授業が終わったことを告げるチャイムが鳴り響き、このまま寝てしまおうかと睡魔に意識を委ねようとした瞬間、教室のドアが静寂を破るように開いた。

「田辺先輩、大変です! 夏美ちゃんが、夏美ちゃんが――」

 開いたドアから姿を現したのは花菜だった。いつもの呑気な表情はなく、代わりに血の気が失せた表情から、緊急事態だとすぐにわかった。

「鈴原がどうしたんだ?」

 俺はとび起きると同時に、花菜のもとに詰め寄った。

「屋上にいるんです」

「屋上?」

 嫌な予感がした。微かに震えている花菜の体から、最悪な事態を予想した。

 息を整えながら次の言葉をつなげようとした花菜を置いて、俺は走り出した。

 ――まさか、いや、そんなはずは

 脳裏に里沙の姿が浮かんだ。追い詰められた里沙がたどり着いた先は屋上だった。

 ――鈴原に限って

 飛びおりるなど考えられなかった。けど、その予感が跳ね上がる心音と共に膨らんでいくのを抑えられなかった。

 状況は違うけど、鈴原も里沙と似た状態だ。鈴原が今朝のことで追い詰められているとしたら、里沙と同じ道を歩んだとしてもおかしくはなかった。

 廊下を走り抜け、教室棟に続く渡り廊下へ出る。騒ぎに気づいた生徒たちが既に人だかりとなり、屋上を見上げたまま道を塞いでいた。

 群衆の視線をたどって屋上を見上げると、転落防止用のフェンスを越えた先に鈴原が立っていた。その鈴原を説得するかのように、数名の先生と生徒会長の原口がなにかを話していた。

 ――くそ!

 怒りが一気にわき上がってきた。今朝の様子からは、追い込まれているとはいえ自殺するようには思えなかった。

 けど、それは間違いだった。高橋に冷たい視線と冷酷な言葉を浴びせた時には、既に限界にきていたのかもしれない。そして、鈴原は一人になってさとったのだろう。このまま生徒会長になれなかったら、千春に会うことはできないという幻想の答えに。

 人だかりを押し退けながら無理矢理前へと進んでいく。けど、生徒で埋め尽くされた廊下は思うように前へ進めなかった。

 最短距離を諦め、迂回路を探した。怒りと恐怖が混ざった感情が、体の芯を突き抜けていくのを感じた。

 ――里沙

 焦りが、最悪な結果を脳裏に過らせた。屋上に立つ鈴原の姿が、一瞬、里沙に見えた気がした。

 呼吸がうまくできなかった。視界がぼやけ、強烈な耳鳴りが襲ってきた。水の中を走っているかのように、うまく動かない体を無理矢理ひねって今来た道を戻ろうとした時だった。

 耳鳴りよりも更に甲高い悲鳴が、鼓膜を突き抜けていった。反射的に屋上へ視線を向けると、そこには鈴原の姿はなく、代わりにフェンスを掴んだままの先生や原口の姿があった。

 強い目眩と頭痛が襲ってきた。

 よろけながら、廊下の窓から顔を出した。

 周りが一斉に下を見るのに合わせ、俺も力なく地面に目を向けた。

 桜の枝が不自然に折れていた。その無惨な姿をした桜の木の下に、うつ伏せのまま動かない鈴原がいた。

 二度目の悲鳴の後、全てが凍りついたように物音が消えていった。
 鈴原が屋上から飛びおりたことは、みんなの間に大きな衝撃を与えた。すぐに救急車で運ばれた鈴原は、結果的には命に別状はなかった。それどころか、桜の枝がクッション代わりになり、打撲だけで済んだのはまさに奇跡といってよかった。

 鈴原が飛びおりた理由は、高橋が公開したスキャンダルに対する抗議だった。身に覚えのない事実によって陥れられるくらいなら、飛びおりたほうがましだと先生や原口に訴えていたという。

 この事実が公表されたことで、選挙の状況は再び一変した。スキャンダルを公開した高橋に対して、生徒たちは一斉に非難を浴びせた。高橋としても、真実を正確に伝えたわけではないことと、自分のせいで誰かが死にかけたということもあって、非難を受け入れながら、スキャンダルについては口を閉ざすことになった。

 投票日である水曜日の今日、予想外に鈴原が登校してきた。まだ入院の必要があるはずなのに、何事もなかったかのように笑顔をふりまく鈴原に、誰もが対応に困りながらも飛びおりたことについては話題にしなかった。

 午後の授業が終わると同時に、俺は屋上へと向かった。間もなく投票結果が出る頃だろう。本来なら俺が立ち合う必要があったけど、どうにも気分がのらなかったため、花菜に丸投げしていた。

 屋上に出ると、晴れ渡った青空に視界を奪われた。心地よい風を頬に受けながら、俺は鈴原が飛び降りた地点に向かった。

 フェンス越しだと地上はあまり見渡せないけど、それでも位置関係はある程度把握できた。中庭には大きな桜の木があり、その横には、トタンでできた屋根付きの水飲み場がある。向かいには、今いる教室棟よりも一階分高い特別教室棟が見えた。

 フェンスに手をかけたところで、誰かが近づいてくる気配がした。ふりかえると、少しだけ口を開けた花菜が、ぎこちない歩みで俺のそばに寄ってきた。

「結果は出た?」

「はい、夏美ちゃんに決まりました。獲得票は七割超えでしたよ」

 俺の問いに、花菜はちょっと戸惑い気味に答えた。

「スキャンダルがありましたから、どうなるかって思ってました。だから、ちょっと意外なんです」

 花菜の正直な感想に、俺は目を細めて笑った。

「鈴原は、逆転する為にここから飛びおりたんだ」

「え? どういうことですか?」

 花菜は更に口を開けて俺の隣に並んだ。

「ここから飛びおりたら、すぐに桜の枝があるよな? それをクッション代わりにして水飲み場の屋根に落ちれば、この高さだとしても助かる可能性は高いと思わないか?」

「確かに、そう言われるとそうかもしれません。でも――」

 花菜は小さな体をフェンスに押し付けて、背伸びしながら下を覗き始めた。

 結果として屋根に落ちることはなかったけど、代わりに幾つもの枝が絡んだおかげで大事には至らなかった。

「狙ってやったと思う。自殺するふりをして、鈴原は悲劇のヒロインを演じた。そうすることで、高橋に非難を集中させてスキャンダルを一蹴した」

 俺の説明に、花菜は何度も下を見ながら、曖昧に相づちを打った。

「まさに命がけだ。そして、問題はそこにある」

「問題、ですか?」

「花菜は助かる可能性があるとして、ここから飛びおりることができるか?」

 俺の問いに、花菜は驚いた後大げさに手を振った。

「俺も無理だと思う。いくら助かる可能性があるとしても、下手したら命を落としかねないからな。けど、鈴原は迷うことなく実際に飛びおりた」

 俺は説明しながら、フェンス越しに見える折れた桜の枝を見つめた。

「命をかけてでも、千春に会いたかったんだろうな」

「え? 千春ちゃんがどうかしたんですか?」

 俺のひとり言に反応した花菜に、俺は曖昧に笑って誤魔化した。花菜には鈴原の事情は話していないから、鈴原の行動の真意はわからないかもしれない。

「やっぱりお前だったか」

 背後から声をかけられ、ふりむいた先には書類を手にした原口が立っていた。

「まさか、お前まで飛びおりるつもりじゃないよな?」

 原口の冗談に、俺は鼻で笑いながら差し出された書類を手にした。

 書類には、これまでの選挙活動の概要と、当選者である鈴原の名前が載っていた。その下に原口の署名があり、後は俺が署名すれば全ての作業が完了することになる。

 鈴原を止める手段を考えてみたけど、もう止める方法は思いつかなかった。スキャンダルを封じるために命がけで屋上から飛びおりるほど、鈴原には千春の姿しか見えてないと思えたからだ。

