新しい中学校に転校して来て、数日が経ち、今の生活にも慣れて来た。少しずつではあるけれど、クラスメイトとも話せるようになって来て、楽しい生活を送れるようになっていた。ときどきキモチが落ち込むこともあるけれど、駿人くんやヒナちゃんのサポートのおかげで、なんとかキモチを保てている。二人は、わたしがイジメを受けていたことはまだ知らない。いつか話さなくてはいけないことだと思うけれど、知られたくないというキモチが先行して、話せずにいる。二人ともっと仲良くなりたい。自分のことも知ってほしいし、二人のことももっと知りたいとも思う。そのためにも、わたしはもっと強くなりたい。強くならなくちゃいけない。
昼休み、わたしは駿人くんとヒナちゃんに誘われて、あるところに足を運んでいた。そこは体育館のとなりにある武道館だ。そこは剣道部や柔道部などが活動している場所だ。そこになんの用があるのか。二人は会わせたい人がいるということではあったけれど、ジャマにならないか心配になってしまっていた。扉の窓から、覗き込むと、一人の男子生徒が真剣なまなざしで素振りをしていて、その姿に負けたくないという雰囲気がここまで感じさせられて、思わず息を呑んでしまった。駿人くんは、そんなわたしの様子を見てクスリと笑い「じゃあ、中にはいろうか」と声をかけ、ガラリと扉を開けた。この人に遠慮というのはないのだろうか。怒られるのではないのかと心臓をバクバクさせながら、目を閉じていた。不意に肩にトントンと叩かれ、わたしは思わず「ひっ」と悲鳴をあげ肩を震わせた。ゆっくり目を開けて顔を上げると、そこに驚いた顔をしている男の子が立っていた。
「すまない。恐がらせてしまったな」
男子生徒は申し訳なさそうな表情を浮かべて、彼は一歩うしろへとさがって行った。近くで見ると、体格もいいからか駿人くんと身長が同じくらいなのにより大きく見える。思わず、駿人くんのうしろに隠れてしまっていた。失礼なことだとわかっているはずなのに、反射的に動いてしまっているのだ。やっぱり初めて話す男の子は恐く感じてしまい、体が震えてしまう。男子生徒も困ったような表情を浮かべていた。どうしたらいいのだろうと困っていると、駿人くんが、わたしの頭をやさしく撫でてくれた。やさしくてとても暖かく心地よい手だ。不思議と心が安心することが出来る。だからだろうか。彼のことを信頼することが出来るのは。
「ハルちゃん、こいつ藤堂竜。僕達の友達。確かに雰囲気は恐いかもしれないけれど、結構いい奴だよ」
「恐いは失礼だろう」
「ごめんごめん。竜、この子、昨日話した水森晴香さん」
「あー、よろしく」
藤堂くんは軽く会釈し、わたしもつられるように会釈を返した。とても礼儀正しい人なのだろう。まだ彼に対して、恐いというキモチはあるけれど、駿人くんの背中からゆっくりと出て行った。背筋がピンッと伸びている彼に対し、わたしは自信なさげな猫背だ。それを見た藤堂くんがクスクスと笑った。
「なんだか水森さんって小動物みたいな子だな」
「小…動物…ですか?」
「褒め言葉だから落ち込むな」
「い、いえそ、その大丈夫です」
顔が熱くなった。赤くなった顔を隠すようにうつむいた。美人、癒し系の次は小動物と言われるとは思ってもいなかった。うれしいというよりもはずかしいというキモチが強いかもしれない。わたしが小動物ならば、彼は熊ってところだろうか。わたしは彼の目をジッと見た。練習をしているときの真剣なまなざしいう印象よりぼんやりとした印象だ。初対面ということもあるけれど、何を考えているのかわからない。悪い人ではないというのはわかったけれど、まだ警戒心が解けないでいた。警戒するわたしと同じく緊張する藤堂くん。それを見兼ねたヒナちゃんが噴き出すように笑い出した。
「二人とも固くなり過ぎだって。リラックスリラックス」
「わかってる。だけどな…」
「男のあんたがそんなに固くなっていたら、ハルなんて余計固くなっちゃうでしょうが。もう」
「す、すまん」
ヒナちゃんの言葉に藤堂くんは面目ない表情で肩を落とした。もしかしてと思うのだが、藤堂くんは女の子と話すのが苦手な人なのだろうか。小難しそうな人なのだと思っていたけれど、思春期を迎えた年ごろの男の子なのだと思うと、親近感というものを感じられた。わたし自身も、異性と話すのが苦手だ。異性ということを意識してしまい余計に緊張してしまうため、何を話せばいいのかがわからなくなってしまう。彼もわたしと似ているところがあるのかもしれない。彼自身も緊張してしまって何を話せばいいのかがわからなくなってしまうのだろう。そんなことを考えるとすごく親近感が沸いて来きた。彼の困っている表情に、わたしはおかしくなってしまい、フフフと笑ってしまった。
「ご、ごめんなさい。なんだかおかしくなってしまって」
「極端な人だな。あんたは…」
そう言って藤堂くんも笑い出した。駿人くんやヒナちゃんも、わたし達を見て笑い出したのだった。
*
放課後、まだ夕暮れに染まらない美術室。わたし達はスタンドを広げて絵を描き始めていた。仲のいい部員を描く人、窓から見える風景を描く人、画集の模写をする人がいる。わたしは、みんなと少し離れたところで美術部の様子を描いていた。部員達を観察しながら描いていると、とても楽しいキモチになる。真剣な表情で他生徒を観察して描いていたり、おしゃべりをしながらお互いを描いたり、静かに窓からの風景を描いている人達の表情やしぐさを見ていると、とてもキラキラしているように見える。だからわたしはその様子を絵に留めておきたいのかもしれない。ふと親友のことを思い出す。あの頃は、わたしも親友も二人で笑い合っていて、キラキラした時間を過ごしていた。もしもう一度、彼女と会えたなら、わたしは親友になりたいと願うことが出来るのだろうか。正直、恐いと思ってしまう自分がいる。もしかしたら本当にわたしのことがキライになってしまっていたんじゃないかと考えると、やはり辛い。わたしは彼女とどうなりたいのだろうか。今のわたしには答えを出せないでいる。わたしは心のモヤモヤを晴らすように黙々と鉛筆を進めていると、左側から誰かが覗き込んだため、思わず「ひゃあ」と悲鳴をあげて、椅子から転げ落ちてしまった。いたたとお尻を摩っていると、手を指し伸ばされて「何をやっているんだ」と呆気に取られた声で言われてしまった。顔を上げると、そこには野田先生が苦笑しながらこちらを見ていた。わたしは指し伸ばされた手を掴み、引っ張られるように立ち上がった。
