私はある人に電話をかける。
その相手は、汐斗くんでもなければ、家族でも友達でもない。
でも、私のことをちゃんと知ってくれていて、私のことを支えてくれる人。
私の明日を閉じるということについて知っているこの世界でたった2人のうちの1人――汐斗くんのお姉さんだ。
なぜか少し手が震える。お姉さんのところをタップした。
『もしもし、心葉ちゃん。今日はどうかしたの?』
お姉さんは相変わらず私を安心させるような優しい声で話しかけてくれる。なんか、ずるいな。でも、今日は大事な話があるのだ。
「ここ3日間、汐斗くんお休みしてますけど大丈夫ですか? 休んでるので直接連絡するのはもしかしたらあれかなと思い、お姉さんに連絡させていただきました」
私が今言った通り、汐斗くんは水曜日から金曜日までの3日間お休みしている。多分体調が悪いんだろうけど、それがあのことを知っている私にとってはかなり心配で、ずっと頭のどこかで気になっていた。大丈夫だと何度も自分に言い聞かせていた。
『あー、わざわざ心配してくれてありがとう。弟なら少し体調は悪いけど、なんとか大丈夫だよ。多分病気のあれだから、伝染らないとは思うし、もし心配だったら明日病院行くんだけど、ついてくる?』
「……じゃあ、もし、迷惑でなければ」
勉強のことも前よりは考えなくてよくなったからそこまで勉強に焦る必要もないし、何と言っても汐斗くんが心配――もしかしたら汐斗くんが本当に明日を見られなくなっちゃうんじゃないかと心配だったので、私はできれば汐斗くんについていきたい。その趣旨をお姉さんに伝える。
『うん。私たちは全然迷惑じゃないから大丈夫だよ。じゃあ、午後1時に△△病院を予約してるから、その付近で。というか、心葉ちゃんが来てくれるってむしろ、汐斗は喜んでくれるんじゃないかな。こんなかわいい子に心配されてさー。汐斗は幸せものだなー』
「いや、私はそんな……」
お世辞だとはなんとなく分かっていても、そう言われるのはやはり嬉しいことだ。でも、もちろん私は否定する。ここで認められるわけがない。
『ふふっ。事実だけどね』
お姉さんは電話の向こうで少し笑っていた。これがどういう意図を表しているのか分からないけれど、自然と胸がキュンとしてしまう。
『それより、心葉ちゃんの心の方は大丈夫?』
「えっと、今は、大丈夫です。心はおかげさまで安定してます。……やっぱり汐斗くんのおかげです。本当に、私は汐斗くんには感謝しかないです。まだ、3週間しか経ってないけど、だいぶ変われた気がします。だから、あともう少しで……ってところです」
『おー。それならよかった! それに、汐斗からも少し聞いたけど、ちゃんと約束守れたみたいだね。自分の弟を褒めるのはあれだけど、汐斗、意外とやるでしょ。まあ、心葉ちゃんも色々忙しいだろうから私から言うのは、ここら辺にしておこうかな』
「じゃあ、お互い色々あると思うので、失礼します」
私はそう言ってから、静かに電話を切った。それから少しだけ、教科書の内容を頭に入れた。今日はあまり難しい単語は覚えられそうにないから、短い単語を覚えよう。今日は、汐斗くんと最近カフェにいった時に2人で撮った写真を眺めてから眠りについた。
お姉さんに言われた通り、△△病院に午後1時前の午後12時45分に着いて、汐斗くんが来るのを待った。それから5分ぐらい経ったところで前に汐斗くんの家に行った時にあったシルバーのワゴンカーが病院の駐車場に入ってきた。ナンバーも確認したけど、汐斗くんが乗っている車で間違いないだろう。
その車が駐車場に止まり、完全に停車すると、中から汐斗くんとお姉さん、そして汐斗くんのお母さんが出てきた。
「あ、心葉ちゃん、わざわざありがとう」
「いえいえ、お姉さんもいつもありがとうございます」
「心葉、本当に来てくれたんだ」
「もちろん!」
汐斗くんの様子は確かに顔の表情を見れば、体調が悪いと分かる感じだけれど、もう歩くことができないぐらいとか、すごく辛そうとまでの状態まではいってなかったので、少しだけ安心した。でも、体調が悪そうなのは事実なのでそこは少し心配だ。というか、汐斗くん、私が来ること嘘だと思ってたんだ。私は、そんなことに対して嘘をつかないし、汐斗くんが大切な存在だから来ただけなのに……。
「心葉ちゃん、お久しぶり。2人の方が汐斗も安心できるかしら……? じゃあ私たちは車で待ってるから、なんかあったら呼んでくれればいいから。というか、すごくいい人だね……心葉ちゃんは」
「……まあ、そうだな。いい友達だろ。なっ!」
何か、汐斗くんのお母さんに勘違いされているところがある気もするけれど、私は特にはそこに触れなかった。どうやらお姉さんとお母さんは車にいるということだったので、私たちは2人で病院の中に入ることになった。ここの病院には小さい頃、夜中に高熱を出してしまったときや、自転車に乗ってて電柱にぶつかり怪我してしまったときなど何回かお世話になったことはあるけど、下から見下ろすとやはりその大きさに圧倒される。一体、何床のベッドがあるんだろうか。
病院の中に入るためには駐車場にある横断歩道を渡る必要があるので、私たちは左右をよく確認して渡れるタイミングを待っている。
「ここで事故にあったら元もこもないからな。急に車が暴走することもあるかもだし」
「変なこと言わないでよ! ほら、今車いないから渡っちゃおう!」
車が来ないことを確認してから横断歩道を渡り、病院に入ると、汐斗くんはささっと受付までを行なった。その一連の流れは本当にあっという間だった。私が瞬きすることもなかった。ただ、私は病院の匂いが嫌いなんだなと改めて感じた。
どうやら、お医者さんに先に血液検査をしてから来るよう言われているらしいので、汐斗くんには血液検査を行なってからいつも行ってる科の前で待った。私は正直に言うと、あの痛い注射は嫌いだ。でも、血液検査を終えた汐斗くんは痛い顔一つせず、特になんともなかったという顔をしていた。きっと、慣れてしまったんだろう。
「体調はどんな感じ?」
「んー、なんとも言えないな」
今までの汐斗くんならそこまで心配する必要ないとか言うのに、今日はそんなこと言わず、少し弱音を吐いたようにも見えた。顔の表情からはそこまでじゃないとさっきまでは思っていたけど、表情だけでは分からないところで苦しいのかもしれない。そう思うと、私の心配度は更に増してくる。
「あ、でも体調がまだ大丈夫だった火曜日までで染め物はだいたいできてきたから、もうそろそろお披露目かな!」
私が心配してることを悟ったのか、私が少し元気になるような話題を汐斗くんは話してくれた。
「私も、後もう少し。だから、私ももう少しでお披露目できるよ!」
私も海佳ちゃんのと汐斗くんのミサンガ作りを同時に進めているが、もう少しで完成しそうだ。久しぶりにやったので、昔よりクオリティーは劣るかもしれないけれど、簡単にそのミサンガが切れることはないだろうし、つけても恥ずかしくはない完成度になることは保証する。
「というか、心葉、カバンいたのか?」
「あー、まあお財布とかハンカチとか入ってるし、あとは紙も……なんか一応のために持ち歩いてる」
汐斗くんが私の今持っているショルダーバッグを指摘してきたので、その中に何が入っているのか触りながら少しあさった。
「紙……?」
「いや、何でもないかな」
この紙のことについて考えると、また厄介なことになりそうだから、そこで話を止めた。それからすぐに、汐斗くんの名前が呼ばれた。
私は、よいしょと言って立ち上がり、汐斗くんを気にしながら呼ばれたところの診察室に入った。汐斗くんの歩き方が少しぎこちなく見えた。
汐斗くんがドアをノックして診察室に入ると、よく見る診察室の光景が広がっていた。やっぱり私、こういう所ちょっと苦手。ガタイのいいお医者さんがたくさんの資料が散らばっているデスクの前に座っている。
ちょうど椅子が2つあったので、後ろの方にあった椅子に座る。椅子が妙に硬い。座り直してしまう。
「こんにちは。えっと、あれだよね。少し最近体調が優れないと。それで来た感じだよね。じゃあ、最近どんな感じが教えてくれる?」
「あ、はい――」
汐斗くんはお医者さんにそう言われて、最近の状況を時系列順にして話していく。お医者さんはただ聞いた内容をキーボードで打っていくだけでなく時々質問を挟んだりしながら、診断を進めていく。私もただ聞いてるだけではなく、汐斗くんの言ったことを頭で整理していく。
「――ていう感じです」
「分かった。薬はいつも通りちゃんと飲んでる感じ?」
「はい、続けてます。副作用とかは特に大丈夫です」
「そうですか。あとあれですよね、来た時に血液検査もしましたよね。結果がもうすぐ出るので、少々お待ちください。でもこれ、あれなんじゃないかな……」
お医者さんは首を少しかしげた後に、失礼するよと言って少しどこかに消えて行って――私たちを置いて行ってしまった。私はお医者さんが首をかしげた意図が分からず、さっきよりも不安という文字が頭の周りでぐるぐると回転している。いつもはそんな様子を見せない汐斗くんも少し不安なのか、足を揺らしていて落ち着きがない様子だった。私も同じだ。自分のことみたいに心配だ。私の体調はいいはずなのに、心拍数がいつもより断然早い。元々嫌いな病院の空気がまとわりつく。
2、3分経ったところでお医者さんが何か1枚、紙を持ってきた。それが血液検査の結果だろうか。
「えっとですね。こちらが先程の血液検査の結果です」
その紙をデスクに置いて、私たちに見せてきた。でも、こういうようなのを見たのは、私は初めてなのでただ数値が嫌なほど沢山書いてあるものにしか見えない。だから、どこの数値がどういう値ならいいのかまたはよくないのかというのは、私には全くと言っていいほど分からない。
でも、汐斗くんは声を少し震わせながら、
「本当ですか……」
とだけ呟いた。
でも、その意図が私には分からない。だけど、この状態で汐斗くんにどういう意味なのかを聞くこともできない。何も考えることの出来ない放心状態のように思えたから。この状況では声をかけていいのか分からなかった――怖かったから。
すると、汐斗くんの顔を見たお医者さんが説明を始めた。
