「武彦! 武彦!」

 中年を過ぎた女が泣き叫びながら、青年の体を揺さぶる。嗚咽が警察署の霊安室にこだまする。

 青年にはなんの反応もない。ただ、なされるがままにゆさゆさと揺れている。彼の母であるその女、カネは武彦の胸に顔をつっぷして大いに声をあげて泣いた。


 原田武彦、享年十七歳。


 製紙工場に勤務していた。母一人子一人で、幼い頃から聡明であったが、父のいない家計を助けるため、中学卒業からずっと工場で働いていた。

 彼には親しい友人も恋人もいない。温厚で人の好い性格であったが、引っ込み思案なところがあり、孤独の中に生き、母親のカネと、幼い頃から親しくしていた従妹だけが彼の心の支えであった。


 武彦は人に蔑まれることはないまでも、純朴さと几帳面さのせいで人に良いように扱われることが多かった。中学時代には同年の素行の悪い男子生徒たちから金品を巻き上げられていたという噂もあったが、戦争前後の当時、貧しいものたちが弱いものから奪っていくことは多く見受けられ、学校でも深くは追及されなかった。

 卒業し、学校から離れ、武彦の周囲もかなり変わった。同僚には年代の近い華やかな女性も多かったし、武彦のことを好男子と認めてくれる同年配の男子もいた。ただ、武彦は、自分の評価がどうであっても、謙虚で控えめな性質を変えることはなかった。

 親しくしていた従妹である綾子に「俺はどうあっても、出世など出来る人間ではないから」と本音をこぼすこともあった。そんな時、綾子は「いい、いい。武ちゃんは、武ちゃんの思うとおりに生きるのがいい。だって、優しいもの」と言って、慰めた。

 そんな武彦の日々が変わったのは、重森安喜良(あきら)に出会ってからである。
 安喜良は地方議員の息子で、二十歳にもなるのに、学校にも上がらず、職にもつかず遊び歩いていた。


 ある日、武彦が同僚に誘われて、初めて玉突きに行ったとき、隣の卓にいた安喜良に絡まれたのだ。他の同僚は上手く逃げたが、武彦はわざとゆうゆうと残り、他のものの盾になったのである。

 それに気づいた安喜良は武彦を仲間に引き入れようとしたが、武彦は毅然と断り、帰路についた。
 以降、安喜良は武彦に纏わりつくようになっていった。


「お母さん、俺に何かあっても、悲しまないでください」

 ある日、突然そのように語りだした息子に、カネは驚いて尋ねた。

「お前、なにか不安なことでもあるのかい?」

 武彦は首を振って、微笑んだ。

「俺には何も心配事はないですよ」

 だが、それから一週間後、武彦は無残な姿で発見されることとなった。


 犯人はすぐに捕まった。重森安喜良だ。安喜良は武彦の死骸が発見されてから二日後に、自ら警察に出頭した。

「事故だったのだ」

 安喜良はそう語った。玉突き場で安喜良と小競り合いになった隣の卓にいた男を止めに入った武彦を、安喜良は邪魔だと突き飛ばし、武彦は卓に頭を強打して死亡したのだと言った。


 母は泣いて、泣いて、泣いた。武彦の数少ない友人が武彦を誤って殺したのだと思うと、許せないと思う気持ちとともに、武彦が「許してやってくれ」と言っているような感じを受けたのだ。

 議員の息子という立場上、カネとは違う世界の人間のようにも思えて、恨みを安喜良に直接ぶつけることも出来ない。
 重森安喜良は裁判で、禁固五年を言い渡された。



 判決を聞いた安喜良は、人知れず笑みを浮かべていた。




 そんな武彦の日々が変わったのは、重森安喜良に出会ってからである。



 安喜良は地方議員の息子で、二十歳にもなるのに、学校にも上がらず、職にもつかず遊び歩いていた。



 ある日、武彦が同僚に誘われて、初めて玉突きに行ったとき、隣の卓にいた安喜良に絡まれたのだ。他の同僚は上手く逃げたが、武彦はわざとゆうゆうと残り、他のものの盾になったのである。



