浅間までは車で四時間ほどで着いた。
希望は車に乗っている間に、決心をした。
殺されるわけじゃないもの。
真紀と結婚するだけだって思えばいいじゃない。
ネアンデルタール人の遺伝子を持つ子供をたくさん作って、そして、ホモ・サピエンスと交配させて、強靱な新しい人類を作り上げていく。
そこまで考えると気が遠くなりそうだったが、希望のすべきことはひとつだ。
健康に長生きしてたくさんの子供を作ること。
それが人類の役に立つなら、こんなにいいことはないじゃない。
目を閉じると、高斗の顔が浮かんでしまう。だから希望はできるだけ目を見開いて研究所に入った。
「希望、久しぶりね」
研究所のエントランスで声を掛けられ、希望は眉を顰めた。
伯母だ。
希望はちょこんと頭を下げる。そしてそのまま横を通り過ぎようとした。そのすれ違いざまに「本当に気持ち悪い子だね」と囁かれたが、どうでも良かった。
「じゃあ、希望さん、ここに入って」
和哉に言われたのは、真っ白な部屋。
「あと、これね。熊鷹の腹の中から出てきた。あなたのでしょ」
和哉が手にしていたのは小さな機械。
「違いますけど」
見たことのない機械だ。すると和哉は首を横に振った。
「ああ、ごめんね。言い方悪かったね。これはあなたのものなんだよ。居場所を知らせる発信器。あの夫婦、死ぬ前にこれをあなたの体から外しちゃったようだね。また付けるから。手術は明日辺りでいいかな」
希望は首筋に手をやった。あの時のものか。
真紀が唇を歪めた。
「発信器を追ってたら、砂漠の中で迷子になりかけたよ。しかも、そこに希望はいないと来た。匂いが茨城方面からしたからなんとかなったけど」
希望は首を傾げた。
何故両親は発信器を外したのだろう。
希望を人体実験の道具にさせないようにだろうか。
でも。
希望は疑問がわいてきた。
両親も研究者だったはず。結局は人体実験をするために育てていたのではないのだろうか。神社のあの日までは知らなかったとは言え、知らされてからはそのつもりで育てていたはずだ。
希望が自分の世界に入っていると、真紀が声を荒げた。
「聞いてる!?」
「えっ、ごめん。聞いてなかった」
「和哉さんの話ちゃんと聞いててよね。番うのは、明後日からだそうだから」
「え……」
心臓がどくんと高鳴る。
「は、早くない……?」
理解して、決心したはずなのに、心の準備が整ってないなんて。
真紀はあざ笑うようにこちらを見た。
「急がないとダメでしょ。もう希望は二十歳過ぎてんでしょ」
「う、うん」
希望は一瞬気圧されたものの、すぐに不機嫌になった。
もう、って何よ、もう、って。まだまだ若いじゃないの。
その不満が顔に出ていたのだろう、真紀は苛立ったように言った。
「まさか、自分が生理終わるくらいまで長生きできるとか思ってないよね?」
「……え?」
言われた意味がわからなかった。
生理が来なくなるのは、個人差はあろうが、だいたい五十歳前後だろう。普通それは「長生き」の部類に含まれない。
どういうこと?
真紀はこちらをじっと見つめると、「ああ、そうだよね。ごめん」とおざなりに謝った。「私も聞いた話だからよくわからないんだけどね」
そう言って、真紀は話始めた。
「数万年前の人間だよ。それが解凍されて生きてたってだけでも奇跡だ。現在のコールドスリープ技術は三十年が限度。それを過ぎると、解凍後の寿命が一気に縮む。今までの実験の計算上、数万年前となれば」
希望は息を飲んだ。
「もう、死んでてもおかしくないよ」
***
「もしもし。お客様」
夜も更けてきた頃、高斗の住まいに一人の女性が訪れた。
「女将」
昨夜宿を借りた旅館の女将だ。
「どうしました。俺何か忘れ物でもしてきましたか」
女将は首を横に振りかけて、そして「はい、忘れ物です」と答えた。
高斗が何を忘れたのかと考えていると、女将は一冊の本を差しだした。
「ん? これは俺の本じゃ……」
「古事記の伝説を知っていますか」
被せ気味に女将が言った。その本の表紙には「古事記」と書いてあった。
「まあ、だいたいは」
女将が何を言おうとしているのかわからず、戸惑う。高斗の戸惑いには構わず、女将は続けた。
「木花咲耶姫は、繁栄の証ですが、自分の寿命は短いのです」
「はあ」
木花咲耶姫は聞いたことがある。いや、確か希望と行こうとしていた神社の祭神ではなかったか。
「お嬢様……希望さんもそうです」
「え?」
突然希望の話になって、高斗は襟を正した。
「希望さんのご両親は、その短い人生を、普通のホモ・サピエンスと同じように過ごせるようにと願っておりました。だから浅間を出て、希望さんのことを知る人のいない大宮で暮らしていたのです。……きっと、二十歳になる前に亡くなってしまうだろうと」
高斗は手を振った。
「いやいや、待ってください。このはななんとかと希望は関係ないんじゃ」
「関係ないですね」
あっさり言われて、高斗は拍子抜けした。
「からかわないでくださ……」
「けれど、希望さんの命が長くないのは、あなたもわかるでしょう? 数万年前に生を受けた命が、そんなにもちますか?」
そう言われて高斗は口ごもった。
「それを言ったら、生きてたことが奇跡なんだからもっと長生きできるかもしれないし」
「これまでの実験上、長くはないだろうな」
声のしたほうを振り返ると、いつからいたのか瞳が立っていた。その後ろに青い顔をしたあかりが佇んでいる。
「そんな……」
高斗は膝から崩れ落ちそうになった。
やっと心が傾いてきたところだったのだ。「離れていても、希望が幸せに暮らしていてくれるならば」と。
「希望さんの時間は長くありません」
女将は静かに断言した。
「それだけを言いに来ました」
女将は頭を下げて帰って行った。
「たかと……」
あかりが声を震わせた。
「ごめんね、あたしがやられちゃったから、希望ちゃん、連れ去られちゃって」
「違う」
高斗はあかりの頭をぐしゃりと撫でた。
「あかりは悪くない。希望がそれを望んだんだ」
「でも! ちゃんとお別れできてないんでしょう……?」
「お別れ?」
高斗は声を荒げた。あかりがびくりと肩を震わせる。
そうだ、このまま別れるつもりだったんだろう? 離れていても幸せならば、というのはそういうことだ。自分は希望の側にいられなくてもいいと、そういうことだ。
「ありえねえ……」
高斗は呻いた。
そんなの嘘だ。
自分は見たくなかっただけだ。希望が自分以外の男と番うのを。
秤にかけた。一緒にいたい気持ちと、見たくないものを見ないことを。
今、一緒にいなければ、希望はいつこの世からいなくなってしまうかわからないのに。
「瞳!」
高斗は叫んだ。
「ーー決めたのか」
瞳がこちらを真っ直ぐに見た。高斗は頷いた。
「俺も浅間研究都市に行く」
***
希望はぼんやりと部屋の中にへたりこんでいた。
あたし、もう死ぬの?
