鈴原陣営へと向かう途中の渡り廊下で、鈴原と出会った。どうやら結果が待ちきれないらしく、様子を見るために一人で生徒会室へ向かっていたようだ。

「監査委員長さん、結果は出ましたか?」

 俺の顔を見るなり、鈴原は歩みを速めて近寄ってきた。その表情は、当選を確信して勝ち誇っているようにも見えた。

「結果は出たけど、ちょっと問題がある」

「問題、ですか?」

 満面の笑みだった鈴原の顔が、一瞬で凍りつくのがわかった。

「ああ、当選者の素行に問題があるから、俺としては署名に応じることができない」

「どういう意味?」

 鈴原の顔から完全に笑みが消えた。大きめの瞳が、俺を刺すように冷たい光を放ち始めた。

「まさか、あんなデマ、信じるつもりですか?」

 鈴原の歯ぎしりが聞こえた後、底冷えするような低い声が続いた。

「日曜日のフードコートで会った時、俺は言ったよな? ある人の瞳を追いかけてきたと。実は、その人も万引き依存症に陥っていた」

 万引きという言葉に、鈴原の眉間に僅かにしわが寄った。

「張り紙どおり、夜のデパートで万引きしているところを目撃した」

 なにか言いかけた鈴原を遮るように、俺は一気に核心をついた。

 微かに口を開けたまま固まる鈴原だったけど、開け放たれた窓から吹き込む風にさらされた髪を一撫ですると、再び勝ち誇ったような微笑みを口元に浮かべた。

「だとして、誰が信じるんですか? 私はスキャンダルのおかげで飛びおりた悲劇のヒロインですよ。誰が今さらスキャンダルをむし返すというのですか?」

 鈴原はそう呟くと、口に手を当てたまま声を上げて笑いだした。

「やっぱり、スキャンダルを封じるために飛びおりたんだな?」

「正解です。これから千春に会うというのに、自殺するほど馬鹿ではありませんよ」

「そうかな?」

 笑い転げそうな勢いの鈴原に、俺は語気を強めた。鈴原は一瞬体を震わせた後、無表情に切り替わった顔を俺に向けてきた。

「あの貼り紙、やったのはお前だろ?」

 俺は鈴原を睨みつけながら、声を殺して唸るように告げた。

「な、なにを言って――」

 完璧なガードを張っていた鈴原が、初めて動揺した声を漏らした。強気に光っていた瞳に、微かな濁りが生じたのを俺は見逃さなかった。

「日曜日に会った時、お前はコスプレしていなかったし、万引きもしていなかった。けど、夜のデパートでコスプレしていたお前は、確かに万引きしていた」

 語気を更に強めた俺の問いに、鈴原の視線が泳ぎ始めた。

「だとしたら、あの貼り紙はお前にしか作れない。そうだよな?」

「どうして言いきれるんですか?」

「簡単だよ。コスプレ姿のお前を、誰が見破れたのかということを考えれば、貼り紙をした奴はわかるからな。俺が知る限り、コスプレしたお前の姿を見破れた奴は、俺以外には誰もいない。だとすれば、あの貼り紙に書いてあった内容は、俺以外は誰も書くことはできないはずだ。なのに、あの貼り紙には正確にお前のことが書いてあった」

 一度言葉を区切り、鈴原の様子を確かめてみる。白い手先には震えが見え、瞳には微かに涙が見えた。

「誰も書けないはずの貼り紙。でも、お前なら自分のことだから書けるよな? ということは、あの貼り紙を作ったのは、お前以外には考えられないということだ」

 俺は鈴原を真っ直ぐ見据えたまま、感情を抑えて真相をぶつけた。

 最初に貼られた貼り紙は、鈴原本人の仕業だった。鈴原のコスプレ姿を見破れた者がいない以上、結論は本人以外にはありえないからだ。

「SOSだったんだろ?」

 しばらくの沈黙の後、俺はゆっくりと鈴原に声をかけた。

 俺が立てた仮説。それは、里沙が苦しくて発した「助けて」というSOSと、鈴原がした貼り紙は同じ意味ではないかということだった。

 里沙は、万引きをかばって欲しくて「助けて」と言った訳ではなかった。自分の現状が苦しくて発した、本当の助けを求めるSOSだった。

 鈴原は万引きした後、川に盗品を捨てて泣き崩れていた。あの姿こそ、鈴原の本心を表す姿だと俺は確信していた。

「さすが、監査委員長さんですね」

 鈴原の瞳から一筋の涙が零れ落ちた後、緊張が解けるかのように表情が柔らかくなっていった。そして、なにかを決心するかのように大きく頷いた後、夕陽を受けて煌めく大きな黒い瞳を俺に向けてきた。

