茜と半妖の絵師 〜現世と幽世を繋ぐ龍の物語〜

 日が暮れて空が橙色から藍色になった頃、妖たちを夜の街に誘うように、大通りに連なる建物から吊る下がった提灯には一斉に灯りが灯った。夜になり、いくつかの屋台の出見世が用意されて、今夜も妖たちは祭りのような賑わいを見せていた。

 そんな中で、ぞろぞろと大通りに増えていく妖たちの群れに、茜は顔に着けた鬼の面を不安そうに撫でる。手に触れた固く冷たい感触を確かめると、緊張を吐き出すように深く息を吐いた。

「いっ、いらっしゃいませ〜!似顔絵は要りませんか〜?」

 出し慣れてない大きな声は情けなく震えて、雑踏に消えていく。

 三毛猫の妖の画材店に行った日から数日後、大通りに並ぶ屋台の一角で、『似顔絵』と書かれた看板が立て掛けられた簡素な屋台に茜たちは居た。水彩絵の具を買い取る為の資金調達として、茜と斎はこの大通りで毎晩似顔絵を売ることにしたのだ。この大通りの屋台は誰でも出店して良いらしく、割りと簡単に屋台を出すことが出来た。そして、今夜はその似顔絵の屋台オープン初日だ。斎も茜も似顔絵の店を出すのは初めてのことなので、少しだけ緊張していた。

「…おい、そこのお前。似顔絵に興味は無いか?」

 斎は賑わう妖たちに戸惑いつつも、水彩絵の具の事もあるからか、積極的に屋台から声を掛けていた。

「似顔絵だぁ?」

 声を掛けられた全身鱗まみれの河童は、斎の言葉に不思議そうに首を傾げた。やはり、この幽世では屋台で似顔絵を売るという発想は珍しいものなのだろうか。河童は水掻きの付いた足を止めて、ペタペタと簡素な屋台に立て掛けられた看板を覗き込む。

「時間はかからない、一回この値段でやってる。…どうだ?」

 看板の下に小さく書かれた似顔絵一回分の値段を指差して、斎は少し自信無さげに河童の妖に聞いた。

 ずっと他者との関わりを避けながら、ひっそりと絵師として生きてきた斎にとって、賑わう屋台で商売したり積極的に客を捕まえたりなんて当然慣れない行動なのだろう。それでも戸惑いながら、真剣な眼差しで河童を見つめる斎の姿に茜は少し感動を覚えた。

 斎の接客に半分ほど瞼が降りていた河童は、ギョロリとした瞳を見開いて気分良く言った。

「へぇー、似顔絵なんて珍しいな。乗った!すげぇ格好良く描いてくれよ!」

「あぁ…!任せとけ。」

 河童の言葉に、ホッとしたように瞳を緩めた斎は強く頷く。屋台の前に設置された椅子に河童を座らせて、斎は早速似顔絵を描き始めた。

 先日、三毛猫の妖が営む画材店で大量に購入した色紙に、流れるように絵筆を滑らせながら河童を描いていく。短時間で描きあげるべく、異形の右手の迷いのない筆さばきは見ていて気持ちが良い。そんな斎の描く姿に、茜も河童も自然と目を奪われていった。

 あっと言う間に河童の姿が、色紙の中に浮かぶ。粗方描き終えると斎は絵筆を置いて、茜が持っている水彩色鉛筆を借りて色塗りを始めた。陰影は意識しながらも柔らかい印象を与える色鉛筆は、河童のゆったりとした雰囲気を捉えていてとても良く似ている。

 暫くして描き上げた似顔絵を、斎は河童に手渡した。河童は水掻きの付いた手で似顔絵を受け取ると、ゴクリと息を呑んだ。

「す、すげぇ!何だコレ!?」

 河童の嘴から放たれた大きな声は、賑わう大通りでもハッキリと響き渡る。その声に「何だ?あの屋台か?」と不思議そうに行き交う妖たちも足を止めた。

「こんなすげぇ絵は見たことねぇ!」

 河童が掲げた色紙には、斎が描いたそっくりの河童が居た。丸い皿を頭に乗せた河童は色紙の中で、半分ほど瞼を下ろしてから目を細めてケラリと笑う。半妖の絵師の斎だからこそ描くことが出来る、表情が変わる不思議な絵に河童は大興奮だった。

「何だ、あれは?」

「似顔絵らしいぜ。描いてるのは誰だ?」

 そんな河童の様子に、妖たちは釣らるように似顔絵の屋台に集まって来る。毎晩のように並ぶ屋台の中でも、やはり似顔絵の屋台は珍しいようで興味深そうに此方を伺っていた。

「あれは、噂の半妖の絵師じゃないか?」

「あの妖嫌いのか?こんな場所に居るわけなかろう。」

「いや、この街に半妖なんてあの絵師しかおらんわ!」

「フンッ!半妖だなんて、半端者は家に引っ込んどけ!」

 妖嫌いの半妖の絵師というのはやっぱり此処でも有名らしく、斎の姿に妖たちはざわめいた。以前の斎ならば、きっとこんな妖だらけの大通りで必要以上に妖たちと関わることなんてしなかっただろう。斎を見た妖たちの反応は様々で、半妖の絵師を面白がる者や絵を描く斎の姿を一目見ようと近付く者も居れば、半妖という事で斎を差別する者や馬鹿にする者も居た。

 その様子に以前、斎が言っていた『半端者』と言う言葉の意味もより深く理解してしまった。幽世にて半妖という存在がどうゆうものなのか、この妖たちの態度で強く思い知らされたのだ。それはあまりに、理不尽なことに思えた。好き勝手に言う妖たちに茜は、言い様のない怒りが込み上げて来る。そして、何より斎の凄さを知りもしないのに、半妖というだけで『半端者』だと評価されるのが悔しかった。

 屋台に座る斎を横目に見れば、水彩色鉛筆を持つその異形の右手が小さく震えている。妖たちの視線から逃れるように深く俯いた斎の表情は、暗く影になり茜からは見えなかった。投げかけられる言葉や視線に、静かに耐えている斎の姿が辛くて苦しい。誰かを平気で傷付けるのは、人も妖も変わらないのだと茜は思った。

 その時、一人の小さな影が斎への視線を遮るように立ちはだかった。

「おい!お前ら!そんな事より、これを見てみろよ!俺にそっくりだろ!すげぇだろ!これが、半妖の絵師の絵なんだぜ!」

 好き勝手な事を言っていた妖たちに、斎に似顔絵を描いてもらった河童が大きな声で言う。水掻きが付いた両手で掲げられた似顔絵は、提灯の灯りに照らされて暗い夜でもはっきりと見えた。河童の行動により、自然と斎の描いた似顔絵が妖たちの注目の的になる。

 色紙の中の河童は、本物と大差ないように表情を変えて誇らしげな表情をしていた。まるで生き物のような絵は、繊細な線と優しい色使いで描かれていて、描き手の人柄を映しているようだ。

 河童の掲げた似顔絵に、周囲の妖たちが目を見開いて息を呑むのを感じた。それはきっと、茜が最初に斎の絵を見た時と同じ反応だっただろう。一瞬にして心を奪われてしまった、あの時の感覚を懐かしく思った。それから、そんな妖たちに届くように、茜は意を決して腹の底から声を出した。

「いらっしゃいませ〜!半妖の絵師に、似顔絵を描いてもらえる機会なんて今しかないですよ!凄く素敵な絵なので、ぜひ思い出にどうですか〜?」

 大通りに響き渡った茜の声に、隣に居た斎が顔を上げる気配を感じる。茜の呼び掛けに、斎の似顔絵を見た周囲の妖たちは再びざわめき始めた。

「いやー、あの絵は鳥肌ものだ!今すぐにでも似顔絵を頼みたい!」

「あんな凄い絵、私にも描いてほしいわ!」

「確かに、あの妖嫌いの半妖の絵師に描いてもらえる機会なんてなかなか無いだろう。これは良い機会かもしれんな!」

「まさか半妖の絵師に、こんな場所でお目にかかれるとは…!」

 斎の似顔絵を見た妖たちは、再び様々な反応を見せた。その様子に、先程半妖を馬鹿にするかのように好き勝手に言っていた一部の妖は、面白くなさそうに眉間に皺を寄せて黙って去って行く。

 そして、それ以外の妖たちは屋台で似顔絵を描く斎を見ると、興奮したようにわらわらと駆け寄って来た。いつの間にか似顔絵の屋台には、斎を取り囲むように沢山の妖たちが集まっている。その多くの視線に斎も茜も驚き肩を震わせるが、妖たちの視線は先程のように半妖だと差別する冷たいものでは無く、斎の描く作品をまだかまだかと心待ちにしている温かいものだった。

 河童が斎の描いた似顔絵を見せたことにより、似顔絵の屋台にはあっという間に長蛇の列が出来た。妖たちは徐々に増えていき、様々な姿をした妖たちが群れを成していく様子はまるで百鬼夜行のようだ。

 その光景に圧倒されていたら、似顔絵を描く斎から声が掛けられる。

「茜!お前も手伝え!」

「え!?…でも、私は斎みたいな絵は描けないよ?」

「この妖たちを、俺一人で捌くのは無理だ!お前だって絵は描けるだろ?」

 斎は慌ただしく絵を描きながらも、筆付きは優雅で流れるようだ。一人一人の妖を、丹精込めて丁寧に描いている。

「けど、そんな自信ないよ!」

 昔から絵を描くのは好きだが、斎のような絵が描けるのか茜には自信が無かった。斎のように絵が動くような芸当は出来ないし、斎の絵と比べれば自分の絵はまだまだ未熟だと茜は思う。そんな自分が、果たして妖たちの満足がいく絵を描けるだろうか。

 不安そうに眉を寄せた茜に、斎は似顔絵を描いていた手を止めて真っ直ぐに視線を向ける。

「お前は、お前の絵を描けば良い。…俺の弟子だろ。」

 穏やかな声で告げられた言葉に、茜はハッとして斎を見た。夜空のように澄み渡った美しい瞳が茜を射抜く。

 斎のような絵を描けるのかという不安は、月を覆っていた雲のように緩やかに流れていった。顔を出した優しい光が、茜を照らす。

 いつも一人で絵を描いてきた茜にとって、斎が『弟子』だと認めてくれたことが、どうしようもないくらいに嬉しかった。じわじわと胸を満たす熱が、身体中に広がっていく。

「うん!分かった!」

 茜は力強く答えると、屋台に並ぶ妖たちにを相手に水彩色鉛筆を手に取った。自分の画力は、まだまだ未熟だと分かっている。それでも、自分を認めてくれた斎の為にも茜は精一杯絵を描きたいと思った。斎の弟子として、自分の絵を描こうと強く心に誓ったのだ。

 








 あれから数時間が経ち、妖たちの列もだいぶ落ち着いてきた。まさか思いつきで始めた似顔絵の屋台が、ここまで人気が出るとは思わず、茜は若干疲弊していた。

 夜も更けていき、大通りに出ていた屋台も徐々に灯りを消して店仕舞いを始めている。賑やかだった妖たちも、一人また一人と家路につく。フゥーッと一息吐いた茜の隣で、妖の似顔絵を描き終えた斎が絵筆を置いた。

「お前のおかげで、思ったよりも早く絵の具が買えそうだ。」

「本当に?それは良かった!」

「あぁ、本当に助かった。ありがとうな。」

「…うん!」

 斎の言葉に茜は、やっと斎の役に立つ事が出来たんだと嬉しくなる。突然幽世にやって来てしまってから斎の元に置かせてもらっていたが、仕事の邪魔になっているんじゃないかと不安はずっとあった。

 それでも、今回のことで少し自分に自信が持てた気がする。たくさんの妖たちの似顔絵を描いていく中で、「お前絵が上手いな!」と茜の絵を喜んでくれる妖も居た。自分の描いた絵を喜んで貰えるのが嬉しくて、それは茜が生まれて初めて味わう温かい感情だった。

 先程までの出来事を振り返りながら、少し微笑む。チラリと盗み見た斎の横顔も緩く口角が上がっていて、また茜は嬉しい気持ちになった。

「これは驚きました、まさか噂が本当だったとは…!」

 不意に聞こえた聞き覚えがある声に顔を向ければ、ふさふさとした尻尾を揺らす翠が屋台の前に立っていた。

「翠さん!来てくれたんですか?」

「えぇ、何でも半妖の絵師が屋台を出していると噂で聞きましてね!本当に斎殿がいらっしゃるとは思いもしませんでしたが。」 

 翡翠色の瞳をチラリと斎に向けて、心底驚いたという表情で話す翠に斎は「チッ!」舌打ちをした。そんな斎の様子に、翠は軽く肩をすくめる。

「翠さんは似顔絵いかがですか?」

「いえ、今日はもう遅い時間なので、後日また伺っても良いですか?」

「はい!ぜひ、お待ちしています!」

 店仕舞いを始めた周辺の屋台を見ながら、申し訳なそうに眉をハの字にした翠に茜は元気良く告げた。

「そろそろ、俺たちも片付けるか?」

「そうだね!」

 立て掛けていた看板を外して、絵筆や水彩色鉛筆などの画材を片付ける。茜と斎が片付けるのを翠は手伝ってくれた。

「あら、一歩遅かったかしらね。」

「本当だ、ちょうど終わってしまったようだね。」

 屋台の灯りを消したところで聞こえて来た声に振り向けば、二人組の妖が居た。二人共、頭に二つの耳が生えていて背後ではふさふさとした尻尾が揺れている。一人は渋い深緑色の着流しをサラッと着こなした男前で、もう一人は華やかな着物を着て片耳に花飾りを着けている美人だ。二人寄り添う姿はとてもお似合いで、仲睦まじい夫婦のように見えた。

「姉上!」

 二人組の妖を見た瞬間に、翠は手伝っていた手を止めてそう呼んだ。

「やっぱり、翠も来ていたのね。」

 翠に『姉上』と呼ばれた妖は、翠と同じように耳も尻尾も白く、艶やかな生糸のような髪に薄い桃色の瞳をしていてとても美しい。ふさふさとした尻尾を揺らす二人の見た目がそっくりで、茜はすぐに二人は姉弟だと気付いた。

「少し時間が出来たから、斎殿に私達の似顔絵を描いてもらいたかったのだけど、ちょっと遅かったみたいね。またの機会にするわ。」

 翠の姉は屋台の片付けをしていた斎にそう言って微笑むと、「あぁ、そうしてくれ。」と斎も翠の姉と顔見知りのようで、先程までの少しだけぎこちない接客と比べてに気軽そうに話していた。

 その様子を黙って伺っていれば、不意に翠の姉と目が合った。翠とよく似て整った顔立ちは、思わず見惚れてしまう。薄い桃色の瞳は、柔らかく弧を描くように細められた。

「貴女が、斎殿の弟子になったという茜様ですか?」

「は、はい…!」

「翠から、色々とお話を伺っています。私は翠の姉の催花《さいか》と申します。此方は婚約者の玄天《げんてん》です。」

 催花は丁寧に茜に向かってそう告げると、隣に居た妖を紹介した。

「茜様、はじめまして。催花の婚約者で日照雨屋の九尾の息子、玄天と申します。以後お見知りおきを。」

 切れ長の狐目を緩めて礼儀正しく頭を下げてくれた玄天に、茜はとても真面目な印象を受けた。翠や催花と違って、玄天の耳と尻尾は金色で毛並みがとても美しい。そして、旦那様と同じように玄天も赤い瞳を持っていた。

「催花さん、玄天さん。はじめまして、立原茜です。」 

 茜が少し緊張しながらも挨拶をすると、催花も玄天も笑って受け入れてくれた。それが、なんだか気恥ずかしくも感じる。幽世に来てから、茜は現世に居た時以上に誰かと繋がりを持てているような気がするのだ。

「斎殿、茜様。この度は嫁入りの傘に絵を描いてくださるということで、誠にありがとうございます。」

「…俺からの祝だ。気にすんな。」

 催花からの感謝の声に、斎は少し照れ臭そうにそっぽ向いて答える。そんな斎に続き、茜も「本当に、おめでとうございます!」と二人に告げた。

「ありがとうございます!当日、斎殿の作品を拝見出来るのが楽しみです!」

 二人が微笑むのに釣られて茜も自然と笑顔になっていれば、不意に玄天が赤色の瞳を輝かせて茜に視線を送ってきた。一体何だろうと不思議に思えば、玄天は感激したように口を開く。

「立派な鬼の面ですね!」

「へっ!?いえ、あの、これは…!」

 玄天と催花は、茜の顔を見て優雅に微笑む。それに対して、茜は自分が強烈に恐ろしい鬼の面を着けていたことを思い出し、じわじわと羞恥心に駆られた。やっぱり姿形が様々に異なる妖でも気になる程、この斎が描いた面の迫力は強いのだろう。

 そんな慌てる茜を見ながら、斎は傘職人の唐々に鬼の面について言われた時のように「ブフッ…!」と吹き出して、あの時よりも表情豊かにケラケラと肩を揺らしながら笑った。そのあからさまな様子にムカッと来た茜は、鬼の面の下で斎をギロリと睨みつける。この強烈な鬼の絵を描いたのは、斎だというのに全く酷いことだ。

 フンッとそっぽを向くように周りを見渡せば、翠も催花も玄天でさえ、いまだに笑い続けている斎を驚いたように見つめた。

「斎殿が、笑ってる…」

 目を見開き、ポツリと零すように翠が言う。斎が笑うのはそんなに珍しいだろうかと、茜は首を傾げた。確かに、ここまで豪快に笑っている姿はあまり見たことがないが、最近の斎は瞳を緩めたり口角を上げたりと以前よりも表情が増えた気がする。

 整っている顔をクシャリと歪めて、可笑しそうに笑っている斎にムッとしつつも、こちらまでその笑いが伝染してしまうような少し穏やかな気持ちになった。

「やっぱり、茜様が幽世に来てくれて良かったです。」

 翠は斎から目を離して、茜を真っ直ぐに見て言う。そう言う翠に茜は、翠が以前、打ち明けてくれた斎の話を思い出した。

 半妖ということもあるのか、あまり妖たちと関わることをして来なかったという斎。そんな斎が妖たちが賑わう大通りで屋台を出してぎこちない接客をする姿も、こうやって腹抱えて笑う姿も今までに無かった姿なのかもしれない。