そう思うと恐怖が生じると共に、疑問もわいてきた。
ちょっと呑気すぎないかな。
自分でも他人事のような考えで笑ってしまうのだが、そう思わざるを得ない。もう死んでてもおかしくない貴重な実験体なのに、二十歳過ぎるまで野放しにされていたのだ。いや、発信器はつけられてはいたらしいが。
自分が研究者の立場だったら、生殖可能になった時点で卵の確保に乗り出すし、真紀を先に別の女性と番わせたのも意味がわからない。
希望は膝を抱え込んだ。
「まあ、もう死んじゃうならなんでもいっかー」
眠くなってきた。ずっと気を張り詰めていたからだろう。眠いのを堪えてなんとかベッドまで歩いて行く。そこにごろりと横になり、希望は目を閉じた。まなうらに、好きな人の面影が浮かんだが、見えないふりをした。
***
高斗は自室に戻り、浅間へ移動する準備を進めていた。元々荷物はそれほど持っていない。リュック一つとトランク一つに全て収まった。
「高斗、いるよね?」
部屋の外からあかりの声が聞こえた。高斗はドアを開けた。あかりはお腹をさすりながら泣きそうな顔で立っていた。
「あたしはちょっと遅れていくね」
「そうなのか?」
一緒に来るものだと思っていたが。
「うん。ちょっと体調良くないし、臨月だから移動中に産気づいても困るし」
「それはそうだな」
予定日まではまだあったが、早まる可能性は十分にある。出産前に浅間に着いたとしても、慣れない場所ではなかなか不安だろう。
「てことは、瞳も残るんだよな」
あかりは申し訳なさそうな顔をした。
「うん。結局高斗一人で行くことになっちゃってごめんね」
「いや、そんなのは別にかまわないけど」
瞳のつなぎがなくても和哉に会えるのだろうか、そう一瞬不安に思ったが、狭い都市だなんとかなるだろうと思い返した。
「じゃあ、元気な子供を産めよ」
あかりに笑いかけると、あかりはきゅっと口を結んでから「希望ちゃんに会ったらよろしく伝えておいてね」と笑い返した。
用意があらかた整ったところで、荷物を持って部屋を出る。玄関に向かっていると、瞳が玄関前で待っていた。高斗は軽く手を上げた。
「じゃあ、一足先に行ってるから」
瞳は無言で頷いた。そして、そっとこちらに近づくと、声をひそめた。
「もしかすると、行くのが遅くなるかもしれん」
「ああ、あかりの出産がいつになるかわからないもんな」
そうすると、瞳は眉を寄せた。
「それもあるが。研究所の方でトラブルがあって、すぐには移動できなくなった」
高斗は目を見開いた。
「そうなのか。そりゃ大変だな」
「ああ。和哉には連絡を付けて了承をもらったが、不信感を抱かれたようだ。が、情けないが俺は和哉に逆らう気はない。俺は俺と家族のことが一番大事だ。もし和哉が不審に思ってるようだったら、お前からもフォローしておいてくれ」
「ああ、そんなことならまかせとけ」
高斗は瞳に請け合って、手を振ろうとした。その手を掴まれた。
「これ、持っていけ」
「あ?」
瞳から手渡されたのは小さな苗。真空パックされている。
「お前が運んできてくれたあの植物を利用してちょっと別の植物と掛け合わせてもらった」
高斗は首を傾げた。
「俺、育て方とかわかんないけど」
瞳は「持ってるだけでいい」と呟いた。
「何か役に立つかもしれないし、立たないかもしれないが。お守りがわりだ。捨てるなよ」
「捨てねーよ」
高斗は笑った。そして、今度こそ瞳に手を振って、家を後にした。
***
和哉は電話を切った。窓の外を見る。真っ暗だ。都市とは言え、二百年前のような華やかな街は、既に日本にはなかった。
「瞳は本当に来るのかな」
スマホを放り投げる。まあ、あれだけ脅しておいたのだから大丈夫だとは思うが。
瞳の頭と研究成果が欲しい。
瞳は今、植物の成長を早める研究をしている。
それを人間に応用したい。
時間がないのだ。
真紀のネアンデルタール人化がもう少し早く成功していれば、すぐにでも希望に番わせられたものを。
先輩達の研究でわかってきた。既にホモ・サピエンスとしてこの世に生を受けてしまってからでは、遅いようだ。遺伝子操作が失敗する確率が高い。
希望の誕生が確認されてから、真紀の前に数十人の子供たちに遺伝子操作をしてきたが、拒絶反応で亡くなってしまうもの、数年しか生きられないもの、などがほとんどだったそうだ。だから、真紀を最後に子供に対する遺伝子操作は行われていない。
今行われているのは、受精卵の操作だ。
気が遠くなる。
和哉はため息をついた。
今生まれ始めているネアンデルタール人が生殖可能年齢に達するまでに、十年以上はかかる。その頃には希望は既に亡くなっている可能性が高いから、それらの個体は、希望と真紀の間の子供か、もしくは希望と他のホモ・サピエンスとの間の子供となることだろう。そのつもりで今の研究者達は研究を続けている。
遅い。
希望と番わせたい。真紀だけでは足りない。
より濃いネアンデルタール人の遺伝子を持つ人類がもっと欲しい。
ホモ・サピエンスは砂漠では生きられない。いや、生きられなくもないが、かなりの困難を伴う。水が生命維持に不可欠だからだ。
しかし、ネアンデルタール人は違う。
昔は、ホモ・サピエンスよりも強靱な肉体と容量の大きい脳を持つということだけしかわかっていなかった。しかし、希望とその母親の個体が発見されてから数年の研究の後、あることがわかったのだ。
ネアンデルタール人は、ホモ・サピエンスの半分の水があれば肉体を保つことができる。
これなら、この先砂漠化がさらに進んでも、ネアンデルタール人は生きながらえることができる。ホモ・サピエンスは地球の砂漠化を止められていない。
ホモ・サピエンスが絶滅するのはもう仕方がない。もって、あと三百年くらいというところか。しかし、ネアンデルタール人がいれば、「人類」の絶滅は免れる。
「足りないんだよね、もっと欲しいんだ、ネアンデルタール人が」
和哉は胸元から煙草を取り出した。
自分ほど人類の未来について考えているホモ・サピエンスはいないだろう。
「あの夫婦もな」
希望の育て親は、血の繋がらない希望に情がわいてしまったらしい。「その時が来るまでは、普通の人間の子のように過ごさせたい」そう言って、居を大宮に移してしまった。当時はまだ、ネアンデルタール人が水分をホモ・サピエンスほど必要としないことはわかっていなかった。だから、浅間も簡単に彼女を手放した。
希望が十歳になった時、「その時」が来た。
希望は初潮を迎えた。当時真紀はまだ普通のホモ・サピエンスであり、誰も番い候補はいなかった。体も未成熟だ。無理に性交渉をさせて、大切なネアンデルタール人を壊してしまうわけにはいかない。そうとなれば、卵子の保管をすることが急務になる。
「大宮なんかに行かせなければ良かったのに」
和哉はため息をついた。
大宮では、優秀な精子と卵子はオークションで高値がつくほどの優勢遺伝子第一都市だ。卵子の保管などさせたら、どこから売りに出されてしまうかわからない。そして、どこからかネアンデルタール人の秘密が漏れてしまったら……。
だから、何もしなかった。危険を冒すことはしなかったのだ。
「各研究都市は、人類の未来の為にその研究成果をおおっぴらにする」というのは、嘘だ。絶対にどの都市にでも自分のところだけで秘密にしている事がある。
そんな中、真紀と番わせる手筈がやっと整ったというのに、大宮で暴動が起きて、希望は行方不明ときた。
「でも、やっとだ。やっと人類に希望が見えた」
ーーホモ・サピエンスなど、滅びてしまえばいい。
和哉は、胸ポケットから小さな骨壺を取り出して、薄暗い電灯の明かりに透かした。
