高台にある屋敷には襖で仕切られた部屋が3つ。化け物の寝所1つと謁見の間が2つ。それらは続き間になっており、あとは土間と人が暮らすための必要最低限の水回りが用意されている。

 ここに軟禁される世話役の女は玄関へ出ることが禁止されている。外との繋がりと言えば明継が最初に覗いた格子窓のみだ。

 春瑠(はる)と呼ばれた少女は格子窓のある部屋で、手の中のガラス細工をコロコロと転がし続けていた。目に光はないが、その唇は笑みを浮かべている。
 春瑠の心に宿るのは、

 ようやくこの生活から解放される。

 それだけだった。


 彼女は自分の運命を知っていた。
 新しい巫女が決まれば前任の巫女は喰われ、溶かされ、あの化け物の養分となる。
 逆らうつもりは微塵もなかった。早く自分の人生を終わらせてしまいたかった。穢された体のまま生きていくことは彼女にとって苦痛でしかなかった。

 指から零れおちたガラス細工が畳の上を転がっていく。慌てて拾い上げると、その目に微かに光が宿った。

大紀(だいき)……」

 その名前を呟いて、記憶を巡らせる。






 春瑠と大紀は霞月(かげつ)の里で産まれたが、里を抜けた時はまだ幼く、二人の記憶の始まりは二峯村(ふたみねむら)からだった。
 親の記憶がない大紀は春瑠の母を自分の母親のように思い、その母も大紀の事を自分の子供のように可愛がった。
 二峯村での暮らしは決して裕福ではなかったが、働き者の母と、面倒見の良い春瑠、やんちゃだが家族思いの大紀はお互いを支え合い、幸せな暮らしを送っていた。

 そんな暮らしに影が落ちたのは、春瑠の母が大神様(だいじんさま)と呼ばれる化け物――栖洛(すらぐ)に見染められてからだ。
 子供の生活は村に保証されたものの、親のいない生活は幼い二人には寂しく辛いものがあった。少しでも母の顔を見ようと春瑠と大紀は毎日神殿に通い続けた。母はすっかり痩せこけたが、二人がこっそりと会いに来てくれる時だけは微笑みを絶やさなかった。

 そんなある日の事、栖洛は春瑠に接見を求めた。春瑠は母と同じ場所で働けると思い、目を輝かせて神殿へ向かった。与えられた着物を着て行くと、暖簾の傍で母が泣きはらした顔で座っている。春瑠は不思議に思ったが、その涙が自分のための涙だったのだと知ったのは母が骨になってからだった。

 春瑠が巫女として働くための儀式を予定していた朝の事。春瑠と大紀が外に出るとそこには何かを引きずった後のような血痕が残されていた。それは高台に繋がる坂道から屋敷まで繋がっており、その中には血まみれの栖洛がいた。母は春瑠と大紀をこの村から逃がそうと、喰われながらも這いまわったのだ。
 村の人々は容赦なくそれを春瑠に伝えた。巫女という者の最期を知らせるためでもあった。
 春瑠は現実を受け止めきれずに泣き崩れ、大紀は”次は春瑠がこうなるのだ”と危惧した。力なく座り込んだ春瑠を村の男たちが栖洛の元へ引きずっていく。大紀は男たちを止めようと掴みかかったが子供が複数の大人の力に敵うはずもなく、儀式はあっけなく執り行われた。

 儀式の最中、顔をはらした大紀は屋敷の裏に座り込んでいた。
 屋敷中に響き渡る春瑠の悲鳴が永遠と聞こえるその場所で、膝に顔をうずめながら、力のない自分を呪って泣き続けた。



 儀式が終わると春瑠は軟禁され、大紀は栖洛の意志に歯向かった罰として家を追われ、誰もやりたがらない葬送の仕事や屋敷の触穢物処理などの仕事に従事させられた。顔を布で覆い始めたのもこの頃だ。

 それでも大紀は春瑠の傍で働けることに感謝した。今は自分にできることをやるのだと決め、毎日高台へ登っては清掃の仕事に励んだ。
 春瑠を一目見る事すら叶わなかったが、彼の頭に諦めるという文字はなかった。

 そのうちに季節は廻り、春瑠が巫女となったあの日と同じ季節がやって来た。
 いつものように大紀が高台の清掃をしていると、格子窓の向こうにぼんやりと座っている春瑠を見つけた。その瞳に光はなく、服も髪も乱れ、まるで別人のようだった。
 大紀は咄嗟に近くにあった花を摘んでその窓から散らすと、それに気がづいた春瑠の瞳に光が宿った。
 そして大紀の顔を見るやいなや、窓まで駆け寄り格子に腕をねじ込んで手を繋いだ。
 栖洛に見つかることを危惧して声は出せなかった。
 それでも優しげに微笑むその姿は元の春瑠そのものだった。

 その時、大紀は春瑠の笑顔を取り戻したいと心の底から思った。




 2人は時間を示し合わせて格子窓ごしに顔を合わせるようになった。
 大紀は毎日、美しいガラス玉や髪飾り、花を差し入れた。大紀の身分でそれらを手に入れるのは容易ではなかったが、春瑠の笑顔を見るためならばと手段を選ばなかった。
 毎日泣きながら奉仕を続けていた春瑠も、この時だけが日常を取り戻せる幸せな時間だった。

 今手の上で転がされているガラス玉も大紀が持ってきてくれた宝物の中の一つだ。
 心が乱れる時にこのガラス玉を握ると大紀が側に居てくれるような気がした。




 記憶の中の日々に目を輝かせていると

「春瑠」

 と、襖の向こうから名を呼ぶ声がした。それはおぞましく、この世のものとは思えぬ声色だった。
 春瑠はびくりと体を跳ねさせて小さく

「はい」

 と返事をして振り向く。
 するとそこには異形の者の触角がぬらぬらと体液を滴らせながら襖を開けている。

「明日、お前を喰う。その前に、今日はお前の力を存分に味わうとしよう」

 春瑠は唇を噛み、震えながら深々と頭を下げる。

「身に余る光栄でございます」