「……そうです。この紙に書いてある数値の通り八山さんの病気の原因となっている細菌の値が前回の検査より、かなり低くなりました」
お医者さんはあるところの数値を手で差しながら、汐斗くんに対してそう説明した。ということは、つまり――
「なので、完全に完治したわけではないですが、完治の方向に向かっているということだと思います」
つまりそれは、汐斗くんの病気が治ってきているということ。そのことを、今、このお医者さんは確実に私たちに言った。もしかしたら、明日を見る君が、明日を見られないという考えてはいけない最悪の事態も想定したけれど、どうやら逆だったみたいだ。汐斗くんが一番最初に私に病気を告白した時に言っていた『現代の技術は進歩してるから治るかもしれない』という言葉が今、現実になった。
「本当ですか!?」
汐斗くんは驚きを隠せない様子だった。私も自分のことのようにすごく嬉しい。人生で一番嬉しい瞬間が今なのかもしれない。でも、汐斗くん以上に喜んじゃだめだと思って、表には出さず、心の中で喜んだ。汐斗くんの病気が完治しそうなことと、汐斗くんが普段見せないような喜びに満ちたような表情を見せてくれたこと、どちらも嬉しい。許されるのならずっと見ていたい顔だった。
「うん、ここまでよく頑張ったよ。色々苦しいときもあったと思うし、辛い治療にも耐え抜いた。その結果だよ。もちろんまだ少しの間は様子見は必要だけど。数ヶ月経てば完治すると思うよ。おめでとう。もう、大丈夫だよ」
「そうですか。……じゃあ、この体調は?」
そうだ、汐斗くんの体調がよくないから来たということをさっきの喜びで少し忘れかけていた。でも、お医者さんの表情はまだ明るいままだった。
「あー、これはねー。この病気には関係なさそうだし、薬の副作用でもなさそうだから、たぶんただの風邪かな。症状聞いてる感じそんな感じだし。でも、一応それについても風邪薬ぐらいは出しときますね」
お医者さんはサラリとそう言った後に、再びキーボードを打っていく。それから、お医者さんはお薬の説明を軽くしてから、私たちはその診察室を後にした。まだ病院に行く必要も少しの間はあるみたいだけど、再発の可能性も現時点では低いという。
私たちは今は会計を待っている途中だ。患者さんが少し多い印象を受けるので、会計が終わるのはもう少し時間がかかるだろう。なのでその間に、私はお祝いの意味も込めてというわけではないけれど、病院にあったコンビニで温かい飲み物を買ってきた。それを1本、椅子に座って待っている汐斗くんに渡す。
「汐斗くん、よかったね。私もすごく嬉しい」
「あー、飲み物ありがとう。ちょっと信じられない気持ちだけど、本当にお医者さんに感謝しかないな。もちろん、心葉にもだよ。ありがとう」
「いや、私は何もできてないと思うよ。むしろ、汐斗くんにいつも迷惑かけっぱなしだよ」
汐斗くんはそう言ってくれているけど、私は汐斗くんの病気を治してなんかないし、心の不安定な私を気遣わなくてはいけなかったり、それに私が色々相談したり……むしろ悪化させてないか少し心配だった。何も力になんてなれていない。
「いや、そんなことないけど。でも、まあこの話はいいや。完治に向かってるっていうのは事実だし」
そう、それは事実だ。
あの日は――明日を閉じたい私と、明日の見たい彼……だった。
でも、今は書き換えられて、少し複雑だけれど、――明日を閉じてしまうかもしれないけど少しずつ開いていきたいと思っている私と、明日の扉を開くことができるようになった彼。こんなところだろうか。
お互いが変われた。でも、汐斗くんは私より変わることができているんだと思う。だから、私もそんな風に変わりたい。
だけど、汐斗くんが変われたのが嬉しすぎて今は汐斗くんのことしか考えることができない。
まるで夢の中にいるようだ。
そんな世界にいるからか、少しだけ雫が瞳から垂れてきてしまった。
嬉しいよりも、よかった……その気持ちが勝ってしまったのだろうか。
「ん? どうした? 心葉もどこか痛いのか?」
「いや、違うの。あのさ、正直に言うと、私はもし汐斗くんを失ってしまったら、どうすればいいんだろうってあの日からずっとずっと思ってた。汐斗くんを失うのが、自分を失うより何倍も怖かった。怖くて怖くてたまらなかった。でも、それは汐斗くんの前では隠してた。人の心配するなら自分の心配しろとか怒られると思ったし、必要以上に心配されるのが、逆に汐斗くんを苦しめてしまうと思ったから。でも、今だから言うね。だからさ、怒られちゃうかもしれないけど、汐斗くんが明日の扉をちゃんと開けられるようになったことが、私は、仮に自分が明日を確実に開こうと思える……そんな日が来たときよりも何倍も何倍も嬉しい。だから、ありがとう。汐斗くん」
私は病院ということを少し気にしながらも控えめに汐斗くんにハグをした。そしたら、汐斗くんも何も嫌がる顔をすることなくハグをしてきてくれた。私はただただ安心したかった。汐斗くんが近くにいることをこの手で確かめたかった。温かくなってくる。汐斗くんの体温を静かに私は奪ってるんじゃないだろうか。
それから、汐斗くんが口を開いた。でも、汐斗くんが今から言うことは、聞かなかったとしてもだいたい分かる。汐斗くんの過ごしていけば何を言うかなんて簡単に分かってしまう。
「あのさ、心葉。僕の心配するなら、自分の心配しろ。僕は、明日を開きたいと思えるようになった心葉を見たいんだから。そのために、今日まで頑張っていろんな治療を耐えてきたんだから」
ほら、やっぱり。私が考えていたように優しく怒られてしまった。でも、後半の言葉は私は考えていなかった。そんな私を汐斗くんに見せられる時が来るのか私には百パーセントの自信はない。でも、汐斗くんが頑張ったのなら、私も頑張りたい……そう思うし、それが私にとってある意味、義務なんだと思う。お互いに頑張らないといけないのだから。たとえ正反対の2人であっても。正反対じゃない部分もあるんだから。
流石に長時間病院内で小さくしているとはいえ、ハグしてるのはおかしいかなと思ったので、すぐにそれはやめた。それをやめた途端に、待ち構えていたかのように会計から呼ばれ、汐斗くんはお会計を済ませてきた。でも、一瞬だけだけど、その温かさで私の心を少し動かしてくれたような気がした。
お会計が終わると、近くの薬局で薬を受け取り、車で待っている汐斗くんの家族にもさっきのを報告したが、お姉さんもお母さんもどう表現していいのか分からないぐらい喜んでいた。家族として、ずっとずっとこの瞬間を待ち望んでいたんだろう。
行きの車内では黒い雲のようなものも漂った雰囲気だったみたいだったけど、今、汐斗くんの家の車の雰囲気はそんなものを破り、溢れるばかりの太陽の光が注いでいた。私は、お母さんに帰りは車で送ってあげるよと言われたので、お言葉に甘えて乗せてもらっている。
「そう言えば、汐斗、風邪の方は大丈夫なの?」
「あー、そう言えば僕、風邪だったな。でも、あれの喜びが大きすぎてただの風邪は治ってるかも。お姉ちゃんもありがとうな。今日まで色々助けてくれて」
「風邪、治っちゃったって、何だそれ。まあ、それならそれでいっか。こっちこそ元気な弟が見られて嬉しいよ」
私は、少しの間汐斗くんとお姉さんの会話を聞いていた。なんだか楽しそうだ。流石、姉弟っていう感じ。仲がいいからか会話が次々と続いていく。車内がその空気に包まれる。
「ねえ、心葉、俺んちまた寄ってく? ちょっと言いたいこともあるし」
「うん、別にいいよ」
なんだろうと思いながらも、私は迷わずにそう言う。
「そうか。あっ、でもまだあの染め物は見せられないけど」
「えっー! 少しだけでもだめー?」
「んー。いや、ちゃんと完成したいのを見せたいから無理かも! もう少し待っててくれ!」
私は、汐斗くんの病気が治ったんだし、私たちはだいぶ仲良くなれたんだし少しぐらい駄々をこねてもいいかなと思って、ねだってみたけれど汐斗くんは理由をつけてそれを断った。でも、その言葉が見れる日を余計に楽しみにした。
「へー、汐斗、今、染め物してるんだ。ていうか、2人、打ち解けてるねー。いいじゃん」
「変な顔するなよ」
私たちのこの雰囲気にお姉さんが優しく言葉を添える。確かに、お互いのことが分かってきたのもあって、私たちは家族の一員いなれるかのようにかなり打ち解けてきてるのかもしれない。それは今のやり取りから見ても十分感じられる。汐斗くんは私にとってのある意味、親友なのかもしれない。
「ねぇ、心葉ちゃん。もちろんこれは冗談だけど、汐斗を恋人にするのはどう……?」
「おい、お姉ちゃん……!」
お姉さんは、私と汐斗くんがどうしてこのようにいるのか、私が相談した時に言ったから知っているはずなのに、少し意地悪な質問をしてきた。汐斗くんを恋人にする……? どうなんだろう。今までどんな名前を付けるのが正しいのか分からない関係で過ごしたけれど、もし、汐斗くんと私が恋人という名前の関係になったのなら……。正直、イメージができない。でも、お姉さんは冗談とは言ったけれど、ここでなにかを答えないと流石に汐斗くんに悪い。でも、どうなんだろう。私は本当のことを言うのなら、汐斗くんを恋人にするのも嫌ではない。だけど、正直イメージができない。でも、嫌ではないというと恥ずかしいので、私はもう一つ思っている言葉を言うことにした。
「汐斗くんみたいな人は、私よりいい人を簡単に見つけられると思うので、それは、汐斗くんにとってもったいないかなって……。それぐらい、汐斗くんはすごい人だから、もっといい未来を描ける人とそういう関係になったほうがいい気がします!」
これが、今答えるべき内容でのベストアンサーなのではないか。もちろん嘘なんかじゃなく、これが私の本音だ。きっと私なんかよりいい人は沢山いるし、その人といることで汐斗くんの世界がもっと輝く……その姿を見れることの方が私は望んでるんだと思う。
「おー、そうか。でも、私が思うに、心葉ちゃんはいい人だと思うけどなー」
「いや、過大評価ですよー」
「そうかなー」
本当のところ、どうなんだろう。私は、いい人なんだろうか。私には、お姉さんの言ってくれたことが過大評価にしか思えない。そんなに私はいい人じゃない気がする。
