*
翌日、わたしは一人で町を歩いていた。小学校や以前通っていた中学校、よく通っていた文房具店、親友とときどき行った駄菓子屋、そしてよくスケッチしていた公園。どれも懐かしく思えるのと同時にやはり辛いと感じている。公園の隅あるベンチに腰を下ろした。夏休みということもあり、幼児や小学生の楽しげな声や保護者のおしゃべりをする声、ブランコなどの擦れる音が聞こえてくる。とても平穏な日常だ。まるであの出来事がなかったかのように思わされる。同じことをやってありたいとは思わない。だけれど、なんだか虚しく思えてしまう。わたしだけが取り残されてしまったように感じる。きっとみんなはわたしのことを忘れて、新しい日常を送っている。それが許せない自分がいるのだ。ざわざわする胸にそっと手を添えた。悔しくて苦しい。どうしよもならないこの感情は、ずっと抱くことになるのだろう。きっと大人になってもずっと。わたしは帰路に就こうとベンチから立ち上がった。公園の門から出て少し歩いたところで、わたしは聞き覚えのある声で呼び止められた。
「ハル…? ハルでしょ!」
今一番に聞きたくはなかった声、出くわしたくはなかった人物。わたしはみるみると顔を青く染め、ゆったりと振り返った。わたしよりも少し高くすらりとしたスタイル、茶色かかったボブカット、横髪に黄色の髪留めを付けた少女、『シズ』こと月城雫が戸惑った表情で立ち尽くしていた。お互いに信じられない様子であった。体が硬直してしまい、動くことが出来なかった。足ががくがくと震えていた。彼女がいるということはリーダー格の女子生徒・佐倉さんも近くにいる可能性だってある。恐くて苦しくて逃げたいというキモチがいっぱいになった。それなのに足が鉛のように重たい。力いっぱいにスカートを握りしめていた。恐くて恐くて仕方がなかった。
「ハル、大丈夫だよ。佐倉さん達はいないから。あたし、今一人だから…」
「し…ず」
「ハル、ハル、ハル、ハル」
シズは駆け寄って、わたしを抱きしめた。彼女が震えていて泣いているのがわかった。
「あたし、ハルに謝らなきゃってずっと思ってた。親友だったのに、一緒に戦わなきゃいけなかったのに。あたし恐くて、イジメられたくなくて、一緒になってハルのことを遠ざけてイジメをしちゃってた。ごめんなさい。本当にごめんなさい」
彼女が発する言葉にウソを吐いているようには聞こえなかった。もともと大人しくて性格で純粋な女の子だ。ウソを吐けない子だというのはわかっている。だけれど、わたしは彼女に対し、まっ黒な感情を抱いていた。シズのことを強く押し離し、わたしは自分の想いを全部彼女にぶつけた。
「今さら、何? 許せるわけないじゃない。だって、裏切られたんだよ。信じていたあなたに。親友だと思ってたあなたに。言い訳なんか聞きたくない。わたしは…わたしは…」
大好きなあなたに手を汚してほしくなかった。
その言葉を発することが出来ず、わたしは鉛のように重たくなった足を必死の思いで走らせた。何度も躓きつつも走り続けた。走馬灯のように思い出していく。彼女との思い出。お喋りをしたこと、一緒にスケッチしていたこと、共にお弁当を食べたこと、二人で笑い合ったこと、下校中に見たオレンジ色の空を。泪があふれた。もっと一緒にいたかった。もっと笑い合いたかった。もっと一緒に絵を描いて行きたかった。もっと一緒に歩んで行きたかった。それがもう叶うことがないのだと。わたしは、もう彼女と親友には戻れないのだと思い知らされる。彼女自身、たくさんの葛藤があっただろう。とは言えども、イジメに加担したことへの事実は変わりはしない。もうあの頃のわたし達には戻ることは出来ないのだ。わたしはまた悲しみの海へと潜っていた。住宅街の曲がり角、わたしは誰かとぶつかり、派手に尻餅をついた。わたしは慌てて顔を上げて謝罪をした。
「ご、ごめんなさい!」
そこには楓ちゃんが心配な表情を浮かべて立っていた。
「か、楓ちゃん…。…楓…ちゃん…」
「ハル、あたしね。胸騒ぎをしていたんだ。ハルに何かあったんじゃないかって、あなたを探していたの」
「楓ちゃん楓ちゃん」
「大丈夫。がんばったんだね。いいんだよ。泣いても」
楓ちゃんはやさしくわたしを包み込んだ。彼女の温もりを感じながら、わたしは声を出して泣き出した。怒りや悲しみ、寂しさや虚しさ、たくさんの感情がわたしの心をいっぱいにしていた。シズが逆らうことが出来なかったのはわかっている。だけれど、もうわたし達の友情が繋がることはないのかもしれない。あふれるばかりの泪。わたしは楓ちゃんの腕の中で泣き続けた。