「す、すみません」
「いやこっちも悪かった。突然覗き込んでしまって。手は痛めていないか」
「い、いえ…。だ、大丈夫です」
「そうかよかった。それにしても楓からも聞いていたが、よく描けているな」
「あ、ありがとうございま…ん? 楓?」
「あれ言ってなかったか。お前の母親と楓はあたしの部活の後輩だ」
「そうだったんですか。ということは野田先生、ここの」
「ああ、ここの卒業生だが」
野田先生はそう言って、にやりと笑った。
楓ちゃんからも、野田先生とは知り合いだと聞いていた。小さな町なのだから当然なことだと思っていたけれど、まさか同じ部活の先輩後輩の関係だとは考えもしなかった。わたしは野田先生の顔をまじまじと見てしまった。母さんと楓ちゃん、そして野田先生が同じ校舎で共に絵を描いて来たと思うと考え深く感じる。
「そんなに見つめるな。照れるだろう」
「す、すみません…」
謝るわたしに対し、野田先生はフッと笑った。そして野田先生は全体を見渡した。何か思いついたことがあるのだろうか。不思議そうにわたしは野田先生を見た。正直、この人が何を考えているのかが、わからない。厳しいのに穏やかで、クールかと思えばほんわかしたところがある。とても不思議な人だなと思うのだ。野田先生はポンッと手を叩き、口を開いた。
「皆の衆、明日の活動は野外での写生会を行おうと思う。異論がある者は挙手したまえ」
急な野田先生の提案に、みんな驚いた表情を浮かべたが、すぐに喜びの表情へと変わっていった。
確かに、美術部の活動はほとんどが美術室か校内のどこか行われている。当然のことと言えば当然なのだけれど、代り映えがしていなかった。そう言うわたし自身も、教室を変えることはせず、窓からの風景や美術室の様子を描いていることが多かった。だからこそ、野田先生は野外の活動を提案したのだろう。
*
翌日、ホームルームを終えると、わたし達はカバンを教室に置いたままにし、スケッチブックと筆箱を手に昇降口へと足を運んだ。わたし自身、心が躍っていた。部活と言えども誰かと外で絵を描くというのは、すごく久しぶりだ。心なしに向かう足が速まっていく。こんなキモチはいつ振りだろうか。とても懐かしく思えてくる。一年前は、よく親友と絵を描きに出かけていた。それがもう昔のことのように思えてしまい、それが少し悲しくも思えてしまう。今も彼女は絵を描いているのだろうか。
昇降口が見えてくると、すでに一年生や三年生の人達がちらほら集まっているのがわかった。わたしは、少しずつ急ぐ足を緩めていった。気分が有頂天になっていることに気づかれるのが、妙に恥ずかしい。下駄箱のところで軽く息を吐き、心を落ち着かせた。わたしはよく顔に出てしまう体質なため、気をつけなければいけない。まだ胸が躍っている感じはしているが、大丈夫だろう。上履きから外履きに履き替え、外へと出た。
「こ、こんにちは」
「あっ、水森さん、こんにちは」
「みなさん、早いですね」
「かくゆう、水森さんもね。さては、ウキウキし過ぎて、急いで来たな」
「ち、違います。た、たまたまです」
「はいはい」
颯爽にバレてしまっていて、はずかしいキモチになったけれど、何げない会話に心の中が春のように暖かく感じた。他の部員達と共にクスクスと笑い合っていた。楽しい。こうして笑い合って話すのは、本当に楽しくて心地よい。転校して来たばかりは、こうして笑って話せることなんて想像も出来ていなかった。だからこそ、尊くてうれしく思えるのかもしれない。人が楽しそうに笑うのは好きだ。だけれど、傷つけるための笑みはキライだ。それは傷つけることはあっても誰も救うことなんてありえないのだから。少しずつ部員達が集まって来て、笑顔の花が増えていき、世界がどんどんと輝いていく。その光景を今すぐにでも絵に収めたい。うずうずしていると、野田先生がやって来た。みんな、話すのをやめて野田先生へ体を向けた。やっぱり野田先生が来ると、空気が違う。ほんわかした空気にピリッとした空気に変わる。教師としての貫禄だろうか。恐るべしだ。
「――えー、というわけで、近くにある草原に行くのだが、はしゃぎ過ぎだと感じたら終了とするからな」
野田先生の声かけに、わたし達は「はい」と返事をした。野田先生を先頭に草原へと足を進めた。
今から行く草原には一度楓ちゃんと一緒に行ったことがある。とても見晴らしがよくキモチがいい。近くに神社があり、そこから見る風景がとてもキレイに爽やかだ。今日はそこで絵を描こうと思う。楓ちゃん自身も、仕事に行き詰ったときは、よく散歩に出かけるそうだ。今から行く草原で、空を眺めながらアイデアを練っているとのことであった。いつも楽しそうにしている彼女でも行き詰るときがあるのだと知ることが出来た。そんなひょんなことでも知ることが出来るのはうれしい限りである。今日の風はとても心地がいい。やわらかく優しい風だ。その風が土や草の匂いを運んで来てくれる。わたしは初夏が好きだ。何かが始まりそうな予感がして、楽しいキモチになる。自然と笑みがこぼれてしまう。しばらく歩いていると、見晴らしのいい草原が見えて来た。部員達も、楽しそうな笑みを再び浮かべていた。外で絵を描くのは、やはり楽しいものだ。