無限魔力の追放魔術師は辺境都市で第二の人生を謳歌する~無自覚だった魔力譲渡スキルを自覚したので、新しい仲間全員でとことん無双させていただきます!?~

 工房の三倍はあろうかという巨大な炉を見上げる。
 高い天井。静まり返った室内。冷たい空気。集中力が高まっていくのを感じ、ノアはそっと両手で炉に触れる。
 やることは、工房のときと同じだ。炉に光が灯り、図書館の隅々に魔力がいきわたる光景を頭の中でイメージした。
 等間隔に並んだ魔法灯は、書棚と足元を優しく照らし、落ち着いた雰囲気を演出してくれるだろう。ノアは手のひらが暖かくなっていくのを感じる。
 続いて、各階に設置された端末が起動するところを想像する。膨大な量の蔵書から必要なものを探し、知識を蓄える手助けをしてくれるに違いない。ノアは手のひらから全身に、熱が広がっていくのを感じた。焼けるような熱さではなく、柔らかで心地のよい暖かさだ。
 自動昇降機が上下し、各階へのアクセスを容易にしてくれるところも想像してみる。
 中央の柱には、それらしき扉が二つあった。おそらく、二機の自動昇降機が並行して稼働することで、来館者が多くても動線が詰まらないようにしてくれるのだろう。
 ノアは集中させた魔力を炉へ送り込んでいく。気が付けば全身が、工房の炉に宿ったのと同じ光に包まれている。
 今度は目を閉じはしなかった。自分がどうやって魔力譲渡をやっているのか把握しておきたかったし、魔力の流れが見えるようにも意識した。
 ノアが生み出した光と熱は、外にこぼれることなく、するりと炉に吸い込まれ、細かく振動を始めた。
 送り込んだ魔力が炉の中で絡みあい、増幅していく。ノアの魔力譲渡は、渡す魔力の量と質、効率が高いだけではなかった。渡した後の魔力が何倍にも膨らむことによって、その膨大な魔力量を確保していたのだ。
「……すごい」
 後ろで誰かがつぶやくが、集中を続けるノアの耳には、その声はほとんど届いていなかった。
 魔法灯に光を宿し、検索用の端末を起動させ、二機の昇降機を動かす。
 それからどうする? 他には何ができる? 
 高鳴る鼓動に任せて、ノアは想像を続けた。
 そうだ。外壁に刻み込まれた複雑な紋様と、そこから都市中に伸びる魔法銀のラインがあったはずだ。
 あれに魔力が流せたら、きっと美しい輝きを放ち、図書館を彩ってくれるだろう。
 わくわくしながら、練りこむ魔力量をさらに増やしていく。
 自身の肉体がもうひとつ、魔力炉の中にあるような錯覚を覚える。ノアはそのもう一つの肉体を魔力で形作るようなイメージで、大量の魔力を送り込んでいく。
 炉の中心で生じた振動は、心地よい低音を伴って加速していった。魔力炉に、図書館に、そしてレイリア全体に、命を吹き込んでいくような、不思議な高揚感だ。
 いまや魔力炉も、そしてノア自身も煌々とした輝きを放っている。
 ノアは自分の身体が、高まり続ける魔力によって浮き上がっていることにも気づいていない。
 頭の中に巡るのは、都市中に広がる魔法銀のラインに、魔力が満たされていくイメージだ。
 すでにノアの頭の中は図書館の魔力炉とリンクし、都市中をめぐる魔法銀のラインの全容を捉えている。
 全方位に広がった幾何学模様は、レイリアの都市全体を使った複雑な魔術式だ。
 外周いっぱいまで広がった術式は、各方位に並び立つ巨大な円柱へ到達し、収束していく。
 まだだ。もっとできる。なんでもできる。もっと。もっともっと。
「ノア! そこまでにして!」 
 りんとした声に振り向くと、エミリーが必死な顔で叫んでいる。
 目は開けていたつもりだったが、意識がすっかり図書館を離れ、レイリアを上から俯瞰するような心持ちになっていた。
 はっとして炉に向き直ると、まばゆい光に包まれた炉の中で、大量の魔力が鳴動していた。
 外周まで魔力を伝えて、円柱に送り込んで、それからどうなる?
 そもそも、外周の円柱は何をするためのものだろうか?
 先の話に出てきた、都市全体を覆う結界ならまだいい。もしそれが、古代兵器の射出口だったら?
 全容を知らないまま、好奇心と高揚感で起動させてはまずい。
 我に返ったノアは、ほとんど自身の一部のような感覚になった魔力炉と、そこから流れ出る魔力を、図書館内まで一気に引き戻した。
 想定外の勢いで逆流した魔力に、一部の魔法灯が耐え切れずに破裂する。逆流した魔力が図書館中を暴れまわり、激しい揺れとなってノアたちを襲った。
「ちょっと、大丈夫なんでしょうね!?」
「わかりません、こんな量の魔力が一度に流し込まれたことなんて……きゃあっ!」
 サラの叫びに答えようとしたところで、ひときわ大きな揺れが襲い、フローレンスがよろける。
 まだ空中で両手をかざし続けるノアの腰に、エミリーがしがみつく。
 ぐいと引っ張られてようやく、ノアは自分の身体が、天井に向かってどんどん浮き上がっていたことに気づく。
 心地よかったはずの低音は地響きにかわり、図書館全体が悲鳴をあげているようだった。
「ノア、ゆっくりでいいから落ち着かせよう。あなたならできるって信じてる。大丈夫だから……ね?」
 エミリーの言葉が脳の奥に染みる。
 ノアは、引き戻した魔力を図書館にとどめるのではなく、許容量を超えた分を、自身に吸い上げようとした。
 吸い上げた魔力が、高鳴る鼓動とは別のリズムで全身をぐるぐると駆け回る。
 ぱん、と乾いた音がして、ノアの腕に裂傷が刻まれた。
「ぐうっ……!」
 思わずうめき声が漏れる。行き場を失った魔力が、出口を探してノアの身体を裂いていく。
 落ち着け。ついさっきまで、自分のものだったんだ。制御できる。大丈夫だ。
 自分に言い聞かせながら、魔力をならしていく。元の場所に戻すだけなんだ。できるはずだ。
 いくつかの深い傷を作って、ようやく床に足をつけたノアは、そのままぐったりと魔力炉にもたれかかった。
 ようやく揺れが収まり、静寂を取り戻した図書館の地下で、魔力炉だけが、満足したようにまばゆい光を放ち続けていた。
「古代兵器でレイリア帝国の復活じゃ!」
「うわ、びっくりした。どうしたのいきなり」
 揺れが収まり、魔力炉のまばゆい光が照らす中、緊張した空気を破ったのは、大声で叫んだフローレンスだった。これまでの発言からは想像のつかない香ばしさに、全員の視線がフローレンスに集まった。
「祖父です。そんなことを言い出すものだから、流石に目に余って蹴落としました。それが、わたしが館長になった理由です」
「おじいさん、結構過激だったんだね……」
「当時は意外と多かったよ、古代兵器の復活を唱える人たち。だからね、ここの屋上からえいって」
「蹴落としたってそういうこと!?」
「それにしてもびっくりした、ノアって本当にすごいんだね。身体、大丈夫?」
「いや、おじいさんは!? どうなったの!?」
「そんなことより、とりあえず外に出てみようか。炉は言うまでもなく魔力で満たされているし、検索も自動昇降も使えるようになってるかも」
 生死不明の祖父をそんなことで片付けたフローレンスが、するりと扉をくぐって姿を消した。
 ノアはエミリーに肩を貸してもらい、四人でフローレンスを追いかけて外に出た。
 フローレンスはすでに自動昇降機の扉の前にいて、何やら操作しているようだった。
「わたしね、前に図書館の屋上でピクニックをしていたときに、クッキーを追いかけて落っこちたことがあるんだけど」
「話があちこちしすぎてこわい……今度は何の話になったの?」
「そのときに、死にたくなくてとっさに身につけた複合魔法があってね。衝撃魔法と風魔法を重ねあわせて、クッションを作るの」
「ええと……?」
「同じ魔法で祖父も拾ってあげたから、引退はしたけど元気にしてるよ」
「ああ、そう繋がるんだ」
 ノアは全身の力が抜けたような気がして、ため息をついた。
 フローレンスはくすくす笑ってから、扉の脇にあった端末の操作を続けた。
 ピン、と無機質な音がして扉が開き、殺風景な小部屋が現れる。
「ようやく肩の荷が下りた顔になってくれたみたい。とっておきのネタを話した甲斐があったかも」
「え……?」