*楓視点
泣き疲れたのかハルは、自室のベッドで横になっていた。
理由は聞かなくとも、なんとなくわかる。おそらくだが、以前通っていた中学校の同級生と出くわし対峙したのだろう。そのときにどんなやりとりがあったかまではわからない。しかし、彼女なりに過去と決着をつけようとしたのかもしれない。あたしは今のこの子に見守ることしか出来ないのだろうか。まだハルは十三歳の子どもだ。未熟なところはたくさんある。あたしは、この子ために何かしてあげられないのだろうか。何もしてあげられない自分の無力さを思い知らされる。机に置かれている写真立てに目をやった。その写真には小恥ずかしそうにしているハルと笑顔の女子生徒。二人は親友同士だったのだろう。いつしか、二人はすれ違ってしまい、お互いに立つ位置が変わってしまったのかもしれない。
「楓、大丈夫?」
声をかけて来たのは、ハルの母親である陽子だ。あたしの幼なじみであり、一番の親友であり、そして今は義姉にあたる人物だ。彼女はハルとよく似ている。引っ込み思案で、よく人の影に隠れてしまうような人物で、かなりの美人であった。学生時代では、男子達から言い寄られることも何度もあった。その度、あたしが間に入り、守ってきた。いつからだっただろうか。兄に想いを寄せるようになっていた。引っ込み思案の彼女のことだ。うまく話せずすぐにうつむいてしまっていた。兄が都心の大学に進学することになり、陽子は表情を曇らせることが多くなり、好きだった絵も気が乗らない様子であった。卒業する間際になり、あたしは陽子の背中を押して、兄のもとへと連れて行き、想いを伝えさせ、二人はめでたく両想いになることになった。しばらく遠距離恋愛が続き、お互いに社会人へとなって数年したところで結婚をし、ハルを授かった。兄も陽子も幸せそうな表情を浮かべて、こちらも暖かいキモチにさせられる。それは今も変わらない。
「うん、あたしは大丈夫」
「ハルのこと、いろいろありがとう。わたし達じゃ、あんなに明るくさせることは出来なかったから」
「別にあたしだけの力じゃないよ。近所に住む少年に協力をしてもらってね。今じゃ友達と寄り道をして来るぐらいさ」
「そう。そっちで友達が出来たのね。そっちでも自分の殻に閉じこもってしまってないか心配だったの」
「大丈夫よ。この子はまだまだ子どもなところはあるけれど、あたし達が思っている以上に大人なんだよ。それに今、絶賛初恋中だから」
「あら」
陽子はポッと赤くなり、そしてやさしく微笑み、ハルを見つめた。すぐに赤くなるところも、やはり母娘だなと思ってしまう。あたしはおかしくなって、思わず声を出して笑ってしまった。陽子は頬を膨らませて、あたしを睨みつけた。
「何よ。もう」
「いやなんでもない。陽子、少し飲まないかい」
「そうね。まだおやつどきだけど、ハルの様子とか聞きたいし」
「どこから話そうかしら」
二人して笑い合った。
ハルの頭をやさしく撫で、あたし達は部屋をあとにした。
ハルには幸せになってもらいたい。あの子はあたしの希望の光なのだから。
*
夢を見た。
わたしとシズが親友として生活をしていた頃だろうか。学校近くにある公園で、わたし二人、よく写生会を行っていた。色鮮やかなコンビネーション遊具やかわいらしいパンダや馬のスプリング遊具、ブランコなどがあって、子ども連れが多くにぎやかであった。その風景を描き合っては、二人で観せ合っていて、その時間がとても楽しくて幸せな瞬間であった。
「ハルは本当に絵が上手だよね。あたし、どんなに描いても,ハルのようには描けないよ」
「そ、そんなことないよ。わたし、シズの絵、すごく好きだよ。シズが描く人達の表情、すごく楽しそうなんだもん。たしとは見ているんだって思わされるもん。それにシズの絵はこっちまでもが笑顔になるんだよ。なかなか出来ないよ」
「ハルは本当にやさしい子だよね。そこがハルのいいところで、あたしの好きなところではあるけどね」