 生徒会長になれば千春と再会できる。例えそれが幻想だとしても、もう鈴原を説得して止めることは不可能だった。

 おそらく、幻想の先に待っている現実という絶望に直面することになる鈴原は、結果的にはまたここに来ることになるかもしれない。ただし今度は、助かる可能性など考えることはないだろう。

 その歩みを止める術を持てなかったことが悔しかった。また里沙を失うことになりそうな気がして、言葉にできない苛立ちが署名の為に手にしたペンを激しく震わせた。

 ――なにもかも手遅れなんだろうな

 そんな絶望の淵に追いやられた瞬間だった。

 花菜と雑談していた原口の発した言葉に、俺は頭の中でなにかが閃くのを感じた。

「今、なんて言った?」

 俺は花菜と話していた原口に詰め寄った。

「え? ああ、鈴原のことだよ。屋上にいるって聞いて駆けつけたんだけどさ、鬼みたいな形相してたから、最初は鈴原だって気づかなかったんだ」

 不思議そうな顔をしながら、原口が花菜に話していた内容を繰り返してくれた。

 一瞬、頭の中に火花が散るような閃光が再び走った。抑えきれない震えが、全身を駆け巡っていく。俺はゆっくりと深呼吸しながら、原口の言葉を頭の中で繰り返した。


 何度目かの反芻の後、頭の中に鈴原の情報が写真のスライドショーのように広がっていった。

 コスプレしていた鈴原。

 コスプレせずに絵を描いていた鈴原。

 万引きをしていたのは――。

 頭の中に、日曜日のフードコートでのやり取りが再現された。その中で、鈴原の白いバックは畳んで置かれていた。ということは、鈴原が万引きするのはコスプレしている時だけではないだろうか。

 ――だとしたら?

 いくつかの仮説が重なり合い、やがて一つの可能性を導きだした。と同時に、「助けて」と呟く里沙の顔が浮かんできた。

 助けてと呟いた里沙の真意は、まさにSOSだった。

 ――SOS?

 その言葉が頭の中で弾けた瞬間、たどり着いた仮説が色濃く真実味を帯びた。


「悪いけど、署名をする前に確かめたいことができた」

 鈴原を止める可能性を見つけ出した俺は、金魚のように口をパクパクさせている島田に書類を突き返して校舎内へと走り出した。
 鈴原陣営へと向かう途中の渡り廊下で、鈴原と出会った。どうやら結果が待ちきれないらしく、様子を見るために一人で生徒会室へ向かっていたようだ。

「監査委員長さん、結果は出ましたか?」

 俺の顔を見るなり、鈴原は歩みを速めて近寄ってきた。その表情は、当選を確信して勝ち誇っているようにも見えた。

「結果は出たけど、ちょっと問題がある」

「問題、ですか?」

 満面の笑みだった鈴原の顔が、一瞬で凍りつくのがわかった。

「ああ、当選者の素行に問題があるから、俺としては署名に応じることができない」

「どういう意味?」

 鈴原の顔から完全に笑みが消えた。大きめの瞳が、俺を刺すように冷たい光を放ち始めた。

「まさか、あんなデマ、信じるつもりですか?」

 鈴原の歯ぎしりが聞こえた後、底冷えするような低い声が続いた。

「日曜日のフードコートで会った時、俺は言ったよな? ある人の瞳を追いかけてきたと。実は、その人も万引き依存症に陥っていた」

 万引きという言葉に、鈴原の眉間に僅かにしわが寄った。

「張り紙どおり、夜のデパートで万引きしているところを目撃した」

 なにか言いかけた鈴原を遮るように、俺は一気に核心をついた。

 微かに口を開けたまま固まる鈴原だったけど、開け放たれた窓から吹き込む風にさらされた髪を一撫ですると、再び勝ち誇ったような微笑みを口元に浮かべた。

「だとして、誰が信じるんですか? 私はスキャンダルのおかげで飛びおりた悲劇のヒロインですよ。誰が今さらスキャンダルをむし返すというのですか?」

 鈴原はそう呟くと、口に手を当てたまま声を上げて笑いだした。

「やっぱり、スキャンダルを封じるために飛びおりたんだな?」

「正解です。これから千春に会うというのに、自殺するほど馬鹿ではありませんよ」

「そうかな?」

 笑い転げそうな勢いの鈴原に、俺は語気を強めた。鈴原は一瞬体を震わせた後、無表情に切り替わった顔を俺に向けてきた。

「あの貼り紙、やったのはお前だろ?」

 俺は鈴原を睨みつけながら、声を殺して唸るように告げた。

「な、なにを言って――」

 完璧なガードを張っていた鈴原が、初めて動揺した声を漏らした。強気に光っていた瞳に、微かな濁りが生じたのを俺は見逃さなかった。

「日曜日に会った時、お前はコスプレしていなかったし、万引きもしていなかった。けど、夜のデパートでコスプレしていたお前は、確かに万引きしていた」

 語気を更に強めた俺の問いに、鈴原の視線が泳ぎ始めた。

「だとしたら、あの貼り紙はお前にしか作れない。そうだよな?」

「どうして言いきれるんですか?」

「簡単だよ。コスプレ姿のお前を、誰が見破れたのかということを考えれば、貼り紙をした奴はわかるからな。俺が知る限り、コスプレしたお前の姿を見破れた奴は、俺以外には誰もいない。だとすれば、あの貼り紙に書いてあった内容は、俺以外は誰も書くことはできないはずだ。なのに、あの貼り紙には正確にお前のことが書いてあった」