 翠は茜が幽世に来てくれて良かったというけれど、茜の方こそ此処に来れて良かったと思う。

「おい、そろそろ帰んぞ。」

 ようやく笑いが収まったのか、斎はゴホンと一つ咳をして口角を緩く上げて言った。

「では、私達も失礼しましょうか。」

 催花も斎の言葉にそう続けた。玄天は催花の手を優しく握ると、「結婚の準備でなかなか来られないかもしれませんが、またの機会に絶対に似顔絵を描いてもらいに行きますね。」と斎と茜に会釈した。

「では、また。」

 そう言って去って行く二人の後ろ姿は、本当に仲睦まじくて幸せの形を表しているようだった。

 お似合いな二人の結婚を、和傘という作品で携われるのは素敵なことだなと改めて思う。傘職人の唐々が作った繊細な和傘に、半妖の絵師の斎が絵を描いた唯一無二の作品。それが嫁入りする催花さんの手元に届くのが待ち遠しく感じる。

「あっ!そうだ!」

 そんなことを思っていたら、不意に一つの案が茜の頭に浮かび上がってきた。一度、浮かんでしまった案を放棄することは出来ずに、茜は思うがままに走り出す。「おい!何処に行く!?」「茜様!?」と、片付けた荷物を手にした斎と翠が叫ぶのも気にせずに茜は動いた。

「あ、あの!ちょっと良いですか?」

 追いついた背中にそう問いかければ、「ん?」と催花と玄天の二人がゆっくりと振り返る。

「あら?茜様、どうかしましたか?」

 慌てて追いかけて来た茜を、不思議そうに見つめながら催花は茜に聞く。茜はポケットから、幽世に来てから全く触れることも無くなったスマートフォンを取り出して二人に見せた。

「写真を、撮っても良いですか?」

「写真?」

 茜の言葉に、催花も玄天もコテリと首を傾げた。







 あの後、スマートフォンで催花と玄天の写真を撮って斎の元に戻れば、勝手に何処かに行くなと強く注意を受けた。確かに、無事に斎の元に戻れたから良いものの、幽世で道に迷ってしまったらとんでもない事になると茜は深く反省した。

 似顔絵の屋台も予想以上に人気が出て、画材店の爺さん猫が告げた十両は割と早く集める事が出来た。爺さん猫は斎がこんなに早くお金を持って来るとは思っていなかったようで、長い眉毛に隠れた瞳を白黒させながらも、約束通りに水彩絵の具を渡してくれた。

 爺さん猫の水彩絵の具は色の種類も豊富で、約一五〇年ほど前の古い絵の具にも関わらず、不思議と状態は良いものだった。普通であれば劣化して使用するのが困難だったりするものだが、あり得ない程の状態の良さに茜はかなり驚いた。試しに斎が絵を描いてみれば、スゥーと顔料は水に溶けて薄く淡く紙を彩る。その描き味が新鮮なのか、斎は何枚もの紙に水彩絵の具を使って試し描きをしていた。

 今も茜の目の前では、斎が異形の右手で絵筆を持ち、真剣な表情で紙に向かって絵を描いている。絵の具の匂いが漂う作業部屋で静かに絵を描く、斎の流れるような美しい筆さばきには相変わらず見惚れてしまう。 

 水分を多く含んだ赤い絵の具を滲ませるように描いた林檎は、瑞々しく随分と美味しそうだった。光を含ませるように陰影をつけながら、斎がそっと絵筆で絵に触れると波紋が紙全体に広がるように揺れる。

 微かな光が溢れて、コロリと綺麗な赤い林檎が紙の中から畳の上へと落ちた。斎だからこそ為せるその技は、まるで魔法のようだ。そして、斎の絵はとても繊細で儚くありながらも、何処か力強い生命感を感じる不思議なものなのだ。

 本物のような林檎を見ながら、不意に茜はずっと気になっていたことを斎に聞いてみた。

「そういえば斎って、何歳なの?」

「なんか、今更だな。」

「ずっと気になってはいたんだけど、なんとなく聞く機会が無くて。私と同じ十七歳くらいだと思ってたんだけど…」

「今年で、ちょうど三五〇歳だ。」

「…は?」

 斎のとんでもない発言に、茜は思わず言葉を失った。けれど、流石に「冗談だよね?」と顔を引き攣らせながら聞けば、斎はムッと唇を尖らせて「俺が嘘言ったことあったか?」と返される。今まで茜が知る範囲では斎が嘘を言ったことは無いが、目の前の斎がとても三五〇年もの長い間、生きているようには見えない。

 斎の見た目は高校生の茜と変わらない、年頃の青年に見える。皺一つない綺麗な白い肌に艶やかな黒髪を持った斎が、まさか三五〇歳のお爺ちゃんだというのだろうか…

「えぇぇぇぇ!?」

「うるせぇな!いきなり何だよ。」

 頭を整理しながら、時間差で衝撃が茜を襲う。あまりの驚きに叫び声を上げれば、斎は面倒くさそうに眉をしかめた。

「だって!斎が三五〇歳って、どうゆうこと!?」

「どうゆうことも何も、三五〇歳って幽世では結構若者だぞ?」

「そっ、そうなの!?」

「あぁ。翠だって俺と同じくらい生きてるし、催花や玄天も四〇〇歳くらいの年だ。それに旦那様は、千年以上生きてるらしいぜ。」

「嘘でしょ…!」

 妖のあまりの平均寿命の長さに衝撃を隠せない。現世では考えられない、幽世の常識に驚くのはもうこれで何度目だろうか。茜の想像を遥かに越えて、妖というものは結構長生きらしい。

「じゃあ、人生の大先輩ってこと…?」

「どうだかな。お前よりも長く生きてるって言っても、現世と幽世じゃあ時の流れ方が違う。人間の年の取り方と、妖の年の取り方に差があるだけで、俺はお前と同じくらいの年だと思うぞ?」

「な、なるほど?」

 分かるような分からないような斎の説明を聞きながら、茜はこの幽世の世界についての考えを今一度改めた。斎から更に詳しく話を聞くと、幽世の世界での一〇〇歳というのは、現世の世界では五歳くらいに当たるらしい。つまり二〇〇歳は十歳、三〇〇歳は十五歳。そう考えれば、斎の言っていることが何となく分かったような気がする。そして、一五〇年前の水彩絵の具が、そこまで劣化をしていなかったことにも少しだけ納得がいった。

「俺は半妖だしな、そもそも生まれて来るのに五十年もかかったらしいぜ。」

「えっ!そんなに!?」

「あぁ、相当な難産だったらしい。」

「それって、もう難産ってレベルじゃないよね!?そんな事ってあるの!?」

 斎のあり得ない誕生秘話に再び驚き、思いっ切り突っ込めば、斎は少し答えづらそうに頬をかきながら口を開いた。

「あー、実を言うと俺の母親は龍一族なんだよ。」

 斎の告白に、以前翠から聞いた話を茜は思い出す。斎の母親が幽世と現世の門を管理する龍一族の出身だということは知っていたけれど、斎本人からちゃんと龍一族の話を聞けるとは思っていなかった。半妖の斎にとって、龍一族のことはあまり良い思い出では無いような気がしたからだ。

「元々、龍一族っていうのは子を産むのが難しい種族らしい。長い時を母体の腹の中で過ごしてから、産まれてくる。だから一族の数は少ないし、龍一族の血というのは結構貴重なんだ。それに俺は半妖だからな。尚更、出産には苦労したみたいだ。」

「そうなんだ。なんか、凄い不思議な感じがする。」

「ん?」

「何百年も前から生きてる斎に、この幽世の世界で出逢えたことが本当に凄いことなんだなって…」

 そう言葉にすれば、なんだか今までの出来事が本当に夢のように思えてくる。

「確かに今の人間の居ない幽世の世界で、自分の絵の中から人間が現れるなんて思ってもいなかった。」

 少し考えるように呟くと、斎は絵筆を置いて青黒く鱗が貼り付いたような己の右手を見た。黒い爪が光に反射して、キラリと黒曜石のような輝きを放つ。

「俺、もっと絵を描きたい。昔よりも強く、そう思うんだ。」

 幽世に来て最初に斎の右手を見た時、茜は見慣れない異形の手の形を恐ろしく感じたが、今では全くそんな事は思っていない。その斎の右手で、描かれる絵に期待せずにはいられないのだ。

 斎はそう言うと何か思いを込めるように畳の上に落ちた林檎を、その異形のような右手で持ち上げてポーンと宙に投げた。宙に投げられた林檎はその勢いのまま落下し、また斎の右手に戻っていく。

「とは言っても、今の所は果物や鳥みたいに小さな物くらいしか紙の中から出て来てないし、この右手で描いても限界はある。でも、いずれは大きな絵だって動かせるようになりたいし、もっと沢山の依頼を受けてみたい。」

 三五〇年もの長い間を生きている斎にとっては、茜と過ごした日々はきっと一瞬の出来事だろう。けれど、茜にとってはこの斎と共に過ごした日々が、本当にかけがえのないものに感じる。

「うん。私も斎の絵を、もっとたくさん見てみたい。」

 茜の言葉に満足そうに頷くと、畳に座っていた斎は上半身を反るように後に両手を付いて天を仰ぐ。グッと仰け反った斎の白い首元を、窓から入り込んだ温かい日差しが照らす。

 桜の影を映す襖障子の隙間からは、緩やかな風に吹かれて桜の花弁が転がり込んで来る。畳の上に綺麗に並べられた水彩絵の具の上を、そのままコロコロと転がると、ちょうど二人の間くらいで風に吹かれた花弁が止まった。

 二人の間に、緩やかな時間が流れる。

「今日から、和傘に絵を描いていく。」

 少し静かになった部屋で、はっきりとした口調で斎が告げた。

「うん。」

「暫く、此処に籠もりっぱなしになるかもしれねぇが…」

「うん、分かった。大丈夫、私も結婚式に向けて描きたいものがあるから。」

「そうか。」

 全てを見透かしてしまいそうな斎の瞳は、深い夜空のように澄み渡っている。その視線を、真っ向から受け止めた茜は微笑んだ。

「この依頼、絶対に大成功させよう!」

「おう!」

 力強く頷いた斎が、口角を上げて笑う。その表情を見て、茜は酷く安心した。








 斎が和傘の絵に取り掛かり始めてから数日、斎は宣言通りに作業部屋に籠もっていた。作品に集中すると斎は食事や睡眠を忘れて絵を描き続けてしまうため、茜は雑用をこなしながらもそんな危なかっしい斎の様子を見守っている。

 窓の外で優雅に咲き誇る桜がゆっくりと花弁を散らすのを眺めながら、なるべく足音を立てないように室内を歩く。今は少しの雑音でさえ、斎の耳に入れたくなかった。

 斎が籠もっている作業部屋の前の廊下では、部屋から溢れ出した独特の緊張感が漂っていて思わず足が止まる。少しだけ開いた襖障子の隙間から中の様子を盗み見ると、傘職人の唐々が作った大きな和傘を前に斎は向き合っていた。

 絵筆を水を含ませて水彩絵の具に馴染ませていく、筆先を丁寧に動かして和傘に色を塗っていた。少し描きづらそうな体制になりながらも、それを感じさせないくらいにゆったりとした手付きで斎は絵を描いている。

 部屋の中はまるで水の中のように静まり返っていて、時々水を張った桶で筆先を洗う小さな水音だけがはっきりと聞こえていた。

 きっと、今の斎には過ぎ行く時間も雑音も関係ないのだろう。ただ、目の前の作品の事だけを考えて、持っているもの全てをその絵に注いでいる。

 一体、斎ほどの境地に達するにはどれだけの時間や年月が掛かるのだろうか。ずっとひたすらに絵を描き続けていたら、いつか斎のような絵を描けるようになるのだろうか。

 茜では、まだ表現することが出来ない程の高みに斎は居る。一目見ただけで心を強く揺さぶるような画力に、茜は到底敵わないと思った。

 そしてそれだけ画力を極めていても、きっと斎はまた新たな画材や技法を使い、さらに凄い作品を生み出し続けるのだろう。斎という偉大な才能を前に、茜は時々自分の限界を感じて怖くなる。それでもどうしようもないくらいに憧れて、茜自身足掻かずには居られないのだ。

 止めていた足をゆっくりと進めて、斎が籠もっている作業部屋の前を去る。その勢いのまま、茜は幽世に来てから斎に与えられた部屋まで行くと、リュックの中から水彩色鉛筆や筆箱を取り出した。

 机の上に一枚の画用紙を広げて、ポケットから取り出したスマートフォンを見やすい位置に置く。

「よし!やるか!」

 そう言って気合いを入れると、茜はシャープペンシルを片手に画用紙に向き合った。スマートフォンの画面を覗き込みながら、画用紙に向かって真剣に描き込んでいく。線を描いては納得がいかずに消しゴムで消して、また描いては消しての作業を一切の妥協をせずに何度も繰り返す。シャッシャッシャッと、紙の上を走るシャープペンシルの芯の音が静かな部屋に響いた。

 いきなり幽世にやって来て最初の頃は、茜は見たことがない世界に対して恐怖感や不安でいっぱいだった。けれど、今では現世に戻ることを考える暇が無いくらいに、頭の中は日々絵を描くことでいっぱいだ。斎という大きな刺激を受けて、現世に居た頃よりも絵を描くのが楽しいと感じる。

 周りと馴染めずに一人ぼっちで絵を描いていたあの頃の茜とは違い、今は誰かのために絵を描きたいと強く思うのだ。此処に来てから感じた色々な思いが、身体中を熱く駆け巡る。言葉に出来ない大きな気持ちを、茜は一枚の絵に強く込めた。








 作品制作に入ってから、あっという間に催花の嫁入り当日がやって来た。

「なんか、緊張してきた。」

 催花の住んでいる屋敷に到着した茜は、風呂敷に包んだ荷物を胸に抱いて不安げに呟く。そんな茜の様子に、斎は「なんでだよ。」と少し呆れたような表情をする。

 婚礼行事という事もあって、今日に限っては斎はいつもの紺色の着流しでは無く、質感の良い漆黒の着流しを着ていた。つい数日前までは、作品制作に必死で身だしなみに気を遣うことも無かったけれど、今の斎は全身を小綺麗に整えておりその美形な容姿に拍車が掛かっている。

 茜も幽世に来た時に着ていた制服を着ているが、あの強烈な鬼のお面はいつもと変わらずに着けている。人間とバレないようにする為には、仕方が無い事だと分かってるが、こんな婚礼行事の場所でも恐ろしい鬼の面を着けているのはちょっと恥ずかしい。

 催花の住んでいる屋敷前には、婚礼の話を聞いた妖たちが一目花嫁を見ようと集まって来ていた。幽世の嫁入りがどんなものか茜はあまり良く分からないが、催花の住んでいる屋敷から婚家である玄天の屋敷まで花嫁行列となって歩くらしい。

 青かった空はだいぶ日が落ちて、茜色に染まっている。翠いわく、狐の嫁入りには必ず雨が降ると言うが、今の所は雨が降りそうな空模様ではなかった。

「斎殿、茜様!来てくれたのですね!」

「翠さん!」

 黒い袴を着た翠が屋敷の中から、フサフサとした尻尾を揺らして駆け寄って来る。

「斎殿、茜様。本当に素晴らしい絵を描いてくださり、ありがとうございます。」

「仕事の出来を見届けんのは当たり前だろ。な?」

 そう聞いてきた斎に、茜も強く頷いた。

「勿論!それに私達も、催花さんと玄天さんの結婚をお祝いしたくて!」

「ありがとうございます!もう暫くしたら姉上も来ますので、屋敷に上がってください。」

 翠に案内されて、斎と茜は催花の住む屋敷に足を踏み入れる。翠の話によると、催花は花嫁衣装の着付けに時間が掛かっているらしい。なんだか慣れない状況に緊張しながらも、案内された座敷で暫くの間待っていれば、不意にスッと静かに襖が開けられた。

「本日は御足労頂き、ありがとうございます。」

 開けられた襖の向こうには、綿帽子を被り白無垢姿で三つ指を突く催花が居た。伏せられた長い睫毛が影を落とし、ゆっくりと顔を上げた催花の薄い桃色の瞳としっかりと目が合う。

「綺麗」

 そう無意識に口から零れてしまう程に、白無垢を着た催花は美しかった。光沢感のある花模様の刺繍がされた豪華な白無垢は、白い毛並みを持つ催花に良く似合っている。まるで真っ白な花が咲いているように、清らかで神秘的な姿だ。

 思わず見惚れてしまっていれば、赤い紅をさした催花の唇がにっこりと微笑む。

「斎殿、茜様。素敵な和傘を本当に感謝します。」

 そう言うと、催花は再び茜と斎に深く頭を下げる。そんな催花に対して、斎は瞳を細めて「あぁ、翠からの依頼だからな。」と穏やかな口調で応えた。

 茜は座敷に翠と催花しか居ないことを確認してから、着けていた鬼の面を丁寧に外して催花に告げる。

「催花さん、ご結婚おめでとうございます。」

「茜様、ありがとうございます。」

 優しげに微笑む催花に釣られて、茜も自然と笑顔になった。茜は大事に持ってきていた風呂敷包んだそれを、催花に差し出す。

「これ、私からのお祝いです。受け取ってください!」

 茜が差し出したものを、不思議そうに受け取った催花は律儀に「中を見ても良いですか?」と茜に聞いてきた。

「はい、どうぞ!」

 茜の元気の良い声に、催花は白く細い指先で丁寧に風呂敷を開けていく。

「これって…!」

 風呂敷の中から出てきたのは、額に入れられた一枚の絵だった。絵の中には、仲睦まじい様子で寄り添う玄天と催花が居る。

「あの時に似顔絵を描けなかったので、この機会にぜひ私が描きたいなって思いまして…」

 似顔絵の屋台を出してから、すぐに目標であった十両が集まったため、あれから結局二人の似顔絵は描けずにいた。それに二人の結婚の準備も忙しいらしく、なかなか会うことも難しかった。

「現世ではウェルカムボードと言って、結婚式場に来てくれた方のために看板を飾ったりするんです。可愛い絵とか文章とか、二人の似顔絵を描いたウェルカムボードもよくあるんですよ。」

 あの時、茜がスマートフォンで二人の写真を撮ったのは、以前親戚の結婚式に参加した時に似顔絵が描かれたウェルカムボードを見たことを思い出したからだ。似顔絵を描いて、茜なりにこの二人の結婚を祝福したいと思った。

