チュン、チュンチュン…と雀の鳴き声が聞こえてくる掛け軸は、いつ見ても美しい作品だと翠は思う。旅館の正面玄関、一番目立つ場所に飾られた掛け軸はつい先日、斎に依頼して描いてもらった絵だ。

 催花の嫁入りも無事に終えて、一週間が経った。斎の絵や唐々の傘、茜の似顔絵などもあって催花の嫁入りは、本当に素晴らしいものになったと翠は思う。特に花嫁行列では斎の描いた花々が和傘の上で美しく咲き誇り、白無垢姿の催花と相まってとても感動的な光景だった。和傘の下で幸せそうに微笑む催花は、この街の妖たちの中でも注目の的になっただろう。

 その当時の様子を今思い返しても、翠は熱いものが込み上げてきて瞳が揺れてしまう。それを瞬きをしてグッと耐えた。こんな仕事中に涙を溢すなんてあってはならない事だと、翠は改めて自分叱咤する。

 目の前の掛け軸の中では、青々と伸びた竹が風を受けたようにしなやかに揺れていた。その周りを飛ぶ雀は絵筆で細かく描かれ、柔らかな羽をパタパタと羽ばたかせている。可愛らしい数羽の雀は、時々この掛け軸の中から抜け出して旅館内を自由に飛び回り、宿泊しに来た客たちを楽しませるのだ。掛け軸の中から出てくる不思議な絵に、妖たちは大層喜んでくれるので店としては本当に有り難い。先日、斎が描いたばかりのこの掛け軸を見るために、わざわざ旅館に足を運ぶ妖も居るくらいだ。

 催花の花嫁行列を見た妖たちは、和傘に描かれた不思議な絵の美しさに魅力されて「あの絵を描いた絵師は誰か」と大きな噂になったらしい。そして、絵の描き手が半妖の絵師だと分かると、妖たちはこぞって斎へ絵の依頼を申し込んだそうだ。これまで半妖というだけで差別を受けることもあったけれど、そんな小さな偏見を覆すほどに斎の画力は凄いものだったのだ。そして今、巷では斎の描いた作品や半妖の絵師の話題で持ちきりになっていた。

 半妖ということもあって周囲に心を閉ざしがちだった斎が、今では様々な妖たちにその能力を認められている。その事を翠は自分のように嬉しく思った反面、ずっと近くに居た斎が随分と遠い存在になってしまったように思えて、少し寂しくも感じていた。そもそも、突然幽世にやって来た茜まで巻き込んで斎に絵を依頼したというのに、何という勝手さだろうと我ながら溜め息が出る。

 こんな考えでは駄目だと、翠は今一度自分を叱咤するように己の頬を両手で叩く。気合いを入れるように思いっ切り叩いたせいか、痛みでしっかりと目が覚めた。目の前の掛け軸の絵を改めて眺めてから、「よし!ちゃんと仕事に励まなくては!」と強く意気込んだ。

 さて、旅館の外の掃き掃除でもしようかと、翠は箒を持って外に出る。今日も、旅館に足を運ぶ客を迎え入れる為にせっせと準備に精を出す。旅館の前の石段を隈なく掃き掃除をしていれば、不意に「翠、」と野太い声で名前を呼ばれた。

 その声に掃除をしていた手を止めて振り返ると、見上げる程の大きな背丈に、金色の毛並みの九本の尻尾を背後で怪しげに揺らす旦那様がいた。翠が働く旅館『日照雨屋』を仕切る旦那様は、この街を治める大妖怪、九尾だ。そして、催花と結婚した玄天の実の父でもある。