 一度言葉を区切り、鈴原の様子を確かめてみる。白い手先には震えが見え、瞳には微かに涙が見えた。

「誰も書けないはずの貼り紙。でも、お前なら自分のことだから書けるよな? ということは、あの貼り紙を作ったのは、お前以外には考えられないということだ」

 俺は鈴原を真っ直ぐ見据えたまま、感情を抑えて真相をぶつけた。

 最初に貼られた貼り紙は、鈴原本人の仕業だった。鈴原のコスプレ姿を見破れた者がいない以上、結論は本人以外にはありえないからだ。

「SOSだったんだろ?」

 しばらくの沈黙の後、俺はゆっくりと鈴原に声をかけた。

 俺が立てた仮説。それは、里沙が苦しくて発した「助けて」というSOSと、鈴原がした貼り紙は同じ意味ではないかということだった。

 里沙は、万引きをかばって欲しくて「助けて」と言った訳ではなかった。自分の現状が苦しくて発した、本当の助けを求めるSOSだった。

 鈴原は万引きした後、川に盗品を捨てて泣き崩れていた。あの姿こそ、鈴原の本心を表す姿だと俺は確信していた。

「さすが、監査委員長さんですね」

 鈴原の瞳から一筋の涙が零れ落ちた後、緊張が解けるかのように表情が柔らかくなっていった。そして、なにかを決心するかのように大きく頷いた後、夕陽を受けて煌めく大きな黒い瞳を俺に向けてきた。

「最初に万引きに手を出したのは、千春が亡くなった後でした」

 ゆっくりとした掠れがかった声だけど、はっきりとした意思を感じさせながら、鈴原が語りだした。

 千春が亡くなった後、鈴原は千春のようになると決心した。いつも迷惑ばかりかけていたから、千春が心配しなくていいように、なんでも一人でできるようにあらゆる努力を重ねてきた。

 けど、その努力は鈴原にとって大きなストレスとなった。突然千春がいなくなったことの喪失感と、限界を超えて努力を積み重ねていく中で、鈴原はいつしか万引きに手を出すようになった。

「理由はよくわかりません。でも、最初に万引きした時に感じた、脳を突き抜けるような高揚感が、辛いことを忘れさせてくれたんです」

 その後、一旦は万引きを止めた鈴原だったけど、再び手を出すようになった。それが貼り紙にあった内容のことだという。

「夜のデパートで、私は一人でコスプレするようになりました。そこで、話した通りモニターの中に千春の姿を見つけました」

 鈴原の声が、僅かに震え出した。

「私、千春と約束してたんです。私が一人でなんでもできるようになったら、千春に迷惑かけることがなくなったら、二人で一緒に世界を旅して回ろうって。色んな所を二人で見て回って、いつまでも一緒にいようねって、約束していたんです。だから、だから私、千春がモニターに現れたのは、私が一人でなんでもできるようになったから、約束を果たす為に会いに来てくれたんだと思ったんです」

 鈴原は両手で顔を覆いながら、絞り出すように声をつなげた。

「でもそれは、本当はあり得ないことなんですよね?」

 嗚咽が漏れた後、顔を上げた鈴原が無理矢理笑みを浮かべながら呟いた。

「千春に会えたことは、とても嬉しかったんです。でも、それとは別に、そんなことはあり得ないと思う自分もいました。千春と会話しながら、頭の中で否定する声が聞こえてました。でも、私は千春の存在が幻だってことを認めたくありませんでした。だから、頭の中の声を消したくて、それで、あの突き抜けるような高揚感を利用してしまいました」

 鈴原の言葉に、あの夜の光景が脳裏に浮かんだ。感情のない表情で万引きしていた鈴原は、あの時懸命に自分の声に抗っていたということだった。

「効果は思った通りでした。あの、物を盗む瞬間に感じる高揚感だけが、否定する声を消してくれました。それからは、もう自分では止めることができなくなって、気がつくと私のバックには万引きした商品が溢れるようになってました」

 その結果、帰り道の途中で我に返った鈴原は、盗品だらけのバックに驚き、川に捨てるのが日課になっていたという。

 懸命に涙を拭う鈴原の姿に、里沙の面影が重なっていく。盗品を泣きながら捨てていた里沙もまた、自分ではもうどうしようもなくなっていた。

 鈴原も同じだった。頭の中で繰り返し葛藤し続けた結果、万引きに救いを求めてしまったというわけだ。

「私、千春にもう一度会いたかったんです。千春と約束した通り、私は千春のようになりました。だから、一人でなんでもできるようになった私を見て欲しかったんです。夏美、頑張ったんだねって、一言言ってもらうだけでよかったんです」

 鈴原の嗚咽が叫びに変わろうとしていた。震えを通り越してよろけだした鈴原を、俺は黙って胸に抱き寄せた。

「会いたいんです」

 鈴原は俺の胸に顔を埋めると、両手で俺のシャツを握りしめた。

「千春、約束したよね? 私が一人でなんでもできるようになったら、一緒に世界を旅しようって。ねえ千春、私、一人でなんでもできるようになったんだよ? 女王って呼ばれるようにまでなったんだよ。でも、千春がいないと意味ないじゃん。ずっと一緒だって、また明日って約束したのに、次の日にはいないなんてあんまりじゃない!」

 鈴原の嗚咽混じりの叫びが、濁流のように迫ってきた。

 千春は帰宅途中に事故で亡くなっている。それは、鈴原にとってはあまりにも突然のことだった。また明日と約束した親友が、翌日から永遠に会えなくなったという事実を、鈴原は受け入れることができなかった。

 泣き崩れそうな鈴原を抱きしめながら、ようやく鈴原の本当の姿を見た気がした。

 鈴原は、誰もが羨むような女王ではなかった。

 ただ、一途に親友を想い続けているだけの、一人のか弱い女の子でしかなかった。

「監査委員長さん、お願いです。一度でいいんです。たった一度、千春に会えればそれでいいんです。生徒会長になったら、名実ともに女王になったら、千春が本当に会ってくれるかもしれないんです。だから、見逃してくれませんか?」

 赤く腫れ上がった瞳が、すがるように懇願してきた。

 鈴原は、多くの葛藤をしながらも、それでも幻想にしがみつこうとしていた。

 その姿は、折れて傷つき、汚れた翼であっても、千春を求めて舞い上がろうとする女王の姿だった。

――でも

 俺は、鈴原の震える小さな肩を強く抱き締めた。

 鈴原の気持ちはわからなくはなかった。俺もまた、胸の中にいるかいないかわからない里沙を閉じ込めている一人だ。会えるというのなら、例え幻想だとしても里沙に会いたい気持ちは鈴原と変わりはなかった。