でも、いい人になりたい。
「お姉ちゃんが悪いなー」
多分あれのことだろう。――汐斗を恋人にするのはどう……? と聞いてきたそのことだろう。少し恥ずかしくなったけれど、別に汐斗くんが謝るほどのものでもない。
「うんん、皆で会話できて楽しかったし、別に気にしてないよ」
「そうか。でも、心葉が僕のことをすごい人って言ってくれたのは少し嬉しかったな……」
「……っていうか、汐斗くん、また本、増えてるね」
私は少しずるいなと思いながらも汐斗くんの言ったことが更に発展するのを少し阻むために、急に話をずらした。流石にこれ以上、その話をされると目に見えるほど恥ずかしくなってくる。逃げるために私はその言葉を言ったが、今いる汐斗くんの部屋の本棚には、前回来たときよりも本が増えていた。前回一番上の棚の空いた部分にはウサギのぬいぐるみが置かれていたが、そのにはまた工芸関係の――染め物についての本が置かれていた。
「あー、そうだな。お小遣いで買った。考えるなとか思うかもしれないけど、もしもの時にお金が余り過ぎてたらもったいないよなーと思って本とか今までも買ってきたんだよ。だけど、こうなるのは望んでたけど、ある意味もったいないことしたな……。でも、何が起こるか分からないからこんな本とかにお金を使ってしまったこと、とりあえず正解ということにしとこう!」
「うん、正解でいいんじゃない。ああいうこともあったから、お金を使いすぎちゃって今、あまりお金を持ってないっていうのはあれだけど、汐斗くんにとってこの本は意味にあるものだったんでしょ?」
「……おー。いいこと言ってくれるな。じゃあ、正解だな」
確かに、私、今、少しいいことを言った気がする。少し、役立てたような気がする。
私は、その本棚の中にある、工芸関係の本はあまり見ても分からないので、少しだけある小説を取り出した。少しおかしいのか、それとも読書好き(元だけど)にはあるあるなのか分からないけど、中身をの読むではなく、いくつかの小説の表紙だけをじっくり見ていく。色々なジャンルがあるけれど、特に恋愛系が多い気がする。ボーイミーツガール。少しだけ、私は汐斗くんを見てしまった。私たちの物語はこれから先、どうなるんだろうと。あの時始まった物語はどうやって終わるんだろうと……そう思ってしまう。
「どうした?」
「いや、何でもないよ」
「そういえば、僕、おかげさまで変わることが出来たから、日記とかもこの機会に捨てようかな。小さな闘病日記」
汐斗くんは自分の机の右引き出しにあった、1枚のノートみたいなやつを取った。そのノートには少し崩れた字で『小さな闘病日記』と少し殴り書きされたように書かれている。
「ねえ、心葉はどう思う? 捨てるべきか、取っておくべきか。僕はもう縁を切るのが正しのかは分からないけど、捨てようかなと……」
「汐斗くんが捨てたいと思うなら、捨てたほうがいいんじゃない。汐斗くんの思う選択――それが私の答えかな」
私にそれを捨てるべきか取っておくべきか決める権利なんてない。私には知らないことだらけだし、それにその日記への想いが一番あるのは汐斗くんだから。汐斗くんが思った決断が私の答えになるんだ。
「じゃあ、心葉の言った通り、僕の決断でこの日記とは縁を切ろうかな」
「あのさ、じゃあ、もし嫌だったらあれなんだけど、ちょっと見てもいい? もちろん、嫌ならはっきり言ってほしいんだけど」
私は、単純にこの日記にどういう事が書かれていたのか、私と同じように苦しみを抱えているけれど、どんな風にどう違う苦しみだったのかを知りたいと思った。でも、もちろん見せたくないかもしれないので、そこは考慮してそう聞いた。
「別にいけど……もちろん『小さな闘病日記』だから内容は分かってると思うけど……。そういうのでもいいなら、読んでもいいぞ。でも、責任は取らないからな」
「じゃあ、少し……。失礼します」
私は汐斗くんからどういう内容が書いてあるか理解した上という条件付きで許可をもらった。なので、その『小さな闘病日記』を開いた。開いた途端、少し昔の匂いが少しした。
一番最初のページだ。
今とは少し字の形が違う。
私は、日付を見て、強い何かを感じてしまう。
その日記の中に自然と入り込んでしまう。その中に別の世界があるかのように。
『4月5日
今日から中学3年生! 残りの中学生活を楽しむぞー! と思いたいところだけれど、家に帰ってから体調が悪くなってしまった……。それにいつもと違う感じがする。病院に行ったけど、色々検査されて……もしかしたら悪い病気かも。不安で今日は寝られそうにない。でも、お姉ちゃんが優しく「大丈夫だよ」と励ましてくれた。お姉ちゃん、なんだかんだある人だけど僕を今、一番安心させる人だ』
――中学3年生の4月。
私と始めは同じだ。私が明日を閉じようとするきっかけになる出来事が始まったのもこの辺りからだった。
苦しみの種類は違うけれど、同じ時から大きな苦しみを抱えていたんだ。
私たちは苦しみを抱えて今日まで生きてきたんだ。
「汐斗くん……」
私は作業している汐斗くんを見る。でも、その声はあまりにも小さい声だったため、届いていない。
何だよ、そんなときから苦しみを抱えてきたのに、なんで私なんかを気遣かえるんだよ。
自分だって苦しいはずなのに。どうすればいいのか分からないはずなのに。他の人のことを考えられる余裕なんてないのに。他の人のこと考えすぎたら自分のことを失ってしまうかもしれないのに。
なんで、私を気遣うことが、苦しみを抱える汐斗くんにできたのに、私は全然汐斗くんを気遣うことができないのか……。同じはずなのに。そんな自分が悔しいし、許せなくなる。
でも、そんな弱音を吐くと汐斗くんに叱られてしまいそうだから、とりあえずその気持ちを抑えて、私はページをめくっていくことにした。その音が私の耳の中に響く。
『4月12日
どうやら僕の病気は、あまりいいものではないみたいだ。ダラダラ書くとそれだけで簡単にノートが全て埋まってしまいそうだから短くまとめるけど、どうやら、悪い菌が体の中に入ってしまい、それが増殖しているらしい。それに残念なことにその病気についてはまだ分かってないことが多いらしい。今すぐ僕の命が尽きる可能性は低いけれど、命に関わる自体になるかもしれないこと想定したほうがいいという趣旨のことを言われた。一言で言うなら今の状況は――辛い』
『4月23日
今日は最近仲良くなった友達何人かと近くのショッピングモールに行った。特に今のところは行動は制限されてないけれど、帰りに少し体調を崩してしまった。お医者さんが前に言っていた症状と被るから、たぶん、これもあの病気のせいなんだろう。少し倒れそうになった時に、友達が「大丈夫?」とか「どうしたの?」とかいう優しく声をかけてくれたり、助けてくれた。皆、ずるい……本当に優しい。僕もそんな人になりたい。誰かに「ずるい、優しいよ」って言われるぐらいの人になりたい。それが今の僕の夢なのかもしれない。そんなのこんな僕にはなれないと思うけど。でも、少し怯えながらこういう楽しいこともやらなきゃいけないのが怖い……楽しみたいのに。今日もまた辛い、辛い……』
そんなようなものがこの先も続いていた。私の辛さと、汐斗くんの辛さがリンクして余計に苦しくなる。でも、私は今まで知ってあげられなかった汐斗くんを知るために、その辛さに耐えた。頭が少しガンガンしているけれど、それでと私は汐斗くんが自分と向き合ったときの字を瞳に収めていく。この字を書いたときの様子が私はなんとなく見えてきた。どんな自分と汐斗くんが向き合っていたのかということが。
でも、辛いという文字だけで飾っていないのが、流石だと思う。もちろん、この『小さな闘病日記』の大半を占めるのが辛いということがかかれているけれど、でも、時々楽しいという文字も見ることができた。辛いながらも自分で汐斗くんは楽しさも自分の力で見つけ出していたのだ。辛い中でもできることを見つけていたのだ。私と正反対だ。
『6月15日
今日は本当に本当に楽しかった! 待ちに待った修学旅行に参加できたぜー! でも、お医者さんに2泊するのは止められているので、1泊だけ……(先生と相談して、皆にはどうしてもはずせない用事があるという設定にしてる。嘘をつくのは少し辛いけど) だけど、全く行けない可能性もあったんだから、そう考えると1泊できただけでも満足じゃん! 皆と色々写真を撮ったり遊んだりして繰り返すけど、本当に楽しかった! この思い出はずっと残ってしまうんだろうな……。たとえ僕に明日がなくとも(あまり考えないほうがいいか)』
私は、ページを捲るために少しずつ違う匂いがすることに気づいた。どれも違う匂いに錯覚かもしれないけど、感じる。汐斗くんがその時持っていた感情が匂いとなってここにずっとしまわれてるんじゃないだろうか。
それからも書かれていることを見ていったけれど、あるところで私のページを捲る手が止まった。
『今日は少し不思議な人に出会った。教室に戻ろうとした時、いつもみたいに体調が悪くなっていたのか飲み物を自販機で買い、飲みながら歩いていた頃、急に一瞬だけだったけど、くらっときてしまった。そして、その飲み物を廊下に(かなりの量を)こぼしてしまったんだ。そんな時、トイレを終えて出てきた感じの女の子が何も言うことなく、そのこぼれたところを教室にある雑巾を持ってきて僕よりも早く拭き始めたんだ。そして、いつの間にかまるで時間を戻したかのようになっていた。そんな女の子にお礼を言い、ちょうど持っていたポッキーを渡そうとしたのだけど、「忙しくて食べる時間がないので、お気持ちだけで結構です」とよく分からない回答をして、教室に戻っていったのだ。その女の子のいる教室を覗くと確かに、その女の子は机にいくつもの教材を出し、勉強をしていた。本当に不思議な人だ。でも、そんな不思議な人に僕は何かを感じてしまった。優しさ……? それ以外にも何かがある気がする。もしかしたら、何か今度関わることになるんじゃないかな(それは願望かもな)』
それ、この少し不思議な人って、私なんじゃないだろうか。この、私。