「旦那様、何か御用ですか?」

 翠がそう聞けば、旦那様は機嫌良さそうにその赤色に輝く瞳を細めた。

「玄天と催花の似顔絵は、茜殿の作品だと聞いてな。」

「はい、とても素敵な絵でしたよね。」

 旦那様の言葉に翠は頷き、茜が描いた二人の似顔絵を思い浮かべる。茜いわく、現世ではウェルカムボードという結婚式参列者に向けた看板が使われることもあるらしい。その中では夫婦二人の似顔絵が描かれたものも多いらしく、今回の催花と玄天の結婚を茜なりに祝ってくれたのだ。まさか人間の茜から、そんな粋なお祝いを頂けるとは思ってもいなくて、催花や玄天だけでなく翠も酷く驚いた。

「あれは誠に良い絵じゃ。斎の絵も素晴らしかったが、茜殿の絵もとても感動した。会った時に、ぜひとも礼を言いたい。」

 細い瞳を更に細めて笑う旦那様は、相当あの二人の似顔絵が気に入っているらしい。新婚の二人も茜の絵を見て、凄く喜んでいたことを翠は思い出す。

「はい、ぜひとも!茜様もきっと喜ばれますよ!」

「今度は、儂の似顔絵も頼みたいところだな。」

 そう言いながら、はっはっはっと豪快に笑った旦那様に翠はまた嬉しくなった。けれどその瞬間、旦那様すぐに何かを警戒したように赤色の瞳を細めて、眉間に深い皺を作った。

「…だが、その時間は無さそうじゃ。」

 低く呟かれた言葉の意味が分からず、翠は首を傾げる。そして、徐々に旦那様から発せられる何処かピリついた雰囲気に翠は戸惑った。金色の毛並みは逆立ち、旦那様の大きな背を守るように九本の尻尾は身体の周りに広がっている。どうも只事ではない様子に「旦那様、如何されましたか…?」と翠が聞いた瞬間、ゴォォォと低い音を立てて強い突風が吹いた。

 気を抜けば吹き飛ばされてしまいそうな程の風に、翠はぎゅっと目を瞑って耐える。その間に、持っていた箒は何処かへ飛ばされてしまったようだ。けれど、あまりの風の強さにそんな事を気にしている余裕は無い。そのままの状態で突風が過ぎ去るを待っていれば、暫くして徐々に風が止み始めた。

 ゆっくりと閉じていた瞼を開けると、旦那様と向き合うような位置に一人の男が立っている。真っ黒な着物を着て、傘を目深に被った男は表情が全く見えない。強烈な突風と共に現れた何やら怪しげな雰囲気の男に、旦那様は眉間に皺を寄せて言い放つ。

「ようやく、来たようじゃな。」

 そう言った低い声が腹の底まで響く。まるで空間を支配するような旦那様の威圧感に翠までも緊張感が走るが、目の前の男は特に臆する事もなく傘を被ったまま淡々とした口調で話した。

「伝言を受け取り、此方へと参りました。龍一族の者です。」









 一週間前、都の中心に建つ城の一室にて。

 巨大な城の中とは思えない程に、殺風景な部屋には一人の男が居た。男は背中に長い白髪を流し、その頭には二本の立派な角が生えている。年齢を感じさせる目元には深い皺が寄っていて、肌の所々に青黒い鱗が張り付いていた。

 部屋の窓を覗けば都の美しい景色が一望する事が出来るというに、男はそんなものには目もくれず、壁の右下隅に向けて熱心に視線を注いでいる。

 男が見つめている視線の先には、幼子の落書きのような歪な形の花が一輪描かれていた。男はその壁の右下隅に近寄り、そっと鱗の張り付いた異形の右手を伸ばす。すると、歪な形の花の絵は壁の中からゆっくりと飛び出して、男の差し出された人差し指の先に触れた。そして、花弁がまるで赤子の小さな掌のように開き、男の人差し指を優しく握る。