解放感があるからだろうか。草原に着くと、部員達は、それぞれに描く位置を決め、スケッチブックを開き描き始めていた。わたしも神社の意思石階段に腰を下ろし、スケッチブックを開いた。まるで吸い込まれてしまうのではないかと思わされるぐらいの青い空、太陽の日差しで映えるキレイな草々、真剣な表情や楽しそうな表情を浮かべる部員達、それぞれがとてもキラキラとしていて、わたしの中にある綻びが徐々に治っていくように思えた。鉛筆を取り出して、わたしは絵を描き始めた。輝いている風景と部員達をいち早く描き留めたい。爽やかな風が木の枝と二つに結んだ髪を揺らした。わたしは黙々と筆を走らせた。しばらく経ったときだった。突然、カシャッというシャッター音が聞こえて来た。顔をゆっくりと上げると、そこに駿人くんがカメラを持ってこちらを見ていた。すぐには理解が出来ず、ぼぅと彼のことを見つめていた。
「ハルちゃん、すごい集中力だね」
「しゅ、駿人くん、ど、どうしてここに?」
「僕は写真部の活動で。っても今は勝手に一人で出かけて撮っているんだけどね」
「もしかしてさっき、わたしのことを撮りました?」
「まぁね」
「け、消してください!」
わたしは顔を赤くさせながら、自分の写真を消すように訴えた。だけど駿人くんは消したくないような雰囲気があった。自分が真剣なところを撮られるなんて恥ずかしくて堪らない。駿人くんが持つカメラを取ろうとすると、するりとかわされてしまい、彼はいじわるなように笑い逃げ回った。その様子にわたし自身もムッとなり、彼のことを追いかけ回していた。楽しそうな駿人くんと怒るわたし。異様な光景に、驚く部員や笑う部員がいた。わたし自身、滅多に怒ることもないし、男子ともよくしゃべるほうでもない。だからこそ部員達にとっては意外な一面を見られてしまうことになってしまった。だけれど、わたしはそれに気づくことなく、駿人くんを追いかけていた。ある人物の雷が落ちるまでは…。
「お前ら、何ふざけている」
野田先生の大声にわたしと駿人くんはビクッと肩を震わせた。今一番怒らせてはいけない人を怒らせてしまったかもしれない。わたし達は肩を落としながら野田先生のもとへと歩いて行った。
「水森、今何をする時間だ」
「えっと…、そ、その…風景などの写生…です」
「そうだな。それなのにどうして小久保を追いかけていた」
「それは…その…えっと…」
言葉を詰まらせていると、駿人くんがわたしの肩を置き、やさしく頷いた。
「すみません野田先生、水森さんは悪くありません。勝手に彼女の写真を撮って怒らせてしまったんです」
「小久保はどうして水森の写真を撮ったんだ」
「彼女がキレイだったからです。梅や桜のように目立つわけではないですけど、そうですね道端で密かに咲いている強く儚さがあるようなキレイな花のように見えて、写真に収めなくてはいけないと思いシャッターを押しました。」
駿人くんの言葉に、体温が急激に上がっていくのがわかった。赤くなった顔を隠すようにうつむいた。花のようにキレイだと言われるだなんて予想もつかないし、言うタイミングでもない。ましてや、本人の前で言うだなんて。恥ずかしく、穴があったら入りたいキモチになる。野田先生は、大きく溜め息を吐いた。
「もういい。怒るのもバカバカしくなる。水森、描いた絵を見してみろ」
「えっ、は、はい」
わたしは階段に置いたスケッチブックに取りに行き、恐る恐る野田先生に渡した。真剣な表情でわたしの絵を観ていた。野田先生に絵を観られるときが、わたしにとって一番緊張する。おそらくだが、野田先生がわたしに真剣に向き合ってくれているからだと思う。わたしは左腕をギュウッと握り締めた。少しでも不安を取り除きたかったから。わたしは今恐いと思っている。特別絵の才能があるわけではないけれど、酷評されてしまったらと考えると、やはり不安で仕方がなくなる。怯えながら待つわたしに野田先生は軽く息を吐く。
「いい絵を描けていると思う。だけれど、まだ枠の中で収めようとし過ぎているように見える。お前が感じたもの、見えたものを自由に表現出来るようになったら、もっといい作品になるだろうな」
アドバイスをもらえているのだろうか。驚きつつ、ゆっくりと野田先生の顔を見た。怒っているわけでもなく、呆れているわけでもない。穏やかな表情を浮かべていた。うれしくなり、わたしは笑みをこぼした。野田先生から「戻っていいぞ」と言われ、わたしは再び写生へと戻って行った。今すぐにでも飛び跳ねたかったけれど、なんとか堪えた。アドバイスをもらったからと浮かれるわけにはいかない。たくさんの風景を見て、絵を描いて行く。そして自分なりの絵を見つけなければならないと思う。いつか枠を超えたれるような絵を描けるようになりたい。
「ハルちゃん、さっきはごめんね。僕のせいで、ハルちゃんまで怒られることになっちゃって」
「い、いえ、気にしないでください。わたしにも悪いところはあったんです」
「ハルちゃんはやさしいね。そういうところだと思うな。キレイだなって思うのは」
「駿人くん、またそういうことを言う」
顔を赤くしつつも、わたしは駿人くんを見た。
彼はやさしく微笑み、一枚の写真を映し出した。神社の階段に座って真剣な表情で絵を描いている少女の写真。それは紛れもなくわたしだった。絵を描いているときのわたしはこんな感じなんだと知り、どことなくはずかしいキモチになる。赤くなっていた顔もより赤くなっただろう。
「僕だけじゃないと思うよ。ハルちゃんのことを認めているのは。だってハルちゃんは一生懸命なんだからさ」
「そうなんですかね。なんだか自信ないです」
「野田先生だって、普段は辛口の評価だって評判なんだよ。それなのにさっきみたいに褒めたりはしないよ。美術部の人達だって、僕に怒っているハルちゃんを見てもイヤな顔をしなかったでしょ。ハルちゃんは、もっと自分を出してもいいんだよ」