 斎が和傘に絵を描いている間に、茜も密かに二人の似顔絵を制作していたのだ。斎のように絵が動くわけでも無いけれど、水彩色鉛筆を使って丁寧に描き上げた二人の似顔絵。それは今の茜の持っているもの全てを、この絵に込めたと胸を張れる自信作だ。

 絵の中の二人は、緩く瞳を細めて笑い合っている。スマートフォンで写真を撮った時のような二人の溢れ出る幸福感を、絵の中でちゃんと表現しようと意識して描いた。耳や尻尾のフサフサとした質感も、水彩色鉛筆で一本一本の毛並みを描き忠実に再現出来ている。水彩色鉛筆で描かれた優しいタッチの絵は、玄天と催花が持つ穏やかな雰囲気にピッタリだった。

「凄い…!本当に嬉しいです!茜様、ありがとうございます!この絵、大切にさせて頂きます。」

「はい!催花さん、どうか玄天さんと末永くお幸せに。」

 茜の言葉に、催花の薄い桃色の瞳が少しだけ揺れる。それをぎゅっと耐えるように目を閉じてから、心の底から嬉しそうに微笑む催花の姿に茜は何処か報われたような気がした。突然やって来てしまった幽世で斎の元で絵を描いて、今まで感じた事の無い気持ちをたくさん味わっている。

「じゃあ、俺たちは外で晴れ姿を待ってるぜ。」

 斎の一言に茜も頷き、立ち上がる。襖を開けて、座敷を出て行く斎に茜も続いた。襖を閉めようと振り返った視線の先では、翠と催花が泣き笑いのような笑顔で見つめ合っていた。








 斎と茜が座敷から出て行く姿を横目に、催花は翠に向き合った。

「翠、ありがとうね。こんなに素敵な結婚を迎えられて、私は本当に幸せよ。」

「姉上っ…、」

 催花の言葉に翠はグッと眉間に皺を作り、瞳が揺れてしまうのを何とか耐える。深い新緑のような翠の瞳は光を含んで、催花には一層眩しく見えた。

「また、いつでも会いに来るわよ。」

 化粧を施し紅く色付いた唇は、優しく声を零す。翠とよく似た顔立ちで、薄い桃色の瞳を弧を描くように細めた催花の表情は、昔から変わらなくて翠はなんだか切ない気持ちになった。

 両親が亡くなってから、ずっと二人きりで生きてきた唯一無二の存在だ。世界の誰よりも幸せになって欲しい。だからこそ、斎に無理を言ってまで傘の絵を頼んだのだ。斎の描く絵は姉の晴れ舞台に、一番相応しいものだと翠には分かっていた。

「いつでも、姉上をお待ちしています。どうかお幸せに。」

 翠はこれまでの感謝を込めて、深く深く頭を下げる。これから、また新たな一歩を踏み出す催花の行く末が、どうか幸せなものでありますようにと強く願った。









 屋敷の前には、もう何人もの妖たちが集まっていた。皆、花嫁が出て来るのを今か今かと待っているのだ。催花は此処から大通りを通って、玄天の屋敷まで行くらしい。玄天の屋敷には旦那様も居るようで、斎の絵が描かれた和傘を持った催花を見たら、きっと物凄く喜ばれるだろうと翠が言っていた。

 暫くすると黒い袴を来た何人かの狐の妖たちが、屋敷の門から出て来た。狐の妖たちは列になってゆっくりと足を進める。

 その列の中心で、まるで蕾が花を咲かせるように一本の和傘が丁寧に開かれた。それは斎が絵を描いた和傘だと、茜は一目見ただけで分かった。その開かれた和傘の下に、白無垢姿の催花が居る。

 彩雨紙の質感を生かした綺麗な白に、映える色とりどりの淡い花々。苦労して手に入れた水彩絵の具を使って、描き上げた花たちは和傘の中で儚げに美しく咲き誇っていた。

 薄紅色を滲ませた桜の花が優美に咲き、背景に滲ませた色で浮かび上がった白く細やかな雪柳、薄い花弁を豪華に重ねた大輪の牡丹。春を思わせる花々が、綺麗に花を咲かせている。

 透明感のある淡く上品な色合いは、まるで花嫁の白無垢を引き立たせているようだった。催花の持つ清らかな美しさを消さないように、繊細に描かれた斎の芸術は見事に花を咲かす。

 和傘の下を奥ゆかしく歩く白無垢の花嫁の姿に、周囲に居た妖たちからも感嘆の声が聞こえて来る。それは、ずっと見ていたい程に美しい光景だった。

「こりゃ、たまげたな。」

 不意に隣から聞こえて来た声に顔を上げれば、ギョロリとした三つの目と目が合った。

「唐々さん!」

 どうやら、和傘を作った傘職人の唐々も、催花の花嫁行列を見に来ていたようだ。茜の反応に唐々は三つ目を細めて、軽く手を上げて挨拶をしてくれた。

「よっ!」

 モジャモジャに生やした髭の下で、大きな口がにっこりと口角を上げる。彫刻のように深い皺の寄った顔に、三つの目。最初に会った時は恐ろしく感じたその風貌も、今では優しげに笑っている表情にしか見えない。唐々は太い筋肉質な腕を組み、和傘を見ながら満足げに頷いた。

「半妖の絵師殿の絵で、俺の傘が生き生きしてるぜ。」 

 そう言った唐々の視線の先、美しい和傘の下で催花は穏やかに微笑みながら歩いていく。斎もその光景を、優しい眼差しで見ながら言った。

「唐々の和傘が良いものだったから、あの絵が描けたんだ。礼を言う。」

 その斎の言葉を聞いて、唐々はゴツゴツとした手の斎に向かって差し出す。

「お互いに良い仕事をしたな。アンタに絵を描いてもらって良かったぜ。半妖の絵師殿!」

 そんな唐々に斎は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに瞳を柔らげて唐々の差し出した手をギュッと握った。

「あぁ、俺の方こそ!」

 翠から依頼の話を聞いた時は、誰かと関わることを強く拒絶していた斎。そんな斎が、こんな風に自然な笑顔で握手を交わすようになるなんて、あの頃は思いもしなかった。唐々と対面した時でさえ、何処か素っ気ないような対応をしていたのに。

 目の前の光景に少し感動を受けていれば、今度は背後から「あっ!居た居た!半妖の絵師!」と聞き覚えのある声が聞こえて来た。

「画材店の…!」

 その声に振り返れば、以前水彩絵の具を買いに出向いた画材店の三毛猫と爺さん猫が居た。三毛猫と爺さん猫は、斎を見つけると興奮したように詰め寄って来る。

「あの和傘の絵!やっぱり、半妖の絵師の絵だろ?あんな発色の絵はアンタしか描けないと思ってさ!」

 そう言う三毛猫は興奮をそのままに、斎の肩をペシペシと叩きながら言う。そんな三毛猫に続くように、「全く良い絵じゃないか!つい見惚れちまったぜ!」と爺さん猫も長い眉に隠れた瞳を輝かせて言った。

「あの絵の具のお陰で、完成した絵なんだ。買い取らせてくれた事に感謝する。」

 斎が穏やかな表情でそう告げると、三毛猫と爺さん猫はお互いに顔を見合わてクスクスと笑った。

「やっぱり、良い画材ってのは良い描き手に渡るべきだな!」

 ホホホッと呑気に笑う爺さん猫を、三毛猫は「最初は十五両も請求したクセに。」と少し呆れたような表情で見ていた。

 こうやって斎の絵を通して繋がっていく妖たちに、茜はまた深く刺激を受ける。今日、茜の描いた似顔絵は催花と玄天に繋がった。絵を描く時いつも一人だった茜は、絵を描くことで誰かと繋がる事もあるのだと幽世に来てから知った。そして、その事がとても嬉しくて幸せな事なんだと気付いたのだ。

 斎と妖たちを見ながらそんな事を考えていれば、ポツリと茜の頬に雫が落ちた。ポツリ、ポツリと空からいくつかの雫が落ちてきて、次第にそれは幾千もの糸のようになって地上に振り注ぐ。

 突然降ってきた雨に思わず空を見上げれば、夕暮れの空は綺麗な茜色に染まっていて、雨雲は一つも見当たらない。何処から吹かれて来たのか、天気雨は夕日の光を含んでキラキラと宝石のように落ちてきた。

 狐の嫁入りは雨が降る。翠が言っていたことは、この雨の事だろう。雨の中でも、和傘をさして花嫁行列は続いている。見物人の妖たちはそれぞれ持って来ていた和傘をさしたり、建物の軒下に駆け込んだりしながらも歩いていく花嫁を見続けていた。

「お前も、早く入れよ。」

「え!?」

 持ってきていた和傘を素早く開いた斎は、茜に「ん!」と和傘を突き出して中入るように促した。大きめの和傘は二人で入っても余裕がありそうだが、それはつまり相合傘というやつになってしまうのではないか。

 目をパチパチと瞬きしながら、突然の事に茜は戸惑う。学校生活でも、カップルが相合傘をして仲睦まじく帰っているのを見たことがある。しかし、まさか自分がそんな状況に遭遇するとは思ってもいなかった。

 なんというか、気恥ずかしく感じて情けなく戸惑っていれば、痺れを切らした斎が「濡れるから早くしろ!」と茜を無理矢理に傘の中に入れた。確かに暫く雨の中で突っ立ていたため、少し濡れてしまった制服が冷たい。

 お互いの肩が触れ合ってしまう程に、斎との距離が近くてなんだか緊張する。茜は無意識に頬が熱を持つのを感じた。和傘を持つ斎の手は、青黒く鱗が貼り付いたような異形の形をしている。この右手が、たくさんの作品を生み出して来たのだと思うととても愛おしく感じた。

「…お前が、居てくれて良かった。」

 和傘に当たって軽く弾けた雨音が、心地良く響く空間で斎がポツリと呟いた。

「え?」

 雨音に紛れて聞こえた声に、茜は思わず花嫁行列を眺める斎の横顔を見上げる。

「この依頼が成功出来たのも、あの絵を描くことが出来たのもお前のお陰だ。だから、ありがとな。」

 斎の穏やかな声は和傘を叩く雨のように、茜の心を優しく叩く。不意に向けられた斎の真っ直ぐな眼差しに、茜は一瞬呼吸を忘れた。 澄み渡った夜空のような瞳は美しくて、その瞳に映る自分の姿になんとも言えない気持ちになる。周囲の騒がしい声も聞こえないくらいに、トクリ、トクリと心臓を鳴らす音だけが五月蝿く聞こえた。

「わ、私も!斎に出会えて良かったって思ってるよ!」

 無意識に飛び出た声は、情けなく裏返った。じわじわと湧き上がる恥ずかしさに顔を赤く染めるも、斎は茜の言葉にクシャリと瞳を細めて「そうかよ。」と笑う。幽世に来たばかりの時には見られなかったその自然な表情に、斎との距離があの頃よりも近付いている気がして嬉しい。

 夕焼けに照らされて輝く雨のせいか、茜の見ている世界はいつもよりも綺麗に見えた。気恥ずかしくて和傘の外へ飛び出してしまいたいような、ずっとこのまま斎と二人で居たいようなちぐはぐな感情の中で催花の花嫁行列を眺める。少しずつ遠くなっていく白無垢姿の催花を見送ていれば、不意に雨にうたれた和傘が不自然に揺れたような気がした。

 和傘は次々に雫を受けて、波紋が広がる水面よう揺れる。淡い光が和傘から零れ始めたその光景に、茜は思わず目を見開いた。

「斎!あれって…!」

「あぁ…!」

 隣に居た斎を勢い良く確認すれば、斎も信じられないとでも言うように澄み渡った瞳を見開いていた。その視線の先、雨を打たれた花々の絵が、和傘の中からゆっくりと飛び出して花を咲かせ始めたのだ。

 確か、斎の話によると果物や鳥などの小さなものは、絵の中から飛び出したことはあっても、植物はまだ絵の中から飛び出たことは無いらしい。和傘にしとしとと降りゆく雨は、斎が描いた花々に早く咲けと開花を促すように触れていく。それは春先に、花々をせきたてるように降る催花雨のようで。

 雨に促されてか、花々は次から次へと和傘から飛び出して花を揺らす。降りゆく雨に、溶けるように滲む花々のコントラストが美しい。その神秘的な様子に、見物人の妖たちからは歓声の声が上がった。

「まぁ!なんて美しいの!」

「素敵な花嫁ね!綺麗だわ!」

 彼方此方から上がるうっとりとした妖たちの声に、斎と茜は思わず顔を見合わせた。白無垢姿の催花に、憧れの視線が四方八方から向けられている。予想していなかった演出に、斎と茜は笑い合った。翠から受けた依頼は、大成功だとお互いに胸を張って言えるだろう。

 和傘の上で咲く花々は雨にうたれて、時折その淡い花弁を散らしていく。その様子は和傘と言うよりも、まるで花傘のようだった。輝く雨粒を花弁に宿して一層華やかになった傘の下で、催花は幸せそうに微笑んだ。その姿は少し離れていても分かるくらいに、眩しくて美しい光景だった。









 チュン、チュンチュン…と雀の鳴き声が聞こえてくる掛け軸は、いつ見ても美しい作品だと翠は思う。旅館の正面玄関、一番目立つ場所に飾られた掛け軸はつい先日、斎に依頼して描いてもらった絵だ。

 催花の嫁入りも無事に終えて、一週間が経った。斎の絵や唐々の傘、茜の似顔絵などもあって催花の嫁入りは、本当に素晴らしいものになったと翠は思う。特に花嫁行列では斎の描いた花々が和傘の上で美しく咲き誇り、白無垢姿の催花と相まってとても感動的な光景だった。和傘の下で幸せそうに微笑む催花は、この街の妖たちの中でも注目の的になっただろう。

 その当時の様子を今思い返しても、翠は熱いものが込み上げてきて瞳が揺れてしまう。それを瞬きをしてグッと耐えた。こんな仕事中に涙を溢すなんてあってはならない事だと、翠は改めて自分叱咤する。

 目の前の掛け軸の中では、青々と伸びた竹が風を受けたようにしなやかに揺れていた。その周りを飛ぶ雀は絵筆で細かく描かれ、柔らかな羽をパタパタと羽ばたかせている。可愛らしい数羽の雀は、時々この掛け軸の中から抜け出して旅館内を自由に飛び回り、宿泊しに来た客たちを楽しませるのだ。掛け軸の中から出てくる不思議な絵に、妖たちは大層喜んでくれるので店としては本当に有り難い。先日、斎が描いたばかりのこの掛け軸を見るために、わざわざ旅館に足を運ぶ妖も居るくらいだ。

 催花の花嫁行列を見た妖たちは、和傘に描かれた不思議な絵の美しさに魅力されて「あの絵を描いた絵師は誰か」と大きな噂になったらしい。そして、絵の描き手が半妖の絵師だと分かると、妖たちはこぞって斎へ絵の依頼を申し込んだそうだ。これまで半妖というだけで差別を受けることもあったけれど、そんな小さな偏見を覆すほどに斎の画力は凄いものだったのだ。そして今、巷では斎の描いた作品や半妖の絵師の話題で持ちきりになっていた。

 半妖ということもあって周囲に心を閉ざしがちだった斎が、今では様々な妖たちにその能力を認められている。その事を翠は自分のように嬉しく思った反面、ずっと近くに居た斎が随分と遠い存在になってしまったように思えて、少し寂しくも感じていた。そもそも、突然幽世にやって来た茜まで巻き込んで斎に絵を依頼したというのに、何という勝手さだろうと我ながら溜め息が出る。

 こんな考えでは駄目だと、翠は今一度自分を叱咤するように己の頬を両手で叩く。気合いを入れるように思いっ切り叩いたせいか、痛みでしっかりと目が覚めた。目の前の掛け軸の絵を改めて眺めてから、「よし!ちゃんと仕事に励まなくては!」と強く意気込んだ。

 さて、旅館の外の掃き掃除でもしようかと、翠は箒を持って外に出る。今日も、旅館に足を運ぶ客を迎え入れる為にせっせと準備に精を出す。旅館の前の石段を隈なく掃き掃除をしていれば、不意に「翠、」と野太い声で名前を呼ばれた。

 その声に掃除をしていた手を止めて振り返ると、見上げる程の大きな背丈に、金色の毛並みの九本の尻尾を背後で怪しげに揺らす旦那様がいた。翠が働く旅館『日照雨屋』を仕切る旦那様は、この街を治める大妖怪、九尾だ。そして、催花と結婚した玄天の実の父でもある。

「旦那様、何か御用ですか?」

 翠がそう聞けば、旦那様は機嫌良さそうにその赤色に輝く瞳を細めた。

「玄天と催花の似顔絵は、茜殿の作品だと聞いてな。」

「はい、とても素敵な絵でしたよね。」

 旦那様の言葉に翠は頷き、茜が描いた二人の似顔絵を思い浮かべる。茜いわく、現世ではウェルカムボードという結婚式参列者に向けた看板が使われることもあるらしい。その中では夫婦二人の似顔絵が描かれたものも多いらしく、今回の催花と玄天の結婚を茜なりに祝ってくれたのだ。まさか人間の茜から、そんな粋なお祝いを頂けるとは思ってもいなくて、催花や玄天だけでなく翠も酷く驚いた。

「あれは誠に良い絵じゃ。斎の絵も素晴らしかったが、茜殿の絵もとても感動した。会った時に、ぜひとも礼を言いたい。」

 細い瞳を更に細めて笑う旦那様は、相当あの二人の似顔絵が気に入っているらしい。新婚の二人も茜の絵を見て、凄く喜んでいたことを翠は思い出す。

「はい、ぜひとも!茜様もきっと喜ばれますよ!」

「今度は、儂の似顔絵も頼みたいところだな。」

 そう言いながら、はっはっはっと豪快に笑った旦那様に翠はまた嬉しくなった。けれどその瞬間、旦那様すぐに何かを警戒したように赤色の瞳を細めて、眉間に深い皺を作った。

「…だが、その時間は無さそうじゃ。」

 低く呟かれた言葉の意味が分からず、翠は首を傾げる。そして、徐々に旦那様から発せられる何処かピリついた雰囲気に翠は戸惑った。金色の毛並みは逆立ち、旦那様の大きな背を守るように九本の尻尾は身体の周りに広がっている。どうも只事ではない様子に「旦那様、如何されましたか…?」と翠が聞いた瞬間、ゴォォォと低い音を立てて強い突風が吹いた。