 その様子を男は瞳を細めて、何とも愛おしそうに見つめていた。時折あやすように指先を揺すり、花の絵を優しく撫でる。

 不意に、部屋の外から男のよく知る従者の気配を感じた。

「当主様、急ぎお伝えたい事が御座います。」

「何だ。」

 襖を挟んでそう声を掛ければ、従者は少し緊張した様子の口調ではっきりと告げる。

「この幽世に人間が現れたと、島国の九尾からの知らせです。」

「門の封印が、解かれたと謂うのか?」

「いいえ、封印は解かれておりません。…ただ、」

「申せ。」

 従者の何処か煮え切らない態度に、思わず眉間に皺を寄せる。先程まで、歪な花の絵を見つめていた優しげな様子は既に男から消えていた。

「人間は、斎様の絵の中から現れたとの事で。」

「…それは、誠か。」

 男は鋭い瞳を、大きく見開いた。

「はい。」

「人間が現れたのはいつだ?」

「九尾の治める国からこの伝言が届くまでは、海を渡り少なくとも数週間は掛かります。ですので、もう一月以上は幽世に居るのではないでしょうか。」

「…それは不味いな。急ぎ、その人間を連れて参れ。」

「御意。」

 従者は男の命令を聞くと素速く気配を消した。再び訪れた静寂の空間に、男は深く溜め息を溢す。そして部屋の窓に近付き、晴れ渡る真っ青な空を仰いだ。

「これが、運命というものか。…美空よ。」

 そう悲しげに呟かれた男の声を、歪な花の絵だけが聞いていた。










 絵の具の独特の匂いが、茜の鼻を掠める。目の前では斎が細い絵筆を持って、艶やかな櫛に細かい花の絵を描いていた。

「まぁ、素敵!」

 その様子をうっとりした表情で、首を長く伸ばした女の妖、ろくろ首が見守る。そんなろくろ首を気にすることも無く、斎はいつものように流れるような筆さばきで絵を描いていた。

「あの花嫁行列の時に見た花が本当に綺麗で、ぜひ半妖の絵師様に絵を描いて貰いたかったのです。」

 ろくろ首は頬を赤く染めて首を長く伸ばし、顔を徐々に絵を描く斎の横顔へと近づけて行く。その様子を茜は、内心ひやひやしながら見守った。

 催花の花嫁行列から一週間が経ち、斎への絵の依頼は今までの何倍も殺到していた。というのも、あの花嫁行列の和傘を見た多くの妖たちは、斎の不思議な力を持つ美しい絵の虜になってしまったらしく日々依頼は絶えなかった。しかも、あの和傘の絵を描いたのが、今まで妖と関わることを避けていた半妖の絵師だということもあり、幽世での話題性は大きかったらしい。

 今では斎だけでは手が回らず、茜も雑用だけではなく絵を描くことも少しだけ手伝ったりしている。以前は、あまり大勢の依頼を受けることはせずに細々と絵師の仕事をやっていた斎も、今回の依頼で吹っ切れたのか色々なジャンルの仕事に挑戦するようにこの一週間で変わっていた。

 それに斎は半妖だが、とても整った容姿をしていることもあり、妖の女子たちからの人気も密かに出始めていた。今では、斎を目当てに依頼にやって来る妖も少なくはない。茜の目の前で首を長くくねらせて、絵を描く斎に近付こうとするろくろ首も、きっとその一人だろう。

「完成だ。」

 そう短く告げた斎は絵筆を置き、絵を描き終えた櫛をろくろ首に差し出した。ろくろ首は長く伸びた首を一瞬にして縮めて、普通の人間と変わらない姿になる。斎から差し出された櫛を受け取ると、ろくろ首の手の中で櫛に描かれた梅の花が絵の中から飛び出し、小さな花弁を揺らして咲き始めた。

「わぁ!本当に絵の花が咲いてますわ!こんなに美しい絵は初めてです!」

 ろくろ首はとても感激した様子で、嬉しそうに櫛に咲いた梅の花を眺めた。大切そうに胸に抱いた櫛を、ろくろ首は丁寧に自分の髪に飾る。飾り気のなかったシンプルな櫛は斎の描いた絵により、まるで本物の花が咲いているような美しい髪飾りへと変化した。小さく可愛らしい梅の花は、ろくろ首によく似合っている。

