――私は、約束を守ることができなかったんだな。

 「ごめんね」じゃ到底許してもらえないことをしてしまったんだな。

 でも、汐斗くんが創ってくれた世界で過ごせた日々は幸せだった。明日を見る君は、私の世界を変えてくれた。そんな君と日々を贈ることができて。最後にあの言葉を伝えられて。

 ただ、約束を破ってしまったんだな。

 たぶん今私が見ているどこまでも続く真暗な世界は、もうあの世界。

 こういう世界が、ここでは広がっているんだ。知らなかったな。

 でも、いつか別れは来るのだ。こんないい別れ方、むしろよかったのかもしれない。

 私が変われたからその先も未来が明るくなる……そんなに現実はうまくいかないんだな。

 真っ暗な世界のどこかから誰かの声が聞こえる。汐斗くん……たちだ。こんなところでもその声が聞こえるなんて、私は幸せだな。

「本当にごめんなさい。僕のせいで……心葉さんが……。どうして僕はちゃんとあの時動けなかったのか。何も行動できなかったのか……」

 そんなことはもうどうでもいいんだよ。この世界でも、私に対して謝るなんて汐斗くんらしいな。私だって謝らなければいけないことが沢山あるのに。やっぱり、汐斗くんは私の心に残る人なんだ。いつまでも忘れられないんだ。

「いえ、そんなことは……。だって、心葉が書いたあの遺書――いや、手紙を読んで分かったよ。元々、あの子は私たちが原因で明日を閉じようとしていた。でも、汐斗くんがいてくれたおかげで……。汐斗くんがいなかったらもう、あの子は1か月前に世界を閉じていたんだから。逆に私たちは汐斗くんに感謝を言わないといけないね……。心葉という人を大切にしてくれて本当にありがとう。君は心葉の心を変えてしまうぐらいすごい力を持っているんだね」

 この世界では、お母さんの声も聞こえるんだ。久しぶりにこんなにもお母さんの声が近くに感じられた。お母さんの言う通り、汐斗くんは何も悪くない。むしろ、感謝を言いたいぐらいだ。私なんかを大切にしてくれてありがとう。私といたことで、汐斗くんの大切な人生が奪われてなきゃいいな。

 ――優しい感触。

 私は、今、誰かに触られた。

 感じたことのある感触。

 私を包みこむかのような感触。

 そっと何かを吹き込んでくれる。

 この世界は違うんだ。

 まだ、あの世界ではないんだ。

 ――この感触が、私はまだ現実世界にいるんだってことを教えてくれた。

 ――!

「心葉……」

 目を開いた。ここは、病院だ。どうやら、私はベッドに寝かされているようだ。少し前に感じたことのある匂いと同じ。

 周りには色んな物が置いてある。名前の分からないものまで。でも、この周りにいる人たちの名前は知っている。

 私のお母さんにお父さん。海佳ちゃんに唯衣花。

 ――そして、汐斗くん。

 さっきの感触は汐斗くんだ。絶対そうだ。間違いない。

「えっ……私……」

「心葉、よかった! 待ってたよ!」

 その瞬間、海佳ちゃんと唯衣花が私に優しく抱きついてくる。

 この感触も懐かしい。やっぱりここは現実世界なんだ。

 私が生きていなきゃいけない世界だ。 
 
 明日を開くことができる世界だ。

「心葉……。よかった。僕との約束、やっぱ心葉が破ることないんだな」

 汐斗くんは、もう、泣いてなかった。あの時、最後に書いた言葉について汐斗くんはどう思ってるのだろうか。どう、感じているのだろうか。
 
「……皆、心配かけてごめんね。お母さんと、お父さんも……たぶん、わざわざ出張先から駆けつけてくれたんだよね。ありがとう。そして、ごめんなさい……」

「いや、私の方こそごめん」

 私がそう言うと、お母さんは急に泣き出し、顔をまるでしわくちゃな紙のようにして私に抱きついていた。普段泣く姿を見ることのないお父さんまでも、お母さんの隣でそっと泣いていた。何がそうさせたんだろうか。今、泣く意味があるんだろうか。

 ――ごめんね、って?