確かに、そんな出来事もあったかもしれない。1年のときは違うクラスなので、汐斗くんの名前は知らなかったけれど、確かにこの時見た人と汐斗くんは似ている気もする。あの時の君と。私がトイレに行って勉強を再開させようとした時、何かふらついた感じの人が、廊下に飲み物をこぼしてしまったところを見た。廊下には人がいなかったから、私は無意識に動いた体を頼りに汐斗くんの日記に書いてあるようなことをした気がしなくもない。そんな些細なことで、何か汐斗くんは感じてしまった。そして、今、この日記の通り、関わることになっている。
私も少し不思議な気持ちになってしまった。私のことも書いてあるなら、自分が未来を閉じようとしてしまった日のことも書いてあるんじゃないか。そう思ってあの日のことが書かれてないか探した。どこかに落とした手紙を探すように。もう少し、前の方にきっと、汐斗くんなら文字という形で綴っているはず。
――あった。あの日のことが書くかれている部分が。
何を汐斗くんは綴ったんだろう。私には直接言わなかった、日記という逃げ場――本音だけで構成されている場所には怒りがあるんだろうか、諦めがあるんだろうか、痛いということが書いてるんだろうか。それを私は知りたいと思った。汐斗くんの本当の心を。
『今日はあるクラスメートと僕の大きな出来事を書きたい。その前に、昨日は眠すぎて書けなかったので、僕の体調の近況報告。昨日病院に行き、いつも通り検査したことろ、少し細菌の数が増えていたみたい。もし、このまま増えたら僕は一体どうなるのか? それはたぶん、言わなくても分かると思うけど、明日を見ることができなくなる。もちろん、まだこのまま増えてくと決まったわけではない。だから、僕はもしものために、後悔しない生き方をしなきゃいけない。
そして次に、冒頭にも書いた、あるクラスメートと僕の大きな出来事を書きたい。一応名前は伏せることにするけど、Cさんは学校の屋上で明日を閉じようとしていた。そんなところを僕は止めた。そしたら、本当に素直に従ってくれた。そして僕はCさんにある約束をした。1ヶ月だけは待ってほしいと。そしたら君の自由にしていいと。普通ならこんな約束しないだろう。それも、たった1ヶ月という。1ヶ月で人の心を変えることができるのか、もしくはその人が変われるのかなんて分からない。でも、この約束は守ってくれる。それだけはCさんの心をみて、自然と分かってしまう。それと、これについても書いておきたい。僕が病気のことを伝えると、もしかしたら少し僕を見る目が変わるのかな、色々しつこく質問されるのかなとか思ったけれど、そんなことはなく、自分のしたことについて謝ってくれた。いい意味で裏切られたけど、それがなんだか嬉しかった。僕は正反対の人だけど、この人と少し人生を創りたい。別に、これが人生の最後になっても後悔はしない』
私もいい意味で裏切られた。そう感じてくれていたのか。汐斗くんは私と関わりが深くない中でもしっかりと私のことを分かってくれていた。そして、仮にこれで人生が終わってしまったとしても、私と関わることに後悔はないと言ってくれた。
この先にもたぶん私――Cさんのことがいくつか書かれているのだろう。でも、私は見るのはここまでにした。どんなことが書かれてるのか怖いという理由で開かなかったのではない。むしろ、だいたいどんなことが書かれているのか予想はつく。じゃあ、なんでか。ここまでで知ることは留めておきたかったから。あとは、心で感じたいと思ったから。
「ありがとう」
私は、その小さな闘病日記を全部は読まず、そこまでで汐斗くん本人に返した。汐斗くんが最初に言った通り、内容はそういうものが多かった。でも、読んだ意味はあると思う。汐斗くんのことが、どういう人間なのかが十分に分かった。
汐斗くんも苦しいのに……。
辛いのに……。
「汐斗くんって、ずるい、優しいよね」
「心葉、どうした急に?」
汐斗くんは覚えてないんだろうか。でも、覚えてないのかもしれない。中学3年生のことだから。昔のことなんて、時々思い出さないと、いつの間にか忘れてしまうんだから。もしかしたら数年経てば私といた日々なんてなかったものになってしまうのかもしれないんだし。でも、汐斗くんは書いていた。――誰かに「ずるい、優しいよ」って言われるぐらいの人になりたい。それが今の僕の夢なのかもしれない。そう、書いていた。だから、私は言ってみた。本当の気持ちと、この言葉は怖いぐらいリンクしていたから。
「いや、ただ思いついただけ」
「そうか……。それよりさ、『小さな闘病日記』を見て、どこか具合が悪くなったり、自分を閉めちゃったりしようとしてない?」
ほら、言ってるそばから。ずるいぐらい優しい。私が見たいと言って見せてもらったんだから、ある程度は覚悟して読んだから、そこまで気にする必要ないのに。
「それは大丈夫。でもさ、私も一つ言いたいことがある。この日記を見て思ったことを」
「……」
なぜか、汐斗くんは何も言わなかった。でも、汐斗くんのことだから、うんという意味だろう。
今から言いたいことは、ある意味マイナスのことだ。決してプラスではない。プラスになんてこの日記を読んで引っ張られない。
さっきも思ったこと。
――何だよ、そんなときから苦しみを抱えてきたのに、なんで私なんかを気遣かえるんだよ。
私たちは同じような立場だ。ただ、苦しみが何かが違うだけで。明日をどうしたいかというものが正反対なんだけで。苦しみを抱えた時期もほとんど同じ。その苦しみ強さも同じ――いや、汐斗くんの方が何倍も大きかったのかもしれない。私のは、最悪の話、高校を中退すれば済む。でも、汐斗くんは何かをすればその世界から逃け出せるわけではないんだから。それに、いつきてしまうか分からないんだから。
「汐斗くん、君はある意味バカだと思う。自分も辛いくせに私のことを気遣ってるし、想ってるし。この日記で十分それは分かったよ。自分の苦しみを知らなさすぎてる。自分のことを分かってなさすぎている。自分を犠牲にしすぎている。自分をもっと苦しめている……。自分だって辛いんでしょ? 苦しいんでしょ? 本当は、正反対の私を見ることなんて普通の人間ならできない。でも。君はそうしてる。だからバカ、なの?」
私を見てくれている人に対して言う言葉としては、最悪の言葉だと自分でも十分に感じている。汐斗くんに言う言葉じゃないと。酷いのは分かる。でも、言わずにはいられなかった。だけど、私が心を許してしまった彼に――彼だから本音を言いたかった。別にこれで関係が終わってしまったとしても、後悔はない。どんな形で終わるのか分からない私たちの関係においてはこういう風に消滅するのはむしろいいんじゃないか。
これが、言いたかった。私の大切な人だからこそ言いたかった。
「……そうか、僕はバカか。そうだな、うん」
少しの沈黙の後、そう喋った。汐斗くんの言葉からどんな感情を持ってるのかなんて、私には分からなかった。ただ、何か言いたいことがあった……それだけは分かった。
「確かに、僕は辛かったよ。この2、3年間辛かったよ。本当に辛かったよ。たぶん、心葉が思ってる以上に辛いときもあったと思う。色々な治療に分からないぐらい辛かったときもあると思う。普通なら、僕は心葉を気遣うことはできない。でも、心葉ならって思った。正反対だけど苦しみを抱えることに人なら、僕のことも分かってくれると思った。お互いにその世界を生きていけると思った。だから、自分のためでもあった。それに、心葉ならと思った理由がもう一つある。心葉は明日を閉じようとしてるけれど、心葉の心そのものは温かいって知ってたし、感じてたから。だから……そんな人の力になりたかったから。それが僕のできることであり、大切な命を届けてくれた人たちへのお礼になると思ったから」
ゆっくりと、まるでスローモーションのように、私の見える景色が少しずつ、かすれていく。汐斗くんの顔がぼやけてくる。でも、汐斗くんの瞳からも輝くものが落ちてきた……私には分かる。
どちらも、心が反応してしまったんだ。
水溜りを作るようなものを自分で作り出してしまったんだ。
この世界をゆっくりと水の世界に変えてしまったんだ。
――私たちの心を反映させた、涙。
「今日、僕、嬉しいことがあったはずなのに、何で泣いてるんだろう。本当だったら、ここで笑っているはずなのに。心葉をここにつけてきた理由は、2人で笑いあいたかったからなのに。君が明日を懸命に創ってくれたから、僕はこうなれたんだよって、お礼を言いたかったからなのに……なんで泣いてるんだろう。計画が潰れちゃったじゃん……」
私も、何で泣いているんだろう。汐斗くんの病気が完治に向かっているんだから、一緒に喜ばなきゃいけないはずなのに。笑わなきゃいけないはずなのに。楽しまなきゃいけないはずなのに。ここまで、本当にお疲れ様と言わなきゃいけないはずなのに。友達として、いや、親友として――私たちの関係をどういう言葉で表せばいいのかは分からないけれど、それが役目なはずなのに。おかしいじゃん、私。
でも、私は逆に汐斗くんを泣かせてしまった。
見たくもない姿を見てしまったし、見せてしまった。
このことをなかったことにしたいのか……でも、私は覚悟を決めて、汐斗くん伝えたはずだ。だから、それはないと思う。
じゃあ、私は、今、汐斗くんとどうしたいんだろうか。
どうやって、この世界を創りたいんだろうか。
たった1人の汐斗くんとどうやって歩んでいきたいんだろうか。
「ごめん、泣かせちゃって」
私は、謝った。まだ泣いていたいけれど、その涙を止めた。でも、完全には止まらない。どこかがそれを拒否している。
私の感情は自分ではコントロールできないみたいだ。
「おい、謝るなよ。もっと僕を辛くさせる気かよ。別に、計画なんて、潰れたっていいんだよ。それに、今日はいいことがあったとしても、必ずしも楽しいことだけで終わらせる必要はないんだよ。それよりも、大事なものをお互い見つけられたから。でも、泣いてばかりいても楽しくないだろ。まだ、1ヶ月は終わってないぞ。今度さ、どこか行こう。最後に、君とどこかに行きたいな。そしたら、君の自由だよ。好きに生きてくれ、君の人生だ」
「うん、私も行きたい」