「嬉しい…!」

 そう微笑んだろくろ首に、斎も少し瞳を柔らげた。茜が幽世に来たばかりの頃では、考えられないくらいに最近の斎は表情が豊かになったと感じる。

 それは斎にとって、とても良い事であるはずなのに、茜はたまに心がモヤッと曇り空の時のように何処かスキッリしないような気持ちになるのだ。それを不思議に思いながらも、茜は畳の上に散らばった画材を片付ける。

「半妖の絵師様に描いてもらって、良かったです。この櫛、大事にしますね!」

 ろくろ首は斎に向かって、頬を赤く染めて話す。その瞳は、ゆらゆらと炎が燃え上がっているかのように情熱的なものだった。斎はそれに気付いているのか知らないが、ろくろ首の話に対して淡々と会話をしていく。

 そんな二人の様子に、茜は再び心がモヤッと曇るのを感じた。

 梅の花が咲いた櫛を飾り、その花と同じ色に頬を染めて楽しそうに話すろくろ首は本当に可愛らしく茜には見えた。

 暫くして、頭に櫛を飾ったろくろ首は、ご機嫌な様子で帰って行った。その様子を見送りながら、茜は一息吐く。最近、感じるようになった心のモヤつきに、茜は胸を抑えて不思議そうに首を傾げた。

 不意に、頭が雲がかかったようにボーッとし始める。トンネルの中に迷い込んでいるような、急に視野が狭くなるような不思議な感覚に襲われた。理由は分からないが、ここ数日で茜の身にはこのような事が唐突に起こるようになった。

「…おい!茜、聞いてるか?」

 そんな茜を呼び起こすかのように、大きな声が耳元から聞こえてビクッと肩を揺らす。ハッとして顔を上げた茜に、斎は深く溜め息を吐いた。

「お前、最近ボーッとしすぎじゃねぇか?」

「ごめん、ごめん!何か用だった?」

 このやり取りも、もう何度目だろうか。催花の嫁入りを終えてから張り詰めていた気が一気に緩んだのか、呆ける事が多くなったと茜自身自覚していた。せっかく絵の依頼も増えた事だし、こんな調子では駄目だと茜は気合いを入れる為に両頬を叩く。

「いや、別に用があった訳じゃねぇけど。お前さ、この一週間で依頼の量も増えたし少し疲れてんじゃねぇか?」

 ここ数日の茜の様子に、少し心配そうな表情で斎が言う。確かに依頼の量は増えたけれど疲れは全く感じず、むしろ茜は斎と共に絵を描いていく生活が楽しくてやる気に満ち溢れていた。

「ううん!そんな事ないよ、大丈夫!」

「なら良いけど、あんま無理すんなよ。」

 大丈夫だという返事に斎は納得いかなさそうな顔をしつつも、再度念を押すように茜を気遣ってくれた。

「うん、でも本当に無理してないよ。今は毎日が楽しくて仕方ないの!」

 自然と零れ出る笑みのまま、今の感情を素直に伝えれば、斎は仕方なさそうに瞳を細めて「そーかよ。」と笑った。

 その笑顔がとても優しげで、茜は斎から目が離せなくなる。叶うのならば、ずっと斎の笑った顔を見ていたかった。

「斎殿!茜様!」

 突然、翠の呼ぶ声が聞こえたと思ったら、先程ろくろ首を見送ったばかりの店の引き戸が勢い良く開いた。

 何事だろうかと、斎を見ていた視線を店の引き戸へと向ける。緩やかな風と共に暖簾を潜り、入って来たのはふさふさとした尻尾を揺らす翠と、傘を目深に被った見知らぬ妖だった。