シズは切なそうな笑みを浮かべて、わたしの絵をまじまじと観ていた。今思えば、これが彼女と距離が出来てしまうきっかけになってしまったと思う。けれど、それからもわたし達二人は一緒に絵を描き続けていた。人間関係に不器用な二人だ。シズと出会ったのは美術部だった。当時はクラスも別々でお互いに初対面に等しかった。話すきっかけになったのはペアにになって似顔絵を描くことになって、わたし達はペアを組めておらず、気まずさを感じつつも、わたし達はペアとなった。シズは本当にキレイな絵を描いていた。わたし達は緊張しつつも会話をしながら交流を深めていった。最初はお互いに苗字に『さん』づけで呼び合っていたけれど、いつしかわたしのことを『ハル』と呼び、彼女のことを『シズ』と呼び合う仲になっていた。わたしにとって心から親友と呼べるのはシズが初めてだった。それが純粋にうれしかった。
二年生になると、わたし達は同じクラスになった。心の底からうれしかった。もっとシズと絵の話しが出来る。そのことで頭の中がいっぱいだった。でもそんな幸せな時間が長く続くことはなかった。わたしは佐倉さんのグループに目をつけられてしまったのだ。佐倉さんは見た目が派手で気の強いことで有名であった。最初は教科書に『バカ』とか『ブス』など落書きされたり程度で、シズも「気にすることはないよ」と声をかけてくれていた。シズだけがわたしの味方でいてくれていた。そのはずだったのに、シズは佐倉さんのグループと行動するようになっていた。佐倉さん達に便乗するように、わたしのヒソヒソと悪口を言ったり、階段から突き落とされることもあった。シズの裏切りが、絶望の淵へと突き落とされたのだ。そしてわたし学校に行けなくなった、一番の事件が起きた。わたしは佐倉さん達に無理やり人気のない裏倉庫へと連れて行かれた。わたしは彼女達に囲まれ、逃げ道がなく、ただただ恐くて震えることしか出来なかった。
「あんたさ、いつも目障りだったんだよね。男子達にさ媚び売るような話し方するところとかさ。はっきり言って上目づかいとかキモチ悪かったんだよねぇ」
「そ、そんな! こ、媚びなんて売ってないです! わ、わたし、ただ男の子と話すのが苦手なだけで…」
「うちらは、あんたの言い分なんて聞いてないんだよ」
佐倉さんはそう言って、わたしの左頬を叩いたのだ。わたしの怯える表情を見て、佐倉さんはいいことでも思いついたかのように笑みを浮かべた。佐倉さんはわたしの両側にいた女子生徒とアイコンタクトを取った。わたしはより恐くなって、やっとの思いで足を動かしたけれど、すでに時が遅く、わたしは二人の女子生徒に羽交いじめにされてしまい、逃げ出すことが出来なかった。
「月城、何ぼさっとしてんのよ。あんたがやるんだからね」
「や、やるって…、な、何を…」
「何をって。本当にどんくさいんだから。あんたが、こいつのブラウスを破くんだよ」
「は…?」
「いいから早くやれよ。あんたがやられたっていいんだぞ」
佐倉さんの言葉にシズは顔を青くさせて、首を横に振って、恐る恐るとこっちに足を運んでいた。
――お願い、やめて。あなただけにはそんなことをしてほしくない。やだやだ!
そんな願いも儚く、シズはわたしのブラウスに手をかけ、力いっぱいに引きちぎった。わたしの上裸が露わとなり、手を離されるまま床へと崩れ落ちた。声を殺しながら泣いているわたしに対し、佐倉さん達は嘲笑いながら写真を撮っていた。そのとき、わたしの中で何かが切れてしまった。周りがまっ暗になっていった。わたしは独りぼっちになってしまったのだ。あのときの様子を見れば、シズが自分の意志でやって来ていないということはわかっている。だけれど、それでも彼女がしたことは許されることではない。どんな理由があったとしても、彼女がした行為は裏切りだ。
わたしは暗い空間の中、独り塞ぎ込んでしまった。そんなとき、わたしに一つの手が指し伸ばされた。顔を上げると、そこ立っていたのは楓ちゃんだった。わたしに絵を描く楽しさを教えてくれて、そしてわたしが独りぼっちにならないように駿人くん達に出会わせてくれた人。指し伸ばされた手を掴むと、まっ暗の世界に光が差しかかり、少しずつ明るくなっていった。今のわたしの周りにはたくさんの人がいる。楓ちゃんだけではない、駿人くんやヒナちゃん、藤堂くん、野田先生、そして美術部のみんながいる。もう独りぼっちなんかじゃない。たくさんの人に支えられている。だからもう大丈夫だといのは知っている。わたしは少しずつでも前に進むことが出来ている。
わたしはゆったり目を覚まし「シズ」と届くことない名前を呟いた。