 けど、だからといって見逃す訳にはいかなかった。

 鈴原は確かにSOSを出している。千春に会いたい気持ちと、それが幻想でしかないという気持ちとの間で、鈴原はずっと苦しんでいるはずだ。

 あの貼り紙は、鈴原が苦しみの末に出した、誰か助けてと願うSOSだ。追い込まれた里沙が出したSOSと同じだとしたら、もう二度と間違えるわけにはいかなかった。

「鈴原、もう千春はいないんだよ」

 一度大きく深呼吸した後、俺は鈴原の細い肩を掴む手に力を込めた。

――里沙

 不意に里沙の笑顔が脳裏に浮かんだ。亡くなったときから、一度もまともに向かい合うことができなかった事実に、どうやら俺も向かい合うことになりそうだった。

 声に出して言葉にしたくない事実。鈴原と同じように、俺もまた、自分の中で決着できない感情があった。

 その事に向き合うことが怖かった。向き合った瞬間、胸の中にいると誤魔化し続けてきた里沙の虚像が消えてしまいそうだった。

 でも、それでも言葉にして鈴原を止めたかった。舞い上がろうとする鈴原の足、そのアキレス腱を掴めるのは俺以外にいないからだ。

「なあ鈴原」

 口を開いた瞬間、目から熱いものが流れ落ちるのを感じた。

 激しく波打つ心臓を押さえ込むように、俺は意を決して無理矢理息を飲み込んだ。

「どんなに望んだとしてもさ、亡くなった人には、もう会うことはできないんだよ」

 今まで認めたくなくて目をそらしてきた現実。それを言葉にした瞬間、胸に鋭い痛みが走り、なにかが胸の中で崩れ落ちていくのがわかった。同時に襲ってきた耐え難い絶望感に襲われた俺は、鈴原の肩を更に強く抱き締めた。

 どのくらい鈴原にしがみついていただろうか。一度大きく肩を震わせた鈴原だったけど、ゆっくりと力を抜いて俺を見上げると、俺の頬を伝う涙を拭い始めた。

「監査委員長さんも、ずっと会いたいと思っている人がいるんですね」

 鈴原はそう呟き、淀みのない青空が広がるような笑顔を見せた。それはまるで、ずっと曇り空に遮られていた太陽が、ようやく顔を覗かせたようにも見えた。

 瞳が重なり合った後、沈黙だけがゆっくりと広がっていった。互いに同じ痛みを抱え合っていたからこそ、もうなにも言葉にしなくてもわかりあえた気がした。

「鈴原?」

 鈴原の笑顔に気が僅かに抜けた瞬間、鈴原は糸の切れた人形のように崩れ落ちた。

「鈴原? 鈴原!」

 俺の胸から崩れ落ちた鈴原は、まるで眠るかのように、 目を閉じて意識を失っていった。
 生徒会長選挙は、当選した鈴原が辞退する形でやり直しになった。一部スキャンダルが原因かと噂になったけど、鈴原が再度入院したことで、噂は自然消滅の道を辿った。

 土曜日の補習授業が終わった後、市内の外れにある総合病院を訪れた。バスに揺られながら着くと、先に来ていた花菜が自転車を引きながら手をふって迎えてくれた。

「面会はオッケーみたいです」

 花菜が少しだけはにかんで、俺の隣に並んだ。これから病院に行くというのに、場違いな明るさがおかしかった。

 鈴原は、倒れてから二日間眠っていた。無理して退院したことよりも、精神的なことが原因らしい。その鈴原が目を覚ましたと聞き、様子を見るために鈴原の見舞いに行くことにした。

 清潔感漂う個室の部屋で、鈴原はベッドに座ったまま開け放たれた窓から流れる風を受けていた。白いパジャマ姿だと病人のように見えるが、流れる黒髪から覗き見える表情からは、春の日だまりのような穏やかさが感じられた。

「監査委員長さん、来てくれたんですね」

 気配に気づいた鈴原がふり返る。以前感じていた気高いオーラはすっかりと消え失せていた。

「花菜ちゃん、私に感謝してよ」

「え?」

「私のおかげで、デートできたんだから」

 悪戯っぽく笑う鈴原に、花菜が大げさに腕を振りながらも否定はしなかった。

「あ、私、売店でなにか買ってきますね」

 穏やかな風が沈黙を運んできた。その空気を感じたのか、花菜は慌てた口調で言い終わると同時に部屋を出ていった。

「具合はどうだ?」

「監査委員長さんに抱かれたせいか、少し大人になったみたいです」

 人の心配をよそに、鈴原が冗談をいって笑顔を見せた。この様子だと、俺の杞憂は無駄に終わりそうだった。

「夢の中で、千春に会いました」

 鈴原が急に話題を変えた。千春の名前に反応した俺は、冗談に返す為の言葉を飲み込んだ。

「夏美、変わってないねって言われました」

 柔らかい声に続いて、鈴原の顔に見たことのない笑みが広がった。その微笑みが、スケッチブックに描かれていた笑顔と見事に重なった。

「これでも努力して、女王と呼ばれるようになったんだよって言ったんです。そしたら、なにやってんのと怒られました」

 鈴原は笑みを崩さずに、ゆっくりと立ち上がって窓辺に移動した。

「千春とまた約束しました。千春はあっちでイケメン探しに忙しいから、もう私にかまっている暇はないみたいです。だから、私にはこっちの世界で好きなように生きて欲しいと言ってました。そして、再び会うことになった時に、お互いの生きた世界の話をしようねと約束しました」

 背を向けたままの鈴原からは表情は見えないけど、おそらく、自分の中で千春のことは決着がついたのだろう。

 そんな鈴原の姿を、俺は羨ましく思えた。例え夢の中であっても、もう一度里沙と会えるなら俺もやっぱり会いたかった。

「夢でもし会えたら、嬉しいと思う?」

 つい、そんな言葉を口にして頭をかいた。決まりきったことを聞いたところで、なにになるというのだろうか。

「そうとは限りませんよ。特に監査委員長さんは、会わないほうがいいと思います」

「え、どうして?」

 予想外の返答に、俺は困惑して声が掠れた。

「私には、女王と呼ばれても手にできなかったものがあります。でも、監査委員長さんにはありますからね。無理して会わないほうがいいと思いますけど」

 鈴原が大きく伸びをしながらふり返る。その顔には、淀みのない悪戯っぽい雰囲気が漂っていた。

「わからないって顔をしてますね。でも、監査委員長さんの中にいる人はわかっていると思います。だから、夢にも出てこないと思います」

 鈴原の言葉に、少しだけ心音が乱れるのを感じた。

 夢でもいいから里沙に会いたいと思うことは、数えきれないほどあった。そのため、暇さえあれば眠ってきたけど、一度として叶ったことはなかった。その理由はわからないけど、鈴原にはわかるということらしい。

「それでも、会いたいと思うことは間違っているのか?」

「はい、間違ってます。千春に会ってわかりました。監査委員長さんが夢でもその人に会いたいと思うことは、間違いだとはっきり言えます」

 微かな期待も虚しく、鈴原はあっさりと俺の意見を断ち切ってきた。

――里沙、夢でも会えないのか

 そっと胸に手を当ててみる。不思議なことに、あれだけ苦しかった胸の内が少しだけ軽くなっている気がした。

――現実と向き合ったからか?