「さっきまでのノア、とんでもないことをやっちゃったって顔してたよ」
「あ……うん。危うく、中身のわからない古代の何かを起動させちゃうところだったし……図書館そのものを壊しちゃうところだったかもしれないから」
「でも、図書館は壊れていないし、こうして自動昇降機も起動してくれた。そうでしょ?」
 フローレンスが先に小部屋へ足を踏み入れ、「どうぞ入って」と手招きする。それにつられて、四人ものろのろと小部屋に入った。
「とりあえず、館長室まで戻ろうか」
「戻るってこれ、どういう……うわっ」
 身体が押さえつけられるような圧と、浮き上がるような感覚が同時に襲ってきて、ノアは思わず声をあげてしまった。
 エミリーも同じように驚いていたが、サラとデイビットは疲れ切った顔で、もう一度階段じゃなくてよかったよ、とつぶやくのが精一杯だった。
 あっという間に最上階に到着すると、フローレンスが先頭に立って小部屋の外に出ていき、今度は階段のところにある端末へ駆け寄った。
 端末はほんのりとした青白い光を放っている。来るときには光っていなかったので気が付かなかったが、どうやらあれが検索用の端末らしい。
「うん、うん……! すごい、完全に復旧してる!」
 ノアも端末を覗き込む。
 真四角の枠の中に、文字を打ち込む部分と結果を表示する部分が、光って浮き出ているように見える。
「ここをこんな感じでやると……ね?」
 フローレンスが適当な文字列を打ち込んで、検索結果を見せてくれる。
 端末には、本と著者の名前が一覧で表示されていた。
 フローレンスが表示された本の名前をとんと指でたたくと、それがどの階のどの書棚にあるのかが、立体的な地図で示される。
「……すごい」
「これが便利すぎて、蔵書の整理がはかどらなかったりもするんだけどね」
 そう言いながら、フローレンスはすごく嬉しそうに笑った。
 ひとしきり検索機能を確かめると、フローレンスは弾む足取りで館長室へ入っていく。
「予想以上の成果でした!」
「ごめんなさい」
「謝るのは禁止! 結果的にものすごく助かったし、約束の報酬は近いうちに準備するから、楽しみにしててね! 外周の円柱までラインが繋がってたっていう話も、それがどの機能のためのものなのかも調べておくから」
「うん……ありがとう」
 恐縮しつつ落ち込むノアの背中を、エミリーがばんとたたく。
「はい、もう落ち込まない! 本当にすごいことなんだから。しかもノア、ちょっと暴走気味で心配にはなったけど、まだまだいける感じじゃなかった?」
「うん。やってるうちにどきどきしてきて、どこまでいけるんだろうって思ったら、どんどん力があふれてきちゃって、身を任せちゃったっていうか」
「うんうん。身を任せたとか、さらっと怖いこと言ってるけど大丈夫! ちゃんと制御する訓練をしていけばいいもんね!」
 屈託なく笑うエミリーを見て、ノアはそれ以上落ち込むのはやめようと思い直した。
 ぎりぎりのところで止めてくれたエミリーに感謝して、彼女の言うとおり、能力を使いこなす努力をするべきだ。
 新たな目標を見つけて、ノアはぎゅっと拳を握りしめる。
「そういえばデイビット。どんなロッドにすればいいかは測れたの? 結局、ノアの限界までは測れなかったよね」
 エミリーがデイビットとサラに声をかける。
 デイビットは、帰りの階段がなくなってどうにか気力を取り戻したのか、安心したような表情で親指を立ててみせた。
「ばっちり、わからなかったね……!」
 エミリーとサラが、膝からがっくりと崩れ落ちる。
「なんでそんな、自信満々なわけ!?」
「いやいや、だってそうでしょう。ノアくんの限界はまだまだ見えず、どうにかエミリーちゃんが思いとどまらせてたじゃないか。まあとりあえず、目安はわかったからなんとかなるよ」
「間に合わせの変なもの渡したら、許さないからね」
「おや、心外だね。ぼくがそんなことをするとでも?」
 デイビットが眼鏡をくいと持ち上げて、不満そうにする。
「あの、急かすつもりではないんですけど、大体どれくらいでできますか?」
 横からノアは聞いてみた。職人さんが手で作るものだし、もしかしたら先に入っている注文があるかもしれない。能力の制御が課題になったノアにしてみれば、焦る気持ちもあったので、納期の目安は知っておきたかった。
「まあ二十日くらいはかかるかな。ああ、それはそれとして、その前にちょっと工房に寄ってほしいんだ。いいかな?」
「いいですけど……何か他にも確認することがあるってことですか?」
「いやいや。君にぴったりのプレゼントをあげようと思ってね。んふふふふふ」
「げ。ノア、気を付けてね。父さんがぴったりのプレゼントをよこそうとするときは、ほとんどろくなものじゃないから」
 サラがさらに脇から口をはさむ。
「それを受け取ってくれることが、ロッドを無料で作る条件ということにしようか」
 エミリーが「ちょっと、炉を復活させてあげたじゃない」と文句を言うが、「それはそれ、これはこれ」とデイビットはのらりくらりだ。
「とりあえず今日はここで解散にする? ノアもさすがに疲れたと思うし、わたしも今のうちにいろいろ調べたり、見て回っておきたいから」
 フローレンスの提案で、一行は解散することにした。
 自動昇降機で一階まで降り、見送りを受けて図書館を後にする。
 ノアが炉の前で感じていたとおり、いくつかの魔法灯は砕け散ってしまっていたが、フローレンスはいいのいいのと気にしない様子だった。
 デイビットとサラはついでの買い出しをしてから工房に戻るとのことで、図書館の前で別れ、ノアはエミリーと二人になった。
「ノア、身体は平気そう?」
「うん。終わったあとすぐはちょっとふわふわしてたけど、今はもう平気」
「魔力切れも特になしってことだよね?」
 魔力を使い果たすと、立っていられないほどの疲労感に襲われる。
 ひどいときは吐き気やめまいもするし、その手前までで制御して魔力を使うのが、一人前の魔術師の条件でもある。
 ノアも、魔術師を志した当初は何度か経験したことがあるが、今日の浮遊感は、それとはまったく別物だった。
 一度流し込んでから引き戻した魔力が、自分になじむ感覚というのだろうか。
 経験したことのない感覚ではあったが、どちらかというと心地よいものだった。
「うん。魔力切れはしてないよ」
「そっか……あれだけの量だったのに、つくづくとんでもないよね。ノアって」
 小さくため息をついてから、エミリーがくすりと笑う。
「とりあえずギルドに戻ろうか? 魔力が大丈夫でも、傷の手当はしたほうがいいよね?」
 ノアは、血がにじんでところどころが赤く染まった自分のローブを眺めて苦笑いする。
 魔力切れは確かに起こしていないが、全身の裂傷がじんじんと痛んではいた。
 ギルドに手すきの治癒術師がいるかどうかはわからないが、とりあえず応急処置をするにしても何にしても、一度戻った方がいい。
「それは確かに、そうかも。いったん戻ろうかな。エミリーはどうする?」
「私も戻るよ。図書館のことをパイクたちに報告しないといけないし」
 ゆるゆると歩き出したところで、ノアは日が沈みかかっていることに気づく。
 外の見えない館内を上り下りして、地下で魔力を流し込んでいたので、時間の感覚が麻痺していたようだ。
「うわ、酒場の仕事、完全に遅刻になりそう」
「無理しないで。今日は誰かに替わってもらって、休んだ方がいいと思うよ。図書館でのことを話せば、みんな分かってくれるはずだから。ほら、見て」
 言われて、振り返る。
 日が沈んで暗くなった街並みに、大図書館の外壁に刻まれた魔法銀の紋様がきらきらと優しく輝いていた。
 昼間は薄暗かった正面のガラス扉の向こうも、今は暖色の照明が淡く光っている。
「ノアが頑張ってくれたおかげだよ」
「僕が……そっか」
 ノアはしばらくの間、痛む体のことも気にせず、その光を見つめていた。
 翌日の昼を過ぎた頃には、大図書館の機能回復はレイリア中に知れわたっていた。
 それはレイリア全体に活気をもたらすと同時に、いくつかの疑問もささやかれるようになる。
 ――一体だれが、どうやって?
