夜明け前に起きて、テントの外に出ると水音が涼しかった。
 サキは白い岩の上にすわり、裸足のかかとを渓流にひたす。切れるような水の感覚が頭のてっぺんまで駆け上がる。その鮮烈な感覚が、そこにあった眠気を一気に吹き飛ばす。
 ああこれはリアルだ、とサキはあらためてその事実を再確認した。これは夢じゃない。自分の夏の想像でもない。リアルだ。
 そのあと明るくなるまで川原を歩いて過ごした。斜面の針葉樹の暗がりで、何かの生き物が小さく鳴いていた。おそらくカエルとか、その手の小動物だろうとサキは想像したが、林の中に入って確かめることまではしなかった。あたりには湿った植物の匂いが色濃く満ちていた。その香りを肺に吸い込むと、ああ自分はここにリアルに生きているなと、またひとつ納得させられるものがあった。まぎれもない夏の朝だ、これは。
 しかしその直後に持ち上がったトラブルは、そんなサキの朝の爽快感を完全にかき消してしまった。

「…寒い。」

 テントから這い出してきたシロヤナギが、全身を震わせながら荒い息をしている。サキはシロヤナギのひたいに手をあてた。燃えるように熱い皮膚。とても人間の体温とは思えなかった。そのわりにシロヤナギの顔もむきだしの手足も蒼白と言っていいほど色がなく、ひとめでサキは、これは危険な状況だと判断した。

 タカキとサキとハルオミが、テントの中にシュラフを2枚敷き、その上にシロヤナギを寝かせ、ありったけの衣類やシートをかけて保温した。
「なんだ。大げさ…だな。ちょっと、熱が…出ただけ、だろう?」
 あえぎながらシロヤナギが皮肉っぽくつぶやいたが、その声にはいつもの精彩がない。
「解熱剤? 誰か持ってねーか?」
 タカキが緊迫した声で言う。ある、と答えたのはシロヤナギ。バッグの中にふだんから解熱剤のタブレットを常備しているとタカキに告げた。

「どう思う?」
 ボトルの水で解熱剤をのませ、テントの外で、タカキがサキにささやいた。
「ウィルス、なのか? 昨日あそこで、拾ったのか?」
「…わからない。けど、たぶん、違うと思う」
「なんで?」
「昨日の今朝で、それだと発症がはやすぎる。たぶん疲れて、もともと持ってた何かが、今このタイミングで出てきた、とか。そういうやつだと思うけど。それに、わたしやタカキ、ハルオミは平気でしょう? みんな同じ水の中を渡ってきたのに」
「けど。やっぱりあの、劇症熱炎っていう、あれの症状が――」
「ちょっとタカキ。しっかりして。あんなの嘘で都市伝説だって言ったのは、タカキだったじゃない。」
「けど。でも。今のこれは、ちょっと、普通の症状じゃ――」

「こら。二人。そこで何を争っている?」

 テントの中から這い出してきたシロヤナギが、ハルオミに肩を支えられながらそこに立った。
「心配には及ばない。いつものことだ。少し無茶をすると、すぐ、リバウンドがくる。これはわたしにとって、もう、おなじみの幼馴染の、ついて離れない悪友のようなものだ。今さらパニックになられると、わたしの方が気まずいだろう?」
「おまえそれ… 寝てろよ。立ち上がってる場合かよ?」
 タカキがシロヤナギを制止した。
「ほう? では言葉をそのまま返すぞ。寝ている場合か。立ち上がって歩け、と」
「…なんだと?」
「出発の時間だ。もう、予定ではとうにここを出発しているはずだろう? 何をぐずぐず、ここで時間をつぶしている? テントをたため。荷物をまとめろ。夏の朝は、いつまでもわたしたちを待ってはくれないぞ?」
 ハルオミに肩を支えられながら、シロヤナギがタカキとサキに命令した。その刺さるような強い視線に押されて、スローな挙動でテントの解体をはじめたサキだったが、タカキの方は、その場で下をむき、二つのこぶしを握りしめ、なにかをひとりで思考している。

「おい。本気でおまえ、行くつもりか?」
 タカキがきいた。真剣な眼で、シロヤナギをにらむ。シロヤナギは2枚のジャンパーをワンピースドレスの上に重ね着していたが、それでも寒いらしく、唇の色がほとんど無くなっている。そして呼吸が明らかに荒い。
「行かない選択肢は、ない。ここまで来たのだから。なに、あと少し。あと半日の行程だ。」
「…おまえ。死ぬかも、しれないぜ?」
「本望だな。それはなかなか美しい、潔い終わりと言えるかもしれない。が、まあ、心配するな、キセ・タカキ。まだ、この程度の熱で命を奪われるほど、シロヤナギ・ルカの魂は弱ってはいない。歩けるさ。そこまで。最後まで、この二つの足で。」
 その言葉はタカキに向けられた言葉というよりも、むしろ、明るさを増しゆく朝の山際の空にむけた断固たる宣言のように聞こえた。それは世界への挑戦、自分をとりまく世界に宛てた最後の宣戦布告、だったのかもしれない。