「心葉、ごめんなさい。あの遺書――いや、手紙を読んで分かった。その多くの文字で私たちに思ってることを綴ってくれてありがとう。心葉の心の中を言葉として見ることができたよ。私たちの『いい高校に行ければ大学の視野も広くなると思うし、今後の心葉の人生をより豊かにできる』とかいう心葉への期待が……逆に心葉を苦しめてたのね。明日を苦しめるほど、苦しめていたのね。私たちが心葉の心を傷つけ、締付け、悲しませ、逃げ場すらも奪ってしまった……。それに、いつもいつも勉強してるなんて思わなかった。心葉の青春を奪ってるなんて分かってあげられなかった。本当に、気づけなくてごめんね。でも、言ってほしかった……」

「俺からもごめん、謝らせてくれ。心葉のためにと思ってできる限り協力してあげたけど、それが逆に心葉を苦しめたなんて……ごめん、親としてちゃんと心葉と向き合えてなかった。豊かにさせてあげるどころが、世界を狭くさせてしまった。どうやっても謝りきれないし、償いきれない……」

「2人とも……」

 私は、こんなことを言ってくれた2人になんと言っていいのか分からない。私は別に2人を恨んでいるわけではない。むしろ、恨んでいるのは過去の自分の方だ。自分自身が、あの時はこの世で一番嫌いだった。

「私こそ、ごめんなさい。ちゃんと自分のことを言えなくて、自分自身と向き合えなくて。そしたら、ちゃんと2人なら分かってくれたはずなのに」
 
「いや、心葉は何も悪くないよ。私たちのせいだよ。それは、これから一生を償っていくから、どうか、私たちのことを……いや、私のことは恨んでもいいから、お父さんのことだけは恨まないでほしい。私が全部勝手に言っただけだから。だけど、どうして心葉にそう言ってしまったのか、少しだけ話をさせて。別にこれは言い訳を言うわけじゃない。でも、そうなんだなって思ってほしいから」

 お母さんは泣き止んでから、どうして私に『いい高校に行ければ大学の視野も広くなると思うし、今後の心葉の人生をより豊かにできる』と言ってしまったのかについて話した。

 お母さんには、中学の時、仲の良かった友達がいたそうだ。その友達は自分なんかよりも何倍も頭がよく、高校も今の私が行っているぐらいの進学校に入学したみたいだ。一方自分はというと、ちゃんと勉強できなかったせいで、その子と同じ高校には行けなかったようだ。その勉強できなかった原因が、今はもういないお母さんのお母さんに当たる人――つまり、祖母はかなり家の事について厳しい人で、家の家事を受験が近づいても勉強時間を奪うかのようにさせたり、赤ちゃんの子守もさせられたようだ。だから、勉強時間なんかまともに取れなくて元々行きたいと思っていたその子と同じ高校には届きそうになく、その高校から2、3個もランクを下げた高校を最終志望することにしたみたいだ。高校に入ってから無事に行きたかった進学校に合格した友達は楽しい高校生活を送っているということをメールで報告してきたらしい。自分は行きたいところに行けなかったのに、親のせいで低いところにしか行けなかったのに……。そう思って、もし、自分が子供を産んだときには全力でサポートしてあげようという気持ちが芽生えたようだ。自分みたいな思いをしてほしくないから、一度だけの人生を楽しんでほしいから……。

 そういう親の気持ち、ぐっと来る。その言葉が重く感じる。

「だから、ごめんね。心葉には、後悔してほしくなかった。与えられるものは与えたかった。私と同じように歩むのは違うと思った……一度きりの人生だから」

「じゃあ、やっぱり、私のせいだよ。だって今の高校に行きたいなって中学2年の夏ぐらいの時に言っちゃったから、それを本気にしちゃったんでしょ?」

 やっぱり、自分自身がいけない。自分だけが悪いんだ。

「……うん。そうだね。でも、ちゃんと……もっと聞くべきだった。ここでいいよねって中3の春頃に言って押し通さなければ……」

「この学校は、本当は、もし勉強ができたらここがいいなっていう理想に過ぎなくて、もっと自分にあってるのはこっちだって……そういう意味だってはっきり言えば、こうはならなかったのに」