 真っ先に質問責めにあったのは、館長であるフローレンスだ。
 議長をはじめとした議会の面々やら、商店街のまとめ役やら、一般の人々やらがごったになって図書館に押し寄せてきた。
 ノアやエミリーと同年代とは思えない老獪さで、フローレンスはそれをかわしてみせた。
 押しかけた面々の中には、パイクとジェマも混じっていた。二人がことの真実を知らなかったわけではない。ギルドは何も知らないというフェイクを入れるためだった。
「ノアの能力については、他言無用とする」
 右手をまっすぐに突き出し、威厳たっぷりにパイクが宣言したのは朝一番のことだ。騒動になることをいち早く察してフローレンスにも根回しをすると、パイクは図書館に押し掛ける準備をうきうきしながら始めたのだ。
「根本的なところは解決してねえんだ。そっちのめどがつくまで、お披露目はお預けだ。ああ、お前さんがどうしても触れ回りたいってなら仕方ないが、どうする?」
 ノアとしても、暴走寸前だった自分の能力について、自慢して回るつもりなどない。慌てて首を振ると、パイクはにやにやして「謙虚なのはいいこった」と金髪のつんつん頭をざらりとかきあげた。
 大図書館の機能が回復してから、十日が経った頃、異変が起きた。外壁の光が再び失われ、自動昇降機が動かなくなってしまったのだ。
 検索用端末はまだなんとか動いていて、魔法灯も無事だ。つまり、魔力の消費量が多い機能から順番に、停止してしまったことになる。
 これにもレイリア中が大騒ぎになったが、フローレンスやパイクたちは冷静だった。ノアやエミリーも、予想していたことだったので特に驚きはない。
 なにしろ、根本的な原因である魔力のよどみは解消されていないのだ。追加の魔力を補充したりもしていなかったのだから、貯めた魔力を使い切れば、機能が停止するのは自然なことだ。
 むしろ、ノア一人の魔力で、十日間もフル稼働させられた事実の方が、事情を知っている面々を驚かせた。
 それからさらに、数日が経った。
「おはようノア、今日も早いね」
「エミリー、おはよう」
 早朝の水くみは、ノアの日課になりつつある。
 そしてそこで、エミリーとちょっとした会話を楽しむのも、日課になりつつあった。
「それ、どうしたの?」
 ノアの右肩には、小さな三つの球体がふわふわと浮かんでいた。大きさはそれぞれ違うが、中心にある一つが一番大きく、そのまわりを小粒の二つが違う速度でくるくると回っている。
「デイビットさんがくれたんだ。魔力譲渡を練習するためのものなんだって」
「へえ……魔力を流すと浮かんで回るってこと?」
「結構難しいんだよね。魔力を流しすぎるとどんどん浮いていっちゃうし、流し込むバランスを間違えると、小さい二つはどこかにいっちゃうし」
 例えば、とノアは少し集中してみせる。
 ひょんと甲高い音を立てて、中心にあった球体が上空へと一気に上がっていき、くるくる回っていた二つがぽとりと地面に落ちた。
「肩の少し上のところに一番大きいのが浮かんでいて、小さいのが二つとも同じ速度で回っているのが、一番かっこいい……らしいんだけど。バランスを崩すとこうなっちゃう」
「そのかっこよさは気にしなくていいんじゃない? デイビットの好みでしょ?」
 エミリーは先日のあれこれを含めて、デイビットに辛辣だ。
 確かに、職人気質がいきすぎていたり、見えているようで何も見えておらず二度目の自己紹介を始めたりと、不思議な空気を持ってはいるが、ノアはそこまで邪険にはできなかった。
 デイビットがくれた特別なプレゼントというのが、これだったからだ。
「間近でみて、ノアくんのすごさがよくわかったよ。しかし、んふふふふ……不安定だよね」
 約束どおりに時間を作ったノアに、デイビットは開口一番そう言って、ノアを落ち込ませた。
 しかしそのあとすぐに、例の三つの球体を取り出した。
「強度、速度、分量、バランス。これらを上手に訓練すれば、きみの能力は誰にも負けないものになるよ。量だけはすでに誰にも負けてないだろうけどね」
 しれっとそう言って球体を放ると、少しだけ浮かんで同じ速度で回っているのが一番かっこいいとのくだりを置き土産に、さっさと工房に引っ込んでしまった。
 不器用ではあったが、ノアの身を案じて考えてくれた贈り物だ。父のロッドを仕上げた一流の職人であるデイビットに、少しだけでも認められたようで、ノアはそれが嬉しかった。
「昨日は討伐に参加してたよね。今日は夕方から酒場?」
「うん。昨日は結構余裕があったから、今日も大丈夫だって伝えたんだけど、パイクさんが酒場にしとけって」
「討伐は神経使うから。二日連続とかではなるべく出さないようにローテを考えてるんだよ。でもそれじゃあ、昼間は空いてるの?」
「フローレンスに呼ばれてるけど、そんなにかからないと思うよ。何か用事?」
「そっか、じゃあまた今度。ちょっと相談したいことあったんだ」
「そうなんだ。それなら図書館までいっしょに行かない? 頼んであった詠唱関係の本を受け取りに行くだけだから、本当にすぐだと思う」
 そういうことなら、と時間を示し合わせて、ノアはギルドで朝食を済ませたあと、エミリーといっしょに図書館へと向かった。
「三冊、ご紹介したい本があります」
 いつになく真剣な面持ちで、フローレンスが言った。
 館長としての口癖なのか、フローレンスは今でも、たまに丁寧語になる。
 それはそれでまあいいか、とノアは考えていたのだが、今日はそれに加えてこの緊張感だ。ノアも背筋を伸ばして、「はい」と答えた。
「ひとつはこれ。まずは基礎を学んでみてもいいと思って。ノアはギルドに入る前も入った後も、ほとんど独学でやってきたんでしょ?」
 差し出されたのは、魔法詠唱の基礎に関する本だ。ぱらぱらとめくると、要所要所に挿し絵がついていて、わかりやすく仕組みが解説されている。まさしく初心者向けの入門書だ。
「それからこれが応用編。各属性の魔法の特性とか相性、発動の仕組みなんかが書かれてる。特性や相性は知ってると思うんだけど、発動の仕組みの部分は、ノアが悩んでるところにヒントをくれるかもしれないから」
「ありがとう!」
 ここで一呼吸おいて、フローレンスは大きく深呼吸した。
 フローレンスが最初の言葉を発したときと同じ緊張を感じて、ノアも背筋を正しなおす。
「三冊目は、ちょっとここでは渡せないから、ついてきてくれる?」
 そういうと、フローレンスが階段を上がっていく。
 最上階の館長室まで階段を上がりきってやってくると、フローレンスは奥へと続く扉ではなく、反対側にある書棚の前に立って、なにやらごそごそといくつかの本をいじり始めた。
「これをこうして、こっちを取り出して、これを逆さに……と」
 最後に手に取った本を逆さにして戻すと、二つの書棚が音を立てて左右に開き、片開きの扉が現れた。
「隠し扉……!?」
「そう。二人なら大丈夫だと思うけど、この先のことは内緒にしてね」
 にっこり微笑むフローレンスの目の奥は笑っていない。秘密が漏れれば、二人のどちらかのせいだと思うからね、と言外に含まれているようで、ノアは大きくうなずいた。
「禁書エリアなんてあったんだね」
 エミリーも知らなかったらしく、一冊ずつ厳重に鍵がかけられた本を眺めて感心している。
「ちょっと、人聞きが悪いってば。この部屋にあるのは、ギリギリで使っても大丈夫な古代魔法だけなんだから、そんなに警戒しないでほしいかな。もっと危ないのは地下に置いてあるし」
「ギリギリなの?」
「うん。ほとんど術者に害はないはずの魔法ばっかりだから」
「ほとんど? 害はないはずの?」
「細かいことは気にしないの」
 え、めちゃくちゃ気になるんですけど?
 声をあわせるノアとエミリーにいたずらっぽい笑みだけを返して、フローレンスは目当ての本の前にすいすいと進んでいく。
「はいこれ。古代の詠唱加速魔法の魔導書」
「はいこれって。ノアにくれるの? 大丈夫なの?」
 エミリーの問いに、フローレンスは首を振った。
「さすがに古代の魔導書はいどうぞ、は無理かな。でもね、館長権限で、ノアがこの場所でこの魔導書を閲覧・使用することを認めます」
「古代魔法の魔導書って、今は全般的に使用が規制されてるんじゃないの?」
「ギルドでばりばりやってるエミリーでも、そう思ってたでしょ? ところが、なのよ」
 フローレンスの顔には、先ほどと同じにっこりとした笑みが浮かんだままだ。
「古代魔法とか古代の技術って、全部が規制されてるわけじゃないんだよ。もしそれを厳密にやろうとしたら、魔力炉も魔法灯も使えなくなっちゃうし。確かに規制はあるけど、見極めてるのはしょせん同じ人間だから、基準も結構揺れるしね。だからここにあるのは大丈夫。もし何か追及されても、かわせるものばっかりだから。本職なめんなって話です」
 追及される可能性があって、かわす必要もあるのなら、それはほとんど駄目なのでは?