「最初に万引きに手を出したのは、千春が亡くなった後でした」

 ゆっくりとした掠れがかった声だけど、はっきりとした意思を感じさせながら、鈴原が語りだした。

 千春が亡くなった後、鈴原は千春のようになると決心した。いつも迷惑ばかりかけていたから、千春が心配しなくていいように、なんでも一人でできるようにあらゆる努力を重ねてきた。

 けど、その努力は鈴原にとって大きなストレスとなった。突然千春がいなくなったことの喪失感と、限界を超えて努力を積み重ねていく中で、鈴原はいつしか万引きに手を出すようになった。

「理由はよくわかりません。でも、最初に万引きした時に感じた、脳を突き抜けるような高揚感が、辛いことを忘れさせてくれたんです」

 その後、一旦は万引きを止めた鈴原だったけど、再び手を出すようになった。それが貼り紙にあった内容のことだという。

「夜のデパートで、私は一人でコスプレするようになりました。そこで、話した通りモニターの中に千春の姿を見つけました」

 鈴原の声が、僅かに震え出した。

「私、千春と約束してたんです。私が一人でなんでもできるようになったら、千春に迷惑かけることがなくなったら、二人で一緒に世界を旅して回ろうって。色んな所を二人で見て回って、いつまでも一緒にいようねって、約束していたんです。だから、だから私、千春がモニターに現れたのは、私が一人でなんでもできるようになったから、約束を果たす為に会いに来てくれたんだと思ったんです」

 鈴原は両手で顔を覆いながら、絞り出すように声をつなげた。

「でもそれは、本当はあり得ないことなんですよね?」

 嗚咽が漏れた後、顔を上げた鈴原が無理矢理笑みを浮かべながら呟いた。

「千春に会えたことは、とても嬉しかったんです。でも、それとは別に、そんなことはあり得ないと思う自分もいました。千春と会話しながら、頭の中で否定する声が聞こえてました。でも、私は千春の存在が幻だってことを認めたくありませんでした。だから、頭の中の声を消したくて、それで、あの突き抜けるような高揚感を利用してしまいました」

 鈴原の言葉に、あの夜の光景が脳裏に浮かんだ。感情のない表情で万引きしていた鈴原は、あの時懸命に自分の声に抗っていたということだった。

「効果は思った通りでした。あの、物を盗む瞬間に感じる高揚感だけが、否定する声を消してくれました。それからは、もう自分では止めることができなくなって、気がつくと私のバックには万引きした商品が溢れるようになってました」

 その結果、帰り道の途中で我に返った鈴原は、盗品だらけのバックに驚き、川に捨てるのが日課になっていたという。

 懸命に涙を拭う鈴原の姿に、里沙の面影が重なっていく。盗品を泣きながら捨てていた里沙もまた、自分ではもうどうしようもなくなっていた。

 鈴原も同じだった。頭の中で繰り返し葛藤し続けた結果、万引きに救いを求めてしまったというわけだ。

「私、千春にもう一度会いたかったんです。千春と約束した通り、私は千春のようになりました。だから、一人でなんでもできるようになった私を見て欲しかったんです。夏美、頑張ったんだねって、一言言ってもらうだけでよかったんです」

 鈴原の嗚咽が叫びに変わろうとしていた。震えを通り越してよろけだした鈴原を、俺は黙って胸に抱き寄せた。

「会いたいんです」

 鈴原は俺の胸に顔を埋めると、両手で俺のシャツを握りしめた。

「千春、約束したよね? 私が一人でなんでもできるようになったら、一緒に世界を旅しようって。ねえ千春、私、一人でなんでもできるようになったんだよ? 女王って呼ばれるようにまでなったんだよ。でも、千春がいないと意味ないじゃん。ずっと一緒だって、また明日って約束したのに、次の日にはいないなんてあんまりじゃない!」