駿人くんは暖かなまなざしでわたしを見つめた。わたしは彼の目から離せず、何も言葉を発することが出来なかった。ただただ呆然としていた。そのときだった。美術部のみんながわたしのもとへとやって来たのだ。驚きのあまりに、開いた口が塞がらない。部長にあたる先輩がわたしに向けて、にこりと笑った。
「水森さん、いつも真剣で絵を描いているところ見て来たよ。それでね、いつも楽しそうな顔をしているねって、みんなで話していたんだ」
「そう…なんですか?」
「そうだよ。水森さんのことはきちんと仲間として見てるよ。あたしだけじゃなく、美術部のみんなもそう思ってるよ」
周りを見渡すと、美術部のみんなが頷いてくれていた。
わたしが浮かないようにとみんなが気を遣って声をかけてくれていたと思っていた。でもわたしのことを仲間として見てくれていたのは、心の底からうれしい。確かに集合したときに声をかけたとき、イヤな顔をすることもなく、明るく接してくれていた。わたしはみんなのことを信じきれていなかった。ずっとわたしのことを見ていてくれていた。
「わたし、もっとみんなとお話ししてもいいんでしょうか」
「いいに決まってるじゃない。こちらもごめんなさいね。水森さんが引っ込み思案だというのは知っていたのに…。だけどね、今日、水森さんから声をかけてくれたのは、すごくうれしかったの」
部長さんはやさしく微笑んだ。
わたしは恐がり過ぎていたのかもしれない。もともと人間関係には臆病なところはあった。季節はずれの転校生ということを気にして、余計に距離を置いてしまっていたのかもしれない。だけどそれは間違っていた。もっと美術部のみんなのことを信じて、関わりを持つべきなんだ。わたしの周りにはこんなにも暖かな人達がいるのだから。駿人くんはわたしの隣に座って、笑みを浮かべた。
「みんなハルちゃんのことが大好きなんだよ。だからさ、もっと自信を持っていいからね」
彼のやさしい言葉に、わたしは頬を緩ませ「はい」と返事をした。
*
家に帰ると、わたしは楓ちゃんの書斎へと向かった。今日あったことをいち早く楓ちゃんに話したかった。藤堂竜くんという男の子と友達になったこと。部活で野田先生に褒められアドバイスをもらえたこと。美術部のみんなとより仲よくなれたこと。今すぐにでも話したかった。わたしは書斎の襖にノックすると中から「はーい」と返事があり、ゆっくりと襖を開けた。
「おかえりハル」
「ただいま楓ちゃん。あのね今日ね」
「うん聞かせて」
楓ちゃんは作業していた手をとめて、笑顔で体をこちらに向けた。わたしは気分を高揚させながら話し始めた。止まることのないわたしの話しに楓ちゃんはとても楽しそうに「うんうん」と頷いてくれていた。こんなにもはきはきと話しているのは初めてかもしれない。引っ込み思案なわたしは人の顔色を伺いつつ話して、基本的に受け身になってしまっていた。小さいとき、楓ちゃんと話すときも、彼女がメインになって話すことが多かった。だからこうして、わたしがメインとなって話すなんて滅多にないことだ。こうしてうれしかったことを自分から共有するだなんて初めてだ。絵のコンクールで賞をもらったときも、自分から言い出せず、結局周りから先に祝われることが多かった。うれしかったことを共有することは悪いことではないのだと知ることが出来、とても楽しい。
「ハルが明るくなってよかった。引きこもる前も大人しいほうだったけど、こうしてうれしかったことを楽しそうに話してくれるだなんて、あたしはうれしいよ」
「楓ちゃん…わたし…」
「ハルは、もっと自分に自信を持ってもいいんだよ。確かにハルは大人しくて憶病なところはあるけれど、困っている人に静かに寄り添ったり、好きな絵を楽しそうな笑顔で描いたり。あたしはそんなハルが好きだよ」
楓ちゃんは、わたしのもとに来て、やさしく抱きしめた。暖かく心地がいい。彼女の胸の中はとても安心する。弱虫なわたしも、絵を描くわたしも、楽しそうに話すわたしも、どんなわたしのことを受け入れてくれる。だからこそわたしは楓ちゃんのことを信頼することが出来るのだろう。わたしは楓ちゃんの背中に手を回した。楓ちゃんがいなかったら、わたしは今頃、どうなっていただろう。暗い闇の中で、わたしはずっと溺れていたかもしれない。そこから引っ張り出してくれたのは楓ちゃんだ。わたしにとって、楓ちゃんはヒーローのような存在だ。いつか彼女のように誰かに手を指し伸ばせるようなりたい。もう守られるだけの女の子でいたくない。そのためにもわたしは、もっと強くならなくてはいけない。将来、何になりたいかはまだ決めているわけではない。だけど、今は地道なことから努力していこう。
「ねぇ、楓ちゃん」
「なんだい、ハル」
「今度、絵の練習に付き合ってよ。もっと上手になりたいし、もっと自分らしい絵を見つけたいの」
「いいよ。付き合ってあげるよ。そのためにも今の仕事を早く片付けないとね」
「む、無理しなくてもいいから」
「へーきへーき。心配いらないさ。ハルともっと一緒に絵を描きたいからね」
楓ちゃんは二ッと笑い、わたしもつられてクスクスを笑みがこぼれた。
どんなに暗闇の中にいたとしても、わたしは独りではない。気づかないだけで、誰かがずっととなりにいてくれている。わたしは心に温もりを感じながら、次の季節に進もうとしていた。
七月に入って、初めての日曜日。わたしと駿人くん、そして藤堂くんは学校の体育館に向かっていた。今日は、ヒナちゃんの大切な試合があり、その応援へとやって来た。休みの日に学校にいるだなんて不思議なキモチになる。他校の生徒も来ていて、なんだかこちらも緊張をしてしまう。わたしと同じ小柄な子もいるけれど、バスケをやっているだけのこともあり、背が高い人が多い。二十センチぐらい離れている子もいるんじゃないかと思ってしまう。