「そうかもしれない。だけど、私が心葉に気づけてれば楽しい生活が送れたのにね。今は、変われたって書いてるけど、この1年半、本当は楽しいはずの学校生活が、私たちのせいでなくなっちゃった……。もう、取り返せないよね」

 確かに、私の辛かった日々はもう取り返すことができない。今、変われたんだとしても、その時間が戻ってくることはもう、一生ない。時間は過ぎていくだけで戻ることはない。この隙間という日々を取り戻すもの、それ自体は存在しない。

 でも、私は――

「でも、なんだかんだ言って、私はこの学校に来られたこと、後悔してないよ。色んな人と出逢えたから。ここにいる人たちも、ここにはいない人たちも。汐斗くんは、特に私を変えてくれた。こんな人、多分ここにしかいないから。ここじゃないと会えなかったから。だから、後悔はない。むしろよかった。確かに、その日々は取り戻せないけど、この残りで楽しめばいいから、まだ終わってないよ。私の高校生は。だから、お母さん、お父さん、自分を責めないで。私も自分を責めないから」

「うん。そうだな」

「分かった。ありがとう……。これからは、青春というのを創るために協力するから」

「心葉、私も、ちゃんと思ってあげられなくてごめんね。思ってあげられたら、もっと違う世界を見ることができたかもしれないのに。でも、その日々を戻せないのなら、これからその分を楽しもう!」

「私も、それに協力させてほしいな」

「ありがとう、海佳ちゃん、唯衣花」

 まだ、失った日々の楽しさを戻すことはきっとできるんだろう。この人たちがいれば。まだ、自分の高校生は終わっていない。むしろ、今からがスタートだ。
 
 ――明日を上る階段を、私が自分で創っていくんだ。

 どうやら、病院の先生いわく、私はもう少し入院が必要になるらしいけれど、特別心配する必要はないということだった。私を助けてくれた人たちに本当に感謝したい。なんとか、私は汐斗くんとの約束を守ることができそうだ。

 もう、病室に来てからかなりの時間が経ったみたいで、皆が順番に私の病室を後にしていく。少し寂しいけれど、私はそこまで子供ではない。私は安心させるために笑顔で皆を見送った。

 ただ、少し時間が経ってから、忘れ物をしたのか、汐斗くんが戻ってきた。

「忘れ物?」

「ある意味、忘れ物かな」

 汐斗くんが私の方に近づきながら少しはにかみながらそう言うと、カバンの中から、私が今日渡すはずだったピンク色のミサンガを取り出した。たぶん、あの時にどこかに飛ばされたのを汐斗くんが拾ってくれたんだろう。私の好きな色で作ったピンク色のミサンガだ。ある意味私が変わったことを表す証拠品だ。

「これ、たぶん、僕へのだろ。心葉今、僕に渡してくれ」

 汐斗くんは一旦、そのミサンガを私に返した。そうだ、これは自分から汐斗くんにプレゼントしないといけない。私から贈るべきプレゼントなのだから。

「うん」

 私はそれを一旦受け取り、少しの間、私の想いを詰めるために目をつぶりながらそれを抱きしめた。

「はい、どうぞ」

 それから、汐斗くんにそのミサンガを渡す。そして、花が満開に咲いたかのような子供らしい笑顔を見せた後に、汐斗くんはそのミサンガを右手に付けた。そして、大きくうなずいた。

「ありがとう、今までで一番嬉しい」

 大げさだな。でも、私も今までで一番嬉しいかもしれない。これからも作っていきたいかもしれない。また、あの時みたいに自分の趣味として再開させたい。

 次は、汐斗くんが私に染め物を見せる番だ。汐斗くんは、カバンから染め物を取り出し、まだ中が見えない閉じた状態のまま私の見える位置まで持ってきてくれた。

「じゃあ、お披露目」

 どんなものを、その作品に収めたのか。汐斗くんがカウントダウンを5から始める。私の心がバクバクしている。

「5、4、3、2、1――」

 0――で、汐斗くんが閉じた状態だったものを一気に開いた。私の瞳がそれを追いかける。

 そこには、私みたいな顔が大きく彩られていた。

 そして、ある文字のようなもの――『すきだよ』という文字が書かれてあった。

 ――えっ。
 
 私みたいな顔とその上に『すきだよ』という文字……。

 私は目を疑ってしまった。その作品に収められているものが信じられなかった。

 どうなっているのか、分からなかった。

「心葉、見て分かる通り、これが僕の気持ちだ。この大切な作品を通して伝えたいと思った」

「どうして……こんな私のことを好きになれるはずなんか……」

 そうだよ、何かの間違いだよ。そんなこと、あるはずない。きっと私のせいで汐斗くんのどこかを壊してしまったんだ。だって、明日を閉じようとしてた私なんかを好きになれるはずない。それも、私と正反対の明日を見たい君が。