私の涙はこの言葉により、いつの間にか止まっていた。汐斗くんの涙も止まっていた。
何かが涙を止まらした。
それが何かは私には分からない。
でも、汐斗くんの言葉、少し嫌なことがあった。
最後という言葉を使っかったこと。
1ヶ月がもうすぐ終わってしまうこと。
それが、少し嫌だった。
でも、それより汐斗くんが私と、どこかに行きたいと言ってくれたことは素直に嬉しかった。どんなことよりも、今、求めていたのかもしれない。
汐斗くんと最後に行く場所は、行けること自体が嬉しかったので本当にどこでもよかったけれど、遊園地に行くことになった。これは汐斗くんの提案で、最後に思いっきり楽しもうということから、遊園地を選んでくれたんだろう。
ずっとずっと待っていたその日が来た。まだかなあと思っていたときもあったけれど、その日は当然のように来た。目覚まし時計を集合時間に十分に間に合うよう寝坊したときのためにも何回かセットしたはずなのに、その目覚まし時計が役にたたないぐらい早く起きてしまった。
今日は特別なんだから、普段はやらないけど少し化粧をしていこう。もちろん、自分の姿だと言える範囲で。
カバンに忘れ物がないか、何回も何回も確認する。そして、汐斗くんに渡すためのミサンガも忘れずに入れる。そう言えば、今日、汐斗くんも出来上がった染め物を最後に見せてくれるらしい。それも私の楽しみの1つだ。
でも、カバンに入っているこの紙――いわゆる遺書と呼ばれるものは今日で捨ててしまおう。書かない方がいいとは分かっていたけれど、私の未来の心は自分では分からない。だから、これを読んでもらう気なんてないんだけれど、もし、その時が来てしまったときのために私は親や友達、そして汐斗くんに書いていたのだ。最後に自分の想っていたことを言えずに明日を閉じてしまうのは嫌だったから。
でも、何度も書き直したこの遺書も今日が終わったら、破いて捨ててしまおう。前に描いていた世界とはもう、おさらばだ。こんな遺書は私にはもうきっと必要ない。そんなものがなくたって、きっと私は生きていけるはずだ。あの人と出会えたんだから。
ドアノブに手をかける。
「行ってきます」
この家にはまだお母さんも、お父さんも帰ってきていないはずなのに、そんな言葉を言ってしまう。でも、感じるのだ。
ドアノブに自然と力が入り、ドアが軽い力で開き、外の世界の空気を吸った。
――私は、人生を変えてくれた君と、もしかしたら関わることのできる最後かもしれない特別な日を創るために、家を出た。
少し、早かっただろうか。まだ、約束の20分も前だ。汐斗くんの姿はもちろんまだ見えない。
私の目の前に見える横断歩道から汐斗くんは私のもとに来るはずだ。
時々、車が私の近くを何事もなく通過していく。
汐斗くんが来るのを、私は特別な想いで待っている。
本当に、汐斗くん今までありがとう。ずっとずっと忘れられない……そんな大切な人。
一生、忘れたくない。
「あれ、心葉じゃん!」
「あっ、唯衣花! その格好はどこかお出かけ?」
唯衣花が私の前を通ろうとしたところ、私に気づいたようで、唯衣花が私に声をかけてきてくれた。海みたいに爽やかな服装が、彼女を際立たせている。
「うん。友達と買い物に。心葉は好きな人でも待ってるの?」
「いや、そんなんじゃないよ!」
私は唯衣花の言ったことに対して慌てて否定した。私と汐斗くんの関係はそんなのじゃ――でも、ないとまでは言い切れないのかもしれない。だけど、考えると私の心のどこかを異常に反応させてしまいそうだからやめた。でも、その答えは私のどこかに眠っているはずだ。
「まあいいや。それよりちょうどいいや。これ、お見舞いに来てくれたお礼! そんな高いものじゃないけど、プレゼント」
唯衣花が、ショルダーバッグから丁寧にラッピングされたものを出して、それを私に手渡した。縦に長く、横は短い。私は開けてもいい? と聞いて唯衣花がうなずいた後に、そのラッピングを丁寧に取る。この瞬間が、小さい頃サンタさんにプレゼントをお願いした時、何が届いているかみたいでドキドキしてしまった。
「心葉が好きなピンク色の、ボールペンだよ!」
「唯衣花、ありがとう!」
唯衣花、そんな小さなことまで覚えていてくれたのか。でも、唯衣花に渡したあのミサンガの色も私の好きな色で作ったと前に言ったから、覚えていてくれたのかもしれない。私が好きな色はピンク色だってことを。
「これ、大切にするね」
私は、そのボールペンをそっとカバンの中にしまう。普通のときにはもったいなくて使えそうにないから、本当に大切なものを書く時に私は使うことになるんだろう。でも、そのときはいつ来るのかまだ分からない。
「うん。心葉が使いたいときにでもそのボールペンは使ってよ。話変わるけどこの辺スピード出す車が多いから気をつけてね。じゃあ、バイバイ。応援してるよ」
そう唯衣花は言った後、手を振りながら私からゆっくりと遠ざかっていく。
――応援してるよ。
何をなんだろう。主語は一体何なんだろう。でも、あの笑顔。もしかしたら、私のことを唯衣花は少し分かっているのかもしれない。はっきりとではなくても少し感じているのかもしれない。
まだ、汐斗くんの姿は見えないはずなのに、まるでそこにいるかのように感じてしまう。
この、太陽が暖めて――いや、温めてくれている空気、木の葉の揺れる優しい音、道端に咲く小さな花たち。
私の目に映るいつもの世界は――少し、不思議な世界だった。
でも、本当に今日で最後なのかな。
あの時からだいたい1ヶ月が経ってしまったけれど、今日が終われば、汐斗くんに電話をかけることもなくなるし、ラインをすることも大事な連絡以外しなくなってしまうのかな。まだお互いのことを全然知らなかった1か月前のような関係に、私たちに戻ってしまうのかな。
――今日で、本当に最後にしなきゃいけないのかな。
終わりって作らなきゃいけないのかな。これは小説の中の物語じゃないんだから作らなくてもいいんじゃないかな。
「おーい!」
向こう側に私のずっとずっと聞いていたい人の声がした――汐斗くんだ。赤信号を待っている一人の人が、こっちに向かって手を振ってきてくれている。
私も手を振り返す。すると、汐斗くんも手を振り返してくれた。
もう少し経てば、汐斗くんと……。
約束の10分前なのに、汐斗くんらしい。いや、私と同じで楽しみだから来てしまったっていう理由だったら少し嬉しいかもしれない。
時の流れはどうやっても来てくれるようで、赤だった信号機の色が、いつの間にか青に変わった。
汐斗くんは大地を踏み始めるようにして、横断歩道を歩き始めた。
もうすぐ、私のもとに汐斗くんが来てくれる。
待っていた瞬間。
――!
「えっ、おい、危ない、逃げろ――!」
突然、男の人が、大声で怒鳴る。何か、そのような声がした。
何が起きてるのかはすぐには分からなかったが、私は、その光景を見て分かってしまった。
向こう側から来ているトラックがコントロールを失って、汐斗くんの今渡っている横断歩道の方にものすごい速さで、爆発したみたいに大きな音で向かってきているのだ。
「――えっ」
汐斗くんはその現状は分かったみたいだけれど、あまりにも突然のことで、それに非現実的なことで何をすればいいのか分かっていない様子で横断歩道の真ん中で止まってしまった。自分の判断ができないでいるみたいだ。
でも、このままだと、汐斗くんは――
だけど、私が助けたら、私はたぶん――
そのトラックの暴走は止まらない。それに、汐斗くんは動くことができない。だったら、今、ちゃんと行動できるのは私だけ。私が助けに行かなきゃいけないのだ。一瞬どうするべきか悩んだが、頭が汐斗くんを助けに行かなきゃという信号を出すよりも早く、無意識に動いていた。汐斗くんを助けに行くために、私は走る。足を動かす。
仮に私に明日がなくたとしても、汐斗くんに明日があるんだとしたら私はそっちのほうが断然いい。
私は元々、明日を閉じようとしていたのだから。でも、汐斗くんが明日を伸ばしてくれて、今では、明日を創っていこうと思えてきてるだけ。
だから、本当は、もうこの世界にはいないはずだった。すでに、1か月前にこの世界から消えているはずだった。
だったら、私の世界よりも汐斗くんの世界の方があるべきだ。汐斗くんの世界はないとだめなんだ。
前に見た『小さな闘病日記』を見て分かった。私よりも何倍も苦しい思いをしてるじゃないか、辛かったんじゃないかと。そんなものに勝つことができたのに、望んでいた姿になれたのに、汐斗くんがここで明日を閉じていいはずがない。汐斗くんは明日を開かないと――明日を見ないとだめなんだ。それができるようになったばかりなんだから。今からが汐斗くんにとって本当のスタートなんだから。
――むしろ、明日を閉じたい私が、閉じられるんだからそれは望んでいたことなんじゃないだろうか。神様が与えてくれたことなんじゃないだろうか。
ほら、望み通りなるんだから、いいじゃないか。私の願いが叶うんだから。
それにさ、汐斗くんは私のいない世界のほうがきっと輝けるんだよ。私の存在はきっと邪魔なんだよ。分かってるよ。だからさ――
私は、呆然と立ち尽くしてる汐斗くんにありったけの力を込めて、歩道側に投げ飛ばした。
それから、1秒も立たない間に私に、トラックが容赦なく突っ込んできた。
その感触は言葉で表現なんかできない。
――キキッー。
それから、私はどうなったのか、分からない。
明日を閉じたのかも、閉じてないのかも。
今、私はどこの世界にいるのか。
でも、どの世界にいたとしても、汐斗くんにこれだけは言いたい――今までありがとう、と。
――おい、大丈夫か。
うん、大丈夫? 大丈夫?
私は、望み通り、明日を閉じてしまったんだろうか?
まだまだ見ていたかった汐斗くんの顔はもう、一生見えないんだろうか。
最後に、私は世界を変えてくれた君に「ありがとう」も言えなかった――いや、言わせてくれなかったんだろうか。
私はそう思いながら、この世界を見渡すために、目を開いた。
――私の瞳には、汐斗くんの顔が映った。
……
……
……
「……あっ、よかった、心葉。本当に」
ここはどうやら、まだ私がさっきまでいた世界?