「今日も一段と暑いね」
「駿人くん、それ何度も言ってますよ」
「そうだっけ? ごめん」
駿人くんはおちゃらけたように言って、楽しそうに笑った。笑った顔が、あぁ男の子なんだなと思ってしまう自分がいる。信頼している人ではあるけれど、妙に緊張してしまう。傍にいると体温が上がって、胸が躍っている。野に咲く花のようにキレイだと言った彼の真剣な表情が、今でも思い出してしまうときがある。その度、息の仕方がわからなくなってしまう。もともと男の子と話すのは苦手ではあるけれど、それとはまた違う緊張だ。彼に対するキモチの正体は一体なんだろうか。友情とは違うこの感情。今までに抱いたことのない感情で、とてももどかしく思える。わたしは、駿人くんの顔を盗み見た。シュッと引きしまった輪郭でメガネで隠れているけれど、目は二重になっている。その上さっぱりとした表情を浮かべている。彼の目には、この景色が、どうのように見えているのだろうか。興味が湧いて来た。だけれど聞く勇気もなく、わたしはそっと目を閉じた。きっとわたしのことは、ただの友達としか思われていないのだろう。そう思うと、なんだかさびしく思えてしまう。そのことに気づいて、わたしの体温が急上昇して、頭の中がボッと沸騰した。
「だ、大丈夫、ハルちゃん?」
「は、はい。だ、大丈夫です」
「顔が赤いけれど、熱があるんじゃない?」
「い、いえ。今朝測ったら平熱でしたので」
「今朝測ったんだ。真面目だね。でも無理しちゃダメだよ。ハルちゃん、体力あるわけじゃないんだから」
確かにわたしは体力があるほうではない。少し走っただけでも息を切らしているし、重たい荷物を運ぶにしても一苦労だ。それにまだ精神的に落ち着いていないときもある。たぶん駿人くんはそのことも心配をしてくれているのかもしれない。わたしは、駿人くんの袖を掴んだ。「ん?」と振り返る彼に対し、わたしは何も話せずにいた。沈黙が流れ、わたしは静かにうつむいた。用があったわけではなく、どうしてか手が勝手に彼の袖を掴んでいた。今、この状況をどうすればいいのだろうか。困惑をしていた。
「なぁ、俺、さきに場所取ってるから、少し、二人で話して来いよ」
この沈黙を破ったのは藤堂くんだった。彼に目をやると藤堂くんが軽く頷いた。駿人くんもやさしい声音で「そうだね」と返答して、校庭近くにあるベンチに腰を下ろした。風がさぁと吹き、わたしの髪を揺らした。
「ハルちゃん、大丈夫かい」
「す、すみません。だ、大丈夫です」
「本当に? 急に深刻な顔になるし、うつむいたりするし。なんだか変だよハルちゃん」
「ごめんなさい。その、わたし…」
「いいよ、ゆっくりで」
「駿人くん、いつもやさしいし大人っぽいから、なんだか置いて行かれているキモチになるときがあるんです。出会って間もないのにおかしいですよね」
「そう。話してくれてありがとう。大人っぽいか。初めて言われたなぁ。いつもヒナとか他の奴らにガキとか子どもっぽいとか言われているから新鮮だな。でも僕からしたら、ハルちゃんのほうが先に走っている感じがするんだよね。絵に対する好きっていうキモチとか、描いているときすごく伝わってくる。だってすごくキラキラしているんだもん。このままだと、ハルちゃんに置いてきぼりにされちゃうってなるんだよ。って何言っているんだろ僕」
駿人くんは切なさが混じった笑みを浮かべ、まっすぐ前を向いた。その様子を見ると、駿人くんも一人の年頃な男の子なのだと感じさせられる。彼自身も焦ったり悩んだりもするのだ。決してわたしだけではない。勝手に自分だけだと思い込んでいた。勝手な思い込みで、わたしは彼のことを傷つけてしまったのではないだろうか。わたしは、彼の手にそっと手を差し伸べた。
「駿人くん、その、ごめんなさい。わたしが変な気を起こしたから、駿人くんに悲しい思いをさせてしまって。本当にごめんなさい」
「いいんだよ。別に悲しいキモチにはなっていないからさ。ハルちゃんが心病むことじゃないよ。そうだな。いい刺激になってるよって伝えたかったんだけどな。ごめん伝え方が下手くそで…」
「い、いえ…、その、わたしは…」
「さっ、行こうか。竜も待っているだろうしね」
「そうですね。急ぎましょう」
お互いに顔を見合わせ、フッと笑みをこぼし、体育館へ足を進めた。
*
「あー! 悔しい!」
おやつ時、わたし達は学校の近くにある『甘味処 すみれ堂』にやって来ていた。試合後のミーティングを終え、今からわたし達は、ヒナちゃんを慰める会を開くことになった。女子バスケ部の試合は、最初、点数を取られ続けてしまい、かなり点差が離れてしまっていた。ヒナちゃんもマークを付けられてしまいなかなかシュートを決められず、苦々しい表情を浮かべていた。第二クォーターの途中で、ヒナちゃんは三年生と交代させられしまった。その後というもの、さっきまでの状況がウソみたいに点差を縮めて行った。第三クォーターや第四クォーターも接戦となっていた。そして僅差まで近づいたところで、試合終了となってしまった。チームに貢献することが出来なかったことや試合に負けてしまったことが重なり、かなり落ち込んでいる様子であった。わたし達は静かにヒナちゃんを迎え入れ、一緒にすみれ堂へとやって来た。昔ながらということもあって、懐かしい雰囲気が漂っていた。でもそれが安心することが出来る。そのためが学生や子ども連れの主婦、そして仕事の休憩時間なのかOL風のお姉さん達が来ていた。お店の中が、とても賑やかで繁盛をしている様子だ。違うお店にしたほうがいいのかと思ったけれど、三人の行きつけで、楽しいときや悲しいときは、いつだってこのお店だそうだ。共通の思い出があるということは少しだけ羨ましく思えるけれど、今こうしてわたしも加えてくれているのがすごくうれしい。