 鈴原を前にして口にした言葉。「亡くなった人にはもう会えない」という、今まで意識して避けていた言葉を口にしたことで、なにかが変わったのだろうか。

 もちろん、考えてみても答えなどあるわけがない。あるとすれば、俺は生きていて里沙は亡くなっているという、相変わらずの現実だけだ。

 鈴原に別れを告げたところで、花菜がお菓子を詰めた袋を手に戻ってきた。タイミングが良すぎる気もしたけど、鈴原はなにも言わずに笑って受け取っていた。

 病院を出てバス停へと向かう中、花菜は迷っているような雰囲気だったけど、バス停までついてきた。

「夏美ちゃん、大丈夫でしょうか?」

 なんとなく不安そうな顔で花菜が聞いてきた。

「大丈夫だろう。一番の適任者に説教されたから、もう間違えることはないはずだ」

 曖昧に答えながら、俺は頭の片隅に響く鈴原の言葉を吟味していた。

 夢でも里沙に会う必要はないと言いきった鈴原の理由。俺にはあって鈴原にはない物の意味を少しだけ考えてみた。

「それでは、失礼しますね」

 押し黙った俺を気遣うような声で、花菜が呟きながら頭を下げた。意識を視界に戻すと、バスが目の前に迫っていた。

 自転車をひいて歩いていく花菜の背中を見ながら、ふと、鈴原の言った意味がわかったような気がした。

 鈴原には、女王と慕われながらも人として想ってくれる人がいなかったのかもしれない。

――俺には花菜がいるということか

 花菜は一人になっても監査委員会に残ってくれている。その本当の理由を、俺は気づいている。

 バスのドアが開き、ステップに踏み出した足が止まった。一瞬考えた後、俺は運転手に頭を下げてバスから足を下ろした。

 夕焼け空の下、花菜の小さな背中越しにポニーテールが揺れていた。

 鈴原の言った意味が、花菜のことだとは限らない。もしかしたら、違うことを言っていたかもしれない。

――でも今は

 間違っているかどうかよりも、ふとわいた感情に身を委ねてみたかった。

 里沙が遠くなった――。

 一瞬、頭の中でそんな声が聞こえたような気がしたけど、俺は坂の下に消えていったポニーテールを追いかけた。

 そんな俺の背中を、温かいなにかがそっと押してくれたような気がした。

―女王のアキレス 了―
 三学期も終わりに近づきに、いよいよ三年生の卒業式が実感として漂いだし始めていた。そんな中、三年生以上に落ち着かないでいる私は、今日も昼休みの時間を使って親友の相田紗也に愚痴をこぼしていた。

「花菜、ほんとあんたは田辺先輩のことが好きなんだね」

 いまだに告白する勇気も持てず、ただ黙って残りの時間が過ぎていくことに怯えるだけの私の愚痴を、延々と聞かされるはめとなっている紗也が呆れ顔と共にため息をついた。

「だったら思い切って告白したら? って、これ言うの何回目だっけ?」

「もう、茶化さないでよ。告白したらってのはわかるんだけど、それができないから苦労してるの」

「はいはい、わかりましたわかりました。花菜は、結局そうやって想いを胸に秘めたまま田辺先輩を見送るだけなんだよね」

「だから、そうやっていじらないでよ」

 私の愚痴を聞き飽きたのか、最近の紗也はなにもできない私をからかってくるのが多くなった。とはいえ、紗也も私のことをちゃんと心配した上で背中を押そうとしているわけだから、紗也のいじりに嫌な気はしなかった。

「でもさ、何度も聞いてるかもしれないけど、田辺先輩のどこがいいの? 確かに顔はいいけどさ、いつも寝起きみたいにボーっとしてるし、なにより伝統ある監査委員会を幽霊委員会にした人でしょ?
私にはどこがいいのかさっぱりなんだよね」

「あのね、それは言い過ぎ。田辺先輩にも、ちゃんといいところがあるの。特に、問題解決に取り組んだときに見せる眼差しは、あれはほんとヤバいんだから」

 チクチク攻めてきた紗也に対抗すべく、田辺先輩のいいところを力説していく。ただ、正直、紗也の田辺先輩に対する評価は間違っていないし、周りのみんなの評価も同じというところに異論はなかった。

 私も、あの鋭い眼差しを見てなかったら、きっと監査委員を続けてなかっただろう。そのくらい、田辺先輩の眼差しにやられた私は、そのときから私の目には田辺先輩しか映っていなかった。

「まったく、そんなに好きならさっさと告白したらいいのに。今度デートに誘われてるんでしょ? そのときに覚悟決めたら?」

 田辺先輩を思い浮かべてニヤけていた私に、紗也が呆れたっぷりの視線を向けると、むりやりな提案を出してきた。

「だから、その話はデートとかじゃないって言ってるでしょ」

 紗也の言葉に過剰に反応した私は、ニヤニヤし始めた紗也に悪態で返した。紗也のいうデートとは、田辺先輩に卒業式前にとある場所についてきて欲しいと誘われた話だった。

 もちろん、聞きようによってはデートの誘いに思えなくもない。けど、私を誘ったときに見せた田辺先輩のどこか悲壮感漂う眼差しが、そういった甘い話を否定していた。

「それよりさ、例の調査依頼はどうなりそうなの?」

 私をいじるのに飽きたのか、紗也が唐突に話題を変えてきた。ただ、気になったのは紗也の意味深な眼差しで、単に話を変えただけでないことがすぐにわかった。

「あ、あれね、実はまだどうするか決まってないの」

 紗也の企みを探るために、とりあえず無難な答えを返す。紗也が話題にした調査依頼というのは、数日前に監査委員会に匿名で寄せられたもので、卒業式の実行委員会を監査してほしいというものだった。

「まだ決まってなかったの?」

「だって、匿名の依頼は基本的に受けないことになってるし、内容が内容だけにいたずらの可能性も高いから扱うかどうか迷ってるの」

 紗也に調査に入る基準を話しながら、頭の片隅に調査依頼を思い起こす。内容は、実行委員会が真面目にやっていないから卒業式ができないという素っ気ないもので、だからこそいたずらの可能性を拭いきれなかった。

「そっか、だったら花菜がやる気になるとっておきの情報を教えてあげるね」

「なにそれ?」

「卒業式の実行委員会の会長してる桜木千恵美先輩は、花菜の大好きな田辺先輩と噂がある人らしいよ」

「ちょっと、どういうこと!?」

 やけにもったいぶる態度で紗也が教えてくれた情報に、私は身を乗り出して思いっきり声を裏返した。

「あくまでも噂なんだけどね。ほら、桜木先輩って三年生の中では鈴原さんに匹敵するぐらいの人気者でしょ? 当然彼氏とかいてもおかしくないのに全然そんな話はないみたい。男子と仲良くするのが苦手らしいんだけど、なぜか田辺先輩とは仲がいいらしいの。で、二人の雰囲気がとても単なる友達といったものじゃないから、二人は隠れてつきあってるんじゃないかって噂されてるわけ」

 紗也も一応は私に気をつかいながら説明してくれたけど、私の血の気は一瞬で引いていった。

 ――ちょっと、単なる噂だよね?