***
四時間ほどで、浅間研究都市に着いた。山の向こうの空がぼんやりと白み始めていた。
浅間は都市の周囲をぐるりと塀で囲まれている。都市への入り口は、数カ所しかない。とは言え、普段は封鎖されているわけでもなく、誰でも自由に出入りできる。
そのうちのひとつの入り口の前までやってきた。
「案内所がこのへんにあるかな」
高斗は車を路肩に止め、道に降りた。しばらく歩くと、大きな看板のような物が見えた。
「なんじゃこりゃ」
案内板だと思ったものには単に「ようこそ、浅間へ」と書かれているだけだった。
高斗は和哉に連絡を取ってみようと思った。まだ電話番号が変わっていなければ繋がるはずだ。
「お客様のお掛けになった電話番号は……」
高斗は電話をきった。瞳に和哉の連絡先を聞いてくれば良かった。この時間に瞳に電話したら迷惑だろう。和哉の野郎は別にかまわないが。
つい勢い込んできてしまったが、こういうところが自分は抜けている。
仕方ない、朝まで車で待って、夜が明けきったら都市の中に入ろう。道を聞ける人くらいいるだろう。
そう思って車に戻ろうとした時だった。
「ん?」
門のあたりで明かりがちらちらとしている。人がいるのだろうか。高斗はそちらに足を向けた。
明かりは背の高い草の奥から見えてきた。かさりと草をかき分けて進んでいく。
「誰!?」
誰何され、高斗は足を止めた。聞いたことのある声だった。
「真紀?」
草の中には、蹲った真紀がいた。
「なんだ、高斗か。びっくりさせないでよ」
ほっとしたように言うと、真紀は口元を拭った。
「いや、そりゃこっちのセリ……ん? お前怪我してるのか」
手と口元に、血がついている。それを指摘すると、真紀は「あ、これ?」と言って立ち上がって反対の手を掲げて見せた。
その手にあるのは、ファーストフード店でよく見るあれだ。
「チキン食ってたのか?」
小さな骨に、肉が付いている。
「そうだよ。今獲ってきたの」
ほら、と真紀が地面を指さす。目が闇に慣れると、暗い地面にうっすらと影が浮かび上がった。
「熊鷹、か?」
そこには、羽を片方千切られた大きな鳥が転がっていた。高斗は眉を顰めた。
「お前、生で食ってたのか? 腹、壊すぞ」
「壊さないよ。今まで壊したことないから」
なんでもないことのように言うと、真紀は再び腰を下ろした。高斗は真紀を見下ろしながら首を傾げた。
「何度も食ったことあるのか? そんなもん」
「あるよ。だって、こいつらが狙ってくるからさ」
そこで高斗は思い出した。希望もそうだったことを。
「……ネアンデルタール人は熊鷹に狙われやすいのか?」
真紀は一瞬驚いたように目を見開いた。そして、納得したように頷いた。
「そうだよね、もう聞いたんだよね。私と希望がネアンデルタール人だって」
「……ああ」
「それで、希望を追って来たの?」
「そうだ」
真紀は呆れたようにため息をついた。
「気持ち悪くないの?」
「ん? 何がだ」
「ネアンデルタール人が」
高斗は脳内で言葉を探した。
気持ち悪くはない。が、得体のしれないモノに対する畏怖のような感情があることは否定できない。
「別に気持ち悪くは……」
「私は気持ち悪いよ」
被せ気味に真紀が断言した。高斗を見上げる。
「自分も気持ち悪いけど、とにかく希望が気持ち悪い」
高斗はムッとした。その表情を真紀が見つめてきた。
「嫌だよ、数万年前のホモ・サピエンスとは違う人類なんて。人間じゃない」
「いや、同じ人類だろ」
「違うよ」
真紀は手の中の肉の付いた骨をぼきりと折った。
「わたしは言われてきたよ。気持ち悪いって。大事な実験体に対して随分なモノ言いだよね? でもまあ気持ちはわかる」
高斗は真紀を黙って見下ろした。
「わたしも嫌だよ。希望と番うなんて」
その瞬間、高斗の拳に力が入った。が、何も言えずに真紀の言葉の続きを待つ。真紀は目を下に落とした。
「コレ、食べても羽は生えないよね」
ぽつりと真紀が呟いた。
「こいつらは、同じく遺伝子操作されてる。正確には希望の母親から取った遺伝子を入れた個体の子孫達だ」
「進化じゃないのか?」
真紀はぷっと吹き出した。
「数十年でここまで一気に進化するわけないでしょ。ホモ・サピエンスに入れる前に、害がないか熊鷹に入れたんだよ。多分だけど、ね」
「鳥になんか入れるか?」
試すなら、マウス、もしくは猿の類いではないのか。高斗は首を傾げた。真紀は淡々と説明した。
「研究所にいっぱいいたから。絶滅危惧種で保護していた個体が。それだけだろうね。それで遺伝子が合わなくて絶滅しちゃってもまあいいかと思った種だったんでしょ」
真紀は立ち上がった。
「だからこいつらは、同じ遺伝子を持つネアンデルタール人を狙う。食ってより強い個体になろうと本能が教えてるのかもしれないね。だから私も食べ始めたんだけど」
真紀の顔が青くなっていった。
「ねえ、羽が生えて逃げられたらいいのにね。希望みたいな化け物と子供なんか作りたくないよ……」
「化け物、っておま……」
「真紀!」
遠くから声が聞こえた。がさがさと草をかき分けてこちらに近寄ってくる。
その声は、聞き間違うはずがなかった。
「いるんでしょ、発信器外しちゃったから探せないって、和哉さんが……」
そこで言葉は途切れた。
「希望……」
高斗は絞り出すようにその名を呼んだ。
会わなかったのは、ほんの一日にも満たない時間だ。けれど、高斗にとっては、とてつもなく長い時間に感じられた。もう、一生会うこともないかと心を過ったほどに。
「な、んで……?」
希望が唇を震わせる。そして、はっとしたように、逃げ出した。
「あ? おい、なんで逃げる……」
後ろでは、真紀が反対方向に駆け出した。高斗は舌打ちした。
どちらを追うかは迷うまでもなかった。
「希望!」
草に足下を取られながら、林の中を駆けていく希望の腕をやっとのことで掴んだ。希望が逃れようと腕を振り回す。
「落ち着け!」
高斗は希望を地面に押さえ込んだ。そうでもしないと、希望の腕力には叶わないと知っている。
「なんで逃げるんだ」
仰向けの希望の上に跨がって、高斗は詰め寄った。腕を振り回さないように、両手首を地面に押さえつける。希望は倒されて呆然とこちらを見ていたが、やがて涙目になった。
「それはこっちのセリフだよ!」
希望が叫んだ。
「なんでこんな所にいるの!?」
「なんでって、俺も浅間に住む予定で……」
「え?」
希望がきょとんとする。高斗は説明を始めた。
「瞳が。和哉に脅さ……誘われてこっちの研究所に来ることになって。でもあかりが臨月だから俺が先に」
その説明で間違っていない、そう思ったのだが。
希望の目から感情が消えた。
「そっか。引っ越しなんだね」
希望の抵抗する力が弱まったので、高斗も押さえつけていた手首の力を弱めた。希望が高斗の体をすり抜けるように半身を起こした。
「じゃあ、元気でね」
立ち上がりかけた希望の腕を慌てて掴んだ。
「待てよ。なんでそこでお別れの挨拶なんだよ」
希望の両肩を掴む。希望は目線を逸らした。
「だって、もう会うこともないでしょう?」
「だから、なんでだよ」
希望は顔を上げた。そして、こちらをキッと睨み付けた。
「あたしみたいなのと一緒にいるの、気持ち悪いでしょう!」
そう叫んだと同時に、希望の目から涙がこぼれ落ちた。
「なんでだよ!」
高斗は希望の体を抱き締めた。逃げられないようにきつく。
「離し……」
「離すか」
希望はしばらく腕の中で抵抗していたが、やがて諦めたように力を抜き、高斗の胸の中に収まった。
「なんで……」
希望の口から言葉がこぼれ落ちる。
「一緒にいたいからだ」
高斗は希望の髪に顔を埋めた。抱き締めている体がかすかに震えた。