 とはいえ、午前中のペースはまったく上がらなかった。ハルオミに右肩を支えられ、片足をひきずるように荒い呼吸で線路上を歩くシロヤナギ。その足取りは遅く、重く、昨日のペースの半分、あるいはそれ以下のスピード。
 さらに悪いことには、ここから線路はゆるやかにカーブしながら徐々に登りに傾斜して、山の中へと入っていく。ふだんであれば気にならないようなゆるい傾斜角、なのだが、今朝のシロヤナギにとっては、一歩一歩が過酷だ。一歩一歩が鉛の重さで体力を奪う。しだいにハルオミによりかかる機会がふえていき、そのハルオミの方も、ペースがまったく上がらなくなった。
 見かねたタカキが、途中からハルオミに変わった。厚着に厚着を重ねたシロヤナギは、それだけ歩き続けても、汗をまったくかかず、むしろ肩を震わして寒がっている。タカキはところどころで足を止め、なかば命令するように、シロヤナギに給水をうながした。が、シロヤナギはわずかにボトルに口をつけるのみで、飲みたくない、飲むとさらに気分がよくない、と言ってすぐにボトルのキャップを閉じてしまった。


 その日の正午が来たとき、4人はまだ、2日目の行程予定の3分の1以下の地点で停滞していた。周囲をとりまく山なみはいよいよ深くなり、苔むした小トンネルや、崩れる手前の不安定な橋で渓流を渡るポイントが増えた。無音のまま着実に高度を上げた真夏の太陽は、もうすでに西方向に高度を下げる段階に入ろうとしていた。

「ねえ、ちょっと。待って。呼吸がおかしい。この人、ちょっと普通じゃない」

 そのときシロヤナギの肩をささえて歩いていたサキが、緊迫した声で前をゆくタカキとハルオミを呼び止めた。
 朽ちた線路上に急遽、シュラフと余分の衣類をかさねて即席のマットレスをつくり、そこにシロヤナギを横たえた。シロヤナギは熱にうかされて「大丈夫だ、問題ない、」と二つの言葉をうわごとのように連呼していたが、意識は朦朧として、ぜえ、ぜえ、と肺の深いところで不吉に荒い呼吸音が鳴っていた。

「ねえ、薬とかは? なにか、常備薬? なんかシロさん、持ってきてないの?」
 サキがシロヤナギの耳元でささやいた。蒼白なシロヤナギはかすかに半目を開け、「…ある。バッグの、中。ブルーのタッパー、ウェア、」と、消えそうな声で言い、かすかにサキに微笑した。
「えっと。どれだ。どれだ。どれだどれだどれだ」
 パニックを起こしたハルオミが、バッグの中身をすべてぶちまける勢いで中身のものを外に投げていく。
「おい。落ち着け、ハルオミ。ブルーの、って言ったろ。それじゃないのか。それ。」
 タカキがその小さな円筒形のタッパーウェアを拾い上げ、キャップをあけてシロヤナギの目の前に持っていく。
「これか? これで合ってるか?」
 耳のすぐそばでタカキが呼びかける。それだ。8錠だ、と。シロヤナギが片目だけ開けてわずかに唇を動かした。

 楕円形のライトブルーのタブレットをシロヤナギの唇に運ぶと、かろうじて彼女はそれを口の中に受け入れたが、水のボトルを自分で口に咥えることができず、ハルオミがボトルを近づけてなんとか口に流し込むしかなかった。
 が、水がのどに直接入ったらしく、ゲホッ、と大きくむせて、シロヤナギはタブレットごと、すべての水を吐き出してしまった。
「わたしがやる。」
 サキが、新たにタブレットを8錠、まずは自分の口にふくんでバリバリ奥歯でかみ砕き、ボトルの水も一気に含んで、うがいの要領で薬剤と水とを口の中でかき混ぜた。強引に混合したその口の中の苦い液体を、そのあと直接シロヤナギの唇へ。自分の唇を、シロヤナギに強く直接押し付ける形で。
 少しずつ、少しずつ。自分の舌で、確実に、シロヤナギの唇の内側へ。
 舌で、ゆっくりと、そこに少しずつ押し込んでいった。シロヤナギは最初おどろいたように目を見開き、ほぼ触れる距離に近接したサキの真剣な瞳を見返した。しかしサキの意図を理解したのか、シロヤナギはまもなく、こわばった体の力をゆるめ、あとはされるがままに、サキから届くそのぬるい液体をゆっくりと受け入れ、喉の奥に落としこんでいった。


 ずいぶん時間はかかったものの、薬は確かに効果を発揮した。
 シロヤナギの呼吸はさきほどよりも遅く安定したものになった。シロヤナギを寝かせた場所からほど近いレールの上に三人は並んで腰をおろし、さきほど浅い眠りに落ちたシロヤナギを、そこからそっと見守っていた。
「ねえ、どうする?」
 サキが、タカキの耳もとでささやく。
「さっきより、だいぶ、安定してるけど。ここから、どうやって、戻ればいいのか――」
「もうちょっと、今のまま、寝かしとくほうがいいな。呼吸が安定したのは何よりだ。しかし。どうだろう。はたしてこのまま――」
「おれが。おれがダメ、だったんだ。おれが止めるべきだった。無茶だって。それはムリな旅だろう、って。」
 ハルオミが両目から涙の粒をぽろぽろ落として、両手で自分の頭をぐしゃぐしゃと掻きむしった。そのあと右腕で涙をぬぐうと、涙と鼻水と唾液とでハルオミの顔もぐしゃぐしゃになった。普段なら笑ってからかい半分の言葉を投げつけるだろうタカキも、いまは横目でそれを見るだけで、特に何か言うことはなかった。