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 この世界で最も美しい世界はどこかと聞かれれば、(わらわ)は今いるこの青の世界を答えるだろう。

 雲一つない快晴の青い空に、薄く水の張った青い地。どこを見ようとも全てが青に覆われたこの世界はどこか懐かしく、ほんのりと暖かかった。

 青の世界は妾が勝手に付けた名だ。適当に付けたわけではない。ただ青の世界としか言い表しようがないのだ。

 もし仮に他の人にこの世界は何という名かと尋ねても、同じように青の世界と答える他ないだろう。

 「ポチャ、パシャ……」などといった音を立てながらゆっくりと歩んだ。

 薄く水の張った青い地、と先ほどは思ったが、今考えばここは永遠に続く水たまりのような場所だと思った。そして全てを映し出す鏡のようにも見えた。

 一歩地に足を着けば、そこを中心とした円が波紋となり広がり、やがて消えた。

 水の足跡がだんだんと古いものから失われていくと思うと、多少の寂しさを覚えた。

 ふと視界に空の青にも地の青にも染まらぬ何かが入った。それは近づくに連れてはっきりとし、見覚えのある者へと変化した。

 艶のある漆黒の長い髪、色素が薄い肌。白と紺を基調としたセーラー服。十六とは思えぬほどの細い手足。間違いない。

(あいる)

 妾はその者の名を呼んだ。藍は振り返りこちらを見た。妾はなるべく藍を刺激しないよう、気をつけて話をすることにした。

「……神子(みこ)であってますか?」

 「ほぉ……」と妾は感嘆の息をついた。あの架瑚ですら、初見から妾の正体を見抜けなかった。

「さすが藍、と言いたいところだが、そう思った理由を尋ねてもいいか?」

 藍は少し迷った素振りを見せた後話した。

「理由は大きく分けて二つあります。一つはあなたの着ている服、(かんなぎ)の巫女装束ですよね?この服を着るのは神事の関係者しかいません。これでまず一つ絞られます。もう一つはその巫女装束が普通のものと違って少し華美だったことです。私もよく知らないけれど、多分神を引き立てるために服装は地味なものにするでしょう?なのにあなたは華美だった。それに華美となっている装飾は、腰帯についている五色の宝玉。色は赤、青、黄色、緑、白。この五色は今の五代名家(ごだいめいけ)である赤羽(あかがみ)青雲(せいうん)煌月(こうづき)笹潟(ささがた)白椿(しらつばき)を表しているんじゃないでしょうか。しかも五大名家が造らせ、献上したものと私は考察します。五大名家よりも上の立場の人は(みかど)しかいないけど、昔だったら神子も入っていたんじゃないでしょうか。だから私はあなたを神子だと思ったんです。これでいいでしょうか?」

 その歳でその洞察力、末恐ろしい。

 やはり藍には他者よりもその手の力が優れている。紅葉や茜たちと過ごしてきたから故の力だ。

 相手の背景や心情を読み取り、差し当たりのないように話しながら今まで生きて来たのだろう。

 これは藍の強い武器となる。

「それで、何の用でしょうか神子様」
「待て、敬語はやめろ。疲れるんだ。それと妾のことは神子様ではなく神子でいい。妾は藍と対等に話すことを要求する」
「わかりました。……教えて神子、あなたは何しに来たの?」
「藍を元の世界に連れ戻しに、という名目で来たが、妾はこの機に藍と話してみたいんだ。構わないか?」
「!」

 藍は虚をつかれたような表情を浮かべる。それもそうだろう。妾だって藍を早く返してやりたい。だがつい先ほど名案を思いついたのだ。

 それはーー架瑚に対して少しの報復をしたいから、藍の目覚めを遅らせるということだ。

 藍と話したいのもあるが、一番の目的はこれだ。架瑚の心配を膨らませてヤキモキさせたい。そんな表情を想像するだけで悪役のニヤニヤが止まらない。非常に愉快である。

 そうするためには妾は十分に藍と会話して藍の目覚めを遅らせる必要がある。妾からしたら一石二鳥である。

「すぐに説得させられるかと思った」
「藍は元の世界に帰りたいのか?」
(まぁ藍が望むのならそれでも良いのだが……)
「……まだ帰りたくない。あっ、架瑚さま達が嫌いとかそういうわけじゃないんだよ。わかってくれる?」
「わかっている。ちなみに紅葉は架瑚が直々に罰を与えるだろうし、茜は異能で治しておいたぞ」
「ありがとう。異能で治せるなんて神子はすごいね。羨ましい。私は異能を持っていないから」
「何を言ってるんだ?」
「え?」