「翠さん、どうかしたんですか?」

 見知らぬ妖を不思議に思いながらも、茜は翠に聞く。

「龍一族の方が、茜様にお会いしたいとの事で此方にお連れしたのです。」

「…え?」

 翠の言葉に、龍一族だと思われる妖は被っていた傘を取って顔を見せる。見た目は青年くらいだろうか、茜や斎よりも少し年上だと思われる容姿をしていた。白く透き通るような肌には、所々亀裂が入り鱗が幾つも貼り付いていた。それは顔だけではなく、着物から見える手首や足首も鱗が貼り付いているようで、時折キラリと光に反射して輝く。その肌質は、斎の右手とよく似ているようにも見えた。

 長く艶かな黒髪は後ろに束ねられて、前髪から見える鋭い青い瞳と目が合った瞬間、茜はキュッと心臓を掴まれたような感覚に襲われた。茜の姿を視界に入れた男は、途端に険しい表情をする。その迫力ある視線に、茜は思わず怯んでしまう。ゾクッと背中に冷や汗が流れるのを感じて少し後退りすれば、男は茜からそっと視線を外した。

 そして次に男は斎に視線を向けると、鋭い瞳を大きく見開いてから何かを堪えるように瞳を細めた。眉をハの字にしてギュッと唇を噛み締める姿は、先程茜を見ていた時とはまるで別人のようだ。

「斎様、ご立派になられましたね。」

「…清澄(せいちょう)、」

 龍一族の男の言葉に、酷く驚いたような表情で斎が呟く。斎の母は龍一族の出身らしく、過去にこの男とも何かしらの関わりがあったのかもしれない。以前、翠から聞いた話では、半妖の斎は龍一族の中で妖と認められず、母と二人でこの旦那様の治める島国にやって来たという。

 斎にとって龍一族という存在は、あまり良くないイメージではないのかと心配で、茜は隣りに居る斎の様子を伺う。斎は目の前の男に、少なからず緊張しているように見える。少し離れた所にいる翠も、心配そうに斎に視線を送っていた。

「私を、覚えておいででしたか…。もう二度と、お会い出来ないかと思っておりました。再び斎様にお会い出来たこと、真に嬉しく思います。」

 そんな斎を前にして、龍一族の男は噛み締めるように一言、一言丁寧に言葉を紡ぐ。その声は酷く穏やかで、優しさに満ちていた。

「あぁ、俺もだ。また会えて良かった。」

 少し緊張していた様子の斎も、龍一族の男の言葉にすっかりと緊張が溶け出したようだった。自然と口角を上げた斎の姿に茜は安堵した。まだこの二人の関係性は分からないが、少なくとも斎にとってこの龍一族の男との関係は悪いものではないように見えた。

 そして暫く、龍一族の男は斎と談笑した後、不意に茜に視線を向けた。その鋭い瞳に一瞬驚いたが、龍一族の男は瞳を少し柔らげて頭を下げる。

「人間殿、お初にお目にかかる。私は龍一族の清澄(せいちょう)と申します。」

 龍一族の男、清澄の丁寧な挨拶に、茜も慌てて頭を下げた。鋭い瞳は若干怖いけれど、このような仕草を見ると清澄は意外と真面目な妖なのかもしれない。

「初めまして、立原茜です。斎の元で絵の手伝いをしてます。」

 少し緊張しながらも清澄に挨拶をしてから、控えめな視線を斎へと向ければ、斎は困ったように笑って清澄との関係を説明してくれた。

「俺の母親が龍一族の出身だって、前にも言ったよな。小さい頃、半妖の俺は当時の龍一族当主に認められず、一族からも煙たがられて居場所が無かったんだ。けれど清澄はそんな龍一族の中でも、俺に普通に接してくれた貴重な存在だ。」

「そう、だったんだ。」

 半妖だと差別されていた過去の斎にも、そんな存在が居たことに茜は嬉しく思った。

「我ら一族は少々特殊で、妖としての能力の高い血を何よりも大事にする傾向にあります。ですので、私の国は斎様にとって、さぞ居心地の悪い場所だったかと思います。けれど、この島国でこんなに立派に成長されて…」