 ノアは、そう言おうとしたが結局やめた。フローレンスの笑顔が、祖父を屋上から突き落とした件を話していたときのそれだったからだ。
「あれ、ごめん。余計に警戒させちゃった? 本当に大丈夫だよ。例えばそうだね……身近なところでいうと、パイクさんが使ってる補助魔法……なんていったっけ? あのふざけた名前の」
「マッスルボム?」
「そうそう、筋肉爆弾ね……あれも、いろいろと薄めてあるみたいだけど、大元は古代魔法」
「嘘でしょ? パイクってばギルド長なのにそんな違法なことしてたの?」
「だから、違法じゃないんだってば。古代魔法の中でも、使っていいものと駄目なものがあって、パイクのはぎりぎりで使ってもいい部類のはずだから」
 使用することによる術者への負担。人間や環境に対する大量破壊の危険性。人道に反する毒や人心を操る魔法。いくつか規定はあるが、そうした古代魔法が規制の対象らしい。
 パイクがいつも無詠唱で使っている補助魔法、マッスルボムは、現在の主流である補助魔法とはルーツそのものが違うのだという。
 通常の補助魔法が魔力の活性化によって速度や力をあげるのに対して、マッスルボムはその名のとおり、筋肉を直接肥大化させることでパワーアップする。
 これを律儀に古代魔法規制法にあてはめると、使用することによる術者への過度な負担に該当する場合がある。
 しかし実際のところ、パイク本人への影響は、多少の筋肉痛程度のものだ。つまりはフローレンスがいうところの、『色々と薄められた』結果で、使用許可が下りている魔法なのだという。
「基準の曖昧さはそういう感じ。しかもノアくんに許可するこれは、魔法の詠唱を補助してくれるだけの平和的なものですよ? 大爆発を起こして都市を消し飛ばすとか、無差別に毒をまき散らすとか、そういう魔法じゃないんですよ?」
「え、そんな物騒な魔法もあるんだ!?」
 含み笑いのフローレンスが、たとえ話ですよとはぐらかす。
 あの顔は間違いなく、実際にあることを知っている顔だ。
 ノアはぞっとして、それ以上の追及をやめた。「使いこなす魔力は持っているのだし、そっちもついでに覚えてみませんか? 追及されてもわたしがかわしてみせますよ」などと言われかねない気がしたからだ。
「ノアなら大丈夫だと思うけど、念のため……これを使うときは体調万全、魔力満タンのときにしてね」
「消費魔力が大きいってこと?」
「そう。まあよほど相性が悪くなければ、危険はないはずだよ。わたしも試してみたけど、かなり魔力を使ったわりには、まあないよりマシって感じの補助魔法だったから」
「え、試したの!? もしかして他のも?」
「もちろんある程度の解読ができてからだけど、ここにあるのはまあ大体ね。自分のところの蔵書を知らないのはやっぱり、館長としてはいただけないでしょう?」
 フローレンスは、時々ものすごく思い切りのいいことをさらりとやる。
 普段の、館長としての丁寧な言葉遣いや物静かなふるまいより、こちらの方が素のような気がする。つまりは、祖父を屋上から蹴落としたり、古代魔法を試しに唱えてみたり、だ。
「まあ最初は基礎から勉強してみて、準備ができたら試してみてね。ちなみにエミリー、ノアに実験のことはもう話してあるの?」
「まだだけど、今日のこの用事のあとに相談するつもりだったよ」
「それじゃあちょうどいいわね」
 フローレンスとエミリーは二人でうなずきあうと、ノアに向き直った。
「相談しようと思ってたのはね、魔力がよどんだ根本的な原因を探るための実験なんだけど、聞いてくれる?」
「もちろん」
 いくら魔力炉にいっしょうけんめい魔力を注いでも、根本的な解決にはならない。
 そのことは、図書館の一件で残念ながら証明されてしまった。
 一時は、希望が見えたと大盛り上がりだったレイリアの人々も、図書館の明かりが消えたことで、意気消沈してしまった。
 根本的な解決のための手助けができるなら、ノアはそれこそ、できることならなんでもするつもりだ。
「そう身構えなくても大丈夫だよ。危ないことはないからね。ただ、魔力の消費がちょっとだけ激しいかもしれないくらいで」
 そう、フローレンスのやけに洗練された笑顔に一抹の不安を覚えたとしても、できることはなんでもするつもりなのだ。ノアは改めて決心すると、二人から詳細を聞くことにした。
 いったん館長室に戻ると、ノアは促されて先にソファに腰をおろした。
 奥でがさこそとやって戻ってきたエミリーとフローレンスは、大きな巻き物を持ってきた。
 広げてみるとそれは、レイリアを上から覗き込んだような、ざっくりとした地図だった。
 主要な建物や道の配置がざっくり描かれて簡易的なものだが、なにより目をひいたのは、各所にバツ印がつけられていることだ。
「これは?」
「魔力がよどんだ影響が、地上まで出てきちゃってることを確認した場所に、印をつけてあるの」
 エミリーが真剣なまなざしで言う。
「……こんなにたくさん?」聞き返したノアに、エミリーは悔しそうに首を縦に振った。
「何度も同じ場所を調べる時間はなくて、だいぶ前につけたままの場所もあるけどね。でも、一度印をつけた場所は、そこからひどくなることはあっても、よどみが薄まってはいないはず」
 ノアは改めて地図を覗きこむ。
 規則性なく、そこかしこにつけられたバツ印は、レイリアの外側の方がどちらかといえば多い。しかし内側にも、いくつもバツ印がつけられている。
 例えば大図書館にも印がついているし、居住区画や商店街区画にもいくつかの印がつけてあった。反対に、ギルド酒場にはついていない。
「これをもう少し細かくしていって、よどみの深さを調べていけば、どのあたりに原因がありそうなのか、わかるかなって思ってるんだよね」
「ただ、その深さを調べるやり方が問題なの」
 フローレンスも地図に視線を落として、エミリーの説明を引き継ぐ。
「作物や人に影響が出始めているとはいえ、魔物が生まれるほどではないから……微妙なところなんです。明確にどこが深いのか、どこからよどみだしたのかを測るのが難しくて」
 一応のあたりはついているけど、確証なしに動くには色々と問題も多いから、とエミリーが付け加える。
 この二人はすごい。ノアは素直にそう思った。
 ギルドを除いて、大人たちのほとんどが諦めて下を向いてしまった課題に、取り組み続けてきたのだ。
 仮説を立て、できる範囲でそれを実証しながら調査を続けてきた。本当にすごいことだ。気持ちを熱くして、ノアは思わず身を乗り出す。
「僕にできることっていうのは?」
「印のついた場所に、図書館のときと同じように魔力を流してみてほしいの」
「魔力炉とか誰かにではなくて、地面にってこと?」
「そう。魔力炉だって、生きている誰かではなくて、物なわけでしょ? それなら、地面にも流せるかもって思ったんだよね」
「地面に僕の魔力を流し込んで、よどみを押し流す……みたいなイメージ?」
 よどんだ大地を浄化できるかもしれない?
 そこまで考えてから、ノアははっとする。
 図書館の機能は十日ほどで停止した。原因はもちろん炉の魔力を使い切ったからだが、それと同じように、いくら魔力を流したところで、それを使いきって再びよどんだ魔力が入り込んでしまえば、浄化はできないのではないだろうか。
 ノアの考えを察したように、フローレンスが説明を続ける。
「一時的によどみを薄めて、それがどの程度で元に戻ってしまうのかを調べたいんです」
「元に戻るのが早ければ、それだけ原因に近いってことでしょ? そこから根本的な原因を辿るのが最終目標。図書館の時以上の負担をかけてしまうし、もしかしたら上手くいかないかもしれない。それでも、力を貸してもらえないかな?」
「もちろん。ずっと言ってるとおり、僕にできることならなんでもするつもり」
 二人はほっとした顔でノアに礼を言うと、「そうしたら、早速実験する日を決めようか」と立ち上がった。
 聞けば、時間がある程度ずれるのは仕方ないとしても、なるべく同じ日に、バツ印すべてに魔力を流しておきたいということだった。
 魔力切れのことも考えて、まずは外周の各方位に魔力を流し、それから細かいところや、余裕があればレイリアの内部まで手を広げていこうということになった。

 *

「それで、どうしてこんな大人数になっちゃったんです?」
 フローレンス、エミリーと相談してから三日後。ノアはレイリア北門の前にいた。
 この大陸では、ある程度以上の規模に都市が成長すると、外周を塀と堀で囲み、いくつかの門を設けるのが一般的だ。
 大きな都市は当然ながら人口が増える。人口が増えれば魔物が寄ってきやすくなる。面積の広くなった都市で魔物を防ぐためには、ギルドの戦力補充に加えて、塀や堀を築いて、都市そのものの守りを固める必要がある。
 というのが大義名分なのだが、その裏側には、都市やギルドの機密を守りやすくする意味もあった。
 程度は都市によって違うものの、門に人を配置して、怪しい人物の出入りをチェックするのだ。
 例えば王都には、ものものしい騎士団が常駐していて、場合によっては荷を改められることもある。
 シーヴの場合はギルドが門を管理していて、目に止まってしまった余所者は、滞在期間や目的をしつこく聞かれたりする。
 ノアがその役目を担ったことはなかったが、かなり無茶な要求もやっているという噂は聞いたことがあった。
 それではレイリアはどうかといえば、十本の巨大な柱と、それを繋ぐように設けられた簡易的な塀と門があるのみで、堀はなく、配置された人員も最低限だ。