「でも、あたし、気持ちわる……」
「気持ち悪くない。好きだ」
言葉を途中で遮って、唇を己のそれで塞いだ。何度か舌を絡めてお互いの息が上がってきた頃、高斗はそっと希望の体を横たえた。
「待って!」
希望が腕を突っ張って高斗の体を拒否した。
「そんなには待てない」
希望の髪に触れながらそう言うと、希望はおどおどとした表情で呟いた。
「あたし、ホモ・サピエンスじゃないんだよ……?」
高斗は微笑んだ。
「どうでもいい。お前がお前なら」
希望の腕から力が抜けた。その腕に、そっと口づける。
「お前のことが好きだ」
そして、彼女の体を求め始めた。
***
おぎゃあ、おぎゃあ、と赤ん坊の泣き声が聞こえる。
瞳は座布団から慌てて腰を上げた。
襖を開けると、中から産婆が出てきた。
「おめでとう。予定日よりちょっと早かったけど、元気な男の子だよ」
瞳はその腕に抱かれる赤ん坊をまじまじと見た。そして、慌ててその奥に横たわる妻に目をやる。
「奥さんも、元気だよ」
産婆にそう言われるまでもなく、あかりはぐったりした様子ながらも、こちらを見て微笑んだ。瞳は妻の側に行き、その手を取った。
「よく頑張ったな」
あかりは嬉しそうに笑う。
「うん。ちょっと辛かったけど、あかりさん頑張っちゃったー。昨日浅間に行かなくてよかったね。車の中で産気づくとこだった」
日が昇ってきた。室内にまぶしい光が差し込んでくる。
産婆がこちらに近寄ってきた。
「奥さんよく頑張ったわねー。この子、こんなに大きいもの」
そう微笑んだ後、少し首を傾げた。
「でも不思議ね。とても軽いわ」
***
「高斗。夜が明けちゃうよ」
寝転びながら抱え込んだ希望が、もぞもぞと動いた。
「ああ。服着るか」
だるい体を起こす。体はだるいが、気力は漲るようだった。
希望ものろのろと起き出した。
着替え終わった後、希望は膝を抱えて動かなかった。
「どうした?」
高斗が髪を撫でてやると、希望はぎこちない笑顔を作った。
「あたし、帰らなきゃ」
自分の顔が一瞬で強張るのがわかった。
そうだ、わかっていたはずだ。
自分は希望に会いに来た。
そう、会いに来ただけだ。
希望はこれからネアンデルタール人である真紀と夫婦になる。その後は、体外受精でネアンデルタール人の遺伝子を持つ子供をたくさん作っていく。
それが、希望のたいして長くないだろうこの先の未来。
そんな彼女の側にただ、いたかった。
「……欲が出てきた」
高斗は膝の間に顔を埋めた。
「欲?」
希望がこちらを覗き込んでくる。高斗は顔を上げた。
「お前を誰にも渡したくない」
その言葉に、希望は一瞬だけ嬉しそうに頬を緩めたが、すぐに寂しそうに笑った。
「でも、あたし戻らなきゃ。人類を絶滅させるわけにはいかないもの」
高斗はその顔をじっと見つめ続けた。
多分。希望はもう決心している。
自分の遺伝子で人類を滅亡の危機から救おうと。
一緒に逃げないかと誘っても、きっと断るのだろう。
ならば。
「なあ。俺を和哉に会わせてくれるか」
***
「松山さん、申し訳ありません。至急来てください」
その電話が入ったのは、あかりが出産してから半日と経っていない昼頃のことだった。
「今すぐにか」
相手は瞳が妻の出産に立ち会っていたと知っているはずだ。それでもなお電話を寄越すくらいなのだから、今すぐなのだろう。それでも確認したくなる気持ちにはなった。
「瞳くん。あたしは大丈夫だよー。産婆さんたちもいるし。お仕事行ってらっしゃーい」
あかりが呑気な様子で手を振る。瞳は苦笑した。
女のほうが度胸が据わってるな。
瞳は「早めに戻る」と言って、家を出た。
残されたあかりは赤ん坊を抱いてそのぷにぷにした頬をつついた。そして微笑みながらひとりごちた。
「大丈夫。大丈夫だよ。ネアンデルタール人にされちゃっても、あたしたちの大事な子だからね」
「お、これはどうしたってんだ」
瞳は目を見開いた。
研究所内のハウスの中。研究していた植物が今にも溢れようとしていた。
部下の一人が泣き笑いをしながら悲鳴を上げた。
「どうしたもこうしたも。松山さんが交配した、竹と矢車菊からできた植物、やばいっすよ」
その植物は、音が聞こえてくるくらいにょきにょきと目の前で成長をしていた。
「こりゃ、一日で三十センチは伸びますね」
「真空パックで良かった……」
「え?」
「いや、こっちの話だ」
瞳はハウスの天井を見上げた。一週間もしないうちに天井にまで届くかも知れない。
高斗にやったのは、この苗だ。
***
「お、お前だけ先に来たのか」
研究所の応接室で、和哉は高斗を迎え入れた。
希望は和哉と高斗を引き継ぐと、発信器を首に埋め込む手術に向かった。
本当はそんなものを希望の体に埋め込みたくはないのだが、希望が拒否しないものを自分がどうこうできるはずもない。
「久しぶりだな」
高斗は進められたソファに腰を下ろした。和哉が胸ポケットから煙草を取り出した。
「で、なんだ、話って。手短にお願いしようか」
「俺をネアンデルタール人にしてくれ」
和哉の手から煙草が落ちた。
「手短過ぎだ」
「お前がそう言ったんだろ」
高斗は和哉を見据えた。その瞳に全く臆することもなく、和哉は見つめ返してきた。
「なんでだ、と言いたいところだが、理由はわかる。希望の番いになりたいのだろう」
無言で頷くと、和哉は呆れたように肩をすくめた。
「たかが女一人の為に、ホモ・サピエンスであることを捨てるのか」
「そうだ」
「ははは。これは面白い」
和哉は全く面白くなさそうに笑い声を上げた。
「その純愛に免じてお前をネアンデルタール人にしてやろう、と言いたいところだが、不可能だ」
「なんでだ」
最初は断られるだろうと思ってはいたが、「駄目だ」ではなく「不可能だ」というのは何故か。
和哉はかわいそうなものを見る目で話し始めた。
「お前は知らないんだな。残念ながらな。生まれてからのネアンデルタール人の遺伝子注入で成功したのは、真紀一人だ。現在は、全て受精卵の段階で操作をしている」
「そうなのか……?」
高斗は目を見開いた。顔が赤くなるのを感じる。自分の無知を恥じた。
ネアンデルタール人になりさえすればいいものだと簡単に思っていた。
「そうだ。だからお前はもう生まれてるからネアンデルタール人にはなれない」
「でも、真紀は成功しているんだろう? ならもしかしたら俺も……」
「バカが。貴重なネアンデルタール人の遺伝子を、失敗必至な実験になど使えるか」
一笑に付され、高斗は唇を噛んだ。
「まあ、体外受精でお前の精子を使うくらいのことはしてやる。それで諦めろ」
和哉が立ち上がる。
「じゃあ、これで話は終わりだな。俺は明日の準備に向けて忙しいから失礼するぞ」
「待て!」
高斗は立ち上がった。
「どうしても、ネアンデルタール人の子供が必要なのか?」
和哉は眉を顰めた。
「それは、もちろん」
高斗は唾を飲み込んだ。前々から心のどこかで思っていたことが顔を覗かせてきている。言っていいものかわからない。けれど。
「ーーこのまま、人類が緩やかに滅びるに任せるってのは、駄目なのか?」
「駄目に決まっている!」
和哉が応接セットのテーブルを蹴倒した。高斗は突然怒りだした和哉に面食らった。
「お前は! 自分が何を言っているかわかってるのか? 人類が滅びるだと? それじゃあ今まで犠牲になってきたホモ・サピエンス達はどうするんだよ!」
そのあまりの興奮の仕方に、高斗は返って冷静になった。
「それは、もう返ってこないから仕方ないだろう?」
「仕方なくない!」
和哉の胸元から、何かが投げられた。
「いてっ……て、なんだ、これ」
高斗はキャッチした手のひらの中のそれを広げて見つめた。
骨壺?