 気を抜けば吹き飛ばされてしまいそうな程の風に、翠はぎゅっと目を瞑って耐える。その間に、持っていた箒は何処かへ飛ばされてしまったようだ。けれど、あまりの風の強さにそんな事を気にしている余裕は無い。そのままの状態で突風が過ぎ去るを待っていれば、暫くして徐々に風が止み始めた。

 ゆっくりと閉じていた瞼を開けると、旦那様と向き合うような位置に一人の男が立っている。真っ黒な着物を着て、傘を目深に被った男は表情が全く見えない。強烈な突風と共に現れた何やら怪しげな雰囲気の男に、旦那様は眉間に皺を寄せて言い放つ。

「ようやく、来たようじゃな。」

 そう言った低い声が腹の底まで響く。まるで空間を支配するような旦那様の威圧感に翠までも緊張感が走るが、目の前の男は特に臆する事もなく傘を被ったまま淡々とした口調で話した。

「伝言を受け取り、此方へと参りました。龍一族の者です。」









 一週間前、都の中心に建つ城の一室にて。

 巨大な城の中とは思えない程に、殺風景な部屋には一人の男が居た。男は背中に長い白髪を流し、その頭には二本の立派な角が生えている。年齢を感じさせる目元には深い皺が寄っていて、肌の所々に青黒い鱗が張り付いていた。

 部屋の窓を覗けば都の美しい景色が一望する事が出来るというに、男はそんなものには目もくれず、壁の右下隅に向けて熱心に視線を注いでいる。

 男が見つめている視線の先には、幼子の落書きのような歪な形の花が一輪描かれていた。男はその壁の右下隅に近寄り、そっと鱗の張り付いた異形の右手を伸ばす。すると、歪な形の花の絵は壁の中からゆっくりと飛び出して、男の差し出された人差し指の先に触れた。そして、花弁がまるで赤子の小さな掌のように開き、男の人差し指を優しく握る。

 その様子を男は瞳を細めて、何とも愛おしそうに見つめていた。時折あやすように指先を揺すり、花の絵を優しく撫でる。

 不意に、部屋の外から男のよく知る従者の気配を感じた。

「当主様、急ぎお伝えたい事が御座います。」

「何だ。」

 襖を挟んでそう声を掛ければ、従者は少し緊張した様子の口調ではっきりと告げる。

「この幽世に人間が現れたと、島国の九尾からの知らせです。」

「門の封印が、解かれたと謂うのか?」

「いいえ、封印は解かれておりません。…ただ、」

「申せ。」

 従者の何処か煮え切らない態度に、思わず眉間に皺を寄せる。先程まで、歪な花の絵を見つめていた優しげな様子は既に男から消えていた。

「人間は、斎様の絵の中から現れたとの事で。」

「…それは、誠か。」

 男は鋭い瞳を、大きく見開いた。

「はい。」

「人間が現れたのはいつだ?」

「九尾の治める国からこの伝言が届くまでは、海を渡り少なくとも数週間は掛かります。ですので、もう一月以上は幽世に居るのではないでしょうか。」

「…それは不味いな。急ぎ、その人間を連れて参れ。」

「御意。」

 従者は男の命令を聞くと素速く気配を消した。再び訪れた静寂の空間に、男は深く溜め息を溢す。そして部屋の窓に近付き、晴れ渡る真っ青な空を仰いだ。

「これが、運命というものか。…美空よ。」

 そう悲しげに呟かれた男の声を、歪な花の絵だけが聞いていた。










 絵の具の独特の匂いが、茜の鼻を掠める。目の前では斎が細い絵筆を持って、艶やかな櫛に細かい花の絵を描いていた。

「まぁ、素敵!」

 その様子をうっとりした表情で、首を長く伸ばした女の妖、ろくろ首が見守る。そんなろくろ首を気にすることも無く、斎はいつものように流れるような筆さばきで絵を描いていた。

「あの花嫁行列の時に見た花が本当に綺麗で、ぜひ半妖の絵師様に絵を描いて貰いたかったのです。」

 ろくろ首は頬を赤く染めて首を長く伸ばし、顔を徐々に絵を描く斎の横顔へと近づけて行く。その様子を茜は、内心ひやひやしながら見守った。

 催花の花嫁行列から一週間が経ち、斎への絵の依頼は今までの何倍も殺到していた。というのも、あの花嫁行列の和傘を見た多くの妖たちは、斎の不思議な力を持つ美しい絵の虜になってしまったらしく日々依頼は絶えなかった。しかも、あの和傘の絵を描いたのが、今まで妖と関わることを避けていた半妖の絵師だということもあり、幽世での話題性は大きかったらしい。

 今では斎だけでは手が回らず、茜も雑用だけではなく絵を描くことも少しだけ手伝ったりしている。以前は、あまり大勢の依頼を受けることはせずに細々と絵師の仕事をやっていた斎も、今回の依頼で吹っ切れたのか色々なジャンルの仕事に挑戦するようにこの一週間で変わっていた。

 それに斎は半妖だが、とても整った容姿をしていることもあり、妖の女子たちからの人気も密かに出始めていた。今では、斎を目当てに依頼にやって来る妖も少なくはない。茜の目の前で首を長くくねらせて、絵を描く斎に近付こうとするろくろ首も、きっとその一人だろう。

「完成だ。」

 そう短く告げた斎は絵筆を置き、絵を描き終えた櫛をろくろ首に差し出した。ろくろ首は長く伸びた首を一瞬にして縮めて、普通の人間と変わらない姿になる。斎から差し出された櫛を受け取ると、ろくろ首の手の中で櫛に描かれた梅の花が絵の中から飛び出し、小さな花弁を揺らして咲き始めた。

「わぁ!本当に絵の花が咲いてますわ!こんなに美しい絵は初めてです!」

 ろくろ首はとても感激した様子で、嬉しそうに櫛に咲いた梅の花を眺めた。大切そうに胸に抱いた櫛を、ろくろ首は丁寧に自分の髪に飾る。飾り気のなかったシンプルな櫛は斎の描いた絵により、まるで本物の花が咲いているような美しい髪飾りへと変化した。小さく可愛らしい梅の花は、ろくろ首によく似合っている。

「嬉しい…!」

 そう微笑んだろくろ首に、斎も少し瞳を柔らげた。茜が幽世に来たばかりの頃では、考えられないくらいに最近の斎は表情が豊かになったと感じる。

 それは斎にとって、とても良い事であるはずなのに、茜はたまに心がモヤッと曇り空の時のように何処かスキッリしないような気持ちになるのだ。それを不思議に思いながらも、茜は畳の上に散らばった画材を片付ける。

「半妖の絵師様に描いてもらって、良かったです。この櫛、大事にしますね!」

 ろくろ首は斎に向かって、頬を赤く染めて話す。その瞳は、ゆらゆらと炎が燃え上がっているかのように情熱的なものだった。斎はそれに気付いているのか知らないが、ろくろ首の話に対して淡々と会話をしていく。

 そんな二人の様子に、茜は再び心がモヤッと曇るのを感じた。

 梅の花が咲いた櫛を飾り、その花と同じ色に頬を染めて楽しそうに話すろくろ首は本当に可愛らしく茜には見えた。

 暫くして、頭に櫛を飾ったろくろ首は、ご機嫌な様子で帰って行った。その様子を見送りながら、茜は一息吐く。最近、感じるようになった心のモヤつきに、茜は胸を抑えて不思議そうに首を傾げた。

 不意に、頭が雲がかかったようにボーッとし始める。トンネルの中に迷い込んでいるような、急に視野が狭くなるような不思議な感覚に襲われた。理由は分からないが、ここ数日で茜の身にはこのような事が唐突に起こるようになった。

「…おい!茜、聞いてるか?」

 そんな茜を呼び起こすかのように、大きな声が耳元から聞こえてビクッと肩を揺らす。ハッとして顔を上げた茜に、斎は深く溜め息を吐いた。

「お前、最近ボーッとしすぎじゃねぇか?」

「ごめん、ごめん!何か用だった?」

 このやり取りも、もう何度目だろうか。催花の嫁入りを終えてから張り詰めていた気が一気に緩んだのか、呆ける事が多くなったと茜自身自覚していた。せっかく絵の依頼も増えた事だし、こんな調子では駄目だと茜は気合いを入れる為に両頬を叩く。

「いや、別に用があった訳じゃねぇけど。お前さ、この一週間で依頼の量も増えたし少し疲れてんじゃねぇか?」

 ここ数日の茜の様子に、少し心配そうな表情で斎が言う。確かに依頼の量は増えたけれど疲れは全く感じず、むしろ茜は斎と共に絵を描いていく生活が楽しくてやる気に満ち溢れていた。

「ううん!そんな事ないよ、大丈夫!」

「なら良いけど、あんま無理すんなよ。」

 大丈夫だという返事に斎は納得いかなさそうな顔をしつつも、再度念を押すように茜を気遣ってくれた。

「うん、でも本当に無理してないよ。今は毎日が楽しくて仕方ないの!」

 自然と零れ出る笑みのまま、今の感情を素直に伝えれば、斎は仕方なさそうに瞳を細めて「そーかよ。」と笑った。

 その笑顔がとても優しげで、茜は斎から目が離せなくなる。叶うのならば、ずっと斎の笑った顔を見ていたかった。

「斎殿!茜様!」

 突然、翠の呼ぶ声が聞こえたと思ったら、先程ろくろ首を見送ったばかりの店の引き戸が勢い良く開いた。

 何事だろうかと、斎を見ていた視線を店の引き戸へと向ける。緩やかな風と共に暖簾を潜り、入って来たのはふさふさとした尻尾を揺らす翠と、傘を目深に被った見知らぬ妖だった。

「翠さん、どうかしたんですか?」

 見知らぬ妖を不思議に思いながらも、茜は翠に聞く。

「龍一族の方が、茜様にお会いしたいとの事で此方にお連れしたのです。」

「…え?」

 翠の言葉に、龍一族だと思われる妖は被っていた傘を取って顔を見せる。見た目は青年くらいだろうか、茜や斎よりも少し年上だと思われる容姿をしていた。白く透き通るような肌には、所々亀裂が入り鱗が幾つも貼り付いていた。それは顔だけではなく、着物から見える手首や足首も鱗が貼り付いているようで、時折キラリと光に反射して輝く。その肌質は、斎の右手とよく似ているようにも見えた。

 長く艶かな黒髪は後ろに束ねられて、前髪から見える鋭い青い瞳と目が合った瞬間、茜はキュッと心臓を掴まれたような感覚に襲われた。茜の姿を視界に入れた男は、途端に険しい表情をする。その迫力ある視線に、茜は思わず怯んでしまう。ゾクッと背中に冷や汗が流れるのを感じて少し後退りすれば、男は茜からそっと視線を外した。

 そして次に男は斎に視線を向けると、鋭い瞳を大きく見開いてから何かを堪えるように瞳を細めた。眉をハの字にしてギュッと唇を噛み締める姿は、先程茜を見ていた時とはまるで別人のようだ。

「斎様、ご立派になられましたね。」

「…清澄(せいちょう)、」

 龍一族の男の言葉に、酷く驚いたような表情で斎が呟く。斎の母は龍一族の出身らしく、過去にこの男とも何かしらの関わりがあったのかもしれない。以前、翠から聞いた話では、半妖の斎は龍一族の中で妖と認められず、母と二人でこの旦那様の治める島国にやって来たという。

 斎にとって龍一族という存在は、あまり良くないイメージではないのかと心配で、茜は隣りに居る斎の様子を伺う。斎は目の前の男に、少なからず緊張しているように見える。少し離れた所にいる翠も、心配そうに斎に視線を送っていた。

「私を、覚えておいででしたか…。もう二度と、お会い出来ないかと思っておりました。再び斎様にお会い出来たこと、真に嬉しく思います。」

 そんな斎を前にして、龍一族の男は噛み締めるように一言、一言丁寧に言葉を紡ぐ。その声は酷く穏やかで、優しさに満ちていた。

「あぁ、俺もだ。また会えて良かった。」

 少し緊張していた様子の斎も、龍一族の男の言葉にすっかりと緊張が溶け出したようだった。自然と口角を上げた斎の姿に茜は安堵した。まだこの二人の関係性は分からないが、少なくとも斎にとってこの龍一族の男との関係は悪いものではないように見えた。

 そして暫く、龍一族の男は斎と談笑した後、不意に茜に視線を向けた。その鋭い瞳に一瞬驚いたが、龍一族の男は瞳を少し柔らげて頭を下げる。

「人間殿、お初にお目にかかる。私は龍一族の清澄(せいちょう)と申します。」

 龍一族の男、清澄の丁寧な挨拶に、茜も慌てて頭を下げた。鋭い瞳は若干怖いけれど、このような仕草を見ると清澄は意外と真面目な妖なのかもしれない。

「初めまして、立原茜です。斎の元で絵の手伝いをしてます。」

 少し緊張しながらも清澄に挨拶をしてから、控えめな視線を斎へと向ければ、斎は困ったように笑って清澄との関係を説明してくれた。

「俺の母親が龍一族の出身だって、前にも言ったよな。小さい頃、半妖の俺は当時の龍一族当主に認められず、一族からも煙たがられて居場所が無かったんだ。けれど清澄はそんな龍一族の中でも、俺に普通に接してくれた貴重な存在だ。」

「そう、だったんだ。」

 半妖だと差別されていた過去の斎にも、そんな存在が居たことに茜は嬉しく思った。

「我ら一族は少々特殊で、妖としての能力の高い血を何よりも大事にする傾向にあります。ですので、私の国は斎様にとって、さぞ居心地の悪い場所だったかと思います。けれど、この島国でこんなに立派に成長されて…」

 斎を眩しそうに見つめる清澄と、それに少し照れたようにそっぽ向く斎。そんな二人を、茜と翠も微笑ましく見守った。

「それで、清澄が茜に会いに来たって事は、旦那様の伝言は龍一族の国にちゃんと届いたって事だよな?」

 不意に、清澄が此処に来た当初の目的を思い出したように斎が聞く。それに清澄はコクリと一つ頷き、今まで成り行きを見守っていた翠がこれまでの経緯を話し始めた。

「はい。それで清澄様は、先程この国にお着きしたようで。既に、旦那様にもお会いになりました。」

「旦那様は、何て?」

「旦那様は…」

 斎と翠が話しているその横で、茜は再び頭にモヤがかかったように何も考えられなくなった。水の中にいるように、ふわふわと思考が浮いていく。ボーッとして、自分が今何をしているかも分からなくなるような不安感に襲われた。何か重要な話をしているはずなのに、今の茜には二人の会話さえ全く聞き取れない。

 ふと気付けば、ぼんやりと虚ろな視界の端で、茜を覗き込むように顔を近付けた斎が目の前で手を振っていた。

「…おい!茜、聞こえてるか!?」

「えっ、」

「お前、またボーッとしてたんだろ。お前の話なんだから、ちゃんと聞いてろよな!」

 パチパチと瞬きをして、何処か呆けたような表情をする茜に、斎は額を抑えながら溜め息混じりに言った。
 
「茜様、どうかされましたか?」

「いえ!ちょっと、ボーッとしちゃったみたいで…」

 翠にも心配したように聞かれて、またやってしまったと茜は内心酷く反省していた。茜自身はたいして疲れなど感じていないのだけど、斎が言うようにやっぱり知らぬ間に疲れが溜まっているのだろか。しっかりしなければ!と意気込んで、茜は再び己の両頬を強く叩いた。

「それで話に戻りますが、茜様。」

 意識を取り戻した茜に、真剣な表情をした清澄が声を掛ける。

「急ぎ私と共に、龍一族の治める国まで来ていただきたいのです。」

「えっ!?」
 
「茜様の事情は、九尾様から聞いています。茜様を現世へ戻す為に、我が一族の当主様が幽世と現世を繋ぐ門の封印を一時的に解除します。その準備が出来次第、茜様は直ぐにでも現世に戻る事が出来ますよ。」

 清澄の説明を聞きながら、斎と翠は寂しげに茜を見つめていた。しかし、茜は不思議に思って首を傾げる。

「…あの、現世って?」

「「えっ、」」

 茜の発言に斎と翠は目を見開き驚いて、清澄は黙って眉をしかめる。その様子に、茜もハッとして自分が何を口走ったのか徐々に理解した。

「あれ?私、何言って…?」

 ぼんやりと晴れない頭の中は、何処か記憶がはっきりしない。それが酷く茜を不安にし、何かから守るように頭を抱える。清澄が発した『現世』という言葉。それは茜が元に居た世界で、茜が帰らなければらない世界のはずだ。

 寺の雲龍図に呑み込まれて、茜は突然この幽世の世界にやって来た。現世に帰るためには、龍一族が管理しているという幽世と現世を繋ぐ門を通らなければならないのだ。そして、龍一族が茜に会いに来たということは、茜が現世へ帰るための手筈が整ったということだろう。

 それなのに茜は、先程までその事が全く分からなかった。そもそも、茜自身、ずっと幽世で生きてきたような感覚すらあるのだ。現世という自分が帰るべき世界のことを思い出せない程に。一体いつから、茜はそんな大事なことを思い出せなくなったのだろうか。

 その時初めて、茜は自分の身に異変が起きていることに気が付いた。




 
 
 


 自分の状況に酷く混乱する様子の茜を、険しい表情で清澄が見つめる。

「長く、幽世に居すぎようですね。」

「おい!それ、どうゆうことだよ!」

 清澄の言葉に、斎は眉間に皺を寄せて声を上げた。茜が幽世に長く居たことに、何か問題があるのだろうか。自分の知らぬ間に、茜の身に何か良からぬ事が起きているようで斎は大きな不安に駆られた。一気に緊張感が走る室内で、ひたすらに心配そうに茜を見つめる翠がゴクリと息を呑む。