「ヒナはとにかく目立ち過ぎなんじゃないか。だから相手チームにマークされるんだよ」
「だってうちだって勝ちたい。もっとチームに貢献したいよ。そのためにもパス回してもらいたい」
「だからって、あんなにパスを要求していたら相手チームにあたしをマークしてくださいって言っているものだろう」
「そ、そうだけれど…」
藤堂くんの言葉に、ヒナちゃんは何も言い返せずうつむいてしまった。いつもだったら、もっと言い返しているのに、今回ばかりはかなり落ち込んいるようであった。『そんなにきつく言わなくても』と言おうとしたけれど、二人の関係性を考えると口にすることが出来なかった。新参者のわたしが口にしても、余計なお世話だし、ヒナちゃんのプライドを余計に傷つけてしまう。だからわたしは何も言えず、となりの席で口を開こうとすればすぐに結んでしまっていた。彼女のために出来ることがないことが虚しくて辛い。スカートをギュッと掴んでいる手をヒナちゃんがそっと添えてくれた。
「ハル、ありがと。何か言ってくれようとしたんでしょ。キモチだけで大丈夫。すごく嬉しいよ」
「でもわたし…」
「いいの。大丈夫。ハルはやさしいね。何か言おうとしても、うちのキモチを察してくれて堪えてくれたんでしょ。それだけでも十分だよ」
ヒナちゃんは、悲しみをガマンした目で笑った。その目がどうにも堪えることが出来なかった。わたしは悲しむヒナちゃんを抱きしめた。彼女には泣くのをガマンしてほしくない。そしていつもみたいに明るくみんなを照らしてほしい。今はただそう願うことしか出来なかった。ヒナちゃんは声を殺しつつも大粒の涙を流した。存分に泣いたら、一歩前へ進めるように、また笑えるように、わたしはゆったりと彼女の背中を摩っていた。かつて楓ちゃんや駿人くんがやってくれていたように。わたしは泣いている彼女に対し微笑みを浮かべた。彼女の悲しみも悔しさもすべて受け入れよう。そして一緒に笑ってあげよう。だってわたし達は、楽しいときも悲しいときも共有し合える友達なのだから。
「ねぇ、ヒナちゃん、ぜんざい頼まない? あとは…あっ、お汁粉ある。一緒に飲もうよ」
「…ハル、意外に渋いところあるわね…」
「う、うん。なんだか安心するというか。なんというか…好きなんだよね。」
言葉に詰まらせていると、ヒナちゃんが思いっきり噴き出し、声を出して笑い始めた。やっぱり彼女は笑顔がとても似合う。太陽のように明るく暖かい笑顔をするヒナちゃんが、わたしは一番好きだ。彼女が笑うと不思議とこちらまで心が暖かくなる。わたしもつられて笑みがこぼれた。
「ハルちゃんはすごいなぁ。もうヒナのことを手懐けているよ」
「駿人くん、その言い方、女の子に失礼ですよ」
「ご、ごめん」
謝る駿人くんに、わたし達は顔を合わせて笑い合った。こんな何げない日々が続いていい。心からそう思える。わたし達はぜんざいやお汁粉を追加し、ヒナちゃんの鬱憤を楽しげに聞いていた。みんな、笑顔でとてもキラキラとしている。今のわたしはどうだろうか。輝けているだろうか。いや、そんなことは関係ない。みんなが幸せに過ごせられるような環境を作りたい。そんな思いがわたしの胸に灯った。将来、どうなりたいかはまだわからない。だけれど、その思いが何かに繋がるかもしれない。その何かを見つけるためにもわたしは、今この瞬間瞬間を大切にしていこう。密かにそう心に誓うのだった。
*
話し込んでいるうちに、日が落ちるころになってしまっていた。学校近くとは言えども、灯りが少ない地域だ。駿人くんと藤堂くんの計らいで家まで送ってもらうことになった。わたしには駿人くんで、ヒナちゃんには藤堂くんという組み合わせだ。少し言葉を交わしたあとに、わたし達はそれぞれに帰路に就くことになった。転校して来て、初めての寄り道だ。学校帰りというものの、部活動が異なったり、門限などがあり、なかなかする機会がなかった。こうして、制服で甘味処などに立ち寄れたことが夢みたいに思えてくる。楽し過ぎて仕方がない。少し憧れていた。わたしと親友は、お店に寄っておしゃべりしながら食べるのが苦手なほうだった。
「ハルちゃん、楽しそうだね」
「はい。こうやって友達とお店に立ち寄ったりするの初めてで。すごく憧れていたんです」
「そうなんだ。俺達、よくあそこで時間潰したりしているんだ」
「そうなんですね」
「うん。だからハルちゃんも来てくれたから、すごくうれしいよ」
駿人くんは二ッと笑みを見せた。
彼の笑顔がいつも不意打ちでズルイ。この頃、彼の笑顔を見ると、胸が落ち着かなくなってしまう。今でも胸が躍り出して、体が熱くなってくる。彼の笑顔に目が離せないでいる自分がいた。駿人くんは、わたしにとって初めての男の子の友達。それ以外はないと思っていた。わたしは彼に、友情以上の感情を抱いてしまっているのだろうか。まだその感情の正体を知るには、まだ勇気が足りない。それを知ってしまったら、今の関係のままではいられなくなってしまう。もう関係が壊れてしまうのがイヤだった。わたしはそっと心に蓋をした。それなのに彼はわたしを翻弄するのだ。
「今度は、二人で行こうよ。僕のねおすすめを教えてあげるよ」
「そ、そんなクラスの人に見られたらどうするんですか」
「へぇ、ハルちゃんもそういうの気にするんだね」
「し、しますよ! わたしだって年頃の女の子なんですよ」
「女の子って言い方、かわいいね。ハルちゃんらしい」
「しゅ、駿人くん。ご、誤解しちゃいますよ。それ」
「えっ、あ、そうだね。ごめんつい」
慌てて手を合わせる駿人くんに対し、わたしはスンッと歩いて行った。彼は女心に疎すぎる。言葉に気をつけてほしいものだ。わたしは胸のあたりを触れつつ、足を進めて行った。赤くなった顔を見られたくはなかったから。知りたくない気づきたくない。そのキモチがいっぱいだった。わたしは彼のことを…。
――好きになってもいいのかな?