 それに気づいた安喜良は武彦を仲間に引き入れようとしたが、武彦は毅然と断り、帰路についた。



 以降、安喜良は武彦に纏わりつくようになっていった。







「お母さん、俺に何かあっても、悲しまないでください」



 ある日、突然そのように語りだした息子に、カネは驚いて尋ねた。



「お前、なにか不安なことでもあるのかい?」



 武彦は首を振って、微笑んだ。



「俺には何も心配事はないですよ」



 だが、それから一週間後、武彦は無残な姿で発見されることとなった。





 犯人はすぐに捕まった。重森安喜良だ。安喜良は武彦の死骸が発見されてから二日後に、自ら警察に出頭した。



「事故だったのだ」



 安喜良はそう語った。玉突き場で安喜良と小競り合いになった隣の卓にいた男を止めに入った武彦を、安喜良は邪魔だと突き飛ばし、武彦は卓に頭を強打して死亡したのだと言った。





 母は泣いて、泣いて、泣いた。武彦の数少ない友人が武彦を誤って殺したのだと思うと、許せないと思う気持ちとともに、武彦が「許してやってくれ」と言っているような感じを受けたのだ。



 議員の息子という立場上、カネとは違う世界の人間のようにも思えて、恨みを安喜良に直接ぶつけることも出来ない。



 重森安喜良は裁判で、禁固五年を言い渡された。







 判決を聞いた安喜良は、人知れず笑みを浮かべていた。
 病室に軽いノックの音がして、それを追ってすぐに声がした。

「伯母さん、綾子です」

 ひそやかな声だったが、芯と張りがあるおかげで、床に就いているカネの耳にもよく届いた。

「おはいり、綾ちゃん」

 戸を開けて入って来たのはおさげ髪が愛らしい少女だった。カネの枕辺に歩み寄った綾子の手を、カネはきゅっと握った。

「いつもありがとうねえ。迷惑かけてすまないね」

「迷惑だなんて」

 綾子は抱えていた風呂敷包みを解いて、洗濯してきた衣服をカネの床の脇にある、小箪笥にしまっていく。

「伯母さんは私のお母さんみたいなものだもの。孝行させて」

 綾子の母は綾子を生んですぐに亡くなった。その母代わりに、息子の武彦と一つ違いの綾子にも乳を含ませたカネは、確かに綾子にとって母と慕うものだった。

 武彦の死後、カネはもともと弱かった体の調子を崩し、入院していた。浴衣を纏った体は、今や骨と皮ばかりと見まがうほどに衰弱していた。綾子は一生懸命、カネに栄養をつけさせようと、料理やら菓子やらを運んでくるが、ほとんど手を付けられることはなかった。





 それから数日、カネの病状が急変したとの知らせを受けて、綾子は病院に駆け付けた。

「伯母さん、伯母さん、しっかりして」

 綾子がカネの手を取ってさすっていると、カネはうっすらと目を開けた。

「綾ちゃん……」

 カネの目に涙が溜まっていく。

「新聞の記者さんが来たの……。あの男が恩赦で刑務所から出てくるって聞いたのよ」

「まさか! まだ一年も経っていないのに!」

 カネが涙をぼろぼろとこぼす。

「悔しい、悔しいわ、綾ちゃん。武彦は帰ってこないのに。武彦を死なせた男がゆるされるなんて。なんで私はあの男の裁判をぼうっと見ていたのかしら。なんで、復讐してやらなかったのかしら」

「伯母さん……。仕方ないわ。事故だったんだもの」

 綾子の手を振り切って、カネは枕の下から一枚の名刺を取り出した。掠れたような、良く聞こえない小さな震え声で綾子にうったえる。

「この新聞記者さんがね、武彦の事件を調べてくれているの。重森安喜良の父親の不正を暴こうとしていて、武彦のことに疑問を持ったと言って。武彦はね、殺されたのよ」

 綾子はすぐに口を開くことが出来なかった。

「……そんな、まさか」

「重森安喜良はわざと武彦を突き飛ばしたって。見ていた人がいたの。武彦が倒れて動かなくなっても笑っていたって。それに、武彦は何度も殴られていたって言うのよ。それを、喧嘩両成敗だって言って警察は取り合ってくれなかったんだって。武彦はまだ子供なのよ、大人と喧嘩なんて出来るものですか。そもそも武彦が誰かと喧嘩をするなんて、あり得ないわ。ねえ、綾ちゃん。そうよね、綾ちゃん」