「うむ、遅れてすまんな。」

 突然、ガラリッと店の引き戸が開き、低い声が室内に放たれた。大きな背中を丸めて窮屈そうに暖簾を潜り、現れたのはこの国を治める九尾の旦那様だ。

「旦那様!」

 翠が助けを求めるように声を上げれば、旦那様は赤い瞳を細めて茜たちに視線を向けた。

「話は済んだか?」

「いえ、まだ詳しくは。それよりも、茜様の容態はかなり深刻な状況です。」

「…そうか。」

 今の状況を確認するように清澄と話す旦那様は、茜の状態を聞くと瞳を閉じて深く息を吐いた。

「おい!茜に何が起きてる?」

 斎は、旦那様と清澄に今一度聞いた。少し焦りが見える斎の表情を、真っ直ぐに見つめた清澄は静かに口を開く。

「ご存知だと思いますが、幽世と現世、二つの世界は全くの別物です。時の流れ方も違ければ、人間と妖の在り方も違います。」

「あぁ。」

「その人間が現世とは全く異なる幽世に長く居すぎると、徐々に記憶を失ってしまうのです。」

「…記憶を?」

「はい。元居た現世の世界の事、そして最終的には自分の事さえも分からなくなっていきます。現世で生きてきた自分自身の事を、全て忘れ去ってしまうのです。」

 『記憶を失う』という事実に、斎も茜も驚きを隠せなかった。まさか幽世に居ることで、そんなデメリットがあるなんて知りもしなかった。そして、いつの間にかそんな事態に、自分も陥っているのではないかと茜は背筋が凍る。清澄の説明に納得せざるおえない程に、時折思考がぼんやりとして自分の事が分からなくなるような自覚があった。

 呆然と目を見開いている茜に、旦那様は少し申し訳なさそうな表情する。

「茜殿。最初に会った時にこの事実を話せば、必要以上に怯えさせてしまうと思いあえて黙っておいたのだ。そなたは、突然この世界やって来て相当戸惑っているようだったからな。儂もまさか、人間が龍一族の国から遠く離れたこの島国に来るとは思っていなかった故に、どうしても対処が遅れてしまった。すまない。」

「いえ!そんなことは…!」

 軽く頭を下げた旦那様に、茜は慌てて声を掛ける。今思えば最初に茜を半妖の斎の所へ置いたのも、妖たちと距離を置いた場所で、茜を怯えさせないようにするための旦那様なりの配慮だったのではないかと思う。そのおかげで、茜はこの幽世の世界で特に恐ろしい思いをする事も無く過ごせたのだ。それに斎と共に絵を描いた日々は信じられない程に楽しくて、旦那様には感謝したいくらいだ。

「今はまだ、そこまで記憶を無くしているわけではないのようですので、急いで現世に戻れば現世での記憶を失わずに済むでしょう。ただ、容態は一刻一刻と変化していきますので、早く帰る事に越した事はありません。」

「そう、なんですね。」

 清澄の説明を聞いて、ひとまず茜はホッと胸を撫で下ろす。急いで現世に戻れば、なんとか記憶を失わずに済みそうだ。安堵する茜の横で、斎は急かすように言う。

「じゃあ、茜は今すぐ龍一族の国に行かねぇと…!」

「はい。…ですが、幽世と現世を繋ぐ門は封印されております。今回は一時的に封印を解除することになりますが、茜様が現世に戻られた後は通常どおりにまた門は封印されます。なので本来であれば、茜様はもう二度と幽世に戻る事はないでしょう。」

「えっ、」

 一瞬、茜は頭が真っ白になった。

 もう二度と幽世の世界に戻る事はないと話す清澄の声が次第に遠くなる。幽世に戻る事が出来ないということは、つまり斎や翠、旦那様にも二度と会えなくなるということだ。

 斎は清澄の言葉に目を見開いてから、暫くして「…そうか。」と俯きがちに小さく呟いた。酷く寂しげな声は、静かな室内に漂っていく。そんな斎の様子に、茜は堪らなくなった。

 曖昧な記憶を呼び起こすように、茜は元いた現世の事を無理矢理に思い出そうとする。先程まで現世という言葉さえ、分からなくなっていたけれど、少しずつ意識して頭を整理させていけば、徐々に現世での記憶が蘇ってきた。

 昔から人の輪に入ることが苦手で、常に一人きりで絵を描いていたこと。高校生になっても友達が出来ず、いつまでも馴染めない教室の息苦しさ。そんな周りから浮いた自分の存在が、誰かの迷惑になってしまう悲しさ。
 
 幽世に来てから、いつの間にか忘れていた生きづらさを次から次へと思い出していく。斎と絵を描く日々が本当に楽しくて、無意識に頭の隅へと追いやっていたそれはあまりにも残酷だった。

 突然やって来た幽世の世界で、斎を始め、絵を描くことで妖たちと繋がることの温かさを知った。誰かに認められる嬉しさも、誰かと共に何かを成し遂げる楽しさも全部この場所で知ったのだ。ずっと一人で絵を描いてきた茜にとって、初めて知ったそれらの感情は信じられない程に心地良くて幸せなものだった。

 幽世は、茜がようやく見つけた居場所のような場所だ。この日々が、失われてしまうと思うと怖くて仕方がない。また再び、あの孤独で寂しい場所に戻らなければならないなんて、今の茜にはとても耐えられるはずが無かった。

「嫌です。私、帰りたくないです。」

 気付けば、無意識に茜は言葉を溢していた。強く
拳を握って、声を震わせた茜に隣に居た斎は顔を上げる。

「茜…」

「記憶を失っても良いから、このまま幽世に居たいです!現世に戻りたくないです!」

 茜は生まれて初めて、こんなに声を荒げた。

 旦那様に現世に戻りたいと言って、清澄も遠く離れた龍一族の国からわざわざ茜の為に来てくれたのに、随分と自分勝手な事を言っているのは分かっている。それでも、二度と幽世に戻れなくなるなんて茜には耐えられなかった。斎たちの居ない世界で、今までのように生きていけるはずがなかったのだ。

「茜様。お気持ちは察しますが、事は一刻を争います。今の感情だけで、大事な決断をするものではありませんよ。」

 きっぱりと清澄に諭されて、少しだけ気持ちが落ち着く。けれど、茜の中に広がる大きな絶望は上手く消化されてはくれなかった。先程言い放った気持ちは、全て今の茜の本音だ。斎たちと二度と会えない事が、幽世に戻れない事が悲しくて仕方なかったのだ。

「茜。」

 今にも泣き出しそうに歪んだ茜を見て、斎は優しく名前を呼んだ。その声に釣られるように斎に視線を向けると、斎は茜を安心させるように瞳を緩めて笑った。
 
「お前が現世に戻りたくないなら、どうすれば良いか一緒に考えてやる。」

「…っ、」

 その一言で、揺れる視界から一雫の涙が茜の頬をつたった。真っ直ぐに茜を見つめてくれる斎の澄んだ瞳は、優しさに溢れていて心が震える。あまりにも穏やかな差しに、茜はこれ以上涙が溢れてしまわないように必死に堪えた。

「ただ、お前の記憶の事だったり、そもそもお前が突然幽世に来た事とか、俺には分からない事が多いから、ちゃんと龍一族からこの件に関しての意見を聞きたい。だから、俺もお前と一緒に龍一族の国に行く。」

 そのまま斎が話すのを茜だけでなく、翠や旦那様、清澄も静かに聞いていた。

「俺だって、このままお前と会えなくなるなんて嫌だし、お前の大事な記憶も失わせたくねぇんだ。」

 誰よりも茜の事を考えてくれる斎の言葉に、茜は心の底から救われた。そして、斎も茜と同じように、このまま会えなくなってしまうのが嫌だと言ってくれた事が嬉しくて仕方ない。

「だから、茜。俺と一緒に、龍一族の国に行こう。」

「うん…!」

 もう先程のように、絶望に飲まれることはない。斎のおかげで軽くなった心が、じんわりと熱を持った。現世に戻らなければならない事も、失ってしまうかもしれない記憶の事も不安はあるけれど、斎と一緒ならば何も怖くないような不思議な気持ちになる。吸い込んだ息を深く吐き出して、見開いた瞳にはもう涙の膜は消えていた。茜は斎と共に、龍一族の国へと向かう決意をしたのだ。

「お二人共、お気持ちは決まりましたか。」

 暫くしてから、茜を気遣うように声を掛けてくれた清澄に、茜は先程の自分勝手な発言を思い返して反省した。

「…はい。勝手なことばかり言って、すみませんでした。」

「いえ。そんな事はお気になさらず。…斎様にとって、茜様は大事なお方なんですね。」

「へっ!?」

 清澄はそう言うと、二人を眩しそうに見て微笑んだ。清澄の突然の発言に、茜は驚いて声を上げて動揺する。何処か温かさを含ませた物言いに、茜は隠し事を明かされてしまったようにドキッと心臓が跳ねた。しかし、そんな茜とは対象的に、斎は何て事ない表情で清澄に告げる。

「あぁ、そうだ。だから、清澄。俺も茜と一緒に連れて行ってくれ。」

「…っ!」

 斎の発言には一体どんな意味が込められているのか知らないが、茜はじわじわと頬が熱を持ち顔が真っ赤に染まっていく。チラリと斎の顔を見上げれば、茜の視線に気付いた斎が、「ん?」と何とも優しげな表情で首を傾げた。

 その様子を見ていた清澄は「斎様に、そんな方が出来るなんて…!」と感激したように、鋭い瞳を見開いた。そして、清澄と同様に成り行きを見守っていた翠も、翡翠色の瞳をキラキラと輝かせて二人を見つめる。

「斎殿!姉上が結婚したばかりだと言うのに、今度は斎殿ですか!?なんて、めでたい…!」

「いや、何の話だよ?」

「ちょっ!?翠さん!何言ってるんですか!?」

 翠の先走り過ぎた発言に、斎は全く意味が分からないとでも言いたげに、眉間に皺を寄せて呆れた表情をしている。その逆に、茜は大慌てで翠の発言を止めるように肩を叩いた。

 慌てふためく茜を見て、翠は少し申し訳無さそうに眉をハの字にして笑う。その拍子に生糸のような美しい白髪が、サラリと翠の肩の上を撫でた。

「茜様、私も斎殿と気持ちは同じです。このまま、お別れをするのは寂し過ぎます。」

「翠さん…!」

「龍一族の国でどうなるかは分かりませんが、絶対にまた会いましょうね。」

「はい!必ず、また此処に戻って来ます!」

 翡翠色の瞳を細めてふさふさの尻尾を揺らす翠に、茜は強く頷いた。仮にもし現世に戻る事になってしまったとしても、幽世で茜の事を待っていてくれる存在が居る。それは、きっと茜を強く支えてくれるはずだ。意地でもまた、翠や他の妖たちに会う為に此処に戻って来こようと茜は自分自身にも誓った。

「斎殿、茜様。どうかお気を付けて。」

「おう!」

「はい!」

 翠の言葉に、斎も茜も強く頷いた。








 楽しげなやり取りをする三人から、少し離れたところで密かに旦那様と清澄が言葉を交わしていた。

「清澄殿、儂からも二人を頼む。」

「はい。お任せを。」

 軽く頭を下げた清澄に、旦那様は渋るように太い腕を組むとムスッと口元を歪めた。

「そなたら龍一族には言いたい事が山程あったが、斎に全て任せた。あやつの前で、儂がでしゃばる事でもない。」

「お気持ちお察しします。我が一族が斎様と美空様を蔑ろにしたこと、私とて許せる事ではありません。」

 旦那様の言葉に同意するように話す清澄は、とても冷たい瞳をしていた。そして、己を責めるようにグッと唇を噛み締める。

 そんな清澄を見て、旦那様は何処か懐かしむように遠くへ視線を向けた。

「うむ。此処へ来たのがそなたで良かった。そなた以外の龍一族が来たならば、喰い殺してやったわ。」

 人間一人くらい丸呑み出来そうな程に大きな口の中で、ギリギリと歯を鳴らす旦那様に向けて「それは、怖いですね。」と、清澄はにこやかに返しながらも若干口元が引き攣っている。それに対して、「どうも、そなたら一族とは気が合わんでのう。」と旦那様は豪快に笑った。

 暫くして笑いが治まると、旦那様は妙に真剣な表情になり口を開く。

「茜殿が、呑み込まれたという雲龍図。それを描いたのはおそらく幽山じゃ。茜殿に初めて会った時に、あやつの気配を感じた。」

「それは、誠ですか。」

 旦那様の言葉に清澄は、信じられないと言わんばかりに目を見開いて微かに声を震わせた。

「あぁ。それに茜殿からあやつの気配を感じなくとも、飛び出してくる龍の絵を描ける程の画力を持つ人間が居るとすれば、儂はあやつしか知らん。」

「そんな事が、本当に起こると?」

「さぁな。ただ、あの男を人間だからと見くびらん方が良い。あやつの絵は、あやつの魂が注がれた生き物だからじゃのう。」

 旦那様は、自分の事のように誇らしげに話をする。その様子に、清澄は少し寂しげな表情で視線を向けながらも、納得したように頷いた。

「…分かりました。この事を、当主様にもお伝えします。」

「あぁ。今の龍一族の当主ならば、直ぐに納得するじゃろう。」

「はい。急ぎ、お二方を我らの国までお連れします。」

「よろしく、頼む。」

 









 晴天を横切る大きな影。空を覆う雲を割くように突き進むのは、一頭の龍だ。その背中で振り落とされないように、必死に斎にしがみつく茜が居た。

「ひ、ひゃぁぁぁぁぁ!?」

 ゴォォォと耳元で切る風が、まるで嵐のような音を立てる。髪は強風に煽られボサボサになり、ギュッと閉じた瞳は怖くて開けることが出来ない。

「ちゃんと捕まっていて下さいね。落ちたら死にますから。」

 跨る巨体から響く声は、まるで脅しのように聞こえて背中がゾクリと震える。目の前に座っている斎の腰に、しっかりと回していた手により力を込めた。

「ぐぉっ!」

 茜の力が強過ぎたのか、斎が苦しそうにうめき声を上げた。しかし、今はそれを気にする余裕も無く、震える手で斎の背中にしがみつく力はそのままに、なんでこんな事になったんだと茜は少し前に起きた出来事を思い返す。







 茜と斎が龍一族の国に向かう事が決まり、茜の記憶の事もあってか、直ぐに旦那様が治める島国を出る事になった。茜は幽世にやって来た時に背負っていたリュックに荷物をまとめて斎と共に店を出ると、店を出た先の大通りには旦那様と翠、そして清澄が二人を待っていた。

 龍一族の国には、この旦那様の治める島国からは海を渡って数週間かかると言われている。そんなに時間がかかってしまう道程を、一体どうやって行くのかと身構えていれば、清澄は大通りの真ん中で立ち止まって「少し、私から離れていてください。」と告げてきた。

 清澄の突然の行動に、茜は首を傾げながら見つめる。清澄は大通りの真ん中で、一体何をしようとしているのだろうか。

 暫くして人通りが少なくなると、ボフンッと大きな音が聞こえて周囲は煙に包まれた。

「な、何!?」

 真っ白な煙が視界を覆い、目の前は何も見えなくなる。突然の出来事にパニックになった茜は、咄嗟に隣に居た斎の腕を掴んだ。そんな茜の様子に、斎は少し驚いたような表情をしながらも「落ち着け」と気遣うように声を掛ける。いつも聞いている斎の穏やかな声に、茜は少しずつ平常心を取り戻していった。

 段々と晴れていく煙から、見えてきたのは黒い鱗の肌だった。大蛇のように長い胴体、鋭い爪の生えた足。それは以前、見たことがある光景によく似ている気がする。

 完全に煙が晴れて現れたのは、大通りを塞ぐように立ちはだかる美しい黒龍だった。巨木のような角が生えて、生糸のような鬣《たてがみ》が艶やかに揺れる。全身へ貼り付いた黒い鱗は、太陽の光に反射し煌めく。龍は牙を持つ大きな口を、ニィと開いて得意げに言った。

「さて、斎様、茜様。我ら一族の国へと、参りましょうか。」

 聞き覚えのあるその声に、茜は驚いて「清澄さん!?」と思わずその名を叫んだ。

「はい。実はこちらの姿が、本来の姿でして。」

 大通りを塞ぐように現れた黒龍は、まさかの清澄だった。確かに龍一族というならば、その姿に納得出来る。しかし、先程の人の形をしていた清澄が、一瞬にしてこんなに大きな生き物に変わるとは驚きだ。迫力のある大きな龍の姿に、茜は幽世に来る前に遭遇した雲龍図の龍を自然と思い浮かべた。

「お二人共。私の背に乗って、しっかりと捕まってください。」

「えぇ!?」

 そういえば以前に、龍一族が幽世と現世を繋ぐ門を管理している理由の一つとして、元々は各国々にあった門を管理するのに素速く長距離移動が出来る唯一の妖だからと旦那様から聞いた。けれど、まさか自分が空を飛んでいくなんて、茜は思いもしていなかった。

 動揺しながらも、翠と旦那様に暫しの別れの挨拶をする。その際に旦那様からは、改めて催花と玄天の似顔絵のお礼を言われた。自分の絵を通して、誰かと繋がる事はやはり温かくて心地良い。その温かさは、少し緊張で固まった茜の身体までも解していった。

 目の前の鱗の貼り付いた大きな身体を見上げれば、いつの間か身体を預けるように背中に乗った斎が、茜に向かって「早く乗れよ。」と手を差し伸べる。その差し出された斎の異形の右手を掴み、茜たちはいざ龍一族の国へと飛び去ったのだ。







 そして現在、茜と斎の二人は龍になった清澄の背中に乗り、龍一族の国までの最短ルートを最速で移動している真っ最中だ。

「だけど、無理だってこんなのぉぉぉぉ!」

 清澄に乗る時は斎との距離の近さにとてつもない恥ずかしさを覚えたものの、今ではそんな事を気にする余裕も無く、容赦無く腰に手を回して抱き着いていた。

「無理ぃぃぃぃ!」

 ジェットコースターのように安全ベルトも無い中で、上空を全速力で進むあまりの怖さに、茜は叫ぶ事しか出来ない。ガタガタと震えながら必死に斎の背中にしがみつく茜に、斎は呆れる表情で溜め息を吐いた。

「お前、ちょっと静かにしとけ!」

 恐怖で身を縮める茜に、後ろを振り向いた斎はそう叫ぶ。静かにしとけと言われても、やっぱり怖いものは怖い。普段なら緊張してしまうような近い距離に居る斎に、今ばかりは安心感を覚えた。茜はギュッと強く目を瞑りどうか早く龍一族の国に着いてくれと、斎の背中にしがみつきながら切実に願う。