 鈴原の嗚咽混じりの叫びが、濁流のように迫ってきた。

 千春は帰宅途中に事故で亡くなっている。それは、鈴原にとってはあまりにも突然のことだった。また明日と約束した親友が、翌日から永遠に会えなくなったという事実を、鈴原は受け入れることができなかった。

 泣き崩れそうな鈴原を抱きしめながら、ようやく鈴原の本当の姿を見た気がした。

 鈴原は、誰もが羨むような女王ではなかった。

 ただ、一途に親友を想い続けているだけの、一人のか弱い女の子でしかなかった。

「監査委員長さん、お願いです。一度でいいんです。たった一度、千春に会えればそれでいいんです。生徒会長になったら、名実ともに女王になったら、千春が本当に会ってくれるかもしれないんです。だから、見逃してくれませんか?」

 赤く腫れ上がった瞳が、すがるように懇願してきた。

 鈴原は、多くの葛藤をしながらも、それでも幻想にしがみつこうとしていた。

 その姿は、折れて傷つき、汚れた翼であっても、千春を求めて舞い上がろうとする女王の姿だった。

――でも

 俺は、鈴原の震える小さな肩を強く抱き締めた。

 鈴原の気持ちはわからなくはなかった。俺もまた、胸の中にいるかいないかわからない里沙を閉じ込めている一人だ。会えるというのなら、例え幻想だとしても里沙に会いたい気持ちは鈴原と変わりはなかった。

 けど、だからといって見逃す訳にはいかなかった。

 鈴原は確かにSOSを出している。千春に会いたい気持ちと、それが幻想でしかないという気持ちとの間で、鈴原はずっと苦しんでいるはずだ。

 あの貼り紙は、鈴原が苦しみの末に出した、誰か助けてと願うSOSだ。追い込まれた里沙が出したSOSと同じだとしたら、もう二度と間違えるわけにはいかなかった。

「鈴原、もう千春はいないんだよ」

 一度大きく深呼吸した後、俺は鈴原の細い肩を掴む手に力を込めた。

――里沙

 不意に里沙の笑顔が脳裏に浮かんだ。亡くなったときから、一度もまともに向かい合うことができなかった事実に、どうやら俺も向かい合うことになりそうだった。

 声に出して言葉にしたくない事実。鈴原と同じように、俺もまた、自分の中で決着できない感情があった。

 その事に向き合うことが怖かった。向き合った瞬間、胸の中にいると誤魔化し続けてきた里沙の虚像が消えてしまいそうだった。

 でも、それでも言葉にして鈴原を止めたかった。舞い上がろうとする鈴原の足、そのアキレス腱を掴めるのは俺以外にいないからだ。

「なあ鈴原」

 口を開いた瞬間、目から熱いものが流れ落ちるのを感じた。

 激しく波打つ心臓を押さえ込むように、俺は意を決して無理矢理息を飲み込んだ。

「どんなに望んだとしてもさ、亡くなった人には、もう会うことはできないんだよ」

 今まで認めたくなくて目をそらしてきた現実。それを言葉にした瞬間、胸に鋭い痛みが走り、なにかが胸の中で崩れ落ちていくのがわかった。同時に襲ってきた耐え難い絶望感に襲われた俺は、鈴原の肩を更に強く抱き締めた。

 どのくらい鈴原にしがみついていただろうか。一度大きく肩を震わせた鈴原だったけど、ゆっくりと力を抜いて俺を見上げると、俺の頬を伝う涙を拭い始めた。

「監査委員長さんも、ずっと会いたいと思っている人がいるんですね」

 鈴原はそう呟き、淀みのない青空が広がるような笑顔を見せた。それはまるで、ずっと曇り空に遮られていた太陽が、ようやく顔を覗かせたようにも見えた。

 瞳が重なり合った後、沈黙だけがゆっくりと広がっていった。互いに同じ痛みを抱え合っていたからこそ、もうなにも言葉にしなくてもわかりあえた気がした。

「鈴原?」

 鈴原の笑顔に気が僅かに抜けた瞬間、鈴原は糸の切れた人形のように崩れ落ちた。

「鈴原? 鈴原!」

 俺の胸から崩れ落ちた鈴原は、まるで眠るかのように、 目を閉じて意識を失っていった。