大紀(だいき)は自然豊かな山の中を軽快に駆け抜けた。
 赤く染まり始めた山は美しく、穏やかな日差しと涼しくなり始めた軟らかな風が体を通り抜ける。楽し気に木々に飛び移りながら林を抜けると、その先には美しい小川があった。

 大紀が木の上から見下ろした小川は、太陽光を反射してキラキラと輝く。
 そこに、黒髪の少年が見えた。

 咄嗟に身をひそめてその少年を目で追いかける。上半身を屈めていた少年が体を起こして背中を伸ばすように上を向き、その美しい顔を太陽に晒した。
 それに吸い寄せられるように大紀が身を乗り出した。バランスを崩した足が木から滑り落ちる。体から遠ざかる木を掴もうと慌てて腕を振り回したが、努力の甲斐なく茂みの上に大きな物音を立てて落下してしまった。

 反射的に瞑っていた目を開くと、いつの間にこちらへ来たのか、見惚れていた美しい顔が目の前にある。
 彼の瞳は吸い込まれそうなほどの美しさで輝きを放っていた。

「きれー……」

 大紀は頭に浮かんだままの言葉を発した。
 その声を聞いた少年――元晴(もとはる)の表情に困惑の色が浮かぶ。

「なぜ動ける?」

 独り言のように呟いた。
 人を操る力で生き延びた元晴は、力が通じない相手を初めて前にして恐怖よりも焦りの感情を大きくした。

 この村で起こったことを知られては自分たちの静かな生活を奪われかねない。

 そう思ったからだ。
 腰に携えていた狩猟用の短刀を咄嗟に取り出した。戦う技術を持たない元晴は短刀を大きく持ち上げ、大紀目掛けて振り下ろす。

「あっぶない!」

 声を上げて大紀が転がった。
 元晴が大紀をキッと睨んで短刀を握り直し、振り回す。

「さっそく約束破っちゃったかも……」

 嗣己(しき)の顔を思い浮かべながら大紀は苦笑し、構えを取った。

 元晴の短刀が大紀の頭目掛けて振り下ろされる。元晴の横へ入り込むように体を捌きながら短刀を握りこんだ手を手のひらで受け、元晴の肩を後ろへ回してその中をくぐり抜ける。相手がバランスを崩したところでうつぶせに拘束し、短刀を奪って腕を捻り上げた。

 穏平(やすひら)の指導を受け続けた半年間、大紀は護身術を叩きこまれていた。

 それにしてもこんなに上手くいくとは。

 大紀は元晴を制圧しながらも、自分の能力が信じられないといった表情を見せた。

「お前何者だ! なんで俺の力が効かない!?」

 自由を奪われながらも元晴の瞳は光を失わなかった。固定された腕を解こうと抵抗するが、それはいたずらに体力を消耗するだけだ。
 大紀はその姿に罪悪感を感じて表情を曇らせた。

「うーん……。キミが暴れないなら解いてあげてもいいんだけど」

 困ったようにそう言うと、元晴はしばしの間を置いてから体の力を抜いた。

「……分かった。約束する」

 その言葉を聞いて安堵の笑みを零した大紀にあっさりと解放された元晴は、立ち上がると同時に一目散に走り出した。

「清光……!」

「清光って子がいるの?」

「あぁ!?」

 目の前の木の枝にぶら下がる大紀に元晴が声を上げる。
 急ブレーキをかけた足がもつれてその場に尻もちをついた。

「そんなに急いだら危ないよ」

木から降りた大紀が元晴を覗き込み、手を差し出して微笑んだ。

「お前……何なんだよ」



 大紀を撒くのを諦めた元晴は小川に戻ると着物や体を洗いはじめた。

 どうやらこいつは清光の存在を知らないようだ。ずいぶんと呑気な性格だし、ご希望通りに自分が引き留めた方が清光も安全だろう。

 そう思った元晴は、近くの岩場に座って自分を眺める大紀を追い払うこともしなかった。

「ねぇ、さっき言ってた清光って誰?」

 うんともすんとも言わない元晴を気にするそぶりも見せず、大紀が話しかけ続ける。

「血は繋がってないけど、僕にも春瑠(はる)っていう大事な子がいるよ」

 春瑠を思い浮かべる大紀の笑顔は幸せそうだ。

「……仲はいいのか?」

 その表情を見た元晴が、しばらく間をおいてから返事した。

「うん。色々あったけど、今は一緒に暮らしてる。春瑠の笑顔を見るとほっとするんだ」

 大紀と視線を交わした元晴が短く言い放つ。

「双子だ」

「そうなんだ! じゃあ元晴みたいに綺麗な子なんだね」

 しつこく聞いてようやく教えてもらえた名前を待ちわびたように呼び、笑顔を輝かせる大紀に元晴は顔を顰めた。

「おまえさぁ、俺に綺麗って言うのやめろよ。きもちわりいよ」

「いいじゃん。事実でしょ?」

 何がいけないのかと、首を傾げた大紀が元晴の瞳を見つめ、うっとりとした声で続ける。

「元晴の目がキラキラするのも綺麗で好きだよ」

 元晴はその言葉に複雑な思いを抱いた。自分の瞳を綺麗だと思った事がなかったからだ。
 人間離れした能力に反応して体の一部が異常な動きを見せる。元晴は自分の体ながらも、それを気味の悪いものだと感じて嫌っていた。

「俺は嫌いだよ」

「そうなの? ……じゃあ、元晴の分も僕が大切にするよ」

 困惑した元晴が視線を向けると、大紀は穏やかな笑顔を返した。



「お前、どこからきたんだ? 服も綺麗だし迷い込んだ訳じゃないんだろ」

 話題を変えようとした元晴が問うと、大紀は気まずそうに目を泳がせて嗣己の顔を思い浮かべた。

 さすがにこの質問に答えるのはまずいかもしれない。

 そう判断した大紀が視線を戻すと、いつのまにか目の前に現れた元晴が顔をグッと近づけて疑いの視線を向けていた。

「何考えてた?」

「えっいや……」

 深紅の瞳にまっすぐ見つめられて、大紀がわかりやすく動揺する。
 その隙を見て元晴が大紀の脇腹に手を回した。

「あっ! ちょ、何するの!?」

 体を這う元晴の指が大紀の身を捩らせた。

「オラッ、何しにきたか言え!」

「ひっやめ、て! やはははひぃっやめっ、はは、ヒィイ」

 予想のつかない動きをする指に翻弄されて大紀の笑いが止まらなくなる。元晴も楽しそうに笑うと今度は大紀の腕が伸びて、お返しと言わんばかりにくすぐられる。
 体を捩ってじゃれ合う二人は年相応の無邪気さを取り戻していた。


 ひとしきりじゃれ合うと、笑いとくすぐりに疲れた二人が横並びで寝ころんだ。

「こんなに笑ったの久しぶりかも」

 空を見上げながらぽつりと呟いた元晴に、大紀は村の様子を思い出した。

 元晴に一体何があったのか? 明継(あきつぐ)たちに春瑠を助けてもらった時のように、今度は自分が元晴の役に立ちたい。

 その思いが強くなっていく。

「元晴、僕……」

 大紀の言葉を遮るように、元晴が勢いよく起き上がった。そして唐突に走り出す。

「どうしたの!?」

 慌てて追いかけた大紀が聞くと、元晴が声を張り上げた。

「清光が力を使ってる!」