 そんな茜の様子に、斎は平然と清澄の角に掴まりながら声を掛ける。

「茜、目開けてみろよ。」

「え!?無理だよ!」

 突然そんな事を言い出した斎に、茜は全く理解出来なかった。こんな状況の中で、目を開けろなんて酷いにも程がある。

 それでも斎は怖がる茜を諭すように、穏やかに声を掛けてきた。

「怖くねぇから。」

「…で、でも!」

 そうは言われても、やっぱり恐怖心が上回って渋る茜に、痺れを切らした斎は「いいから、早くしろ。」と腰に回された茜の手を軽くトントンと叩いて目を開けるように促した。

 斎に急かされながらも、茜は恐る恐る瞼を持ち上げる。すると、視界いっぱいに入り込んできた眩しい光に目がクラクラした。目の前には、溶け出した太陽が空一面を茜色に染め上げていた。

 清澄は茜たちの居た島国を離れて、今は海の上を進んでいる途中らしい。太陽の光に反射した水面には光の道筋が出来ていて、キラキラと光り輝く波の上には清澄の巨大な影が落ちていた。

 空も雲も海も同じ光に照らされて、幻想的な黄昏時の世界を作り出している。何の障害物も無く、自然が生み出した美しい情景を、こんな特等席で眺める事が出来るなんてとても贅沢な事だろう。

「凄い…!」

 先程の恐怖心はすっかりと消え去り、少しずつ空の色が変化していくさまを茜は目に焼き付けるように眺めていた。龍の背に乗って全身に風を浴びながら、眼前に広がる壮大な夕焼け。涙が出そうになる程に美しい光景は、きっと今しか見られない特別なものだ。

「だから言ったろ。」

 そう言って後ろを振り返り、茜に視線を寄越した斎は得意げに笑った。斎の澄んだ瞳も茜色の光を閉じ込めて、一層美しく見えた。

 悪戯が成功した時のようなクシャッとした笑顔に、茜は胸が苦しくなった。色んな感情が入り混じって、何故か和傘に二人で入り、催花の花嫁行列を見た時のことを思い出す。じわじわと熱を持つ頬の正体が、茜の中で見え隠れしていた。

 段々と変化していく空は、次第に夜を連れてこようとしていた。その最中に、きらりと輝く一番星を茜は見つける。それは広大な空で砂粒のように小さいけれど、確かな強い光を放っていた。











 清澄の背に乗ってから、どれくらいの時間が経っただろう。海を越えて、山も越えた時にはもう完全に太陽は沈み、辺りはすっかり夜になっていた。真っ暗な闇が広がる地上に、無数の光の群れが幾つか浮かび上がる。清澄いわく、この光の群れが龍一族の治める大きな国の中でも地方に当たる街並みらしい。

 月の光が無い新月の夜でも、星空のように煌めく下界の景色は眩しく感じた。

「あれが、我ら龍一族が暮らす都です。」

 そう言った清澄の声に、斎の背中から前方を覗き込んでみれば、光の筋が蜘蛛の巣のように張り巡らせた巨大な都が広がっている。蠢く光の大群は、まるで海を漂う無数の夜光虫のようだった。

 『都』ということは龍一族の治める国の中心、首都と言ったところだろう。先程見た地方の街並みに比べたら、その光の強烈さに茜は目眩がしそうになる。

 都が近付き、清澄は徐々に高度を下げて地上から少し離れた辺りを飛ぶ。少しずつ見えてきた街並みは、茜たちの居た街では見たことが無いくらいに大きな建物が並び、たくさんの妖たちが出歩いていた。百鬼夜行のように群れを成した妖たちの賑わう声が、上空に居る茜たちの耳にも届く程に騒がしい。

 都の中心には大きな城のような建物が建っていて、もの凄い存在感を放っている。周囲の華やかな街並みとは違い、漆黒に塗られた威圧感のある巨城は、何処か禍々しい雰囲気に包まれていた。

 清澄はその城に視線を向けながら、牙の生えた大きな口を開けて話す。

「あれが、我ら一族の城です。と言っても、全ての一族があの城に居るのではなく、今は現当主様を初めとした龍一族の中でも一部の重要な役割を持つ者たちが居ます。」

「あれが… !」

 清澄の説明を聞きながら、茜は改めて龍一族の城に視線を向けた。漆黒に塗られて闇に溶けてしまいそうな巨城は、清澄が進むたびに段々と近付いてくる。目の前に現れた城は、龍の清澄が余裕で侵入出来るほどに巨大な造りだった。

 その大きさに圧倒されていれば、前に座る斎が静かに息を呑んだ。

「斎は、この城を知っているの?」

「あぁ。小さい頃に、追い出されるまでは此処で少しだけ暮らしていた。」

「…!」

「また此処へ来るとは、思いもしなかったな。」

 その言葉に茜は、以前聞いた斎の過去を思い出す。半妖の斎は龍一族の中で妖とは認められず、一族の中でも煙たがられていて居場所が無かったらしい。そして、斎の母はそんな斎と二人で故郷を離れて、海の向こうの遠い旦那様が治める島国にやって来たのだという。

 茜と出逢った頃、斎は自分の事を『半端者』だと少し寂しげな表情で話していた。一族の中でずっと仲間外れにされてきた孤独が、何百年経った今でも斎の中で消えずにいたのだ。斎にとってこの場所は、過去の嫌な思い出がたくさん存在するのではないか。

 そんな茜の心配とは裏腹に、清澄は上空から目の前の巨城の中に侵入して、広い中庭に降り立った。

「さて、着きましたよ。」

 その声に従って、斎は何の躊躇も無く清澄の背中から飛び降りる。茜もそれに続こうとすれば、無言で斎の異形の右手が差し出された。その手を有り難く受け取って、清澄の背中からポンッと飛び立ち地面へと足をつける。その際、随分と長い間を龍の背中に乗り移動していたせいか、地面に降りた瞬間に少し足元がよろけた。

 しかし、そんな茜を斎は何なく支えてくれる。

「ありがとう。」

「あぁ。」

 こんな少しの出来事が、茜の中では大きく積み重なっていく。斎にしたら些細な事かもしれないが、茜は斎の気遣いが心の底から嬉しくて仕方なかった。
 
 清澄はそんな二人を横目に、ボフンっと白い煙と共に音を立てると、龍の姿は消えて最初に会った時のような人間の姿に戻っていた。

「これを着てください。」

 そう清澄に言われて渡されたのは、二着の羽織りだった。羽織りを手にとって広げると、襟から裾に向かって青色から黒色へとグラデーションに染められている。まるで、海の底を表すような美しく鮮やかな一着だ。

「これは龍の衣《ころも》。私達一族の鬣の毛を使い、妖力を練り込まれて作られた特殊な衣です。もしもの時は、身を守る結界の役割も果たします。」

 清澄の話を聞きながら、茜はそっと龍の衣と呼ばれた羽織りの袖に手を通す。空気のようにふんわりと軽い生地はさらりとした手触りで、とても着心地が良かった。龍の鬣の毛が使われているとのことで唯の糸とは違い、艶かな光沢感がある上品な印象だ。

「これを着ている限り、茜様が他の龍一族にも人間だと知られることは無いでしょう。…念の為、半妖の斎様にも着ていただきます。」

「あぁ、構わねぇよ。」

 斎も茜と同様に、龍の衣をその身に纏う。

 龍の衣を羽織った斎と茜を見て、清澄は少し満足げに頷いた。制服の上から羽織った茜は少し不思議な格好に思えたが、紺色の着流しの上に龍の衣を羽織った斎は涼し気な印象でとても似合っていた。

「では、行きましょうか。」

 そう言って大きな城の中へ歩き出した清澄に、斎と茜は追いかけるように続いた。











 漆黒に塗られた威圧感のある見た目とは裏腹に、城内は何とも簡素な作りだった。襖や天井に華美な装飾などは一切無く、無地の襖と木目のシンプルな天井と床。遊び心の一つも見当たらない城内の雰囲気には、何処か窮屈感を覚える。そして、不思議と茜たちはこの広い城内で誰とも遭遇する事は無かった。

 何段も続く階段を登り、最上階の部屋へと繋がる大きな襖を前にして清澄が足を止める。

「当主様、お連れいたしました。」

「入れ。」

 部屋の中から聞こえて来た声は、年を召された男性のように低く掠れた声だった。その声に、遠慮なく襖を開いた清澄に続いて部屋に足を踏み入れると、室内には長い白髪を背中に流し、頭には立派な角が二本生えた一人の男が居た。見た目の年齢だと六〇から七〇歳くらいに見える男は、清澄や斎の右手と同じように、白い肌の所々に鱗が張り付いている。

 清澄に『当主様』と呼ばれた男は、鋭い金色の瞳で部屋に入って来た茜と斎に対して視線を向けた。そして斎を目にした瞬間、目元の皺を一層深くして瞳を柔らげるように細めた。

「よう来たな、斎。」

 その声は酷く優しさを含んでいて、緊張で肩に入っていた力も無意識に抜けていく。斎は目の前の男を見ると、少し目を見開いてから小さく呟いた。

「…爺ちゃん。」

 斎の発言に茜は驚いて、思わず目の前の男を見た。斎に『爺ちゃん』と呼ばれた男は、口角を上げて微笑みながら斎を見つめている。「大きくなったな。」と何処か懐かしみながら声を掛ける姿は、まさに孫を前にした祖父の姿そのものだった。

「斎のお爺さん…?」

 二人の会話を聞きながら、茜は混乱していた。確か半妖の斎を認めなかったのは、龍一族の当主であったと聞いている。しかし、当主は斎のお爺さんであり、二人のやり取りを見る限りそこまで関係が悪いようには見えなかった。

 心配そうに二人を眺める茜に、清澄が分かりやすく説明をしてくれる。

「以前、斎様を妖だとお認めにならなかった龍一族の当主は、二五〇年前に亡くなりました。そして、龍一族の現当主様は、斎様のお爺様にあたります。」

「…亡くなった?」

「はい。世代交代というやつですね。元々、龍一族は実力主義の風習が強く、一族の血を強く引く事に執着し、妖として強い妖力が求められてきました。それ故に前当主は気性が荒く、半妖の斎様をお認めにならなかったのです。そして、他の龍一族の者たちもそれは同じでした。仮に現当主様でなければ、今この瞬間、人間の茜様にも危害を加えていたかもしれません。」

「えっ!?」

 知らなかった龍一族の気性の荒さに、茜はゾッとする。もし、今の当主が斎のお爺さんでなければ、この龍一族の城内でちゃんと生きているのかも怪しいくらいだ。顔が引き攣る茜に、清澄は苦笑して「九尾様も、そんな龍一族を嫌っていましたがね。」と付け足すように言った。

「しかし、現当主様は斎様の件もあり、国を治める者がそんな事ではいけないと龍一族内を変えようとしました。一族の血筋に囚われた弱さを嫌う狭い思考や、己以外の存在を認められない傲慢さに嫌気が差していたようでした。きっと斎様と、斎の母である美空様のことがよっぽど悲しかったのでしょう。」

 茜は清澄の話を聞いて、現当主が斎と斎の母が去った後で、必死に龍一族を変えようとしていたのだと知った。過去に斎が傷つけられたこの場所を、例えどんなに時間がかかったとしても、また斎が戻って来ても大丈夫なように斎のお爺さんは変えてくれたのではないかと茜は思う。

「そして、二五〇年前にその前当主も亡くなり、一気に龍一族は変わっていきました。今では、現当主様の方針に従う者も多くいます。」

「そうなんですね。」

 今の龍一族の状態を知って、茜は少し安堵した。

 清澄と共に、今だに会話をしている斎と斎のお爺さんを微笑ましげに眺めていれば、不意にまた、頭が霧がかかったようにボーッとしてくる。

 まるで水の中に居るように彼らの話し声は遠ざかり、視界は徐々にぼやけていく。暗く抜け出せない迷路に居るような、とても心細い感覚に襲われた。この瞬間、知らぬ間に自分の中にある現世での記憶が失われていくのだろう。その事に、茜は少なからず恐怖を覚えた。

「…茜様!」

「おい!茜、大丈夫か!?」

 茜の側に居た清澄の声に、当主と話をしていた斎が急いで茜の元に駆け付ける。心配そうに茜を見つめる斎の夜空のように澄んだ瞳に、茜は少しずつ意識を取り戻していった。

「…うん。もう、大丈夫だよ。」

 そう声を掛ければ、斎はホッと安堵したように息を吐く。ぼやけていた視界はクリアになり、正常に戻った頭は何処かスッキリとしていた。きっと茜は幽世に長く留まることで、このように少しずつ記憶を失っていくのだろう。けれど、既に無くしてしまった記憶が、一体どのような記憶なのか茜自身には見当もつかなかった。

 そんな様子を黙って見ていた斎のお爺さんは、改めて茜に向けて口を開く。

「九尾から話は聞いている、茜殿。挨拶が遅れてすまない、私は斎の祖父であり、龍一族の当主をしている雲霄(うんしょう)だ。」

 それに対して少し茜は緊張しながらも、「立原茜です。」と己の名前を告げた。茜の緊張感を感じ取った雲霄は、茜を安心させるように目元の皺を深くして瞳を細める。その優しさは何処か斎と似ていて、茜は少し心が軽くなった。

「今のそなたを見る限り、思ったよりも症状が進んでいるようだ。幽世と現世を繋ぐ門の封印は、ここ数日で殆ど解除した。今直ぐにでも現世へ戻れば、既に失われてしまった記憶も徐々に戻るだろう。」

 雲霄の言葉に、茜は思わず口籠った。確かに先程、頭がボーッとし始めた時に、自分の記憶が失われていくことを少し怖く感じた。けれど、やはり今の茜には幽世に戻れなくなる事の方が恐ろしく感じるのだ。斎と二度と会えなくなってしまうなんて、考えたくもなかった。

「爺ちゃん。その事なんだけど、詳しく聞きたい事があるんだ。」

「何だ?」

 そんな茜に、助け船を出すように斎が声を上げた。

「茜が現世に戻ったとして、また幽世に来ることは出来ねぇのか?幽世と現世を繋ぐ門を封印しなくちゃ、本当に駄目なのかよ?」

 真剣な表情で話をする斎に続くように、茜も雲霄に向かって口を開いた。

「私、現世に戻りたくないです。現世での記憶が無くなったとしても、幽世に二度と戻れなくなるのなら、このまま此処に居たいです。」

 今の感情をしっかりと伝えた茜に、雲霄は金色の瞳を向けた。表情を決して崩さない姿は、一体何を考えているのか全く分からない。

「そもそも、何で門は封印されたんだよ?昔は各国々に幽世と現世を繋ぐ門が存在したって、九尾の旦那様から聞いた。それに茜が幽世に来ることになった雲龍図の絵だって、分からない事ばかりなんだ。」

「……」

「何か知っている事があるなら、教えてくれ。頼む、爺ちゃん。」

 黙ったまま斎の言い分を聞いている雲霄に、斎は頭を下げた。そんな斎に合わせて、茜も慌てて頭を下げる。二人を静かに見つめていた雲霄は、何処か懐かしむように瞳を細めると強くその目を閉じた。暫くして、何か決意をするように金色の瞳を再び開くと、重く閉じていた口で話し始めた。

「頭を上げよ。そんな事しなくても、可愛い孫の為なら何でも話そう。」

 斎を見つめる雲霄の瞳は、少し切なさを含んでいた。その様子を見守っていた清澄も、何かを堪えるような表情をしている。

「斎には随分と苦労をかけたからな、全てを知る権利がある。」

「全てを知る権利…?」

 雲霄の言葉に、斎は不思議そうに眉を寄せた。全てを知るとは、一体どうゆう事なのだろうか。茜も斎の隣で、静かに雲霄の言葉を待った。

「昔は幽世と現世を繋ぐ門が各国々に存在し、その全てを龍一族が管理していたとは知っているな。」

「あぁ。」

「私の娘、美空。お前の母も、その役目を背負っていた。この国から海を渡って、遠く離れた九尾の治める島国、その国にある門を美空が管理していたのだ。」

「…そうだったのか。」

 斎も初めて知った事実に、少し納得したように呟いた。そんな斎の様子を見ながら、雲霄は話を続ける。

「そして、ある日。その国にある門を通って、幽世へと迷い込んだ人間の男が現れた。そいつがお前の父親、幽山(ゆうざん)だ。」

「…俺の父さん?」

 雲霄から語られた言葉に、斎は大きく目を見開いた。その横で、茜も密かに息を呑む。これまで斎の母の話は薄っすらと聞いた事があるけれど、不思議と斎の父の話は誰からも聞いた事が無かった。今のところ、半妖である斎の父は人間だという事しか茜は知らない。

 そして、茜と同じように驚いている斎の反応を見る限り、斎も自分の父親の事をよく知らないように思えた。もしかしたら、斎は半妖だという事で妖だと認められずにいたので、龍一族内では斎の父について語られる事をタブーとされていたのかもしれない。

「ちょっと、待ってくれ。今まで一度も父さんの話なんて聞いた事も無かったけど、何でこの話しの流れで俺の父さんが出てくるんだよ?」

「…お前の知りたい事は全て、お前の両親に関係があるのだ。」

 その一言に、斎も茜も大きく目を見開いて驚いた。茜が幽世にやって来る事になった理由に、斎の両親がどう関係しているというのだろうか。動揺が走る室内で、今まで成り行きを見守っていた清澄が雲霄に向かって口を開く。

「当主様。申し遅れましたが、九尾様より補足の言葉です。茜様を呑み込んだ雲龍図は、幽山様の絵で間違いはないかと。茜様が幽世にやって来た当初、幽山様の気配を纏っていたとおっしゃっていました。」

「…やはりな。」

 静かに進んで行く二人の会話に、斎と茜は再び混乱に落とされた。混乱する頭で、清澄の言葉をなんとか理解する。話を聞くに、どうやら茜が呑み込まれた寺の雲龍図を描いたのは斎の父らしい。

 記憶を辿るように、意識して当時の事を思い返す。幽世にやって来る前、とても絵とは思えない本物の龍の姿に茜は恐怖した。確か、寺の案内人のおばさんは、そんな雲龍図を約四〇〇年前に描かれたものだと説明していた気がする。