 もしかして藍は勘違いをしているのではないだろうか。妾は確かめることにした。

「茜を治した時に使った異能は『藍の異能』だぞ? 妾の異能は『絶対治癒(ぜったいちゆ)』ではないからな。身体を共有しているから妾は藍の異能を使ったまでだ。あぁ、でも紅葉に少々の罰を与える時に使った幻影の異能は妾の異能だ。『想像顕現(そうぞうけんげん)』と言って、自分が想像した物、ことなどを顕現させる異能だ。やったことはないが頑張れば『絶対治癒』も『想像顕現』でできるかもしれないな。自称最強の異能だ」
「え、じゃあ私には……」
「あぁ、藍は異能を持っているぞ?使い方を知らないだけで、異能の専門学校に行くか、架瑚たちに教えてもらえば『絶対治癒』を行使できるようになるはずだ。ちなみに妾が藍の異能を使えるように、藍も妾の異能『想像顕現』を使えるからな。だが気をつけろ、これは強力だがかなり扱いが難しい。まぁ藍なら大丈夫だと思うが、自分の欲のためには使わぬ方がいい。誰かのために使うことをお勧めする」

 現に過去に妾は『想像顕現』を自分のために使い、暴走したことがある。ひどいものだった。

 藍はそんなことしないと思うが、一応念のためだ。妾にも未来に何が起こるかはわからない。

「そっか……」

 藍は何故か落ち込んだ。架瑚たちと同じように異能を持てることを喜ぶと思っていたのだが、もしかして架瑚たちが異能を持っていることもわかっていないのだろうか。それともーー。

「自分の異能で誰かを傷つけてしまうことを恐れているのか?」
「っ!」
(図星か)

 藍は非常にわかりやすい。だからこそ妾も藍と上手く話すことができる。

「具体的に聞いてもいいか?」

 藍はコクリと頷き、話した。

「私はもう傷つきたくないし、誰かを傷つけたくないの。だから魔法も攻撃系は使わないって決めてるの。なのに私に異能があっただなんて……。『絶対治癒』は人を助ける異能だけど、『想像顕現』は誰かを傷つけることもできるでしょう? だから、怖い。元の世界にも戻りたくない」
「なら尚更元の世界に戻って専門学校に行き、異能の使い方を学べ。いいか藍、毒は時に薬になる。それと同じように強力な異能も扱い方を知れば自分を、大切な人を守ることのできる。今回の茜のように、藍の大切な人が危機に晒された時、藍は泣いて苦しむことしかできなくていいのか?」
「それは絶対に嫌っ!」
「だろう? ならやはり藍は元の世界に帰って学ぶべきだ。『絶対治癒』は大切な人を助けることができる。『想像顕現』は大切な人を守ることができる。攻撃するかどうかは藍が決めれば良い。まぁ時期にわかる日が来る。だがこれだけは忘れるな。『絶対治癒』は大怪我を治すことができても死者を蘇らせることはできない。間違っても死者蘇生など考えてはいけないぞ。……それで? 怖いのは異能だけじゃないんだろう?」
「っ!」

 これまたわかりやすい反応をした。

「……架瑚さまが、怖いの。怒らせちゃった時、すごく怖かった。いつも私のこと、あんな風に思ってたのかなって思って……。どうしよう、どうしよう神子、架瑚さまに謝っても許してもらえないかもしれない。仲直りできないかもしれない。嫌われてるかもしれないっ! ううん、嫌ってるに違いないよっ!」

 藍は小さな涙をポロポロと溢した。

(優しすぎるのだ、藍は)

 藍が架瑚を怖いと思ったのは、時都家に来る前の夜の出来事の時だろう。いつも優しく接してくれた人が怒ったら、そりゃあ誰だって驚くし怖がる。

 それと、あの時架瑚が傷ついたような表情をしたのは、架瑚が藍を泣かせてしまった事実に悔い、且つ藍に嫌われたと思ったからだ。

 もちろん藍は架瑚のことを嫌ってなどいないが、あの時は藍が架瑚を嫌ってもおかしくなかった場面だった。

 架瑚が藍が勢いで言ってしまったことを勘違いしてもおかしくはない。二人はお互いにお互いの気持ちを勘違いしているだけだ。

「なぁ藍、架瑚が本当に藍を嫌うと思うか?」
「……どうっ、してっ?」

 こういうところは鈍いらしい。

「じゃあ聞くが、架瑚はどんな人だ?」

 藍はポカンとした後、手で涙を拭い話した。

「えっと……優しくて、信頼されてて、甘い物が好きで、あと照れると可愛くて、でもかっこよくて、あれ、矛盾してる……。んと、あと私なんかのために一緒にいてくれて……」