もうあの頃の関係には戻れないわたし達。でも心のどこかで彼女と繋がりたいと思っている自分もいる。あのとき、どんなキモチでわたしを抱きしめたのだろう。シズもわたしと繋がりたいと思ってくれていたのかもしれない。わたしはぐったりと体を起こし、窓から見える空を見た。もう夜になっていて、幾千の星がキラキラと光らせていた。その光がどことなく切なくて、今のわたしの感情と似ていた。手を伸ばせば届きそうなのに届くことのない距離。わたしは深く息を吐いた。
わたしは自室で、ここに置いて来た自分の絵を観ていた。教室の風景や公園の風景、校庭にある花壇や美術室の風景、そしてシズの似顔絵。どれもかもが儚く懐かしい。確かに以前の中学校では辛いことばかりではなかった。シズや美術部の人達と似顔絵を見せ合って笑い合うこともあった。辛いことばかりに目が行っていて、楽しかった思い出を忘れてしまっていた。あんなにもキラキラとしていたのにも関わらず、わたしは忘れてしまっていたのだ。あのとき、シズはどんな想いでわたしを抱きしめたのだろう。うれしい、苦しい、それともイジメに加担してしまったことによる罪悪感。あのときのわたしは、冷静に考えることも出来なかった。黒い感情がわたしの心にかかり、怒りのような感情を爆発させてしまっていた。また繋がりたいと思ったシズのキモチを踏み躙った。わたしも彼女達と同じことをやってしまったのかもしれない。
「ハール。起きたんだ」
突如、ドアが開き、声をかけられた。
「…楓ちゃん、その…」
「いいよ。謝らなくても。ハルなりに向き合った結果だろう」
「ううん。わたし、きちんと向き合えてない。ただわたし、怒りにまかせて、親友を傷つけてしまったの。同じことをしちゃったんだよ。わたし、最低だよ」
「ハル、それでもいいんだよ。ハルはまだ十三歳なんだよ。たくさん間違えればいい。その度に正していけばいいんだよ。あたしもあんたのお母さんも、そうやって大きくなって来たんだから」
楓ちゃんはやさしく微笑み、わたしのことを包み込んだ。わたしは彼女に救われてばかりだ。自分がまだまだ弱い存在なのだ。でも楓ちゃんの言う通り、わたしはまだ十三歳だ。これから少しずつ強くなっていけばいい。今は独りじゃない。暖かく見守ってくれる人がいる。寄り添ってくれる人がいる。だからこそ、わたしは前に進みたいと思える。だけれど、このまま楓ちゃんの家に帰っても、決して前には進むことは出来ないと思う。わたしは楓ちゃんに自分のキモチを隠さず話した。
「楓ちゃん、わたし、きちんと前に進めるようになりたい。だから、わたし…、わたし、恐いけれど、もう一度、親友と会ってみようと思うの。ちゃんと自分のキモチ伝えなきゃ…。わたし、後悔したくない」
「うん。ハル、今、すごくいい顔している。大丈夫、ハルはちゃんと自分の足で立てるようになっているから。自信を持って行って来な」
「楓ちゃん、ありがとう。いつも暖かく見守ってくれて」
「礼を言われることはしてないさ。あたしはハルが元気に過ごしてくれるだけで、うれしんだから」
楓ちゃんは二ッと笑い、わたしのことを抱きしめた。
楓ちゃんの腕の中は、とても落ち着く。楓ちゃんは、なんだか親鳥のようだ。わたしを守るために包み込んでくれたり、笑顔にするために一生懸命になってくれている。でもそれに甘えてばかりではいけない。いつかわたしは楓ちゃんのもとから飛び立たないといけない。今は、その準備を少しずつでもして行こう。わたしはスマホを手に取り、メッセージアプリを開いた。シズからのメッセージは引っ越してからも幾度か来ていたけれど、開くことはしなかった。許せないというのもあったけれど、やはり恐いというキモチがあった。勇気を出して、彼女のトーク画面を開いた。そこにはわたし宛に謝罪やもう一度やり直したいという思いが届いていた。胸が締めつけられる感覚がした。わたしは『明日、二人でゆっくり話しがしたい』という旨を綴り、シズへと送信した。返事が返って来ない可能性だってある。断られる可能性だってある。正直恐かった。しばらくして『あたしもハルとゆっくり話しがしたい』という返信が来た。わたしは楓ちゃんの目を見た。彼女はニコリと笑い「がんばれ」と応援してくれた。わたしは楓ちゃんとは目を逸らさず、笑顔を見せた。わたしはもう一度、シズとの縁を結ぶための一歩を踏み出した。
*
わたし達は公園で待ち合わせをした。そこはわたし達がよく似顔絵を描き合った、一番の思い出の場所。ここでわたしは、シズときちんと向き合わなくちゃいけない。もう逃げ出す行為はしたくはない。わたしは待ち合わせ時間よりも大分早く着いていた。正直に言えば、恐くて仕方がない。今でも足がぶるぶると震えている。天気は快晴。気持ちのいい青い空。爽やかな風が吹き、木の枝を揺らす。