 とんでもない事実に、もう何がなんだか分からなくなりそうだった。

「おい!それって、どうゆう事なんだ?何で俺の父さんの気配を、茜から感じるんだよ?」

 斎も驚きを隠せないようで、雲霄に向けて疑問をぶつけるように声を上げた。それに対して雲霄は、「少し落ち着け、今から話す。」と至極冷静に返す。

「…幽世に迷い込んだ人間、幽山を、美空は己の業務に則り、現世へと戻そうとした。しかし、困った事に幽山はそんな美空を見初めてしまい、現世へと戻る事を酷く嫌がったそうだ。何度幽山に冷たく接しても、奴はめげずに美空へと気持ちを伝え続けたらしい。そして、いつの間にか美空もそんな幽山に特別な気持ちを持つようになった。」

 雲霄の口から、斎の両親の出逢いが語られていく。幽世の世界で出逢って惹かれていく二人に、茜はなんだか他人事に思えないような気がした。

「幽山は、腕の良い絵師でな。」

「…絵師?」

「あぁ。お前と同じように、絵を描く事を生き甲斐にしているような男だった。幽山は初めて見る幽世に深く影響されて、この世界でも多くの絵を描いたのだ。その絵に魅了された妖たちは、徐々に人間の幽山を受け入れていった。そして美空も、幽山の描く絵を大層気に入っていた。」

 斎は自分の父が絵師だと知った瞬間、夜空のように澄んだ瞳を輝かせた。雲霄が語る斎の父は、まるで今の斎のように絵を描いて多くの者を魅了していたらしい。その事実がなんだか嬉しくて、茜は自然と口角が上がる。斎の絵の才能は、絵師だった父親からの贈り物でもあるのかもしれない。

「美空はそんな幽山を現世へと帰さなければならない立場だったが、幽山を想う気持ちをどうしても消す事が出来ず、二人は密かに共に生きる道を選んだのだ。その当初、幽山は幽世に長く留まり過ぎて既に現世での記憶が曖昧になっていたが、それを覚悟で幽世に残った。そして月日は流れ、美空は幽山の子を身籠った。斎、それがお前だ。」

 雲霄はそう言うと、斎を真っ直ぐに見つめた。斎を通して、斎の両親に思いを馳せるような雲霄の切なげな表情に胸を締め付けられる。そんな力強い視線を受けながらも、斎は目を見開いて呆然としていた。その様子は斎自身、初めて聞く事柄に酷く驚いているように見える。

 人間と妖、種族の異なる二人の愛によって斎は産まれてきたのだ。

「美空がお前を身籠ってから、私はその事実を知った。当時の龍一族では龍一族以外の結婚は許されておらず、相手が人間という事もあり、この件は何としても隠し通さなければならなかった。」

 そう語る雲霄に、茜は先程清澄から聞いた龍一族の話を思い出す。一族の血筋に囚われ気性の荒い龍一族の前当主から、二人を、そして当時お腹に居た斎を守る為にも、雲霄はこの事を必死に隠そうと決意したのだろう。

「しかし、それから暫くして、他の龍一族の者が美空を訪ねて島国に来た時に二人の事が発覚してしまったのだ。直ぐさま他の龍一族の者によって、二人は引き裂かれた。抵抗した幽山は強制的に現世へと帰されて、二人の事を知った当時の龍一族の当主は激高し、幽世と現世を繋ぐ全ての門を封印したのだ。それ以来、二度と二人は会う事は無かった。」

「…そんなっ!酷い!」

 悲しい結末を迎えた二人に、思わず声を上げる。雲霄より語られた斎の両親の話は、茜にとってあまりにもショックだった。本来ならば出逢う事も無かった二人が、種族の垣根を越えて共に生きようと誓ったのにこんな終わりはあんまりだと思った。

 龍一族の前当主へのやり場のない怒りを、茜は上手く消化することが出来ない。お腹の中に居た斎と共に残された斎の母の事、そしてきっと斎に会いたいと思っていただろう斎の父の事を考えると、とてもやり切れない思いだった。

「…まさか、その時から門は封印されているのか!?」

「そうだ。けれど元々、幽世と現世を繋ぐ門には問題もあった。…この際、お前たちには酷だと思うが、言わない方が酷なので全て話す。幽世から現世へ戻ると、現世に居た頃の記憶は徐々に戻るが、反対に幽世に居た頃の記憶は消えていってしまうのだ。そのまた逆も、しかり。これは、双方の世界の性質上、どうにもならない事でもある。」

「嘘っ…!」

 雲霄の言葉に、茜は再び深い絶望に落とされる。ならば、尚更現世へと戻りたくない。幽世での記憶を失ってしまうくらいなら、二度と現世に戻れなくても良いと茜は本気で思った。それほどに、この世界で過ごした日々は、茜にとって本当に特別なものだったからだ。いつか、斎の事を忘れてしまうかもしれないなんて絶対に嫌だ。

 暗い表情で俯いた茜を一瞥してから、雲霄は話を続ける。

「…当時は幽山のように現世から幽世へと迷い込んでしまう人間も多く、その大体は妖に食われたり、彷徨っているうちに現世の記憶を無くして戻れなくなる者も居た。その逆に、現世に行ったっきり幽世の記憶を無し、現世で好き放題に暴れ回っている妖も多く居た。この門があるが故に、双方の世界の秩序が乱れていたのだ。」

 考えた事も無かったけれど、二つの異なる世界を繋ぐというのは、確かにデメリットや大変な面があるのだろう。

「そして、古の頃より門を管理してきた我ら龍一族にも問題があった。龍一族は元より、子を産むのが難しい種族でもある。しかし、年々その数は減っていってな。各国々に存在する全ての門を管理できる程、龍一族の数が居ないのだ。」

 以前、龍一族の出生率の低さは斎から聞いていた。そして雲霄の話を聞くに、この龍一族の城へやって来てから、茜たちは他の龍一族に殆ど遭遇していない事にも納得がいった。

「それに、これを見よ。」

 そう言うと雲霄は、着ていた着物の合せをガバッと勢い良く開けて、隠れていた上半身を露わにした。

「これはっ!?」

 そこには雲霄の肌を覆うように、どす黒い色をした痣が蛇のように身体に巻き付いていた。痣の周辺の肌は焦げたように爛れていて、まるで呪いのような痣は見ていてとても痛々しい。

 雲霄は己の肌を見て、情けないように嘲笑った。

「今回、茜殿を現世に帰すべく、一時的に門の封印を解除しただけでこの様だ。我ら一族は、数だけでなく力も年々失われていっている。私が龍一族の在り方を変えてしまったからか、一族としての力は年々衰えている一方だ。そして、ようやく気付いた。かつての前当主のような、血筋に囚われた強い妖力重視の思考がこれまで龍一族を繁栄させていたのだと。もう、我らには古の頃より任された役目さえ果たせぬのだ。」

 斎の件があって、血筋を重視した強い妖力を尊重する龍一族の生き方を必死に変えようとした雲霄。けれど、それを変えた代償はあまりにも大きかった。龍一族全体の妖力の低下に伴り、元より低くかった出生率もより一層低くなった。そして現在、幽世と現世を繋ぐ門を管理する事さえも、難しい状況になってしまったのだ。

 生きやすさを求める事はある意味、生物としての強さを捨てることなのかもしれない。それは一種の、世界の理のようにも感じた。

「確かに、門を封印したのは前当主の勝手な怒りがあったかもしれん。だが、そうせざる負えない理由もあった。そして、私がそれを加速させてしまったのだ。申し訳ないがそれらの理由により、茜殿を現世に帰してから再び門の封印を解くことは出来ぬ。」

「…っ!」

 低く掠れた声が、重く茜にのしかかる。雲霄の話しを聞いて、それでも現世に戻りたくないなどと我儘を言える程、茜の神経は図太くは無かった。雲霄は茜を現世に戻す為に、身体に無理をしてまでも門の封印を一時的に解除してくれたのだ。その気持ちをとても無駄には出来ない。

 けれど、現世に戻ってしまえば、斎にはもう会えないだろう。茜の帰りを待っていてくれる翠にも旦那様にも、絵を描いて繋がった妖たちにも二度と会う事は出来ないのだ。そして、その温かな記憶さえもいずれは失われてしまう。それは、あまりにも悲しくて、心が張り裂けそうに痛かった。

「門の封印を解くことは、難しいっていう理由は分かった。…だが、茜が門を通らずに幽世に来れた理由は何なんだ?俺の父さんが描いたっていう、雲龍図が原因なのか?」

 斎の指摘に、雲霄は再び口を開く。

「…此処からは、先程清澄が言っていた九尾の話を含めて考えたあくまでも私の憶測の話だ。」

「憶測?」

「あぁ、この話を確証するものは無い。」

 きっぱりとそう言い切ったのにも関わらず、何処か自信ありげに話す雲霄に、斎も茜も首を傾げる。ずっと、気になっていたあの雲龍図の正体が今明かされようとしていた。

「龍一族により幽世から現世へ戻された幽山は、徐々に幽世に居た頃の記憶を失い、現世で元の絵師としての生活に戻ったのだろう。凄まじい画力を持った絵師だったからな、それなりに依頼もこなしていたはずた。その一つが、茜殿が拝観したという雲龍図の依頼だったのだろう。」

「幽山は幽世から追い出される際、美空の鬣で編まれた龍の衣を羽織っていた。今そなたらが、羽織っているようにな。…龍の衣は、妖力が込められた特殊な衣だ。幽山が何を考えたのか知らないが、おそらく奴はその衣を解き、美空の鬣を絵の具に混ぜたのだと思われる。」

 話に出て来た『龍の衣』という単語に、茜は思わず自身が羽織っていた龍の衣をまじまじと見る。清澄に渡されたそれは、ふんわりと空気のように軽くて光沢感のある不思議な素材だった。

「絵の具に?何故そんな事を…?」

「さぁな。ただ、そう考えなければ辻褄が合わんのだ。思えば、奴のする事は昔から奇想天外な事ばかりだった。」

 そう、呆れたように話す雲霄の口角は緩く上がっていた。その様子に会った事も無い斎の父を、妙に近い存在に感じた。

「ともかく幽山は、美空の鬣が混ぜられた絵の具を使い、長い間一頭の龍に向き合って魂を注いだのだ。幽山の魂を込めた絵は美空の妖力が宿り、何百年の時を経て本物の妖となったのだ。そしてちょうど、その雲龍図が妖となった瞬間に立ち合った人間が茜殿だ。」

「えっ!?私ですか?」

 雲龍図の正体を聞き、突然呼ばれた自分の名前に茜は弾けるように顔を上げた。

「左様。妖となった龍は、絵の具に混ぜられた僅かな美空の妖力を辿り、幽世の斎の元へと飛んだのだろう。きっと、それに茜殿は巻き込まれたのだ。」

 あくまでも憶測だという雲霄の話を聞きながらも、我ながら、なんて凄いタイミングであの雲龍図を拝観したものだと茜は舌を巻いた。

 そんな偶然があり得るのかと斎は、とても信じられないというように眉を顰めている。

「…飛ぶ?」

「あぁ。これは龍一族に伝わる古い言い伝えで、妖力の高き龍は身体一つで異なる世を飛び越える事が出来るという話がある。…そうゆう事もあり、元々の龍一族は強い妖力や血筋をあれ程までに重視していたのかもしれないな。」

 そう話した雲霄は自分の行ってしまった事を、少し責めるように顔を歪ませた。その古い言い伝えが本当だとするならば、斎の父は絵を通してとんでもない妖をこの世に産み出した事になる。

「俄かに信じ難いが、幽山は我ら龍一族を超えるほどに強い妖力を持った妖を、何百年という時を越えて産み出したのだ。本当に奴の絵は、人智を越えたものだろう。」

 明かされた雲龍図の正体に、茜は身体中が震えた。人間である事を理由に幽世を追い出されて、記憶さえも失った斎の父が長い時を経て妖を産み出した。そして、その妖が茜を半妖の斎の元へと繋いだのだ。斎は実の父のように、絵師となって己にしか描けない唯一無二の作品を産み出し続けている。たくさんの事柄が繋がって、今になっている。茜は、その事を強く実感した。

「まるで嘘のような話だが、雲龍図に呑まれて斎の絵から出てきた茜殿がこの幽世に居る。その事が答えなのだろう。」

 幽世から追い出されてしまった幽山の、それからの事は誰も知らない。けれど、茜から不思議な雲龍図の話を聞いた妖たちは、皆きっとその雲龍図は彼が描いた絵だと信じているのだ。そして、茜も今語られた話を全て信じたいと思った。

「…つまり、龍一族の奴らを越える程の強い妖力を持った妖を俺が産み出せれば、全て話は丸く治まるって事だよな?」

「えっ!?」

 これまで静かに話を聞いていた斎は、顎に異形の右手を添えて、今までの考えを吐き出すように呟いた。突然の斎の発言に、驚いて思わず茜は視線を向ける。

「俺が、幽世と現世を飛び越えられる龍を描けば、現世に戻った茜にもまた会えるって事だろ。」

「…幽山のした事を考えれば、それも不可能ではない。ただ、茜殿が現世に戻れぬ状態で此処に留まっているという事は、幽山の描いた龍は一時的にその力を使えたという事だ。つまり、何度も二つの世界を移動出来る程に万能な者ではない。その意味が分かるな?」

「あぁ、俺は父さんの絵を越える龍を描く。」

 何の迷いもなくそう言い切った斎に、茜は胸が熱くなる。強い意志を宿した澄んだ瞳には、一点の曇りも浮かんでいなかった。まさに、もう既に斎は一つの覚悟を決めていたのだろう。その瞳を見た雲霄は、緩く口角を上げる。

「まぁ、これで私から伝えるべき事は全て伝えた。これからどうすべきかは、二人で話して決めるが良い。」

 そう言って、雲霄と清澄は二人を残して部屋を後にした。






 雲霄と清澄が去った部屋で、少しの沈黙が訪れた。暫くしてから、茜は斎に視線を向けると、斎もまた茜に視線を向けていた。もう幽世に来てから、その瞳を何度見つめた事だろうか、斎の真っ直ぐな眼差しを受けるたびに茜は酷く切ない気持ちなった。

「茜、お前は現世に帰れ。」

 斎が言った言葉は、ストンと茜の胸に落ちた。何処か突き放されたようにも感じる言葉なのに、茜は全然悲しみを感じなかった。茜を見つめる斎の表情が、あんまりにも穏やかなものだったからだ。

「…うん。帰るよ。」

 あれだけ現世に戻る事に恐怖を感じていた筈なのに、気付けば自然と斎に告げていた。確かに、現世に戻る事に対して不安はある。今だに茜の頭に記憶されている現世での思い出は、どれもあまり良いものでは無く、強い孤独を感じるものだった。幽世に来る前は一人きりでも平気だったのに、幽世に来てから様々な妖たちと出逢い、そして何より斎と出逢ってしまってから茜は随分と弱くなったらしい。一人ぼっちで、学校生活を送っていける自信は全く無かった。

 それでも、帰るという選択を決めたのは、何より茜が斎を信じていたからだ。父の絵を越える絵を描くと言い切った斎を、誰よりも茜は信じたかった。そして、斎が魂を込めて描いたその絵を、茜は誰よりも楽しみに思ったのだ。斎の描いた龍に、逢ってみたい。きっとそれは美しくて繊細でいながら、一つ芯が通った強さを持つ斎の魂そのものの姿だと思う。

「例え、お前が幽世での記憶を忘れていたとしても、俺は必ず逢いに行く。…だから、待ってろ。」

「うん!私も絵を描きながら、斎を待ってるね。」

 斎の言葉に何度も頷きながら、茜はそう言って笑った。その約束があれば、きっと茜は現世に戻っても大丈夫だと自分自身を信じた。

 そして不意に、茜は幽世に来る前に見た雲龍図を思い出す。寺の法堂の天井を住処とし、鱗の張り付いた長い胴体を捻られて、水晶のような瞳をギョロつかせていた龍の姿を。そして、鋭い牙の生えたその口は、茜に対して何やら言葉を発していた気がする。

「…幽山。」

 龍を見た恐怖や衝撃により、全ての内容は思い出す事は出来ないが、あの龍は斎の父の名前を確かに呼んでいた。やはり、雲霄や旦那様が言っていたようにあの雲龍図は幽山が描いたのだ。

「斎。」

「ん?」

「斎のお父さんは、きっと斎の事も斎のお母さんの事も心では覚えていたんだと思うよ。」

 茜はあの雲龍図を事を考えなから、そう言葉を話す。そんな茜を斎は、少し驚いたような表情で見つめていた。

「きっと、斎と斎のお母さんの事を心配して、描いた龍を幽世まで飛ばしてくれたんだよ。」

 それは唯一、その雲龍図に遭遇した茜だからこそ感じた事だった。突然の事に恐怖や衝撃はあったけれど、龍からは敵意のようなものは全く感じなかった。それに龍の大きな口に呑み込まれた時、穏やかな龍の切実な願いのようなものを確かに茜は感じ取っていた気がするのだ。

 茜の言葉に静かに瞼を閉じた斎は、何か想いを受け取ったように「…そうかもな。」と言って笑った。

 そんな斎の姿に、茜は凄く報われたような気持ちになった。何年、何百年と経っても、絵に描いた想いはちゃんと形になって残せるのだ。そして、その想いは届くべき者の所へと真っ直ぐに向かっていく。それは、なんて素敵な想いの贈り物だろうか。

「だから私も、現世に戻っても、きっと斎の事を覚えている。」

 心に刻まれた想いは、決して失う事などないのだと茜は思う。かつて斎の父がそうだったように、きっと茜も幽世で得た経験はずっと心の何処かに存在している筈だ。

「なぁ、茜。」

「…っ!?」

 斎に呼ばれて顔を上げた瞬間、茜の全身を温かな温もりが包んだ。突然の事に、頭が上手く回らない。鼻をかすめる仄かな斎の陽だまりのような匂いと、伝わってくる鼓動に茜は酷く動揺した。