「それは、俺の子供だ」
ぜえぜえと肩で息をしながら和哉が答えた。高斗は和哉を見つめた。
「お前、子供いたのか」
和哉は自らを落ち着かせるようにソファの背もたれに手をついた。
「ああ。本当は被検体になんかしたくなかった。失敗続きなのは知っていた。けど、あいつらが『ホモ・サピエンスとネアンデルタール人の交配種を作るしか、ホモ・サピエンスに残された道はない』って無理矢理……!」
高斗は口を噤んだ。和哉はしばらく俯いていたが、そろりと顔を上げた。
「お前、さっき、人類が滅びればいいって言ったな?」
「滅びろとまでは言ってな……」
「俺は、ホモ・サピエンスは滅びればいいと思っている」
高斗は和哉の顔をまじまじと見つめた。
「どうせ脆い人類なんだよ、ホモ・サピエンスは。豊富な水がなきゃ生きていけない。俺も、お前もな。けど、ネアンデルタール人は違う。水が少なくても生きていけるんだ」
「だから、か」
おかしいとは思っていた。いくらホモ・サピエンスより肉体的知能的に優れているとは言え、所詮同じ人類だ。必死になって研究しても同じく絶滅の一途を辿るのではないか、そう心の隅で感じていた。
「その子はな」
和哉が高斗の手の中の骨壺を差した。
「一年ほどネアンデルタール人として過ごした」
和哉は暗く笑った。
「ネアンデルタール人は生き延びなければならない。俺の子供の同胞が生きていれば、それは俺の子が生きているのも同じだ」
***
手術は一時間ほどで終わった。
希望は首筋に手をやった。懐かしい感じがする。それはそうだろう、生まれてからずっと埋め込まれていたのだろうから。
研究所の廊下を自室まで歩いて行く。
これからどうなるのだろう。
高斗はどうやら自分もネアンデルタール人になるつもりらしい。はっきりそう言われたわけではないが、「お前と添い遂げられるかも知れない」と言って和哉に会いに行った。
そうなったら、いいな。
自分の卵子が人類の未来の為に実験で使われても。高斗がずっと側にいてくれるならば。
希望はそこまで考えてふっと苦笑した。
多分、無理だよね。そんな簡単にホモ・サピエンスがネアンデルタール人になれるわけない。なれるのならば、きっとなることを望む人は多いはずだ。差別されることより、自分の遺伝子を残すことを望む人は、きっといる。
どうなるのかな。あたしは真紀と結婚するのかな。
そこまで考えてやっと思い出した。
真紀はどこへ行ったのだろう。
あの後、部屋に戻ったのだろうか。
その時だ。
曲がり角の奥の部屋からがやがやと人が騒いでいる声が聞こえてきた。
なんだろう?
希望はそちらに足を向けた。
「ヒト殺し!」
希望はぎくりとして足を止めた。
部屋の中からは、若い女性が髪を振り乱しながら飛び出して来た。
「お待ちください、お嬢様!」
中から二人ほど中年の女性が現れて彼女を押さえつけた。
彼女はそれを振り払った。
「どういうこと! 水分を摂らなくても二、三日くらいなら生きられるって言ったじゃない!」
「ですから、それは、まだ赤ちゃんが小さすぎて無理だったと実験の結果から……」
「ふざけるな!」
彼女は中年女性を張り倒した。
「なんなの!? あたしが何したって言うの? ただ所長の娘に生まれただけじゃない!」
そう叫ぶと、こちらに向かって駆け出してくる。立ちすくんでいる希望に気づいて、はっと目を見開いた。
「あんた、もしかして、ネアンデルタール人の……?」
希望はどう答えていいのかわからず、あいまいに笑った。彼女は「隠さなくっていいのよ」と引きつった笑いを漏らした。
「この研究所にネアンデルタール人を引き取ったってのは皆知ってるから。……それに、あたしわかるの」
彼女は棒立ちになった。そしてカラカラと笑い始めた。
「ネアンデルタール人とセックスさせられて、子供産まされたから」
希望はわけがわからず「そうですか」とただ頷いた。彼女は背の高い希望を見上げた。
「あんたの子供もたくさん人体実験されるんでしょうよ。皆死んじゃったら人類は終わりなのにね」
彼女はそう言うと、がくりと膝をついた。
後ろで成り行きを見守っていた二人が歩いてきて軽く希望に頭を下げた。そして彼女を引きずるように部屋に連れ戻していった。
「どう、なるのかな」
あたしは。
どうも何も。
子供を作るマシンとして生きるのだろう。
***
「そうだ、お前もこの研究所に来るんだよな、高斗」
和哉は突然嬉しそうに笑い始めた。
「そうだが……」
警戒しながら答える。
「お前の仕事は確か運送だったな。今俺が研究している薬があるんだ。貴重品だぞ。それが完成したら、それを日本全国にばらまきたい。その仕事を与えてやるからな」
「そんな恩着せがましく言われても嬉しくねえよ」
「どんな研究か知りたいか?」
高斗は小さくため息をついた。人の話を聞いていない。
昔はこんな奴ではなかったのに。少し傲慢で人を小馬鹿にしたようなところがなくもなかったが、ここまで人をろくに相手にしない奴ではなかった。
「ああ、それは知りたいな」
付き合い半分、何か希望の役に立つかも知れないという気持ち半分でそう答えた。
和哉は満足そうに笑った。
「ホモ・サピエンスの胎児を、ネアンデルタール人にする薬だ」
「へえ……」
そこまで研究は進んでいるのか。純粋に感心した。
「まだ治験段階だがな。今のところ胎児は皆生まれることなく死んでいる」
「え……」
高斗は息を飲んだ。
「それは、試験管ベイビーってことだよな……?」
試験管でも生きているものを殺したことに違いはない。だが、せめてもと思い、そう尋ねた。
和哉は小首を傾げた。
「うむ。両方だな。両方のサンプルが欲しいからな」
「それ、ご両親は覚悟の上、なんだよな……?」
死ぬかもしれないリスクを負っても、強靱な肉体を持つ子供を欲しいと願った、という。
和哉は笑った。
「両親になど知らせるものか。断られるに決まっている」
「おま……!」
人でなし! そう言おうと思った。が、言葉が出てこなかった。
和哉自身も無理矢理子供を実験に使われて亡くしている。だからといって同じ事を他の人間にしていいというわけはないが、今の和哉には何を言っても響かないだろう。
高斗は拳を握りしめた。
「母体に注射を打つだけだ。それが胎児に吸収される。両親にバレることなく実験を進められるのだ」
和哉は自慢げに笑った。高斗は肩を強張らせた。
俺は無力だ。
この緩やかに滅びゆく世界で何もできない。
ただ、希望や仲間達と緩やかに滅びていくことを望むことしか。
「楽しみだ」
和哉はうっとりとした表情で窓の外を見下ろした。
「この世界がネアンデルタール人の世界になる」
コンコン、とノックの音がした。
「入れ」
入ってきた男性は「ご報告がふたつ」と言うなり、切り出した。
「まずは、吉報。松山あかり、今朝無事に男子を出産」
「本当か!」
その声はふたつ重なった。
良かった。あかりが眠っていた間に胎児に影響があるのではないかと心配していたが、杞憂に終わったようだ。
「次に、凶報。笹倉梓の女子、今朝死去」
ささくらあずさ? 誰かはわからないが、和哉の知人なのだろう。
目の前に立っていた和哉が大きく舌打ちした。
「二日乳を絶たせただけで死ぬとは、ホモ・サピエンスと変わらないじゃないか」
「どういうことだ?」
報告をした男性が部屋を出て行くのを眺めながら和哉は吐き捨てた。
「真紀とその梓って女の間に生ませた子供だ。何日水分なしで生きられるか実験していたのだが。弱ってきたらすぐ対処しなかったのが問題だったな。貴重な実験体を失ってしまった。責任者は処分しないとな」
「お前……」
本当に絶滅したら駄目なのか?