「おまたせ」
シズは気まずそうな表情を浮かべ、わたしが座るベンチのもとにやって来た。
こうして二人で会うのは、本当に久しぶりだ。二年生に上がってから、ほとんど無くなってしまった。わたしは独りになって、絵を描くようになっていた。さびしいというよりも苦しかった。自分はこの世界に存在してはいけない人間なのかとも考えたことがある。わたしは逃げるように部屋で自分の殻にこもるようになった。でももうそんなわたしはイヤだ。だからこそ、かつての親友と向き合うことを決めたのだ。
「全然待っていないよ」
「そう言って、待ち合わせ時間より数十分前には来ていることわかってるよ」
「そ…だよね」
「ハル…」
「ん?」
「昨日、あたしが言ったことはウソじゃないからね」
「うん。わかってる。シズがウソをつける人じゃないって知っている。だけれど、もうあの頃の関係には戻れないんだよ。わたし達。わたし達はもう別々の道を歩いているの」
「ハル、あたし、あの頃の関係に戻れるとは思ってない。だけれど、もう一度、あなたと友達になりたい。もう一度親友なりたいって思っているの。今すぐには無理かもしれないけれど、あたし、ハルじゃないとダメなの。ハルがそばにいないとダメなんだ」
「わたしもね。シズの明るさに救われているときがあったんだ。だけれど、シズがわたしから離れて行って、佐倉さん達の陰口に合わせたり、一緒になって教科書とかを隠されたりするのが辛かった。そうせざるを得なかったのはわかる。だけど、わたしは、シズに味方でいてほしかった」
「ハル…」
わたしはシズの目を逸らさなかった。そして話しを続けた。
「でもね。わたし、シズのことを忘れたいって思えなかったの。許せないとは思えても忘れたいとは思えなかった。だって、シズはわたしにとってすごく大切な存在だったから。今は難しいかもしれないけれど、わたし、もう一度、シズと親友になりたい」
「ハル、本当にいいの? だってあたし、あなたを傷つけたんだよ」
「わたしは、シズのこと、今でも大切だから。だから簡単に許すことは出来ないし。それでもわたしはあなたと親友になりたいと思えるの」
わたしはシズの手を掴んだ。小さく繊細な手。そして共に絵を描いた手だ。もう離してはいけない手。一度壊れてしまった関係だけれど、また築いて行けばいいのだ。どれだけ月日がかかっても構わない。簡単ではいけないのだ。わたし達はまだまだ中学生だ。これからじっくりと関係を修復していけばいい。また共に笑い合える日が来ることを信じて。
*
夕方、わたしは帰り支度を始めた。
あのあと、わたしとシズは、離れていた期間での出来事について話した。わたしが楓ちゃんの家に引っ越したあと、シズはクラスで起きた出来事を教師陣に話したようだ。各学年主任がシズを含めた佐倉さんのグループを呼び出し、イジメに対しての面談を行ったそうであった。その後は佐倉さんのグループはイジメを行うことは無くなったそうであった。イジメの告発をしたシズはクラスで腫れ物のように扱われているようだ。しかしシズは後悔をしていないとのことであった。シズは自分で前に進む決断をしたのだ。クラスで孤立することは、わたしを裏切った罰だとシズは話していた。彼女はわたしよりも遥かに強い存在だ。だからこそ彼女は尊敬するし、もう一度親友になりたいと思えた。机に置いてある写真を手に持った。恥ずかしがっているわたしとにっこりと笑うシズ。このときよりも、わたし達は大人になれただろうか。
「ハル、支度の進捗はどうだい?」
「楓ちゃん。だいだい終わったよ」
「そっか」
「明日には出れるかな」
「オッケー」
「ねぇ楓ちゃん。わたし、強くなれたかな」
「そうだねぇ。あたしの家に来たときよりは強くなったかな。でもハルはこれからもっともっと強くなれる」
「わたしね。決めたの。支えられるだけじゃなく、誰かを支えられるようになりたいって。だから楓ちゃん、それまで見守っていてほしい。挫けそうなときは手を指し伸ばしてほしい」
「ハルの頼みなら仕方がないね」
楓ちゃんは二ッと笑い、親指を立てた。
わたしは手にしていた写真を机に置き、一息を吐いた。
「持って行かなくていいのかい?」
「うん。この写真はこの部屋が似合っているし、この町に戻りたいって思ったときのみちしるべにしておきたいと思って。ダメかな」