 一体、何が起こっているのだろう。自分の身に起きている事が理解出来なくて、ひたすらに焦っていれば、不意に斎が静かに口を開いた。

「ありがとう。お前に、出逢えて良かった。」

 そっと耳元で告げれた言葉に、鼻の奥がツーンとして一瞬で目の前が歪んだ。それを誤魔化すように、茜はぎゅっと瞳を瞑る。

「私の方こそ、ありがとう。」

 そう言って、恐る恐る斎の背中に両手を回せば、斎はそれに答えるように茜を強く抱きしめた。茜の頬を、斎の艶やかな髪が撫でる。少しずつ緊張が解れて、いつの間にか茜は斎のくれる体温に身を預けていた。トクトクと、重なった二つの鼓動が信じられない程に心地良い。

 どれくらい、そのままで居ただろうか。それは数分にも満たない触れ合いにも、随分と長い間抱きしめ合っていたようにも感じた。

 暫くして、感じる温もりを惜しみながらも二人の身体は離される。その際にかち合ったお互いの視線が気恥ずかしくて、斎は照れたようにそっぽ向いた。その様子が、なんだか可愛らしくて茜は思わず笑う。そんな茜に口をムッとさせながらも、斎は仕方ないように溜め息を吐いた。

 そして、茜の両肩を掴んだまま、斎は一つ提案するように言った。

「なぁ、現世に戻る前に絵を描かねぇか?」

 その提案に茜は目を輝かせて、強く頷いた。

「…うん!描きたい!」

 それから、二人の行動は早かった。雲霄に許可を取り、城内にある画材をかき集めると、直ぐに絵の制作に取り掛かった。というのも、斎があまりにも簡素な城内の襖や天井に落書きをし始めたのだ。その異形の右手で絵筆を取った斎は、真っ白な襖に向かってまるで幼子のように好きな絵を描きまくった。

 そんな斎に茜はギョッとして目を見張れば、その様子を見ていた雲霄は酷く懐かしむように目を細めていた。そして、心配そうに様子を伺っていた茜にも、「構わん、好きにやれ。」と心底愉快そうに笑う。

 その声に背中を押されるように、茜は恐る恐る斎を真似るように絵筆で大きなキャンバスのような襖に色を乗せた。一度色を付けてしまえば、もう何も迷う事はない。茜は襖の余白を埋めるように、大胆に絵を描いていく。

 幽世で出逢った様々な妖たちを、一人ずつ思い出しながら絵筆を動かす。狐の翠に、九尾の旦那様。傘職人の唐々に、画材屋の三毛猫に爺さん猫。似顔絵を描かせてくれた河童や、催花と玄天の夫婦。龍一族の清澄に、斎のお爺さんでもある雲霄。そして、半妖の絵師として唯一無二の絵を描く斎。

 気付けば、茜が向き合っている襖には百鬼夜行のようにたくさんの妖たちで溢れていた。以前、斎と似顔絵の屋台をやって培われた画力のおかげか、妖一人、一人の特徴をしっかりと掴んでいて、襖の中で自由に過ごす妖たちを自分で描いたのにも関わらず、なんとも愉快な絵だと茜は微笑んだ。

 そんな茜の元へと、何処からか一匹の錦鯉が泳いでくる。白に朱色が混ざった美しい錦鯉は、最初に幽世の世界に来た時に斎の部屋で見たものと良く似ていて、懐かしさが込み上げてくる。錦鯉はあの時のように茜の周りを一周すると、水の無い部屋の中を優雅に泳いでいった。

 斎を見れば、ちょうど真っ白な襖に朱色の錦鯉を描き終えたようだった。異形の右手に持った絵筆で錦鯉を優しく撫でると、一雫の水滴が落ちた水面のように襖が揺れる。次第に錦鯉からは淡い光が溢れ、あっという間に錦鯉は襖の中から飛び出した。

 何から解き放たれるように尾鰭を靡かせて、自由に泳ぎゆく姿に強く胸を打たれる。部屋の中をくるくると回る二匹の美しい錦鯉の姿は、とても幻想的なものだ。

 錦鯉から斎に視線を向ければ、斎の瞳は茜へと向いていた。夜空のように澄んだ瞳に、茜の胸は切なく締め付けられる。斎の描く絵に魅了されて、彼に憧れた気持ちは、共に時間を過ごすうちに少しずつ形を変えていった。胸の内にある、溢れ出てしまいそうな苦しさを今にでも吐き出してしまいたくなる。

 目の前の斎に向かって、素直に好きだと言ってしまいたくなる。それをなんとか押し込んで、茜は斎に笑った。

 それから二人は特に題材を決めることもなく、共に絵筆をとって一つの絵を描いた。襖に浮かび上がった茜色と藍色を混ぜて描かれた景色は、清澄の背中で共に見た夕焼け空のように美しい。かけがえのない時間だった。その時間はあまりにも楽しくて、いつか終わりが来てしまう事に強烈な寂しさを茜に与える。それでも、今までの思い出やこの場所で芽生えた感情をぶつけるように思いっ切り絵を描いた。たくさん、たくさん絵を描いて、茜は斎と別れの挨拶をしたのだ。

 絵を描き終えた二人は、雲霄に連れられて城の地下まで移動する。どうやら、幽世と現世を繋ぐ門はこの城の地下に存在しているらしい。

 一つの襖の先に延々と続く階段をひたすらに降りて、薄暗い迷路のような回廊を進んだ先に、家一軒入ってしまいそうな程に巨大な門が現れた。これが何度も話に聞いた、幽世と現世の二つの世界を繋ぐ門なのだろう。

 雲霄がその門に触れると、扉が徐々に空間を震わせながら開かれていく。開かれたその先は、眩しい光が溢れ出していて何も見えない。真っ白な空間に、茜は少しだけ怖気付いた。

 心許ない茜の様子に、雲霄は安心させるように「この先は、現世へと繋がっている。元に居た場所に戻るだけだ。何も案ずることはない。」と告げた。その言葉に頷いて、茜は少しずつ門の前へと足を進める。

「さらばだ、茜殿。」と一言告げる雲霄に、「いずれ、また会える事を願っています。」と清澄も茜に向かって別れを言った。二人の別れを受け取りながら、最後に斎を見つめる。

「茜、またな。」

「うん、またね。」

 その言葉に涙が溢れそうになったのを必死に耐えて、茜は笑顔で返事をした。楽しかった時間も、いつかは終わりが来てしまう。再び会う時まで、暫しのお別れだ。そして次第に記憶が鮮明さを無くして、いつかは消えてしまったとしても、この胸に走る痛みを忘れる事はきっと出来ないだろう。そうならば、良い。

 茜は覚悟を決めて、光の中へと足を踏み入れた。












「…茜!」

 ぼやける視界の中で誰が、自分の名前を呼んでいる。とても強く感情の乗った声は少し騒がしくて、混沌とする茜の意識を引き上げるようだった。

「…茜!しっかりしなさい!」

 喝を入れるように聞こえた声に、ハッと目を覚ます。すると、真っ白な天井と一人の女性が茜の視界に入った。女性は目を覚ました茜を見て、「あぁっ…!良かった!気が付いたのね!」と心底安心したように胸を撫で下ろした。

 そうしたのも束の間、女性は慌ただしくベッドの横にあるボタンを押したり、スマホを使って何処かへ連絡したりと忙しなく動き出した。そして直ぐに茜の元へと視線を戻して、泣き出してしまいそうな程に顔を歪める。

「修学旅行先で茜が行方不明になったって、先生から連絡貰って…本当に、どうしようかと…」

 そう吐き出した女性の両手が震えていて、とても儚く思えた。茜は目の前の女性に困惑しながらも、頭の中を整理する。確かにあの時、茜は幽世と現世を繋ぐ門を通った筈だ。そして気付いたら、このベッドの上で寝ていた。少し観察するように部屋の中を見渡せば、天井も壁も真っ白で何処か消毒のような匂いが漂うそこは病室のようだった。

「でも、本当に無事で良かった…!」

 女性はそう言うと、今だに混乱の渦中にあった茜をベッドの上で抱きしめる。それを戸惑いながらも、茜は黙って受け入れる事しか出来ない。女性の温かな温もりが、茜に移るように伝わって自然と肩の力が抜けた。

 幽世で斎に抱きしめられた時とは違い、何処か懐かしいその包容を茜は知っていた。

「…お母さん?」

 ふと溢れた言葉に、茜は自分で驚く。雷に撃たれたような衝撃が走り、「どうかした?気分でも悪い?」と抱きしめていた身体を離して、茜を伺ってくる女性を呆然とした顔で見つめる。

 何故、今まで忘れていたのだろう。

 自分に良く似た顔立ち、そして茜の事を誰よりも心配してくれている女性は茜の母親だった。消えていた記憶が徐々に戻っていくように、頭の中が再び混乱する。斎に両親が居たように、茜にも大切な両親が居る。その記憶をすっかり無くしていた事が、酷く悲しかった。

 幽世に居た時、現世に戻れなくても良いと思っていた。現世の事を思い返した時に、悲しくて寂しい記憶しか思い出せなかった。嫌な記憶だけが強く残り、本当に大事な記憶は手からすり抜けてゆくように儚くて、自分自身意識してないと気付けない。

 以前は斎に会えなくなるくらいならば、現世を捨てる覚悟さえあったにも関わらず、ずっと忘れていた温もりに酷く安心する。こんな温かな存在を忘れてしまうなんて、自分はなんて薄情者だろう。閉じた瞳から溢れ出た涙に、茜はこの選択が間違いではなかったのだと知った。

 母の前で散々泣いた後、茜は今の自分の状況について説明を受けた。茜はあの寺の雲龍図を拝観している最中に、突然姿を消したらしい。案内人のおばさんは隣に居た茜がいつの間にか消えていた事に気付いて、暫く寺の中を探してくれたようだが茜は何処にもおらず、ついに姿を見付ける事が出来なかったようだ。

 心配した案内人のおばさんは、茜の着ていた制服を調べて学校へと連絡を入れてくれたらしく、その連絡を受けた学校が茜の担任の先生へ連絡し、担任の先生も茜が居なくなった寺を探してくれたみたいだ。それから茜は三日間見つからず、修学旅行も終了して他の生徒たちは皆学校へと戻っているらしい。

 そして、大人たちが茜を探して三日後。茜はあの寺の法堂、雲龍図の真下で倒れていたらしい。何度も探した筈の場所に突然現れた茜に、寺の案内人のおばさんは驚いて慌てふためき、急いでまた学校へと連絡を入れたようだ。当時意識の無かった茜は、そのまま近くの病院に運び込まれて今に至るらしい。

「変な羽織着て、髪も短くなって…!本当に何があったの!?」

「髪…?」

 母の言葉にふと視線を自分の髪に向ければ、以前よりも少し短くなった毛先が茜の視界で揺れていた。そういえば、別れの間際に茜は斎が逢いに来てくれる事を信じて己の髪を託したのだ。斎の父親が雲龍図を描く絵の具に、何故か斎の母親の鬣を混ぜたように。そして、その鬣に宿った妖力が斎に繋がったように。人間の茜に妖力は無いけれど、何故か茜はそうしたいと思ったのだ。

 母親の疑問には、上手く答えらず口籠る。機から見れば重いと思われるような行為だけど、これは茜とって願懸けのようなものでもあった。いつか、斎にまた再会出来るようにと願いを込めて…




 





 あれから月日が流れて、茜は高校三年生になり卒業式を間近に控えていた。

 現在、茜たち三年生は自由登校となり、今日は美術部の活動も無いけれど、茜は何となく絵が描きたくて放課後の美術室へと向かっている。

 すっかりと行き慣れた美術室に足を運び、イーゼルに立て掛けたキャンバスに色を塗る。絵の具が付かないように制服の袖を捲りあげて、目の前の絵に茜は集中した。

 幽霊部員が多く、実質茜一人で活動していた美術部にも、茜が三年生なったタイミングで新入部員が三人も入部した。一気に賑やかになった部活動の時間は楽しくて、絵を描くことに今まで以上にやり甲斐を感じる一年だったなと茜は絵を描きながら改めて振り返る。

 そして、日々の努力の賜物か、秋頃に開催された絵のコンクールでは茜の絵は見事に金賞を受賞した。生まれて初めて色んな人に、自分の絵が認められる嬉しさを味わったのだ。しかし、その時初めて知るはずの喜びに茜は何処か既視感を覚えた。

 その不思議な既視感は、茜が高校二年生の修学旅行を終えたあたりから幾度か感じ始めた。絵を描いている時や、部員とたわいない事を話している時。文化祭で美術部から似顔絵を出店した時や、学校からの帰り道に夕焼け空を眺めた時。

 ふとした瞬間に、訪れる何処か懐かしさを含んだ切ない感情に包まれる。理由は分からないけれど、もう一度何処かへと戻りたくなるような、誰かに会いたくなるような様々な感情が時折痛みとなって茜を襲うのだ。
 
 それが一体何なのかは分からないけど、その事を思い出しては茜は何故だか無性に泣きたくなる。

 曖昧なそれをグッと飲み込むように胸のうちに戻して、茜は再び目の前の絵を描く事に集中した。暫くして、色んな事を思い返しながらも、無事に描き終えた絵を見て茜は満足気に頷く。絵筆を置いて、グッと背伸びをした。

 油絵の具の独特な匂いが籠もる美術室の窓を、換気するように開ける。窓の外には、春を待つように枝の先に蕾を付けた桜の木が立っていた。春が来ればこの校舎を出て、茜はこれから先の次のステージへと向かうのだ。窮屈に感じた学校生活も、終わり際には様々な感情が蘇る。

 少し気分でも変えようと、茜は油絵の具の匂いが漂う美術室から屋上へと向かった。

 階段を上り屋上へ続く扉を開ければ、まだ冷たい春風が茜の前髪をさらりと持ち上げる。そんな新鮮な空気を、思いっ切り吸い込んで吐き出す。

 放課後を迎えた現在、グラウンドで部活動に励む生徒たちの声が遠くから聞こえる。太陽が傾き、空が茜色に染まっていく様子をただただ眺めながら、茜は屋上で一人黄昏れていた。

 すると突如、春一番とでもいうような、凄まじい突風が茜を襲った。ゴォォォと、まるで嵐のような音を立てて吹く風は茜の視界奪う。髪や制服を乱されながらも、必死に突風が過ぎ去るのを待った。

「茜!」

「…っ、」

 そんな中で、呼ばれた名前にハッとする。何処かで聞いた事があるような低くて穏やかな声は、突風の中でも真っ直ぐに茜の耳に届いた。

 少ししてから突風が止み、閉じていた瞼を開けると、茜の目の前には巨大な二頭の龍が居た。

「え、えぇっ!?」

 突然の事に、目を見開いて驚く。それは、いつかの修学旅行で見た雲龍図ように迫力のある光景だったが、それとは全くの別物だ。茜空の下で、二頭の龍は自由気ままに空を漂っていた。その長い胴体には、沈み行く太陽の光に反射してキラキラと鱗が輝いている。頭に生えた二本の太い角に、春風に靡かせた艷やかな鬣。口元からは牙が除いて、龍が呼吸をする度に空気を振動させていた。

 目の前に現れた存在に圧倒されていれば、不意に茜の怯えた視線と目の前の龍の視線が重なった。磨かれた宝石のように美しい大きな丸い瞳は、そんな茜の様子を写すと一つ瞬きをしてやんわりと瞳を細めた。まるで「落ち着け」と言わんばかりの仕草に、茜は驚きながらも小さく息を吐く。

 もう片方の龍に視線を向ければ、その龍も同じように瞳を細めていて鋭い牙が出る口角をニィッと上げた。二頭の龍を前にして茜は動揺しながらも、何処か懐かしいような感覚に襲われる。初めて目にしたのにも関わらず、茜は「ずっと貴方達に逢いたかった」と心の中で思っていた。気を抜けば涙が溢れそうになって、慌てて気を引き締める。

 その涙は、決して怖さや緊張から来るものではない。何故と言われても分からないが、ただただ涙腺が緩むのだ。

 突然現れて驚きはしたけれど、今は不思議と恐怖を感じない。天を舞う二頭の龍を、時間が許す限り何時までも眺めていたいと思った。戯れるように空を飛んでいた二頭の龍は、まるで挨拶をするように茜にその大きな頭を近付ける。ゆっくりと近付いてくる龍たちの顔をまじまじと見つめていれば、不意に「茜!」と再び声が聞こえきた。

 その声に視線を上げれば、片方の龍の背中に一人の男が居た。龍の鬣と同じように黒髪を春風に靡かせて藍色の着物を着た男は、茜の姿を目に入れた瞬間、龍の背中から勢い良く飛び降りた。トンッと軽やかな音を立てて、屋上のコンクリートの上に足を着けた男の姿に茜は無意識に見惚れていた。

 真っ直ぐと向けられる夜空のように澄んだ瞳に、ゴクリと息を呑んだ時には全身に衝撃が走っていた。嗅いだ事がある懐かしい匂いが鼻を掠めて、包み込まれた身体に痺れるように広がる熱。走って来たような激しい鼓動がぶつかって、再び涙腺が緩む。

「…斎、」

 気付けば、愛おしい男の名前を震える声で呼んでいた。男はその声を聞くと、茜の肩口で顔を埋めながら「あぁ、そうだ。斎だ。」と感極まったように何度も頷いた。男は、強く、強く茜の身体を抱きしめると、暫くしてから名残惜しそうに離す。

 そして、ふと茜は男の右手に視線を向けた。肌は青黒く淀んでいて、皮膚は所々亀裂を生んでいる。所々鱗のようなものが張り付いたその手は、とても人間のものは思えない異形の右手だ。けれど、茜はその手に恐怖も嫌悪を感じない。そんな感情とは逆に、この手が愛おしくて仕方がないのだ。

 男はその異形の右手で、茜の頬をそっと撫でる。

「お前に逢いに来た。」

 その瞬間、茜はこれまでの全ての記憶と約束を思い出した。高校二年生の修学旅行の事、雲龍図に呑み込まれて幽世の世界に行った事、そこで半妖の絵師の斎に出逢った事、二人で依頼を成し遂げた事、現世に戻らなければならなかった事…

 今まで忘れていた、幽世という妖の世界の事を全て思い出したのだ。幽世を離れる時にした約束を、斎が本当に守ってくれた事が嬉しくて、堪えていた涙がついにポロポロと茜の頬をつたった。

「絶対、逢いに来てくれると信じてた!」

 茜は斎にそう言って、心の底から幸せそうに笑った。そんな斎も、何かを堪えるように眉を寄せて笑う。離れていた時間を埋めるように、二人は泣き笑いのような顔でいつまでも見つめ合っていた。








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