 カネは綾子にすがりつくと、わんわんと声をあげて泣き出した。

「殺してやりたい! 重森安喜良を殺してやりたい!」

 綾子はカネの肩を抱き、背中をさすってやることしか出来なかった。



 カネが眠ってしまってから、綾子は名刺をとって病室を出た。病院からすぐ近い公衆電話を見つけ、新聞社に電話をしたが、名刺を置いて行った藤田という記者は留守だった。電話をくれるようにとの伝言を残し、綾子は家に帰った。

 その夜遅く、綾子の家に藤田記者が訪ねてきた。

「電話より、直接お話しした方が良いと思ったので」

 そう言って頭を下げた藤田記者の頭頂部は少々、髪が薄くなり始めていた。



 藤田記者は綾子の父母の位牌が並んだ小さな仏壇に手を合わせてくれた。父が戦争から帰らなかったことや、カネが生活の面倒をみてくれていることなどを話すと、たいそう同情を示してくれた。そうして綾子が聞きたかったことに話はうつった。

「私はもう少しで定年なのですよ。それまでに、どうあっても重森議員の不正を暴きたいのです」

 綾子が淹れた茶を一口すすってから藤田は語った。

「重森議員は、選挙のたびに金をばらまいているのは周知の事実なのです。同じくらい、息子の安喜良が起こした事件をもみ消していることも、多くの人が知っているのです」

「安喜良が事件を? どんな事件ですか」

「それはもう、様々です。盗み、恐喝、婦女暴行、暴力、とにかく、悪事を働いていない日はないのではと思うほどです。そうして、とうとう武彦君の事件が起きてしまった」

 綾子は膝の上に置いた手をぎゅっと握りしめて俯いた。

「武ちゃんは……、武彦は本当に、殺されたんですか?」

「そうです。間違いありません。安喜良が事件後に仲間に話しているのを聞いた人がいるのです。『あの餓鬼のすました顔が嫌いだったんだよ。殴り殺した方が楽しかっただろうな』と」

 藤田記者は綾子が唇を強く噛んで震えているのを見た。泣き出してしまうのだろうと思ったが、綾子はしっかりとした瞳で藤田記者を見据えた。

「恩赦があるというのも、本当ですか」

「本当です。来月、重森安喜良は出てきます」

 綾子が握りしめたこぶしの震えが、止まった。
 その日はどんよりと曇って、みぞれでも降り出しそうな寒い日だった。

 刑務所の門をくぐって、竹林に面した狭い道路に出てきた重森安喜良は、そんな空を見上げることもなく歩きだした。刑務所の角を曲がってから少し離れた路上に、重森議員が寄こした迎えの車が止まっている。チャンスはそこまでの短い距離だ。