「ううん。ハルらしくていいんじゃない」
「ありがとう楓ちゃん」
わたしは心から笑みを浮かべた。こんなにも晴れたキモチで笑みを浮かべられるのはいつ振りだろうか。いや、もういつ振りかを考えるのはやめよう。わたしは、前に進むことを決めたのだ。ときに立ちどまってしまうこともあるだろう。そのときはうしろを向くのではなく、横を向き、独りではないことを確認すればいい。そしたらまた一歩前へと歩いて行ける。わたしは笑顔のまま楓ちゃんに近づき、手を取った。
「ねぇ、そろそろご飯出来るんじゃない」
「そうだね。陽子も楽しげにカレー作ってたな」
「あっ、本当だ。カレーの匂いがする。わたし、母さんのカレー好き」
「陽子のカレーは絶品だからね」
「うん」
二人してクスクスと笑った。
心から笑えることは、本当に幸せなことであり、尊いモノなのだ。だからこそ大切にしていかなければいけないと思う。将来、何になりたいかは、まだわからない。だけれど、目の前のことを背けず、前に進んでいたら、何かに繋がるかもしれない。そのためにも一歩一歩を大切にして行こう。わたしは楓ちゃんの左手を掴んだ。
「ねぇ、母さんの手伝いしに行こう」
「お、いいねぇ。早く準備済まして、ガールズトークしようではないか」
「ガールズって」
「何よ。いいハル。女はね。いつになっても女子なのよ」
楓ちゃんのぐいぐい来る姿勢に、圧倒されてしまう。でも可笑しくなり思わず吹き出してしまった。わたし達は笑い合いながらリビングへと歩いて行った。何から話そう。わたしは胸を躍らせながら、足を進めていた。
*
涼しい風が吹く。
神社の階段に座り、スケッチブックを開いて、風景画に筆を進めていた。少しでも絵を描いていたキモチになり、朝食後より、神社に足を運んでいた。神社は不思議と落ち着くことが出来る。誰もいないのに、誰かがそばにいてくれている気がするからだろうか。それだけでも嬉しいことである。楓ちゃん宅に帰ってからも、シズとは連絡を取り合っている。描いた絵や草原や神社などの風景、すみれ堂で食べたぜんざいなどの写真を送ったりすると、シズも描いた絵や空の表情、晩御飯などの写真が送られてくる。何げないやりとりでもすごく楽しい。シズとのわだかまりが徐々に解けて行き、以前のような友好な関係を取り戻しつつあり、再び世界が輝き始めていた。
「ハルちゃん、やっぱりここにいた」
やさしい声音で声をかけられ、わたしはゆったりと顔を上げた。キレイな草原を背景に駿人くんが穏やかな表情を浮かべて、わたしを見つめていた。頬が微かに赤く染まり、わたしの胸がドキドキと踊り出す。数日間、彼とは会えていなかったからか、余計に緊張してしまい、ついついクセでおどおどとしてしまっていた。その様子を見てか。駿人くんは噴き出すように笑い始めた。
「ご、ごめん。なんというか、ハルちゃんチワワみたいだなと思って」
「駿人くん、ヒドイです。笑うことはないじゃないですか」
「ごめんって。今度、ぜんざい奢るからさ」
「約束ですからね」
「しょ、承知いたしました」
困りながら頭を掻く駿人くんが見て、とても愛らしく思え、頬が緩んでしまった。彼と目が合い、胸がドキッと高鳴り、わたしは目を背けてしまった。はずかしいというわけでもないのに、体が熱くなり、胸の鼓動が速まっていく。これでは駿人くんに顔を見せることなんて出来やしない。目を背けたままでいると、駿人くんがわたしの額に手を当てた。急な出来事で、体内温度が急上昇し、頭の中がショートしてしまった。
「えっ、ちょ、ハルちゃん? 大丈夫?」
「は、はい。だ、大丈夫です。その急に手を当てられると…」
「あっ、そうだね。でも、顔赤いし、体調大丈夫かなって」
「だ、大丈夫…です。今日も平熱…ですよ」
「そっか。ならいいんだけれど。だけど体調悪くなったら、言うんだよ」
「わかりました。駿人くんって、なんだかお母さんみたいですね」
「よくヒナとかに言われるかも」
「確かに言いそう」
お転婆なヒナちゃんにとって、駿人くんの小言は耳にタコだろう。
二人は幼なじみと聞いているけれど、まるで兄妹のように仲がいいように見える。ヒナちゃんと話しているときの駿人くんは、なんだか素な表情だ。わたしにはあまり見せない表情を浮かべている。わたしが知らない時間が二人にはある。それが時に羨ましく思う。
「そうだ。ハルちゃんに渡したいモノがあったんだ」
「渡したいモノ?」