 元々は魔物の少ない地域だったことから、強固な防備はしておらず、大図書館を広く解放したいとの方針から、人の出入りにもあまり制限をかけていない。
 不釣り合いなほど立派な十本の柱は、ノアが危うく魔力を流し込むところだった、大図書館と繋がる古代の遺物だ。
 近年では、柱から古代の金属を削り取っていけないかと考える輩も増えたらしいが、並の刃物や魔法ではびくともしないとのことだった。
 フローレンスの祖父が生まれる前から、すでに柱は塀の一部に組み込まれていたらしい。
 遺物の話はともかく、人の出入りも魔物の対策もそれなりにしていたことが、最近になって、残念ながら負を生んでいた。
「お前らだけには任せておけねえからな」
 腕組みをしたパイクがぴしゃりと言った。
「それにしても、こんなに引き連れてこなくてもいいのに。私たちってそんなに信用なかったっけ?」
 聞き返したエミリーの声は低い。ぴり、と場の空気がかたまる。
 北門に集まるはずだったのは、ノアとエミリー、フローレンスの三人だけのはずだった。
 それなのに、パイクやジェマなどのギルドの主要メンバーに加え、デイビットとサラ、そして議会の議員数人まで出てきている。
「理由はふたつだ。ひとつめ。図書館の一件に続いて、そこら中に魔力をぶん投げまくるって話じゃ、さすがにノアの能力を隠しとおせねえからな。それなら、見てもらっちまった方が早いだろって話だ。ふたつめ。そもそも、お前もノアもうちの所属だ。図書館さまのわがままに付き合って、無償で使い倒されちゃかなわん」
 ギルドのメンバー二人を無償で丸一日差し出すとなれば、パイクの言い分も正論ではある。しかも、エミリーはもちろん、今ではノアもギルドの中心メンバーだ。穴があけば、魔物討伐や他の仕事に支障をきたす。
「わがままって、そんな言い方ないでしょ。レイリアのための、大事な……!」
「お前が言ってるレイリアってのはなんだ。図書館か? このハコのことか? 違うだろうが。ここで暮らしてるやつら全員をひっくるめてこそ、レイリアじゃねえのか」
「じゃあパイクは、どうすればいいと思ってるわけ? このまま放っておけばいいと思ってるなら、ギルドを抜けてでもこっちを優先するから」
 パイクとエミリーの間に、一触即発の空気が張り詰める。
「ごめんなさい、わたしが軽率でした」
 割って入ったのはフローレンスだった。
「直前で申し訳ありませんが、きちんとした依頼として、調査をお願いします」
「あっはっは、そうこなくちゃな! ここにいるやつらも、ほとんどはそのつもりで連れてきてんだからな」
「パイク! こんなときにそんな、お金なんて」
「駄目だっつってんだろ。俺にはギルドのやつらを食わせる責任がある。本当は図書館の件も依頼にしてほしかったくらいだ。あれもこれも、無償でお手伝いってんじゃやってらんねえんだよ」
「信じらんない、心ってもんがないんだから」
 腕組みをしてそっぽを向いてしまったエミリーを、フローレンスがなだめる。
「いえ、今回はパイクさんのおっしゃるとおりです。ノアさんの能力に舞い上がって、あれもこれもと無茶なお願いをしてしまうところでした」
「おう、そっちから言い出してくれて助かったぜ。これで堂々と胸を張って人を出せるってもんだ。あっちの時は無償でやったじゃねえかなんて、どこかの誰かさんにつけいられる隙も潰せる。うちの評判も上がってランキング上位も狙えるってもんだ。完璧だろ、あっはっは!」
 パイクは大笑いしているが、エミリーは仏頂面だ。
 ノアは、どちらの言い分もわかるものの、少し反省していた。
 ギルドの仕事の休日に、ちょっとした手伝いをやるならいい。
 しかしノアは、図書館のときに一度、酒場の仕事を休ませてもらっている。
 そこにきて、今度は大規模な調査をギルドを介さずにやるとなれば、パイクとしても物申すしかない。
 ギルドはあくまで中立の立場だ。図書館長からの依頼だけは無償で受けているなどと広まれば、バランスが崩れてしまう。
「ごめん、パイク。もう少し考えればよかった」
「いいってことよ。ざっくりはしてたが報告はもらってたしな。レイリアのためにっつうお前さんの気持ちも、嬉しいもんさ」
「パイク……私もごめん。ちょっと先走りすぎちゃったみたい」
 ようやく仏頂面をやめたエミリーが、ノアと並んで頭を下げる。
 パイクは大口を開けて笑い飛ばすと、「いいってことよ」と二人の肩をばしばしとたたいた。
「……なんだか、聞き分けが良すぎて怪しいですね」
 話がふんわりとまとまりかけたところで、ジェマがパイクをじろじろと観察する。
「どうしたのかね、ジェマくん。俺の顔に何かついているかな?」
「いえいえ、どうやら何もついていないようです」
「そうだろうそうだろう」
「顔には何もついていませんけど、部屋にあったあれはなんですか? ずいぶん高かったのでは? 例えば、大口の依頼がすぐにでもほしくなるくらいには」
「げ、もう見つかったのか!? 違うんだ、あれはギルドのためを思えばこその先行投資で!」
 慌てたパイクの反応を見て、ジェマの瞳から光が消え、口元がすうと薄い三日月を作る。
「言ってみただけだったんですが、なるほど。そのお話、今すぐ詳しく聞かせてもらえますね?」
 にっこり笑うジェマと、ひきつった顔のパイクを中心に、時が止まる。
 このとき、北門から発せられた野太い男の悲鳴は、対極にある南門まで響きわたったという。
 パイクへの取り調べとお仕置きはあったものの、とりあえず落ち着いた一行は、北門から右回りに、ぐるりと一周することに決めて歩き始めた。
 先頭は頬をさすりながらふらふらと歩くパイクと、ギルドの護衛数人。
 ノアはその後ろ、地図を広げたエミリー、フローレンスと並んで歩いている。
 ちらりと後ろを振り向くと、議員数名やデイビットたちが続き、両脇と最後尾を、他の護衛メンバーが固めている。ずいぶんと厳重な布陣なのは、デイビットたちや議員がいるためだろう。
 ノアたちだけであれば、守るのはフローレンスだけでいいが、護衛対象が増えればそれだけ人数がかかる。
 なんだか、すっかり大事になってきてしまった。ノアは少し緊張しながら、エミリーが持つ地図を覗き込んだ。
 地面に魔力を譲渡する試みが、どこまで上手くいくかはわからないが、なるべく一定量の魔力を各印の場所に流し込んで、経過を観察する。
 魔力のよどみがより深い場所や方角がわかれば、対策を立てるヒントに繋がるはずだ。
 レイリアのすぐ近くには、シーヴ近くの死の谷のような場所はない。
 しかし、死の谷と同程度の距離には、それこそ東西南北の各方角に、魔物が発生しやすい場所があるにはあるらしいのだ。
 その中のどれか、あるいはまったく別の新しい場所で、魔力の流れが変わってしまい、レイリアによどんだ魔力が流れこみやすくなっているのではないか。
 それが、フローレンスとエミリーがたてた仮説だった。
 仮説にしたがって、発生源と思われる各所へ大規模な調査隊を送り込みたいのはやまやまだが、今のレイリアにそこまでの地力はない。
 パイクやエミリー、ジェマなどのギルド中心メンバーは確かに強いが、ノアのサポートなしでは、王都や五大都市ギルドの中心メンバーに敵うほどではない。
 加えて、都市周辺の魔物も増えているし、人が離れていく中で色々な物資も手に入りにくくなっている。まだ表面化はしていないが、作物の育ちが悪くなっていることで、食料難も時間の問題だ。
 ノアがレイリアにやってくるきっかけとなった買い出しもそうだが、すべての問題に、ほとんどギルドだけで対応している状況だ。大規模な部隊を送り込むには、何もかもが足りない。
 せめてもう少しだけ、調査対象を絞り込む必要があった。
「こいつはなかなか、荒れてんな」
 最初の印をつけた場所である畑を眺めて、パイクが表情を暗くする。
 レイリアに限らず、各都市の門から出た先、街道沿いは畑やら果樹園やらが乱立していることがほとんどだ。
 生活のすべてを塀で囲うのは難しい。かといって、食料は蓄えていかなければならない。それなら、何かあったときにすぐ逃げやすい場所で、生活の糧を作っていくしかない。
 農業に特化した都市も存在するし、そうした都市からの流通で全体的な暮らしが成り立っている部分はもちろんあるが、現在のレイリアのように、食料を自前で確保できる量が如実に減っていくのは、まさしく緊急事態だ。
「このへんもまあ、まだ食えなくはないな。煮込んじまえば変わらんさ、あっはっは!」
 しなびた葉物をひょいとつまみあげ、パイクが大笑いする。
 パイクは、事態が危ういときほど大きな声で笑う癖があるのだと、ノアは気づき始めていた。
 笑い飛ばして、味方を鼓舞して、その間にフル回転で対策を考える。軽薄そうに見えて、きちんとギルド長としての仕事をやっている。もちろん、やっていないときもあるが、基本的にはやっているはずだ。
「それじゃあノア、さっそくお願いできる? できればどこも同じくらいの量を流して観察したいんだけど……調節ってどれくらいできるものなの?」
 エミリーがわざと明るい声を出す。ノアは軽くうなずいて畑に近づいていった。
「デイビットさんからもらったプレゼントのおかげで、ちょっと加減がわかってきた気がするんだ。大体同じくらいの量に調節するのも、できると思う」
 ノアはそう言って畑の手前でしゃがみこみ、そっと耕された土に手を触れて、想像する。
 綺麗な魔力と栄養が満ちた元気な土。そこに育つみずみずしい野菜。よどんだ魔力を追い出すイメージで、四角く区切られた畑全体に、魔力を染み込ませていった。