 紗也の話を何度も噛み砕きながら、田辺先輩のことを思い返してみる。私が知っている田辺先輩は、監査委員会の活動中ぐらいだ。だから、普段三年生の中でどうしているかは本当のところではわかっていない。

 ただ、田辺先輩に女の子の影を感じることはないと言えるのも事実だ。田辺先輩には、むしろ心の中に秘めた人がいるような気配があるから、彼女がいるとしたらどこか遠い存在の人というのがしっくりくる感じがしていた。

 でも、紗也の話を聞く限り、実際はそうではないのかもしれなかった。田辺先輩から女の子の気配を感じなかったのは、田辺先輩が桜木先輩との交際を隠しているからだとしたら、私はとんでもない勘違いしていたのかもしれない。

「ちょっと、花菜、これはあくまでも噂なんだからね。って、おーい、聞いてる?」

 意識のはるか向こうで紗也がなにかを言ってるけど、私の頭には全然中身が入ってこなかった。

 ――田辺先輩、彼女いたんだ……

 どっと手のひらに滲んだ汗を握りしめ、ぐっと唇を噛みしめる。今はまだ泣くつもりはなかったのに、気づいたら私は紗也に頭を包まれるように抱きしめられていた。
 いつもより遠くに感じる監査委員会活動室に重い足どりで向かうと、今日もいつものように田辺先輩がソファーに寝転んで本を読んでいた。

 田辺先輩はちょっと前まではいつも寝ていたのに、年末あたりからは寝ることなく本を読むことが多くなり、引退したあとは毎日のようにここに来て小説を読んでいた。私にはその変化の理由がわからなかったけど、その些細な変化すらも桜木先輩が関係しているように思えてきて無性に腹が立ってきた。

「田辺先輩、仕事の邪魔ですから本を読むなら図書室に行ってください」

 のんきに寝転んでいる田辺先輩に、苛立ちを含めた声を浴びせる。もちろん、本心は田辺先輩がいてくれることは嬉しかった。監査委員長の役目が終わっても、こうして来てくれてることは喜び以外になかったけど、今はなぜか田辺先輩がいることに苛立ちを感じずにいられなかった。

「どうした? なにかあったのか?」

 私の態度になにか感じ取ったのか、田辺先輩が本を閉じて身を起こしてきた。もちろん、つきあっている人がいるんですねなんて言えるはずもなく、私は黙ってパソコンの前に座るだけだった。

「あの、田辺先輩に聞きたいんですけど、今度誘ってくれた内容の中身はなんですか?」

 パソコンのモニターに映る田辺先輩の姿に胸が痛くなった私は、ひょっとしたらという一縷の望みをかけて聞いてみた。

「ああ、まだ詳しくは言えないけど、まあそうだな、ちょっと紹介したい人がいるんだ」

 面倒くさそうに頭をかくあたり、田辺先輩はなにも考えずに言ったのかもしれないけど、私の鼓動は爆発したかのように激しく乱れていった。

 ――紹介したい人って、まさか……

 田辺先輩の言葉から桜木先輩の名前が嫌でも浮かんできたことで、マウスを持つ手が震えだした。わざわざ日にちを指定することから、田辺先輩が紹介したいという人は特別だとわかる。だとすれば、その人が桜木先輩である可能性は極めて高かった。

「そ、そうなんですね。でも、私は誰かはわかりませんけど、紹介されてもなにもできないと思いますけど」

「それでもいいんだ。ただ、花菜にはちゃんと知っておいてほしい人だから」

 ちょっと意地悪く返したのに、田辺先輩は気にすることなく真っ直ぐに私を見つめてきた。おかげで、田辺先輩が軽い気持ちで誘ったわけではなく、真剣に考えた上で誘ったことがはっきり伝わってきた。

 ――知っておいてほしいって言われても……

 チクチクと痛みだした胸を掴みながら、わきあがってくる虚しさを押し殺していく。勝手な想像だけど、田辺先輩は桜木先輩を紹介することで私との関係を切ろうとしているようにも感じられた。

「それより、暗い顔しているけどなにがあったんだ?」

 話は終わりとばかりに、田辺先輩が話題を元に戻してきた。田辺先輩が好きで困ってるとはいえず、だからといってうまいいいわけが思い浮かぶ状態でもなかったから、渋々今引き受けるか悩んでいる依頼のことをごまかしに使った。

「卒業式の実行委員会か……」

 依頼内容を説明し終えると、田辺先輩は急に真顔になって顎に手をあてて小さく呟いた。

「委員長の千恵美に、副委員長の下田流星と春山一稀。この三人は元野球部とマネージャーの関係だけど、やっぱりなにかあったというわけか」

 私のことを置き去りにして、田辺先輩がひとりで勝手に納得し始める。桜木先輩を名前で呼び捨てにしたことにショックを受けたけど、とりあえず我慢して三人の関係を詳しく聞いてみることにした。

「うちの野球部は、全国大会常連の名門というのは知っているよな?」

「はい、全国でも上位に入ることも珍しくない強豪だと聞いてます。昨年は惜しくも地区大会で敗退しましたけど、チームとしては過去最高の強さだったそうですよね?」

「そうだな、甲子園確実と言われていたけど、まさかの地区大会敗退だった。ただ、その背景には色々とあって野球部だった連中の中には、今もわだかまりが残っているのも事実だ」

 わずかに目を細めた田辺先輩が、思わせぶりな言葉を発した。田辺先輩いわく、特に禍根の残るメンバーの中の二人が副委員長として参加しているわけだから、実行委員会の空気がただならないことは簡単に予想がつくということらしい。

「なるほどですね。それで、野球部に残る禍根というのはなんですか?」

「副委員長の下田は、同じ野球部だった山口瑛人と千恵美をめぐって三角関係にあった」

「え?」

 田辺先輩の予想外すぎる言葉に、驚いてまのぬけた声をもらした。どんな禍根だったかと思いきや、まさかの恋愛関係のもつれだった。

 とはいえ、そのもつれが原因で野球部は地区大会敗退という結果に終わった。田辺先輩によれば、渦中の下田先輩と山口先輩は恋敵であると同時に自他ともに認める親友同士だったらしい。

 そんな二人が起こしたトラブル。それは、準決勝の九回裏で起きたという。一点差で負けていたところに、ノーアウト三塁という同点のチャンスが訪れたときに、悲劇が起きたとのことだった。

「三塁ランナーだったのが山口で、バッターは下田だった。一打同点のチャンスにみんながわきあがっていたけど、結果はスクイズ失敗に終わった」

 田辺先輩の説明によると、その悲劇が起きたのは三球目のときだった。投球と同時にスタートした山口先輩に対し、あろうことか下田先輩はスクイズをするどころかバントのかまえもしなかったという。

 当然ながら、相手チームがミスを見逃すはずもなく、あっさりとタッチアウトをとられ、さらには動揺した下田先輩は三振に終わり、次のバッターも凡打に終わったことで野球部の夏は幕を下ろす結果となっていた。

「なぜ下田がスクイズしなかったのか。単なるサインの見逃しなのか、あるいは山口の方がサインを間違えただけなのか。いずれにせよ、サインを送った春山も口を閉ざしているから、真相は今もわかっていない」