「うん。ハルちゃんが帰省しているときにね。三人で作ったんだ」
駿人くんはズボンのポケットから紐状のモノを取り出し、わたしの手の平に置いた。きちんと見ると、それは白とピンクが交わったミサンガだ。驚いて、駿人くんを見ると、彼は二ッと笑い、青と白のミサンガを付けた右手を見せた。
「仲間って感じがしていいでしょ」
「仲間…」
「もしかしてイヤだったかな?」
「イヤなわけないじゃないですか。こういうことが初めてで感動してしまって…。そのわたし…」
わたしは駿人くんに駆け寄り、彼を抱きしめた。
違う町からやって来たわたしをきちんと仲間として繋がりを持てているのが、とてつもなくうれしかった。
「泣いているのかい」
「駿人くんのせいですからね」
「そう」
駿人くんはやさしくわたしを包み込み、微笑みを浮かべた。
きっと忘れることはないだろう。いや忘れてはいけない。このうれしさも、そして彼の温もりを…。わたしは一つの決意をした。
「駿人くん」
「ん?」
「わたし、決めました。わたし、絵画コンクール、挑戦してみようと思います」
駿人くんは大きく目を見開いたあと、暖かい微笑みを浮かべた。
「うん、応援するよ。ハルちゃんなら賞をもらえるよ」
「わたしのことを買い被り過ぎです。でももらえるようにがんばります」
「うん」
「駿人くん、もし賞をもらえたら、駿人くんに伝えたいことがあるんです」
「それは今じゃダメなの?」
「はい。ちゃんとケジメをつけえたいんです」
「そっか。わかったよ。ハルちゃんがそう決めているのなら、無理強いはしないよ」
「ありがとうございます」
わたしは駿人くんに一礼をし、彼の目を見て清々しい笑顔を浮かべた。
*
わたしは自室へ戻り、すぐに駿人くんからもらったミサンガを左手に結んだ。そのあとスタンドを立て、スケッチブックを広げた。
絵の構想を巡らせた。また一歩を踏み出すために。駿人くんに相応しくなるために。わたしは必死で頭の中を巡らせた。どんな絵にするか。どんな構造にしようか。部屋中を歩き回り、まっ白な背景に色彩をつけていく。そこから見えた一つの光。わたしは筆を取り、用紙に色をつけ始めた。この町に来て、世界の色が変わった。イジメがきっかけで黒く曇っていた世界が、徐々にキラキラと輝き始めていた。そしてわたしは前に進むことが出来た。それも楓ちゃんや駿人くん、ヒナちゃんや藤堂くんのおかげだ。今度はわたしがみんなに恩返しをする番だ。そしてみんなが自分の絵を観て、笑顔になってほしい。そして落ち込んだときこそ、空を見上げられるような絵を描きたい。わたしは懸命の想いで筆を進めた。今のわたしの全力を全て出し切る。それ以外、考えることはなかった。休むことを忘れ、用紙に色を染めていく。キレイな青、爽やかな緑。この町に来て、知ることが出来た世界をたくさんの人に知ってもらいたい
「よし出来た!」
コンクールに出展する絵を描き終えた。
今のわたしの全てを出し切れたと思える絵を描けた気がしている。その絵を観て笑みが零れる。その絵はわたしにとっても、すごく幸せな絵だ。今まで描いて来た中で、一番の出来だと思う。気がつけば、もう部屋が薄暗くなっていた。部屋の襖が少し開き、楓ちゃんが顔を覗かせた。
「ハル、描けたのかい」
「うん。今のわたしにとっての一番の絵かな」
「ねぇ、いつも自信なさげなハルが一番と言い切るなんて、珍しいね」
「わたし、今度のコンクールで金賞取りたいから。だから今出せる想いも力も全て出せたと思う」
「観に行ってもいいかな?」
「うん。いいよ」
楓ちゃんはわたしのとなりに立ち、絵をまじまじと観た。
正直、自分の絵を観られるのは恥ずかしいキモチになる。だけれど、この時間がとても楽しい。楓ちゃんと時間を共有しているようで、わたしはうれしく思える。楓ちゃんは、わたしにとって憧れの人であり、ヒーローのような存在だ。その人に今、自分の絵を観てもらえている。心の底からうれしい。楓ちゃんは一通り観終えると、クスリと笑みをこぼした。
「よく描けるじゃない」
「そうかな」
「描いたあんたが自信なくてどうすんのよ。もう」
「ご、ごめんなさい」
「謝らなくていいよ。でも本当にいい絵だと思うよ。あたしは好きだよ。この絵。ハルがこの町に来て、見つけたモノでしょう。観ている人も明るくなる絵だと思うよ」
「ありがとう。楓ちゃんにそう言われるとすごくうれしい」
「そう」
わたしは楓ちゃんに抱き寄せられ、やさしく頭を撫でられた。