 畑の枠がはっきりしているおかげで、そこからはみ出さないようにする意識もしやすく、ノアは魔力を暴走させることなく、畑をきらきらと輝かせた。
「改めて見ると、とんでもねえな」
「本当に、すごい……!」
 パイクとエミリーが感嘆の声をあげる。
 畑から立ち上っていた嫌な気配が消え、かわりに生気に満ちた空気があたりを包む。
 水や肥料はやっているのに元気がない。誰かがそうこぼしていた作物が、必死で顔を持ち上げ、日の光を浴びようとしている。
 そこには土地の魔力がよどむ前の、あるいはそれ以上の良質な環境がよみがえっていた。
「とりあえず、なんとかなってよかった」
「……とりあえずなんとかなった、どころじゃありませんね」
 フローレンスの表情は、喜びをとおりこして、いっそ悔しそうだ。
「念のため聞くけどノア、まだまだいけそうだよね?」
「うん、大丈夫」
「そうですか、わかりました」
「……あの、何かまずかった?」
 肩を落とし、うつむいてしまったフローレンスに、ノアがおそるおそる声をかける。
「ふ、」
「ふ?」
「ふふふふ、これなら本当に今日一日ですべての印を回りきれるのでは? もうやっちゃいましょうか。そうです、それがいい。全部やって、皆さんにも見せつけてしまえばいいんです!」
「ええと?」
 がばっと顔を上げたフローレンスの目は、完全に据わっていた。
「本気で今日中にレイリア一周しちゃいますか! いけますか? いけますよね?」
「えっと、うん。多分……いけると思うけど」
「本当にいけんのかい! 規格外すぎるやろがい! よーし、決めた! 今日中にキメちゃう!」
「あっはっはー! 盛り上がってきたじゃねえか!」
 何かが外れて高笑いするフローレンスに、通常運転のパイクが油を注ぐ。
「んふふふふ、この間よりさらに洗練されているね……ロッドの試運転をしてもらおうと思ってきたのに、これは完全に作り直しじゃないか! サラ、帰るかい!?」
「いや、落ち着け父さん。見ていった方がいいんじゃない? さわりだけ見て作り直しても、作り直しの作り直しになっちゃうかも」
 乾いた笑いの渦に、職人としてのプライドが傷つけられたらしいデイビットが加わる。大笑いしながらずんずんと進んでいく三人に、残りの面々は苦笑いでついていくしかなかった。
「フローレンス……大丈夫?」
「大丈夫なわけないやろがい!」
 ノアが差し出した手を振り払って、フローレンスが噛みつかんばかりの剣幕で叫ぶ。
 日が落ちかけた頃、本当にレイリアを一周し、主要な印の場所すべてに魔力を注いで北門に戻ってきたところで、全ての気力と空元気を使い果たしたフローレンスが、崩れ落ちたところだ。
 その後ろには、びくんびくんと痙攣して、とっておきとして手渡すつもりでいたロッドを抱きしめ、むせび泣くデイビットが転がっていた。
「本当の本当にぜんぶキメつくすなんて……今までのわたしたちの苦労はなんだったの」
「あといくつか、レイリアの中の印が残ってたよね? どうする?」
「まだまだいけんのかい! このど変態のど天才が!」
 顔をあげたフローレンスは涙目になっていて、これにはノアもエミリーも、苦笑するしかない。
 ノアの能力を初めて目にする議員たちも驚いてはいるのだが、フローレンスとデイビットのインパクトが強すぎて、驚きを表に出しきれずにいる。
「お前さん、うちに来た初日よりかなり成長してるじゃねえか。やっぱり無自覚でやってんのと意識して努力すんのとでは、伸びが違うってこったな」
「魔物の討伐でも、使いどころをパイクが指示してくれるおかげだよ。それに、デイビットさんがくれた訓練用のこれもすごく助かってるし」
 ノアは、三つの球体を体にそわせるように移動させながら、くるくると回してみせる。
 少し前までは、肩の上にとどめてぎこちなく回すのが精一杯だったが、コツをつかんでからは自由に動かせるようになってきた。
「ちょっとちょっと、どんな精度で魔力使ってるの、それ」
「球体三つに別々の動きをさせながら、速さも制御して……なんなんですか、それ」
 これに目を丸くしたのはエミリーとジェマだ。
 ノアがゲーム感覚で楽しんでいた訓練は、高度な魔力制御と操作が必要な高等技術だった。レイリアに来て、能力を自覚してからというもの、ノアはとんでもない速度で成長を続けている。
 ぽかんとする面々をよそに、仰向けに転がっていたデイビットが急に起き上がり、ノアが回す球体を凝視した。
「それだ……!」
「あ、デイビットさん。大丈夫ですか?」
「んふふふふふ。ぼくはこれで失礼するよ。サラはどうする? そうか好きにしなさいじゃあね」
 サラの返事を待つ気がまったくない早口で言いきると、デイビットはふらふらしつつものすごい勢いで帰っていってしまった。
「悪いことしちゃったかな、試作品をもってきてくれてたみたいだけど」
「いいのいいの。持ってきたやつじゃ、今のノアが使ったらすぐに壊れちゃうと思うし」
 ノアは申し訳ない気持ちになったが、その肩を軽くたたいて、サラが首を振った。
「何か思いついたみたいだし、もう少し時間はかかっちゃうけど期待しててよ。父さん、完全に本気の目だったから、すごいの作ってくると思うよ」
「それでどうすんだ? とりあえず、日が落ちきる前に門の中に戻れた方が、護衛の身としちゃありがたいんだがな」
「中もやっちゃおうか、せっかくだし」
「そうだね。フローレンス、それでいい?」
「……驚きつかれて、情緒がどこかにいっちゃいました。せっかくだし、そうだね。そうしようか」
 つきものが落ちたようなフローレンスの号令で、ノアたちはレイリア内部の数か所の印にも、魔力を流し込んだ。すべての作業を終えてギルド酒場に戻ってくる頃には、さすがに夜遅くになっていた。
 ついでだからと、ノアたちはフローレンスやサラといっしょに、大人数が座れるテーブルを借りきって、軽食をとることにした。
「本当に全部やっちまったな。とんでもねえやつだぜ、お前さんは」
 ぐびぐびとジョッキ一杯の酒を飲みほして、パイクが笑う。
「さすがに少し疲れたけどね……この後はどうするんだっけ?」
 ノアは小さめのパンをちぎって口に入れて咀嚼し、飲み込んでからエミリーとフローレンスに確認した。
「経過を観察して、よどみやすい方角や場所を特定するの」
「正式な依頼としてお願いしたから、ギルドからも人を出してもらえるし、観察の取りこぼしはないはずよ」
「何日くらいかかるかは……今すぐにはわからないよね?」
「まあ、そうだね」
「少し余裕があるなら、お前さん少し休んだらどうだ?」
 ぐびぐびとジョッキ一杯の酒を飲みほして、パイクが笑う。
「あれ。パイク、ペース早すぎない? ついさっき、一杯飲んだばっかりじゃ……」
「気にすんな。とにかくだ、こっちきてから働きづめだろ。酒場や魔物の討伐だけじゃねえ、図書館に今日の仕事に……だからな、少しゆっくりしろって話だ」
 ぐびぐびとジョッキ一杯の酒を飲みほして、パイクが笑う。まったく同じ光景が三度も繰り返されれば、さすがに気になる。今日のパイクは、しゃべるたびに一気飲みするつもりだろうか。
「嬉しいと飲みすぎる癖、本当に気を付けた方がいいよ」
 エミリーが冷たい顔をする横で、パイクはさらにおかわりを頼んでいる。
「そりゃあ嬉しいに決まってる。議員連中の顔見たか? やっぱり頼れるのはギルドしかいない! ってなもんで、きらきらした目をしてたじゃねえか。本当は俺たちだけでも順番に遠征して、原因をつぶしてやろうとも思ってたけどよ。主力がまとめて外に出るのを嫌がるからな、議員様は」
 ノアにも少しだけ、話が読めてくる。
 パイクやギルドの面々も、エミリーとフローレンスの取り組みをただ眺めていたわけではなかった。
 ただし、立場上、レイリアで暮らす人々や議会からの依頼、そして周辺の魔物討伐を優先せざるを得ず、大胆に動きづらかった。
 今日一日、議員数人にも調査の現場を見せ、ノアの能力を間近で確認してもらうことで、遠征の許可を取りやすくする狙いがあったのだ。
「それならなおさら、僕だけ休んでる暇はないような」
「いやいやいや。頑張ったやつには相応の報酬と時間をってのがうちのやり方だ。ここでお前さんが休んでくれねえと、他のやつらも休みにくくなる。こいつはギルド長命令だからな」
「……わかった」
 急に休めと言われても、正直なところ、ノアは困ってしまう。
 魔物の討伐は魔力譲渡のいい訓練になるし、酒場の仕事も新鮮な体験で、少しずつ仕事を覚えてやりがいを感じてきたところだ。
 なんとなくふわふわした気持ちで、どうしようかと考える。
「ノア、何日か余裕ができるのなら、図書館にくればいいんじゃない?」
 自分の皿を空にして、人心地ついたらしいフローレンスが、にっこりと微笑む。
「図書館に?」
「まさか忘れてないよね? あれよ、あれ。できることはなんでもしておきたいんでしょ?」
 フローレンスが言っているのは、例の詠唱加速の魔導書の話だ。
 彼女自身が試したところによれば、ないよりマシ程度の効果だったらしいが、確かにフローレンスの言うとおり、できることはしておきたいし、今がいいタイミングに思えた。
 ノアはにっこりと笑みを返して「そうだね、じゃあそうしようかな」と答える。
 この一冊の魔導書が、ノアをまったく別の次元へ連れていくことを、ここにいる誰もがまだ知らずにいた。
 館長室の隠し扉をくぐり、室内へ足を踏み入れる。
 フローレンスから渡されていた、携帯用のランプをかざして進んでいく。
 ノアが一度は回復させた図書館の各機能は完全に停止し、魔法灯に回す魔力もすでに底をついている。室内は真っ暗だ。
