希望はそこまで考えてふっと苦笑した。
 多分、無理だよね。そんな簡単にホモ・サピエンスがネアンデルタール人になれるわけない。なれるのならば、きっとなることを望む人は多いはずだ。差別されることより、自分の遺伝子を残すことを望む人は、きっといる。
 どうなるのかな。あたしは真紀と結婚するのかな。
 そこまで考えてやっと思い出した。
 真紀はどこへ行ったのだろう。
 あの後、部屋に戻ったのだろうか。
 その時だ。
 曲がり角の奥の部屋からがやがやと人が騒いでいる声が聞こえてきた。
 なんだろう?
 希望はそちらに足を向けた。
「ヒト殺し!」
 希望はぎくりとして足を止めた。
 部屋の中からは、若い女性が髪を振り乱しながら飛び出して来た。
「お待ちください、お嬢様!」
 中から二人ほど中年の女性が現れて彼女を押さえつけた。
 彼女はそれを振り払った。
「どういうこと! 水分を摂らなくても二、三日くらいなら生きられるって言ったじゃない!」
「ですから、それは、まだ赤ちゃんが小さすぎて無理だったと実験の結果から……」
「ふざけるな!」
 彼女は中年女性を張り倒した。
「なんなの!? あたしが何したって言うの? ただ所長の娘に生まれただけじゃない!」
 そう叫ぶと、こちらに向かって駆け出してくる。立ちすくんでいる希望に気づいて、はっと目を見開いた。
「あんた、もしかして、ネアンデルタール人の……?」
 希望はどう答えていいのかわからず、あいまいに笑った。彼女は「隠さなくっていいのよ」と引きつった笑いを漏らした。
「この研究所にネアンデルタール人を引き取ったってのは皆知ってるから。……それに、あたしわかるの」
 彼女は棒立ちになった。そしてカラカラと笑い始めた。
「ネアンデルタール人とセックスさせられて、子供産まされたから」
 希望はわけがわからず「そうですか」とただ頷いた。彼女は背の高い希望を見上げた。
「あんたの子供もたくさん人体実験されるんでしょうよ。皆死んじゃったら人類は終わりなのにね」
 彼女はそう言うと、がくりと膝をついた。
 後ろで成り行きを見守っていた二人が歩いてきて軽く希望に頭を下げた。そして彼女を引きずるように部屋に連れ戻していった。
「どう、なるのかな」
 あたしは。
 どうも何も。
 子供を作るマシンとして生きるのだろう。

   ***

「そうだ、お前もこの研究所に来るんだよな、高斗」
 和哉は突然嬉しそうに笑い始めた。
「そうだが……」
 警戒しながら答える。
「お前の仕事は確か運送だったな。今俺が研究している薬があるんだ。貴重品だぞ。それが完成したら、それを日本全国にばらまきたい。その仕事を与えてやるからな」
「そんな恩着せがましく言われても嬉しくねえよ」
「どんな研究か知りたいか?」
 高斗は小さくため息をついた。人の話を聞いていない。
 昔はこんな奴ではなかったのに。少し傲慢で人を小馬鹿にしたようなところがなくもなかったが、ここまで人をろくに相手にしない奴ではなかった。
「ああ、それは知りたいな」
 付き合い半分、何か希望の役に立つかも知れないという気持ち半分でそう答えた。
 和哉は満足そうに笑った。
「ホモ・サピエンスの胎児を、ネアンデルタール人にする薬だ」
「へえ……」
 そこまで研究は進んでいるのか。純粋に感心した。
「まだ治験段階だがな。今のところ胎児は皆生まれることなく死んでいる」
「え……」
 高斗は息を飲んだ。
「それは、試験管ベイビーってことだよな……?」
 試験管でも生きているものを殺したことに違いはない。だが、せめてもと思い、そう尋ねた。
 和哉は小首を傾げた。
「うむ。両方だな。両方のサンプルが欲しいからな」
「それ、ご両親は覚悟の上、なんだよな……?」
 死ぬかもしれないリスクを負っても、強靱な肉体を持つ子供を欲しいと願った、という。
 和哉は笑った。
「両親になど知らせるものか。断られるに決まっている」
「おま……!」
 人でなし! そう言おうと思った。が、言葉が出てこなかった。
 和哉自身も無理矢理子供を実験に使われて亡くしている。だからといって同じ事を他の人間にしていいというわけはないが、今の和哉には何を言っても響かないだろう。
 高斗は拳を握りしめた。
「母体に注射を打つだけだ。それが胎児に吸収される。両親にバレることなく実験を進められるのだ」
 和哉は自慢げに笑った。高斗は肩を強張らせた。
 俺は無力だ。
 この緩やかに滅びゆく世界で何もできない。
 ただ、希望や仲間達と緩やかに滅びていくことを望むことしか。
「楽しみだ」
 和哉はうっとりとした表情で窓の外を見下ろした。
「この世界がネアンデルタール人の世界になる」
 コンコン、とノックの音がした。
「入れ」
 入ってきた男性は「ご報告がふたつ」と言うなり、切り出した。
「まずは、吉報。松山あかり、今朝無事に男子を出産」
「本当か!」
 その声はふたつ重なった。
 良かった。あかりが眠っていた間に胎児に影響があるのではないかと心配していたが、杞憂に終わったようだ。
「次に、凶報。笹倉梓の女子、今朝死去」
 ささくらあずさ? 誰かはわからないが、和哉の知人なのだろう。
 目の前に立っていた和哉が大きく舌打ちした。
「二日乳を絶たせただけで死ぬとは、ホモ・サピエンスと変わらないじゃないか」
「どういうことだ?」
 報告をした男性が部屋を出て行くのを眺めながら和哉は吐き捨てた。
「真紀とその梓って女の間に生ませた子供だ。何日水分なしで生きられるか実験していたのだが。弱ってきたらすぐ対処しなかったのが問題だったな。貴重な実験体を失ってしまった。責任者は処分しないとな」
「お前……」
 本当に絶滅したら駄目なのか?
 ふと高斗の心に黒い疑問が湧き起こる。
 そこまでしてホモ・サピエンスを絶滅から救う意味があるのか?
 すぐ全人類が死ぬわけではない。緩やかに個体は減少していくが、今の自分やその子供世代ではまだ絶滅は免れるだろう。
 いいんじゃないか?
 今生きている人間が、今幸せに生きられれば。
「失礼します!」
 ノックの音なしに、先程とは別の男性が飛び込んできた。
「囲まれています!」
 和哉は眉を寄せた。
「何がだ」
 男性は息せき切って叫んだ。
「大宮です! 大宮人権団体の戦闘部隊です!」