「そうなんですね。でも、今の話には山口先輩がからんでいませんけど、山口先輩もなにも言っていないんですか?」

「山口も、この件に関してはなにも言っていなかったようだな。ただ、山口に関しては大会の直後に事故で亡くなっているから、山口がどうだったかはもう誰も知ることはできないのが現状だ」

「そんなことがあったんですね……」

 ほとんど知らなかった事実を聞かされ、私は小さくため息をついた。これから調査しようとする相手は、複雑な事情を抱いたメンバーだ。話を聞く限り、残った禍根も小さくはないはずだし、なによりここにきて調査依頼が匿名ということが大きくのしかかってきた。

 ――ひょっとしたら、色んな禍根がからんでるかもしれないな

 姿なき密告者の声に、もう一度目を通してみる。

 でも、淡白な文書からは今はなにひとつ思惑は読み取れなかった。
 翌日、実行委員会が置かれている教室を訪れることにした。もちろん、田辺先輩は引退しているから同行していない。おかげで、ひとりで調査することに対する不安とかすかな恐怖で緊張にのみ込まれそうになっていた。

「失礼します」

 考えても仕方がないので、勢いのままドアを開けると、噂以上の美しさをまとった桜木先輩が出迎えてくれた。

「花菜ちゃん、でいいよね? 私、堅苦しいのは嫌いだから」

 にっこり微笑んだ桜木先輩が、緊張する私に優しく声をかけてくる。一見したらちょっと近づき難い雰囲気だけど、ざっくばらんな感じがしたことで、一気に桜木先輩に好感を抱いてしまった。

 ――この人が田辺先輩と隠れてつきあってる人なんだ

 改めて観察してみて、私はため息しか出なくなった。さらさらの長い黒髪に大きめの瞳、知性とかわいらしさを兼ね備えたメガネに小ぶりの桜色の唇。すらりとした体躯なのにギャップがありすぎるプロポーションには、同じ女性として憧れしかなかった。

 ――こんなの、勝てるわけないじゃない

 圧倒的なレベルの差を前に、もう笑う以外に反応することができなかった。事情はわからないけど、桜木先輩をめぐって三角関係になっていたというのもわからなくはなかった。

「あれ? 君は確か監査委員会の人だよね?」

 カラカラと車いすの音と共に現れたのは、春山先輩だった。春山先輩は、中学のときに事故がきっかけで車いすに頼るようになったと聞いている。どんな人かと心配していたけど、春山先輩も桜木先輩と同じように明るく人懐っこい性格の人みたいで、ようやく緊張の糸が解けてほっとすることができた。

「はい、私は倉本花菜といいます」

 ふんわりとした雰囲気をまとうふたりに、ようやく笑みを作って頭を下げる。話に聞いていた刺々しい雰囲気はなさそうだと安心したのもつかの間、いきなり机に物を置く音ともに背の高い人影が現れて一気に空気が緊張するのがわかった。

「彼は下田君。ちょっととっつきにくいけど、花菜ちゃんを食べたりしないから安心して」

 春山先輩の微妙な紹介に笑みが固まる中、紹介を受けた下田先輩は私を無視したまま作業を続けていた。短髪に彫りの深い顔立ちは、むすっとしていなければ爽やかなスボーツ青年に見えてもおかしくなかった。

 ――これはちょっと厄介なことになるかも

 明らかに異質なオーラを放つ下田先輩に、桜木先輩も春山先輩も困ったように笑っている。それはつまり、二人が相当下田先輩に気をつかっている証拠だった。

「それで、花菜ちゃんの用件はなにかな?」

 固まって言葉を発しない私にも気をつかってか、桜木先輩がさり気なく今日の訪問理由を聞いてきた。

「特別な用があったわけではないんですけど、一応卒業式の準備が進んでいるか確認に来ました」

 調査依頼のことは伏せて、当たり障りのない言葉を選びながら質問に返答する。いきなり監査委員会が来るわけだから、実行委員会としてはあまりいい気持ちはしていないはず。だとしたら、私にできることはさり気なく様子をうかがうことぐらいだった。

「そういうことなんだ。てっきり、予算を使ってお菓子パーティをしたことがバレたんじゃないかってひやひやしてたんだよ」

 小さく舌を出しながら、桜木先輩が冗談とも本気ともわからないことを口にした。私としては、それが事実だったとしとも扱う気はなかったから、適当に笑って受け流した。

「ま、準備の方は順調すぎるくらい順調かな。といっても大したことはしてないんだけどね」

「それならよかったです。もしなにかあったら私にもお手伝いさせてください」

 あっけらかんと語る桜木先輩からは、なにひとつ問題を抱えている雰囲気は感じられなかった。そうなると気になるのは、私と一切目をあわそうともしない下田先輩のことだった。

「あの、下田先輩っていつもあんな感じなんですか?」

 資料を取りに行くと告げて出ていった下田さんを見送ったあと、私はさり気なく下田さんのことを聞いてみた。

「そうね、明るい性格とは正直言えないかな。でも、だからといってぶっきらぼうってわけでもないし、なんていうか、胸に秘めた熱い想いがあってひとり黙々と頑張るタイプかな」

「確かに、社交的とは言えないけど、僕は下田君のことは嫌いじゃない。いつもさり気なく僕のことをフォローしてくれるし、野球部では口には出さないけどみんな下田君を頼りにしてたからね。そういう意味では、表で輝くというよりも縁の下の力持ちというのがぴったりくるかな」

 桜木先輩との会話に割って入ってきた春山先輩までもが、下田先輩のことを力説してくる。その口調から、春山先輩がいかに下田先輩に対して感謝と尊敬の念を抱いているかが伝わってきた。

「ただ、下田君は東京に行ってしまうんだよね」

「へ?」

 不意にこぼした桜木先輩の沈んだ声に、私は変な声をもらしてしまった。

「野球部の大半は地元の大学に進学して野球を続けるんだけど、下田君だけは東京の大学に行くことが決まってるの。しかも、大好きだった野球も辞めるみたい」

 急に影が射した横顔から漏れてくる桜木先輩の声には、どことなく悲壮感が滲んでいた。

「あんなことがなかったら……、いや、その話はもう終わったことかな」

 桜木先輩に返す形で口を開いた春山先輩だったけど、その内容は最後まで語られることはなかった。

 ――あんなことって、きっと亡くなった山口先輩のことなんだろうな

 最初は、どことなく固い空気だったとはいえ、桜木先輩も春山先輩も明るく和気あいあいとしているように見えた。でも、今のふたりを見る限り、ふたりも山口先輩のことをまだどこか引きずっているようにも感じられた。

「すみません、突然おじゃましたのに、色々とお話していただいてありがとうございました」

 場の熱が引くのを感じた私は、それとなくお礼を告げて調査を打ち切った。本当なら、桜木先輩から田辺先輩との関係を聞きたかったけど、この状況では田辺先輩のことを切り出すのは無理そうだった。