 この後も藍は架瑚について延々と言った。

 こんなに知ってるのに、何故わからないのだろう。本当に不思議だ。謎でしかない。

 藍も含めて、人間は本当に変な生き物である。

 妾がかつて戦を治めた時も、その原因は小さなすれ違いから起こった。やがてそんな小さな火は周りをも巻き込む大きな炎と成り果て、妾が来なければこの国自体がなくなっていたことだろう。

 人間は、醜く、悲しい生き物だ。哀れでならない。

 おそらく藍はまだ(こんなにもわかりやすく周りから見たら一目瞭然だというのに)架瑚への恋心を自覚していない。

 そして架瑚もまた藍に対して好きだと言っていない。それが一番馬鹿で阿呆なことだと妾は思っているが、今は一旦置いておこう。

 藍と他愛もない会話をするつもりだったが、これではできなさそうだ。

「藍」
「なぁっ……にっ…………?」
(全くもう、世話がやける……)

 何故妾が藍と架瑚の恋愛に手を貸してやらなければならなくなってしまったのやら。

「そんな架瑚が、誰かを嫌いになると思うか? 架瑚は小さな台詞程度で人を嫌うような短気な奴か? 妾はそうは思わない。架瑚ならばちゃんと仲直りしようとするはずだ。違うか?」
「あっ……」
(やっと気づいたか、鈍感者め)

 こういうところはあまり好きにはなれぬ。何度も繰り返されると苛立つからだ。

「架瑚は仲間を雑に扱っているか?」
「違う」
「架瑚は意地悪で嫌な奴か?」
「違うっ」
「架瑚は藍を好きになるはずがないか?」
「違うっ! …………あれ?」
(よし、勢いに任せて言わせたぞ)

 このまま押せばいけるかもしれない。

「架瑚は藍のことなんてどうでもいいと思っていると、藍は本気で思っているのか? だとしたら大間違いだ。よく考えてみろ。普通見ず知らずの人を助けて自分の屋敷で面倒を見ると思うか? するわけないだろう。いくら架瑚でもそこまで手厚くするわけない。じゃあなんで助けたか。藍の魔力が多かったから? それだけじゃないに決まっているだろう。それに藍だって架瑚に大嫌いと言ったまま死別していいのか? 良くないだろう? わからないのなら教えてやる。なんで藍は屋敷に住むことにしたんだ? なんで藍は一緒に街に行ったんだ? なんで藍は架瑚のことを大切な人だと思っているんだ答えは一つしかない。わかるな」
「……わから、ない」
「嘘をつくなっ!」

 本当はとっくにわかっていたはずだ。

 妾の正体を一瞥しただけで見抜いた藍が、自分のことを知らないわけがない。嘘をつくにも下手すぎる。

 藍は認めたくないだけだ。自分という個人が、(はた)から見たら雲の上の存在のような人に恋していいわけがないとでも思っているのだろう。そんな想いは届かないと思っているのだろう。

 だが今の藍は違う。実質契約婚でも、ちゃんと存在を認知されている。架瑚の隣に並ぶに相応しい力と心を持っている。

(それ以外に何を他に求めるというのだ)
「わた、しは……」

 林檎のような赤い頰を両手で覆う。か弱く小さく細く、だが凛として透明感のあり聞きやすいその声は、想いを綴った言葉を紡ぎ、本人に自覚させる。

「架瑚さまのことが、す、き……?」

 最後を疑問形にして終わらせたことはかなり残念で呆れるが、及第点はくれてやろう。

 初心(うぶ)で淡く甘い初恋。遅すぎる恋心の自覚。元の世界にある桃の花の(つぼみ)は開花に近づいている。

 架瑚をもっと焦らしたかったが、これもまた叶いそうにない。ふっくらと膨らんだ蕾を咲かせに行くにはちょうど良い頃合いだろう。

「藍、心配するな。大丈夫だ」
「でもっ、私っ、無理だよっ」

 手が震えている。妾はそっとその手を掴み握る。叶うかどうかわからない、そんな藍の気持ちはよくわかる。

 もちろん結果など藍と架瑚以外はわかっているのだが、それもまた良いだろう。色恋はそういうのが面白いのだから。

「自分の気持ちを伝えてそれでもダメなら、妾のところへ、この青の世界にまた来ればいい。安心しろ、妾は藍の味方だ。そうだ、まじないを教えてやろう」
「まじ、ない……?」
「あぁ、恋が叶うまじないだ。いいか? 一回しか言わないからな。気持ちを伝える前に架瑚のことを想像して、どうか両想いになりますようにって願うんだ。簡単だろう?」