 斎を眩しそうに見つめる清澄と、それに少し照れたようにそっぽ向く斎。そんな二人を、茜と翠も微笑ましく見守った。

「それで、清澄が茜に会いに来たって事は、旦那様の伝言は龍一族の国にちゃんと届いたって事だよな?」

 不意に、清澄が此処に来た当初の目的を思い出したように斎が聞く。それに清澄はコクリと一つ頷き、今まで成り行きを見守っていた翠がこれまでの経緯を話し始めた。

「はい。それで清澄様は、先程この国にお着きしたようで。既に、旦那様にもお会いになりました。」

「旦那様は、何て?」

「旦那様は…」

 斎と翠が話しているその横で、茜は再び頭にモヤがかかったように何も考えられなくなった。水の中にいるように、ふわふわと思考が浮いていく。ボーッとして、自分が今何をしているかも分からなくなるような不安感に襲われた。何か重要な話をしているはずなのに、今の茜には二人の会話さえ全く聞き取れない。

 ふと気付けば、ぼんやりと虚ろな視界の端で、茜を覗き込むように顔を近付けた斎が目の前で手を振っていた。

「…おい!茜、聞こえてるか!?」

「えっ、」

「お前、またボーッとしてたんだろ。お前の話なんだから、ちゃんと聞いてろよな!」

 パチパチと瞬きをして、何処か呆けたような表情をする茜に、斎は額を抑えながら溜め息混じりに言った。
 
「茜様、どうかされましたか?」

「いえ!ちょっと、ボーッとしちゃったみたいで…」

 翠にも心配したように聞かれて、またやってしまったと茜は内心酷く反省していた。茜自身はたいして疲れなど感じていないのだけど、斎が言うようにやっぱり知らぬ間に疲れが溜まっているのだろか。しっかりしなければ!と意気込んで、茜は再び己の両頬を強く叩いた。

「それで話に戻りますが、茜様。」

 意識を取り戻した茜に、真剣な表情をした清澄が声を掛ける。

「急ぎ私と共に、龍一族の治める国まで来ていただきたいのです。」

「えっ!?」
 
「茜様の事情は、九尾様から聞いています。茜様を現世へ戻す為に、我が一族の当主様が幽世と現世を繋ぐ門の封印を一時的に解除します。その準備が出来次第、茜様は直ぐにでも現世に戻る事が出来ますよ。」

 清澄の説明を聞きながら、斎と翠は寂しげに茜を見つめていた。しかし、茜は不思議に思って首を傾げる。

「…あの、現世って?」

「「えっ、」」

 茜の発言に斎と翠は目を見開き驚いて、清澄は黙って眉をしかめる。その様子に、茜もハッとして自分が何を口走ったのか徐々に理解した。

「あれ?私、何言って…?」

 ぼんやりと晴れない頭の中は、何処か記憶がはっきりしない。それが酷く茜を不安にし、何かから守るように頭を抱える。清澄が発した『現世』という言葉。それは茜が元に居た世界で、茜が帰らなければらない世界のはずだ。

 寺の雲龍図に呑み込まれて、茜は突然この幽世の世界にやって来た。現世に帰るためには、龍一族が管理しているという幽世と現世を繋ぐ門を通らなければならないのだ。そして、龍一族が茜に会いに来たということは、茜が現世へ帰るための手筈が整ったということだろう。

 それなのに茜は、先程までその事が全く分からなかった。そもそも、茜自身、ずっと幽世で生きてきたような感覚すらあるのだ。現世という自分が帰るべき世界のことを思い出せない程に。一体いつから、茜はそんな大事なことを思い出せなくなったのだろうか。

 その時初めて、茜は自分の身に異変が起きていることに気が付いた。