ふと高斗の心に黒い疑問が湧き起こる。
そこまでしてホモ・サピエンスを絶滅から救う意味があるのか?
すぐ全人類が死ぬわけではない。緩やかに個体は減少していくが、今の自分やその子供世代ではまだ絶滅は免れるだろう。
いいんじゃないか?
今生きている人間が、今幸せに生きられれば。
「失礼します!」
ノックの音なしに、先程とは別の男性が飛び込んできた。
「囲まれています!」
和哉は眉を寄せた。
「何がだ」
男性は息せき切って叫んだ。
「大宮です! 大宮人権団体の戦闘部隊です!」
***
「……これは使えるな」
日が暮れかかっている。帰宅した瞳はあかりに向かって呟いた。
手にはにょきにょきと音がしそうな勢いで蠢いている竹と矢車菊の交配種。
あのすぐ後、研究都市の近くの砂漠に二カ所、一坪ほどの苗を植えてみた。貴重な水を大量にまいた。それから一カ所には一時間おきに水をまいた。もう一カ所には水をまかなかった。
結果は、どちらも枯れなかった。
水をまいた方は、一坪半ほどに増えていた。まかなかった方も、二十センチほどはその範囲を広げていた。
「砂漠化は止められるかもしれん」
ホモ・サピエンスが絶滅の危機に陥っている理由は砂漠化だけではない。
が、砂漠化が止められれば、いや、緑地を数百年前の地球のように増やすことができれば、食物や生きる土地を巡っての戦争は減少する。
そして、地球の緑地が増えれば、ネアンデルタール人でなくても、普通のホモ・サピエンスでも生存することができる。ホモ・サピエンスの遺伝子操作をする必要性がなくなる。
「……やったね!」
あかりが生まれたばかりの子供を抱きながらベッドから笑いかけてきた。
瞳はあかりのそばに膝をついた。我が子を抱き上げる。
「……軽いな」
「でも、大きいよ」
あかりは愛おしそうに微笑んだ。
***
「いったいどういうことなんだ」
和哉は苛立ったように情報を集めていた。
俺がいても仕方ないから、と部屋を退出しようとした高斗を和哉は引き留めた。
「別に希望をさらって逃げようとかしないぞ」
と言ったのだが、信用してもらえなかったのか、それとも和哉なりに心細かったのだろうか。 日は傾きかけている。
大宮の戦闘部隊はじりじりと都市を囲み始め、そして囲みが先程完成したとの報告だった。
その事を高斗に告げると、和哉はまた忙しそうに部屋を出て行った。先程から出たり入ったり忙しそうなことだ。
和哉は研究員だ。戦闘員ではない。
各研究都市には、そこそこの部隊があるが、内戦ができるほどの力は持っていなかった。その上、この大宮人権団体戦闘部隊は、大宮政庁を落とした部隊だ。
希望は元気だろうか。
朝から会っていない。
朝は、俺もネアンデルタール人になって希望と一緒に暮らそうと、希望がなくなるまでの短い間でも一緒にいようと、そう感傷に浸っていたのに、今や戦場のまっただ中にいる。
何故こんなところに攻めてきたのか、という自分の中の疑問はすぐに解決した。
多分、浅間での人体実験が外部に漏れたのだろう。それを人権団体が黙っているはずがない。彼らは、精子のオークションなどの排除にすら、関係者達を殺してやめさせたのだ。動かないはずがなかった。
「高斗!」
バン、と勢いよく扉が開いた。
「あの、希望という女は何者だ!」
「は?」
高斗は首を傾げた。
「何者、って、お前のがよく知ってるだろ」
自分は彼女の生い立ちすら知らなかった。
「そうだったな! お前に聞いた俺がバカだった。本人に聞いてくる!」
和哉は再び勢いよく扉を閉めて出て行った。
「本人、って、希望もよくわかってないだろ……?」
高斗は椅子から立ち上がった。希望の元に自分も行ったほうがいい。
「……!」
外から、徐々にゆっくりと敵方の拡声器からの声が近づいてきていた。
「……、……!」
何を言っているのかは聞こえないが、高斗は耳を澄ませた。
「……のぞみ……、……!」
のぞみ、確かにそう聞こえた。
高斗はもっとよく聞こうと窓に近寄り、窓を開けた。
「うわっ」
大きな影が高斗の目の前を横切った。咄嗟に手で顔をおさえ、目を瞑る。
「鳥……?」
目を開けると、夕闇の中を鷹のような鳥が目の前を旋回していた。
「逃げとけば?」
「ーーーー真紀!」
巨大な熊鷹の背に乗った真紀が、高斗の腕を引っ張った。
「あれ?」
希望は首を傾げた。首の後ろが震えているのを感じる。
発信器が反応しているようだ。
それと同時に、外ががやがやと騒がしくなってきている気がした。
希望は自室でぼんやりとソファに座っていたが立ち上がり、夕闇の迫る窓の外を見た。
「希望!」
ドアがいきなり開けられる。希望は眉を顰めた。
「いきなり、失礼なんじゃ……」
「希望! 大宮人権団体がお前を寄越せと言ってきているぞ。お前、大宮で何かやらかしたのか!?」
「え?」
希望は自分の両腕で自分の体を抱き締めた。
ここまで追ってきたの? 人権侵害の研究の関係者の娘だからって? あたしをわざわざこんな所まで殺しに来たの?