私は地面に横たわっていたようだ。
でも、私……。
「救急車とかは呼んだから。でも、ごめん、僕のせいでこんなことに……謝りきれない」
そうか、私はまだなんとかこの世界にいることができたんだ。ここはまだあっちの世界ではないんだ。
「……いや、今はそんなことは。でも、痛い、痛い」
やはり、トラックに轢かれたからか、色々なところが痛む。全身が。どのような状況で怪我してるのかも私にはよく分からない。声を出すのもやっとなぐらいに痛い。
ここの世界はまだ汐斗くんのいる世界だ。でも、私はもうすぐ、本当に、明日を閉じてしまうんじゃないだろうか。そうとまで思えてくる。この状況をうまくつかめない。今まで感じたことのないぐらい言葉に表せない傷み。
「やばいな、これはもしかしたら、少し厳しいかもだぞ! 救急車はまだ来ないのか!?」
「いや、まだ呼んだばかりだから、もう数分はかかるかと……」
周りの人たちの声だろうか。怒鳴り声も混ざっているし、他にも様々な声が飛び交っていた。私は、今、そんなにも厳しい状態なんだろうか。でも、私の近くには赤いものが見える。
誰か名前もわからない大人が、私の応急処置をしてくれているみたいだ。皆、懸命にこの世界でたった一人の私を助けようとしてくれているのだ。こんな、私を助けようと……。私と関わりなんかない名前すらも知らない赤の他人を助けようと……。助けたところで意味があるのかも分からないのに。
でも、さっき一瞬だけ、あの世界が見えてしまった気がする。
「いや、心葉、大丈夫だから泣くなよ」
優しい汐斗くんがまた、私の顔を見てくる。自分は、泣いているのだろうか、そんなの分からなかった。自覚なんてない。
ただ、私はもうもたないかもしれないことは、自分でも十分に分かっていた。体がそんなことを教えてくれている。
こういう現実――終わり方もあるんだな。
「あのさ、汐斗くん。少し話したい。もしかしたら、明日を閉じてしまうかもしれないから」
「……いいぞ。ちゃんと聞く。でも、明日を閉じるなんて言うなよ! 変わった今の心葉にそんな言葉似合わないよ!」
分かってるけど、ここで弱音を吐かないことなんて、私にはできない。そんなに汐斗くんの思っているほど私は強くないんだ。自分で明日を閉じようとしていたんだもん。本当は、今の私にこの言葉、似合わないこと、そんなことぐらい知ってるよ。だって、汐斗くんが似合わない言葉にしてくれたんだから。
「汐斗くんは、本当に私にとって大切な……私の世界を変えてくれた人でした。それに、いつも優しくて、誰かのことを考えられて、いいところがいつまでも言える人……そんな人、たぶんこの世界で汐斗くんぐらいしかいません。本当にありがとう。私、さっきまではこれが望んでいたことなんだからいいじゃんとか、本当はもうこの世界にいないはずだったからいいんじゃないかとまで思ってた。でも、やっぱりそんなことはなかった。私の望みは、汐斗くんに書き換えられてしまった。だから、私は――」
本当に書き換えられるなんて、思ってもなかった。あの日のままの私だと思ってた。でも、汐斗くんは違った。
汐斗くんの変えてくれた世界が、私にとって今、一番の宝物なんだ。だから――
「――私は、自分の世界、閉じたくないよ。まだまだ、汐斗くんとこの世界を歩んでいきたいよ。明日も、その次も汐斗くんの顔を見ていたいよ。見させてよ……」
私は、自分の力でどんな状態になってるかも分からないけれど、汐斗くんに抱きついた。前と感触は全然違った。ちゃんと抱きしめられない。でも、抱きしめているのは私を創ってくれた汐斗くんだった……それだけは間違いなかった。
「最初は自分の世界を閉じたいと思ってた。でも、大切な人と会ったことで、明日を創りたくなった。こんな自分勝手な人を、神様、どうか許してください、許して……、許して……」
こんな人、多分神様は怒って、私の本当の望みは叶えてくれない。叶えてくれっこないって分かってる。でも、私はまだ生きていたい。こんな素敵な人と出会えたのだから。この世界で出会わせてくれたのだから。
「大丈夫だよ、心葉の心も神様はきっと見てるはずだから」
「怖い、怖いよ。もっともっと君といたいよ。まだ、遊園地だって行ってないじゃん」
「分かってる。分かってるよ。でも、心葉もう喋らない方が……それ以上喋ると、もしかしたら、だめになっちゃうかもしれない。この世界から追い出されちゃうかもしれない」
私の呼吸がさっきよりも苦しい。荒くなっている。泣いているからと、大きな怪我をしているから。さっきよりも悪化している。少し前までの望みに近づいてしまってる。私は、もう、汐斗くんに喋ることも難しくなっている。声はもう厳しい……。声で想いを伝えることは難しい。でも、まだ伝えられる方法はある――文字で。
「汐斗くん……カバンの中に入っている遺書――いや、手紙を見て……、そこに書いてあることを伝えたい。声が無理なら文字という言葉で伝えたい」
「分かった。でも、まだ明日を閉じちゃだめだろ。約束したんだから。まだ、1ヶ月経ってないんだからせめてもう少し待ってくれよ。自由にしていいのはそれからなんだよ」
――うん、約束、必ず守るから。汐斗くんは私が約束を守ってくれるって信じてそういう約束をしてくれたんだから。そんなの、破るわけないじゃん……。私を信じてよ。
でも、それを声に出すことはやめた。本当は声に出してそう伝えたいけれど、無理をしてここで声を出してしまったら、明日を閉じてしまうかもしれないから。約束を破ってしまうかもしれないから。信じてくれた汐斗くんを裏切ることなんて、私はしたくない。
そんな言葉を聞くよりも、汐斗くんはこの世界で明日も人生を創ってくれる方が望んでいると思ったから。
でも、本当は言いたい。それを、汐斗くんの約束を守るためだと思い、人生の中でも一番辛いかもしれないけど、我慢した。そういう想いを込めて、私は目で汐斗くんに伝えた。それ伝わったのかを私に確かめる方法なんてないけど、汐斗くんはうんと大きくうなずいてくれた。
汐斗くんが、近くに転がっている私のカバンから封筒を取り出し、中のものを読み始めた。これは、今は遺書ではない――最後に贈りたい、私の想いが詰まった手紙だ。
この手紙、何度書き直したことだろうか。気持ちが変わるごとに、書き直した。どんどんと世界を向けている……そんなことは自分でも感じられた。それは、汐斗くんのせいなんだろう。
この手紙を書いたときが蘇る。今、汐斗くんがゆっくりと、自分の瞳という部分を用いて、自分の心の中に少しずつ吸収しているものを書いたのは……数日前だ。これが、一番最近書いたもの。今に一番近い私が書いたものだ。
その時のペンを握る感触、紙に触れた手の感触、周りから聞こえてきた音を、今、私は感じている。これを書いているときと、全く同じものを。
『私にとって大切な存在の汐斗くんへ
これはもし、私が汐斗くんとの約束を破ってしまい、自分から明日を閉じてしまったときの遺書になるものだと思います(違ってたらごめんね)。
本当はこんなもの書く必要、ないと思います。だって、汐斗くんがどんな私でも明日を創ってくれるんだから。私の世界をともに歩んでくれているんだから。
でも、もし自分が明日を閉じてしまったとき、私の心にあるものをちゃんと伝えられないのは嫌なので、これを書いています。だから、その想いを伝えるために書きました。そんな私を許してください。許さなくてもいいから、この想いを受け取ってください。
汐斗くんは一言で言うなら私の世界に道を創ってくれた人です。それも、私だけが進むことのできる道を。
そして、本当に、本当に不思議な人です。明日に対して正反対の想いを持っている私に、ここまで関わってくれた。もしかしたら、明日の人生がなくなってしまうかもしれないのに――もしかしたら最後になるかもしれないのに、私にその人生を与えてくれた。そんな人を、憧れないわけありません。ずるいよ。そんな人とずっと離れたくないです。私のことを、仮にどんな世界にいるのだとしても、想ってほしいです。忘れないでほしいです。私を白野心葉として、ずっとずっとその名前を胸に刻んでほしいです。私も、絶対にそうするから。これは、どんなことがあっても約束するから。
本当に、汐斗くんと過ごせた日々は、特別だった。もちろん、その時間全部が楽しいわけじゃなかったけど、全てに意味があると思えた日々を送れたのは本当に久しぶりでした。本当にありがとう。ありがとう。ありがとう……何度も言うよ。何度言っても、多分続いてしまうよ。終わりなんかないよ。
そんな私が感謝してもしきれない汐斗くんの病気が完治に向かっていること、本当によかった。それが、私の夢だった。最後にその夢を見ることができて、私はすごく嬉しかった。汐斗くんがその姿でこの世界を創ってるところを見られないのは、少し残念だけど、そうだと願っています。でも、どこにいても、ちゃんと見てるから、悲しまないでください。私が言えることじゃないけど、君には自分の人生があります。その人生を輝かせてください。ずるいぐらい幸せになってください。私ができなかった分まで。約束してください。私の分まで生きてくれることが、たぶん汐斗くんと出逢えて一番よかったと思う瞬間になるんだと思います。こんなにも、失いたくない人、離したくない人、初めてだったよ。
最後に一つ。もしかしたら、これは書けないかもしれません。そしたら、ごめんなさい。でも、私はそのことをどこにいても思ってます。汐斗――
君との日々はずっと忘れない白野心葉より
PS さよならじゃないからね、信じてる。今までありがとう。私の人生はこれで終点です』
私の書いた文字はどう、汐斗くんに届いているんだろう。
自分の想いは届くんだろうか。
どこにいても、きっと汐斗くんなら私の想い、感じ取ってくれるはずだ。
でも、まだあのことは書けなかった。手紙の最後の部分、書けなかった。汐斗――の続きが。書けなかった。
「こ、こ、は……」
私の名前を汐斗くんは噛み締めながら、その手紙に書いてあることを感じ取りながら、どんな声よりも美しい声で言った。でも、汐斗くんは泣いてなかった。たぶん、こんな私の前で泣いたら……とでも思ったのだろう。
「最後のってさ……いや、無理ならいいや。ごめん。本当に、ありがとう。でもさ、泣くギリギリにいるんだ。こんなにこらえなきゃいけないの、初めてだよ……」
やっぱり、そこが気になってしまったか。最後に書けなかった部分が。何を伝えようとしていたのか。
汐斗くんはその手紙を私の近くにそっと置いてくれた。
私は本当は、この手紙で汐斗くんを泣かせたかった。でも、汐斗くんは泣いてくれなかった。私のために心から泣いてほしかったけど、泣いてくれなかった。あの時みたいに泣いてほしかった。
気を遣わなくてよかったのに……。何でだよ……。
「僕はもっと心葉のことを知りたいし、一緒に笑いたいし、見守りたいし、お互いを成長させていきたい……僕は明日を見えるようになって、心葉は明日を創りたいと思えるようになって……だから、終点じゃなくて、ここがお互いの始まりなんじゃないか。見つけた始まり、簡単になかったことにはできない。心葉、言ってなかったけど、辛いながらも一生懸命に生きる君は、僕の世界を変えてくれた。僕も憧れだったよ……。憧れの人がいなくなったらどうするんだよ」
汐斗くんが私を泣かそうとしてくれる。でも、泣いたら負けだ。こらえたくないのに、こんなにもこらえなきゃいけないのは初めてだ。
じゃあ、私は最後に君に泣いてもらうために、力を振り絞ろうかな。私が勝とうかな。負けたくないもん。君は嫌かもしれないけど、泣くという最後のプレゼントを渡そうかな。でも、もう声は厳しい。だけど、腕は少し動く。その腕を使って私は、近くに転がっていた唯衣花からもらったピンク色のペンを取る。これも、大事にできなくてごめんね、唯衣花。そして、海佳ちゃんもさよならを言えなくてごめんね。私を支えてくれたのに。
いや、このボールペンは大事にできないわけじゃない。私が本当に伝えたいことを書く時に使うんだから……。
――皆、こんな私で本当にごめんね。
私は、そのピンク色のボールペンで、あのときは書けなかった汐斗――の続きを書く。今なら書ける。伝えたい。伝えるのならもう今しかない。私の最後がこれで終われたら、きっとこの世界で一番幸せなんだろう。だって、最後まで君のことを思えるんだから。
私は、ある文字を汐斗――の続きに書いた。崩れた文字で――最後に伝えたかった、たった2文字の言葉を。そのピンク色の文字が太陽の光で表すことのできないぐらいに輝いた。
『すき』
その瞬間、汐斗くんの泣く大きな声がした。
「心葉、まだ終わっちゃだめだろ、まだ約束の時間、終わってないんだから!」
そう叫ばれた。本当に大きな声だった。その文字に汐斗くんの綺麗な雫が落ちた。私からも気づけば雫が垂れていた。この世界がその雫のせいで美しく見えた。いつかその雫だけで小さな水たまりができるんじゃないだろうか。
それから、私は瞳を閉じた。これが、最後の力だったみたいだ。でも、幸せだった。
――こういう最後でよかったよ。最後は、引き分けだったね。
汐斗くん――私の世界を最後まで変えてくれて本当にありがとう。最後に恋して終わったんだな。終わることが出来たんだな。
――私は、約束を守ることができなかったんだな。
「ごめんね」じゃ到底許してもらえないことをしてしまったんだな。
でも、汐斗くんが創ってくれた世界で過ごせた日々は幸せだった。明日を見る君は、私の世界を変えてくれた。そんな君と日々を贈ることができて。最後にあの言葉を伝えられて。
ただ、約束を破ってしまったんだな。
たぶん今私が見ているどこまでも続く真暗な世界は、もうあの世界。
こういう世界が、ここでは広がっているんだ。知らなかったな。
でも、いつか別れは来るのだ。こんないい別れ方、むしろよかったのかもしれない。
私が変われたからその先も未来が明るくなる……そんなに現実はうまくいかないんだな。
真っ暗な世界のどこかから誰かの声が聞こえる。汐斗くん……たちだ。こんなところでもその声が聞こえるなんて、私は幸せだな。
「本当にごめんなさい。僕のせいで……心葉さんが……。どうして僕はちゃんとあの時動けなかったのか。何も行動できなかったのか……」
そんなことはもうどうでもいいんだよ。この世界でも、私に対して謝るなんて汐斗くんらしいな。私だって謝らなければいけないことが沢山あるのに。やっぱり、汐斗くんは私の心に残る人なんだ。いつまでも忘れられないんだ。
「いえ、そんなことは……。だって、心葉が書いたあの遺書――いや、手紙を読んで分かったよ。元々、あの子は私たちが原因で明日を閉じようとしていた。でも、汐斗くんがいてくれたおかげで……。汐斗くんがいなかったらもう、あの子は1か月前に世界を閉じていたんだから。逆に私たちは汐斗くんに感謝を言わないといけないね……。心葉という人を大切にしてくれて本当にありがとう。君は心葉の心を変えてしまうぐらいすごい力を持っているんだね」
この世界では、お母さんの声も聞こえるんだ。久しぶりにこんなにもお母さんの声が近くに感じられた。お母さんの言う通り、汐斗くんは何も悪くない。むしろ、感謝を言いたいぐらいだ。私なんかを大切にしてくれてありがとう。私といたことで、汐斗くんの大切な人生が奪われてなきゃいいな。
――優しい感触。
私は、今、誰かに触られた。
感じたことのある感触。
私を包みこむかのような感触。
そっと何かを吹き込んでくれる。
この世界は違うんだ。
まだ、あの世界ではないんだ。
――この感触が、私はまだ現実世界にいるんだってことを教えてくれた。
――!