彼と出会って、間もないわたしが恋心を抱いてしまうのは軽薄ではないだろうか。そしてそれを口にしてしまったら、もうわたし達は今みたいに仲良くすることが出来なくなってしまう。今まで通り、わたし達は男女友達だ。それ以上もそれ以下もない。そう思い込むようにしていた。もう友達を失うのはイヤだ。それなのにどうしてこんなにも心が苦しくなるのだろう。彼にとっても、わたしは女友達の一人しか見られていないってわかっているのに、どうしてなのだろう。光が差しかかった心にモヤモヤと煙がかかって行った。速足で歩くわたしの手を駿人くんが掴んだ。
「ハルちゃん、ごめん。癪に障るようなことして。でも僕、本当にハルちゃんがかわいいと思ったんだよ。本当だよ」
「駿人くん、本当にわたしのことをかわいいって思っているんですか?」
「うん。初めて会ったときからね。かわいいとも思っているし、時にはキレイだと思うときがある。本当だよ。僕はウソがキライなんだ。特に人を傷つけるウソがね。お世辞に聞こえるかもしれないけれど、本心から僕はハルちゃんがかわいいって思っているよ」
「本当ですか?」
「本当だよ。ハルちゃんはもっと自分に自信を持っていいんだよ。だってハルちゃんは変わりたいって、努力しているし、どんどん明るくなって来ていると思う。僕はそういうところを認めているんだよ」
駿人くんはわたしの手を引っ張り、体を受け止められた。とても大きく逞しい。あぁ男の子なのだなと思わされる。そしてやさしく包み込まれた。まるで雛鳥を守るように。わたしの体温が急上昇していく。わたしは言葉を発することが出来なくなっていた。わたしは、わたしは…。
わたしは、駿人くんを力いっぱいに押し離した。キライではないのに、イヤなキモチになったわけではないのに。情報の処理が上手く出来ず、わたしは、その場から立ち去ってしまった。今のわたしの顔を、駿人くんに見られたくはなかった。わたしは、必死の思いで夜道を走った。街灯のない暗闇の道。わたしは何かに躓き、倒れるように転んでしまった。わたしの瞳から一粒二粒と泪が流れた。痛いからじゃない。はずかしいからではない。わたしは駿人くんのことが心の底から好きになってしまったのだ。それは友達としてではなく、一人の男の子に恋をしてしまったのだ。自分にはどうすることも出来ない感情に苦しくて辛い。わたしは声を殺しながら泣き続けた。
「ハルちゃん、帰ろう。楓さんが心配する」
わたしを追いかけて来たのか息を切らした駿人くんに声をかけられた。わたしは、言葉を発することが出来ず、首を横に振った。駿人くんはその場に座り、わたしが落ち着くのを待ってくれていた。彼はやさしい。やさし過ぎる。それが辛く苦しい。わたしは、その場で泣き続けた。しばらくして、駿人くんが楓ちゃんに連絡を取ってもらい迎えに来てもらうことになった。今、わたしは楓ちゃんの車の車窓から外をぼんやり見ていた。真っ黒に染まった畑道。今、わたしは再び悲しみの海にいる。イヤなことをされたわけではないのに、わたしの心が不安定になり、駿人くん自身を傷つけ悲しいキモチにさせてしまった。いつもやさしくしてもらえているのに、一人にならないようにしてくれているのに、わたしは、彼を拒絶するような行為をしてしまった。次に会うとき、わたしは彼にどんな顔で会えばいいのだろうか。不安でしかなかった。一人の男の子に恋をすることも、これまでの距離を取り戻すことも。わたしは何一つ前には進めてはいない。
「ハル、大丈夫かい?」
「楓ちゃん、ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」
「謝らなくても大丈夫だよ。お互いに悪いところはない。たまたま今日が不安定なときだった、ただそれだけのことなんだよ。ハル自身も着実にいい方向に進めているし、駿人だってまだまだこれからの子だよ。大丈夫。ゆっくりでいいんだよ。ハルはハルのペースで。挫けそうなときはあたし達が全力で助けてあげる。だから、ハル、一人になろうとしちゃダメだからね」
「楓ちゃん、わたし…。わたし、駿人くんのこと傷つけちゃった…」
「大丈夫、あいつはあれぐらいでは傷ついたりはしない。だってずっとあんたのこと心配してたんだもん。最近、あんたの話題ばかりなんだよ駿人は。毎晩のようにハルの様子をメールで送って来てるの。ハルのストーカーかって言っているんだけどね」
「わたしの様子を…? どうして?」
「ごめん白状するね。あたし、ハルが越して来る前に駿人に話したの。ハルがイジメに合っていたことやそのことで今ハルの心に傷を負ってしまったこと。すべて駿人に話した。ハルにはそのことを触れないでやってほしいって伝えてある。だけど、ハルが独りぼっちにならないように守ってあげてほしいって」
だからいつもわたしの傍にいてくれていたのだろう。そしてわたしが一人にならないように藤堂くんのことも紹介をしてくれていたのかもしれない。わたしは守られていたのだ。楓ちゃんにも駿人くんにも。それなのにわたしは何も出来ていない。まだまだ心が不安定な女の子でしかない。そんなのはイヤだ。一刻も早く駿人くんに謝りたかった。そして守ってくれていてありがとうと伝えたい。感謝のキモチでいっぱいになる。これからも駿人くんと笑って行きたい。
「ハル、駿人に伝えたいことはあるのなら早いほうがいい。だけれど、今日はもう遅い。明日、早めにしたほうがいい。あたしから伝えたいことがあると言っていてあげようか?」
楓ちゃんの提案に、わたしは首を横に振った。キモチはうれしいけれど、これは自分でやらないといけないことだ。楓ちゃんに甘えてばかりじゃダメだ。わたしは自身のスマホを取り出して、駿人くんに『明日、会って話したい』と短い本文のメールを作成し、送信をした。そしたらすぐに返信が来た。『わかった』とのことであった。明日になったら、きちんと謝罪をしよう。そしてこれまでのことをちゃんとお礼をしよう。もう守られてばかりの女の子から卒業をしよう。
*
翌日、駿人くんはわたし達の家へと訪れた。