希望はなんと言っていいかわからず、ただふるふると首を横に振った。
すると和哉は「やっぱりか……」と呟いた。
「何がやっぱりなんで……」
「多分人権団体の奴らに俺たちの研究がバレたんだ。くそっ。大宮での成功をいいことに、ここも潰すつもりか!」
「あ、なるほど……」
殺しに来たのではなく、助けに来てくれたのかも知れない。妙に納得してほっとしてしまった。その気持ちが顔に出たのだろう。和哉は希望の腕を掴んで強引に引っ張った。
「とにかく、お前は大事な唯一の生粋のネアンデルタール人なんだからな。奴らに渡すわけにはいかない。地下に隠れていてもらおう」
抵抗しても仕方ないだろうと、希望は素直に歩き始めた。が、ひとつ疑問がわいてきた。
「は、はい。でも、あたしを渡さないとここはどうなるんですか?」
「攻めてくるつもりだろう。ったく、なんなんだ、あいつらは! 人権、人権って、そんなにホモ・サピエンスを殺して何がしたいんだ」
「せ、戦闘になるんですか?」
希望は声が震えた。
また、あの地獄が再現されるのだろうか。関係のない市民も巻き添えになってしまうかも知れない。
和哉は吐き捨てた。
「なるだろうな。とっとと奴らを片付けないと……」
「希望!」
ガシャンと音がして、窓が割れた。
希望と和哉は窓のほうを振り向いた。
「鳥……?」
希望が呆然と呟くと、その背中から人影が見えた。
「とりあえず、逃げろ!」
その声に弾かれたように希望は駆け出していた。
「高斗!」
希望の腕を取って高斗が抱き上げる。
「おい、待て!」
和哉が追ってくるが、その目に砂が飛び散る。
「うちの子が死んだってね。聞いたよ。まあ、会ったことないからどうでもいいけどね」
「……ま、まき、か?」
和哉は目を擦りながら呻いた。それを尻目に真紀は言った。
「とりあえず、行くよ」
三人を乗せて、熊鷹は赤く染まった大空へと飛び立った。
***
「は? 大宮人権団体が浅間に攻撃を仕掛けている?」
瞳は朝一番職場の研究室で声を上げた。昨夜はテレビもラジオもつけずにすぐ眠ってしまったから知らなかった。
テレビを見ながら同僚が頷いた。
「ああ。やべえよな、この団体。大宮を征服するだけじゃ飽き足らなかったのかな。意味わかんねえな」
瞳は画面に見入った。
「……人権団体の目標は、現在浅間にいると見られているこの人物とされています」
「の……」
画面に映し出された人物に、思わず声を上げそうになったが、思いとどまった。
「あ、この子、前もテレビでやってたな」
同僚は呟いた。
「なんでも、特殊な遺伝子を持っているらしくて、この子を神と崇めて他のホモ・サピエンスは平等に暮らすんだと」
「……神?」
瞳の口から呆けたような声が漏れた。
同僚は気になっていたニュースなのか、乗り気で説明してくれた。
「ああ。この子の一族を代々神と崇めて平等に暮らしていくのが、我々絶滅まで間がないホモ・サピエンスの最後の努め、という教えらしい。この子の前では、多少の優れた遺伝子なんかかすむすごいホモ・サピエンスらしいぞ。何がすごいのか知らんけど」
「そりゃあ、この子も災難だな」
何気ないふうを装って瞳は笑った。
「ああ。平等になんかいくわけないよな。この子の一族を崇め、ってことは、この子の配偶者になることを巡って権力抗争が起きるぞ」
瞳はため息をついた。
「そうだよな。なんでこんな教えがここまでの勢力になってんだろうな」
「まあなあ。でも、大宮はオアシスの都市だからな。俺たちより砂漠に囲まれていて絶滅が身近に感じられてるのかもしれないなあ」
「……そうだな。急がないとならないな」
急に考え込んだ瞳を、同僚が不思議そうに見つめた。
「松山?」
瞳は歩き出した。
「急ぐんだ」
「は?」
「途中経過でいい。砂漠化を止め、緑地化を進められる植物が完成したと、すぐに研究成果をまとめて発表しよう」
***
「えーと。なんでこんなことになっているのかな?」
朝、いやもう昼近くか、起きて、希望は自分が何をしたのかよくわからなくなってきた。
「自分で考えてよ」
真紀はすげない。
昨夜、熊鷹に乗った三人は岩山の上に辿り着いた。浅間研究都市の北側にある溶岩でできた「鬼押し出し」という山らしい。
そこに辿り着くと、急激に睡魔が襲ってきた。それはそうだろう、昨夜は高斗と睦み合っていたので寝不足だった。それは高斗も同じようで、ぐっすりと朝まで眠っていた。
「まあ、助けてくれた、んだよな? 真紀、ありがとな」
高斗が礼を言うと、真紀は「どういたしまして」と無表情で呟いたあと、笑った。
「まあ、希望が浅間にいるって大宮に漏らしたの、私だけどね」
「え?」
希望は目を丸くした。
「なんで?」
真紀は「自分の為だよ」と言い、空を見上げた。
「何か動くかなって思って。どうせ早晩首につけた発信器で大宮の人間には希望の居場所はバレたと思うし。それなら、希望と番いにされる前に何かコトを起こしてみようかと」
高斗が思い出したように顔を顰めた。
「そうだったな、今日そうなるはずだったんだよな」
真紀は空から目を座る二人に移した。
「希望と高斗の間に子供ができていたとしたら、多分出産までは私は時間を稼げる」
希望はぼっと顔を赤らめた。対する高斗は真顔だ。
「実験の為か?」
真紀は頷いた。
「そうだね。貴重なネアンデルタール人の子供だからね。相手がたとえ普通のホモ・サピエンスだったとしても貴重な実験体だよ」
実験体、その言葉に胸が痛む。
そんな感傷に浸っている希望はよそに、高斗と真紀は話し込んでいた。
「希望が妊娠しているか、戻って調べたい」
「受精から着床まで、そんなすぐに進まないと思うけど。それまでどこにいるつもり?」
「浅間は駄目なのか?」
真紀は乾いた笑いを漏らした。
「駄目じゃないと思うけど、和哉がいるからね。その間になんの実験をされるかわかったもんじゃない」
「あ、あの、大宮はどうかな」
希望は割って入った。
「あたしの引き渡しを求めてて、引き渡さないと攻撃するって聞いたの。それなら、最初か大宮に……」
両親を殺した大宮人権団体が何を考えているのかわからないのが怖いけれど、戦闘になるくらいなら。
そう思ったのだが、真紀はかぶりを振った。
「あそこはもっと駄目。希望は高度な遺伝子を持った神様らしいよ。そこで神様として崇め奉られて、その配偶者の地位は権力抗争の火種になる」
「なんだ、そりゃあ」
高斗が頭を抱えた。
「私も昨日それを大宮人権団体の軍の幹部に聞いたとき、笑っちゃいそうになったよ」
希望は頭が混乱した。どこに行っても希望に自由はない。それを覚悟で浅間に行ったものの、どうやら自分の存在は各都市間の火種になってしまうらしい。
人類を絶滅から救おうと意気込んでいたのに、もう何がなんだかわからない。
「となると、残るは……」
つくば、と言いかけて口を噤んだ。
希望は火種だ。ほんの半年ほどいただけのつくばの都市の人たちが希望を受け入れるのは、それは争いの種を引き入れたも同じ。
それじゃあ、無理だよね。きっと迷惑になる……。
「つくばはどうだ?」
頭に思い浮かべていた場所を口に出されて、希望はどきりと固まった。
「まあ、そこが無難かなとは思うよね」
真紀も高斗に同意する。希望は慌てた。
「ま、待って、待って。つくばの都市の人に迷惑がかかっちゃ……」
「ーーーー見つけたぞ」
岩の影から鋭い声が聞こえた。
「和哉さん……」
真紀が舌打ちする。
「発信器は二つとも浅間の噴火口の方に捨ててきたのに」
希望ははっとして首筋を撫でる。熟睡していて全く気づかなかったが、真紀が取り出したらしい。
和哉は笑った。
「長いつきあいだからな、真紀。お前が行きそうな場所くらいわかる」
言いながら和哉は胸ポケットに手を入れた。
「とりあえず、邪魔で役立たずのホモ・サピエンスは始末しておくか」
小型の銃口が高斗を捉えた。
「危ない!」
咄嗟に希望は高斗の前に飛び出した。