 安喜良はズボンのポケットに両手を入れてゆるゆると歩いていく。角までもう少し。綾子は、右手に握った包丁の上にコートをかけて隠し、安喜良の背中に向けて駆け出した。

 安喜良は角まで行くことなく、なぜか竹林に足を踏み入れた。好都合だ。綾子は足を速め、竹林に飛び込んだ。

 途端に、横合いから突き飛ばされて地面に転がった。

「なんだ、小娘か。あの鳥ガラみたいなババアかと思ったぜ」

 したたかにわき腹を打ち付けた綾子が身を起こそうとしていると、安喜良に頬を殴られ、倒れ伏した。

落としてしまった包丁を手さぐりに探していると、安喜良がのしかかり、綾子の衣服の上から胸をまさぐった。

「やめて!」

 綾子の叫びを安喜良は笑い飛ばした。

「人殺しが何を言ってんだ。警察に突き出されたくなければ黙ってろ」

「人殺しはあんたじゃない! 鬼! 人でなし!」

 安喜良はまた綾子の頬を殴り、スカートをまくり上げた。綾子は必死に身をよじるが、安喜良の体の下から出ることは出来ない。

「殺してやる! 殺してやるから!」

 安喜良が三度、殴ろうと上げた手を、誰かが捉えた。

 驚いた安喜良が振り返ると、道着姿の初老の男性が安喜良を綾子から引きはがし、竹やぶの中に突き飛ばした。

「てめえ、なにしやがる!」

 安喜良は威勢だけはよかったが、どこかぶつけて動けないようで、うずくまったままだ。綾子は起き上がり、包丁を掴み上げると、安喜良に体当たりするように突進した。



 ところが、肩をぐっと掴まれて、途端に足の力が抜け、すとんと座り込んでしまった。道着姿の男性が綾子の手から包丁を取り上げた。

「返して! この男を殺してやるんだから!」

 男性は無言で手拭いを取り出し、包丁をくるみ、懐にしまった。

 安喜良がよろけながらも立ち上り、男性を睨みつけた。

「おい、じじい。今すぐ消えろ。その女は置いていけ。そうしたらゆるしてやる」

 私を殺す気だ。

 綾子はぞっと鳥肌立った。安喜良に殺される。

 綾子は思わず立ち上がり、数歩、下がった。安喜良は頬を醜く歪めて笑うと綾子に向かって手を伸ばした。

 男性がすっと身を引いて、安喜良の前に道が出来た。鼻で笑った安喜良は体をかばいながら立ち上がり、一歩踏み出した。

 その時、男性が、手にしていた長杖を、とん、と軽く安喜良の腹に押し当てた。安喜良の体が、爆発にでもあったかのように吹き飛ぶ。背中を竹にしたたかぶつけた安喜良は、ぐったりと気を失った。

 男性は綾子の手を取ると、竹やぶを抜けて道に出た。

「離してください。包丁を返して。私はあの男を殺すんです」

「大事なものを、殺されたからか?」

 男性の声は低く落ち着いて、地面にしっかりと根を下ろした大樹のように安心感を与えるものだった。綾子はふいに、泣きたくなった。

「包丁があっても、あの男を殺すことは出来ないだろう。あなたは、そんなことが出来る女性ではない」

 綾子の手を引いたまま、男性は刑務所の方に歩いていく。



 刑務所の門の脇に立っている守衛に男性が名乗った。

「夢想権之助と申す」

 守衛は心得ていたようで、道を開けたが、綾子を共に連れて入ろうとしているのに気付き、権之助を呼び止めた。

「先生、女性は男子刑務所には入れませんよ」

「応接室をお借りしたい。あそこならば女性も居られる」

 権之助は勝手知ったる様子で刑務所の建物に入って行く。冷たいコンクリート造りの建物は異様に天井が高く、寒々としていた。綾子は殺人未遂の罪で捕まるのだろうと思っていたのだが、そのような様子はない。



 出迎えに来た紺色の制服の官吏も綾子を怪訝な様子で見ていたが、権之助が一言言うと、すぐに応接室に綾子を通した。

 官吏に怪我の手当てをしてもらっているうちに、権之助は姿を消していた。

「あの方は、刑務所の方なのですか?」

「いや、夢想先生は刑務官の指導に来られる杖術の師だよ」

「じょうじゅつ?」

「そう。もうすぐ稽古が始まるから、そこの窓から見ているがいい」

 言われた通り、窓から外を見ると、広々とした運動場に制服姿の刑務官が、ぞろぞろと整列しているところだった。

 行列が整ったところに権之助が現れ、軽く頷いた。刑務官たちが手にしていた白木の長杖を提げ、礼をとる。

「始め!」

 権之助の声で全員が、ぴたりと揃って動き出す。



 四尺ほどの白木の丸棒の長杖を地面に突き、肩のあたりの高さで杖を握る。

そこから一歩下がり杖を体に引き付け、両手で構えて振り上げ、一歩踏み込み振り下ろす。

また下がり、太刀を佩くように杖を体側に置き、上段から打ち込む。

杖の動きは、ある時は太刀のように、ある時は薙刀のように、ある時は槍のように、変幻自在であった。

風を切る音もしないほどに静かに流れるようで、一手がどこから始まり、どこで終わるのか定かでない。



全体での型を終えると、二人一組で向き合い、一方は長杖、他方は木刀に持ち替えて打ち合いを始めた。そうすると、先ほどの静かな動きが、太刀を止め、押さえ、突き放すまでの一連のものであるのだとわかった。

太刀は、どんな方向から切り結ぼうとしても、長杖に受け流されて間合いをつめる事すら出来なかった。

綾子は、美をも感じさせる技の数々に見入った。

権之助は口を開くこともなく見ていたが、すっ、と足を踏み出すと、手近で組んでいた刑務官の間に割って入り、太刀を受け取りもう一人の刑務官と向き合った。

それまでは太刀を構える相手を翻弄していた刑務官だったが、権之助が太刀をふるうと、それを止めることも出来ず、間合いをつめられ、杖の構えを解いた。権之助の動きは力押しするわけでもなく、ゆっくりとしていた。