わたし達は縁側に腰を下ろし、楓ちゃんが用意してくれたまんじゅうをつまんでいた。昨日の今日で、わたしの中まだ気まずさというのかあって、うまく話しを切り出すことが出来ないでいた。駿人くんはまんじゅうをかじりつつ庭をぼんやりと眺めていた。きっとわたしが話しを始めるのを待ってくれているのだろう。わたしは、そっと食べかけのまんじゅうをお皿に置いた。
「あ、あの、駿人くん…、その…」
「ん?」
「そ、その昨日はごめんなさい。わたし…あんなに泣いたりしてしまって…」
「いいんだよ。別に。そういう日もあるだろうし。僕はぜんぜん気にしてはいないよ」
「でも…」
「ハルちゃんはもっと泣いてもいい。ハルちゃんは目を離すと一人で抱え込んじゃうタイプだから。だからいつも僕はキミから目を離さずにはいられなかった。それにさ。僕、ハルちゃんに初めて会ったとき、一目惚れしたんだよね。なんてキレイな子だんろうって。だから余計にほっとけなかった」
「駿人くん…」
「付き合ってほしいとは言わない。だけど、ハルちゃん。これだけは忘れないで。キミは決して独りぼっちなんかじゃないんだから。昨日、ヒナにやっていたように、僕はハルちゃんのことを支えるよ」
駿人くんは笑みを浮かべ、やさしくわたしの頭を撫でた。ごつごつとした大きな手。お日さまのように暖かく安心することが出来る。肩の力が抜け、頬が緩んだ。彼との間に置いた皿をどかし、わたしは彼に肩を寄せた。細い体型なのにとても逞しい。男の子だなと思わされる。駿人くんはわたしにとって初めて出来た男の子の友達。そして初めて好きになった人。少しだけ、希望が見えて来たように思える。楓ちゃんがこっちに越して来るように促してくれたから、彼と出会うことが出来た。そしてヒナちゃんや藤堂くんとの縁を結ぶことが出来た。それがどれだけうれしく尊いものなのか。わたしは笑う。ここにやって来て本当に良かった。心からそう思える。まんじゅうを手に取り、再び口へと運んだ。ふんわりとした香ばしい香りが口の中で広がり甘さが伝わってくる。
「ハルちゃん、幸せな表情しているね」
「幸せです。とっても」
「そっか。ならよかった」
駿人くんもクスリと笑った。
これから辛いことも苦しいこともたくさんあるだろう。でもこの幸せなキモチを忘れずにいたら、いつか道に迷ったとき道しるべになってくれるだろう。少しずつでもいい前に進んで行こう。今のわたしは、今までのわたしよりも強いわたしだ。挫けそうになったとき、支えてくれる味方がいる。もう独りぼっちの水森晴香はどこにもいない。わたしは前に進む。躓くことがあっても、わたしは歩いていく。みんなと一緒に心の底から笑い合えるために。
期末試験を終え、みんなが待ち望んでいた夏休みに入った。だからと言って、特別に用事あるわけでもなく、わたしは静かに縁側で風景画を描いていた。畑で育った野菜のキレイな緑、野菜を育てるための土の濃い茶色、空の深い青。少し前のわたしでは気づける色ではなかったと思う。
「ハル、宿題のほうは大丈夫かい」
「うん。大丈夫。きちんとやっているよ」
「まぁ、あんたは勉強出来るから。心配はいらないか」
楓ちゃんはとなりに座って、お茶を啜った。
彼女自身も、ここのところ仕事が立て込み、徹夜が続くことがあった。昨晩もあまり眠れていないようで、クマが出来ていて、少しやつれたようにも見える。ごはんのときは、いつも一緒に食べるけれど、食べ終えるとすぐに書斎へと戻ってしまうことが多かった。お茶を持って行ったときも、行き詰っている表情をしていることもあった。楓ちゃんはずっと一人で戦っていたのだと気づかされる。そして仕事に向けている顔が紛れもなくプロのイラストレーターそのものであった。わたしはその楓ちゃんに甘えてばかりいた。いつか彼女のようにやさしくて強い人になりたい。そして独りではないと知った今、前へと歩いていくことを決意した。少しでも強くなれるように。両親とも少しずつではあるが、連絡を取るようにしている。明るくなったわたしの声に、母は泣いて喜んでいた。わたしはそれだけ心配をかけてしまっていたのだと反省した。辛いことがあったら、殻に閉じこもることはせずに打ち明けようと思う。そしてこれからは心配かけた分を、恩返しをして行きたい。
「ねぇハル。久しぶりに帰省してみるかい」
「えっ」
楓ちゃんの提案に、わたしは目を大きく見開いた。
帰省しようだなんて考えてもいなかった。むしろ、考えようともしていなかった。わたしは言葉を失いつつ、わたしは自分の絵を見つめた。自分はどうしたいのか。両親のもとに帰って、平常心でいることが出来るのか。元同級生と出くわしたとき取り乱してしまわないか。恐怖心や不安感が膨らんで行った。今でもイジメを行っていた佐倉さん達のことを思い出すと震えがとまらなくなってしまう。前に進むと決めたというのに、未だに恐怖心で苛まれている。わたしはどうすれば。震える手にキレイな手が添えられた。怯えた表情でわたしは楓ちゃんを見た。わたしとは対照的に安らかに微笑んでいた。風が吹き、わたし達の髪を揺らした。
「ハル。泣いたっていい。怒ってもいい。取り乱しだっていい。だってそれがハルの本音なんだから。親友だった子がどう考えているかはあたしにもわからない。だけれど、もし許してほしいと思っているのであれば、本音をぶつけてやればいい。その子が罪を償うのはそれからでいい」
「楓ちゃん、わたしね恐いんだよ。恐くて仕方がないの。またイヤなことをされるんじゃないかって。また立ち向かえないんじゃないかって。そう考えると、震えが止まらないの。弱い自分がイヤなの」
「うん。だけれど今のハルにとって乗り越えなくちゃいけない壁なのかもしれないね。だからさイヤなことをして来た奴らに見せつけてやんな。強くなったんだぞわたしはって。それが最高のやり返しだと思うな。あたしは」
楓ちゃんは二ッと笑った。
彼女の笑顔はやっぱり好きだ。前に進めなくなったときに、再び足を前へ前へと進めるように導いてくれているように感じる。殻に閉じこもったとき、あのときの温もりを思い出す。わたしが抱いていた恐怖心が、少し和らいだ。わたしは楓ちゃんにとびっきりの笑顔を向けた。そんなわたしに楓ちゃんはやさしく包み込んで頭を撫でてくれた。
「うん。やっぱりハルは笑顔が似合う」
「ありがとう。わたしもね、楓ちゃんの笑顔がすごく好きだよ」
「うれしいことを言ってくれるじゃない」
青い空の下、二人で笑い合った。