「心葉……」
目を開いた。ここは、病院だ。どうやら、私はベッドに寝かされているようだ。少し前に感じたことのある匂いと同じ。
周りには色んな物が置いてある。名前の分からないものまで。でも、この周りにいる人たちの名前は知っている。
私のお母さんにお父さん。海佳ちゃんに唯衣花。
――そして、汐斗くん。
さっきの感触は汐斗くんだ。絶対そうだ。間違いない。
「えっ……私……」
「心葉、よかった! 待ってたよ!」
その瞬間、海佳ちゃんと唯衣花が私に優しく抱きついてくる。
この感触も懐かしい。やっぱりここは現実世界なんだ。
私が生きていなきゃいけない世界だ。
明日を開くことができる世界だ。
「心葉……。よかった。僕との約束、やっぱ心葉が破ることないんだな」
汐斗くんは、もう、泣いてなかった。あの時、最後に書いた言葉について汐斗くんはどう思ってるのだろうか。どう、感じているのだろうか。
「……皆、心配かけてごめんね。お母さんと、お父さんも……たぶん、わざわざ出張先から駆けつけてくれたんだよね。ありがとう。そして、ごめんなさい……」
「いや、私の方こそごめん」
私がそう言うと、お母さんは急に泣き出し、顔をまるでしわくちゃな紙のようにして私に抱きついていた。普段泣く姿を見ることのないお父さんまでも、お母さんの隣でそっと泣いていた。何がそうさせたんだろうか。今、泣く意味があるんだろうか。
――ごめんね、って?
「心葉、ごめんなさい。あの遺書――いや、手紙を読んで分かった。その多くの文字で私たちに思ってることを綴ってくれてありがとう。心葉の心の中を言葉として見ることができたよ。私たちの『いい高校に行ければ大学の視野も広くなると思うし、今後の心葉の人生をより豊かにできる』とかいう心葉への期待が……逆に心葉を苦しめてたのね。明日を苦しめるほど、苦しめていたのね。私たちが心葉の心を傷つけ、締付け、悲しませ、逃げ場すらも奪ってしまった……。それに、いつもいつも勉強してるなんて思わなかった。心葉の青春を奪ってるなんて分かってあげられなかった。本当に、気づけなくてごめんね。でも、言ってほしかった……」
「俺からもごめん、謝らせてくれ。心葉のためにと思ってできる限り協力してあげたけど、それが逆に心葉を苦しめたなんて……ごめん、親としてちゃんと心葉と向き合えてなかった。豊かにさせてあげるどころが、世界を狭くさせてしまった。どうやっても謝りきれないし、償いきれない……」
「2人とも……」
私は、こんなことを言ってくれた2人になんと言っていいのか分からない。私は別に2人を恨んでいるわけではない。むしろ、恨んでいるのは過去の自分の方だ。自分自身が、あの時はこの世で一番嫌いだった。
「私こそ、ごめんなさい。ちゃんと自分のことを言えなくて、自分自身と向き合えなくて。そしたら、ちゃんと2人なら分かってくれたはずなのに」
「いや、心葉は何も悪くないよ。私たちのせいだよ。それは、これから一生を償っていくから、どうか、私たちのことを……いや、私のことは恨んでもいいから、お父さんのことだけは恨まないでほしい。私が全部勝手に言っただけだから。だけど、どうして心葉にそう言ってしまったのか、少しだけ話をさせて。別にこれは言い訳を言うわけじゃない。でも、そうなんだなって思ってほしいから」
お母さんは泣き止んでから、どうして私に『いい高校に行ければ大学の視野も広くなると思うし、今後の心葉の人生をより豊かにできる』と言ってしまったのかについて話した。
お母さんには、中学の時、仲の良かった友達がいたそうだ。その友達は自分なんかよりも何倍も頭がよく、高校も今の私が行っているぐらいの進学校に入学したみたいだ。一方自分はというと、ちゃんと勉強できなかったせいで、その子と同じ高校には行けなかったようだ。その勉強できなかった原因が、今はもういないお母さんのお母さんに当たる人――つまり、祖母はかなり家の事について厳しい人で、家の家事を受験が近づいても勉強時間を奪うかのようにさせたり、赤ちゃんの子守もさせられたようだ。だから、勉強時間なんかまともに取れなくて元々行きたいと思っていたその子と同じ高校には届きそうになく、その高校から2、3個もランクを下げた高校を最終志望することにしたみたいだ。高校に入ってから無事に行きたかった進学校に合格した友達は楽しい高校生活を送っているということをメールで報告してきたらしい。自分は行きたいところに行けなかったのに、親のせいで低いところにしか行けなかったのに……。そう思って、もし、自分が子供を産んだときには全力でサポートしてあげようという気持ちが芽生えたようだ。自分みたいな思いをしてほしくないから、一度だけの人生を楽しんでほしいから……。
そういう親の気持ち、ぐっと来る。その言葉が重く感じる。
「だから、ごめんね。心葉には、後悔してほしくなかった。与えられるものは与えたかった。私と同じように歩むのは違うと思った……一度きりの人生だから」
「じゃあ、やっぱり、私のせいだよ。だって今の高校に行きたいなって中学2年の夏ぐらいの時に言っちゃったから、それを本気にしちゃったんでしょ?」
やっぱり、自分自身がいけない。自分だけが悪いんだ。
「……うん。そうだね。でも、ちゃんと……もっと聞くべきだった。ここでいいよねって中3の春頃に言って押し通さなければ……」
「この学校は、本当は、もし勉強ができたらここがいいなっていう理想に過ぎなくて、もっと自分にあってるのはこっちだって……そういう意味だってはっきり言えば、こうはならなかったのに」
「そうかもしれない。だけど、私が心葉に気づけてれば楽しい生活が送れたのにね。今は、変われたって書いてるけど、この1年半、本当は楽しいはずの学校生活が、私たちのせいでなくなっちゃった……。もう、取り返せないよね」
確かに、私の辛かった日々はもう取り返すことができない。今、変われたんだとしても、その時間が戻ってくることはもう、一生ない。時間は過ぎていくだけで戻ることはない。この隙間という日々を取り戻すもの、それ自体は存在しない。
でも、私は――
「でも、なんだかんだ言って、私はこの学校に来られたこと、後悔してないよ。色んな人と出逢えたから。ここにいる人たちも、ここにはいない人たちも。汐斗くんは、特に私を変えてくれた。こんな人、多分ここにしかいないから。ここじゃないと会えなかったから。だから、後悔はない。むしろよかった。確かに、その日々は取り戻せないけど、この残りで楽しめばいいから、まだ終わってないよ。私の高校生は。だから、お母さん、お父さん、自分を責めないで。私も自分を責めないから」
「うん。そうだな」
「分かった。ありがとう……。これからは、青春というのを創るために協力するから」
「心葉、私も、ちゃんと思ってあげられなくてごめんね。思ってあげられたら、もっと違う世界を見ることができたかもしれないのに。でも、その日々を戻せないのなら、これからその分を楽しもう!」
「私も、それに協力させてほしいな」
「ありがとう、海佳ちゃん、唯衣花」
まだ、失った日々の楽しさを戻すことはきっとできるんだろう。この人たちがいれば。まだ、自分の高校生は終わっていない。むしろ、今からがスタートだ。
――明日を上る階段を、私が自分で創っていくんだ。
どうやら、病院の先生いわく、私はもう少し入院が必要になるらしいけれど、特別心配する必要はないということだった。私を助けてくれた人たちに本当に感謝したい。なんとか、私は汐斗くんとの約束を守ることができそうだ。
もう、病室に来てからかなりの時間が経ったみたいで、皆が順番に私の病室を後にしていく。少し寂しいけれど、私はそこまで子供ではない。私は安心させるために笑顔で皆を見送った。
ただ、少し時間が経ってから、忘れ物をしたのか、汐斗くんが戻ってきた。
「忘れ物?」
「ある意味、忘れ物かな」
汐斗くんが私の方に近づきながら少しはにかみながらそう言うと、カバンの中から、私が今日渡すはずだったピンク色のミサンガを取り出した。たぶん、あの時にどこかに飛ばされたのを汐斗くんが拾ってくれたんだろう。私の好きな色で作ったピンク色のミサンガだ。ある意味私が変わったことを表す証拠品だ。
「これ、たぶん、僕へのだろ。心葉今、僕に渡してくれ」
汐斗くんは一旦、そのミサンガを私に返した。そうだ、これは自分から汐斗くんにプレゼントしないといけない。私から贈るべきプレゼントなのだから。
「うん」
私はそれを一旦受け取り、少しの間、私の想いを詰めるために目をつぶりながらそれを抱きしめた。
「はい、どうぞ」
それから、汐斗くんにそのミサンガを渡す。そして、花が満開に咲いたかのような子供らしい笑顔を見せた後に、汐斗くんはそのミサンガを右手に付けた。そして、大きくうなずいた。
「ありがとう、今までで一番嬉しい」
大げさだな。でも、私も今までで一番嬉しいかもしれない。これからも作っていきたいかもしれない。また、あの時みたいに自分の趣味として再開させたい。
次は、汐斗くんが私に染め物を見せる番だ。汐斗くんは、カバンから染め物を取り出し、まだ中が見えない閉じた状態のまま私の見える位置まで持ってきてくれた。
「じゃあ、お披露目」
どんなものを、その作品に収めたのか。汐斗くんがカウントダウンを5から始める。私の心がバクバクしている。