   ***

「……これは使えるな」
 日が暮れかかっている。帰宅した瞳はあかりに向かって呟いた。
 手にはにょきにょきと音がしそうな勢いで蠢いている竹と矢車菊の交配種。
 あのすぐ後、研究都市の近くの砂漠に二カ所、一坪ほどの苗を植えてみた。貴重な水を大量にまいた。それから一カ所には一時間おきに水をまいた。もう一カ所には水をまかなかった。
 結果は、どちらも枯れなかった。
 水をまいた方は、一坪半ほどに増えていた。まかなかった方も、二十センチほどはその範囲を広げていた。
「砂漠化は止められるかもしれん」
 ホモ・サピエンスが絶滅の危機に陥っている理由は砂漠化だけではない。
 が、砂漠化が止められれば、いや、緑地を数百年前の地球のように増やすことができれば、食物や生きる土地を巡っての戦争は減少する。
 そして、地球の緑地が増えれば、ネアンデルタール人でなくても、普通のホモ・サピエンスでも生存することができる。ホモ・サピエンスの遺伝子操作をする必要性がなくなる。
「……やったね!」
 あかりが生まれたばかりの子供を抱きながらベッドから笑いかけてきた。
 瞳はあかりのそばに膝をついた。我が子を抱き上げる。
「……軽いな」
「でも、大きいよ」
 あかりは愛おしそうに微笑んだ。

   ***

「いったいどういうことなんだ」
 和哉は苛立ったように情報を集めていた。
 俺がいても仕方ないから、と部屋を退出しようとした高斗を和哉は引き留めた。
「別に希望をさらって逃げようとかしないぞ」
と言ったのだが、信用してもらえなかったのか、それとも和哉なりに心細かったのだろうか。 日は傾きかけている。
 大宮の戦闘部隊はじりじりと都市を囲み始め、そして囲みが先程完成したとの報告だった。
 その事を高斗に告げると、和哉はまた忙しそうに部屋を出て行った。先程から出たり入ったり忙しそうなことだ。
 和哉は研究員だ。戦闘員ではない。
 各研究都市には、そこそこの部隊があるが、内戦ができるほどの力は持っていなかった。その上、この大宮人権団体戦闘部隊は、大宮政庁を落とした部隊だ。
 希望は元気だろうか。
 朝から会っていない。
 朝は、俺もネアンデルタール人になって希望と一緒に暮らそうと、希望がなくなるまでの短い間でも一緒にいようと、そう感傷に浸っていたのに、今や戦場のまっただ中にいる。
 何故こんなところに攻めてきたのか、という自分の中の疑問はすぐに解決した。
 多分、浅間での人体実験が外部に漏れたのだろう。それを人権団体が黙っているはずがない。彼らは、精子のオークションなどの排除にすら、関係者達を殺してやめさせたのだ。動かないはずがなかった。
「高斗!」
 バン、と勢いよく扉が開いた。 
「あの、希望という女は何者だ!」
「は?」
 高斗は首を傾げた。
「何者、って、お前のがよく知ってるだろ」
 自分は彼女の生い立ちすら知らなかった。
「そうだったな! お前に聞いた俺がバカだった。本人に聞いてくる!」
 和哉は再び勢いよく扉を閉めて出て行った。
「本人、って、希望もよくわかってないだろ……?」
 高斗は椅子から立ち上がった。希望の元に自分も行ったほうがいい。
「……!」
 外から、徐々にゆっくりと敵方の拡声器からの声が近づいてきていた。
「……、……!」
 何を言っているのかは聞こえないが、高斗は耳を澄ませた。
「……のぞみ……、……!」
 のぞみ、確かにそう聞こえた。
 高斗はもっとよく聞こうと窓に近寄り、窓を開けた。
「うわっ」
 大きな影が高斗の目の前を横切った。咄嗟に手で顔をおさえ、目を瞑る。
「鳥……?」
 目を開けると、夕闇の中を鷹のような鳥が目の前を旋回していた。
「逃げとけば?」
「ーーーー真紀!」
 巨大な熊鷹の背に乗った真紀が、高斗の腕を引っ張った。