綾子はすべてをしっかりと見ていたのにもかかわらず、それは一瞬の出来事で何が起きたかわからなかったと感じた。動きは見えたのに、その力の作用がどう働いたのか、想像することも出来なかったのだ。

ぽかんと口を開け、権之助が次々と指導していく姿を、ただ、目で追い続けた。



応接室に権之助が戻ってきたとき、綾子はまだ窓の方を向いたままだった。目の前で繰り広げられたことが、とても現実のものと思えない。いにしえの戦場にでも迷い込んだかのように思った。

「私を、弟子にしてください」

 綾子は権之助の正面に立つと、睨みつけるかのように強い視線を放った。

「私にも、教えてください。あの不思議な力の使い方を」

 権之助は静かに口を開く。

「なにも不思議なことなどない。動けるように動き、止まれるように止まるだけだ」

「私は、動かなければならないんです。動かなければ、あの男を止められません」

 綾子の強い視線を、権之助は正面から受け止める。

「杖術は人を殺めるためのものではない。傷つけず、人を戒める。そういうものだ」

 綾子はただ黙っていた。権之助が何と言っても、引くつもりはなかった。権之助は手にしていた杖を綾子に手渡した。

「構えよ」

 綾子は杖を自分の肩に立てかけ、おさげ髪を解くと、首の後ろでひとくくりに縛りなおした。それから、先程見ていた通り、刑務官の真似をして杖を提げ、礼をした。

下げた頭を揺らすことなく、そのまま動かなくなった綾子を見て、権之助は無言で応接室の戸を開けて外へ出た。

「どうした、来ぬのか」

 声をかけられ顔を上げると、権之助は小さく頷き、綾子を促して歩きだした。綾子は長杖を両手でぎゅっと握りしめて、権之助の後を追った。
 稽古は特段、厳しいということはなかった。ただ、不可思議だった。

 綾子は与えられた杖を提げて、立っていることを課された。一日の稽古は三時間。

 権之助の道場に通い始めてから五日間は、ただ立っていた。

 初めは十分も立っているとフラフラと体が揺れていたのだが、三日経つと体のどこに力を入れ、どこの力を抜けばよいのかわかるようになった。杖の重心を捉えた持ち方が分かったのが五日目。翌日から、型の稽古が始まった。

 綾子の成長は早かった。十二本ある『表』と呼ばれる型を覚えるのに三日間。打ち合いで型どおりに動けるようになるのに二日間。

『表』の次、上級の型『中段』十二本を覚えるのに、また三日。通常であれば十二本を覚えるのに二週間じっくりと時間をかけるのだと道場の先輩たちは呆れていたが、権之助は綾子の好きなようにさせていた。


 『中段』の打ち合いをすべて調えた綾子は、『影』と呼ばれる次の段階に進みたいと権之助に申し出た。

「太刀を構えよ」

 言われた通りに木刀を腰に佩き、右手を柄にかけた。権之助が『表』十二本のうち、一本目「着杖」の構えをとる。太刀が切りかかっていくのを打ち払い、小手を取る技だ。

 綾子は八相の構えから太刀を振り下ろす。

 権之助の姿がすっと遠のいた。足を動かした様にも見えなかった。

 下ろした太刀を上げようとすると、いつの間にか小手に杖先が乗り、手は上げようにも下げようにも、びくとも動かなかった。

 権之助が杖を引き、構えを解くと、綾子の背にどっと汗が沸いた。今頃になって、恐怖が襲って来たのだ。自分の力ではどうにも出来ない強大な力。流れ来て流れ去る、津波のような力だった。


 権之助が二本目「水月」の構えを取る。額に打ち込んでくる太刀をかわし、水月、つまり鳩尾に突きを入れるものだ。

 権之助が杖を本手に構える。綾子は正眼に太刀を構え、上段から一気に打ち込む。権之助は斜め前に進み太刀を避ける。今度もまた、権之助が足を動かしたようには見えず、ただ滑ったように感じられた。

 権之助の杖が綾子の鳩尾をピタリと捉え、ゆっくり、そっと押した。綾子は突風に吹き飛ばされたかのような衝撃を覚えた。たたらを踏み、一間も下がった。その一間を、権之助は一足で詰め、肩先から静かに杖を下ろしていき、綾子の太刀に軽く触れた。太刀が綾子の手から跳ね飛ばされる。