「バカ! お前こそ……」
高斗は希望を守るように抱え込んだ。
しかし、何も飛んでこなかった。
高斗の腕の中から目を前に向けると、そこには和哉の腕を吊り上げた瞳が立っていた。
「何す……!」
瞳は苦笑した。
「長いつきあいだから、かな、和哉」
そして、ウエストポーチから紙切れを差しだした。
「まあ、まずこれを読め」
腕を解放された和哉は、しぶしぶといった体で紙を開いた。
しばらくその紙を和哉は目で追っていた。そして、瞳を睨み付けた。
「なんだ、これは」
瞳は鷹揚に笑った。
「我が研究都市の研究成果だ。今、日本政府から各研究都市とマスコミに発表してもらった。大宮人権団体にも話は繋がるはずだ」
和哉は顔を歪めた。
「それで、今浅間はどうなっている」
「大宮との間に停戦協定を結ぶつもりだ」
希望は目を見開いた。
「戦闘しなくて良くなったってこと?」
良かった。そう思い嬉しくなって、高斗の胸にしがみつく。
和哉はがくりと膝をついた。高斗は不思議そうに和哉を見た。
「なんだよ。戦闘がなくなって良かったんだろ?」
すると、和哉はぼんやりと宙をみつめて呟いた。
「俺のネアンデルタール人研究はどうなるんだよ」
希望は高斗と顔を見合わせた。そしてお互い首を傾げた。
瞳が笑った。
「仕方ないな、政府の方針だからな」
***
瞳のもたらした研究成果とそれによる政府の方針は大きくまとめるとこうだった。
竹と矢車菊の交配種が少量の水分で砂漠に根付いた。砂漠の緑地化に多大なる貢献をする可能性が認められる。
従来のホモ・サピエンスが従来のホモサピエンスとして豊かに生きる土地を取り戻せるかもしれない。
ホモ・サピエンスに関する研究に対しては、今後予算や人員は大幅に縮小する。
緑化植物研究に、各研究都市は力を注ぐべきである。
***
「ホモ・サピエンスの改良研究よりも、植物の改良研究のほうが世間的には受け入れやすくはあるよな」
高斗は隣に座る希望に話しかける。
あれから半月ほど。
あの後、高斗は瞳に促され、希望と共につくばに帰ってきた。
和哉は浅間に戻った。その後どうなったのかはわからない。
真紀も和哉と一緒に浅間に戻った。
「私にはここしか居場所がないからね」と笑いながら。
きっと真紀はそれなりにうまく立ち回っているのだろうと思う。
「うん。あたしも、結局ここに住んでてもよくなったね」
希望の首には再び発信器が取り付けられた。まだ人類の希望の唯一のネアンデルタール人であることには変わりはない。
が、どうやらかつてのネアンデルタール人と現在の環境に生まれたネアンデルタール人は異なるところが多いらしいことがわかってきた。
例えば、体。ネアンデルタール人は体も脳も大きく重かった。が、希望は背は高いが軽い。真紀は重いが背が低い。ネアンデルタール人の特徴が偏って発現されている。
また、水分の問題もそうだ。確かに希望は子供の頃からあまり水分を必要としなかったらしいが、真紀の子供はほぼ普通の子供と変わらなかったという。
ホモ・サピエンスが必死にその貴重な個体の生命を賭けてまでネアンデルタール人になろうとしても、その対価が見合わない可能性が高いのだ。
「あ、二人とも、ここにいたんだね」
あかりがひょっこりと顔を出す。腕には赤ん坊を抱いている。
希望が興味深そうに赤ん坊を覗き込んだ。
希望はつくばに戻ってからも浅間や日本政府との協議で忙しく、ゆっくりあかりの赤ん坊に会えることがなかったのだ。
「抱いてみる?」
「わ、いいの?」
希望はぱあっと笑顔を見せて、赤ん坊を受け取った。
「わっ!?」
思わず取り落としそうになるのを見て、高斗は慌てて下に手を添えた。
「あぶねえなあ……」
「だ、だって、大きいのに、思ったより軽くて……」
そこで希望ははっと口を噤んだ。高斗もゆっくりとあかりを見つめた。
「あかり、まさか」
あかりは微笑んだ。そして、人差し指をしーっと唇に当てた。
「多分、ね。でも瞳くんには内緒ね。……と言っても、気づいてるだろうけどね」
希望がしょんぼりと視線を下に下げた。その気持ちをすくい上げるようにあかりが楽しそうに笑った。
「ね、今日病院行ってくるんでしょ?」
「う、うん」
真っ赤になる希望がかわいい。
今日は、希望が妊娠しているかの検査に行くのだ。
状況が変わったので、妊娠を急ぐ必要はなくなったのだが、希望には短命というリスクがある。彼女と自分の間の子供が欲しかった。
それに、何より、高斗自身が早く知りたくなったということがあった。これでできていなかったら、あとは普通に生理が止まったら検査をしようとは思っているが。
「おーい、昼飯にするぞ」
キッチンから瞳の声が聞こえた。
「今、行く」
高斗は大声で答えた。
***
「おじいちゃん、おじいちゃん」
気持ちのよい初夏の午前中。
縁側でうたた寝していると、孫が声をかけてきた。
「ん? どうした、未来(みらい)」
高斗は半身を起こした。四歳ほどの小さな女の子が、手にいっぱいの青い花を持っている。
「おー、きれいだな」
「これね、おじいちゃんに!」
高斗は孫を膝の上に抱き上げた。きゃっきゃと楽しそうに未来は笑った。
ぴきい、と鳴き声がした。
「おわっ!?」
高斗がのけぞると、花の影からエゾナキウサギが顔を覗かせた。
「かわいいな」
未来は「うん!」と顔をほころばせた。
「あおいおはなもきれいなの。なんてお名前かな?」
「ああ、これは矢車菊だ」
高斗は庭の前を見渡した。
一面の緑。
竹と矢車菊の交配種が開発されてから三十年ほど。
次々に緑化に有力な研究が開発されて、日本の砂漠の半分ほどは元の緑の世界に戻った。
それにつれ、人口もわずかながらに増えてきている。
この研究は世界各地に輸出され、徐々にホモ・サピエンスは個体数を増やしていた。
懐かしい気持ちで高斗は目を細めた。
「さっきね、瞳おじちゃんとあかりおばちゃんのおうちにも持って行ったの」
「そうか、喜んでくれたか?」
「うん!」
未来は嬉しそうに胸を張った。
「そうだ、おばあちゃんにもこのお花見せてやろう」
高斗は立ち上がる。
「うん!」
未来も勢いよく立ち上がった。
二人手を繋いで、田んぼ道を歩いて行く。
しばらく歩くと、墓地が見えた。
未来が駆け出す。
「おばあちゃーん!」
その先にひとつの人影があった。
「あれ、未来。一人で来たの? あ、おじいちゃんと一緒だね」
希望が墓石を磨いていた。高斗は手を上げる。
「おばあちゃん、おばあちゃん、これ、おばあちゃんにね、あげる!」
「わあ、きれいだね。ありがとう!」
未来は褒められて大喜びだ。
「もっと摘んでくる-」
そう言って駆け出して行ってしまった。
高斗は希望の横に立った。寄り添うように希望がこちらに体を傾けてきた。
「大きくなったよね!」
「ああ。ほんとにな」
希望は目を細めた。
「幸(さち)を生んだ時は、まさか孫の顔が見られるなんて思ってもいなかった」
希望は今年で五十歳だ。
「今は人生百年時代だもんね。早死にって言っても五十年くらいは生きられたのかな?」
いたずらっぽく希望が笑う。
その体を抱き寄せた。
「バカ、もっと生きろ。ここまで来たら百まで一緒に生きよう」
真剣な眼差しで訴えると、希望はにっこりと微笑んだ。
「うん、そうだね。お札もあったしね」
幸が小学校に上がる頃、つくばの木花咲耶姫の浅間神社で見つかったものがある。
「希望の命が少しでも長らえますように。私たち二人の寿命を分け与えてください」
それは、希望の両親が残したものだった。
高斗は希望を抱く腕に力を込めた。
「なんなら、もう一人、作るか」
「なっ! このスケベじじい!」
「あー。おじいちゃんとおばあちゃんがいちゃいちゃしてるー」
未来が駆け寄ってきた。
高斗は未来を抱き上げた。
「よーし、今度は三人でいちゃいちゃするぞー」
未来がきゃっきゃと楽しそうに笑う。
見渡す限りの緑。
その緑の中を抜けて、風が心地よく吹いていた。
終わり