「前も少し言ったけど、心葉は明日を閉じようとしていた。でも、心葉の心は温かい。君はつまり優しいんだ。それに、苦しみを持ちながらも僕の言う約束を守ってくれたし、必死に耐え抜こうとしていた。自分から明日を閉じるのをやめた時……すごい頑張っている姿に押された。僕もじゃあと思って頑張れたからだよ」

「汐斗くん……」

 こんな私を好きになれる汐斗くんは少し変わっている。そんなことで好きになれる人は本当に本当に不思議な人だ。おかしな人だ。でも、汐斗くんが変わった人でも、不思議な人でも構わない。だって、私が汐斗くんが好きというのはどんな汐斗くんでも変わらないのだから。一生好きでい続けるのだから。

「ありがとう」

「じゃあ、これ、約束通りあげるよ。玄関の前にでも飾っておいてくれ」

「それは流石に恥ずかしいよ。でも、どこかに飾っておくね」

 玄関の前に飾るのは流石に恥ずかしいけれど、汐斗くんが私のためだけに作ってくれたその染め物をどこか常に目の入るところに飾っておきたい。見るたびに、汐斗くんのことを思ってしまうんだろうな。

「あ、あと、一つ、心葉に謝りたいことがあって、この手紙、泣きすぎてさ心葉のピンク色のボールペンで最後に書いてくれた文字、消えちゃって……」

 汐斗くんはポケットから私の書いた遺書――手紙を出した。私が最後に唯衣花からもらったピンク色のボールペンで書いた『すき』という文字が涙とかのせいでほとんど消えかけていた。もう、その文字をはっきりとは読み取れない。

 でも、そんなこと構わない。その、『すき』という文字が消えたとしても。

 もう、あの時とは違う状況にいるんだから。

 書く以外の方法でもその想いを伝えることはできるんだから。

 もっと近くで伝えられるんだから。

「――じゃあ、私が声で言ってあげるよ。汐斗くん『すき』」

「――僕も、『すき』だ」

 私たちのもとに何か、様々な色を持つ、言葉で表しきれないような美しい光のようなものが差し込んだ。

 たぶん、この世界は、今、私たちのためだけにあるんだろう。私たちのためだけに存在して、その世界で私たちは想いを伝えている。

 私の言った言葉と、汐斗くんの言った言葉……2つが重なっていく。

 本当に私は、汐斗くんに恋をしてしまったのだろう。

 ずるい恋をしてしまったのだろう。

 私たちは抱きしめ合った。抱きしめずにはいられなかった。

 誰もいないんだから、ちゃんと抱きしめてもいいよね。

「あのさ、1ヶ月経ったら私の自由にしてもいいって汐斗くんは言ったじゃん? じゃあ、これからも汐斗くんと一緒にいたい。今までと同じように成長していきたい。今まで通り一緒にいてくれればこれ以上望むものなんてない。でも、今度は同じ明日を見る2人として一緒にいたいな」

 私は抱きしめたまま汐斗くんにそう言った。あのときの約束はもうすぐ期限が切れる。これからは私の自由だ。だから、私の望みを言った。今まで通り過ごしたい。これ以上の関係になりたいとかそんな贅沢なんて言わない。いや、むしろこれが私にとっては一番の贅沢なんじゃないだろうか。

 ただ、今とは違うことがあるんだとしたら今は正反対の2人ではない。同じ方向を見る二人――同じ明日を見る二人だ。その違う姿で成長したい。

「うん、そうだな。僕の望みは心葉が生きたいように生きてほしいってことだから……もちろんだよ」

 汐斗くんは更に私を強く抱きしめてきた。少し、痛かった。でも、それが私のことを想う強さなんだろう。そう思うと痛くなくなった。