 権之助の杖尻が綾子の眼前に突き出された。動けない。瞬きも出来なかった。

 杖がすうっと引かれ、権之助が構えを解くと、綾子は空気を求めて喘いだ。呼吸すら止められていたのだ。

 綾子は荒い息のまま礼をして、太刀をおさめた。

 それからの数ヶ月、権之助の杖が描いた軌跡を、綾子はしっかりと眼前に思い出し、何度も反芻した。

 綾子の手の豆は幾度も破れ、手のひらの皮は分厚くなっていった。
 道場に通いながら、綾子は安喜良の身辺を探り始めた。職をもたない安喜良の生活には決まった行動というものがなかった。

 家を出てくる時間もバラバラ、行き先もバラバラ、ただ、なぜか自動車には乗らなかったため、尾行は割合、うまくいった。


 ある日、酒場が並ぶ薄暗い路地に入った安喜良を追おうとしたところを、肩をつかまれ引き留められた。

 慌てて一歩引き、振り返ると、新聞記者の藤田が立っていた。

「君、どうしてこんなところに」

 綾子はぎゅっと口を結んで黙り込んだ。

「もしや、重森安喜良をどうにかしようと思っているんじゃないだろうね。まさか、復讐なんて考えていやしないだろうね」

 綾子はやはり答えなかった。藤田記者は安喜良が入って行った路地をそっと覗いてから、綾子の肩を押し、表通りに出た。



 近くの喫茶店に入り、藤田記者は綾子のためにクリームソーダを注文した。自分はホットコーヒーを頼み、マッチを擦って煙草に火をつけた。ふうっと大きく煙を吐き出してから、藤田記者は話し出した。

「安喜良の父親、重森議員に、最近また汚職の噂が立っているんだ」

 煙草の灰を、ぽんと落とす。

「それに安喜良も関わっているらしくてね。張り込んでいたんだよ。それで、君は何をしていたのだね」

 綾子は黙り込んで、テーブルを睨んでいた。ウエイトレスがクリームソーダを綾子の前に置いて去った。

「まあ、ちょっと、ソーダでも飲んで、一息入れようじゃないか」

 案外と優し気に藤田記者がすすめるので、綾子は視線を上げた。藤田記者は目を細めて美味そうにコーヒーをすすっていた。綾子は長いスプーンを取って、アイスクリームをすくった。

「もし、復讐なんてことを考えているなら、やめておきなさい。安喜良が何をしても、重森議員が握りつぶす。武彦君が亡くなった事件が表沙汰になったのは、議員が外遊中におきたのが幸いだったんだ。そうでなければ、安喜良には過失傷害の犯人として捕まるようなことはなかった。議員が必死にもみ消しただろう。だが、安喜良は刑務所に入って箔をつけたかったのだと仲間に話していた」

「……箔をつける?」

 綾子の言葉に、藤田記者は黙って頷いた。

「もしかして、武ちゃんを死なせたのも、そのため……?」

「いや、まさか」

 藤田記者はあわてて居住まいを正して綾子の目を覗きこんだ。そこに暗い火がともったように見えて、藤田記者は自分の失言を悔いた。

「いいかい、重森安喜良のことは私に任せてくれ。必ず親子ともども罪を暴いてみせるから」

 綾子は藤田記者と目を合わせないようにしながら、小さく頷いた。
「綾ちゃん、よく来てくれたわねえ。ほら、武彦。綾ちゃんよ」

 カネの病室を訪ねた綾子の瞳に、じわりと涙がにじんだ。カネは胸に抱いたぼろぼろの人形に「武彦」と語りかける。

「綾ちゃんがいてくれて助かってるわ。いつも本当にありがとう。武彦もね、とっても感謝しているよ」

 人形を綾子の方に差し出したカネは、慈愛に満ちた目を綾子にも向けた。

「ねえ、綾ちゃん。武彦とも話していたんだけど。もし綾ちゃんさえよければ、武彦のお嫁に来てくれないかねえ。綾ちゃんほど武彦のことを考えてくれる女の子は他にいないものねえ」

 綾子はたまらず泣き出した。

「あらあら、どうしたの、綾ちゃん。お嫁の話が嫌だったの?」

 えっえっと泣きながら、綾子は首を横に振った。

「悲しいことがあったのねえ。だいじょうぶよ、だいじょうぶ」

 カネはだいじょうぶと繰り返しつつ、綾子の頭をそっと撫で続けた。

カネの病状は刻々と悪化している。残された時間は長くはない。

 綾子は覚悟を決めた。