 靴音だけを響かせて、目当ての魔導書の書棚までゆっくりと進んでいった。
 館長室か、館内のどこかにフローレンスはいるにせよ、今この室内にはノア一人だけだ。
 考えてみれば、レイリアに来てからというもの、ほとんど誰かといっしょに行動していた。
 シーヴにいた頃は、一人でいる時間の方が多かった。しかも大抵は雑用を言い渡されて、それをこなす虚しい時間だ。
 ギルドのメンバーといるときも、ノアに話しかけてくる者はほとんどいなかった。話しかけられたとしても小言か罵声ばかりだったので、一人の方が気が楽だと思っていたくらいだ。
 今は違う。皆がノアに笑顔で話しかけてくれるし、ノアから話しかけても邪険にされることはない。
 また、一人でいても、以前のような空虚さはない。
 自分にできることをして、得た力を仲間のために、レイリアのために使いたい。
 強い気持ちがノアを突き動かしていた。
 目当ての魔導書の前までやってくる。
 古代魔法の魔導書は、一冊ずつがケースに入っており、フローレンスに借りた鍵がなければ開けられない。
 ランプを脇において、魔導書の表紙を撫でてみる。
 不思議な気持ちだった。手持ちのランプしか明かりはないはずなのに、魔導書の表紙が鮮やかなブルーであることがわかる。
 鼓動が早くなっていることに気づき、気持ちを落ち着かせるために、デイビットにもらった三つの球体を操り、くるくると動かしてみた。
 パンツのポケットに入れてあったそれらを浮かばせ、右腕から肩を通って、左手の指先からランプの上へ。
 全身に魔力がみなぎっているし、コントロールもいい。ノアは一人でくすりと笑った。
 そっと両手で魔導書に手を伸ばし、丁寧に開く。
 何も考えずにぱらぱらとめくっていくだけで、導かれるように目当てのページが開かれる。
 魔導書はそれ自体が、目当ての魔法を身に着け、術者に染み込ませるための補助術式になっている。
 正しいページの正しい文字列を唱え、その魔法を身に着けるのに必要な魔力……つまりは、魔導書内のすべての術式が正常に機能するに足る魔力を捧げることによって、その魔法は術者のものとなる。
 効果の高いものや希少価値の高い魔法ほど、身に着ける難易度は高くなる。すべてを正しく行っても、魔法との相性が悪く身につかないこともある。少ない事例ではあるが、失敗したうえに副作用が出ることだってある。
 よほど相性が悪くなければ危険はない、とフローレンスは言っていた。
 それなのに、やけに鼓動が高鳴るのはどうしてだろうか。一人きりのせいなのか、暗い部屋のせいなのか、それとも。
「考えてもしょうがないか」
 言い聞かせるようにつぶやいて、ノアは開かれたページを見つめる。
 唱えるべき呪文を記した文字列が、ノアの魔力に反応して暗がりに浮かび上がる。
 そこでふと、あれと思った。
 一般的な魔導書であれば、しかるべきページの先頭から末尾までを読み進めていくのが普通だ。
 しかし、浮かび上がった文字列は、まるで虫食いのように、ぎっしりと記された文字列の一部が飛び飛びになっていたのだ。
 唱える前に、フローレンスに確認してみるべきだろうか。
 いや、忙しいフローレンスに隠し扉を開ける時間をとってもらっただけでも、申し訳ないくらいだ。フローレンス自身も試して、身に着けている魔法だ。古代の魔導書なら、現在の一般的なものと記述の形式が異なっていても、そういうものなのかもしれない。
「よし……!」
 覚悟を決めたノアは、唱えるべき文字列をなぞりながら、一言ずつそれを声に乗せていく。
 ずるりと、芯からごっそりと持っていかれるような、不思議な感覚があった。
 景色が傾いて、慌ててケースに手をつき、魔導書から目を離してあたりを見回す。
 違う。傾いているのは景色ではなく、自分の身体だ。ノアは必死に意識を集中させ、どうにかその場に踏みとどまる。
 魔導書に視線を戻し、文字列を紡いでいく。重い。ずるずると、普段は使っていない、開けてはいけない場所から魔力が引きずり出されていくようだ。
 身体がだるくて熱い。それなのに寒い。意識がとびそうになるのに、唱えるべき文字列がやけにくっきりと浮かび上がる。
 途中でやめてしまうのは、悪手中の悪手だ。
 まだ身に着けていない魔法の詠唱を中止してしまうと、跳ね返ったそれがどんな副作用をもたらすかわからない。
 半ばまできたところで、ノアは一度、大きく息を吸い込んだ。
 自分の中の、開けられたくない箱にきっちりと蓋をする。これ以上、そこから持ってはいかせないと魔導書に宣言する。
 幸い、続きの文字列が唱えられるのを、魔導書は大人しく待っていてくれるようだ。
 急かすことも、跳ね返すこともしてこない。それならと、ノアは大切な箱を守るようにして、自身の中で魔力を膨らませていく。
 工房の魔力炉に注いだときのことを、図書館の魔力炉に送り出したときのことを、そしてレイリア全体の地面に流し込んだときのことを、順番に思い出す。
 どうすればより大きく、密度の高い魔力を、自分の身体の中だけで生み出せるだろうか。
 ぼんやりとノアの身体が発光を始める。光は魔導書にも伝わり、続きの文字列が明滅する。
 身体が浮き上がるのを感じ、ノアはさらに集中した。
 ここで魔力の放出に身を任せてしまえば、図書館の魔力炉のときと同じように、暴走してしまうかもしれない。
 そんなことはさせない。
「お前を使うのは、僕だ――」
 はっきりと言いきったノアに呼応するように、魔導書の放つ光が強くなる。
 身体中の魔力が、すべて吸いとられていくような気分だった。
 しかし、敵意や悪意は感じない。もっとも大事な部分だけを残し、ノアはありったけの魔力を魔導書に預ける。
 魔導書とノアの身体から、白と黄色、緑の淡い光の粒があふれ、部屋中を駆け巡る。
 書棚にぶつかり、はじけ、細かくなった光の粒子は、きらきらと瞬きながら戻ってきては、ノアの身体にするすると吸い込まれていく。
 最後の文字列を唱え終わり、すべての光がノアの中へと吸収され、静寂が訪れる。
 ノアは確かに、何かが自分のものになった手ごたえを感じていた。
「やった……」
 そしてそのまま、傾く身体を今度こそ支えきれず、ノアはその場にうつ伏せに倒れこみ、意識を手放した。
 ノアが目を覚ましたのは、日が落ちてしばらくしてからだった。戻りがあまりにも遅いことを心配したフローレンスに発見され、館長室のソファで応急処置を受けたのだ。
 大急ぎで呼び出された医者によれば、症状は完全に魔力切れのそれで、他に異常はないという。
 当のノア自身も、倦怠感は感じられるものの、身体が痛むことも、記憶が混濁することもなかったため、念のためギルドから人を呼び、自分の足で帰ることになった。
 迎えに来たパイクは、ノアが魔力切れだと聞いて目を丸くしたが、その場で詮索はせず、フローレンスに礼を言って医者に診察代を支払うと、手早くノアを連れ出してくれた。
 ギルドに戻る道中でいくらかの説教をされた気がするが、頭がぼんやりとしていたノアは、あまりよく覚えておらず、そのままベッドで深い眠りについた。
「まったく、心配かけやがってよ」
「ごめんなさい」
 翌朝、ギルド酒場に起きていくと、ノアはいくつもの心配そうな顔に囲まれた。
「さすがのノアも、疲れがたまってたってところか? 館長どのでも身につけられた魔法で魔力切れとはな」
「違うんだよ、あれは」
 万全の状態から、ほとんどすべての魔力を吸い取られたことを話すと、魔導書のことはちょっとした騒ぎになった。
 すでにそれを唱えてしまっているフローレンスも一緒に、念のため医者や魔術師からのヒアリングを受けさせられたし、魔導書自体も地下の禁書エリアに移されることになった。
 隠し扉の先の部屋は、図書館やレイリアへの貢献度によって、館長権限で解放しても問題ないとされていたエリアだ。ノアやフローレンスが責任を問われることはなかったが、古代魔法の魔導書には見直しが必要であるとの決定が議会でなされ、図書館の蔵書についても、大規模な整理が行われた。
 整理にはノアやジェマ、その他の魔術師数人も、ギルドが正式な依頼を受けて参加した。
 図書館の大規模整理と、ノアとフローレンスに対する個人的なヒアリングなどがひととおり落ち着いたのは、議会での議論も含めて、ノアが倒れてから三十日が経った頃だった。
「結局、何も身につかなかったのは残念だったよね」
 いつもの朝の水汲みの時間に、エミリーが残念そうな顔をする。
 ひととおりの事態が落ち着いたあと、ノアは身についたはずの魔法を試そうとした。しかし、どうやってもそれを使うことはできなかった。
 フローレンスが身に着けた魔法は目の前で見せてもらったし、自分でもあの時に流れこんできた確かな感触を頼りに、思いつく限りのことを試してみた。すでに効果が出ているのかもと思い、通常の魔法もやってみたが、どれも詠唱速度に変化はなかった。
 ばしゃばしゃと冷たい水で顔を洗い、空を仰ぐ。
 どんよりと曇った空は、そう簡単に楽はさせないぞとノアに忠告しているようで、ノアは思わず唇をかんだ。
 魔導書を利用して魔法を身に着けること自体は、そう珍しいことではないし、誰かにとがめられることでもない。
 しかし、あれだけの確信があったにもかかわらず、自分の中に何も残っていないことが、ノアはとても悲しかった。
「基礎を身に着ける勉強も、魔力制御の訓練も続けてるし、一歩ずつやっていくしかないよね」
 どうにか笑顔を返すが、ノアの心情は、エミリーに悟られてしまっている気がした。