「5、4、3、2、1――」
0――で、汐斗くんが閉じた状態だったものを一気に開いた。私の瞳がそれを追いかける。
そこには、私みたいな顔が大きく彩られていた。
そして、ある文字のようなもの――『すきだよ』という文字が書かれてあった。
――えっ。
私みたいな顔とその上に『すきだよ』という文字……。
私は目を疑ってしまった。その作品に収められているものが信じられなかった。
どうなっているのか、分からなかった。
「心葉、見て分かる通り、これが僕の気持ちだ。この大切な作品を通して伝えたいと思った」
「どうして……こんな私のことを好きになれるはずなんか……」
そうだよ、何かの間違いだよ。そんなこと、あるはずない。きっと私のせいで汐斗くんのどこかを壊してしまったんだ。だって、明日を閉じようとしてた私なんかを好きになれるはずない。それも、私と正反対の明日を見たい君が。
「前も少し言ったけど、心葉は明日を閉じようとしていた。でも、心葉の心は温かい。君はつまり優しいんだ。それに、苦しみを持ちながらも僕の言う約束を守ってくれたし、必死に耐え抜こうとしていた。自分から明日を閉じるのをやめた時……すごい頑張っている姿に押された。僕もじゃあと思って頑張れたからだよ」
「汐斗くん……」
こんな私を好きになれる汐斗くんは少し変わっている。そんなことで好きになれる人は本当に本当に不思議な人だ。おかしな人だ。でも、汐斗くんが変わった人でも、不思議な人でも構わない。だって、私が汐斗くんが好きというのはどんな汐斗くんでも変わらないのだから。一生好きでい続けるのだから。
「ありがとう」
「じゃあ、これ、約束通りあげるよ。玄関の前にでも飾っておいてくれ」
「それは流石に恥ずかしいよ。でも、どこかに飾っておくね」
玄関の前に飾るのは流石に恥ずかしいけれど、汐斗くんが私のためだけに作ってくれたその染め物をどこか常に目の入るところに飾っておきたい。見るたびに、汐斗くんのことを思ってしまうんだろうな。
「あ、あと、一つ、心葉に謝りたいことがあって、この手紙、泣きすぎてさ心葉のピンク色のボールペンで最後に書いてくれた文字、消えちゃって……」
汐斗くんはポケットから私の書いた遺書――手紙を出した。私が最後に唯衣花からもらったピンク色のボールペンで書いた『すき』という文字が涙とかのせいでほとんど消えかけていた。もう、その文字をはっきりとは読み取れない。
でも、そんなこと構わない。その、『すき』という文字が消えたとしても。
もう、あの時とは違う状況にいるんだから。
書く以外の方法でもその想いを伝えることはできるんだから。
もっと近くで伝えられるんだから。
「――じゃあ、私が声で言ってあげるよ。汐斗くん『すき』」
「――僕も、『すき』だ」
私たちのもとに何か、様々な色を持つ、言葉で表しきれないような美しい光のようなものが差し込んだ。
たぶん、この世界は、今、私たちのためだけにあるんだろう。私たちのためだけに存在して、その世界で私たちは想いを伝えている。
私の言った言葉と、汐斗くんの言った言葉……2つが重なっていく。
本当に私は、汐斗くんに恋をしてしまったのだろう。
ずるい恋をしてしまったのだろう。
私たちは抱きしめ合った。抱きしめずにはいられなかった。
誰もいないんだから、ちゃんと抱きしめてもいいよね。
「あのさ、1ヶ月経ったら私の自由にしてもいいって汐斗くんは言ったじゃん? じゃあ、これからも汐斗くんと一緒にいたい。今までと同じように成長していきたい。今まで通り一緒にいてくれればこれ以上望むものなんてない。でも、今度は同じ明日を見る2人として一緒にいたいな」
私は抱きしめたまま汐斗くんにそう言った。あのときの約束はもうすぐ期限が切れる。これからは私の自由だ。だから、私の望みを言った。今まで通り過ごしたい。これ以上の関係になりたいとかそんな贅沢なんて言わない。いや、むしろこれが私にとっては一番の贅沢なんじゃないだろうか。
ただ、今とは違うことがあるんだとしたら今は正反対の2人ではない。同じ方向を見る二人――同じ明日を見る二人だ。その違う姿で成長したい。
「うん、そうだな。僕の望みは心葉が生きたいように生きてほしいってことだから……もちろんだよ」
汐斗くんは更に私を強く抱きしめてきた。少し、痛かった。でも、それが私のことを想う強さなんだろう。そう思うと痛くなくなった。
私が無事に退院でき、それから少し経った後、皆で元々汐斗くんと2人で行こうとしていた遊園地に遊びに行った。皆というのは、私と汐斗くんに加え、唯衣花や海佳(海佳からも呼び捨てで呼んでほしいと言われたので今はこうなっている)とも一緒に行ったということだ。明るい明日をともに創っていきたい人たちの集まりといったところだろうか。それとも、なんだろうか……。そんなことよりも今は楽しまないと。
「よーし、次はジェットコースター乗るぞー!」
「そうだね!」
「ジェットコースターかー。楽しそうだけど、少し苦手だから私はパスしようかなー」
「心葉と同じで僕もパスで。2人で楽しんできな。僕らはじゃあ、コーヒーカップにでも乗ろうか!」
「うん!」
私と汐斗くんはジェットコースターが少し苦手なので、その代わりに2人でコーヒーカップに乗ることにした。というか、皆のテンションが異常に高くて、そしてこの空間がすごく楽しい。少し前の私では考えられないぐらい楽しい。皆のおかげで失った日々を今日だけで埋められそうだ。
「お、2人は仲良くコーヒーカップですか。いいですねー。好きな者同士」
海佳が私たちの目を交互に見ながらそう言ってくる。その瞳が太陽の光もあってかより眩しい。そして私の瞳には海佳のミサンガが映し出されている。
「いや、別に、そういうんじゃ!」
「まあ、まあ、そういうことにしておいて……私たちは混んじゃうから先に行ってくるね。バイバイ」
「うん、バイバイ、汐斗、心葉をよろしくね」
「分かったよ」
もう、この会話で分かるかもしれないけれど、私が汐斗くんを好きなこと、そして汐斗くんが私を好きなこと……このことはもうすでにばれている。でも、私たちが2人に言ったわけではない。
では、そのことをどうして知っているのかと言うと、あの日、皆が病室を出て、汐斗くんと二人っきりになり、お互いに贈り物をしたり、お互いに「すき」と言ったあの場面をどうやら2人は病室の外から見ていたようなのだ。そのことを知ったのは2人が次にお見舞いに来てくれた翌日だったが、そのときは心臓が飛び出るぐらいびっくりしてしまった。でも、なぜだか恥ずかしさというものはなかった。
私たちは、コーヒーカップの方に行くと、そこはあまり人がいなかったので、すぐに乗ることができた。もちろん、2人で1つのコーヒーカップだ。私は一番奥のコーヒーカップを選んだ。
全部の確認が終わった後で、アナウンスが流れコーヒーカップがゆっくりと回り始めた。段々とスピードが速くなっていく。草原から吹いたような風を切っていく。私の周りを風が包み込んでいく。その風は、まるで私の黒い過去を飛ばし、新しい明るい未来を連れてきてくれてるかのようだった。私はその風に当たりながら、周りの景色を見ている。汐斗くんは、このコーヒーカップを回してくれている。
「汐斗くん……回し過ぎだよ! 速い! 速い!」
急に速くなったなと思い、汐斗くんの方を見てみると、汐斗くんが子供みたいな無邪気な顔で回していた。
「あー、ごめんごめん、つい回しすぎちゃった。じゃあ、今度は心葉が回して」
「うん」
今度は私が汐斗くんと交代して回し始めた。さっきのお返しだ! という気持ちも込めて、汐斗くんよりも速く回す。
「おーい、心葉だって!」
「えㇸㇸ」
子供だな、私。でも、そんな姿を汐斗くんになら見せられてしまう。
「じゃあ――」
汐斗くんが何やらスマホを出し、それを私の方に向けてくる。それから、何やらパシャっと音がなる。これは、もしや――
「ふふ、心葉の笑った顔。インスタにあげていい? 俺のフォロワー、まだ全然いないからそんな見られないよ」
「いや、もちろんだめ!」
私は汐斗くんの質問に即興で断った。私の顔なんて需要ないだろうし、フォロワーの数に関係なく見られるのがそもそも恥ずかしい……こんなことを、汐斗くんと関わりを持った日にも思った気がする。あの時が懐かしい。私たちの物語の始まりの日が。
「それぐらい分かってるよ。でも、幸せそうな顔が見られてよかった」
段々と、コーヒーカップの速度が落ちていく。そう、気づけばもうそろそろ終わりだ。
それからゆっくりと、コーヒーカップは止まった。
あっという間の時間だった。でもその時間は、すごく幸せだった。この数分が、何日もの価値があるように思えた。
「コーヒーカップは終わっちゃったけど、まだまだ続くよな」
「うん」
たぶん、その――まだまだ続くは2つの意味を持っているんだろう。私は大きくうなずいてから、コーヒーカップを下りる。
次はどの乗り物に乗ろうか、まだまだ楽しい日々は終わらない。私の人生はまだ新しいステージに入って、それは始まったばかりなのだから。
――明日を見る君は、私の世界を変えてくれた。
その君と、ずっとずっとこの先の未来も歩んでいきたい。
汐斗くんが急に走り出した。私も負けじとその背中を追って走り始めた。
太陽が、ずるいぐらいに眩しい。