楓ちゃんの腕の中は、心地よくてとても穏やかなキモチになる。自然を笑みがこぼれる。本当にこの人はお日さまのような人だ。わたしの心をいつもやさしく温めてくれる。そんな楓ちゃんが大好きだ。
「それにしてもどうして急にコンクールの絵を?」
「え、えっと、それは…」
「わかった。駿人がきっかけだな」
「それは、その…。うん」
顔を赤くし、小さく頷いた。
駿人くんに、彼に振り向いてほしくて、好きになって欲しくて、わたしはコンクールに出展しようと考えたのだ。だからこそわたしはこの絵を描きあげることが出来た。これからの人生を歩んで行く上でのみちしるべ。そしてたくさんの笑顔と出会うために。わたしは静かに描き上げた絵に目をやり、にこりと笑った。
「へぇ、絵描き終えたんだ」
駿人くんは、感心そうな表情を浮かべわたしを見つめた。わたしはぜんざいを啜り、小さく「はい」と笑みをこぼした。あの絵を描けたのは駿人くんのおかげで描けたようなものだ。彼には感謝してもしきれないぐらいだろう。コンクールの結果がわかるのは十月末ごろになるだろう。それまでは気が気でない。わたしは気を紛らわせるためにぜんぜいに箸をつけた。ホッとする香りと甘さが口の中にふんわりと広がる。おかげで少しだけ平常心を保つことが出来ている。
「ハルちゃん、ミサンガつけてくれているんだ」
「はい。うれしかったので家に帰ってから、すぐにつけました」
「そうなんだ」
左手につけた白とピンクのミサンガ。これが駿人くんやヒナちゃん、そして藤堂くんとのつながりの象徴だ。いつか切れてしまうミサンガかもしれないけれど、切れてしまったころにはわたし達の繋がりは強くなっている。そう信じている。わたしはみんなのこと好きだ。ずっとみんなと笑って行きたいし、辛いときは手を取り合って行きたい。みんなとそんな風になって行けたらいい。大人になって、それまでの瞬間瞬間を笑い合えるようになりたい。そんな願いを心に巡らせた。
ぜんざいを啜る彼を見つめ、クスリと笑みがこぼれた。
「どうしたの?」
「いえ、幸せそうにぜんざいを食べるなぁと思いまして」
「ハルちゃん、それはお互い様だよ。ハルちゃんだって、すごく幸せそうに食べてる」
「そうですねかね」
この幸せな時間を誰かと共有することがとても尊い。こんな時間がいつまでも続けばいい。
「ねぇハルちゃん」
「はい?」
「今から、僕の家に来ない。今まで来たことなかったでしょ」
「ひゃい?」
予想外の提案に変な声が出てしまった。
しかし駿人くんは冗談を言っているようではなかった。
わたしは今まで生きて来た中で、男の子の家に行ったことはない。それも想いを寄せている相手なんて余計にない。突然のことでわたしの頭の中がパニックに陥った。
「あ、あの、ほ、ほほほ本当にいいんですか?」
「いいから言っているんだけどな。それともイヤだったかな?」
「イヤっていうよりも、そのわたし、男の子の家に行ったことがなくて、その緊張してしまうというか」
「へぇ、ハルちゃん、僕のこと男の子として見てくれているんだ。なんかうれしいな」
「駿人くん、イジワルですよね。わたしの性格のことを知ってて、そういうこと言う」
「ごめん、ハルちゃん。拗ねた顔もかわいいね」
「もう知りません」
わたしが席を立とうとする手を駿人くんは真剣な表情で掴んだ。
わたしの力では男の子である駿人くんの手を振り解くことは出来ない。わたしは再びイスに座り、フーと軽く息を吐いた。少し気分を落ち着かせ、駿人くんを見た。
「ごめん。別にハルちゃんのことをからかっているわけじゃないよ。男として見てくれているのは素直にうれしいし、拗ねた顔がかわいいって言ったのは本心だよ」
「駿人くん、わたしは…」
「うん。本当にごめん。ハルちゃんのキモチのことを考えてなくて。もっと状況を考えればよかったね」
「駿人くん、わかってくれればいいんです」
駿人くんは安心したように肩を下ろした。
その様子を見て、わたしはフフッと笑みを浮かべた。
「なんか変わったよね。ハルちゃん」
「そうですかね」
「うん。自分の考えを言ってくれるようになったかな。前は本当に怯えていて、自分のキモチとかを隠そうとしてたしさ」
「そ、そうですかね。あまり言えてる自信ないんですけど…」
「大丈夫、ハルちゃんなりのペースで話せているから」
駿人くんはやさしく微笑んだ。
わたしは恥ずかしさを隠す残ったぜんざいを食べ始めた。