 もちろんまじないでもなんでもないが、藍を勇気付けるには十分だった。

「本当に?」
「本当だ。だから行っておいで」

 すると水平線の彼方先から光が放たれ、ドアが現れた。おそらくあのドアを通れば元の世界に帰れるだろう。これで妾は安心して藍を見守れる。

 藍はドアの方へと一歩足を運んだ。そしてまた一歩、二歩と近づいた。妾は藍の背中を押すように話しかける。

「藍には必要としてくれる人がいる。だから行っておいで。帰りたくなったらまたくればいい。緊急時には助けてやる……って急にどうした?」

 藍が妾に抱きついてきた。まだ怖いのだろうか。だがそうでないことを藍は妾に伝えた。

「……ありがとう、神子…………」
「やはり人間はよくわからんな」

 この程度のことで感謝されていては困る。

「じゃあ、行ってくる。ありがとうっ!」

 藍はドアの方へと駆け出した。

 妾は軽いため息を吐く。

(藍はもうきっと大丈夫だろう)

 この先同じような出来事があったとしても、架瑚の寵愛、ファーストの魔力値と異能、そしてその優しい心があれば、きっとどんな困難にも立ち向かえるはずだ。

「また会おう」

 寂しく思いつつも清々しい気持ちで、妾は藍の旅立ちをじっと見つめた。

 近い未来で妾は藍とまた会い話をすることになるだろう。まだまだ妾には藍に隠していることが沢山ある。

 再び会う日を待ち侘びて、妾は藍の背中を優しく見つめた。

 藍は今まで見てきた中で、一番の笑顔の花を咲かせて走っていた。


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 桜、梅、桃、薔薇、菜の花、蒲公英(たんぽぽ)などの花が咲き乱れた千紫万紅の風景が広がっていた。

 空は高く、空気も澄んでおり、特に一番高いこの丘からの景色は春を告げるのに相応しいものだった。

「もうあれから七年になるのか」

 墓についていた伸びた(つる)を優しく千切らないようにそっと取る。

 年に一回しかここに来ることはできないため、毎回来る度にこの作業をするのは恒例となっていた。

 手慣れた動きで蔓を取っていると、後ろから誰かがやって来た。

「違う」
「?」

 彼女は色素の薄い髪に、些か小さめのワンピースを着ていた。

 何が違うのかと尋ねるため、後ろを振り返る。相手はそんな疑問が来ることを知っていたかのように答える。

「七年三ヶ月と十五日。間違えないで」
「ごめん」

 そこまで細かく覚えられるものなのかと疑ったが、相手はあの日で死んだ人に一番近く、一番影響を受けた人物だった。そう細かく覚えているのも不思議ではない。

「まるで死んでしまったかのように言わないで。今も私の中で生き続けてるの。勝手に殺さないで」
「ごめん」

 すると少しの沈黙の後、「ふん」と言って目を背け、どこかへ行ってしまった。

 だが怒るのも無理はないと知っていたので、また蔓取りに勤しむことにした。

 そして返事は返ってこないとわかっていても、何故だが墓に話しかけてしまう自分がいた。

「俺、婚約者ができたんだ。すっごく可愛くて健気でさ、生きてたら多分、お前も絶対気にいるだろう素敵な人なんだ。でも今、俺その人に大嫌いって言われたまま話せてないんだよ。そしてそのまま意識不明でずっと寝てるんだ。怪我はもうないし、容体も安定してるのにな……。でも俺は信じてるんだ。また仲良くなれるって、仲直りできるって。後悔しないように生きるって決めたのに、全部口だけだったよ。だから起きたら真っ先に伝えるつもりだ。俺が藍を好きだって。藍が俺のことを好きかどうかはわからないけど、頑張るよ」

 まだ話し足りなかったが、後ろを振り向くとこちらを氷のような冷たい目で睨んでおり、その視線から「早く出ていけ」という意思を読み取った俺は早々に立ち去ることにした。

「じゃ、また一年後」

 そう言って俺は、もう亡き親友の墓をあとにし、夕夜(ゆうや)(れい)の元に行くべく、ゆったりとした歩調で歩き始めた。