「そうだ。ノアもフローレンスもばたばたしてたから話すのが遅くなっちゃったんだけど、例の調査の結果が出たよ。昨日で一応、病院も議会も一区切りついたんだよね? 今日、どこかで集まれる?」
 エミリーの号令でお昼過ぎにギルド酒場に集まった三人は、パイクやジェマたちギルドの中心メンバーも交えて、バツ印のついた地図を広げた。
 地図の印にはよどみが深くなるまでの日数と、ノアには基準がわからなかったが、その深さを表すであろう数値が細かく書き込まれている。
「北東が早いか……となるとやっぱり死の谷ってことか?」
「死の谷に異変が起きているなら、シーヴの方が先に影響を受けるのではありませんか?」
 金髪のつんつん頭をかきあげてパイクが眉をひそめ、隣にいたジェマが各都市と死の谷との位置関係を確かめるように地図を指でなぞった。
「これを見てください」
 フローレンスが、別の地図を取り出して広げる。
 バツ印がついているものより広域の地図で、細かい街道などは描かれていないかわりに、大陸全体の主要都市や危険地域が記されているものだ。
 通常の地図と違っていたのは、川のような流れが縦横無尽に、都市にもまたがるような形で描かれていることだった。
「これは魔力流の大まかな位置と流れを示した地図です。かなり古いものなので地形の変わってしまった場所もありますし、わたしたちが持つ知識や技術ではその流れを調査することはできませんが、おおむね合っているのではないかと考えています」
 フローレンスの言葉に、機能の一時復旧を聞きつけて戻ってきた数人の図書館職員がうなずく。聞けば、図書館が中心となって、レイリア近辺のみではあるが、魔力の流れが濃いとされている場所の調査を行った結果、地図に記された内容には一定の信ぴょう性があるとの結論に至ったのだという。
「シーヴを通って死の谷へと進んだ魔力流は、このように南に逸れていくとされています」
 地図を見ると確かに、死の谷から抜けた流れは、レイリアと、南西にある王都の間を抜けて南へ散っていた。
「北東方面で他に可能性があるとすれば、この流れですね」
 シーヴと死の谷を通る流れの少し北に並行して走り、レイリアをかすめて北西の山脈へ抜けていく流れを指さして、フローレンスが皆の顔を見回す。
「絞り込みきれなくて申し訳ないですが、あとはもう一本。この流れです」
 南から伸び、弧を描いてレイリアに北東から重なり、南西に戻っていく線を指さして、「つまり」とフローレンスが続ける。
「調査すべきは三か所。北西のナイン山脈、南の湿地帯、それから死の谷ということになります」
 集まった皆が、それぞれに難しい顔をしている。
 地図に描かれた魔力流は複雑に絡み合っていて、素人目にはどれがどうなっているのかよくわからないほど、たくさんの線が描かれている。
 当然、レイリアに関係する流れも十や二十ではきかないほどの数がある。
 その中で、仮説とはいえ、北東方面からレイリアに触れている三か所にまで絞り込めたのは、かなりの成果と言っていい。
 しかし、それでも三か所だ。パイクががしがしと髪をかきあげて、ばつが悪そうに口を開いた。
「館長さんよ、この地図を見ても俺には細かいところはわからねえが、可能性を三つに洗い出せたってのはすげえことだよ。本当にそう思う」
「それではさっそく、すぐにでも調査隊を」
「しかしだ」
 パイクがギルドの面々に視線を配る。仕方ねえから俺から言うぞ。そんな雰囲気だった。
「今のうちの頭数で、ここの守りまで考えるとなると、人は出せても一か所ずつだな。それにしたって、すぐには無理だ」
「そんな……よどみの深さは前よりひどくなっているんです。こちらの地図の数値はパイクさんもおわかりでしょう? この場にいる皆さんには申し上げますが、もはや一刻の猶予もないと考えます。ここで機を逃せば、レイリアはじきに、人の住めない場所になってしまうでしょう」
 吐き出したフローレンス本人が、一番つらそうな顔をしていた。ざわついていたギルドメンバーも、押し黙ってしまう。
 そこには、レイリア創始者の子孫である、フローレンス・レイリアだからこその重圧があるに違いなかった。
「フローレンスは、どこが一番怪しいと思う?」
 ノアはここで口を開いた。まっすぐにフローレンスを見つめ、意見を促す。
「……死の谷か南の湿地帯、かな」
「それはどうして?」
「ナイン山脈は流れの終着点……下流だから。北東と南なら、流れの元を確かめることができるし、ここからさらに絞るのであればこの二か所です」
「……一か所に絞り込むのは、どうしても難しい?」
 フローレンスが、悔しそうに首を振る。
 わかった、と言ってノアは立ち上がる。それこそ、専門的なことはノアにはわからない。だから、調査をするにあたっての精度で話をしようと思った。
「死の谷に絞って調査をしてみませんか? 僕はシーヴのギルドにいた頃に何度か魔物討伐に行ったことがありますし、特に魔力が吹き溜まりになっている場所だとかもわかります。絞り込めないのなら、より細かく調査ができる方を選んでみるのはどうでしょう? もちろん、湿地帯に詳しい方がいれば、そちらを優先しても構いません」
「ノア、お前さんの話は結局、出たとこ勝負ってことかよ?」
 険しい顔をするパイクを真正面から見つめ返して、ノアは「そのとおりです」と言いきった。
「時間があまりないのなら、何もせずに悩んでいる時間が惜しい。時間も人手もないのなら、自分たちで最善だと思える決断をして、全力を尽くすしかありません」
「ここの守りや他の依頼はどうすんだ? お前さんが思ってるより、うちは余裕ねえんだぞ」
 パイクだって、こんなことを言いたくて言っているわけではない。
 それがわかってしまったからこそ、ノアは言葉を飲み込んでしまった。酒場内に一瞬の沈黙が訪れる。
「じゃあ私もノアといっしょに行こうかな。ここの守りとか他の依頼は、皆でなんとかしてよ」
 張り詰めた糸を切ったのは、エミリーだった。
「おいおいエミリーさんよ、なんとかしてってのは流石に暴論じゃねえか?」
「あんまり根性論は好きじゃないけどさ、できるところまで分析した結果がこれなんだから。あとはノアが言うとおり、やってみるしかないんじゃない? 他の依頼はどうすんだ? なんてノアにすごむ方がよっぽど暴論でしょ」
「……あっはっは! 根性論は好きじゃないとか言いやがって、気合入れてみろだ? おもしれえじゃねえか」
 ばしっと自分の膝をたたいて、パイクが立ち上がる。
「そもそもお前ら、さぼりすぎなんだよ。気が付いたら魔道具の工房だの、図書館の魔力炉だの、古代の魔導書だのって理由つけて消えやがってよ」
「ちょっと、今それは関係ないでしょ!」
「だから今度は、俺もついてくぞ。きっちり仕事してるか監視してやるからな」
 パイクは、ふんとおおげさにそっぽを向いてみせてから、にやりと笑って視線を戻す。
「素直じゃないんだから……心配だからついていくって言えばいいのに」
「パイクは照れ屋だもんね」
「うるせえ、ノア! てめえ、それ言っときゃいいと思ってんだろ!」
 盛り上がるギルドの面々に対して、フローレンスが不安そうな顔になる。
「あの、ノアにエミリー、パイクさんまで出かけちゃって、ギルドの方は大丈夫なんですか? わたしが言うのもなんですけど……」
「それなら心配いりませんよ」
 パイクのかわりに答えたのはジェマだ。落ち着いた笑顔でにっこりとフローレンスに笑いかける。
「うちのギルド長を事務方や後方支援に置いておいても、何の役にも立ちませんから。実質的に依頼のやり取りだとかを回しているのは、他の優秀な皆さんです」
「えええ……俺の立場……」
「ついでに言えば、放っておくとすぐサボって楽しそうな方についていこうとするんです。そんなことをさせないように、私も同行しますのでご安心ください」
「うげ、本気かよ。それこそ、ジェマがいなくて事務方は回るのか?」
「もちろんです。私が教育した優秀な子たちがそろってますから。あなたは知らないでしょうけど」
 とどめを刺されてしゅんとなったパイクに、一瞬だけ視線をやってから、フローレンスがジェマに向き直る。
「パイクさんはともかく、ジェマさんが出かけるのは本当に大丈夫なんですよね?」
「フローレンス、その言い方はさすがにパイクがかわいそうかも」
 ノアが助け舟を出すが、それをさらりとさえぎって、ジェマが「大丈夫ですよ」と答える。
「依頼を回すのに長けた者は他にもいますからご安心ください。それに、パイクのお目付け役としても、チームバランスを見たときの回復要員としても、私が入る方が調査も進むと思います」
 そう言うと、ジェマは酒場の奥から二人の男女を連れて戻ってきた。
「こっちはシャロン、安心して依頼の受付と消化を任せられます。それからこっちはティム。情報収集と伝達、隠密能力に長けているので、異変があればすぐに知らせてくれるでしょう。二人とも、留守をお願いできますか?」
 パイクをきりきり働かせてさっさと戻ってきますから、少しの間だけですので。
 にっこり微笑むジェマに、二人がうなずく。
「ギルド長はともかく、ジェマさんがいないのは少し不安ですけど、頑張ってみます!」
「どいつもこいつも俺をともかく扱いしやがって。ずいぶんいい教育してんなおい」
「すごんでも無駄ですよ、そういうところをスルーすることもしっかり教育してありますから」
 がっくりと肩を落としたパイク以外のほぼ全員が納得して、その場は解散となった。
 死の谷が空振りだったときのことも考えると、とにかく時間がない。
 明日の朝には出立することに決まり、それぞれが準備のために動き出した。