 ――なんかありそうな雰囲気満載っ感じだよね

 匿名の調査依頼で始まった今回の件、このとき私は調査依頼を含めて実行委員会にはなにか言葉にならない陰が潜んでいるような気がした。
 翌日、生徒会室に顔を出した私は、新たな生徒会長となった日浦君に調査開始の届けを提出した。

「気にはなる内容だね。けど、匿名の依頼だけど大丈夫?」

 報告書に目を通した日浦君が、開口一番に匿名の部分を強調してきた。日浦君は前の生徒会長と違ってアグレッシブなタイプの人で、着任以来、次々と制度改革に取り組んでいる。そのため、ガセの多い匿名情報に時間を割くべきではないと暗に伝えてきた。

「匿名だけど、万が一なにかあったらいけないし、やっぱり卒業式はちゃんとやってほしいから、念のために調査したいって思ったの」

 まさか桜木先輩と田辺先輩の関係を知りたいからとは言えるわけないから、私は気持ち半分の理由を説明した。

 もちろん、無事に卒業式が行われることを望んでいるのは間違いない。田辺先輩の晴れ舞台だし、できればそのときには監査委員としてではなく彼女という立場になっていることを願ってもいる。

「そっか、そういうことなら仕方ないね。でも、よりにもよって元野球部のメンバーを調査することになるとは、倉本さんも大変だね」

「その言い方だと、日浦君は野球部のことをなにか知ってるの?」

「僕の友達に野球部の人がいるから、そのあたりの話はある程度は聞いているよ」

「だったら、その情報話してくれる?」

 願ってもない情報を知るチャンスに鼻息荒く日浦君に詰め寄ると、日浦君はまあまあと言いながら野球部の禍根について語りだした。

 禍根の原因が三角関係にあることは、田辺先輩に聞いたとおりだった。ただ、詳しい内情としてわかったのは、桜木先輩と山口先輩の関係は幼なじみであり、そこに割って入ってきたのが下田先輩ということだった。

「下田先輩は、野球部を引退する時点で正式に桜木先輩に告白することを公言していた。そのことが、山口先輩にとってはちょっとした焦りにもなってたみたいなんだ。桜木先輩も、はっきりとした態度を示していなかったようだから、余計に下田先輩と山口先輩との間にはライバル心が芽生えていたらしいんだ」

「なるほどね。山口先輩にとっては、あとからきた下田先輩に桜木先輩をとられるかもって考えたってわけなんだ?」

「そのとおりなんだけど、ちょっと意味あいが違う部分があるかな。山口先輩と下田先輩は、中学からの親友同士だから、下田先輩としては奪うというニュアンスではなく、正々堂々と勝負しようとしたらしい。だから、ちゃんと公言していたし、山口先輩もそれを認めていたそうなんだ」

 日浦君の話だと、下田先輩と山口先輩の間には桜木先輩をめぐっての目立った確執はなかったらしい。ただ、それが本当かどうか怪しくなったのが、例の準決勝での出来事だという。

「あの九回裏の事件、実は山口先輩か下田先輩のどちらかが意図的にやったんじゃないかって、野球部の中で噂されてるみたいなんだ」

「え? どういうこと?」

「問題の場面は、九回裏の同点に追いつく大チャンスだった。けど、もしこのチャンスを潰して相手の失態にできるとしたらどう思う?」

 どこか意味を含んだ日浦君の言葉に、少しだけ背中が寒くなるのを感じた。いくら恋のライバル同士とはいっても、大事な試合の場面で相手を陥れるようなことを考えるとは思えなかった。

「監督代行の春山先輩は、ベンチの空気を相手にさとられないようにするため、サインはベンチのメンバーにもわからないように送っていたらしい。そして、これまで決して送ったサインの内容は明かすことはなかった。サインの見間違いや勘違いによって選手が叩かれるのを避けるためらしいけど、それを逆手に取った可能性があるってことらしいんだ」

「ということは、送られたサインが明らかにならないことをいいことに、勝手なことをしたってことなの?」

「おそらくは、なんだけどね。山口先輩にしてみれば、スクイズのサインだったと主張すれば、バントのかまえすらしなかった下田先輩を陥れることができる。逆に、下田先輩にしてみれば、スクイズのサインではなかったと主張すれば、山口先輩が勝手な走塁をしたとして非難することができることになるんだ」

 日浦君の説明を聞きながら、だんだんと気分が虚しくてなっていくのを感じた。甲子園を目指して互いに日々努力してきた者同士が、ここ一番の大事な場面で相手を陥れることを考えていたとしたら、なんだか怒りというよりは悲しい気持ちのほうが強くなっていった。

「そんなことあるわけないとも思えるけど、監査委員をしてきた倉本さんなら、そんなことがあってもおかしくはないことはわかるよね?」

 日浦君の問いに、私はわずかに首を縦にふるしかなかった。これまでいくつかの事件を調査してきたけど、普通ならありえないことを考えて行動する人がいることは珍しくはなかった。

 そして、その理由の大半に恋愛模様を含んだ複雑な事情があった。人が人を好きになったとき、そこには常識やルールだけでは計り知れない複雑な人間模様があることを、私はこれまで幾度となく見てきた。

 そう考えたら、下田先輩も山口先輩も、土壇場で暴走していたとしてもおかしくはない話になる。山口先輩にしてみれば、大会後に下田先輩が桜木先輩に交際を申し込むことを知ってたわけだから、その足をひっぱりたいと思っても不思議ではないはず。

 逆に、下田先輩の立場にしてみたら、幼なじみとしても特段に仲がいい山口先輩のことを、告白前に陥れたいと考えても不思議ではないのかもしれなかった。

「なんだか、ちょっと複雑な気分になる話だよね」

「そうだね。確かに聞いていて楽しくなる話ではないかな。でも、これはあくまでも噂だから、本当のことはふたりにしかわからないと思うよ」

 日浦君のいうとおり、そのときになにがあったのかは山口先輩と下田先輩にしかわからないだろう。ただ、下田先輩は桜木先輩に告白していないし、さらには野球を辞める決断もしている。その点を考えたら、下田先輩になにかあったことは間違いないのかもしれなかった。

「ただ、ひとつ気になることは、あの試合以降、下田先輩はみんなから叩かれ続けていることかな」

「叩かれてる?」

「まあ後味悪い結果だったし、その直後に山口先輩は亡くなっているしね。あらぬ憶測が下田先輩に向いても仕方ないのかもしれない。風紀委員会が間に入ってはいるんだけど、下田先輩が一切被害を訴えない以上、風紀委員会もどうすることもできないでいるみたいなんだ」

「そうなんだ……」

 改めて明らかになった事実に、私は胸が痛くなって言葉が続かなくなった。真相はわからないのに下田先輩を叩くのはどうかと思うけど、逆に言えば真相を明かさない春山先輩やだんまりを決めている桜木先輩のことも気になってきた。

 ――この調査依頼、やっぱり裏がありそうな気がしてきた

 淡白な文書だけで構成された調査依頼。

 このとき私には、この調査依頼は実行委員会のことではなく野球部の禍根の方に導いているような気がしてならなかった。